それから一週間、僕は空間跳躍の再現を試みなかった。
正確には、試みるのを後回しにした。
今の僕に必要なのは、あの現象を無理やり起こすことではない。空間跳躍が起きる前に、自分が何をしていたのかを整理し、必要な技術を一つずつ身につけることだった。
まずは、放出したオーラの制御。
次に、離れた場所に残ったオーラの感知。
そして、神字の理解。
この三つを別々に鍛えながら、共通する部分を探していく。
「レオン、集中が切れてるわよ」
「ごめん、お母さん」
「謝るより、やり直し。ほら、もう一度」
僕は目の前の小石に視線を戻した。
小石は三メートル先に置かれている。
その周囲に、僕が放出したオーラを薄く広げる。形を崩さず、必要以上に膨らませず、一定の状態を保つ。
以前よりも、ずっと長く維持できるようになった。
けれど、オーラを維持することと、狙った場所へ正確に働きかけることは別だ。
ほんの少し意識が逸れるだけで、オーラの形が崩れてしまう。
「量を増やそうとしない。今のあなたなら、もっと少ないオーラでも練習できるでしょう?」
「うん」
僕は放出する量を減らした。
オーラが小さくなると、維持するのは楽になる。
その分、細かな変化にも意識を向けられるようになった。
これだ。
大きな力を使おうとするのではなく、必要な力を必要な場所に使う。
単純なようで、今の僕にはまだ難しい。
それでも、少しずつ手応えはあった。
◆
午前の訓練が終わると、ビスケが僕の前に三つの木片を並べた。
「今日はこれを使うわよ」
「三つ?」
「一つには私のオーラを込めておく。もう一つにはあなたのオーラ。最後の一つには何も込めない」
僕は木片を見比べた。
「どれに何が入っているかは、教えないってこと?」
「そういうこと。あなたは凝を使って、それぞれのオーラを探してみなさい。位置だけじゃなく、違いも感じ取れるか試すの」
「分かった」
ビスケは木片を少し離れた場所へ運び、順番を入れ替えた。
僕は目を閉じた。
凝を使い、意識を周囲へ向ける。
一つ目。
オーラの気配がある。
二つ目。
こちらにも気配がある。
三つ目。
……何も感じない。
「何もないのは、これだと思う」
「どうして?」
「オーラの気配が見つからないから」
「正解。ただし、あなたの感知できる範囲や精度には限界があるわ。感じないことと、絶対に存在しないことは同じじゃない。その違いは覚えておいてね」
僕は頷いた。
次は、残り二つの木片だ。
片方はビスケのオーラ。もう片方は僕のオーラ。
どちらも、木片に残ったオーラを感じ取ることはできる。
だが、違いを見分けるのは簡単ではなかった。
強さだけで判断しようとすると、込められた量の違いに惑わされる。
僕は時間をかけて、それぞれの気配を探った。
「……こっちが、お母さんのオーラ?」
「どうしてそう思ったの?」
「強さじゃなくて、感触が違う気がしたんだ。僕のオーラのほうが、なんとなく分かりやすい」
ビスケはすぐには答えなかった。
僕の答えを確かめるように、少し間を置いてから口を開いた。
「正解よ。けれど、まだ感覚的な判断ね。別の条件でも同じように見分けられるか、あとで試しましょう」
僕は思わず笑みを浮かべた。
自分のオーラを、離れた場所から感じ取る。
それだけなら、これまでもできていた。
けれど、他人のオーラと区別できる可能性があるのなら、話は少し変わってくる。
僕のオーラが残っている場所を、ほかのオーラと区別して探せる。
もちろん、今の精度では遠くまで探すことはできない。時間が経てば感知も難しくなる。
それでも、これは空間跳躍を考えるうえで、重要な基礎になるかもしれない。
僕はすぐに記録帳へ書き込んだ。
――自分のオーラと他者のオーラは、感触の違いによって区別できる可能性がある。
――ただし、現時点では判断基準が曖昧。オーラ量や距離、経過時間の影響を調べる必要がある。
「いい記録ね」
ビスケが隣から覗き込む。
「レオン。あなたは何かを見つけると、すぐに先へ進みたくなるでしょう?」
「……うん」
「でも、見つけたものを使える技術にするには、何度も確かめなきゃいけない。今のあなたは、その段階にいるの」
「分かってるよ」
「本当に?」
「……頑張って分かろうとしてるところ」
ビスケは声を上げて笑った。
「素直でよろしい!」
◆
午後は、神字の勉強に時間を使った。
これまで教わった神字の中から、基礎的なものを選び、形と意味を繰り返し確認する。
僕は一つの文字を書き、込めるオーラの量を少しずつ変えてみた。
けれど、文字を書いたからといって、すぐに分かりやすい変化が起きるわけではない。
そもそも、今の僕には神字の働きを正しく引き出すだけの知識も技術も足りていない。
形を正確に書けたとしても、それだけで十分とは限らないのだ。
「お母さん。神字を使うときって、文字を書いた人のオーラじゃないと駄目なの?」
「必ずしもそうとは限らないわ。ただし、誰がどのようにオーラを込めたのか、どういう仕組みを意図しているのかによって、結果は変わるでしょうね」
「じゃあ、誰かが作った神字を、別の人が使うこともできる?」
「理屈の上ではね。でも、仕組みを理解せずに使うのは危険よ。念は便利な道具じゃない。使い方を誤れば、自分の首を絞めることにもなるわ」
僕は神字を見つめた。
将来的に、僕が作りたい能力。
離れた場所に目印を残し、必要なときにそこへ移動する。
そのために神字を使うのなら、文字を書くだけでなく、どのような仕組みでオーラを働かせるのかを理解しなければならない。
目印となる場所をどう指定するのか。
そこへ向かうための情報を、どうやって保持するのか。
そして、実際に空間を移動する現象と、どのように結びつけるのか。
疑問は多い。
けれど、以前はぼんやりとした願望だったものが、少しずつ技術的な課題に変わり始めていた。
「……まだまだだな」
「そうね。まだまだよ」
ビスケは容赦なく頷いた。
「でも、だから面白いんでしょう?」
僕は顔を上げた。
ビスケは笑っていた。
「分からないことを一つずつ理解して、自分の力にしていく。それが修行というものよ」
「……うん!」
僕は再び神字の練習に戻った。
◆
数日後。
僕は、ある実験をビスケに提案した。
「お母さん。自分のオーラを木片に残しておいて、離れた場所から、そのオーラを目印にしてみたい」
「目印?」
「うん。今までは、木片の位置を探していたでしょう? でも、僕のオーラが残っている場所を探すことに集中したら、何か違いがあるかもしれない」
ビスケは少し考えたあと、頷いた。
「いいわ。ただし、今日は移動を試さない。感知と制御だけよ」
「分かってる」
僕は木片を手に取り、少量のオーラを込めた。
その木片を、ビスケが十メートルほど離れた場所へ運ぶ。
僕は目を閉じ、凝を使った。
最初は、木片そのものを探すように意識していた。
だが、それではいつもと変わらない。
そこで、木片の形や位置を思い浮かべるのをやめた。
代わりに、自分がそこへ込めたオーラの感触だけを探す。
遠くにある、僕自身のオーラ。
それを見つける。
探す。
集中を続ける。
――あった。
かすかだが、確かに感じ取れた。
僕はすぐに、その方向へ意識を向けた。
そして、右手からほんの少しだけオーラを放出する。
木片に向けるのではない。
自分のオーラが残っている場所を、意識しながら放出する。
すると。
指先から伸びたオーラの先端が、わずかに揺れた。
今度は、昨日までとは少し違った。
糸のような感覚が生じたわけではない。
世界が歪んだわけでもない。
ただ、自分のオーラを放出する方向と、木片に残った自分のオーラの方向を、同時に意識しやすくなった気がした。
「……これなら」
僕は目を開けた。
木片は、予想した方向にあった。
「お母さん。今の、もう一度やってみたい」
「ええ。やってみましょう」
ビスケは木片を回収し、もう一度別の場所へ置いた。
今度は、少しだけ距離を変える。
僕は同じ手順を繰り返した。
感知する。
自分のオーラを探す。
その方向を意識しながら、少量のオーラを放出する。
成功した。
次も成功した。
三回目は、方向を少し外した。
四回目は、感知そのものがうまくいかなかった。
それでも、最初の二回は明らかに、これまでよりも安定していた。
僕は興奮を抑えながら、記録帳を開いた。
これは、空間跳躍ではない。
自分のオーラが残る場所を感知し、その方向へオーラを放出する練習だ。
けれど、僕が目指す能力にとって、重要な一歩になるかもしれない。
なぜなら、僕は初めて、自分のオーラを残した場所を、単なる存在の感知対象ではなく、オーラ制御の目標として扱う練習ができたからだ。
この感覚を安定させられれば、神字を組み合わせるための土台にもなるかもしれない。
「よくできたわね、レオン」
ビスケが僕の頭を撫でた。
「でも、ここからが大事よ。今できたことを、明日も同じようにできるか。距離が変わってもできるか。時間が経ってもできるか。それを確かめていくの」
「うん。分かってる」
僕は木片を見つめた。
十メートル。
たった十メートルだ。
空間を跳ぶには、まだ何も足りていない。
けれど、最初に空間跳躍が起きたときも、僕はこのくらいの距離にある木片を意識していた。
あのとき、何が起きたのか。
なぜ、自分の身体が木片のあった場所へ移動したのか。
まだ答えは見つかっていない。
だが、少なくとも今は、あの現象をただ待つしかないわけではなくなった。
自分のオーラを残した場所を探し、その方向へオーラを制御する。
この技術を、もっと確かなものにする。
そして、神字の知識を深める。
いつか、その二つが結びつく瞬間が来るかもしれない。
僕は記録帳に最後の一行を書き加えた。
――自分のオーラを残した場所を、放出するオーラの制御目標として扱う練習に、一定の手応えあり。
ペンを置き、僕は大きく息を吐いた。
偶然を技術に変える。
そのために必要なのは、奇跡を待つことではない。
奇跡が起きたとき、自分が何をしていたのかを理解できるだけの力を身につけることだ。
そして、いつか。
あの一度きりの空間跳躍を、僕自身の意志で再現してみせる。
そのための準備は、確かに進み始めていた。