──その日のうちに出発した。
ただし、報告された地点へ直接転移するような愚は犯さない。
目的地から大きく離れた荒野へ転移。そこから複数回、方角と距離を変えながらの連続転移。
尾行への対策。転移先を逆算される危険への対処。敵が情報系魔法を使用している可能性への警戒。
戦闘に勝利するための準備ではない。未知の相手と遭遇した際、確実に「生き延びる」ための防衛策。
それら全てを考慮した上で、装備を構築しなければならない。
悟は右手薬指にはめている指輪を見る。
──リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン。
今となっては新生アインズ・ウール・ゴウンのメンバーを証明するための、その指輪。
ナザリックが本物であれば、内部への転移機能が生きている可能性があった。だが、試すつもりはない。
転移先の状態が分からない。機能が維持されている保証もない。
侵入者を誘い込むため、マスター権限の転移先が罠地帯へと変更されている可能性すらある。
自分たちが築いた場所だからこそ、その内部へ無防備に飛び込む危険性が骨の髄まで分かっていた。
「本物のナザリックなら安全だ」などという考えは、ただの願望にすぎない。
そして警戒すべき相手は、固定された罠や守護者だけではなかった。
悟は第五階層を思い浮かべる。氷結牢獄。そこに配置されていた、タブラ・スマラグディナの作成したNPC。
索敵と情報収集に特化した、名前は、確か──。
「……ニグレド」
小さく呟く。
遠い記憶だ。すでに二百年。
かつての仲間たちの顔すら朧気になりつつある長い歳月の中で、なぜかその悍ましい姿だけが奇妙に鮮明だった。
確か、タブラさんが仕込んだ度を越したホラー演出に、本気で心臓が止まりかけた苦い記憶がある。
(…悲鳴をあげながら魔法を撃ち込んじゃったんだよなぁ…)
今になって思えば、あれはタブラさんが丹精込めて作り上げたNPCである。
驚いたとはいえ、いきなり魔法を撃ち込んだのは流石にどうだったのか。
ニグレド本人にしてみても、配置されていた場所で設定通りに振る舞っていただけなのだ。
(……悪いこと、したな……)
二百年越しに小さな罪悪感が込み上げる。
──だが、それはそれとして。
ニグレドのあの姿だけは、アンデッドの身体となった今でも少々心臓に悪い。
そして今、警戒すべきなのはその姿ではなく、彼女の能力の方だ。
ゲーム時代の知識が、この世界でもそのまま通用する保証はない。
だが、ニグレドの能力が現実の力として機能しているなら、一般的な隠蔽魔法だけでナザリックを観察するのは自殺行為に等しかった。
ニグレドがどこまで感知できるのか。完全不可知化を直接看破できるのか。
悟には判断できない。
だからこそ、発見される可能性を前提に動かなければならない。
「ナザリックの索敵能力を知っている」という自負で接近することこそが、最大の油断になり得る。
悟はナザリックから十分に距離を取った場所で、周囲の安全を確認した。
ここから先は、ナザリックの──ニグレドの索敵圏内に入ると仮定して動く必要がある。
あの場所に、かつての仲間がいるのかもしれない。
あるいは、彼らが遺したNPCたちがいるのかもしれない。
だからこそ、これは戦闘のための準備ではない。
隠密性を確保し、万が一拒絶されて発見された場合にも、即座に逃げ切って対話の機を待てるように、偵察特化のバフ構築を展開せねばならない。
悟は十の指にはめられた指輪の輝きを抑えた。その内のひとつに装備している《探知阻害の指輪》。これがあれば本来は完璧なはずだ。
だが、この奇妙な新世界において、ニグレドの特化ビルドが指輪の隠蔽ランクを貫通してこないという保証はどこにもない。
悟は自分が習得していない隠蔽魔法が封じられた巻物(スクロール)を、マジックボックスから滑り込ませるように取り出し、魔法を発動させる。
〈探知対策《カウンター・ディテクト》〉
〈偽情報《フェイク・カバー》〉
羊皮紙に刻まれた魔法文字が青白く脈動し、発動の対価としてパラパラと灰になりながら風に溶けて消えていった。
続けて、自身の習得している魔法を淀みなく発動していく。
〈不屈《インドミタビリティ》〉
〈虚偽情報・生命《フォールス・データ・ライフ》〉
〈虚偽情報・魔力《フォールス・データ・マナ》〉
〈生命探知《ディテクト・ライフ》〉
〈魔法探知《ディテクト・マジック》〉
〈転移遅延《ディレイ・テレポーテーション》〉
〈超常直感《パラノーマル・イントゥイション》〉
〈光輝緑の体《ボディ・オブ・イファルジェントベリル》〉
〈自由《フリーダム》〉
十数種類の防衛魔法が放つ残光が、幾重にも重なりながらアンデッドの身体へと吸い込まれていく。
攻撃力は一切上がっていない。だが、生存率と隠密性においては、現在の悟が用意できる最高峰の「盾」が完成した。
そして〈飛行《フライ》〉。最後に、この重層的なバフの術式そのものを覆い隠すように、大本命の魔法を起動する。
「〈完全不可知化《パーフェクト・アンノウアブル》〉」
悟の姿が世界から完全に消失した。ナザリック最高の監視能力を持つニグレドの眼を欺き通せるかという、かつてないほどの一抹の不安と、隠しきれない期待を胸に抱きながら、彼は歩みを進める。
通常の感知手段であれば、これで悟を捉えることは困難なはずだった。それでも安心はしない。ニグレドに察知される可能性は常に残っている。
悟は地形を確認しながら、少しずつ距離を縮めた。
退路を設定する。戦闘になった場合の離脱地点を選ぶ。周囲の景色から、観察に適したポイントを判断する。
──そしてついに、遠方にそれを見つけた。
地表に並ぶ、白亜の霊廟。
悟は足を止めた。
形状。配置。入口の位置。石材の色。
記憶に残る姿と一つずつ、冷静に比較していく。
周囲が冷たく暗い、不気味な沼地ではなく、緩やかな起伏が続くただただ広い平原へと変わっている点を除けば、完全に一致している。
何度確かめても、否定するための材料が見つからない。
極めて精巧な偽物である可能性は、完全には排除できない。
だが、そこにあるものは、悟の知る、遠い記憶の中のナザリック地下大墳墓、そのものだった。
──いや。
悟には分かっていた。
似ているのではない。あれは、ナザリックだ。
その事実を認めた瞬間、胸の内に狂おしいほどの歓喜が広がる。
直後、強制的な感情の抑制が冷酷に働き、悟の心は平坦な凪へと戻された。
しかし、歓喜が存在したという事実までは消せない。
──帰ってきた。
そんな言葉が浮かぶ。悟はすぐにそれを打ち消した。
だが、まだ早い。外観が同じというだけだ。誰が内部にいるのか。なぜ二百年後の今になって現れたのか。本当に自分の知るナザリックなのか。
確認しなければならない。
悟は〈完全不可知化《パーフェクト・アンノウアブル》〉を維持したまま、さらに距離を縮めた。