灰髪の魔女   作:彪(あや)

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第九章 静寂、完全なるもの

 

 瞼が開いた。

 

 左の瞳に、灰があった。

 右の瞳に、翠があった。

 

 ベルは、その色を最初に見た。

 道具屋で、似合いそうだと思った髪留めの石と、同じ色だった。

 そう思った瞬間、傍らでリューが動いた。

 

 いつもの、少年の怪我を心配するときの動きではなかった。

 半歩前へ出る。片手を彼の肩に置き、もう片方の手で腰の武具を確かめる。

 リヴェリアは既に、レフィーヤを自分の斜め後ろへ入れていた。

 

「全員、その場で待て」

 

 誰の声なのか、ベルにはすぐに分からなかった。

 灰髪の女も、同じことを命じそうな姿で立っていたからだ。

 だが、声はリヴェリアのものだった。

 

「……彼女を、囲むな!」

 

 女の姿勢が、変わっていた。

 足が動いたわけではない。客として相手に預けていた身体の傾きが消え、肩と首が、最初からそこにしか置けなかったような位置へ収まる。

 

 指が開く。

 何も握っていないのに、誰も近づけない手になった。

 

 わずかに上がった顎が、室内を見渡す。

 女は自分の目に、久しぶりに光を入れた。

 

「……随分と、変わったものだな」

 

 低い声だった。

 毎朝、味付けを尋ねてきたのと同じ喉から出ている。

 それなのに、返事を待つための余白が──なかった。

 

         *

 

 リューは、自分の身体が覚えていたものを確かめた。

 魔力の圧。重心の低さ。次の一歩を、相手に見せない立ち方。

 

 七年前、立っているだけで仲間たちを圧倒した女が、そこにいた。

 ただし、同じではなかった。

 

 あのときは、黙っていても、呼吸の奥に擦れる音があった。

 聞こうとしなくても、戦いが長引けば咳が混じった。勝ち目があると知ったのは、その音を聞いたからだ。

 

 今は、ない。

 病人が咳をこらえるときの気配すら、ない。

 リューは知らず知らず、少年の肩に置いた指へ力を込めていた。

 

「リューさん……?」

 

 ベルの声で、ようやく力を抜いた。

 怖いから動くのではない。

 守るものがあるから、怖くても動く。

 七年前に立ち上がった自分たちも、そうだった。

 

         *

 

「アルフィさん! 思い出したんですか!?」

 

 女の視線が、少年へ戻った。

 その瞬間だけ、室内を測る冷たい色が変わった。

 

「一音──足りない」

 

 ベルは立ち上がった。

 リューの手が肩から離れる。止めたかった。けれど、女が少年へ何を向けているのか、まだ判断がつかなかった。

 

「私が──アルフィアだ」

 

 名が、部屋に落ちた。

 シャクティは、目を閉じずにそれを受け取った。リヴェリアも、聞き違いだとは思わなかった。

 

 レフィーヤだけが、その名を記憶の中から探し、見つけたところで顔色を変えた。

 古い遠征記録。英雄たちの名簿。先日、先生が口にした、丘を斬れと命じた人。

 

 その人が、茶を淹れた。

 風呂の蓋を戻しに、廊下を歩いていった。

 その食い違いを頭が片づけるより早く、身体の方が現実を認めた。

 

「アルフィア、さん……」

 

 確かめるように、ベルがその名を口にした。

 女の眉が、わずかに寄った。

 

「続けて言うな。海竜の名に聞こえる。そこで一度、切れ」

 

 妙な注意だった。

 ベルは咄嗟(とっさ)に、はい、と答えた。

 女の口元が、ほんのわずかに上がった。

 

         *

 

 部屋の扉が開いた。

 先に入ったのはアミッドで、ヘスティアとリリが続いた。ギルドからの連絡札を受け取り、近くまで来ていたのだ。

 

 女神は、開いた瞳を見た瞬間に事情を理解した。

 

「……戻ったんだね」

 

「炉の女神か」

 

 アルフィアは、わずかに頭を動かした。

 

「世話になった。借りは、覚えている」

 

 ヘスティアは、その一言に救われた。

 救われた次の瞬間、どこまで覚えているのかを想像して、また心細くなった。

 

 アルフィアは、もう彼女を見ていなかった。

 白い髪の少年だけを、見ていた。

 

「おまえの母は──メーテリアという」

 

 ベルの顔から、質問するための表情が消えた。

 

「……僕の……」

 

「私の妹だ。双子だった。あれの髪は、おまえと同じ白。目は、蒼かった」

 

 知らない母親を思い浮かべようとすると、ベルの中にはいつも、何もない場所しかできなかった。

 そこへ今、目の前の女の輪郭が入った。

 

 髪の色を変える。

 目の色も、変える。

 それだけで母の顔ができてしまうことが、怖いほど嬉しかった。

 

「あの子は、死んだ。私も、死んだはずだった」

 

 アルフィアは、その言葉を避けなかった。

 少年を騙すために生き返ったのではない。

 

「おまえは、あの子の残した息子だ」

 

 自分の口にした音が、耳の中で何度も鳴った。

 息子。

 あの子の。

 

 記憶の底にあった白い寝台と、毎朝の食卓が繋がる。

 洗った服のあちこちに、その子の血の跡があった。

 自分の知らないところで、こんなにも大きくなり、こんなにも多く傷ついている。

 

 アルフィアの指が、少年の頬へ向かいかけた。

 途中で、止まる。

 触れ方が、分からなかった。

 

         *

 

 そのとき、胸の奥で、古い力が動こうとした。

 戦いを始めるたびに、あるいは発作が身体を蝕む(むしばむ)たびに、ずっとそこにあったものだ。

 

 力をくれた。

 同時に、力を奪った。

 骨に痺れ(しびれ)を入れ、息を濁らせ、やがて立っている足の意味まで奪っていく。限界を超える代わりに、己のすべてを払い続ける仕組み。

 

 来る。

 

 アルフィアは、当然のように痛みを待った。

 しかし──来なかった。

 

 噛み合うはずの場所に、もう、歪んだ歯がない。

 息を吸う。

 深く、もう一度。

 喉も、肺も、胸のどこも痛まない。

 

「……ない……?」

 

 女は、自分の胸に手を置いた。

 生まれたときから、そこにあった病だった。

 

 自分だけなら、この身体も才能の値段だと切り捨てられた。同じ病が妹を殺したことだけは、最後まで納得できなかった。

 

 その病が、ない。

 アルフィアは初めて、健康な自分の身体に驚いた。

 

 そこへ──七年のあいだ止まっていた力が、流れ込んできた。

 

         *

 

 魔力は、増えたのではなかった。

 流れはじめたのだ。

 

 女の中には、塞がれた河があった。幾重もの堰(せき)の向こうへ押し込められ、深く冷えていたものが、記憶と一緒に出口を見つけた。

 

 窓の桟(さん)が、震えた。

 卓の水差しの水面が、縁へ寄る。

 アミッドは、アイズの脈をとる指を離さないまま叫んだ。

 

「リヴェリア様、窓際から皆さんを離してくださいッ!」

 

「レフィーヤ、私に続け! リュー、ベルを!」

 

 リヴェリアが詠唱を始めた。

 守るための魔法だった。敵意があるかどうかを見極めてからでは、病床も、戦えない者も守れない。

 

 レフィーヤも声を重ね、部屋の端へ魔力を編む。

 ティオナとティオネが、扉から駆け戻ってきた。中を見るなり、姉妹は左右へ分かれる。

 

「あたし、前ッ!」

 

「むやみに触るんじゃないよッ!」

 

 ティオネは言いながら、エイナとニイナを自分の背中の陰へ寄せた。エイナは、まだ妹の腕を離していなかった。

 シャクティも動いた。誰から守るか、声に出している暇はない。

 

 アイズが寝台の上で身を起こそうとして、アミッドに肩を押さえられた。

 

「今は、動かないでッ!」

 

 金の目だけが、女を追った。

 強い。

 その一語が、いつもとは違う重さで胸に落ちた。

 

         *

 

 アルフィアは、彼らを見た。

 誰も逃げ出していない。

 怯えながら、それでも守る相手を選んで動いている。

 

 古い者も、新しい者も。立てない剣の娘まで、隣の少年へ手を伸ばそうとしている。

 自分たちが、残したかったものだった。

 

 それを残すために、自分は何をしたか。

 そんな自分が今、それを受け取る側に立っている。

 

「私に、魔法を撃つな」

 

 女は言った。

 リヴェリアの顔が険しくなる。

 

「ならば、おまえが止めろッ!」

 

「今、止める」

 

 短く返し、アルフィアは胸から手を離した。

 器を置くときのように、指先の力を抜く。

 

「【魂の平静(アタラクシア)】」

 

 魔法が、女の全身を覆った。

 薄く、鋭く、隙間がない。

 

 リヴェリアは、その正体を知っていた。

 【静寂の園(シレンティウム・エデン)】。

 外から来る魔法を無にする鎧。そう見せかけて、自分の内側を抑え込む枷(かせ)。

 

 女はようやく、その枷を、今の自分の大きさに合わせた。

 窓の震えが止まる。

 だが──魔力は、収まらない。

 

 外へ漏らさなくなっただけだ。内側へ押し戻された流れは、次の流れとぶつかり、枷を内から軋ませる。

 このまま閉じ込めれば、いずれ身体か鎧の、どちらかが負ける。

 

「中身が、違うか……」

 

 アルフィアは、自分に向けて呟いた。

 昨日と同じ鍋に、昨日とは違うものが入っている。

 同じ量を、同じように扱えば、溢れる。

 

 ならば、形を変える。

 もっとも深く覚え、もっとも細かく扱える魔法へ、この流れを編み直す。鐘に収め、街の上空で解く。

 海を割った大魔法の形を、溢れる力の受け皿に選んだ。

 

 指一本ぶん流れを誤れば、受け皿ごと砕ける。

 アルフィアは、その一本を誤るつもりがなかった。

 

         *

 

「──祝福の禍根、生誕の呪い」

 

 最初の一節で、リューの顔から血の気が引いた。

 リヴェリアの詠唱は止まらなかった。止めれば、自分の防護が間に合わない。

 ただ、胸の内で、声にならない叫びが上がった。

 ここで、それを使うな──!

 

「──半身喰らいし我が身の原罪」

 

 光が、女の頭上に集まった。

 まだ、魔法を解き放ってはいない。膨大な魔力に、形を与えるための詠唱だった。

 形を得る前のものが、すでにこれほどある。

 

「なに、あれ……!?」

 

 ティオナの声が、細くなった。

 【ジェノス・アンジェラス】。海竜を葬ったという魔法の名を、リヴェリアは知っていた。その名が今、病室の中で意味を持った。

 

 鐘の輪郭が、天井の向こうへ伸びていく。

 石は割れない。梁も崩れない。それでも、建物より大きなものの影が、建物の中へ入ってくる。

 

「──禊(みそぎ)はなく、浄化はなく。救いはなく」

 

 アルフィアの声には、一音の揺れもなかった。

 その声の通り方を、レフィーヤは、茶の淹れ方を話していたときにも聞いた。一度覚えたものを、もう間違えない人の声だ。

 

 それが今は、自分たちを残らず消せる言葉に使われている。

 

「あれが……海竜を……ッ!」

 

 レフィーヤは言い切れず、防護へ力を注いだ。

 リヴェリアは、女の口元を見た。

 

 血がない。

 喉の引きつれも、息の詰まりもない。

 無理をしていないことが、何より恐ろしかった。

 

「──鳴り響く天の音色こそ、私の罪」

 

 髪が浮いた。

 女の足は、床についたままだった。

 自分が動く必要など、どこにもないのだ。

 

         *

 

 街路で、ヘルメスは空を見上げた。

 バベルの傍らに、鐘があった。

 

 塔の石と重なりながら、塔よりもはっきりした輪郭を持つ、銀灰色の鐘だった。

 彼は、帽子の縁を掴んだ。

 

「アスフィ」

 

「見えています」

 

「そうだね。僕にも──見える」

 

 見えなければ、どれほどよかっただろう。

 その願いは、次の瞬間、一つの音に砕かれた。

 

 ──ゴ───ン……

 

 鐘が、鳴った。

 

 打ち下ろす最後の一打ではなかった。

 魔力が器の内側に触れた、最初の共鳴だった。

 低く、澄んで、聞こえるはずのない遠さまで届いていく。

 

 海を割った女の音を知る神々が、同じ瞬間に口を閉じた。

 

         *

 

 酒場の屋根で、ヘディンは持っていた杖を握り直した。

 ヘグニは何も言わず、エプロンを外し戸口へ向かう。

 言うべきことは、もう音が伝えていた。

 

 街の外周で訓練していたオッタルも、顔を上げた。

 戦斧の柄を拾い、バベルへ向けて歩き出す。途中から、足が速くなった。

 

 酒場で、シルは受け取った皿をカウンターへ戻した。

 割らなかったのは、長く給仕をしてきた手の習慣だった。

 

「……ミア母さん」

 

「行っといで」

 

 店主は、もう返事を用意していた。

 ロキは自室の窓を開け、塔を見た。

 

「うちの、アホ……!」

 

 誰に向けた悪態なのか、自分でも分からなかった。

 生き返らせた骨の魔術師か。預かったドチビか。子どもらを見舞いに送り出した、自分か。

 

 けれど、その音を疑う神はいなかった。

 

 《静寂(アルフィア)》が──戻った。

 

         *

 

「──神々の喇叭(らっぱ)、精霊の竪琴(たてごと)、光の旋律、すなわち罪禍(ざいか)の烙印(らくいん)」

 

 レオンは、治療院の階段を駆け上がっていた。

 退院する生徒の付き添いを終えて、ちょうど帰るところだった。

 

 あの音を聞いたとき、かつての海が足元へ戻ってきた。

 だが、あの日よりも、音が厚い。

 掠れ(かすれ)が、どこにもない。

 

 騎士は、踊り場をひと跳びで越えた。今度は、生徒を安心させるための笑顔を作らなかった。

 

「──箱庭に愛されし我が運命よ、砕け散れ」

 

 病室の前まで来ると、廊下にいた者たちが道を開けた。

 

 扉の内側に、女がいた。

 昔と同じ女が、昔は持てなかった身体で、歌っていた。

 

 レオンは、その違いを一目で理解した。

 あの人は、もう、自分の力に負けていない。

 

         *

 

「──私はおまえを、憎んでいる」

 

 ベルは、その言葉を聞いた。

 恐ろしい意味だった。リューの指が冷えている。レフィーヤは額に汗を浮かべ、リヴェリアは魔法を支えるために足を踏み開いている。

 

 それなのに──その声を、知っていた。

 言葉の方ではない。

 

 息を継ぐ位置。音が低く沈むところ。次の節へ移る前に、ごく短く伸びる響き。

 昨夜、隣の部屋から聞こえた鼻歌にも、同じ響きがあった。

 もっと前にも、聞いた気がした。

 

 幼い頃、どこで覚えたのか分からない節を口ずさんだら、祖父に笑われた。覚えていなくても、覚えていることはあるものだ、と。

 その旋律だった。

 

「──代償はここに。罪の証をもって、すべてを滅す」

 

 アルフィアの指先に、光が集まる。

 彼女は、その流れを上空へ向けていた。街へ落とさず、空の高いところで解くための形を、精密に組み上げていた。

 

 けれど、周りの者にそれを知る術はない。目に見えるのは、ただその大きさだけだった。

 一つでも制御を誤れば、この病室だけでは済まない。

 

 ヘスティアはベルの名を呼ぼうとして、女の顔を見た。

 楽しそうだった。

 暴れることを楽しんでいる顔ではなかった。

 

 息ができる。立っていられる。あの子が、目の前にいる。そのすべてを、初めて手にした者の顔だった。

 

「──鳴け、聖鐘楼(せいしょうろう)!」

 

 鐘が、傾いた。

 街で、無数の人々が肩をすくめた。

 

 リヴェリアは、残る魔力をすべて防護へ注いだ。

 レオンが、剣の柄に手を掛けたまま、扉から一歩踏み込んだ。

 間に合うかどうかを考えるより早く、ベルが女へ手を伸ばしていた。

 

「ジェノス・アンジェ──」

 

 伸ばした先にあるのは、今朝、彼の食器を受け取った手だった。

 服の傷を見つけ、帰る時刻を尋ねてくれた手だった。

 

 母の顔を知らなかった少年は、いま初めて、その顔に向かって呼んだ。

 

「──お母さんッ!」

 

 詠唱が──止まった。

 

         *

 

 何より先に、女が自分の声を止めた。

 巨大な鐘も、動きを止めた。

 

 【静寂の園(シレンティウム・エデン)】が内側へ強く締まり、解き放たれかけた力を、女の身体へ繋ぎ留める。

 白い指の間から、一筋だけ光が漏れた。

 アルフィアはそれを、絡まりかけた糸を戻すように、そっと掴む。

 

 頬が、熱を帯びた。

 手首に一瞬、細い火傷のような赤みが走る。

 だが──咳はしなかった。

 背も、曲げなかった。

 目の前の少年を、ただ、見ていた。

 

 聞き逃したくなかった。

 

 鐘の一打でも、自分の詠唱の一音でも、今の呼び声の上に重ねたくなかった。

 自分の魔法の完成より、そちらが先だった。

 

         *

 

 十秒ほど、誰も何も言わなかった。

 

 窓の外では旗が揺れ、廊下では誰かが医療用の盆を抱えている。どの心臓も、持ち主にとってはうるさいほど脈打っていた。

 ただ、最初に音を出す順番を、誰も決められなかった。

 

 アルフィアは、少年が伸ばした手を見た。

 取る。

 

 今度は、触れ方を知っていた。

 初めて廊下で借りた春姫(はるひめ)の腕と、今朝、街へ出るときに差し出された掌が、同じ強さを教えていた。

 

「……そうか」

 

 声は、低いままだった。

 それを柔らかくしようとして、女は口元に力を入れた。妹が笑うときの形を、思い出しながら。

 うまくできたのかどうか、自分では分からなかった。

 

 ベルは、少しだけ迷ってから、笑い返した。

 

 空にあった鐘の輪郭が、薄れていく。

 光は、一度には戻らなかった。女は魔法の形を少しずつほどき、【静寂の園(シレンティウム・エデン)】の内側へ、耐えられる量ずつ収めていった。

 

 リヴェリアは、その一部始終を見た。

 奇跡的に暴発を免れたのではない。

 止めると決めた女が、止めたのだ。

 

 病のない身体で。

 自分の魔力を、初めて最後まで使える身体で。

 

「……おまえ、病は」

 

 口にしてから、答えはもう見たと思った。

 アルフィアは、当然のように返した。

 

「ないらしい」

 

 それを聞いて、レオンの手が剣から離れた。

 安心したからではなかった。

 今ここで、この女に剣を抜くことの意味が、以前とは変わったのだ。

 

         *

 

 ヘスティアが、ゆっくりと息を吐いた。

 帰ってきた。

 

 記憶が戻った、というだけではない。かつて誰も見たことのない、欠けたところのない姿で。

 その女は、甥の手を握ったまま、もう一方の手首に浮いた熱を、つまらなそうに払っていた。

 

「驚かせたな」

 

 言った相手は、ベルだった。

 リリは、壁に頭を預けた。

 リヴェリアは、防護を解く前に人数を数えた。

 リューは、まだ少年の隣から動かなかった。

 

 誰もが、生きている。

 それを確かめ合う彼らの前で、女はもう、少年の袖を見ていた。

 

「この傷の話は、あとで聞く」

 

 ベルが、素直に頷く。

 アルフィアは、満足したように顎を引いた。

 

 その手は、少年の手を離さなかった。

 

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