右手をゆっくり伸ばす。
その先には、木片が一つ。
昨日までと何も変わらない、ありふれた木片だ。表面には、僕自身のオーラがわずかに残っている。何度も触れ、オーラを流し込んで、感覚を確かめてきたものだった。
僕は目を閉じた。
木片の位置を探る。そこに残されたオーラを感じ取る。自分の身体から放出したオーラを、細く、ゆっくりと前へ伸ばす。
――焦るな。
昨日、オーラの先端がほんのわずかに木片の方向へ傾いた。
あれは偶然だったのか。それとも、僕のオーラが木片に残ったオーラを何らかの形で捉えたのか。
確かめるには、条件を一つずつ変えるしかない。
「レオン。今日は何を試すつもり?」
隣に座るビスケが尋ねた。
「昨日、放出したオーラの先端が、木片のほうへ向いた気がしたんだ。だから今日は、オーラを伸ばす距離を短くして、もっとゆっくり動かしてみたい」
「距離を短く?」
「うん。今までは木片まで届かせようとしていたけど、まずは途中で何が起きているのか、確かめたいんだ」
ビスケは少しだけ目を細めた。
「いい考えね。届かせることばかりに集中していたら、途中の変化を見落とすかもしれないもの」
彼女は木片を僕の正面、三メートルほど先に置いた。
「ただし、無理にオーラを伸ばさないこと。違和感があったら、すぐに止める。いい?」
「分かった」
僕はうなずき、再び集中した。
まずは自分の身体を覆うオーラを確認する。次に、右手から少量だけ放出した。
細い帯のように伸びていくオーラ。
一メートル。
二メートル。
そこで止める。
木片までは、まだ一メートルほどの距離があった。
僕は放出したオーラを保ったまま、木片に残る自分のオーラを探った。
最初は何も起きない。
ただ、自分から伸びたオーラと、木片に残ったオーラが、それぞれ別のものとして感じられるだけだった。
僕は呼吸を整え、放出したオーラをほんの少しだけ前へ進めた。
その瞬間。
「……っ」
感覚が変わった。
伸ばしていたオーラの先端が、かすかに揺れた。
風に吹かれたわけではない。僕自身が意識して方向を変えたわけでもなかった。
まるで、そこにある何かを見つけたように。
次の瞬間には、元の感覚に戻っていた。
「今、何かあった?」
ビスケの問いに、僕はすぐには答えられなかった。
胸の奥が熱くなる。けれど、ここで「分かった」と言ってしまうのは違う。
「オーラの先が、一瞬だけ木片のほうを向いた。昨日と似てる。でも……昨日より、何が起きたのか分かりやすかった気がする」
「それで?」
「それだけ。木片に触れたわけじゃないし、つながったとも言い切れない」
「よく言えました」
ビスケは満足そうに笑った。
「じゃあ、今の条件を記録しましょう。何をしたときに、どんな変化が起きたのか。再現できるかどうかは、そのあとよ」
僕はノートを開いた。
放出したオーラの長さ。木片までの距離。集中の仕方。変化を感じた瞬間の動作。
思い出せる限りを書き込んでいく。
そして、同じ条件でもう一度試した。
一回目。何も起きない。
二回目。オーラの先端がわずかに揺れた気がしたが、確信は持てなかった。
三回目。変化なし。
四回目、五回目と続けても、最初のような感覚は戻ってこなかった。
僕は放出したオーラを消し、深く息を吐いた。
「やっぱり、再現できないか……」
「でも、前より一つ進んだわ」
「そうかな?」
「ええ。今までは、オーラを木片まで届かせることばかり考えていたでしょう? でも今日は、届かせる前の変化に気づいた。あなたが観察すべきものを、少しずつ絞れてきているのよ」
ビスケは木片を手に取った。
「ただし、今の段階では、あなたのオーラが木片に引き寄せられたとは言えないわ。あなたの意識がそちらへ向いていたから、そう感じただけかもしれない」
「うん。だから次は、木片の位置を変えたり、オーラを残していない木片を使ったりして、違いがあるか調べたい」
「その調子。仮説を立てるのは自由。でも、仮説を事実にするには、証拠が必要なの」
その言葉を聞きながら、僕はノートに一行を加えた。
――放出したオーラは、残留した自分のオーラを意識しているとき、先端の向きに変化が生じる場合がある。
まだ、たった一度の観察にすぎない。
それでも、以前の僕なら見過ごしていたかもしれない小さな違いだった。
第33話 同じオーラ、違う場所
翌日、ビスケは木片を三つ用意した。
一つ目は、僕のオーラを十分に残したもの。
二つ目は、ほとんどオーラを残していないもの。
三つ目は、まだ一度も触れていないものだった。
「今日は、この三つを使って比べてみるわ。どれがどれか分からないように並べるから、見た目に惑わされないこと」
「分かった」
「それから、木片の位置も毎回変える。あなたは目を閉じて、オーラの感覚だけで探すの」
ビスケは三つの木片を部屋の異なる場所へ置いた。
僕は目を閉じた。
まずは、残留したオーラを探す。
右手を軽く前へ出し、周囲に意識を向ける。自分のオーラを感じ取ることには、少しずつ慣れてきた。けれど、三つの木片を区別するのは簡単ではない。
一つ目の木片には、確かに自分のオーラが残っている。
二つ目と三つ目は、はっきりとは感じ取れない。
僕は一つ目の位置を選んだ。
「そこね」
ビスケが答えた。
「正解よ」
思わず口元が緩みそうになる。
だが、これは昨日までにもできていたことだ。今日確かめたいのは、その先だった。
僕は選んだ木片から少し離れた場所に立ち、右手からオーラを放出した。
昨日と同じように、少量ずつ伸ばしていく。
一メートル。
二メートル。
そこで止める。
木片の位置を意識する。
しかし、オーラの先端に変化はない。
今度は、二つ目の木片を探した。
残留オーラをほとんど感じ取れないため、正確な位置を特定するのに時間がかかった。ようやく場所を選び、同じようにオーラを伸ばしてみる。
何も起きなかった。
三つ目も同様だった。
「どうだった?」
「残留オーラがある木片は、位置を探すのが簡単だった。でも、オーラを伸ばしたときの変化は、どれも再現できなかったよ」
「なるほど。じゃあ、今度は条件を一つだけ変えてみましょう」
ビスケは一つ目の木片を僕の近くへ移動させた。
「今度は、木片を探すことに集中しないで。まずは、放出したオーラを一定の形で保つ。それができたら、木片の位置を意識してみて」
僕は言われたとおりにした。
これまでの僕は、残留オーラを探し、それを目印にして放出したオーラを伸ばそうとしていた。
けれど、二つの作業を同時に行うと、どちらかが曖昧になってしまう。
放出したオーラを保つ。
その状態で、木片の位置を意識する。
しばらく続けていると、奇妙なことに気づいた。
木片の位置が分かることと、伸ばしたオーラがそちらへ向かうことは、別の現象なのだ。
木片の場所は分かる。
そこに自分のオーラが残っていることも分かる。
それでも、放出したオーラは僕の意識どおりにしか動かない。少なくとも、今のところはそうだった。
「……そっか」
「何か分かった?」
「位置が分かるだけじゃ、オーラは勝手にそこへ向かってくれないんだ。僕が場所を感じ取ることと、オーラをそこへ導くことは、別々に練習しなきゃいけない」
ビスケはゆっくりとうなずいた。
「そのとおり。感覚が鋭くなることと、技術が身につくことは同じじゃないわ」
「じゃあ、まずは別々にできるようにする」
「ええ。ただし、最後には両方を同時に使えるようにする必要があるわね」
僕は自分の手を見つめた。
前世で読んだ物語の中には、空間を一瞬で移動する技があった。
僕が目指しているのも、それに似たものだ。
でも、あのとき何が起きたのか、まだ答えはない。
残留オーラを目印にすればいいのか。
神字を組み合わせれば、何かが変わるのか。
そもそも、僕のオーラに空間を移動する性質があるのか。
どれも、今は仮説ですらない。
だからこそ、焦るわけにはいかなかった。
「お母さん」
「なあに?」
「明日は、オーラを伸ばす練習と、残留オーラを探す練習を別々にやってみたい。それで、慣れてきたらもう一度合わせてみる」
ビスケは一瞬だけ目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「いいわよ。ちゃんと考えているじゃない」
その笑顔を見て、僕も笑った。
今すぐ瞬間移動ができるようになるわけではない。
それでも、分からないことを分からないままにしておくのではなく、一つずつ確かめる方法は見えてきた。
僕が求めているのは、偶然起きた奇跡じゃない。
自分の意思で使えて、必要なときに大切な人を守れる技術だ。
そのために必要なものが何なのか。
僕はまだ、その入り口に立ったばかりだった。