空間跳躍を経験してから、三日が経った。
結論から言えば、僕はまだ一度も再現できていない。
木片にオーラを残す。そこから距離を取る。残したオーラを感知する。意識を集中させる。
何度試しても、結果は同じだった。
木片の位置は分かる。
そこに残したオーラの存在も、以前より正確に感じ取れるようになった。
けれど、身体は少しも移動しない。
「……難しいな」
僕は記録帳を閉じた。
前世で読んだ漫画なら、こういうときは何かのきっかけで能力の仕組みを理解し、次の段階へ進むのだろう。
だが、ここは漫画のページの中ではない。
失敗すれば、何度でも地道にやり直すしかない。
それでも、僕にはひとつ気になっていることがあった。
あのとき、僕は移動しようと思っていなかった。
木片の位置を意識し、そこへ向かってオーラを伸ばすように集中した。
そして、何かにつながったような感覚がした直後、身体が移動した。
ならば、あの現象を再現するには、単に木片を意識するだけでは足りないのかもしれない。
僕は右手を見つめた。
必要なのは、オーラを目印に向けることなのか。
それとも、目印と自分の間に何かを作ることなのか。
あるいは、まったく別のことなのか。
「考えているだけじゃ、分からないよな……」
僕は立ち上がり、修行場へ向かった。
◇
「今日は、少しやり方を変えましょう」
僕の話を聞いたビスケは、そう言って二本の木の棒を持ってきた。
一本は僕の足元に置き、もう一本は三メートルほど離れた場所に置く。
「まず、こちらの棒に触れて、オーラを残しなさい」
僕は言われたとおり、棒に手を触れてオーラを流し込んだ。
「次に、離れた場所にある棒まで歩いていく。そこで止まって、最初の棒に残したオーラを感知してみて」
僕は三メートル先の棒まで歩き、振り返った。
目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませる。
――あった。
最初の棒に残したオーラが、かすかに感じられる。
「感じ取れたよ」
「じゃあ、今度はその感覚を維持したまま、最初の棒まで歩いて戻りなさい」
僕は頷き、歩き始めた。
最初の一歩。
問題ない。
二歩目。
まだ感覚は残っている。
三歩目。
棒に近づくにつれ、オーラの存在が少しずつ明瞭になる。
やがて、僕は元の場所へ戻った。
「どうだった?」
「距離が近づくと、感知しやすくなった。でも、それ以外は特に……」
「そう。それでいいのよ」
ビスケは頷いた。
「今の練習では、移動そのものを起こそうとする必要はないわ。まずは、離れた場所に残したオーラを感知しながら、自分の身体を動かすことに慣れるの」
「それが、空間跳躍につながるの?」
「つながるかもしれないし、つながらないかもしれない。今はまだ分からないわ」
ビスケはきっぱりと言った。
「でも、あなたが経験した現象をもう一度起こしたいなら、あのとき何をしていたのかを、少しずつ理解していく必要があるでしょう?」
「……うん」
「それに、あなたの目標は、一度だけ移動することじゃないはずよ」
僕は顔を上げた。
「自分の意志で、必要なときに移動できるようになること。違う?」
「違わない」
「だったら、今の練習も無駄じゃないわ」
その言葉に、僕は力強く頷いた。
そうだ。
僕が目指しているのは、一度きりの奇跡ではない。
いつでも、必要な場所へ。
そのためには、地道な練習も必要なのだ。
◇
それから数日間、僕は同じ練習を続けた。
木片にオーラを残し、その位置を感知する。
感知したまま歩く。
歩きながら、オーラの感覚がどう変化するのかを確かめる。
距離が近づけば感知しやすくなる。
離れれば難しくなる。
身体を動かすことに集中すると、感知が途切れることもある。
逆に、感知に集中しすぎると、歩く速度が落ちてしまう。
どれも当たり前のことかもしれない。
けれど、僕にとっては大切な発見だった。
戦闘中に相手の動きを感知しながら、別のことをする。
離れた場所にある目印を意識しながら、自分の身体を動かす。
将来、避雷針の術を再現するなら、こうした感覚を自在に扱える必要があるだろう。
ただ、三日目の午後。
少しだけ、変化があった。
「……ん?」
僕は木片から五メートルほど離れた場所で立ち止まっていた。
目を閉じ、残したオーラを感知している。
いつもと同じ練習。
いつもと同じ感覚。
だが、今日はその感覚を保ったまま、右手をゆっくりと前に伸ばしてみた。
その瞬間、指先に妙な感触が走った。
まるで、遠くにある木片へ向かって、細い糸が伸びているような感覚。
僕は息を止めた。
指を少し動かす。
感覚が揺らぐ。
手を元に戻す。
感覚が落ち着く。
「……何だ、これ」
僕は慌てて記録帳を開いた。
今の感覚を忘れないうちに書き留める。
ただし、ここで決めつけてはいけない。
オーラを感知しているだけなのか。
自分のオーラが木片に向かって伸びているのか。
それとも、集中の仕方が変わったことで、そう感じただけなのか。
まだ分からない。
僕は同じ動作を繰り返した。
木片を意識する。
右手を伸ばす。
指先を動かす。
だが、先ほどの感覚は戻ってこなかった。
「……一回だけか」
残念ではあった。
けれど、少なくとも、何かを感じたことは記録できた。
僕はその場に座り込み、書いたばかりの文章を読み返した。
今のところ、空間跳躍との関係は不明。
ただし、残したオーラを意識しながら身体を動かすと、指先に普段とは違う感覚が生じる場合がある。
次回は、腕を動かす範囲や意識の向け方を変え、同じ感覚が再び生じるか確かめる。
そこまで書いて、僕はペンを置いた。
昨日までと比べて、何かが劇的に変わったわけではない。
それでも、僕は少しだけ前に進めた気がした。
◇
その日の夕方。
ビスケは、僕が記録帳に書き込んでいる様子を眺めていた。
「今日は何か分かった?」
「まだ、はっきりしたことは分からない。でも、木片を意識しながら手を伸ばしたら、指先に変な感覚があったんだ」
「変な感覚?」
「うん。木片に向かって、何かが伸びているような……。でも、一回だけだったから、気のせいかもしれない」
ビスケは記録帳を受け取り、内容を読んだ。
それから、ゆっくりと頷く。
「いい記録ね」
「本当?」
「ええ。何を感じたのかだけじゃなくて、何をしたときに感じたのか、再現できたのかどうかまで書いてあるもの」
彼女は記録帳を返してくれた。
「念の修行では、自分の感覚を信じることも大切よ。でも、感覚だけを頼りにしていると、思い込みに引っ張られることもあるわ」
「だから、何度も試して確かめるんだね」
「そういうこと」
ビスケは僕の頭を撫でた。
「あなたは、自分が何を目指しているのか、ちゃんと分かっている。だからこそ、焦らずに進みなさい」
「うん、お母さん」
僕は笑顔で答えた。
まだ、空間跳躍は再現できない。
木片に残したオーラを感知できるようになっただけで、そこへ移動する方法は見つかっていない。
けれど、僕の中には確かな目標がある。
いつか必ず、あの瞬間を自分の意志で起こしてみせる。
そして、その力を大切な人を守るために使う。
その決意だけは、揺らがなかった。
◇
夜。
ビスケは自室で、今日のレオンの様子を思い返していた。
彼は、空間跳躍という大きな現象を経験した。
それなのに、すぐに同じことを起こそうと無茶をするのではなく、感覚を確かめ、記録を残し、再現できない理由を考えている。
もちろん、内心では早く結果を出したいと思っているのだろう。
それでも、少しずつ自分を抑えられるようになってきた。
「……成長してるわね」
ビスケは微笑んだ。
彼女が教えられることには限りがある。
レオンが目指す能力は、彼自身の発想から生まれるものだ。
だからこそ、答えを先回りして与えるのではなく、必要なときに支えられるようにしておきたい。
彼が自分の力で答えにたどり着く、その日まで。
「頑張りなさい、レオン」
小さな呟きは、静かな夜に溶けていった。
そして翌朝。
僕は、昨日の指先の感覚をもう一度確かめるため、修行場へ向かうことになる。
空間跳躍への道は、まだ遠い。
けれど、僕は少しずつ、その入口に近づいていた。