──ナザリック地下大墳墓、第五階層『氷結牢獄』。
極寒の静寂に包まれたその一角、ナザリック最高峰の索敵能力を持つ情報収集特化型NPC──ニグレド。
顔面の皮膚を失い、剥き出しの筋肉を晒したその異形は、一見すれば狂気の怪物のようだ。
しかし、彼女の佇まいは、恐ろしいほどに理性的で、冷徹であった。
至高の御方々が不在のまま、この未知の世界で孤立してきたナザリック。
その間、彼女たちに課された使命はただ一つ──、至高の御方が遺したこの聖域を何としてでも守り抜くことだった。
これまでに幾多の羽虫や、領域を侵す邪魔者を冷酷に排除してきた。
その積み重ねが、彼女たちの防衛体制をより強固なものへと変えていた。
ニグレドに与えられた役割は、その多岐に渡る魔法を展開し防衛の起点となる周辺の監視と索敵。
侵入者の存在を誰よりも早く察知し、その正体と脅威の度合いを見極めること。
ピチ、と剥き出しの眼球が微かに動く。
白亜の霊廟の周囲に広がる荒野。そこには、ただ風が吹き抜けるだけの虚無が広がっている。
通常の魔法職であれば、何一つ異常を検知できない完璧な空白。
だが、ニグレドの瞳は、その空白だけが妙に整いすぎているように感じられた。
「──おかしな歪みね……」
ニグレドの唇から、驚くほど落ち着いた、気品のある女性の声が漏れた。
その歪みは、あまりにも精緻だった。
世界の背景へと完璧に同化させようとしている。
だが、それは単に姿を隠そうとした結果ではない。
周囲の環境に溶け込むよう、細部に至るまで計算し尽くされた隠蔽だった。
ナザリックの索敵網が発する不可視の走査波動。その反応と死角を把握し、緻密に対処しなければ、ここまで不自然さを抑え込むことは難しいだろう。
過剰なほど丁寧で、偏執的なまでに見つかることを恐れた消去の技法。
(これほどの隠密技術──)
ニグレドは、膝の上に抱いていた赤ちゃんの生首人形の頭を優しく撫でた。
その仕草とは裏腹に、彼女の思考は恐ろしいほどの速度で回転し、侵入者を排除するための方程式を組み立てていく。
隠蔽の技術だけを見れば、並の侵入者ではない。だが、それ以上に気掛かりなのは、その慎重さだった。
これほどまでに痕跡を消し、発見されることを恐れている。ならば、相応の理由があるはずだ。
ナザリックの防衛機構を熟知しているのか。それとも、自らの存在が露見した瞬間、こちらがどのような対応を取るのかを警戒しているのか。
どちらにせよ、ただの迷い込んだ侵入者として扱うことはできない。
主たちが不在だった歳月、彼女たちは学んだのだ。
敵は欺瞞を用いる。至高の御方々の姿や魔力を模した偽物である可能性もある。
あるいは、こちらの判断を誤らせるために、あえてそれらしい痕跡を残しているのかもしれない。
その可能性を、たとえ一パーセントでも排除できない以上、ここで油断することはナザリックの破滅を意味する。
ましてや、相手がこれほどの隠密技術を有しているのなら、なおさらだ。
ニグレドは静かに立ち上がった。
侵入者の正体は不明。目的も不明。だが、これ以上の接近を許す理由はなかった。
彼女は速やかに、作戦会議室に詰めているアルベドとデミウルゴスへと情報を共有するため〈伝言《メッセージ》〉の魔法を発動させた。
『周辺領域に、正体不明の存在を確認しました。極めて高度な隠蔽が施されており、潜伏を図っております』
『侵入者の目的は?』
即座に妹―守護者統括アルベドの返事が返ってきた。
『不明です。しかし、これほどまでに痕跡を消している以上、単なる迷い込みとは考えにくいかと』
『なるほど……こちらに察知された場合の対応まで想定している可能性がありますね』
ナザリック防衛時、指揮官を担うデミウルゴスの声だ。その声には、状況を冷静に分析する響きがあった。
『ならば、逃走手段を先に封じます。正体も目的も分からない以上、接触を許すわけにはいきません』
アルベドの判断を受け、ナザリックの防衛機構が起動する。
周辺領域の転移を封じるための措置。侵入者の逃走経路を制限する魔法が展開された。
ニグレドは、再び〈水晶の画面《クリスタル・モニター》〉に映る荒野へと視線を向けた。
侵入者がこの変化に気付くかどうか。
それによって、相手がどのような行動を取るのか。
彼女は、その異物を見逃すまいと、静かに監視を続けた。
♦ ♦ ♦
──ナザリック地下大墳墓、第九階層、作戦会議室。
ニグレドからの報告を受けたアルベドは、表情を引き締めた。
「──正体不明の侵入者、ね。これほどの隠蔽能力を持ちながら、こちらの領域に接近している……」
その声音には、明確な警戒が滲んでいた。
至高の御方々が姿を消してから、既に長い年月が過ぎている。
その間、アルベドたちが守り続けてきたものは一つだった。
ナザリック地下大墳墓。
至高の御方が遺した、かけがえのない場所。
そして愛する主人が戻らぬまま時が流れ続けようとも、この場所だけは決して失うわけにはいかない。
「ええ。偶然迷い込んだ存在とは考えにくいでしょう」
デミウルゴスは眼鏡の位置を直し、静かに続けた。
表情こそ平静だが、その思考は既に幾つもの可能性を検討している。
ニグレドですら存在を明確には捉えられないほどの隠蔽能力。
そして、その状態でナザリックへ接近するという行動。
偶然と判断するには、不自然な点が多すぎた。
敵対者ならば、目的は何か。
偵察ならば、その背後に何がいる。
あるいは、こちらの対応そのものを観察している可能性は。
──情報が足りない。
ならば、まず必要なのは情報を得るための状況を作ること。
「まずは逃走手段を封じ、行動を制限する。そのうえで、相手の力量と目的を見極めるべきかと」
「異論はないわ。万が一にも、逃がすわけにはいかないもの」
アルベドは一瞬の逡巡もなく、決断を下した。
もし敵であるならば排除する。
そうでないのなら、その目的を確認する。
ただ、それだけのことだった。
ナザリックを守護する者として、当然の判断。
「シャルティアを向かわせなさい。相手の正体が分からない以上、確実に制圧できる戦力を投入するべきよ」
「承知しました」
デミウルゴスは僅かに口元を緩めた。
「……さて、どのような相手なのか。興味深いですね」
アルベドは答えない。
ただ、その瞳に宿る警戒だけは消えなかった。
二人の判断を受け、シャルティアへの出撃命令が下される。