右手を伸ばした瞬間、確かに感じた。
自分の手から、五メートル先の木片へ。
目には見えない、細い糸のような感覚が伸びたのだ。
けれど、それは一瞬で消えてしまった。
何度試しても、同じ感覚は戻ってこない。
「……もう一度、条件を変えてみるか」
「レオン」
背後から声がした。
「その前に、今まで何を試して、何が分かっているのか。お母さんに説明してごらんなさい」
振り返ると、ビスケが腕を組んで立っていた。
いつもの穏やかな表情だが、目は真剣だった。
「まず、木片にオーラを込めると、離れていてもその存在を感じ取れることがある。ただし、時間が経つと感覚が弱くなる。オーラが急に消えた場合は、ほとんど何も感じない」
「うん」
「それから、昨日の糸みたいな感覚。あれは、木片に向かって手を伸ばしたときに起きた。でも、手を伸ばすこと自体が原因なのか、木片に集中したことが原因なのかは分からない」
「よく整理できているわね。それで?」
「……あの感覚が、木片と僕をつないでいたのかもしれない」
口にしてから、少しだけ考え直した。
「いや、正確には、つないでいたように感じただけだ。実際に何かがつながったかどうかは、まだ分からない」
ビスケは満足そうに頷いた。
「その考え方でいいわ。じゃあ、次は何を調べる?」
僕は床に置かれた木片を見つめた。
そして、ふと思い出す。
神字。
オーラを補助し、特定の効果を持たせるための文字。
僕はこれまで、オーラを飛ばす練習と、神字を学ぶことを別々に考えていた。
神字は神字。放出系の修行は放出系の修行。
けれど、本当にそれでいいのだろうか。
「お母さん。神字って、オーラの流れを補助することもできるんだよね?」
「ええ。使い方によるわ。神字そのものが何でもしてくれるわけじゃないけれど、適切な形と意味を組み合わせれば、オーラの働きを一定の方向へ導いたり、特定の機能を持たせたりすることはできる」
「じゃあ……離れた場所にあるオーラを感じ取ることや、そこへ向かうための補助にも使えるのかな?」
ビスケの表情がわずかに変わった。
驚いたというより、僕が何を考え始めたのかを確かめているようだった。
「理屈の上では、可能性を否定できないわ。ただし、感知することと、そこへ移動することは別の問題よ。そこを一緒にしないこと」
「うん」
「それに、空間を移動するなんて現象を神字だけで実現できると思わないこと。念能力として成立させるには、あなた自身のオーラの性質や操作、それから能力の仕組みが関わってくるはずよ」
空間を移動する。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
僕が本当に求めているもの。
遠くにいる誰かのもとへ、一瞬で駆けつける力。
前世で憧れた、あの技。
もちろん、今の僕にはまだ何もない。
一度だけ起きた空間跳躍も、再現できていない。
それでも。
あの現象が単なる偶然で終わらないのなら、神字はその仕組みを組み立てるための手がかりになるかもしれない。
「お母さん。今日は、神字を使った実験をしてみたい」
「具体的には?」
「木片に神字を書いて、その周りにオーラを込める。何も書いていない木片と比べて、オーラの感じ方が変わるか調べたいんだ」
「いいわね。ただし、今日は空間跳躍を起こそうとしないこと。あくまで、オーラの感じ方を調べるだけ」
「分かった」
僕は素直に頷いた。
今はまだ、移動を試す段階じゃない。
まずは、糸のような感覚が何なのかを知りたい。
そして、神字がその感覚にどんな影響を与えるのか。
そこから始めよう。
◆
実験に使う木片は、同じ大きさのものを二つ用意した。
一つ目には、ビスケに教わった基礎的な神字を一つだけ書く。
二つ目には、何も書かない。
神字の意味を僕が正しく理解できているか、ビスケが何度も確認してくれた。
「形が少し違うだけでも、意図した働きにならない場合があるわ。焦らず、丁寧にね」
「うん」
僕は神字を書いた木片を床に置き、そこへ少量のオーラを込めた。
次に、何も書いていない木片にも、できるだけ同じ量のオーラを込める。
準備ができると、二つを三メートルほど離れた場所に置いた。
「まずは、目を閉じて感知してみなさい。どちらに何を感じるか、順番に確認するの」
僕は目を閉じた。
凝を使い、周囲のオーラの気配に意識を向ける。
右側。
木片に残ったオーラの存在を感じる。
左側。
こちらにも、同じような気配があった。
少なくとも、今の距離では大きな違いは分からない。
「どう?」
「両方とも感じる。でも、神字を書いたほうが強いとか、そういう違いは分からない」
「それなら、次は手を伸ばさずに、意識だけを向けてみて」
僕は言われたとおりにした。
神字のある木片。
何も書いていない木片。
交互に意識を向ける。
何度か繰り返したが、はっきりとした差は見つからなかった。
少し期待していただけに、残念ではある。
けれど、ここで無理に違いを見つけたことにしても意味がない。
「変化なし、かな……」
「今の条件では、ね。神字が役に立たないと決まったわけじゃないわよ」
ビスケはそう言って、二つの木片を回収した。
「次は、あなた自身のオーラを使ってみましょう」
「僕の?」
「ええ。木片に込めたオーラを感じるだけじゃなくて、あなたのオーラを少しだけ外へ出すの。そのうえで、神字を書いた木片に意識を向けてみて」
僕は姿勢を整えた。
まず、体内のオーラを整える。
そして右手から、ごく少量のオーラを外へ放出した。
いつもなら、手から離れたオーラを一定の形に保つことに集中する。
今回は、それを維持しながら木片へ意識を向ける。
自分のオーラ。
木片に残ったオーラ。
その二つを、同時に感じ取ろうとした。
最初は何も起きなかった。
数秒。
十秒。
集中を切らさないよう、呼吸を整える。
そのときだった。
手から伸ばしたオーラの先端が、ほんのわずかに揺れた。
風に吹かれたわけではない。
僕自身が動かしたわけでもない。
何かに引かれたような、ごく小さな変化。
「……今のは」
思わず声が漏れた。
「どうしたの?」
「オーラの先が、少し動いた気がする」
「どんなふうに?」
「神字を書いた木片の方向に……いや、待って。まだ断言できない」
僕はオーラを消し、もう一度同じ手順を試した。
今度は、何も起きなかった。
続けて三回。
四回目。
やはり、先ほどの変化は再現できない。
ただ、さっきの感覚は、昨日の糸のような感覚と少し似ていた。
違うのは、昨日が自分と木片の間に何かが伸びたような感覚だったのに対し、今回は、自分のオーラが木片の方向へ引かれたように感じたことだ。
もしかしたら、二つには関係があるのかもしれない。
でも、それもまだ仮説にすぎない。
「お母さん。神字があると、オーラの向きが変わる可能性はある?」
「可能性はあるわ。でも、今の実験だけでは、神字が原因なのか、あなたの集中の仕方が原因なのか、それとも別の要因なのかは分からない」
「……うん」
「だから、今日の発見は『神字がオーラを引いた』じゃないわね」
ビスケは僕の記録帳を指先で軽く叩いた。
「『神字を書いた木片に意識を向けながらオーラを放出した際、オーラの先端に一度だけ方向の変化を感じた』。これなら、事実として書けるでしょう?」
僕は目を瞬かせた。
なるほど。
言葉の違いは小さいようでいて、大きい。
前者は、原因まで分かったつもりになっている。
後者は、自分が実際に観察したことだけを残している。
「分かった。そう書くよ」
僕は記録帳を開いた。
日付、木片の位置、神字の有無、オーラの量、集中の方法。
覚えている限りの条件を書き留める。
そして、最後に一行付け加えた。
――神字は、離れた対象に向けたオーラの制御に関係する可能性がある。追加実験が必要。
◆
その日の訓練が終わったあと、僕は一人で神字の練習帳を開いていた。
これまで習った文字を、一つずつ書き写していく。
それぞれの意味。
形の違い。
オーラを補助する際の注意点。
まだ覚えることは多い。
けれど、今日の実験を通じて、僕の中で一つの考えが生まれていた。
これまでは、オーラを対象へ向けることばかり考えていた。
遠くへ飛ばす。
狙った場所へ届ける。
そして、対象に残ったオーラを感じ取る。
だが、もし。
オーラをただ飛ばすのではなく、特定の対象へ向かう流れそのものを補助できたら?
その流れを、神字によって安定させられたら?
さらに、その対象とのつながりを足がかりに、空間跳躍という現象を再現できたら?
まだ、あまりにも遠い話だ。
放出系の基礎も、神字の知識も、僕には十分ではない。
そもそも、あの一度きりの空間跳躍が何によって起きたのかさえ、分かっていないのだから。
それでも、別々だった二つのものが、初めて同じ方向を向いた気がした。
神字。
そして、空間跳躍。
今までは、それぞれを個別に学んでいた。
これからは、その接点を探すことができる。
「……焦るな、僕」
自分に言い聞かせる。
たった一度の感覚で、何かを成し遂げた気になるわけにはいかない。
必要なのは、積み重ねだ。
何度も試し、違いを見つけ、失敗の理由を考える。
そうして少しずつ、再現できる現象へと近づけていく。
僕は練習帳を閉じた。
空間を跳ぶ力は、まだ手の届かない場所にある。
けれど、その力を生み出すための道筋が、ほんの少しだけ見え始めていた。
――神字とオーラの制御。
その二つを結びつけることが、次の課題になる。
四代目への道は、まだ長い。
それでも今日、僕は初めて、その道の上に一本の細い線を見つけた気がした。