十一歳の秋。
僕は、何度目になるか分からない実験に取り組んでいた。
目の前には、神字の印を刻んだ木片が一つ。
距離は三メートル。
僕は木片に残したオーラを感知し、右手から放出したオーラを伸ばす。
目標を捉える。
オーラを導く。
先端が触れる。
そこまでは、もう何度も成功していた。
しかし――。
「……駄目か」
僕は、ゆっくりと右手を下ろした。
身体は動かない。
世界も歪まない。
空間跳躍は、起きなかった。
「レオン、今日はここまでにする?」
訓練場の隅で見守っていたお母さんが尋ねる。
「もう少しだけ、考えたい」
「いいわ。でも、考えるのと、同じことを繰り返すのは違うわよ」
「分かってる」
そう答えたものの、僕は自分でも分かっていた。
今の僕は、同じ実験を繰り返している。
目印を見つけることはできる。
オーラをそこへ導くこともできる。
けれど、そこから先へ進めない。
必要なものが足りない。
それは分かっている。
ただ、何が足りないのかが分からなかった。
◇
僕は床に座り、ノートを開いた。
今までの記録を、一番最初から読み返す。
最初に空間跳躍が起きたとき。
木片に残したオーラを感知していた。
そこへ意識を集中し、右手を伸ばした。
その瞬間、世界が歪んだ。
二度目も似ていた。
ただし、二度目は放出したオーラの先端が、目標に触れたという明確な感覚があった。
それから右手を少し前へ動かし、空間跳躍が起きた。
僕は、その違いを何度も考えてきた。
目標に触れることが重要なのか。
右手を動かすことが重要なのか。
それとも、二つの行動が特定の順序で重なったことが重要なのか。
答えは出ていない。
「……そもそも、僕は何を動かそうとしているんだ?」
口に出した瞬間、手が止まった。
僕は、今まで何をしてきた?
目印を作った。
オーラを伸ばした。
目標に触れさせた。
そして、身体を動かそうとした。
けれど、考えてみればおかしい。
目標へオーラを届けることと、自分自身が目標の位置へ移動することの間には、大きな隔たりがある。
オーラが目標に触れたからといって、僕の身体までそこへ引っ張られるわけではない。
右手を動かせば移動できるのなら、なぜ普段は起きない?
ただの身体動作が、どうして空間を飛び越えるきっかけになる?
……いや。
僕は、そこで考えを止めた。
右手を動かしたから、移動したのだろうか?
もしかすると、僕は順番を逆に考えていたのかもしれない。
右手の動きが原因なのではなく、右手を動かす直前に、何かが成立していたのではないか。
目標の感知。
放出したオーラの接触。
そして、自分のオーラと目標に残したオーラを、同時に意識していたこと。
この三つが重なった瞬間、僕の中で何かが変わっていたとしたら?
「……つながり、か」
以前から、僕はその言葉を使っていた。
残されたオーラと、自分が放出したオーラ。
別々に存在しているはずの二つが、触れた瞬間に、ひと続きのものとして感じられる。
ただ目標を感知しているだけではない。
ただオーラを届けているだけでもない。
その二つが重なったとき、僕は初めて、目標との間にある距離を意識の中で捉えられた。
それが、空間跳躍に必要な条件の一つなのではないか。
もちろん、まだ仮説だ。
けれど、今までの記録と照らし合わせると、少なくとも検証する価値はある。
「お母さん」
「なあに?」
「少し、実験の方法を変えたい」
お母さんは僕のノートを覗き込み、しばらく黙って読んでいた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「いいわ。何を確かめるの?」
「今までは、オーラを目標に触れさせたあと、移動を起こそうとしていた。でも、次は移動しようとすることを考えないで、二つのオーラがつながった感覚を保つことだけに集中したい」
「それで?」
「その感覚が安定してから、身体を動かす。今までの実験と違うのは、動くことを先に考えないこと」
お母さんは、少し考えてから答えた。
「分かったわ。ただし、今日は一度だけ。何か異常があったら、すぐに中断すること」
「うん」
僕は立ち上がった。
ようやく、次に何を試すべきかが見えた気がした。
◇
木片を三メートル先に置く。
その表面には、僕が作った簡易型・避雷針の印が刻まれている。
僕は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
まずは、目標を見つける。
凝。
印に残したオーラの感触を探る。
見つかった。
次に、右手からオーラを放出する。
細く伸ばし、目標へ向けて導いていく。
焦らない。
先端が揺れるたびに、少しずつ方向を修正する。
やがて、放出したオーラが、木片に残されたオーラへ触れた。
――ここからだ。
僕は、移動しようと考えない。
ただ、二つのオーラが触れている感覚を保つ。
自分の手から伸びているオーラ。
目標に残されたオーラ。
その二つが、別々のものとして存在しながら、確かにつながっている。
その感覚を、見失わないようにする。
数秒。
ほんの数秒のことだった。
けれど、僕にとっては、今までのどの実験よりも長く感じられた。
いつもなら、目標に触れた瞬間に気持ちが先走る。
移動できるかもしれない。
今度こそ成功するかもしれない。
そう考えた途端、集中が乱れていた。
今回は違う。
僕は、つながっているという感覚だけを見つめていた。
そして――。
ふと、気づいた。
目標までの距離が、今までとは違う意味を持って感じられる。
三メートル先に木片がある。
その事実は変わらない。
けれど、自分と木片が完全に切り離されているような感覚が、ほんの一瞬だけ薄れた。
僕は目を見開いた。
今だ。
移動しようと力むのではなく、つながりを保ったまま、前へ踏み出す。
右足を動かす。
その瞬間。
――世界が、歪んだ。
「っ……!」
視界が揺れる。
足元の感覚が消えた。
身体が落ちるような、引き寄せられるような、言葉では説明しにくい感覚。
次の瞬間、僕の足が床を踏んだ。
目の前にあったのは、さっきまで三メートル先に置かれていた木片だった。
僕は、そこに立っていた。
「…………え?」
思わず、間の抜けた声が出た。
振り返る。
さっきまで僕が立っていた場所は、三メートルほど離れている。
木片も、元の位置から動いていない。
移動したのは、僕自身だ。
「レオン!」
お母さんが駆け寄ってきた。
「怪我はない? 気分は? どこか痛むところは?」
「だ、大丈夫。何ともないよ」
「本当に?」
「うん。ちょっと驚いたけど……」
僕は、自分の手を見た。
足を動かした感覚はある。
けれど、三メートルを歩いたわけではない。
間違いなく、空間を跳んだ。
しかも今回は、何が起きたのかを、以前よりもはっきりと理解していた。
僕は目標を感知した。
オーラを伸ばした。
二つのオーラが触れた感覚を保った。
その状態を崩さずに、一歩を踏み出した。
その瞬間、移動が起きた。
――これだ。
これが、今まで足りなかった最後の一片だったのかもしれない。
◇
「もう一度、やってみたい」
「駄目よ」
お母さんの返事は即座だった。
「でも、今の感覚を忘れないうちに……」
「だからこそ、今は記録するの。成功した直後に無理をして、何が起きたのか分からなくなったら意味がないでしょう?」
……正論だった。
僕は渋々頷いた。
床に座り、ノートを開く。
手が少し震えていた。
興奮しているからだ。
僕は深呼吸して、ゆっくりと書き始めた。
目標は、神字の印を刻んだ木片。
距離は約三メートル。
印に残されたオーラを感知。
放出したオーラを目標へ導く。
二つのオーラが触れたあと、移動を起こそうとせず、その接触感覚を維持。
目標との距離に対する感覚が変化。
その状態を保ちながら、一歩を踏み出した瞬間、空間跳躍が発生。
僕はそこでペンを止めた。
重要なのは、最後の部分だ。
今までは、つながりを感じたあと、移動を起こそうとしていた。
けれど今回は、移動を起こすことを先に考えなかった。
目標と自分のオーラがつながっている感覚を保つ。
そのうえで、身体を動かす。
それが、今までと違っていた。
「……そっか」
「何か分かったの?」
お母さんが隣から尋ねる。
「今までの僕は、目標を見つけて、そこへオーラを届けることばかり考えていたんだと思う。でも、本当に必要だったのは、その先だった」
「その先?」
「目標と自分が、オーラを通してつながっている状態を保つこと。その状態で、移動するための動作をする。僕は、そこをちゃんと理解できていなかったんだ」
お母さんは、すぐには答えなかった。
僕の記録を読み、それから僕の顔を見た。
「なるほどね。でも、まだ一度だけよ。今の説明が正しいかどうかは、これから確かめる必要があるわ」
「うん。分かってる」
成功した。
それは間違いない。
けれど、一度成功しただけで、仕組みを完全に理解したと思い込むわけにはいかない。
それでも。
僕は、今までにないほど確かな手応えを感じていた。
偶然の跳躍を追いかけていた頃とは違う。
今回は、自分が何をしているのかを意識しながら、移動を起こすことができた。
その違いは、きっと大きい。
◇
その夜。
僕は、机の上に置いた木片を眺めていた。
小さな神字の印。
僕が考え、何度も試行錯誤して、ようやく形にしたもの。
それは、目標を識別するための目印として作った。
そして今、その印を使って、僕は初めて意識的に空間跳躍を起こした。
もちろん、まだ完成とは言えない。
成功率は分からない。
どこまで離れられるのかも分からない。
移動のたびにどれほどのオーラを消費するのか、印がどのくらいの時間残るのか、ほかの条件で同じことができるのか。
確かめるべきことは山ほどある。
それでも、僕はノートの新しいページに、大きく書き記した。
簡易型・避雷針――第一段階、完成。
目印を作る。
目標を感知する。
オーラを伸ばす。
接触した感覚を保つ。
そして、その状態で身体を動かす。
この手順によって、僕は三メートルの空間跳躍を起こすことができた。
まだ不安定で、たった一度の成功にすぎない。
けれど、偶然ではなく、意識して起こした一度だ。
僕はペンを置き、窓の外を見た。
前世で憧れた、四代目火影の技。
遠く離れた場所に印を残し、その印を頼りに瞬時に移動する。
あの技と同じものが、本当に作れるかどうかは分からない。
けれど、少なくとも今、僕はその入り口に立っている。
「……やっと、ここまで来た」
自然と笑みがこぼれた。
明日からは、成功率を高めるための訓練が始まる。
距離を変える。
印の位置を変える。
移動の前後で、オーラの感覚がどう変わるかを記録する。
焦らず、少しずつ。
この力を、いつか本当に大切な人を守るために使えるように。
僕は、完成したばかりの小さな印を、そっと指でなぞった。
――僕の避雷針は、ここから始まる。