十歳になって、半年以上が過ぎた。
纏や練といった念の基礎は、少しずつ身体に馴染んできた。放出系の修行も順調で、自分のオーラを身体から離した状態で維持することにも、以前ほど苦労しなくなっている。
けれど。
「……やっぱり、駄目か」
僕は床に座り込み、十メートルほど先に置かれた木片を見つめた。
空間跳躍。
あの日、僕の身体は確かに一瞬で移動した。
目の前の景色が歪み、次の瞬間には木片が置かれていた場所に座り込んでいた。
あれから何度も考えた。
何が起きたのか。
何がきっかけだったのか。
そして、どうすれば再び起こせるのか。
しかし、答えはまだ見つかっていなかった。
「レオン、今日はここまでにしましょう」
ビスケの声が聞こえた。
「もう少しだけ試したい」
「駄目よ。集中力が落ちているわ。今の状態で続けても、正確な実験にはならないでしょう?」
「……分かった」
僕は立ち上がり、木片を回収した。
悔しくないと言えば嘘になる。
最初の一回が起きたとき、僕は無意識に期待してしまった。
もしかしたら、自分には空間を移動する才能があるのかもしれない。
少し練習すれば、再現できるようになるのかもしれない。
けれど、現実は甘くなかった。
感知はできる。
放出もできる。
神字の知識も、少しずつ増えている。
それなのに、空間跳躍だけは再現できない。
まるで、最後の一歩だけが見つからないようだった。
◆
「レオン。ひとつ聞いてもいいかしら?」
休憩中、ビスケが僕の隣に腰を下ろした。
「何?」
「あなたは、最初に空間跳躍が起きたとき、何をしようとしていたの?」
僕は少し考えた。
「木片に残したオーラを感じ取ろうとしていた。たしか、木片の位置に意識を集中して……」
「その前は?」
「その前?」
「その日、何をしていたのか。実験を始める前から、順番に思い出してみて」
僕は目を閉じた。
あの日は、いつもどおりの修行だった。
木片にオーラを込めた。
少し離れた場所へ置いた。
そのオーラを感じ取ろうとした。
そして、意識を集中しながら右手を伸ばした。
そのとき、糸のような感覚が生まれた。
さらに集中した瞬間、世界が歪み――。
「……そうだ」
「何か思い出した?」
「空間跳躍が起きる直前、僕は木片に意識を集中していただけじゃなかった。木片に向けて、右手を伸ばしていたんだ」
ビスケは頷いた。
「それで?」
「でも、右手を伸ばしただけで跳べるわけじゃない。今までも何度も同じことをしたけど、何も起きなかった」
「そうね。だから、右手を伸ばすことが原因だとは言えないわ」
僕は考え込んだ。
右手を伸ばす。
木片に意識を向ける。
木片に残ったオーラを感知する。
その三つが重なったときに、何かが起きたのだろうか。
しかし、それだけなら、これまでの実験でも再現できていいはずだ。
「……あと、何かが違ったんだと思う」
「ええ。私もそう考えているわ」
ビスケは、僕の頭を軽く撫でた。
「でも、思い出せないことを無理に思い出そうとしても仕方がないわ。記憶だけに頼らず、今できることから調べましょう」
「うん」
僕は記録帳を取り出した。
これまでの実験記録を読み返す。
木片の位置。
オーラの量。
距離。
集中の仕方。
神字の有無。
どれも重要な条件に見える。
けれど、空間跳躍が起きたときと、起きなかったときの違いを特定するには、まだ記録が足りなかった。
僕は新しいページに書き込んだ。
――過去の現象を再現するためには、発生時の条件を整理する必要がある。ただし、記憶だけでは条件の特定は難しい。
そして、もう一つ。
――再現できないこと自体も、実験結果である。
書いてから、僕は小さく息を吐いた。
そうだ。
何も起きなかったからといって、何も分からなかったわけではない。
少なくとも、今の方法だけでは空間跳躍を再現できない。
それは、確かな事実だった。
◆
翌日。
僕は、これまでとは少し違う方法で実験をすることにした。
「お母さん。今日は、木片にオーラを込めるところから、全部記録していきたい」
「最初から?」
「うん。オーラを込める量や、込め方も関係しているかもしれないから」
「いいわ。ただし、一度に変える条件は一つだけよ」
僕は頷いた。
まずは、木片に少量のオーラを込める。
次に、十メートル先へ置く。
その後、凝で感知する。
そして、自分のオーラを放出しながら、木片に意識を向ける。
最後に、右手を伸ばす。
これまでの実験と同じ手順だ。
違うのは、ひとつひとつの動作を区切り、そのたびに感覚を確認することだった。
木片にオーラを込めたとき。
特に変化はない。
木片を置いたとき。
位置を把握できた。
オーラを感知したとき。
いつもどおりの気配がある。
自分のオーラを放出したとき。
少しだけ集中力を使うが、問題なく維持できる。
そして、右手を伸ばした。
――何も起きない。
「……駄目か」
「まだよ。記録を取って」
僕は結果を書き込んだ。
同じ手順を、もう一度。
さらに、もう一度。
五回試したが、空間跳躍は起きなかった。
ただ、三回目にひとつだけ、気になることがあった。
右手を伸ばした瞬間、木片に残ったオーラの感覚が、一瞬だけ強くなったように感じたのだ。
僕はそのことも記録した。
けれど、四回目と五回目では、同じ変化は起きなかった。
「お母さん。今のは、何だったんだろう?」
「今の記録だけでは分からないわね。感知の精度が変わったのかもしれないし、あなたの集中の仕方が変わったのかもしれない」
「そっか……」
「でも、気になったことを記録したのは正解よ。何度か同じことが起きるようなら、改めて調べましょう」
僕は頷いた。
以前なら、今の感覚を空間跳躍につながる重要な手がかりだと考え、何度も繰り返していただろう。
けれど、今は違う。
たった一度の変化で、結論を出すわけにはいかない。
焦らず、記録する。
それが今の僕にできることだった。
◆
その日の夜。
僕は神字の資料を読みながら、昼間の実験を振り返っていた。
空間跳躍が起きたとき、僕は木片に残ったオーラを意識していた。
そして、自分のオーラを放出していた。
さらに、右手を伸ばしていた。
この三つが重なったとき、何かが起きた。
ただし、何が起きたのかは分からない。
神字が関係していた可能性もあるが、あの日の実験では神字を使っていなかった。
少なくとも、神字そのものが直接のきっかけだったとは考えにくい。
それなら、神字は何に使えるのだろう。
僕は資料のページをめくった。
神字は、念の働きを補助するために使われる。
ならば、空間跳躍を起こすための条件が分かったあとで、その条件を安定させるために使える可能性はある。
あるいは、跳躍先を指定する仕組みを作るために役立つかもしれない。
けれど、どちらも今は仮説にすぎない。
まずは、僕自身の念で何が起きているのかを知る必要がある。
「……順番、か」
僕は小さく呟いた。
空間跳躍を再現したい。
そのために神字を学んでいる。
しかし、神字を学ぶことと、空間跳躍の仕組みを理解することは、同じではない。
必要な知識を集めるだけでなく、それをどう組み合わせればいいのか考えなければならない。
そして、考えたことが正しいかどうかを、実験で確かめる。
結局、やるべきことは変わらないのだ。
僕は資料を閉じ、記録帳を開いた。
今日の実験結果を、もう一度読み返す。
再現できなかった。
だが、右手を伸ばしたときに、木片のオーラを強く感じた瞬間があった。
それが何を意味するのかは分からない。
ただ、今後の実験で確認する価値はある。
僕は、その一文に小さな印をつけた。
――再現性を確認する。
それだけで、少しだけ気持ちが落ち着いた。
◆
数日後、僕はビスケに新しい提案をした。
「お母さん。次は、木片に残したオーラを感知しながら、僕自身のオーラを少しずつ近づけてみたい」
「近づける?」
「うん。今までは、離れた場所に向けてオーラを放出していた。でも、放出したオーラを少しずつ伸ばして、木片に残ったオーラとの距離を縮めたら、何か変化があるかもしれない」
ビスケは慎重な表情になった。
「理屈は分かるわ。ただし、オーラを無理に伸ばしすぎないこと。維持できる範囲を超えたら、すぐに中止よ」
「分かった」
僕は木片にオーラを込め、五メートル先へ置いた。
そして、右手から少量のオーラを放出する。
オーラの先端を、ゆっくりと前へ伸ばす。
木片に残ったオーラを感知しながら、距離を少しずつ縮めるように意識する。
一メートル。
さらに少し。
オーラの形を崩さないよう、慎重に制御する。
そのときだった。
指先から伸びるオーラの先端が、木片の方向へわずかに傾いた。
昨日までの感覚と似ている。
しかし、今度はオーラを伸ばしている最中に起きた。
僕は動きを止めた。
オーラは、かろうじて維持できている。
木片の気配も感じ取れている。
そして、ほんの一瞬だけ。
自分のオーラと、木片に残ったオーラの位置関係が、普段よりもはっきりと分かった気がした。
「……今の!」
「レオン、落ち着いて。まずはオーラを維持したまま、ゆっくり戻しなさい」
「うん……!」
僕は慎重にオーラを引き戻した。
無理に何かを起こそうとはしなかった。
実験を終え、記録帳に結果を書き込む。
今回も、空間跳躍は起きなかった。
けれど、これまでとは違う条件で、オーラの先端に変化が現れた。
しかも、今回は自分のオーラを伸ばしている最中だった。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
ただ、少なくとも、僕の意識だけでなく、実際のオーラの操作も関係している可能性が出てきた。
「お母さん。僕、もう少しで何か分かりそうな気がする」
「そうね」
ビスケは微笑んだ。
「でも、もう少しで分かりそうなときこそ、焦らないこと。今の感覚を、明日も再現できるか確かめましょう」
「……うん」
僕は木片を見つめた。
まだ、空間跳躍には届かない。
けれど、ただ闇雲に試していた頃とは違う。
今は、何を調べるべきなのかが少しずつ分かってきた。
自分のオーラを伸ばすこと。
離れた場所に残ったオーラを感知すること。
そして、その二つの関係を意識すること。
この三つが、空間跳躍の仕組みを理解するための鍵になるのかもしれない。
僕は記録帳を閉じた。
焦らない。
諦めない。
偶然を、技術へ。
技術を、自分だけの能力へ。
その道の先にあるものを、僕はまだ知らない。
それでも、確かな一歩を積み重ねていこう。
そう思いながら、僕は明日の修行に備えて、静かに目を閉じた。