灰髪の魔女   作:彪(あや)

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序 氷の底で名を呼ぶ

 

 ──うるさい。

 

 水滴が三つ、落ちた。

 四つ目までの間が、やけに長い。さんざん待たせたくせに、四つ目は二つに割れて落ちてきた。

 ひどく行儀の悪い水だ、と女は思った。

 

 では、その行儀を自分に教えたのは誰だったのか。そこは、思い出せなかった。

 

 代わりに、耳の奥で声がした。

 

『──アル。雨だれにまで、お行儀を求めないの』

 

 笑いを含んだ、やわらかい声だった。

 誰の声なのかは、分からない。顔を思い浮かべようとすると、水音がそれをさらっていった。

 

 背中には岩。足の下には、薄く張った水。

 膝を折った黒い服の裾から、裸足が二本、白く突き出している。片方を動かそうとすると、指先だけがのろのろと応えた。

 

 寒くは、なかった。

 どこも、痛まなかった。

 痛みを感じるだけの力も、もう残っていないのかもしれなかった。

 息を吸うと喉の奥で、何かが擦れるはずだった。

 なぜそう思うのかは、分からない。ただ、いつもそこにあったものが、ない。

 ──いつも?

 女は首を振った。

 強く振ったつもりだったのに、濡れた髪が頬から離れただけだった。

 

 まだ、動くな。

 

 胸の底で、幾つもの歯車が噛み合おうとしていた。

 ひとつ回れば、残りのすべてが回り出す。それだけは、はっきりと分かった。

 だから、最初のひとつを外した。

 

 自分が何をしたのかは、すぐに霞んで消えた。

 名前も、行き先もなくなった。その代わり、あの白い病床へ駆け戻らずに済んだ。

 それでよい、と思った。

 

 ――なのに、喉だけが勝手に動いた。

 

「……ッ……べ……る……!」

 

 聞き慣れない音だった。

 もう一度言おうとして、息が引っかかる。涙が顎を伝って落ちた。

 水滴の間隔を乱したのが自分だと気づいて、女はかすかに眉を寄せた。

 

 遠くで、爪が岩を掻いた。

 四つ足。重い。翼の先が壁を擦っている。

 荒い鼻息が近づき、足音の間に一度だけ、ふっと浮くような間が挟まった。段差を越えたのだろう。

 

 女は逃げなかった。

 逃げたいかどうかを決めるより先に、身体がゆっくりと横へ傾いた。

 

 最後に聞こえたのは、誰かがとても下手くそに足音を殺す音だった。

 

         *

 

『レイ! レイ! 見つけたぞ! ニンゲンだ! ニンゲンがいたぞぉぉ……!』

 

『聞こえています! 聞こえていますから、もう少し小さな声で──』

 

『小さいと、聞こえない!』

 

『あなたの声は、たぶん地上まで届いていますッ!』

 

 新入りの竜は、有頂天だった。

 異端児(ゼノス)として生まれて、初めての任務。崩れた氷の向こうに人間がいないか探してこい、と言われた。探した。見つけた。完璧である。

 しかも、まだ誰にも食べられていない。大手柄だ。

 帰ったらきっと、みんなに囲まれる。すごいぞ、えらいぞ、と頭を撫でてもらえる。もしかしたら、肉も一切れ多くもらえるかもしれない。

 

 竜はふんすと鼻を鳴らし、大きな前足を女の前へどんと置いた。翼までばさりと広げて、道を塞ぐ。守っているつもりである。

 その鼻息が、気を失う寸前の女の顔へまともに吹きかかっていたことを、竜は知らない。

 

 遅れて舞い降りた歌人鳥(セイレーン)が、真っ青になった。

 

『お、脅かしてしまったのでは……!?』

 

『まさか! おれは、すっごくやさしくしたッ!』

 

『その「すっごく」が心配なのですッ!』

 

 優しさにも加減というものがあることを、竜はまだ知らなかった。

 

 人の言葉を話す怪物たち──異端児(ゼノス)の一行を率いてきた黒衣の魔術師が、女の傍らに膝をつく。

 灰色の長い髪。裂けた黒衣。左の肩甲骨から脇腹にかけて、古い火傷の跡がうっすらと残っている。

 顔を確かめた瞬間、布の下の骨の指が、ぴたりと止まった。

 

「……なぜ、ここに……ッ」

 

 レイは魔術師の顔を窺おうとした。けれど深い頭巾の奥には、表情を作るものが何ひとつ残っていない。

 ただ、骨の指が震えていた。

 

 フェルズは女の首筋に触れた。

 脈が、ない。

 

『……え』

 

 竜が固まった。

 

『さっきまで、息、してた……ぞ……?』

 

 大きな身体が、みるみるしょんぼりと縮んでいく。翼の先が、床につくほど垂れ下がった。

 

『おれのせいか……? おれの、やさしさが……?』

 

『今は、黙っていなさい!』

 

 レイの声は鋭かった。けれどその翼は、そっと竜の背中に添えられていた。

 

 七年前に死んだ女だ。その最期を、フェルズはこの目で見ていない。

 だが、それを生きて見届けた者たちがいる。

 救う手を止める理由なら、いくらでも並べられた。

 

 誰であっても救うのか。戻してしまったものを、最後まで引き受けられるのか。

 答えの出ない問いを抱えたまま、フェルズは女の胸に手を置いた。

 

「下がっていてくれ──!」

 

 神の代理として指図する声ではなかった。

 八百年、叶わない祈りを重ね続けてきた、一人の術者の声だった。

 

 詠唱が始まる。かつて一度、竜の少女を取り戻した祈り。

 一度叶ったからといって、次も叶う保証はどこにもない。フェルズは、その保証がないまま唱えた。

 

 レイが仲間たちを後ろへ下がらせる。しょげていた竜も、息を止めて翼を畳んだ。

 足もとの氷の欠片が、ひとつ、またひとつと白く曇っていく。

 

 女の喉から、小さな息がこぼれた。

 フェルズの掌の下で、心臓が、とくん、と動いた。

 

 七年分の死を覆したのか。それとも、七年のあいだ失われずにいた最後の一瞬を、呼び戻しただけなのか。

 今はまだ、その区別すらつかなかった。

 

「……よく、見つけた……ッ」

 

 ぱあっ、と竜の顔が輝いた。

 さっきまで床を掃いていた尻尾が、千切れんばかりに跳ね上がる。

 

『振らないで!』

 

『なぜ!? 褒められたぞ!? いま、褒められたぞ!?』

 

『だから振らないでと言っているのですッ! 患者がいます!』

 

 ぶおん、と風を切った尻尾が、壁の手前でぴたりと止まった。

 天井から、氷の欠片がぱらぱらと降ってくる。フェルズは黙って袖を広げ、女の顔の上にかざした。

 

 その袖の下で、女の眉間に、さっきより一本深い皺(しわ)が刻まれていた。

 

         *

 

 【ロキ・ファミリア】の救出を終えたばかりの都市は、まだ戦いの後始末に追われていた。

 帰還者の収容。行方の分からない者の捜索。置き去りにした道具や武具の回収。

 地上の誰の目にも届かない場所で、異端児(ゼノス)たちもまた、深層の異変を調べ続けていた。

 

 女が見つかったのは、救出隊の帰還から三日後のことだ。

 穢れた精霊が、かつての深層を食い荒らした跡地。そのさらに端、冷気の残る裂け目の奥に、氷で塞がれた袋のような小部屋があった。

 取り残されたような、小さな氷室だった。

 

 女を包んでいたらしい氷の殻には、黒い根の跡が幾重にも絡みついていた。

 フェルズは氷の破片と黒い繊維を仲間に回収させ、自分は女を抱えて、仲間の背を借りながら地上を目指した。

 

 道中、咳は一度も聞こえなかった。

 フェルズには、それが何よりも恐ろしかった。

 

         *

 

「フレイヤを呼べ」

 

 祈祷の間で女の顔を見るなり、ウラノスはそう命じた。

 フェルズは抱えてきた身体を寝台へ移し、毛布を掛け直す。頭上ではもう、地上の光を知らない者たちが焦がれてやまない朝が始まっていた。

 

「……今の彼女は、酒場の娘を名乗っているはずだが」

 

「知っている。だから呼べ」

 

 老神は、寝台の女から目を離さなかった。

 

「女のことは、女神に任せる。……それに、あれはヘラの眷族(ファミリア)だ。男が軽々しく触れてよい女ではない」

 

 フェルズは、ついさっきまで女を抱えて運んでいた自分の腕を見下ろした。

 何も言わなかった。言えなかった。

 

「……私が、救ったのだ」

 

 ようやく出たのは、その一言だった。

 

「見れば分かる。責任を問うのは後だ。まずは、保護する場所を決める」

 

 老神の目は、女の呼吸に合わせて上下する毛布を追っていた。

 

「身体の様子は」

 

「外傷はほとんどない。氷の中で、既に塞がっていたのだろう。だが……身体の中を流れているものが、普通ではない」

 

「寄生か」

 

「見つからない。魔石も、核もない。私の魔法が何を戻したのかさえ、まだ断言できない……!」

 

 フェルズはそこで一度言葉を切り、声を落とした。

 

「ただ──病の徴候が、ない」

 

 ウラノスの目が、すっと細くなった。

 どこか遠くで、水の落ちる音がした。

 

         *

 

「いいですか、ヘルン。今日という今日は、はっきり言ってやります」

 

 呼び出された街娘は、文句を言う気満々でギルドの廊下を歩いていた。

 

「酒場は深層帰りの冒険者さんで、てんてこ舞いなんです。何でもかんでも押しつけないでください、って!」

 

「はい、シル様」

 

「人手が要るなら、まず書類を! 呼び出すのは、昼の仕込みが終わってから!」

 

「はい、シル様。以上、三点ですね」

 

「ヘイズ、あなたも何か言ってください」

 

「えー……あたし、寝てたとこを引っ張ってこられた側なんですけど……ふぁぁ」

 

 苦情は三つ。ヘルンの相槌は二つ。ヘイズのあくびが一つ。

 準備は万端だった。

 

 その三つは、寝台を見るより先に、きれいに消し飛んだ。

 

「……あなたが……ッ」

 

 シルの足が止まる。よろけた主の肩を、ヘルンが慌てて支えた。

 ヘイズのあくびも、口を開けたまま止まった。

 

 シルの目に映っていたのは、女の顔ではなく、魂だった。

 灰色の輝き。深く、広く、どこまでも底の見えない光。

 かつて美の女神が欲しがった魂だ。欲しいものを手に入れることに慣れきっていた彼女が、とうとう手を伸ばせなかった、数少ないひとつ。

 

 それが今、粗末な毛布の下で眠っていた。

 女の唇が、かすかに動く。

 

「……べ……る……」

 

 シルの顔から、街娘の愛想がすとんと抜け落ちた。

 ──ベル。

 よりにもよって、その名前。

 

「……何度も、そう呼んだのですか」

 

「道中も、幾度か」

 

 シルはもう一度、女の魂を見つめ直した。

 失われているのではない。折り畳まれているのだ。

 神の眼に映るのは、そこまでだった。その先は、自分の推量でしかない。

 

 未来が見えるわけではない。

 けれど、失ったものへ手を伸ばす者の恐ろしさなら、嫌というほど知っている。

 この人が目を覚まして、全部を思い出したら──。

 

 頭の中で、猛烈な勢いで算盤が弾かれ始めた。

 危険だ。とびきり危険だ。都市にとっても。たぶん、自分にとっても。

 ……でも。

 この人は、あの子の血縁で。つまり、ゆくゆくは──。

 

「シル様、顔、顔」

 

 ヘイズが小声でつついた。

 反対側からは、ヘルンが青ざめて身を乗り出す。

 

「お顔の色が……! シル様、どこかお加減でも──」

 

「なんでもありませんっ」

 

 シルは自分の頬を両手で挟んだ。

 

「まだ何も聞いてませんけど」

 

「ヘスティア様にも、来ていただきましょう!」

 

 咳払いをひとつ。シルは、どうにか威厳を取り繕った。

 

「既に呼んだ」

 

 ウラノスの返事は早かった。早すぎた。

 シルは珍しく、老神をじろりと睨んだ。

 

「ずいぶんと、手際がよろしいこと」

 

「褒め言葉と受け取っておく」

 

「褒めていませんッ!」

 

 寝台の女が、うるさそうに頭を動かした。

 

 神も、女神も、魔術師も、侍女も、治療師(ヒーラー)も。

 揃って、ぴたりと口を閉じた。

 

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