翌朝、僕はいつもより早く目を覚ました。
昨日の実験が、頭から離れなかったからだ。
神字を書いた木片に意識を向けながらオーラを放出したとき、先端が一度だけ、そちらへ引かれるように揺れた。
偶然かもしれない。
集中の乱れだった可能性もある。
それでも、昨日までとは違う疑問が生まれた。
オーラを対象へ向けることと、対象との間に何かをつなぐことは、同じなのだろうか。
僕は布団から起き上がり、机に置いた記録帳を開いた。
答えは書かれていない。
当たり前だ。まだ、調べ始めたばかりなのだから。
「まずは、確かめられることからだな」
身支度を整え、訓練場へ向かった。
◆
「おはよう、お母さん」
「おはよう。今日はずいぶん早いわね」
訓練場では、ビスケが準備運動をしていた。
僕が記録帳を手にしているのを見ると、彼女は小さく笑った。
「昨日の続き?」
「うん。でも、今日は神字を使う前に、オーラの動きそのものを調べたいんだ」
「いい判断ね。どうやるつもり?」
「木片を二つ用意する。片方にはオーラを込めて、もう片方には何もしない。それから、僕のオーラを木片に向けて放出する。対象を意識したときと、意識しないときで違いがあるか調べたい」
「それなら、神字の影響と、あなた自身の意識の影響を分けて考えやすくなるわね」
ビスケはすぐに実験を許可してくれた。
ただし、木片を置く場所やオーラの量は、彼女が確認することになった。
僕はまず、三メートル先の木片に向けてオーラを放出した。
対象を意識する。
オーラを維持する。
方向を変えずに、できるだけ安定させる。
特別な変化はない。
次に、木片を見ず、別の場所に意識を向けたまま同じことを試した。
こちらも、目立った違いはなかった。
「どう?」
「今のところ、意識するだけでオーラの動きが変わるとは言えないね」
「そうね。じゃあ、次は木片に残したオーラを感じ取ってみましょう。あなたが昨日感じたものが、対象そのものへの意識と関係しているのか、それとも残されたオーラへの感知と関係しているのか。そこを切り分けるの」
僕は頷いた。
ビスケの言うとおりだった。
昨日の実験では、神字を書いた木片と、そこに残ったオーラと、その木片を意識する自分の感覚が混ざっていた。
一度に複数の条件を変えれば、何が原因なのか分からなくなる。
だから、ひとつずつ確かめる。
僕は木片に込められたオーラを凝で探り、その位置を把握した。
続いて、そこから少しだけ意識を外す。
自分のオーラを放出しながら、木片の位置だけを頭に思い浮かべた。
――何も起こらない。
今度は、木片に残るオーラの気配を意識する。
すると。
右手から放出していたオーラの先端に、わずかな変化が生じた。
「……っ!」
僕は慌てて動きを止めた。
ほんの一瞬。
先端が、木片のある方向へ向かって細く伸びたように感じた。
昨日と似ている。
けれど、昨日よりも感覚がはっきりしていた。
「お母さん、今の……!」
「ええ、見ていたわ。でも、もう一度できるかしら?」
僕は集中を整え直した。
木片に残るオーラを感知する。
その位置を意識する。
自分のオーラを放出する。
――何も起こらない。
もう一度。
――何も起こらない。
五回、十回と繰り返したが、同じ感覚は戻ってこなかった。
「再現できないか……」
「でも、昨日と今日で似た感覚が起きた。それは記録する価値があるわ」
ビスケは僕の肩に手を置いた。
「ただし、無理に再現しようとしないこと。何かを感じようと意識しすぎると、実際の変化と、あなたが期待している変化を区別できなくなるから」
「分かった」
僕は記録帳に、二度目の観察結果を書き込んだ。
昨日との共通点。
木片に残ったオーラを意識していたこと。
自分のオーラを外へ放出していたこと。
違いは、神字の有無を今回の実験では比較していないこと。
そして、再現できなかったこと。
書き終えてから、僕は記録帳を閉じた。
まだ、確信には程遠い。
だが、少なくとも一つの可能性が浮かんできた。
僕が感じた糸のようなものは、木片そのものではなく、そこに残ったオーラと、自分が放出したオーラとの関係に由来するのかもしれない。
それが正しいかどうかは、まだ分からない。
けれど、調べる方向は少しずつ絞られてきた。
◆
午前の訓練を終えたあと、僕は神字の練習に取りかかった。
昨日と同じように、教わった文字を丁寧に書き写していく。
ただ、今日は文字の形だけでなく、それぞれがどのような働きを補助するものなのか、意識しながら読むことにした。
神字は、単なる記号ではない。
形には意味があり、組み合わせによって働きが変わることもある。
その仕組みを理解せずに、ただ文字を並べても意味はない。
「……方向を導く、か」
資料の一節を読み、僕は手を止めた。
正確には、方向そのものを自由に変えるという話ではない。オーラの働きを一定の意図に沿わせるための補助について書かれていた。
それでも、僕の考えには関係がありそうだった。
今の僕ができるのは、オーラを放出し、ある程度の方向へ飛ばすこと。
木片に残ったオーラを感じ取ること。
そして、ごくまれに、その二つの間に糸のような感覚を覚えること。
もし、あの感覚が偶然の錯覚ではなく、何らかの現象の兆候なのだとしたら。
僕が探すべきなのは、単にオーラを遠くへ飛ばす方法ではないのかもしれない。
対象を捉え、その対象との関係を安定させる方法。
神字は、そのための補助になり得る。
だが、神字を覚えればすぐに空間を跳べる、という単純な話ではないだろう。
あの一度きりの現象には、まだ分からないことが多すぎる。
僕は資料を閉じ、練習帳の余白に短く書き込んだ。
――神字の役割は、空間跳躍そのものを起こすことではなく、その前提となるオーラの働きを補助することかもしれない。
書いてから、しばらくその一文を見つめた。
今の自分にとっては、それが最も自然な仮説だった。
◆
午後、ビスケは僕に少し変わった課題を出した。
「レオン。今日は木片を使わずに、これをやってみて」
彼女が差し出したのは、短い紐だった。
「紐?」
「ええ。私が持っているから、あなたは反対側を持ちなさい」
言われたとおり、僕は紐の端を握った。
ビスケがゆっくりと後ろへ歩く。
紐が張る。
「今、何を感じる?」
「引っ張られている感覚」
「そうね。じゃあ、紐がたるんでいたら?」
「引っ張られる感覚は弱くなると思う」
「そのとおり。では、目を閉じて、紐の張り具合だけを感じてみなさい」
僕は目を閉じた。
ビスケが少しずつ位置を変える。
紐が張る。
たるむ。
また張る。
僕は指先に伝わる変化を追った。
「今度は、目を開けずに、私がどちらへ動いたか答えてみて」
最初は簡単だった。
紐が右へ引かれれば、ビスケが右へ動いたと分かる。
だが、彼女が紐をわずかに緩めてから動くと、途端に難しくなった。
指先に伝わる情報だけでは、動いた方向を正確に捉えられない。
「難しいね」
「ええ。でも、あなたが探しているものに少し似ている部分はあるわ」
ビスケは紐を回収しながら言った。
「何かをつなぐというのは、ただ存在を知ることとは違う。つながりがあるなら、そこから何らかの情報が伝わることもある。ただし、今の紐とオーラが同じ仕組みだと思い込んでは駄目よ。これは、違いを理解するための練習」
「存在を感じることと、つながりを持つことは違う……」
「そう。あなたは木片にオーラが残っていることを感じられるようになった。でも、それだけで木片とあなたがつながっているとは言えないでしょう?」
「うん」
僕は自分の手を見つめた。
今まで、僕は木片の位置を把握することに集中していた。
どこにあるのか。
オーラが残っているのか。
時間が経つと、どの程度感じにくくなるのか。
けれど、位置を知ることと、その場所へ自分を移動させることの間には、大きな隔たりがある。
その隔たりを埋めるものが何なのか。
まだ、分からない。
ただ、今までの実験で得た感覚を、すべて同じものとして扱うべきではないことは理解できた。
オーラの残り香を感じること。
自分のオーラを対象へ向けること。
糸のような感覚を覚えること。
そして、実際に空間を跳ぶこと。
それらは関係しているかもしれないが、同じ現象ではない。
ひとつずつ確かめる必要がある。
「ありがとう、お母さん」
「どういたしまして。あなたが自分で気づけたなら、今日の練習は成功ね」
ビスケは僕の頭を軽く撫でた。
「ただし、頭を使うのも大切だけど、身体を鍛えるのも忘れないこと。夕方はいつもの走り込みよ」
「……はい」
思わず苦笑してしまう。
どうやら、空間跳躍への道が見えてきたからといって、基礎訓練が免除されるわけではないらしい。
それでも、不満はなかった。
今の僕には、まだ鍛えるべきものがいくらでもある。
◆
夜。
僕は今日の実験結果を記録帳にまとめていた。
再現できた現象は、ほとんどない。
空間跳躍も起きなかった。
それでも、今日の訓練は無駄ではなかったと思う。
木片の位置を感じることと、そこへ向かうような感覚を得ることは別だった。
そして、何かをつなぐという考えを、今までよりも具体的に捉えられるようになった。
神字についても、少しだけ見方が変わった。
空間跳躍を直接生み出す魔法のようなものではない。
オーラの働きを補助し、組み立てた仕組みを支えるための技術。
もし僕が本当に空間を跳ぶ力を身につけたいのなら、まずは自分の念で何ができるのかを理解しなければならない。
そのうえで、神字をどう組み合わせれば役立つのか考える。
順序を間違えないこと。
僕は記録帳の最後に、明日以降の課題を書き込んだ。
――残留オーラの感知と、放出したオーラの方向制御を別々に鍛える。
――神字の有無による違いは、条件を揃えて比較する。
――空間跳躍の再現は、原因がある程度絞り込めるまで試みない。
書き終えると、僕はペンを置いた。
以前の僕は、一度跳べたのだから、もう一度できるはずだと考えていた。
けれど今は、少し違う。
一度起きた現象を再現するためには、その現象がなぜ起きたのかを理解する必要がある。
そして、理解するためには、できないことも含めて観察しなければならない。
遠回りに思えるかもしれない。
それでも、焦って能力を作ろうとするより、ずっと確実な道だ。
僕は記録帳を閉じ、窓の外を見た。
空間跳躍は、まだ自由に使える力ではない。
神字も、まだ基礎を学んでいる段階だ。
だが、二つを結びつけるために、何を学べばいいのかは少しずつ見えてきた。
今は、糸の正体を探ること。
それから、オーラを思いどおりに扱えるようになること。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
けれど、いつか必ず。
行きたい場所へ、自分の意志でたどり着ける力を手に入れてみせる。
そのための一歩を、僕は今日も積み重ねていく。