十メートル先に残した自分のオーラを、感知する。
その方向へ意識を向けながら、別のオーラを放出する。
ここ数日、僕はその練習を繰り返していた。
最初は、うまくいくのが二、三回に一度だった。
今では、十回試せば七回ほどは、木片のある方向へ正確にオーラを向けられる。
もちろん、距離が伸びたり、木片に残したオーラが薄くなったりすると、途端に難しくなる。
それでも、確かな進歩だった。
「よし、今日も成功」
木片の位置を確認し、僕は記録帳に結果を書き込んだ。
「レオン。そろそろ休憩にしましょう」
「あと一回だけ」
「その台詞、さっきも聞いたわよ」
「……あと、本当に一回」
「駄目」
即答だった。
僕は肩を落とした。
「お母さん、厳しい……」
「あなたが自分の限界を忘れがちだから、私が覚えておいてあげてるの」
ビスケは僕の記録帳を取り上げ、ぱらぱらとページをめくった。
「でも、感知と放出の練習は安定してきたわね。特に、自分のオーラを探すときの集中力が上がってる」
「うん。自分のオーラだって意識すると、少し見つけやすいんだ」
「それは大切な発見ね。ただし、今のところは近距離で、しかもオーラが残っているときに限られる。そこを忘れないこと」
「分かってる」
僕は頷いた。
以前なら、こういう小さな進歩を見つけると、すぐに次の段階へ進みたくなっていた。
今は少し違う。
今の技術で何ができて、何ができないのか。
それを理解することも、能力を作るためには必要なのだ。
そして、今日の僕には、もう一つ試したいことがあった。
「お母さん。今度は、木片に残したオーラを使って、別のことを確かめたいんだ」
「どんなこと?」
「僕が木片から離れたあと、木片の位置を変えたら、感知のしやすさは変わるのか。それと、木片を動かさずに、僕だけが移動した場合はどうなるのか」
ビスケは少し考えた。
「いいわね。今までは、木片を動かしたときに感覚が変わることがあったでしょう? 今回は、条件を分けて調べましょう」
◆
最初の実験では、木片を床に置いたまま、僕が移動した。
木片にオーラを込める。
十メートル離れる。
凝を使い、木片に残った自分のオーラを探す。
ここまでは、いつもどおりだ。
僕は木片の位置を把握したあと、さらに五メートル後ろへ下がった。
距離が伸びるにつれて、オーラの気配は弱くなる。
それでも、何とか感知できた。
次に、木片の位置はそのままで、僕が横へ移動する。
もう一度、同じように探す。
少し時間はかかったが、感知できた。
「今のところ、僕が移動しても、木片に残ったオーラの位置は分かるね」
「そうね。では、次は木片を動かしてみましょう」
ビスケが木片を拾い、僕から見て反対側へ移動させた。
僕は目を閉じたまま、木片に残ったオーラを探した。
――あった。
位置は、さっきと違う。
だが、木片に残っているオーラそのものは、同じもののはずだ。
僕はその気配を追い、方向を特定した。
「分かった。今は、右前方」
「正解よ」
目を開けると、木片は確かにその位置にあった。
僕は首を傾げた。
木片を動かせば、当然、オーラのある場所も移動する。
これだけなら、不思議なことではない。
しかし、以前の実験では、木片を動かすと感知が乱れることがあった。
今回は、比較的うまくいった。
何が違ったのだろう。
僕は少し考え、ひとつの可能性に気づいた。
「……お母さん。前は、木片の位置を覚えて、そこを探そうとしていたのかもしれない」
「どういうこと?」
「前は、木片があった場所を意識していた。でも、今回は、木片に残ったオーラそのものを探そうとしたんだ。だから、木片が動いても、見つけやすかったのかもしれない」
ビスケは頷いた。
「可能性はあるわね。対象の位置を記憶して探すのと、実際に残っているオーラを感知するのは、別の作業だもの」
「じゃあ、僕が空間跳躍をしたときも……」
言いかけて、僕は口を閉じた。
あのときは、木片があった場所へ移動した。
しかし、それが木片に残ったオーラを感知した結果だったのか、それとも別の要因だったのかは分からない。
今の実験だけで、当時の現象を説明することはできない。
「まだ、分からないね」
「ええ。でも、以前より整理できるようになっているわ」
ビスケは木片を手のひらに載せた。
「レオン。あなたは今、オーラの存在を感じ取ることと、対象の位置を把握することを区別し始めている。これは大事なことよ」
「うん」
「ただし、感知できたからといって、その対象と何か特別なつながりがあるとは限らない。それは忘れないでね」
僕は深く頷いた。
まさに、そこが問題なのだ。
感知と、つながり。
その二つの間には、まだ見えない壁がある。
◆
その日の午後、僕は神字の勉強に取り組んでいた。
机の上には、これまで書き写してきた資料が何冊も積み重なっている。
僕が注目していたのは、神字を複数組み合わせたときの働きについて書かれた部分だった。
神字は、単独で使う場合と、複数を組み合わせて一つの仕組みを作る場合とで、役割が変わることがある。
もちろん、文字を並べれば何でもできるわけではない。
形、意味、オーラの込め方。
それらが適切でなければ、意図した効果は得られない。
それでも、複数の神字によって仕組みを作るという考え方は、僕が目指す能力に通じるものがあった。
例えば。
一つの神字で、オーラを込めた対象を識別する。
別の神字で、その対象に関する情報を保つ。
さらに別の神字で、オーラの働きを一定の方向へ導く。
そうした役割を組み合わせられたら、どうなるだろう。
頭の中に浮かんだ考えを、僕は紙に書き出した。
だが、すぐに線を引いて消した。
今の段階では、具体的すぎる。
僕は神字の意味を学び始めたばかりで、どの文字がどのような働きを持つのか、十分に理解していない。
そもそも、僕の念能力がどのような仕組みで空間跳躍を起こすのかも分かっていない。
先に仕組みを決めてしまえば、都合のいいように現象を解釈してしまうかもしれない。
「……まずは、文字の役割を正しく理解することだな」
僕は新しいページを開いた。
そして、神字を一つずつ書き写しながら、意味と使用例を整理していった。
空間跳躍に使えるかどうかは、今は考えない。
それよりも、神字が何を補助し、何を補助できないのかを知る。
その積み重ねが、いつか能力を組み立てるときの土台になるはずだ。
◆
数日後。
僕はビスケと一緒に、心源流総本山を訪れていた。
目的は、ネテロ会長との修行だ。
最近は神字と空間跳躍の研究に時間を使うことが多かったが、身体能力や念の基礎を疎かにするつもりはない。
むしろ、今の段階で基礎を固めておくことが、将来の能力を支えることになる。
「おお、レオン。ずいぶん熱心に修行しておるようじゃな」
ネテロは僕を見るなり、楽しそうに笑った。
「はい。少しずつですが、できることが増えてきました」
「ほう。それは結構。では、今日はその成果を見せてもらおうかの」
そう言って、ネテロは構えを取った。
僕もすぐに構える。
最初は、純粋な体術。
そこから、纏と練を使った攻防へ移る。
ネテロの動きは速い。
十歳の僕では、まだ反応が追いつかない場面も多い。
それでも、以前よりは動きの先を読めるようになってきた。
相手の肩の動き。
重心の移動。
足の踏み込み。
細かな変化を見逃さないように意識する。
だが、ネテロは僕の予想を簡単に超えてくる。
「ほっほっほ。考えることは大切じゃが、考えすぎると身体が遅れるぞい」
「分かってます!」
僕は踏み込み、拳を繰り出した。
ネテロは軽く身をかわし、僕の額を指で弾いた。
「まだまだじゃな」
「……はい」
悔しい。
でも、楽しい。
この人と修行すると、自分がどれだけ未熟なのかを嫌というほど思い知らされる。
同時に、強くなるために何が必要なのかも見えてくる。
しばらく攻防を続けたあと、僕たちは休憩に入った。
ネテロは湯飲みを手に、僕の顔を覗き込んだ。
「ところで、ビスケットから聞いたぞい。最近は、妙な研究をしておるそうじゃな」
「妙な研究?」
「離れた場所にあるものを感じ取ったり、オーラを飛ばしたり。何やら、面白いことを考えておるようじゃないか」
僕は少し驚いた。
ビスケが話したのだろう。
「はい。まだ、何も完成していませんけど」
「完成を急ぐ必要はない。じゃが、自分が何を知りたいのかを忘れんことじゃ」
ネテロは湯飲みを置いた。
「力を求める者は多い。しかし、力を得るために何をすべきか、自分で考え続けられる者は案外少ないものじゃ」
その言葉は、妙に胸に残った。
「会長は、どうやって強くなったんですか?」
「ほっほっほ。さてのう。毎日、少しずつじゃよ」
絶対にそれだけじゃないだろう。
そう思ったが、口には出さなかった。
ネテロは笑いながら続けた。
「昨日より少し強くなる。昨日より少し速くなる。昨日より少し深く考える。その繰り返しじゃ。気づいたときには、ずいぶん遠くまで来ておるものよ」
僕は静かに頷いた。
空間跳躍も同じなのかもしれない。
一度起きた現象にすがるのではなく、そこへ至るための技術を磨き続ける。
感知を鍛える。
放出を鍛える。
神字を学ぶ。
そして、得られた結果を記録し、考える。
遠回りに見えても、それが結局は一番確かな道なのだろう。
「ありがとうございます、会長」
「なに、礼には及ばんよ。さて、休憩は終わりじゃ。もう少し付き合ってもらおうかの」
「……はい!」
僕は立ち上がった。
どうやら、今日の修行はまだ終わりそうにない。
◆
帰り道。
僕はビスケの隣を歩きながら、今日のことを考えていた。
「お母さん。僕、少しだけ分かってきた気がする」
「何が?」
「空間跳躍を再現することばかり考えていたけど、その前に、もっと細かいことを理解しなきゃいけないんだと思う」
「例えば?」
「自分のオーラを感知すること。離れた場所にあるオーラを見つけること。その方向へオーラを放出すること。それから、神字が何を補助できるのかを知ること」
僕は一つずつ指を折った。
「それぞれは別の技術だけど、いつか組み合わせられるかもしれない。今は、その一つ一つを確実にできるようにしたい」
ビスケはしばらく僕を見つめていた。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「成長したわね、レオン」
「え?」
「少し前のあなたなら、すぐに空間跳躍を再現しようとしていたでしょう?」
「……否定できない」
「ふふっ。いいのよ。焦る気持ちは、目標がある証拠でもあるから。でも、その気持ちに振り回されなくなったのは、大きな成長よ」
僕は照れくさくなり、顔をそらした。
「まだ十歳なのに、そんなに褒めなくても……」
「十歳だから褒めるのよ。あなたはまだ、これからいくらでも伸びるんだから」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
僕には、まだ知らないことがたくさんある。
念についても、神字についても、空間跳躍についても。
いつか目指す力にたどり着けるかどうか、今はまだ分からない。
それでも、僕には教えてくれる人がいる。
修行に付き合ってくれる人がいる。
失敗しても、焦らずに進める場所がある。
それは、当たり前のことではない。
「お母さん」
「なあに?」
「これからも、よろしくね」
ビスケは一瞬だけ目を丸くした。
そして、僕の手を握った。
「もちろんよ。私はあなたのお母さんなんだから」
その手は、温かかった。
僕は握り返しながら、前を向いた。
空間跳躍への道は、まだ遠い。
けれど、ようやく分かり始めたことがある。
あの一度きりの現象を再現するために必要なのは、奇跡をもう一度起こすことではない。
自分の念を理解し、再現できる技術へと変えていくこと。
その先に、神字との接点がある。
そして、その先にこそ、僕が本当に欲しい力が待っているのだと思う。