だから、明日を楽しみにしたことはなかった。
一 帝都の迷子
帝都東京には、晴れの日がない。空を覆うのは工場の煤煙、街路を這うのは蒸気機関の白い吐息。朝には黒い煤が積もり、夜には呪いが路地裏を歩く。人々はそれを嫌いながら、煤を払い、呪除けの札を戸口に貼り、今日も当たり前のように暮らしていた。そんな帝都の昼下がり。
久世紫乃は、生まれて初めて買い食いをした。
「……おいしい」
浅草の往来で、少女は紙袋から取り出した揚げ饅頭を見つめていた。
揚げ物屋の店先では、店主が穴あきの杓子で次の饅頭をすくい上げていた。甘い餡と油の匂いが石炭の煙に混じり、道行く者の袖を誘う。紙袋は持ち直すたびに温かく、紫乃は指先を落ち着ける場所を探した。久世家では菓子は皿に盛られ、給仕が運んでくる。こんなふうに往来に立ち、食べる手順さえ自分で考えることが、ひどく新鮮だった。
十七歳。腰まで届く艶やかな黒髪に、陶器めいた白い肌。切れ長の瞳は、見つめられた者が思わず背筋を正してしまうほど美しく、どこか恐ろしい。黒い洋装を纏うその姿は、まるで人の世に紛れ込んだ夜の精霊だった。
もっとも、当人は揚げ饅頭の中身が想像以上に熱かったせいで、先ほどから口を開けたり閉じたりしている。
「熱い……」
「そりゃ揚げたてだからな」
隣から声がした。振り向くと、見知らぬ少年が立っていた。十五、六歳ほどだろうか。身の丈は平均的だが、肩幅が狭く、手足も細い。学生用の詰襟を着て、腰には黒鞘の刀を差している。制服の襟元にある銀の歯車章は、帝都特務局の候補生を示すものだった。少年は彼女の手元を見て、遠慮なく笑った。
相手が自分に声をかけたのだと、紫乃は一拍遅れて理解した。付き添いの者がいれば、見知らぬ少年をそばへ寄せることすらなかっただろう。無礼と咎めるべきなのかもしれない。だが、その笑い声には、こちらの返事を恐れている気配が少しもなかった。
「そんなもん、慌てて食うからだろ」
「……別に、慌ててはいません」
「そうかい。なら、もう一口いってみな」
言われるままに口をつけかけて、紫乃は手を止めた。
「意地悪ですね」
「お、わかるじゃねえか」
少年は愉快そうに笑った。紫乃は紙袋を持ち直し、今度は丁寧に息を吹きかけた。一口。今度は熱くない。ほっとして顔を上げると、少年がまだこちらを見ていた。
「……何か?」
「いや。うまそうに食うなあと思って」
「あなたも、おひとついかがですか」
「いいのか?」
「もちろん」
紫乃は紙袋を差し出した。差し出してから、紫乃は少しおかしくなった。名乗りもしない相手と菓子を分け合うなど、家の誰に話しても信じないに違いない。それでも手を引っ込める気にはならなかった。少年が手を伸ばす。その指先が饅頭に触れる寸前、彼女はほんの少しだけ袋を引いた。
「ただし、熱いのでお気をつけくださいね」
薄く笑う。少年の眉が上がった。
「お前、仕返しのつもりか?」
「まさか。親切心です」
「いい性格してんな!」
少年は笑いながら饅頭を一つ取った。そして大きく頬張った。
「あっつ!」
紫乃は目を見開いた。それから、くすりと笑った。
「……そんなもの、慌てて食べるからでしょう?」
「ちくしょう、うめえなこれ!」
「……そちらですか」
二人で饅頭を食べ終わる頃には、紫乃はすっかり少年の無遠慮な物言いに慣れてしまっていた。
通りを抜ける荷馬車の鈴や、蒸気を逃がす車両の短い汽笛に、二人の声がたびたびかき消された。少年はそのたび聞き返し、紫乃も最初こそ困ったが、いつの間にか声を少し張るようになっていた。屋敷の静かな廊下では一度もしたことのない話し方だった。
不思議なことだった。
久世家の屋敷で彼女に向けられる笑みは、どれも丁寧だった。相手の機嫌を損ねぬように、言葉を選び、表情を整え、少しでも彼女の顔色が変われば即座に態度を改める。この少年には、それがない。そのうえ、まったく悪びれもしない。
「ところでお嬢さん。財布はあるのか?」
「あります」
「帰り道は?」
「……あります」
「嘘だな」
即答された。紫乃が眉を寄せると、少年は親指で後ろを指した。
「あんた、さっきから同じ通りを三回歩いてる。しかも二回目は反対方向だ」
「…………」
「迷子だろ」
「違います」
「そうか。じゃあ俺の勘違いだ」
あっさり引き下がった少年は、近くの露店から焼き栗を一袋買った。そして当然のように歩き出す。
「まあ、暇なら付き合えよ。俺もちょうど暇なんだ」
「……どちらへ?」
「知らん」
「はい?」
「行きたいところができたら、そこに行く。休みの日ってのはそういうもんだろ」
まるで、明日の天気でも話すような口調だった。紫乃は少し考えた。考えて、さらに考えた。その間に少年は十歩ほど先へ行き、振り返っている。
「おーい。来るのか、来ないのか」
少年の向こうに、雑踏が見えた。蒸気路面車の発車を知らせる鐘が鳴る。人力車が往来を横切り、商店の軒先では風鈴が煤けた風に揺れている。紫乃は、こうして一人で街を歩いたことがなかった。
人の流れには決まった歩幅がなく、立ち止まれば後ろから追い越され、道を譲れば別の誰かが割り込んでくる。紫乃はその速さにたじろいだが、前を行く少年はひょいひょいと人の隙間を抜けて、彼女が遅れるたびに振り返った。誰かに先導されるのではなく、誰かと歩調を合わせて歩く。それも初めてのことだった。
いや、今は一人ではないのだけれど。それが何だか、可笑しかった。
「……行きます」
「よしきた」
少年は待っていたらしく、歩調を緩めた。紫乃はその横に並ぶ。
「ですが、ひとつお願いが」
「なんだ?」
「迷子と呼ぶのは、おやめください」
「わかった、迷子のお嬢さん」
「……わざとですね?」
「おう!」
紫乃は少しだけ頬を膨らませた。少年は声を上げて笑った。何者かも知らない少年と、行き先も決めずに歩き始める。そんなことは、生まれて初めてだった。そして、おそらく、これが最後になる。紫乃は胸の奥に生まれた小さな痛みを、誰にも気づかれぬように飲み込んだ。
今夜、自分は久世家に戻らなければならない。戻れば、もう二度と、こんなふうに街を歩くことはできないのだから。
二 名前も知らない休日
少年は火野鉄之助と名乗った。十五歳。帝都特務局第三機動班の候補生で、現在は官立術師学校に籍を置いているという。
「で、あんたは?」
「……私ですか?」
「名前だよ。俺だけ名乗ってんのも変だろ」
「そうですね。……では、しばらく『お嬢さん』で」
「なんだ、内緒か?」
「ええ。せっかくですから、当ててみてください」
「当てられるかよ!」
紫乃はすました顔で歩き続けた。思いつきで言ったはずなのに、少年があまりに素直に悔しがるものだから、名乗る機会を逃してしまった。
「まだ候補生なんですか」
「まだ、とはなんだ。これから偉くなるんだよ」
「偉くなりたいのですか?」
「別に」
「では、どうして?」
「強い奴と戦えるだろ」
紫乃は返事に困った。
「……それだけですか」
「飯も食えるしな」
「もっと立派な志があるのかと」
「立派な志ならあるぞ。悪党はぶっ飛ばす。困ってる奴は助ける。腹が減ったら飯を食う」
「最後のは志なのでしょうか」
「俺にとっちゃ大事なことだ」
鉄之助は真顔だった。鉄之助は行き交う店の看板を眺めながら、思いついたことをそのまま口にしていた。鍛冶屋の前では鋼材の積み方に難癖をつけ、屋台の前では焼ける匂いを嗅いで腹を鳴らす。紫乃には、これほど忙しなく周囲を見ながら、何一つ窮屈そうにしない人間が不思議でならなかった。
紫乃はとうとう吹き出してしまった。すると鉄之助も笑った。何が面白いのか、自分でもわからないようだった。
「しかし、候補生にもお休みがあるのですね」
「そりゃあるだろ。今日は学校も休みだ」
「そうなのですか」
「朝から剣を振ってたんだが、師匠に追い出されちまった。休みの日くらい街を見てこいってな」
「立派な先生なのですね」
「そうかあ? 人が朝飯食ってる横で煙草吸うぞ」
「それは……困りますね」
「だろ?」
「ですが、お師匠様のおっしゃることにも一理あるように思います」
「お前も師匠の味方かよ!」
紫乃は楽しそうに目を細めた。
「では、私も調査対象なのでしょうか」
鉄之助は少し考えた。
「まあ、そうなるな」
「そうですか」
彼女は少年の顔を覗き込んだ。
「でしたら、良い報告を書いてくださいね。火野候補生」
鉄之助は一歩退いた。
「なんだよ、その呼び方」
「あら。お嫌いですか?」
「なんか、調子狂うな」
紫乃は楽しそうに目を細めた。相手がどう反応するか、よくわかる。わかってしまう。けれど、目の前の少年がどんな顔をするか確かめるのは、思いのほか楽しかった。
*
浅草の興行街には、射的屋が並んでいた。芝居小屋の幟が風にはためき、呼び込みの声に交じって、木玉の当たる乾いた音が響いてくる。遊びを終えた子どもが駆けていき、景品の包みを抱えた親子がすれ違った。紫乃は店先ごとに違う飾りを目で追い、何を見ればよいのかわからなくなるほどだった。
鉄之助は、そのうちの一軒で足を止めた。
「おっ。景品が増えてる」
「お好きなのですか?」
「得意だぞ」
「まあ」
紫乃は棚を眺めた。木彫りの動物、飴細工、外国製の小さな懐中時計。奥の一段高いところには、赤い洋装を着た西洋人形が飾られている。
人形の巻き髪には細い光沢があり、赤い袖の縁には小さな白い飾りが縫いつけられていた。紫乃はそちらへ目を戻してしまうたび、何でもないふうを装って隣の品へ視線を移した。欲しいものを自分から指差すというのは、彼女にとって、見た目ほど簡単なことではなかった。鉄之助は人形を見た。それから紫乃の顔を見た。
「欲しいのか?」
「……いえ。ただ、少し気になっただけです」
「よし。取ってやるよ」
「……えっ」
「任せとけって。こういうのは得意なんだ」
鉄之助は得意げに胸を叩いた。紫乃は慌てた。
「ですが、わざわざそんな……」
「いいからいいから!」
店主から空気銃を受け取り、鉄之助は銃口を構えた。鉄之助は足を開いて立ち、いかにも慣れているという顔で片目を細めた。だが、慣れた刀の重心とは勝手が違うのだろう、握りを直す指先が何度か迷っている。見守る紫乃は、その小さな不確かさにも気づいたが、指摘するのは何だか無粋に思えた。
引き金を引く。乾いた音がした。弾は人形の頭の脇を抜けた。
「……あれ?」
二発目。今度は足元。三発目は棚の縁に当たり、弾かれた。鉄之助は銃を睨んだ。
「おい親父。この銃、曲がってねえか」
「曲がっとらん! お前さんの腕だ!」
「おっかしいな。刀なら当てられるんだが」
「だったら最初から刀でやりゃええ!」
「いいのか?」
「よくねえよ!」
紫乃は横で口元を押さえていた。鉄之助が振り返る。
「おい。笑ってるだろ」
「いいえ、決して」
「肩が震えてるぞ」
「寒いので」
「嘘つけ!」
紫乃はついに声を漏らして笑った。笑いを堪えようとするほど、おかしかった。鉄之助は景品よりも自分の腕前を信じて疑わず、店主は店主で真剣に怒っている。見知らぬ二人の言い争いを、これほど気安く眺めてよいものなのか。そう考えた次の瞬間には、また肩が揺れてしまう。周囲の客が振り向いた。
先ほどから彼女をちらちらと見ていた若い男たちまで、何事かと目を丸くしている。紫乃は慌てて口元を隠した。いけない。こんな大きな声で笑うなんて、はしたない。そう思ったのに、鉄之助があまりにも不服そうなので、また笑ってしまった。
「……申し訳、ありません。ですが、あれほど自信満々に……」
「くそう。じゃあ、お前もやってみろよ」
「私ですか?」
「そうだよ。人の腕を笑うからには、さぞかし名手なんだろうなあ」
紫乃は空気銃を受け取った。渡された銃には、さっきまで鉄之助が握っていた場所にぬくもりが残っていた。木の台に銃床を預け、紫乃は店の奥行きを確かめた。見物人の視線がこちらへ集まる。いつもの彼女なら、失敗しないことばかり考えただろう。けれど今は、目の前の人形に当ててみたいと思った。
軽い。銃の形をした玩具なら、幼い頃に一度だけ触れたことがある。だが、撃ったことはない。紫乃は片目を閉じた。照準の向こうに、赤い人形が見える。その周囲に、薄い線が浮かんだ。空気の流れ。銃身のわずかな歪み。引き金を引いたとき、内部の弁が開くまでの遅れ。難しいことはわからない。
ただ、どこに向ければ何が起こるのか、おおよその筋道が見えてしまう。銃口を、ほんの少し右へ。引き金を引いた。乾いた音。人形の胸に弾が当たり、赤い洋装が揺れた。そして。人形は、棚から転がり落ちた。
「……おお?」
鉄之助が声を上げた。店主も目を丸くした。紫乃は銃を下ろし、少し首を傾げた。
「あら。落ちてしまいました」
「落ちてしまいました、じゃねえよ! すげえな、お前!」
「……そうでしょうか」
「初めて撃ったんだろ?」
「はい」
「才能あるぞ!」
鉄之助は本気で感心しているようだった。
紫乃は自分が上手くやったときの、周囲の反応を知っている。大げさな賛辞の陰で相手の顔色が曇ることも、次はできて当然という期待が生まれることも。だから喜ぶより先に、鉄之助の表情を確かめてしまった。そこには、射的を外した悔しさがまだ残っていたが、それ以上に、面白いものを見つけた子どものような興奮があった。
紫乃は彼の顔を見た。自分が勝ってしまったことを、面白くなく思ってはいないだろうか。つい、いつもの癖で探してしまう。けれど鉄之助は、嬉しそうに笑うばかりだった。
「なあ、もう一回やってみろよ」
「……よろしいのですか?」
「当たり前だろ。見てえもん」
紫乃は少し迷った。それから微笑んだ。
「では、もう一度だけ」
今度は奥の小さな鈴を狙った。見事に鳴った。鉄之助が歓声を上げる。紫乃は、ほんの少し得意になった。
「どうでしょう。火野候補生」
「参った! 射的じゃ敵わねえ!」
「まあ。素直にお認めになるのですね」
「負けたもんはしょうがねえだろ」
少年はあっけらかんと言った。久世家では、誰も本気で彼女に勝とうとしなかった。勝ったとしても、それが自分の実力なのか、相手の気遣いなのか、いつも考えてしまう。鉄之助は違った。負けるのを嫌がり、負ければ悔しがり、相手が上手ければ惜しみなく褒める。それが何だか、とても気持ちよかった。
「で、こいつはお前のもんだな」
鉄之助が西洋人形を差し出した。紫乃は受け取った。
「……ありがとうございます」
「俺、なんもしてねえけどな」
「いいえ」
人形を胸に抱く。
「とても嬉しいです」
その言葉に嘘はなかった。
*
射的屋を離れてしばらくすると、二人の背後から怒鳴り声がした。人出の多い表通りから坂道へ出ると、露店の切れ目に荷捌き場があった。車輪が石畳を打つ音は普段なら雑踏に紛れる程度だったが、そのときは明らかに速かった。悲鳴とともに人垣が割れ、二人の目の前に道が開けた。
「どけどけ! 荷車が通るぞ!」
振り向けば、石炭を積んだ荷車が坂道を下ってくる。どうやら車輪の制動機が壊れたらしい。その進路に、小さな男の子がいた。紫乃の目に、いくつもの筋道が浮かんだ。車輪が石畳の継ぎ目に乗る。荷車が跳ねる。積み荷が崩れる。男の子が、下敷きになる。
「……あっ」
紫乃は手を伸ばした。しかし、少年のほうが速かった。
「《留》!」
短い一声。荷車の車軸を中心に、青白い術印が閃いた。急激に減速した車輪が石畳を削り、荷車が傾ぐ。鉄之助はもう、男の子のところまで走っていた。その襟首を掴んで引き寄せ、反対の手で腰の刀を抜く。転がり落ちた木箱を、斜めに受けた。金具が刃に触れ、火花が散る。
「よっしゃ。無事だな!」
鉄之助は男の子を抱え起こした。母親らしい女性が駆け寄り、何度も頭を下げる。
「ありがとうございます! 本当に、何とお礼を……」
「怪我がなきゃいいんだよ。なあ、坊主?」
男の子は泣きながら頷いた。
「よし。偉いぞ」
鉄之助は子どもの頭をわしゃわしゃと撫でた。やがて母親に男の子を返し、何事もなかったように刀を収める。紫乃は、彼が刀を抜く瞬間をほとんど見ていない。術の発動も異様に速かったが、剣技にも無駄がない。
「すごい……」
「ん?」
「先ほどの術、随分とお速いのですね」
「おう。そいつだけは誰にも負けねえ自信がある」
「刀も、お上手でした」
「そりゃどうも」
鉄之助は、今度は少し得意そうに鼻を鳴らした。
「師匠には、まだまだって言われるけどな」
「ずいぶん厳しい先生なのですね」
「厳しいぞ。ちょっと遅刻しただけで廊下に立たせるし」
「……授業には遅れてはいけませんよ」
「そこは俺の味方しろよ!」
紫乃は笑った。
「……鉄之助さんは、怖くないのですか?」
「何が?」
「先ほどのようなことが」
「そりゃ怖えよ」
紫乃は顔を上げた。
「怖い、のですか?」
「当たり前だろ。荷車の下敷きになったら痛えじゃねえか」
「それでも、迷わず助けに行けるのですね」
鉄之助は不思議そうな顔をした。
「んー。まあ、行かずに後悔すんのは、もっと嫌だからな」
そう言って、彼はまた歩き出した。紫乃はその背中を見つめた。怖いものがないのだと思っていた。違ったらしい。この少年は、怖くても動くのだ。それがひどく不思議で、羨ましかった。
*
蒸気路面車は、帝都の大通りをゆっくり走っていた。
車内には仕事帰りの男も、買い物籠を膝に抱えた女もいた。窓の外では商店の看板が途切れるたび工場の高い壁が現れ、停留所ごとに乗客の靴が床を鳴らした。紫乃は揺れに合わせて座席の端を握っていたが、隣の鉄之助は平気な顔で栗の殻を紙袋に落としている。
鋼鉄の車体が敷設軌道を震わせ、屋根の排気筒から白い煙を吐く。紫乃は窓際の席に座り、流れていく街並みを眺めていた。鉄之助は隣の席で、先ほど買った焼き栗の残りを食べている。紫乃には、人々の顔の向こうにあるものが見えた。居眠りをしている老紳士が、次の揺れで帽子を落とす気配。
向かいの職工の男が、拾った財布をどうしようかと迷っていること。人の周囲に漂う薄い呪気と、そこに生まれる流れが、ほかの人には見えない筋道を作る。それを見れば、誰かが次に何をしそうなのか、ある程度わかる。彼女の《遠見》は、そういう力だった。もっとも、絶対ではない。
当人が思いがけない決断をすれば、見えていた筋道も変わる。紫乃はこれまで、何度もそれを見誤ってきた。
「おっ」
隣で鉄之助が声を上げた。窓の外で、幼い子どもが手を振っている。鉄之助はすぐに振り返した。大きく、大きく。子どもが嬉しそうに跳び上がった。
「……お知り合いですか?」
「いや、知らねえ」
「そうなのですか」
「手ぇ振ってたから、振り返しただけだ」
今度は紫乃にも手を振っている。彼女は少しためらった。久世の姫君が、子どもと一緒になって手を振るなんて。けれど鉄之助は、すでに別の子どもへ手を振っていた。紫乃はそっと右手を上げた。小さく振る。子どもの笑顔が、ぱっと明るくなった。
「そうそう。そっちのほうがいい」
「……何がですか?」
「楽しいだろ?」
紫乃は答えなかった。ただ、もう一度手を振った。今度は、少しだけ大きく。
*
隅田川に着いた頃には、日が傾き始めていた。川面には何隻もの蒸気船が浮かび、橋の向こうでは巨大な歯車を抱えた工場が、規則正しく煙を吐いている。鉄之助は橋のたもとの店で蜜柑水を二本買った。紫乃は瓶を受け取り、近くの手摺へ寄りかかった。
川風は昼間より涼しく、瓶についた水滴が指を濡らした。橋を渡る人々は夕暮れを急ぎ、川岸の荷揚げ場では職工が最後の荷を運んでいる。紫乃には見慣れない仕事ばかりだった。鉄之助がその一つに目を留めて何か話すたび、彼女の知らなかった帝都が少しずつ広がっていく。
「……綺麗ですね」
「どれが?」
「川も。船も。あの大きな煙突も」
「煙突なんて毎日見てるだろ」
「こんな近くで見たことはありませんから」
蜜柑水は甘酸っぱく、驚くほど冷たかった。
「……おいしい」
「お前、何食ってもうまそうだな」
「そんなことはありません」
「今もすげえ幸せそうな顔してたぞ」
「……見ないでください」
「なんでだよ」
「恥ずかしいからです」
鉄之助は笑った。紫乃は少しむくれた。
「それでは、鉄之助さん。私からも一つ、お尋ねしてよろしいですか」
「おう」
「先ほどの射的では、随分と悔しそうでしたね」
「うっ」
「剣の名手でも、銃は苦手なのですね」
「……お前、まだ言うか」
「また一緒に遊ぶことがあれば、次は私に勝てるよう練習しておいていただこうかと」
鉄之助が顔を上げた。
「お。次もあるのか?」
紫乃の手が止まった。しまった。口が滑った。
「なんだ。俺とまた遊びてえのか?」
「……そういうわけでは」
「じゃあ、どういうわけだ?」
「一般論です」
「そりゃまた便利な言葉だな!」
紫乃は顔を背けた。どうしてこの少年は、こういうことだけ妙に鋭いのだろう。相手の反応は、だいたい読める。けれど、こちらが考える暇もなく踏み込んでくる。予定していた会話の筋道が、あっさり崩れてしまう。紫乃はそれが面白かった。そして、少し怖かった。
このままでは、口にしてはいけないことまで言ってしまいそうだったから。川風が吹き、黒髪が肩から流れた。それを片手で押さえる。視線の先に、色鮮やかな看板があった。橋の向こうの活動写真館である。看板には、外国の街並みを背に、若い男女が寄り添う姿が描かれていた。
「……活動写真」
「好きなのか?」
「見たことがありません」
「えっ。そうなのか?」
「はい」
「じゃあ見てみるか?」
紫乃は看板の下に掲げられた時刻表を見た。次の上映は、午後六時。もう間に合わない。
「……いいえ」
「なんだ、気が変わったのか?」
「少し、気になっただけです」
「ふうん。じゃあ今度だな」
紫乃は彼を見た。
「……今度?」
「そうだよ。今度来たときに見りゃいい」
あまりにも簡単に言うので、胸が痛くなった。今度。そんなものは、ないかもしれない。
「……そうですね」
紫乃は微笑んだ。
「今度、ですね」
*
二人は川沿いの団子屋に入った。暖簾をくぐると、炭火の熱と甘辛い醤油の匂いが迎えた。壁際には食べ終えた皿が重ねられ、店主は次の団子を焼きながら声をかけてくる。客たちは注文をためらわず口にし、好きなものを食べて、さっさと席を立っていった。その気楽さが、紫乃には少しまぶしかった。
鉄之助が木の椅子に腰を下ろし、店主へ声をかける。
「おっちゃん! 団子二人前!」
「あいよ! 嬢ちゃんは何にする? 餡か、みたらしか、胡桃もあるよ」
紫乃は答えかけて、黙った。店主は忙しそうだった。鉄之助と同じものにすれば、余計な手間をかけずに済む。
「……あなたと同じもので結構です」
「俺はみたらし」
「でしたら、それで」
「でも、あんた、さっきから餡のほう見てるぞ」
紫乃は固まった。
「餡が食いてえなら餡にすりゃいいじゃねえか」
「……けれど、お店の方にご面倒を……」
鉄之助は店主を見た。
「おっちゃん! 餡、面倒か?」
「はあ?」
「餡団子、一人前!」
「面倒なわけあるかい! 団子屋だぞ!」
「だそうだ」
紫乃は黙っていた。それから、小さな声で言った。
「……餡が」
「ん?」
「餡のお団子を、食べてみたいです」
「よっしゃ。じゃあ餡だ!」
それだけだった。誰も困らなかった。誰も怒らなかった。紫乃は差し出された団子を口にした。
餡は見た目より柔らかく、団子は噛むとゆっくり歯に返ってきた。誰かの好みに合わせた味ではない。自分が食べてみたいと思い、自分の口で選んだものだった。ひどく小さな出来事なのに、それが嬉しくて、紫乃はもう一口を急がずに味わった。
「……おいしい」
「そりゃよかった」
「本当に、おいしいです」
「うん。よかったな」
甘い餡が舌の上で溶けた。胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「なあ。お前、笑ったほうがいいぞ」
紫乃は目を瞬かせた。
「……私、笑っていますけれど」
「そりゃそうなんだけどよ。最初は怖かったんだよな。綺麗な顔してるし、人の魂まで見透かしてきそうな目をしてるし」
紫乃の指が止まった。
「でも、饅頭食って涙目になるし、射的で笑い転げるし、団子ひとつでそんな嬉しそうな顔するし。案外、普通だな」
普通。何年ぶりに聞いただろう。紫乃は目を伏せた。久世家に生まれる女児の中でも、数代に一人しか発現しない《遠見》の眼。七歳でその力を示してから、彼女は多くのことを見てきた。危険を告げれば、屋敷は騒がしくなった。危険を告げなければ、どうして黙っていたのかと叱られた。
見えているはずのことを見誤れば、誰かが失望した。だから彼女は口を閉ざすことを覚えた。笑顔を作り、相手の望む返事を選び、誰にも迷惑をかけないように生きてきた。いつしか久世紫乃は、美しく、聡明で、何事にも動じぬ姫君と呼ばれるようになった。
「……鉄之助さん」
「なんだ?」
「私は、普通に見えますか?」
「んー? まあ、綺麗だし、頭よさそうだし、射的はやたら上手いし、ちょっと変わってるな」
「……それは、普通ではないのでは?」
「そうか?」
鉄之助は真面目な顔で考えた。
「でも、うまいもん食ったら嬉しいだろ。負けたら悔しいだろ。遊んだら楽しいだろ」
「……はい」
「じゃあ普通じゃねえか」
紫乃は何も言えなくなった。ただ、残りの団子を食べた。少しだけ、泣きそうになった。
*
団子屋を出ると、空はすっかり夕焼け色になっていた。煤煙を透かした陽光が、帝都の屋根を鈍い金色に染めている。川の向こうに、帝都中央呪圧炉の黒い塔が見えた。国が建設し、久世家が代々その封呪機構の運用を任されてきた、帝都の要である。紫乃の目には、塔の下を流れる赤黒いものが見えていた。
呪気の筋道は、すでに歪み始めている。いつもなら炉心へ向かうはずの細い流れが、今日は蒸気導管の方へ寄っていた。久世家に残された記録で、これほど外側へ広がった流れを見たことがあっただろうか。
今夜、封呪儀式が行われる。自分が制御座に就けば、呪気は鎮まるはずだった。そうなるように、何度も確かめた。ただし、儀式のあとで自分が生きている姿だけは、どうしても見つけられなかった。
「なあ」
鉄之助が隣へ来た。
「お前、帰りたくねえのか?」
紫乃は息を止めた。
「さっきから、あの塔ばっか見てる」
「……そう、でしょうか」
「何かあるのか?」
紫乃は答えなかった。
「……もし、明日が来ないとしたら」
「ん?」
「鉄之助さんは、何をなさいますか?」
少年は即答した。
「明日を来させる」
紫乃は彼を見た。
「……どうやって?」
「そいつは考えるさ」
「考えても、どうにもならなかったら?」
「そんときは、どうにもならねえってわかるまで、やってみる」
鉄之助は歯を見せた。
「最初から諦めてたら、何にも始まらねえだろ」
紫乃は笑おうとした。けれど、うまく笑えなかった。そのとき、背後から低い声がした。
「鉄之助」
「げっ。師匠」
振り返ると、一人の男が立っていた。くたびれた外套に山高帽。無精髭の似合う精悍な顔つき。四十代も終わりに差しかかろうという年齢だろう。右手には煙草。左手には、新聞紙で包まれた長い荷物を持っている。
「随分といい休日を過ごしてるじゃねえか」
「おう。言いつけどおり、街を見てきたぜ」
「そいつは結構。だが、休みは終わりだ」
男の声音が変わった。
「非常召集だ。今すぐ出るぞ」
鉄之助の顔から笑みが消えた。
「……何があった?」
「帝都交通局から異常報告だ。地下蒸気導管の呪圧が上がってる。まだ市街に被害は出てねえが、ただの故障じゃない」
「呪いか」
「ああ。特務局に調査と応急対処の命令が下りた」
紫乃の胸が、どくりと鳴った。玄三はようやく彼女へ目を向けた。
「そちらのお嬢さんは?」
「迷子」
「違います」
「迷子じゃねえそうだ」
「その説明で納得すると思うか?」
紫乃は小さく頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしています」
「いや。うちの馬鹿が迷惑をかけてるんだろう」
「誰が馬鹿だ!」
「お前以外に誰がいる」
男は紫乃を見た。その目つきが、一瞬だけ変わった。しかし、何も言わなかった。
「志摩玄三だ。こいつの教官をやってる」
「……よろしくお願いいたします」
玄三は煙草を揉み消し、新聞紙の包みを鉄之助へ放った。不意を突かれた鉄之助は、慌てて両手で受け止める。
「うわっ! いきなり投げんなよ!」
「お前の得物だ」
包みの中には、一本の刀が収められていた。黒漆の鞘に銀の留め金。柄には歯車状の金具が幾重にも巻かれ、鍔の内側に小さな圧力計が覗いている。鉄之助の表情が変わった。
「……こいつ、持ってきたのかよ」
「状況が状況だからな」
「持ち出し禁止になったんじゃなかったか?」
「必要な手続きは済ませた。俺の責任で使わせる」
鉄之助は鞘を撫でた。
「久しぶりだな、こいつ」
柄尻の弁を軽く捻る。かちり、と内部の歯車が噛み合った。針が圧力計の目盛りを滑り、鞘の排気孔から短い蒸気が漏れる。
「調子はよさそうだな」
「通常解放で三度使った。お前の手にはもう馴染んでるだろう」
「おう。こいつはいい刀だぜ」
「前にも言ったが、二段目は俺の許可を取れ。三段目は絶対に触るな」
「なんで?」
「腕が吹き飛ぶって言っただろうが」
「おっかねえな!」
「お前が笑ってるほうがおっかねえよ」
紫乃は刀を見つめていた。刀身には極薄の鋼と呪刻回路が何層にも重ねられ、柄の内部には蒸気で動く小型の機械式演算器が組み込まれている。その奥で、恐ろしく鋭い術式が幾重もの封印に閉じ込められているのが、紫乃には見えた。
最後の留め金を外したとき、刀の内部で何が起こりうるのか。
「……その刀は」
「ん?」
鉄之助が顔を上げた。
「いえ、何でもありません」
紫乃は口を閉ざした。玄三が懐中時計を取り出した。
「行くぞ。日が暮れる前に現場へ入りたい」
「おう!」
鉄之助は訓練刀を外し、渡された黒鞘の刀へ差し替えた。そして紫乃を振り返る。
「じゃあな、迷子のお姫様」
「……迷子ではありません」
「そうかい。また遊ぼうぜ」
紫乃は微笑んだ。また、会いたい。その言葉が喉元まで出かかった。
「……はい」
それだけが、精一杯だった。鉄之助は手を振り、玄三の後を追った。紫乃は二人の背中を見送った。そして、ふと目を凝らした。刀の鞘から、ごく細い術式の筋が伸びている。それは地下を走る呪気の流れと交わり、いくつかの道筋へ分かれていた。どれも、あの黒い塔へ向かっている。紫乃にはわかった。
この二人は、きっと中央炉まで来る。もう一度、自分と会うことになる。不意に、胸が弾んだ。そのことが、たまらなく嬉しい。けれど、すぐに恐ろしくなった。できることなら、来ないでほしい。何も知らないまま、今日のことなど忘れて、明日も明後日も元気に過ごしてほしい。そう願っているのに。
また会えるかもしれない。その予感を、どうしても手放せなかった。
三 煤の底で
紫乃が久世家の護衛と合流したのは、それから半刻ほど後のことだった。隅田川沿いの待合所には、黒塗りの蒸気自動車が停まっていた。
車体の横に立つ護衛たちの姿を見た途端、往来のざわめきが遠のいた気がした。袖口についた菓子の粉を払い、人形を抱え直す。ほんの少し前まで街を歩いていた少女が、また久世の姫君へ戻っていく。紫乃は自然と背筋を伸ばした。
「姫様!」
車の前に立っていた男が、紫乃を見つけて駆け寄ってきた。五十がらみの、黒い軍装を纏った男だった。久世家の護衛長である。
「ご無事で何よりでございます。お探しいたしましたぞ」
「……ご苦労様です」
「お一人で外出など、あまりに危険でございます」
「申し訳ありません。少し、街を歩いてみたかったものですから」
紫乃は静かに頭を下げた。
「儀式の準備は、いかがですか」
「滞りなく。ただし、地下蒸気導管の一部で異常値が確認されております」
「……そうですか」
「特務局にも調査命令が下ったとか」
紫乃は僅かに目を伏せた。やはり、あの二人は中央炉へ向かうのだ。
「炉の内圧は?」
「上昇しておりますが、先代より引き継いだ基準値の範囲内でございます。予定どおり封呪儀式を行える見込みです」
「承知しました。では、参りましょう」
護衛長が扉を開ける。紫乃が乗り込もうとすると、若い護衛が手を差し出した。
「姫様。お荷物を」
西洋人形を預かろうとしたのだ。紫乃は少し迷った。それから、柔らかく微笑んだ。
「いいえ。これは、私が持っております」
護衛は一礼し、手を引いた。車が走り出す。帝都中央呪圧炉は、国家が建設した巨大な封呪施設だった。帝都の地下に滞留する呪気を集め、鋼鉄の炉心へ封じ込めている。施設全体の管理は国が行う。
ただし、炉心の封呪機構については、久世家が代々その運用を任されてきた。何代もの術師が呪圧の上昇を記録し、封印の綻びを調べ、儀式を始めるべき時刻と手順を少しずつ磨き上げてきた。その末に残されたのが、一人の術師の術脈を制御座に接続し、炉の負荷を引き受ける最後の儀式だった。国から託された、大切な仕事だった。
紫乃は窓の外を眺めた。中央炉の黒い塔が、少しずつ近づいていた。代々の記録には、どの数値まで耐えられるかが書かれている。だからこそ皆、まだ間に合うと思っている。自分だけが感じた小さな違和感を、紫乃はうまく言葉にできなかった。
*
再会は、思ったより早かった。
「おっ! 迷子のお姫様じゃねえか!」
地下入口へ続く通路で、聞き覚えのある声がした。鉄之助だった。隣には玄三もいる。紫乃の胸が跳ねた。やはり。やはり、ここで会えた。そう思った途端、頬が緩みそうになった。けれど、今の自分は久世家の姫君である。紫乃は背筋を伸ばし、静かに微笑んだ。
「……ごきげんよう、鉄之助さん」
「おう! また会ったな!」
鉄之助は嬉しそうに笑った。
「って、なんでこんなとこにいるんだ?」
「それは、こちらの台詞です」
「俺たちは仕事だよ。地下導管の調査」
「……そうでしたね」
玄三が護衛たちへ目を向けた。
「お嬢ちゃん、久世の人間か」
「はい。久世家の者にございます」
「なるほどな」
鉄之助が目を丸くした。
「へえ。本当にお姫様だったのか」
驚いた様子は、それだけだった。護衛長が一歩前へ出る。
「失礼ですが、どちらの方で?」
「帝都特務局第三機動班、志摩玄三だ。国から命令を受けて、地下導管の異常を調べている」
「特務局……」
「中央炉の封呪機構は久世家の担当だろうが、国の設備で呪気漏れが起きてる以上、こっちにも調査する理由がある」
護衛長の表情が険しくなった。
「儀式の準備中でもありますので、炉心への立ち入りはお控えいただきたい」
「儀式の邪魔をするつもりはねえよ。原因を調べて、必要なら応急処置をする。それが今日の命令だ」
護衛長は答えに窮した。そのときだった。
「護衛長」
紫乃が口を開いた。静かな声だった。しかし、その場にいた全員が彼女へ顔を向けた。
「特務局の皆様には、同行していただきましょう」
「……姫様?」
「国から施設の安全を託されている以上、異常の調査を拒む道理はありません」
紫乃は玄三へ向き直った。
「封呪術式の運用は私どもが引き受けます。そのうえで、設備の調査と応急処置にお力添えいただければ幸いです」
玄三は少しだけ目を見開いた。それから、口の端を上げた。
「話が早くて助かるね、お姫様」
「恐縮です」
紫乃は微笑んだ。護衛長が一礼した。
「……姫様のご意向とあれば」
鉄之助が、紫乃を見つめていた。
つい先ほどまで紫乃は、店主に団子の味を頼むだけで声を詰まらせていた。それがいま、ためらいなく護衛長と特務局の間に立っている。鉄之助は驚いたようだったが、紫乃には、二つの自分があまりに違って見えることのほうが気恥ずかしかった。
団子を一皿選ぶことさえためらっていた少女である。それが今は、年上の男たちの間を取り持っている。
「へえ。格好いいじゃねえか」
紫乃の微笑が、ほんの僅かに崩れた。
「……ありがとうございます」
護衛長が眉を上げる。久世の姫君に、あまりにも無遠慮な物言いだった。けれど紫乃は、少し嬉しそうだった。
*
地下連絡路は、薄暗かった。頭上の管が吐き出す熱で、地下の空気は妙に湿っていた。濡れた石壁のところどころに黒い煤が貼りつき、足音は狭い通路を伝って遅れて返ってくる。外で聞いた陽気な呼び込みの声は、ここには届かない。紫乃は人形を抱く腕に力を込めた。
天井には太い蒸気管が走り、壁際には圧力計と呪気計が等間隔に並んでいる。玄三は途中の計器盤を確かめ、眉を寄せた。
「……おかしいな」
「どうした、師匠」
「外の圧力計より、こっちの数値が高え。中央炉から呪気が逆流してる」
紫乃の足が止まった。配管の内側で、赤黒いものが脈打っている。想定より、はるかに速い。
「……急ぎましょう」
そのとき。天井の配管が、鈍い音を立てた。もう一度。今度は、内側を何かが引っ掻くような音だった。鉄之助の右手が、刀の柄へ伸びる。
「師匠」
「ああ」
玄三は拳銃を抜いた。
「来るぞ」
配管が裂けた。白い蒸気が配管の裂け目から噴き出した。その内側に混じった黒い呪気が、熱を帯びた蒸気を引き寄せ、人の形を取り始める。一つ。二つ。三つ。顔のない人影だった。護衛長が刀を抜いた。
「姫様! お下がりください!」
黒い影が跳びかかった。鉄之助が前へ出る。柄尻の小弁を押し込んだ。乾いた金属音。鍔の内側で歯車が噛み合い、刀身を幾筋もの青白い光が走る。通常解放。鉄之助は半歩だけ身をずらし、振り下ろされた黒い腕を避けた。返す刃で、その内側を斬り抜く。
左手の指先が動く。
「《縛》!」
術印が影の足元へ走った。鍔の歯車が一段進み、刀身に刻まれた呪刻回路が次の術へ切り替わる。鉄之助は踏み込んだ。胴を斬り払う。黒い影が崩れた。しかし、その破片は再び集まり始めた。
「……面倒くせえな!」
紫乃には見えていた。黒い影から、細い呪気の筋が伸びている。その先は、床下だった。呪気だけなら術式で封じられる。ところが影は、噴き続ける蒸気を取り込みながら形を保っていた。
「鉄之助さん!」
「おう!」
「影は床下の呪気に繋がっています! 斬っても戻ってしまいます!」
「なるほど! じゃあ元を断ちゃいい!」
鉄之助が床へ手をかざした。
「《探》!」
術印が広がる。床下に隠れていた呪気の筋が、淡い光となって浮かび上がった。
「右です! 配管の三つ目の継ぎ目!」
「了解!」
鉄之助が跳んだ。壁を蹴り、身体が宙を舞う。だが、継ぎ目の奥には蒸気の主管がある。管そのものを断てば、熱い蒸気が一行を呑み込む。
「配管は斬らないでください! 内側の呪術的な結び目だけを!」
「おう。なら、こいつだ!」
刀の鍔で小さな歯車が鳴った。鉄之助は刀を突き込む寸前、刃先をわずかに引いた。
「《刃標》!」
鋼の表面に、青白い刃の形が刻まれる。刀を離しても、それは消えなかった。
紫乃はその光を目で追った。刃の形を保つ術式から、細い筋が刀の柄を通り、鉄之助の右腕へつながっている。術が残っている間は、持ち主もそこから離れられないのだ。たった一つでこれなら、いくつも重ねたらどうなるのだろう。
鉄之助が指を鳴らす。
「《断》!」
遅れて斬撃が走った。術式が配管の内側にある呪気の結び目だけを断ち、その切断面を封じる。黒い影が一斉に崩れ落ちた。
「よっしゃ!」
鉄之助は床へ着地し、刀を振って煤を払った。しかし、紫乃は床に残った術式を見ていた。
「……まだです」
「ん?」
「こちらに、残りが」
彼女は配管の下にある計器盤へ手を伸ばした。切れた呪気の筋が、計器の封呪札へ絡みつこうとしている。紫乃はその結び目を見極め、指先で術印を描いた。
「《解》」
細い筋がほどけ、黒い染みが消えた。よくある封呪術の一つだった。ただし、解いてよい結び目を間違えれば、かえって呪いを広げてしまう。紫乃には、それを見分ける眼があった。
「……終わりました」
鉄之助は目を輝かせた。
「へえ! お前もやるじゃねえか!」
「……私は、残ったものを解いただけです」
「そいつができねえと困っただろ」
玄三は配管を確かめて、頷いた。
「そうだな。見事な連携だった」
護衛長は刀を構えたまま、目を見開いていた。
「……あの一瞬で」
玄三は鼻を鳴らした。
「こいつの取り柄は、そこだ」
「おい。もっと褒めろよ」
「調子に乗るから嫌だ」
「けちくせえ!」
玄三は配管に残った濡れた煤を指先で擦り、顔をしかめた。
「……しかし妙だな。呪いが蒸気を食って、影を作ってやがった。普通の呪気漏れなら、こんなふうにはならねえ」
紫乃は返事ができなかった。久世家の古い記録にあるのは、炉心の圧力と封印の強さについての記述ばかりだ。蒸気そのものが呪いを運び、増やすなど、考えたこともなかった。
鉄之助は刀を収めた。
周囲にはまだ焦げた匂いが残っていた。配管の陰から護衛が慎重に顔を出し、玄三は計器の針が下がっていくのを確かめている。鉄之助は立ち止まって紫乃が追いつくのを待った。今しがた二人が合わせたのは剣と眼だけではない。相手の合図を信じて動けたことが、紫乃の胸に残っていた。
紫乃は、その背中を見つめていた。自分が見つけた呪気の結び目を、鉄之助が断った。鉄之助の刃が残した小さな綻びを、自分が解いた。たったそれだけのことが、なぜか嬉しかった。
「おい、迷子のお姫様!」
鉄之助が声をかけてきた。
「よく見つけたな! 助かったぜ!」
「……お役に立てて、よかったです」
紫乃は小さく微笑んだ。
*
炉心へ続く最後の隔壁に辿り着く頃には、中央炉全体が震え始めていた。赤い警告灯が明滅し、蒸気管の継ぎ目から熱い白煙が噴き出している。玄三が圧力計を見た。
「……まずい。もう始まってやがる」
計器の針は、まだ久世家に伝わる儀式開始の基準へ達していない。それなのに隔壁の封呪札が次々と黒ずみ、金属の継ぎ目から呪気を帯びた蒸気が滲み出していた。蒸気導管を伝う呪いは炉の外側から封印を侵し、圧力計が示す以上の速さで機構を傷めていたのだ。
紫乃は唇を噛んだ。久世家の記録が間違っていたわけではない。記録になかったものが、今、目の前で起きている。制御座に座るまで、まだ時間があるはずだった。その時間さえ、蒸気とともに奪われていく。計器盤で赤い針が跳ねた。
「護衛長。隔壁を開けてください」
「はっ」
護衛長が歯車状の錠へ手をかけたとき、継ぎ目から噴き出した蒸気が黒い腕を形づくり、封呪札を掴もうとした。護衛長は腰の刀でそれを払い、片手で封印盤の留めを押さえた。黒ずみは札の縁で止まった。
「姫様。この蒸気は外周の封印まで食い破ろうとしております。私がここを離れれば、地下導管へ呪いが一気に流れます」
彼は封印盤を操作し、歯車状の錠を解いた。重い金属音とともに、扉が開く。
「ここから先は、私が外周の封印を保持いたします。もう一人は通路を押さえます。封印を張り直す者がいなければ、皆様が炉心を止めても帝都へ呪気が漏れ続けますゆえ」
護衛長は玄三へ向き直った。
「志摩殿。姫様を、お願いいたします」
「任せとけ。そっちは頼む」
久世家の護衛長が、姫君を特務局の人間に託す。その言葉の重さがわかって、紫乃は言葉を飲んだ。
紫乃は護衛長を見た。
「お願いします」
護衛長は深く一礼し、封印盤へ手を戻した。紫乃、鉄之助、玄三の三人が扉をくぐる。背後で隔壁が閉じ、巨大な歯車が回って封印が下りる。外側から、呪いを退ける術印の乾いた音が続いていた。紫乃は胸に抱いた西洋人形を見た。今日一日。本当に、楽しかった。揚げ饅頭も、射的も、蒸気路面車も。川沿いの散歩も、甘い団子も。
活動写真だって、見てみたかった。ほかにも、やりたいことはたくさんあった。けれど、そんなことは許されない。久世の娘として、生まれたのだから。
「おい」
鉄之助が声をかけた。
「さっきから、泣きそうな顔してるぞ」
紫乃は息を止めた。
「……そんなこと、ありません」
「そうか?」
「はい」
紫乃は微笑んだ。完璧な笑顔だった。十年間、何度も練習してきた顔だった。鉄之助は黙っていた。そして、短く言った。
「嘘つけ」
四 抜けば玉散る
炉心は、すでに暴走していた。
広い炉室に踏み込んだ途端、熱風が顔を打った。足元の鉄板は脈を打つように震え、向こう側に立つ人間の声さえ聞き取りにくい。これほどの設備を動かしているのは、何千という人々の暮らしのためだった。そのすべてを止めるか、誰か一人を差し出すか。紫乃は白い制御座から目を逸らさなかった。
五本の巨大な呪圧幹線が赤黒く脈打ち、鋼鉄の炉壁には亀裂が走っている。亀裂から噴き上がる白い蒸気に黒い呪気が絡みつき、空中でねじれながら新たな腕を伸ばした。蒸気が吹き出すほど、呪いの形も大きくなる。天井から鋲が弾け飛び、巨大な歯車の一枚が軸から外れて落下した。轟音。床が震えた。
「……こいつはひでえな」
玄三が呻いた。炉室の奥には、白い石で作られた制御座があった。紫乃はそこへ向かった。
「……私が座れば、止められます」
玄三は床の術式を見た。制御座から伸びる細い管が、炉心へ直接繋がっている。
「こいつ……帰り道がねえじゃねえか」
紫乃は答えなかった。
「一度座ったら、術脈ごと炉に取り込まれる。そういう仕組みだな?」
「……はい」
鉄之助が振り向いた。
「お前、それ知ってて来たのか」
「……はい」
「死ぬってことも?」
「はい」
鉄之助は刀を肩へ担いだ。そして、首を傾げた。
「で、お前はどうしたいんだ?」
紫乃は息を止めた。
「……私には、役目があります」
「そりゃさっき聞いた」
「私が行かなければ、大勢の人が……」
「だから、お前はどうしたいんだ?」
紫乃は唇を噛んだ。どうして、そんなことを聞くのだろう。何を答えたところで、結果は変わらないのに。頭上で配管が破裂した。黒い蒸気が噴き出す。鉄之助は振り返りざまに《散》を放ち、落ちてきた鉄片を弾き飛ばした。
「時間がねえぞ!」
玄三が叫んだ。紫乃は制御座を見た。ここに座れば、帝都は救われる。何度確かめても、見えた結末は同じだった。だから、仕方がない。そう思ってきた。けれど。ほんの一瞬、願ってしまった。誰かに、この先へ進む自分を止めてほしい。
もう一度、あの団子を食べてみたい。まだ、何も終わらせたくない。押し込めてきた言葉が、本人の思いもよらない形で口から零れた。
「……死にたくない」
自分の声だと気づくまで、少し時間がかかった。
「……あ」
紫乃は慌てて口元を押さえた。いけない。いま、自分は何を言ったのだろう。
「……申し訳ありません。今のは、どうかお忘れください」
いつもの笑顔を作ろうとしたが、うまくいかなかった。
「私は制御座に座ります。ですから、どうかこの後も帝都の人々をお救いください」
「断る」
「……は?」
あまりにも意外な言葉だった。紫乃は思わず顔を上げた。
「え……?」
「断るっつったんだよ」
「……どうして」
「小せえからだ」
鉄之助は顔をしかめた。怒りが全身から吹き出しているようだった。
「小せえ小せえ! ずいぶん小せえ勘定してやがる!」
少年は制御座を指差した。
「何千人も助けようって話だろ! なのに、なんで最初から一人減ってんだよ!」
紫乃は唇を震わせた。
「……あなたに、何がわかるんですか」
「ん?」
「何十年もかけて、何人もの術師が考えてきたんです。どうすれば炉を守れるのか。どうすれば被害を出さずに済むのか」
鉄之助は黙っていた。
「私だって、ずっと……ずっと、ほかの道を探してきました」
紫乃は顔を上げた。目に涙が滲んでいる。
「それでも、これしかないんです!」
上方で鋼材が折れた。巨大な歯車が傾ぎ、三人の頭上へ落下する。
「《留》!」
鉄之助が左手を振った。歯車が空中で一瞬止まる。その下へ潜り込み、刀を一閃。軸を断たれた歯車が横倒しになり、凄まじい音を立てて床を転がった。少年は紫乃へ向き直った。
「そうか」
「……え?」
「あんた、ずっと頑張ってきたんだな」
紫乃は答えられなかった。
「そいつは立派だ。俺には炉のことなんざさっぱりわからねえ。だから、あんたが見つけた答えを馬鹿にするつもりもねえ」
鉄之助は刀の刃を肩に担いだ。
「けど、それは街をどうやって助けるかって話だろ」
「……はい」
「俺が聞きてえのは、そっちじゃねえんだよ」
紫乃は少年を見た。
「街のことも、久世の仕事も、みんな聞いた」
鉄之助は笑った。
「俺がまだ聞いてねえのは、あんた自身のことだけだ」
「……私?」
「そうだよ」
何の遠慮もない声だった。
「俺が応えたいのは、名前すら知らないあんたの気持ちだ!」
紫乃の胸が、強く打った。
「別に、立派な理由なんざいらねえよ。団子が食いてえなら、食いてえでいい。活動写真が見てえなら、見てえでいい」
鉄之助は歯を見せた。
「で、あんたはどうしたい?」
紫乃は、制御座を見た。国から与えられた役目。久世家に生まれた責任。それらが消えたわけではない。今も、大勢の人々が危険に晒されている。しかし。あの街で、自分も笑っていた。揚げ饅頭を食べた。射的で勝った。団子を選んだ。活動写真を見たいと思った。
あの時間を、もう一度過ごしたかった。紫乃は涙を拭った。
「……私も」
小さな声だった。けれど、今度は取り消さなかった。
「私も、生きたいです」
鉄之助は黙って聞いていた。
「まだ、あなたと活動写真を見ていません。お団子だって、また食べたい。だから……」
紫乃は顔を上げた。
「私も助けてください。帝都の人々と、一緒に」
鉄之助は破顔した。
「おうとも!」
即答だった。
「そいつを聞きたかった!」
紫乃は、とうとう泣きながら笑ってしまった。鉄之助は刀の柄を叩いた。
「で、どうすりゃ助けられる?」
「……方法は、まだ」
「じゃあ考えようぜ」
「……ですが、私には、皆が生き残る未来が見えません」
「そりゃ、まだ俺たちがやってねえからだろ」
紫乃は目を見開いた。
「……見えていないのに?」
「おう。見えねえもんは、今から作りゃいい」
鉄之助は、炉心を見上げた。
「この世は意志の力で歯車を廻すしかねーんだ!」
その言葉に、紫乃は息を呑んだ。少し前まで、そんな考え方をしたことはなかった。見えている筋道から、最も被害の少ないものを選ぶ。それが《遠見》を持つ自分の役目だと思っていた。けれど。目の前の少年は、まだ知らないはずの道を進もうとしている。
紫乃は、刀を見た。先ほど地下連絡路で見せた、遅れて発動する刃。あの機構なら。
「……鉄之助さん」
「おう!」
「私、ひとつ試してみたいことがあります」
鉄之助の笑みが深まった。
「いいねえ!」
背後から玄三のため息が聞こえた。
「まったく。馬鹿の面倒を見ると寿命が縮む」
「師匠! 文句はあとで聞く!」
「聞いた試しがねえだろうが」
玄三は拳銃を抜き、迫ってきた黒い腕を撃ち抜いた。
「嬢ちゃん。見えてるもんを全部教えろ」
「……はい!」
紫乃は《遠見》を開いた。
*
五本の呪圧幹線が、赤黒い光を放っていた。それぞれに組み込まれた封呪術式が破損し、炉心の呪気を市街の地下導管へ流し出している。このままでは、炉心の破裂を待たずに帝都が呪いに侵される。紫乃は床へ指を走らせた。
「五本の幹線にある、封呪術式の接続を断ちます。ただし、一つでも残せば、そこへ呪気が集中してしまいます」
「じゃあ全部同時に斬ればいい」
「……はい」
紫乃は、そこで鉄之助を見た。地下連絡路で、一つの《刃標》が少年の右腕とつながっていたことを思い出す。五つを同時に残せば、どれほどの負担になるのか。それがわかっていながら、この方法を口にしようとしている。
「先ほどの《刃標》なら、できますか?」
鉄之助は刀を叩いた。
「通常解放じゃ一つ。二段目でも三つまでだ。だが……」
「完全解放、ですね」
「おう!」
五つの刃標を刻み、同時に発動させる。ただ斬るのではない。地下連絡路で見せたように、呪術的な接続だけを断ち、その切断面を封じる。五本すべてを同時に処理できれば、市街へ流れようとしている呪気は炉心へ押し戻される。
しかし、それだけでは炉心が破裂してしまう。
「……上部の安全弁です」
紫乃が指差した。
「あそこから封呪浄化塔へ送れば、呪気を処理できます。ですが、今の振動で正常に動くかどうか……」
「動かなきゃ調べる。機械の面倒は俺が見る」
玄三が拳銃を確かめた。
「問題は、開く時機だな」
「はい。早すぎれば、浄化塔へ呪気が流れ込みます。遅ければ炉心が破裂します」
紫乃は目を凝らした。
「操作輪を開放寸前まで廻しておきます。そして、五本が同時に断たれる瞬間に、最後の留めを外すんです」
玄三が頷いた。
「わかった。お嬢ちゃんの合図を待つ」
鉄之助が笑った。
「よっしゃ。決まりだな!」
だが、紫乃にはもう一つ見えていた。完全解放によって刀身の演算機構が限界を超え、術者の身体へ逆流する呪力。腕が焼け、肉が裂ける。最悪の場合、命を落とす。
「……危険です」
「だろうな」
「あなたの腕が、もたないかもしれません」
「じゃあ、もつうちに終わらせるさ」
玄三が短く言った。
「六呼吸だ。完全解放で動けるのは、それが限界だ」
「わかってる」
「七つ目を吸う前に、必ず刀を捨てろ」
「了解!」
紫乃は制御座を見た。久世家の儀式は、長年にわたる研究の末に用意された最後の手段だった。一人の術脈を炉へ接続すれば、五本の圧力を確実に制御できる。術者は生きて戻れない。それでも、特殊な兵装も、規格外の剣士も必要としない。
だからこそ、最後の手段として残されてきた。けれど今、この場には鉄之助がいる。玄三がいる。そして、自分には《遠見》がある。久世家が間違っていたのではない。今まで揃わなかったものが、たまたま今日、この場所に揃ったのだ。ならば。
紫乃は、自分が見つけた新しい道を選びたくなってしまった。直後、炉心の外壁が破裂した。赤黒い蒸気が噴き出し、天井の歯車が激しく揺れる。圧力計の針が限界を振り切った。警報が、途切れた。
「……もう、時間がありません!」
「なら急ぐぞ!」
鉄之助が駆けた。
*
炉室は崩壊し始めていた。破裂した蒸気管から噴き出す白煙に呪いがまとわりつき、黒い人影となって襲いかかる。呪気を散らしても新しい蒸気が流れ込むため、影はまた形を取り戻した。天井からは鋼鉄の破片が降り注いでいた。
玄三は拳銃を抜き、黒い影の胸ではなく、その背後で蒸気を吐く配管の裂け目へ二発撃ち込んだ。弾丸に刻まれた封呪の術式が火花を散らし、裂け目に集まっていた呪気を一瞬だけ縛りつける。影が輪郭を失うと、玄三は崩れた鉄板を踏み越えた。
「鉄之助! 黒いのは俺が引き受ける! お前は道を開け!」
「おう!」
鉄之助は刀を振るった。鍔の歯車が噛み合い、青白い術印が瞬く間に次の形へ書き換わる。
「《縛》! 《散》!」
二つの術がほとんど同時に発動し、頭上から落ちてきた鋼材を空中に留め、脇の壁へ弾き飛ばした。その隙に紫乃は階段へ向かった。玄三は新たに形を取り始めた呪気の腕を撃ちながら後に続く。上部通路へ辿り着くと、目の前には巨大な操作輪があった。鉄製の輪の先に、幾重もの歯車が重なっている。
紫乃は西洋人形を足元の棚へ置き、両手を操作輪へかけた。動かない。肩を寄せて力を込めても、歯車はびくともしなかった。
「……動きません!」
玄三が輪の付け根を覗き込み、素早く指先で金具を確かめた。
「待て。軸じゃねえ。蒸気に混じった呪いが、奥の留め金に食い込んでやがる。無理に回せば、輪の方が折れるぞ」
「……留め金?」
玄三は拳銃を構えた。
「留め金を撃ち抜く。お嬢ちゃん、場所を教えろ」
紫乃はそこで初めて、歯車そのものではなく、その奥のわずかな隙間へ《遠見》を向けた。黒い呪気の筋が金属を締め上げ、留め金を動かなくしている。呪いの流れを追うことに気を取られ、機械の噛み合わせまでは見ていなかった。
「右下、三枚目の歯車。その奥です!」
玄三が銃口を動かす。
「あと、ほんの少し上!」
「ここか」
「はい!」
銃声。鋼鉄の歯車の奥で、火花が散った。硬い金属の折れる音。留め金が砕けた。玄三は拳銃を下ろした。
「よし。回せ、お嬢ちゃん」
紫乃は操作輪を握った。握りは熱く、表面の錆が掌に食い込んだ。紫乃は上半身を預けるようにして力をかけた。これまで術式を読むばかりだった指で、いまは鉄の重みそのものを動かそうとしている。今度は、動いた。重い。指が痛む。それでも、紫乃は廻した。
一回転。二回転。巨大な歯車が、軋みながら噛み合っていく。安全弁の開放機構が、ゆっくりと起き上がった。あと一つ、留めを外せば開く。紫乃はそこで手を止めた。
「……準備、できました!」
「こっちは済んだぞ!」
玄三が叫んだ。炉心の前で、鉄之助が振り向いた。
「おう!」
少年は笑った。
「じゃあ、始めるか!」
玄三は非常階段を駆け下り、鉄之助のすぐ傍へ寄った。紫乃は上部通路に残り、操作輪に手をかけたまま、炉心の流れを見極めている。蒸気管の裂け目は増え続け、いったん撃ち散らした呪いも、次の噴出とともに再び集まり始めていた。
*
鉄之助は黒鞘の刀を構えた。黒い鞘に刻まれた、三つの封印。一つ目が外れる。柄尻の蒸気弁が開き、蓄圧筒から高温の蒸気が噴き出した。二つ目が外れる。鍔の内側で、幾重にも重ねられた小さな歯車が回り始める。三つ目。最後の留め金へ、鉄之助が指をかけた。
「師匠」
鉄之助は玄三の耳元へ顔を寄せた。普段の彼には似合わない、ひどく小さな声だった。上部通路にいる紫乃には、届かない。
「なんだ」
「俺が死んだら、学校の連中によろしくな」
玄三は鼻で笑った。
「自分で言え」
「厳しいねえ」
「生きて戻ってからなら、褒めてやるよ」
鉄之助は目を細めた。紫乃のいる上部通路へ顔を向けたときには、もういつもの笑顔に戻っていた。
「そりゃ楽しみだ!」
玄三は返事をせず、上部通路へ駆け戻った。少し高い足場なら、炉心へ向かう鉄之助と操作輪の前に立つ紫乃、その両方を見渡せる。拳銃の弾を込め直し、蒸気の噴出口を順に見定めた。呪いを消し去ることはできないが、あの二人が仕事を終えるまで、近づけさせないことならできる。
最後の封印が弾けた。刀が、鳴いた。鋼鉄の鞘を裂くような、甲高い音。柄の側面から安全装置がせり出し、三枚の調速板が砕け散った。蒸気が噴き上がる。歯車が、目で追えないほどの速さで回転し始めた。刀身を形成する極薄の鋼板が、わずかに開く。
その隙間に刻まれた無数の呪刻回路へ、青白い光が流れ込んだ。それは奇妙な刀だった。刀身は、ほとんど透明だった。幾重にも重なった薄い鋼の層が、内部を走る術式の光を反射している。抜けば玉散る。古い剣士たちが、名刀の冴えをそう讃えたという。
けれど、今ここに現れたものは、そんな比喩では収まりきらなかった。刃の周囲で青白い火花が砕け、無数の玉となって宙へ飛散している。蒸気を受けた一粒一粒が、刃と同じ輝きを帯びていた。青白い光が刀身の根元をなぞり、そこに刻まれた銘を浮かび上がらせる。村正――かつての名刀の名を受け継いだ刃だった。
試製村正、完全解放。
鉄之助は笑った。
「こいつはいい!」
踏み込む。一呼吸目。床が砕けた。鉄之助の身体が、炉心の左下へ滑り込む。左右の配管から黒い腕が襲いかかったが、上部通路から立て続けに銃声が響き、片方が崩れた。
「そっちは見るな! 前だけ見ろ!」
玄三の怒鳴り声が飛ぶ。もう片方の腕を、鉄之助は半歩だけ身をずらして避け、刃を振り上げた。斬撃が第一の結び目へ届く。青白い光が走った。しかし、幹線は切れなかった。代わりに、刃の形をした術式が残る。
柄の歯車が、一段噛み合った。一つ目。
「次!」
紫乃が叫んだ。
「炉心の裏側です!」
二呼吸目。
「《踏》!」
空中に術印が生まれた。鉄之助はそれを蹴り、あり得ない角度で身体を跳ね上げる。刀を逆手に持ち替えた。刃先が第二の結び目を撫でる。二つ目。柄の内部から高い金属音が鳴り、二枚目の歯車が噛み合った。
炉心から噴き上がった蒸気が流れを変え、今度は上部通路の紫乃へ向かって伸びた。玄三は手摺を越え、彼女の前へ飛び出す。銃声が二つ。黒い腕の芯を砕いたが、飛び散った呪気はすぐに蒸気へ混じり直そうとする。玄三は足元の鉄板へ術印を叩きつけた。
「《縛》!」
青白い線が手摺まで走り、再び立ち上がろうとした影を縫い止める。銃で倒せないなら、立ち上がる時間を奪えばいい。玄三は上部通路を背に、次の噴出口へ銃口を移した。
三呼吸目。
「上です!」
紫乃が指差した。
「天井の、あの配管!」
「高えな!」
「届きますか!」
「届かせる!」
少年は壁を駆け上がった。足元へ術印を作り、さらに跳ぶ。天井近くで刀が一閃した。三つ目。青白い刃標が、配管の奥へ刻まれた。その瞬間、炉心の側面が大きく裂けた。黒い蒸気が噴き出す。鉄之助の身体が、衝撃で壁へ叩きつけられた。そこへ追いすがろうとした呪いの群れに、上から銃弾が降る。玄三は割れた配管と床との間に封呪弾を打ち込み、蒸気の出口を一時的に塞いだ。少年が立ち上がるための、わずかな時間が生まれた。
「……っ!」
右腕から血が滴った。鍔の歯車が、耳障りな音を立てている。術式を三つ保持したまま、さらに次を組もうとする機構が、悲鳴を上げていた。鉄之助は立ち上がった。
「あと二つ!」
四呼吸目。
玄三は弾倉を開き、残った弾を確かめた。封じた裂け目の隣で、また別の配管が破れる。近づく影を一体ずつ撃てば、到底間に合わない。玄三は蒸気の流れを読み、一番太い管の付け根へまとめて術印を刻んだ。白煙の勢いが鈍る間に、鉄之助の進路が開ける。
「右です! 歯車の向こう!」
「おう!」
少年が走る。回転する巨大な歯車の隙間へ、刀を差し込んだ。金属が火花を散らす。刃が通った。四つ目。柄の演算器から、白い蒸気が噴き出した。圧力計の針が跳ね、目盛りの端で砕ける。鉄之助の右腕に、青白い亀裂が走った。紫乃には見えた。
術脈が、焼け始めている。そして最後の結び目は、炉心の真下にあった。五呼吸目。鉄之助が駆け出す。黒い蒸気が巨大な腕となって立ちはだかった。玄三がその根元を撃ち抜いたが、流れ込む蒸気は止まらない。
「ちっ、しぶとい!」
玄三は手摺から身を乗り出し、術印で腕の付け根を壁へ縫い止めた。それでも先端は鉄之助へ伸びてくる。紫乃は《遠見》を凝らした。右からでは間に合わない。左も塞がれる。上からなら、術式が崩れる。
そのとき、一筋だけ別の流れが見えた。
「右です! 右へ!」
鉄之助は迷わず身体をひねった。黒い腕が、少年の左肩を掠める。学生服が裂けた。血が飛ぶ。それでも止まらない。
「次は左下! 床の継ぎ目を!」
「了解!」
刀が走った。床が割れる。その奥に、最後の結び目が現れた。
「そこです!」
鉄之助は刃を振り抜いた。五つ目。鍔の歯車が、最後の一枚まで噛み合った。刀身の呪刻回路が、一斉に発光する。五つの刃標が、炉心の周囲で脈打っていた。紫乃にはわかった。できる。五本の接続を、同時に断てる。けれど、炉の崩壊も目前だった。
天井が裂け、蒸気が噴き出した。黒い腕が天井の鉄骨を掴み、上部通路めがけて引き落とす。玄三は腕の根元を撃ち抜いたが、鉄骨の勢いまでは殺せなかった。紫乃を突き飛ばす。轟音。鉄骨が操作輪のすぐ脇へ突き刺さった。玄三は床を転がりながらも銃を離さず、まだ動いている黒い腕を撃ち散らした。
「嬢ちゃん! 大丈夫か!」
紫乃は操作輪へ飛びついた。あと一つ。たった一つ、留めを外せばいい。けれど、その瞬間を間違えることはできなかった。遅れれば炉心が破裂する。早すぎれば呪気が排気塔へ押し寄せ、浄化術式が破られる。最後の判断ができるのは、紫乃だけだった。
「おい! お姫様!」
鉄之助が叫んだ。
「準備はいいか!」
紫乃は顔を上げた。彼の右腕が焼けている。刀身から青白い光が溢れ、細い身体を内側から裂こうとしていた。怖い。失敗するかもしれない。鉄之助が死ぬかもしれない。帝都が滅びるかもしれない。それでも。
「……はい!」
大きな声だった。
「いつでも!」
鉄之助が笑う。
「よっしゃあ!」
六呼吸目。刀身が、眩い光を放った。五つの刃標が限界を迎える。紫乃には、呪気の流れが見えていた。五本の幹線に負荷が集中し、炉心から押し出される瞬間。そこだ。
「……今です!」
鉄之助が吼えた。
「《連刃》ッ!」
五つの刃標が、一斉に閃いた。紫乃は操作輪を押し込んだ。轟音。五本の幹線を通じて市街へ伸びていた呪術的な接続が、同じ瞬間に断ち切られた。断面へ封呪の光が走る。呪気の流出が止まった。行き場を失った赤黒い奔流が、炉心へ押し戻される。
その瞬間、巨大な安全弁が開いた。圧縮された呪気が浄化塔へ噴き上がる。幾重にも重なった封呪術式が、黒い奔流を白い蒸気へ変えていく。炉心の圧力が急激に下がり始めた。配管の振動が収まる。巨大な歯車が、次々と回転を落としていった。
最後まで残っていた黒い人影も、白い蒸気の中へほどけて消えた。玄三は銃口を下げずに見守っていたが、もう次の影は現れなかった。耳を塞ぐほどだった機械の唸りが遠ざかり、紫乃には、手摺から水滴が落ちる音が聞こえた。黒かった蒸気が、いまは白い。
帝都は、救われた。
紫乃が操作輪から手を離す。炉心の前で鉄之助も息を吐き、柄尻の停止弁に指をかけた。完全解放を終わらせようと弁を押し込み、鍔の歯車を戻す。かちり、と一枚だけ戻った。けれど二枚目が動かない。
「……おい。止まれって」
鉄之助はもう一度弁を押し込み、左手で術式の流れを断とうとした。刀は応じなかった。逆向きに噛み合った歯車が、次の命令を求めるように加速していく。
甲高い悲鳴が響いた。村正だった。五つの《刃標》を発動し終えたはずの演算機構が、停止命令を受け付けずに暴走している。鍔の歯車が砕け、刀身から青白い光が噴き出した。
その光が、鉄之助の右腕へ逆流する。
「……ぐっ!」
少年が膝をついた。刀を手放そうとする。しかし、指が動かない。柄に絡みついた術式が、腕を締め上げていた。
「鉄之助!」
玄三が叫んだ。紫乃には見えた。このままでは、腕が落ちる。そして次の瞬間には、胸まで裂かれる。彼女は操作輪を離れた。階段を駆け下りる。
「嬢ちゃん! 危ねえ!」
玄三が叫ぶ。しかし、紫乃は止まらなかった。鉄之助のもとへ駆け寄り、その右腕を両手で掴んだ。
「おい! 離れろ!」
鉄之助が叫ぶ。紫乃は首を振った。
「嫌です!」
「お前まで巻き込まれるぞ!」
「断ります!」
鉄之助が目を見開いた。紫乃は、まっすぐに少年を見た。
「あなた一人を犠牲にして、私だけ助かるなんて。そんなの、嫌です!」
そして《遠見》を開いた。村正の術式が、鉄之助の腕へ食い込んでいる。無数の光の筋が、血管のように絡みついていた。あの地下連絡路と同じだ。切れたはずの術式が、別の場所へ絡みつこうとしている。ただし、今度は鋼管ではない。生身の人間だった。
解いてよい結び目を、一つでも間違えれば。鉄之助の術脈まで引き裂いてしまう。紫乃は、最後の一筋を見極めた。
「……何笑ってんだよ」
鉄之助が呟いた。紫乃は、自分が笑っていることに気づいた。不思議だった。怖い。恐ろしく怖い。それなのに、少しも迷わなかった。
「……私、まだあなたと遊びたいんです」
鉄之助が目を丸くした。
「だから」
紫乃は微笑んだ。
「こんなところで、死なせてあげません」
両手に力を込めた。呪力が流れ込む。激痛。紫乃は息を詰めた。けれど、離さない。
「《解》!」
紫乃は叫んだ。試製村正が、音を立てて砕けた。透明な刀身が無数の破片となり、空中へ散る。青白い光の玉が、吹雪のように舞い上がった。その真下で、二人の身体が床へ投げ出された。紫乃は鉄之助へ抱きついたまま、目を閉じた。爆発は起こらなかった。
ただ、蒸気の音だけが続いていた。やがてそれも、小さくなった。帝都中央呪圧炉は、停止した。
*
「……痛ってえ」
すぐ近くで、声がした。紫乃は顔を上げた。鉄之助だった。床に仰向けになり、右腕を押さえている。学生服はぼろぼろで、顔にも煤がついていた。それでも、生きている。
「鉄之助さん……!」
「おう」
少年は笑った。
「やったな!」
紫乃は唇を震わせた。言いたいことが、山ほどあった。どうしてあんな無茶をしたのか。どうして、命を懸けられるのか。どうして、あんなに楽しそうに笑えるのか。けれど。何一つ、言葉にならなかった。
「……よかった」
涙が零れた。
「本当に、よかった……」
鉄之助は困ったように笑った。
「おいおい。泣くことねえだろ」
「……泣いていません」
「嘘つけ」
紫乃は顔を上げた。鉄之助が、にやりと笑っている。あの、揚げ饅頭のときと同じ顔だった。紫乃は涙のまま、笑った。
「……意地悪ですね」
「お。わかるじゃねえか」
二人は笑った。床に転がったまま。互いに、傷だらけになりながら。その様子を見下ろして、玄三が深いため息をついた。
「……まったく。おい、馬鹿ども」
「なんだよ師匠」
「帰るぞ。救護班を呼んである」
「おう!」
玄三は、落下した鉄骨の脇に転がっていた小さな西洋人形を拾い上げた。赤い洋装は煤で汚れていたが、壊れてはいない。紫乃へ差し出す。
「大事なもんだろ」
「……ありがとうございます」
紫乃は受け取った。胸に抱く。鉄之助が左手を差し出した。
「ほら。立てるか?」
紫乃は、その手を見つめた。そして。
「……はい」
今度は迷わず、握り返した。
五 煤の都に、朝が来る
翌朝、帝都には青空が見えていた。
煤に霞んでいた家々の屋根が、久しぶりに輪郭を取り戻している。紫乃は病院へ向かう途中、思わず足を止めた。見上げた空は、思っていたよりずっと高かった。
中央炉の事故で地下蒸気導管が緊急停止したため、街の大煙突のいくつかが、一晩だけ沈黙していたのだ。もっとも、路面機関車も蒸気昇降機も止まり、街は大混乱だった。
特務局は事故の調査に追われ、久世家は封呪設備の管理責任を問われている。紫乃にも、やらなければならないことが山ほどあった。家族と話さなければならない。屋敷から抜け出したことも、儀式の進め方を変えたことも、きちんと説明しなければならない。
それは、とても怖いことだった。けれど、もう、誰かの望む返事をするだけで済ませるつもりはなかった。その前に、一つだけ。紫乃は病院の一室を訪れていた。
「だからよ、師匠。俺は完全解放で五本全部斬ったんだって」
「知ってる。報告書にもそう書いてある」
「なら、なんで顛末書なんだよ!」
「試製兵装の無許可完全解放。命令違反。器物損壊。おまけに病院で騒ぎすぎだ」
「帝都を救ったろ!」
「だから顛末書で済んでるんだろうが」
扉の向こうから、賑やかな声が聞こえてきた。紫乃は思わず笑った。扉を開ける。病床には、右腕を包帯で吊った鉄之助がいた。玄三は窓際で新聞を読んでいる。
「おう! 迷子のお姫様!」
鉄之助が手を振った。
「もう迷子ではありません」
「そうかい。そりゃ残念」
「……どうしてですか」
「また道案内してやろうと思ってたのによ」
紫乃は口元を押さえた。胸がくすぐったくなった。鉄之助の右腕は重傷だったが、術脈は焼き切れずに済んだという。復帰まで時間はかかるものの、剣を振れなくなることはないらしい。
「ありがとう、ございました」
紫乃は深く頭を下げた。鉄之助は困った顔をした。
「おいおい、何度目だよ」
「何度でも言いたいんです」
「……そうか」
「はい」
紫乃は顔を上げた。
「私は、久世紫乃と申します」
鉄之助が目を瞬かせた。
「久世紫乃」
その名を口にした。何度か、確かめるように。
「おいおい、そんなの当てられるわけねえだろ! 久世の《遠見》の姫君なら、学校でも噂になってる有名人だぞ」
「……当ててくださるかと」
「揚げ饅頭で涙目になってた迷子が、その姫君だなんて思うかよ!」
「……迷子ではありません」
「難問すぎるって!」
鉄之助はひとしきり笑ってから、改めて彼女の名を口にした。
「いい名前じゃねえか」
「……ありがとうございます」
「そんで、紫乃」
呼び捨てにされた。紫乃の肩がぴくりと動いた。
「今度の休みは、何してえ?」
「……今度の?」
「そうだよ。団子は食ったし、射的は負けた。次は何する?」
紫乃は目を瞬かせた。
「でも、私は……」
久世家の姫だから。忙しいから。許されないから。そう言おうとして、口を閉じた。鉄之助が彼女を見ている。まっすぐに。何の遠慮もなく。紫乃は考えた。考えて、少しだけ頬を赤らめた。
「……活動写真を」
「おう」
「一緒に、見に行きたいです」
鉄之助は歯を見せて笑った。
「いいねえ!」
「それから……」
「まだあるのか?」
「お団子も、食べたいです」
「またかよ!」
「……駄目ですか?」
「いいに決まってんだろ!」
鉄之助は左手で膝を叩いた。玄三が新聞を畳む。
「おい、鉄之助」
「なんだよ師匠」
「その前に顛末書だ」
「うげえ」
紫乃は笑った。声を上げて。何度も、何度も。やがて鉄之助もつられて笑い、玄三まで苦笑を漏らした。窓の外では、久しぶりの陽光が帝都の屋根を照らしている。工場が動き出せば、また煤は降るだろう。蒸気は街を覆い、呪いは人々の暮らしに忍び寄る。
明日からも、帝都はきっと騒がしい。それでよかった。久世紫乃は、まだ十七歳だった。やりたいことは、いくらでもあった。まずは活動写真を見に行こう。それから、お団子を食べよう。隣には、きっとあの少年がいる。そう考えただけで、胸が不思議に弾んだ。
紫乃はもう一度、鉄之助を見た。
「ねえ、鉄之助さん」
「なんだ?」
「……その次は、私から誘ってもよろしいですか」
鉄之助は目を丸くした。それから、堪えきれないように笑った。
「おうとも!」
窓の外で、どこかの蒸気笛が鳴った。青い空の端を、白い雲がひと筋流れていく。昨日までの彼女なら、その音に混じる呪いの気配や、これから起こりうる小さな事故を探していただろう。今は違う。紫乃は、少年の返事を聞いていた。それだけで、充分だった。
了
次のお休みには、何を着ていこう。
そんなことで悩む日が来るなんて、思ってもみなかった。