瞼が開いた。
左の瞳に、灰があった。
右の瞳に、翠があった。
ベルは、その色を最初に見た。
道具屋で、似合いそうだと思った髪留めの石と、同じ色だった。
そう思った瞬間、傍らでリューが動いた。
いつもの、少年の怪我を心配するときの動きではなかった。
半歩前へ出る。片手を彼の肩に置き、もう片方の手で腰の武具を確かめる。
リヴェリアは既に、レフィーヤを自分の斜め後ろへ入れていた。
「全員、その場で待て」
誰の声なのか、ベルにはすぐに分からなかった。
灰髪の女も、同じことを命じそうな姿で立っていたからだ。
だが、声はリヴェリアのものだった。
「……彼女を、囲むな!」
女の姿勢が、変わっていた。
足が動いたわけではない。客として相手に預けていた身体の傾きが消え、肩と首が、最初からそこにしか置けなかったような位置へ収まる。
指が開く。
何も握っていないのに、誰も近づけない手になった。
わずかに上がった顎が、室内を見渡す。
女は自分の目に、久しぶりに光を入れた。
「……随分と、変わったものだな」
低い声だった。
毎朝、味付けを尋ねてきたのと同じ喉から出ている。
それなのに、返事を待つための余白が──なかった。
*
リューは、自分の身体が覚えていたものを確かめた。
魔力の圧。重心の低さ。次の一歩を、相手に見せない立ち方。
七年前、立っているだけで仲間たちを圧倒した女が、そこにいた。
ただし、同じではなかった。
あのときは、黙っていても、呼吸の奥に擦れる音があった。
聞こうとしなくても、戦いが長引けば咳が混じった。勝ち目があると知ったのは、その音を聞いたからだ。
今は、ない。
病人が咳をこらえるときの気配すら、ない。
リューは知らず知らず、少年の肩に置いた指へ力を込めていた。
「リューさん……?」
ベルの声で、ようやく力を抜いた。
怖いから動くのではない。
守るものがあるから、怖くても動く。
七年前に立ち上がった自分たちも、そうだった。
*
「アルフィさん! 思い出したんですか!?」
女の視線が、少年へ戻った。
その瞬間だけ、室内を測る冷たい色が変わった。
「一音──足りない」
ベルは立ち上がった。
リューの手が肩から離れる。止めたかった。けれど、女が少年へ何を向けているのか、まだ判断がつかなかった。
「私が──アルフィアだ」
名が、部屋に落ちた。
シャクティは、目を閉じずにそれを受け取った。リヴェリアも、聞き違いだとは思わなかった。
レフィーヤだけが、その名を記憶の中から探し、見つけたところで顔色を変えた。
古い遠征記録。英雄たちの名簿。先日、先生が口にした、丘を斬れと命じた人。
その人が、茶を淹れた。
風呂の蓋を戻しに、廊下を歩いていった。
その食い違いを頭が片づけるより早く、身体の方が現実を認めた。
「アルフィア、さん……」
確かめるように、ベルがその名を口にした。
女の眉が、わずかに寄った。
「続けて言うな。海竜の名に聞こえる。そこで一度、切れ」
妙な注意だった。
ベルは
女の口元が、ほんのわずかに上がった。
*
部屋の扉が開いた。
先に入ったのはアミッドで、ヘスティアとリリが続いた。ギルドからの連絡札を受け取り、近くまで来ていたのだ。
女神は、開いた瞳を見た瞬間に事情を理解した。
「……戻ったんだね」
「炉の女神か」
アルフィアは、わずかに頭を動かした。
「世話になった。借りは、覚えている」
ヘスティアは、その一言に救われた。
救われた次の瞬間、どこまで覚えているのかを想像して、また心細くなった。
アルフィアは、もう彼女を見ていなかった。
白い髪の少年だけを、見ていた。
「おまえの母は──メーテリアという」
ベルの顔から、質問するための表情が消えた。
「……僕の……」
「私の妹だ。双子だった。あれの髪は、おまえと同じ白。目は、蒼かった」
知らない母親を思い浮かべようとすると、ベルの中にはいつも、何もない場所しかできなかった。
そこへ今、目の前の女の輪郭が入った。
髪の色を変える。
目の色も、変える。
それだけで母の顔ができてしまうことが、怖いほど嬉しかった。
「あの子は、死んだ。私も、死んだはずだった」
アルフィアは、その言葉を避けなかった。
少年を騙すために生き返ったのではない。
「おまえは、あの子の残した息子だ」
自分の口にした音が、耳の中で何度も鳴った。
息子。
あの子の。
記憶の底にあった白い寝台と、毎朝の食卓が繋がる。
洗った服のあちこちに、その子の血の跡があった。
自分の知らないところで、こんなにも大きくなり、こんなにも多く傷ついている。
アルフィアの指が、少年の頬へ向かいかけた。
途中で、止まる。
触れ方が、分からなかった。
*
そのとき、胸の奥で、古い力が動こうとした。
戦いを始めるたびに、あるいは発作が身体を
力をくれた。
同時に、力を奪った。
骨に
来る。
アルフィアは、当然のように痛みを待った。
しかし──来なかった。
噛み合うはずの場所に、もう、歪んだ歯がない。
息を吸う。
深く、もう一度。
喉も、肺も、胸のどこも痛まない。
「……ない……?」
女は、自分の胸に手を置いた。
生まれたときから、そこにあった病だった。
自分だけなら、この身体も才能の値段だと切り捨てられた。同じ病が妹を殺したことだけは、最後まで納得できなかった。
その病が、ない。
アルフィアは初めて、健康な自分の身体に驚いた。
そこへ──七年のあいだ止まっていた力が、流れ込んできた。
*
魔力は、増えたのではなかった。
流れはじめたのだ。
女の中には、塞がれた河があった。幾重もの
窓の
卓の水差しの水面が、縁へ寄る。
アミッドは、アイズの脈をとる指を離さないまま叫んだ。
「リヴェリア様、窓際から皆さんを離してくださいッ!」
「レフィーヤ、私に続け! リュー、ベルを!」
リヴェリアが詠唱を始めた。
守るための魔法だった。敵意があるかどうかを見極めてからでは、病床も、戦えない者も守れない。
レフィーヤも声を重ね、部屋の端へ魔力を編む。
ティオナとティオネが、扉から駆け戻ってきた。中を見るなり、姉妹は左右へ分かれる。
「あたし、前ッ!」
「むやみに触るんじゃないよッ!」
ティオネは言いながら、エイナとニイナを自分の背中の陰へ寄せた。エイナは、まだ妹の腕を離していなかった。
シャクティも動いた。誰から守るか、声に出している暇はない。
アイズが寝台の上で身を起こそうとして、アミッドに肩を押さえられた。
「今は、動かないでッ!」
金の目だけが、女を追った。
強い。
その一語が、いつもとは違う重さで胸に落ちた。
*
アルフィアは、彼らを見た。
誰も逃げ出していない。
怯えながら、それでも守る相手を選んで動いている。
古い者も、新しい者も。立てない剣の娘まで、隣の少年へ手を伸ばそうとしている。
自分たちが、残したかったものだった。
それを残すために、自分は何をしたか。
そんな自分が今、それを受け取る側に立っている。
「私に、魔法を撃つな」
女は言った。
リヴェリアの顔が険しくなる。
「ならば、おまえが止めろッ!」
「今、止める」
短く返し、アルフィアは胸から手を離した。
器を置くときのように、指先の力を抜く。
「【
魔法が、女の全身を覆った。
薄く、鋭く、隙間がない。
リヴェリアは、その正体を知っていた。
【
外から来る魔法を無にする鎧。そう見せかけて、自分の内側を抑え込む
女はようやく、その枷を、今の自分の大きさに合わせた。
窓の震えが止まる。
だが──魔力は、収まらない。
外へ漏らさなくなっただけだ。内側へ押し戻された流れは、次の流れとぶつかり、枷を内から軋ませる。
このまま閉じ込めれば、いずれ身体か鎧の、どちらかが負ける。
「中身が、違うか……」
アルフィアは、自分に向けて呟いた。
昨日と同じ鍋に、昨日とは違うものが入っている。
同じ量を、同じように扱えば、溢れる。
ならば、形を変える。
もっとも深く覚え、もっとも細かく扱える魔法へ、この流れを編み直す。鐘に収め、街の上空で解く。
海を割った大魔法の形を、溢れる力の受け皿に選んだ。
指一本ぶん流れを誤れば、受け皿ごと砕ける。
アルフィアは、その一本を誤るつもりがなかった。
*
「──祝福の禍根、生誕の呪い」
最初の一節で、リューの顔から血の気が引いた。
リヴェリアの詠唱は止まらなかった。止めれば、自分の防護が間に合わない。
ただ、胸の内で、声にならない叫びが上がった。
ここで、それを使うな──!
「──半身喰らいし我が身の原罪」
光が、女の頭上に集まった。
まだ、魔法を解き放ってはいない。膨大な魔力に、形を与えるための詠唱だった。
形を得る前のものが、すでにこれほどある。
「なに、あれ……!?」
ティオナの声が、細くなった。
【ジェノス・アンジェラス】。海竜を葬ったという魔法の名を、リヴェリアは知っていた。その名が今、病室の中で意味を持った。
鐘の輪郭が、天井の向こうへ伸びていく。
石は割れない。梁も崩れない。それでも、建物より大きなものの影が、建物の中へ入ってくる。
「──
アルフィアの声には、一音の揺れもなかった。
その声の通り方を、レフィーヤは、茶の淹れ方を話していたときにも聞いた。一度覚えたものを、もう間違えない人の声だ。
それが今は、自分たちを残らず消せる言葉に使われている。
「あれが……海竜を……ッ!」
レフィーヤは言い切れず、防護へ力を注いだ。
リヴェリアは、女の口元を見た。
血がない。
喉の引きつれも、息の詰まりもない。
無理をしていないことが、何より恐ろしかった。
「──鳴り響く天の音色こそ、私の罪」
髪が浮いた。
女の足は、床についたままだった。
自分が動く必要など、どこにもないのだ。
*
街路で、ヘルメスは空を見上げた。
バベルの傍らに、鐘があった。
塔の石と重なりながら、塔よりもはっきりした輪郭を持つ、銀灰色の鐘だった。
彼は、帽子の縁を掴んだ。
「アスフィ」
「見えています」
「そうだね。僕にも──見える」
見えなければ、どれほどよかっただろう。
その願いは、次の瞬間、一つの音に砕かれた。
──ゴ───ン……
鐘が、鳴った。
打ち下ろす最後の一打ではなかった。
魔力が器の内側に触れた、最初の共鳴だった。
低く、澄んで、聞こえるはずのない遠さまで届いていく。
海を割った女の音を知る神々が、同じ瞬間に口を閉じた。
*
酒場の屋根で、ヘディンは持っていた杖を握り直した。
ヘグニは何も言わず、エプロンを外し戸口へ向かう。
言うべきことは、もう音が伝えていた。
街の外周で訓練していたオッタルも、顔を上げた。
戦斧の柄を拾い、バベルへ向けて歩き出す。途中から、足が速くなった。
酒場で、シルは受け取った皿をカウンターへ戻した。
割らなかったのは、長く給仕をしてきた手の習慣だった。
「……ミア母さん」
「行っといで」
店主は、もう返事を用意していた。
ロキは自室の窓を開け、塔を見た。
「うちの、アホ……!」
誰に向けた悪態なのか、自分でも分からなかった。
生き返らせた骨の魔術師か。預かったドチビか。子どもらを見舞いに送り出した、自分か。
けれど、その音を疑う神はいなかった。
《
*
「──神々の
レオンは、治療院の階段を駆け上がっていた。
退院する生徒の付き添いを終えて、ちょうど帰るところだった。
あの音を聞いたとき、かつての海が足元へ戻ってきた。
だが、あの日よりも、音が厚い。
騎士は、踊り場をひと跳びで越えた。今度は、生徒を安心させるための笑顔を作らなかった。
「──箱庭に愛されし我が運命よ、砕け散れ」
病室の前まで来ると、廊下にいた者たちが道を開けた。
扉の内側に、女がいた。
昔と同じ女が、昔は持てなかった身体で、歌っていた。
レオンは、その違いを一目で理解した。
あの人は、もう、自分の力に負けていない。
*
「──私はおまえを、憎んでいる」
ベルは、その言葉を聞いた。
恐ろしい意味だった。リューの指が冷えている。レフィーヤは額に汗を浮かべ、リヴェリアは魔法を支えるために足を踏み開いている。
それなのに──その声を、知っていた。
言葉の方ではない。
息を継ぐ位置。音が低く沈むところ。次の節へ移る前に、ごく短く伸びる響き。
昨夜、隣の部屋から聞こえた鼻歌にも、同じ響きがあった。
もっと前にも、聞いた気がした。
幼い頃、どこで覚えたのか分からない節を口ずさんだら、祖父に笑われた。覚えていなくても、覚えていることはあるものだ、と。
その旋律だった。
「──代償はここに。罪の証をもって、すべてを滅す」
アルフィアの指先に、光が集まる。
彼女は、その流れを上空へ向けていた。街へ落とさず、空の高いところで解くための形を、精密に組み上げていた。
けれど、周りの者にそれを知る術はない。目に見えるのは、ただその大きさだけだった。
一つでも制御を誤れば、この病室だけでは済まない。
ヘスティアはベルの名を呼ぼうとして、女の顔を見た。
楽しそうだった。
暴れることを楽しんでいる顔ではなかった。
息ができる。立っていられる。あの子が、目の前にいる。そのすべてを、初めて手にした者の顔だった。
「──鳴け、
鐘が、傾いた。
街で、無数の人々が肩をすくめた。
リヴェリアは、残る魔力をすべて防護へ注いだ。
レオンが、剣の柄に手を掛けたまま、扉から一歩踏み込んだ。
間に合うかどうかを考えるより早く、ベルが女へ手を伸ばしていた。
「ジェノス・アンジェ──」
伸ばした先にあるのは、今朝、彼の食器を受け取った手だった。
服の傷を見つけ、帰る時刻を尋ねてくれた手だった。
母の顔を知らなかった少年は、いま初めて、その顔に向かって呼んだ。
「──お母さんッ!」
詠唱が──止まった。
*
何より先に、女が自分の声を止めた。
巨大な鐘も、動きを止めた。
【
白い指の間から、一筋だけ光が漏れた。
アルフィアはそれを、絡まりかけた糸を戻すように、そっと掴む。
頬が、熱を帯びた。
手首に一瞬、細い火傷のような赤みが走る。
だが──咳はしなかった。
背も、曲げなかった。
目の前の少年を、ただ、見ていた。
聞き逃したくなかった。
鐘の一打でも、自分の詠唱の一音でも、今の呼び声の上に重ねたくなかった。
自分の魔法の完成より、そちらが先だった。
*
十秒ほど、誰も何も言わなかった。
窓の外では旗が揺れ、廊下では誰かが医療用の盆を抱えている。どの心臓も、持ち主にとってはうるさいほど脈打っていた。
ただ、最初に音を出す順番を、誰も決められなかった。
アルフィアは、少年が伸ばした手を見た。
取る。
今度は、触れ方を知っていた。
初めて廊下で借りた
「……そうか」
声は、低いままだった。
それを柔らかくしようとして、女は口元に力を入れた。妹が笑うときの形を、思い出しながら。
うまくできたのかどうか、自分では分からなかった。
ベルは、少しだけ迷ってから、笑い返した。
空にあった鐘の輪郭が、薄れていく。
光は、一度には戻らなかった。女は魔法の形を少しずつほどき、【
リヴェリアは、その一部始終を見た。
奇跡的に暴発を免れたのではない。
止めると決めた女が、止めたのだ。
病のない身体で。
自分の魔力を、初めて最後まで使える身体で。
「……おまえ、病は」
口にしてから、答えはもう見たと思った。
アルフィアは、当然のように返した。
「ないらしい」
それを聞いて、レオンの手が剣から離れた。
安心したからではなかった。
今ここで、この女に剣を抜くことの意味が、以前とは変わったのだ。
*
ヘスティアが、ゆっくりと息を吐いた。
帰ってきた。
記憶が戻った、というだけではない。かつて誰も見たことのない、欠けたところのない姿で。
その女は、甥の手を握ったまま、もう一方の手首に浮いた熱を、つまらなそうに払っていた。
「驚かせたな」
言った相手は、ベルだった。
リリは、壁に頭を預けた。
リヴェリアは、防護を解く前に人数を数えた。
リューは、まだ少年の隣から動かなかった。
誰もが、生きている。
それを確かめ合う彼らの前で、女はもう、少年の袖を見ていた。
「この傷の話は、あとで聞く」
ベルが、素直に頷く。
アルフィアは、満足したように顎を引いた。
その手は、少年の手を離さなかった。