二度目の空間跳躍から、一日が経った。
僕は朝食を終えると、いつもの訓練場ではなく、家の書斎へ向かった。
机の上には、念の基礎を書き留めたノートと、神字について学んできた資料が並んでいる。
昨日の出来事を何度も思い返した。
残留オーラを感知する。
放出したオーラを伸ばす。
先端が残留オーラに触れたような感覚を得る。
そして、世界が歪み、瞬間的に移動する。
二度目の空間跳躍では、そこまでの流れを以前よりも明確に把握できた。
しかし、まだ分からないことがある。
なぜ、木片に残ったオーラを目指す必要があるのか。
なぜ、オーラが重なった瞬間に移動が起きるのか。
そして、どうすれば同じことを確実に起こせるのか。
「……一度、整理しよう」
僕はノートを開き、これまでの実験を振り返った。
残留オーラを感知することは、以前よりも安定してきた。
放出したオーラを目標へ導く技術も、少しずつ上達している。
その二つを組み合わせたとき、二度目の空間跳躍が起きた。
つまり、今の僕に必要なのは、二つの働きを安定して組み合わせることだ。
ただし、それだけで十分なのかは分からない。
僕はそこで、神字についての資料に目を向けた。
これまで学んできた神字は、念の働きを補助するためのものだ。
形と意味を理解し、適切に組み合わせることで、単純なオーラ操作だけでは難しい仕組みを補助できる可能性がある。
ならば――。
「神字を使って、残留オーラを目印として扱う仕組みを作れないかな」
口に出した瞬間、考えが少しだけ具体的になった。
これまでの僕は、木片に残ったオーラを自分の感覚で探し、それを目標にしていた。
けれど、目標の位置を感知することと、そこへ確実に移動することは別の問題だ。
もし、神字を使ってオーラの残った場所に何らかの特徴を持たせられたら。
そこを感知しやすくしたり、放出したオーラを導く際の補助にしたりできるかもしれない。
もちろん、神字を書けば自動的に移動できる、などという都合のいい話ではない。
そもそも、神字によって何を補助できるのか、実験もしていないのだ。
僕はノートに、仮説を書き込んだ。
神字によって、残留オーラを目標として扱うための補助ができるか調べる。
今度の研究では、空間跳躍そのものを無理に起こそうとするのではなく、その前段階を安定させることを目指す。
そう決めて、僕は資料を閉じた。
まずは、お母さんに相談しよう。
◯仕組みを与える◯
「神字を使って、残留オーラを目印として扱えるようにしたい?」
訓練場で僕の話を聞いたビスケは、少し考えるように顎へ手を添えた。
「そう。今までは、木片に残ったオーラを感知して、そこへ放出したオーラを伸ばしていたでしょう? でも、感覚だけに頼っているから、なかなか安定しないんだ」
「だから、神字を使いたいのね」
「うん。残留オーラそのものを強くするのか、それとも、そこへ向かうオーラの制御を助けるのか……まだ分からないけど」
ビスケは頷いた。
「考え方としては悪くないわ。ただ、最初から複雑な仕組みを作ろうとしないこと。神字を使う場合でも、何を補助させるのかをはっきりさせる必要があるわ」
「まずは、感知することを補助できるか試す?」
「そうね。でも、いきなり神字を刻んだ木片と刻んでいない木片を比べても、結果の解釈が難しくなるわ。神字を書いたことでオーラの状態が変わったのか、あなたの意識が変わったのか、区別できないもの」
僕は頷いた。
「じゃあ、同じ形の木片を用意して、片方だけに神字を書いてみる。残すオーラの量や時間も、できるだけ揃える」
「ええ。最初はそれでいいわ」
ビスケは書斎から神字の練習用具を持ってきてくれた。
僕は木片を二つ用意し、一つには何も書かず、もう一つには、これまで学んだ基礎の中から、意味と形を正しく理解している神字を一つだけ書いた。
まだ、特別な移動の仕組みを表すものではない。
念の働きを補助する可能性を調べるための、最初の実験だ。
「書き終わったわね。じゃあ、同じ量のオーラを残してみましょう」
僕は二つの木片に、できるだけ同じ量のオーラを流し込んだ。
それから、少し離れた場所に置いてもらう。
目を閉じ、残留オーラを感知する。
最初の木片。
位置は分かる。
次に、神字を書いた木片。
こちらも位置を感じ取れた。
……ただ、違いがあるかどうかは、はっきりしない。
神字を書いたほうが感知しやすい気もするが、意識しているせいかもしれない。
僕は何度か順番を変えて試した。
結果は一定しなかった。
「どう?」
ビスケが尋ねた。
「今のところ、はっきりした違いはないよ。神字を書いたほうが分かりやすいと感じたこともあるけど、毎回じゃない」
「それなら、今の段階では効果が確認できなかった、ということね」
「うん……」
少し残念だった。
だが、予想どおりでもある。
神字を一つ書いただけで、念の働きが劇的に変わるなら、苦労はしない。
大切なのは、ここからだ。
僕は神字を書いた木片を手に取り、表面をじっと見つめた。
神字そのものが移動を引き起こすわけではない。
ならば、神字に何を補助させればいいのだろう。
残留オーラを認識しやすくすること。
放出したオーラを目標へ導くこと。
あるいは、その二つの間に、一定の関係を持たせること。
僕は以前の実験を思い返した。
二度目の空間跳躍が起きたとき、放出したオーラの先端と、木片に残ったオーラの位置が重なったように感じた。
その瞬間、二つの感覚が一つになった。
もし、あの現象を安定させることができれば。
僕は木片を机に置いた。
「お母さん。神字を使うなら、木片に残ったオーラを強くするよりも、オーラが残っている場所と、そこへ向かう僕のオーラを結びつけるための補助を考えたほうがいいのかもしれない」
ビスケは目を細めた。
「どうしてそう思うの?」
「二度目に跳んだとき、ただ木片の位置が分かっただけじゃなかったんだ。放出したオーラの先端が残留オーラに触れたように感じた瞬間、感覚が変わった。だから、問題は位置を知ることだけじゃない気がする」
彼女はしばらく考えたあと、静かに答えた。
「その考えは、これから検証する価値があるわね。でも、神字にその働きをさせられるかどうかは別の話。まずは、あなたが何を実現したいのかを、もっと細かく分けてみましょう」
僕は頷いた。
神字の形を考える前に、仕組みを考える。
どんな現象を起こしたいのか。
何を目印にするのか。
何ができれば、次の段階へ進めるのか。
今まで、空間跳躍という大きな目標ばかり見ていた。
けれど、完成までの道筋を分ければ、今やるべきことも見えてくる。
◯最初の目印◯
その日の午後、僕は新しい実験を始めた。
神字を使う目的を、いったん移動から切り離すことにしたのだ。
目標は、神字を書いた場所に残された自分のオーラを、以前よりも安定して識別できるようにすること。
もしそれができれば、次に放出したオーラを導く実験へ進める。
僕は木片に神字を書き、その上から少量のオーラを流した。
その木片をビスケに預け、訓練場の別の場所へ置いてもらう。
僕は目を閉じた。
まず、残留オーラを探す。
一つ目の木片は、すぐに見つかった。
次に、神字を書いた木片を探す。
……見つからない。
いや、正確には、残留オーラの位置は分かるものの、ほかの木片との違いを感じ取れない。
僕は集中を深めた。
神字があることを意識しすぎないようにする。
そこに残っているのは、僕自身のオーラだ。
その位置を探る。
少しずつ、感覚が明確になった。
「……あった」
僕は神字を書いた木片の位置を指し示した。
ビスケが答え合わせをする。
正解だった。
しかし、これだけでは神字の効果とは言えない。
僕は再び目を閉じ、同じことを何度も繰り返した。
何度か成功したものの、神字を書いていない木片も同じように見つけられる。
結局、感知能力そのものが上達しただけなのか、神字が影響したのか、区別できなかった。
僕は悔しさをこらえながら、ノートに記録した。
「……まだ駄目か」
「駄目じゃないわよ。少なくとも、今のやり方では神字の効果を確認できないことが分かったわ」
ビスケは僕のノートを覗き込んだ。
「神字を書いたからといって、あなたが意図した働きが勝手に生まれるわけではないの。どんな念を流すのか、どんな意味を持たせるのか。それを考えないとね」
「意味を持たせる……」
「ええ。文字の形を知っているだけでは足りないのよ。あなた自身が、その神字を使って何をさせたいのかを理解する必要があるわ」
僕は神字の書かれた木片を見た。
今の僕は、神字をただ書いただけだった。
残留オーラを識別しやすくするための仕組みを、きちんと設計したわけではない。
それでは効果がはっきりしなくても当然だ。
「もう少し、神字の理論を勉強する必要がありそうだね」
「そうね。それに、念の制御も続けること。神字だけで何とかしようとしないのよ」
「分かった」
僕は木片を机に置き、ノートを開いた。
今日の実験では、神字による明確な効果は確認できなかった。
けれど、研究の方向性は少しだけ具体的になった。
僕が必要としているのは、ただオーラを残すことではない。
そこに残したオーラを、僕自身が確実に認識し、放出したオーラを正確に導くための仕組みだ。
神字は、そのための補助になり得るかもしれない。
そして、もしその仕組みを作れたなら。
木片に限らず、別の場所にも同じような目印を用意できるようになるかもしれない。
僕はまだ、その先を考えすぎないようにした。
今はまず、最初の目印を形にすること。
それができれば、空間跳躍への道は、もう一段階先へ進むはずだ。
◯ビスケの視点◯
夜、レオンが寝室へ戻ったあと。
ビスケは、訓練場に残された木片を片づけていた。
神字が書かれたものと、何も書かれていないもの。
見た目以外には、大きな違いはない。
だが、彼女にとって重要なのは、そこではなかった。
レオンは、二度目の空間跳躍を経験してから、明らかに変わった。
以前は、偶然起きた現象をどうにか再現しようと、手探りで進んでいた。
今は、その現象を細かく分解し、一つずつ理解しようとしている。
十歳の子どもがすることとしては、驚くほど慎重だった。
そして、神字に目を向け始めた。
それは、彼が自分の念能力を形にするための、新しい段階なのだろう。
「……あの子、本当にどこまで行くつもりなのかしらね」
ビスケは小さく笑った。
もちろん、無理はさせない。
危険があれば止めるし、必要なら何度でも基礎に戻す。
それでも、レオンが自分で考え、自分で答えを探そうとする姿を見るのは、嬉しかった。
彼女は神字の書かれた木片を棚に置き、訓練場の明かりを消した。
レオンの目指す技が、どんな形になるのか。
まだ分からない。
けれど、少なくとも今日、彼は新しい課題を見つけた。
そして、その課題を自分の力で解こうとしている。
ビスケは、その歩みを見守っていこうと決めていた。