翌朝、僕は訓練場に入ると、昨日のノートをビスケに差し出した。
「お母さん。今日は、木片までオーラを届かせることだけに集中したい」
ビスケはノートを受け取り、昨日の記録に目を通した。
「昨日は、歩きながらオーラを伸ばしていたわね。今日は歩かないの?」
「うん。昨日は二つのオーラが触れたような感覚があったけど、歩いていたせいなのか、残留オーラを意識していたせいなのか、分からないから」
「なるほど。余計な条件を減らすわけね」
ビスケは満足そうに頷いた。
「いいわ。今日は立ったまま、ゆっくり試してみましょう」
訓練場の床に木片を置き、僕はその三メートルほど手前に座った。
木片には、昨日の実験で使ったものと同じように、僕自身のオーラが残されている。
まずは、その位置を探る。
目を閉じ、意識を集中する。
そこにある。
以前よりも、ずっと短い時間で位置を把握できた。
次に、右手からオーラを放出する。
少量のオーラを、細く伸ばしていく。
一メートル。
二メートル。
そこで止めた。
木片までは、あと一メートル。
僕は昨日の感覚を思い出そうとした。
けれど、あのときの感触を再現しようと意識しすぎると、今度は放出したオーラの形が乱れてしまう。
「……駄目だな」
「何が駄目なの?」
ビスケが尋ねた。
「昨日の感覚を再現しようとすると、そっちばかり気になって、オーラをうまく扱えなくなるんだ」
「だったら、昨日の感覚は忘れなさい」
「え?」
「あなたが今やるべきことは、昨日と同じ感覚を無理に起こすことじゃないでしょう? オーラを制御して、木片の位置まで届かせることよ」
僕は少し考え、頷いた。
そうだ。
昨日の現象を再現しようとするあまり、肝心の練習がおろそかになっていた。
僕は一度オーラを消し、最初からやり直した。
今度は、木片の位置を意識しながら、放出したオーラを少しずつ前へ伸ばす。
オーラの先端が揺れたら、無理に押し出さず、形を整える。
急がない。
ただ、少しずつ距離を詰めていく。
やがて、先端が木片の手前まで来た。
僕はそこで止めた。
まだ届いていない。
けれど、今までよりも安定している。
「いいわね。そこで維持してみて」
ビスケの声に従い、僕はその状態を保った。
数秒。
十秒。
少しずつ集中力が削られていく。
それでも、すぐに消えることはなかった。
「……できた」
「ええ。放出したオーラを、狙った位置の近くで維持できたわね」
僕はオーラを消し、息を吐いた。
たったそれだけのこと。
けれど、僕にとっては大きな進歩だった。
今までは、オーラを伸ばす途中で形が崩れたり、狙った方向から外れたりすることが多かった。
今日は、木片の近くまで、ほぼ狙いどおりに届かせられた。
ただし、まだ木片に触れたわけではない。
僕はもう一度、同じ練習を繰り返した。
今度は少しだけ距離を伸ばす。
その次は、オーラの量を減らす。
さらにその次は、木片の位置を少し変える。
何度か失敗したものの、午前中の終わりには、三メートルほど離れた木片の手前まで、安定してオーラを伸ばせるようになっていた。
「よし……!」
思わず拳を握る。
ビスケは微笑んだ。
「自分で分かるでしょう? 昨日より、ずっと制御できているわ」
「うん。でも、まだ届いてはいない」
「そうね。だから、午後は少し違うことをしましょう」
彼女は木片を一つ持ち上げた。
「今度は、私があなたのオーラを見ながら、木片の位置を少しずつ動かすわ。あなたは、オーラの先端を木片に向け続けてみて」
「木片を動かすの?」
「ええ。止まっている目標にオーラを伸ばすだけなら、いつかはできるようになるでしょう。でも、目標が動いたときにも対応できるかどうか。それも大切よ」
僕は頷いた。
移動技術を作るなら、目標の位置を正確に捉えることは欠かせない。
相手が動いているときにも使えるようにするなら、なおさらだ。
ビスケが木片をゆっくり横へ動かす。
僕は放出したオーラの先端を、そちらへ向けようとした。
だが、動かすたびにオーラの形が崩れる。
方向を修正しようとすると、余計な力が入ってしまう。
「焦らない。目で追うんじゃなくて、オーラの先端を少しずつ調整するの」
「分かった!」
何度もやり直す。
失敗するたびに、どこで制御が乱れたのかを確かめる。
そして、午後の訓練も終わりに近づいた頃。
ビスケが木片を右へ動かした瞬間、僕はほとんど無意識にオーラの方向を修正できた。
ほんの短い距離だった。
それでも、今までのように全体を作り直す必要はなかった。
放出したオーラの形を保ったまま、先端だけをわずかに動かせたのだ。
「今の!」
僕は思わず声を上げた。
「見てたわよ」
ビスケも嬉しそうだった。
「今の動かし方を覚えておきなさい。オーラ全体を動かすんじゃなくて、必要な部分だけを調整できたわね」
僕は何度か右手を握ったり開いたりした。
これは、昨日までの僕には難しかったことだ。
残留オーラに触れるところまでは、まだ届いていない。
空間跳躍も再現できていない。
けれど、放出したオーラを狙った場所へ導く技術は、確実に進歩していた。
◯小さな接触◯
その日の最後に、僕はもう一度だけ、木片にオーラを伸ばしてみることにした。
疲れているから、無理はしない。
ビスケにもそう約束した。
木片は、僕の正面から二メートルほど先に置かれている。
僕は残留オーラの位置を探り、右手から少量のオーラを放出した。
ゆっくりと伸ばす。
先端を整える。
木片の位置を意識する。
そして、先端をほんの少しだけ前へ進めた。
その瞬間。
こつん。
そんな音が聞こえたような気がした。
もちろん、実際に音が鳴ったわけではない。
僕の右手から伸びたオーラの先端が、木片に残されたオーラに触れたような感覚。
昨日と同じだった。
いや、昨日よりも、ほんの少しだけ明確だった。
僕は反射的に動きを止めた。
「お母さん……今、触れた気がする」
ビスケはすぐに木片を確認した。
「オーラの先端は、木片の表面までは届いていないわね」
「うん。物理的に触れたわけじゃない。でも、オーラの感覚が変わったんだ」
「どんなふうに?」
僕は慎重に言葉を選んだ。
「今までは、木片の位置を感じ取って、そこに向かってオーラを伸ばしていた。でも今は、先端が木片に残ったオーラに触れたような感じがした。場所を知っているだけじゃなくて……何かが接触したような」
ビスケはしばらく黙っていた。
やがて、彼女は静かに頷いた。
「分かったわ。ただし、これで本当に二つのオーラが接触したと決まったわけじゃない。明日、疲れていない状態で同じことが起きるか確かめましょう」
「うん!」
僕はノートを開き、今の感覚を書き留めた。
昨日は、歩きながら一度だけ感じたもの。
今日は、立ち止まった状態で、オーラを細かく制御した末に感じたもの。
条件は違う。
だから、同じ現象だったのかどうかは分からない。
それでも、僕の中では一つの考えが形になり始めていた。
残留オーラの位置を感知する。
放出したオーラを、その位置まで導く。
そして、両者が接触したときに何が起きるのかを確かめる。
今のところ、これが僕にできる最も具体的な道筋だった。
けれど、僕が本当に知りたいのは、その先だ。
一度だけ起きた空間跳躍。
あのとき、僕は何をしたのか。
どうして木片のあった場所へ移動できたのか。
まだ答えはない。
ただ、今日の感覚がその謎につながっているのなら――。
僕は必ず、もう一度そこへたどり着いてみせる。
今度は偶然ではなく、自分の意思で。
そして、いつか。
どれほど離れていても、大切な人のもとへ一瞬で駆けつけられるように。
僕はノートを閉じた。
明日、もう一度確かめよう。
今度こそ、何が起きているのかを一歩ずつ明らかにするために。