灰髪の魔女   作:彪(あや)

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第十章 七日目の帰宅

 

「まず、その手を見せてください」

 

 世界を滅ぼせるかもしれない女に、アミッドは診察用の布を差し出した。

 

 アルフィアは、自分の手首を見た。

 

「この程度は、じきに消える」

 

「消える前に、確認します」

 

 医者の声は、少しも変わらない。

 アルフィアはわずかに眉を寄せ、それから腕を出した。

 

 ヘスティアは、その動きを見て深く頷いた。

 正面から正しい手順を求められると、この女は案外、従う。それを知った者が、また一人増えた。

 

「痺れは」

 

「ない」

 

「息苦しさは」

 

「ない」

 

「同じ魔法を、続けて使おうとはなさらないでください」

 

 女の返事が、遅れた。

 アミッドが顔を上げる。

 

「今のは、お願いではありません」

 

 リリが、唇を噛んだ。

 この人に、正面から「お願いではない」と言える者がいる。思わず感心の声が漏れそうになったのを、堪えた(こらえた)のである。

 

 アルフィアは、短く頷いた。

 

「分かった。今日は、使わない」

 

 「今日は」という範囲の狭さに、誰かが口を挟むより早く、アイズが寝台の端に手をついた。

 

「私も、見てほしい」

 

 アミッドが、診察のために彼女へ向き直る。

 けれど金の瞳は、医者ではなく、灰と翠の瞳を見ていた。

 

「……治ってから」

 

 少女はそこで言葉を切った。

 アルフィアには、続きを聞く必要がなかった。

 

「剣の振り方か」

 

 アイズが頷く。

 アミッドは、自分が呼ばれたのではないと悟り、黙って少女の肩に手を戻した。

 アルフィアは、寝具から外へ出かけていた足を指さした。

 

「ならば、まず戻せ。人に支えられて立てても、自分で立てたことにはならん」

 

 アイズは、足を戻した。

 その素直さを、リヴェリアはありがたいと思った。同時に、この先の面倒を予感した。

 

         *

 

 フェルズが駆けつけたとき、廊下には既にレオンが立っていた。

 白妖の魔杖(ヒルドスレイヴ)と黒妖の魔剣(ダインスレイヴ)も到着し、治療院の入口ではオッタルが事情を聞いている。

 

 病室の女は魔術師を見つけ、長く目を留めた。

 

「おまえが、引き戻したのか」

 

「ああ」

 

「余計なことを、と言うべきところだな」

 

 ヘスティアの顔が険しくなる。

 それより先に、女が続けた。

 

「……だが、借りは返す」

 

 フェルズは、何も言わずに頭を下げた。

 救った結果に、責任を持てるのか。あの氷室で答えられなかった問いは、今も終わっていない。

 それでも、その一言をもらえたことを、魔術師は軽く扱えなかった。

 

 アミッドが、所見を伝えた。病の徴候は、ない。

 アルフィアは椅子に腰を下ろし、胸の奥で動き損ねたものについて話しはじめた。

 

 【才禍代償(ギフ・ブレッシング)】。

 彼女の才能のすべてが、その力から来ていたわけではない。生まれ持った病の異常が、神の恩恵(ファルナ)の上に刻まれた形だった。

 

 能力を常に限界解除(リミット・オフ)の域まで引き上げる。その代わり、戦うたび、発作が起きるたびに、痺れや身体の不全を幾重にも呼び込む。能力も、体力も、精神力も、使うほど速く削られていく。

 

 病が消えた今、その発動の手応えがない。

 

「限界を外す力も、止まっているのだろう」

 

 フェルズの言葉に、女は頷いた。

 

「昔のまま得をした、という話ではない。恩恵(ファルナ)も、ヘラの更新を受けるまではレベル7のままだ。だが──」

 

 指を開いて、閉じる。

 

「昔の私が使えた量より、今ここに収まっている量の方が多い。しかも、使った端から身体が崩れていくことはない」

 

 リヴェリアは、その違いを、鐘を止めるところで既に見ていた。

 際限なく力を出せる、という意味ではない。大きな器を一度も底まで使えなかった女が、初めてその底に手が届く、ということだ。

 しかも、器そのものの形が変わっている。

 何が起きたのかを神聖文字(ヒエログリフ)で確かめられる者が、必要だった。

 

「ヘラに会う」

 

 女は、迷わず言った。

 ヘスティアは頭を抱えかけて、その手を下ろした。

 

「あぁ、実は目撃者が見つかったんだ。君にも確かめてからと、思ってたところだよ」

 

「なら、知らせろ。積もる話もあるが、所在が分からぬ神の眷族など、面倒なだけだ」

 

         *

 

 皆が廊下へ出たあと、リューは残った。

 シャクティも一緒だった。

 

 ベルはヘスティアに呼ばれ、戸口で一度振り返ってから出ていった。この人たちの間にあるものを、自分の質問で塞いではいけない。そのことが、ようやく分かりはじめていた。

 

 アルフィアは、二人に椅子を勧めなかった。

 座って話すべきことかどうかは、相手が決めればいい。

 

「七年前のことを、忘れてはいません」

 

 リューが言った。

 

「戻ったあなたが、ベルの血縁であることとも、それは別です」

 

「ああ」

 

「あなたの理屈を、正しかったとは言いません」

 

 女は、否定しなかった。

 自分のしたことに、勝手に綺麗な名をつけるつもりはない。

 正しいと信じたから、ああしたのか。そう問われれば、今も答えは否だ。ほかの道を、選びたくなかっただけだ。

 その身勝手さを、いまさら「英雄のため」という言葉だけで覆い隠す気もなかった。

 

「おまえらが忘れれば、それこそ、すべてが無駄になる」

 

 リューは、その返事を受け取った。

 赦しではない。和解と呼ぶには、欠けたままのものが多すぎる。

 

 シャクティが、続けた。

 

「ギルドの審理には、応じてもらう。過去の行為と、今回の魔法について」

 

「応じる」

 

「保護を受けたからといって、問われなくなるとは思わないでほしい」

 

「思っていない」

 

 明瞭な返事だった。

 シャクティは、それ以上、この場で死者の名を並べなかった。一度でもその名を口にすれば、あとに続ける言葉より、呑み込む言葉の方が多くなる。

 

 女は最後に、リューを見た。

 

「おまえの神は、まだ、同じ神か」

 

「いいえ」

 

 リューは、背筋を伸ばしたまま答えた。

 

「アストレア様のもとを離れ、【ヘスティア・ファミリア】に改宗(コンバージョン)しました。……先日のことです」

 

「アストレアは、それを許したか」

 

「送り出してくださいました」

 

 アルフィアの目が、ほんの少し細くなった。

 

「……なら、よい」

 

 よいと言われる筋合いはない、とリューは思った。

 それでも、その言葉を、昔と同じ意味では聞かなかった。

 

「私も、そうする」

 

「……は?」

 

「ヘラに会って、更新を済ませたら、こちらへ移る」

 

 リューは、三度まばたきをした。

 

「ヘスティア様には」

 

「まだ言っていない」

 

「先に、申し上げるべきでは」

 

「順番がある。ヘラが先だ」

 

「入る家の主神が、最後ですか」

 

「最後ではない。二番目だ」

 

 リューは、何か言いかけて、やめた。

 代わりに、少しだけ顎を上げた。

 

「では、私が先輩ということになりますね」

 

「何のだ」

 

「【ヘスティア・ファミリア】の、です。入った順で言えば」

 

「レベルは」

 

「関係ありません。この家では、入った順です」

 

 アルフィアは、黙った。

 黙ったまま、リューを上から下まで見た。

 

「……覚えておく」

 

「家のことは、ヘスティア様がお決めになります。それと、当番は守っていただきます。後輩ですので」

 

 言い終えてから、リューは自分の口に驚いた。

 七年前、この女の前で、こんなことを言える日が来るとは思っていなかった。

 

 戸口へ向かう背に、声が届いた。

 

「リュー」

 

 二つ名ではなかった。

 

「明日の浴室当番は、おまえだ。逃げるなよ、先輩」

 

 リューは、一拍遅れて「……はい」と答えた。

 後輩から当番を言い渡される先輩が、この家にはいるらしい。

 

 名前を呼ばれることと、掃除当番を言い渡されることが、同じ声の中にあるのだから。

 

         *

 

 ベルが戻ってきたとき、アルフィアは窓の外を見ていた。

 鐘は、もうない。

 石の塔の影だけが、いつもの向きに落ちている。

 

「さっきは、その……」

 

 ベルは、言葉を探した。

 お母さん、と呼んだ。

 目の前の人は母の双子の姉なのだから、正確には違う。

 けれど、間違いを訂正するように謝ることも、できなかった。

 

「僕、よく分からなくなって──」

 

 アルフィアは、少年に向き直った。

 

「分からないなら、今、決めなくてよい」

 

 言ってから、自分でも少し意外に思った。

 待つことを覚えたのは、この一週間だった。

 茶葉が開くまで、蓋を開けない。魚の皮が焼けるまで、箸で触らない。先に手を出せばいいというものではなかった。

 

「だが、おば、という音は要らん」

 

 ベルは、頭の中に並べかけていた呼び方の一つを、そっと引っ込めた。

 女は、真剣だった。

 

「アルフィアでよい。おまえが、ほかに呼びたいと思ったときは、そのときに呼べ」

 

 ベルが、小さく頷く。

 

 そこで女は、ようやく気づいた。

 この少年を、光の下で、自分の目で見るのは、これが初めてだった。

 

 声と足音と袖丈で知っていた背丈は、思っていたより高かった。

 肩はまだ薄い。首の筋も、細い。それなのに、立ち方の芯だけが、いつの間にか一本通っている。

 妹の面影は、探せば見つかるのだろう。けれど今は、探さなかった。探さずに見て、知らない少年だと思い、それでよいと思った。

 

「……レベル5と、聞いた」

 

 レベルの報告なら、ヘスティアから受けている。数字は知っていたが、詳しくは聞いていない。

 

「は、はい。あの、まだ全然、駆け出しですけど」

 

「駆け出しが、そんな手をしているか」

 

 アルフィアは、少年の右手を取った。

 

 取ってから、自分の動きに気づいた。

 

 男という生き物は、昔から好きではない。声が大きく、足音が荒く、約束を軽く口にする。近づく者は払い、払えない者は黙らせてきた。

 その自分が、男の手に自分から触れていた。

 

 しかも、少年の掌を、両手で包んでいる。

 

 指の付け根が、短剣の握りの形に硬く盛り上がっていた。擦り切れた古い傷。新しい傷。ヴェルフの縫った袖口から覗く手首に、細い線。

 どれも、洗濯のたびに布の上から知っていた傷だった。布越しにしか触れられなかったものに、いま初めて、直接触れている。

 

「あ、あの、アルフィアさん……? 手……」

 

 ベルの顔は、耳まで赤かった。

 

「黙っていろ。数えている」

 

「数えて……!?」

 

「傷だ」

 

 親指が、手首の線をなぞる。

 洗濯物の上から知っていたよりも、多かった。

 

「……あの男は」

 

 低い声が、少年の手の上に落ちた。

 

「【ゼウス・ファミリア】の、足音の荒い男だった。メーテリアが選んだと聞いても、私は一度も認めなかった」

 

「ぼ、僕の……父さん、ですか?」

 

「……よく戦ってきたな。あの男とは大違いだ。もしヤツが生きていたなら、まず私が殴る。生きていないのなら、墓の前で殴ってやろう」

 

 ベルは、褒められたのか、父が怒られたのか分からなかった。

 父親のことなら、祖父からも、ほとんど聞いたことがない。いまその人が、伯母の怒りを受けている。

 

「……その話は、長くなる。殴る順番も、まだ決めていない」

 

「じゅ、順番があるんですか……」

 

「ある。おまえは、心配しなくてよい」

 

 心配しないでいられる理由は、一つもなかったが、ベルはなぜか頷いてしまった。

 

 女は、そこで手を離した。

 離したあとも、掌には、硬い指の感触が残っていた。

 

 それから、ふと思い立ったように、少年の髪へ手を伸ばした。

 一度、撫でる。

 

 もっと撫でたかった。だが、風呂を洗った日に春姫(はるひめ)が教えてくれた力加減を、どうにか思い出した。

 ベルはうつむき、少し遅れて頷いた。

 その頭の形を、女は指の下で覚えた。

 

         *

 

 帰ってきた一行を、春姫(はるひめ)が出迎えた。

 夕食には間に合ったが、知らせておいた時刻よりは少し遅かった。

 

「おかえりなさいませ! 今日は、お疲れでは──」

 

 金の狐は、女の顔を見て止まった。

 灰と翠の目が、こちらを見ている。

 

「……お目が……」

 

「名は、アルフィアだ。手間をかけたな、春姫(はるひめ)」

 

 春姫(はるひめ)の顔が、ぱっと明るくなった。

 

「まあ……! 思い出されたのですね! よかったです!」

 

 ヘスティアは、その声を聞いて目の奥が熱くなった。

 最初に、そう言ってよかったのだ。

 戻ってきたことを、怖がるより前に。

 

 台所から、命(ミコト)が杓子(しゃくし)を持ったまま飛び出してきた。

 

「アルフィ殿! ……いえ、アルフィア殿! お帰りなさいませ!」

 

 一音足して、深々と頭を下げる。

 その律儀さに、女の口元がわずかに動いた。

 

「お食事は、すぐに温め直します! お風呂も、今日は私が──」

 

「なぜだ」

 

 アルフィアが、聞き返した。

 春姫(はるひめ)の尻尾が止まる。

 

「お疲れかと」

 

「疲れていない。私の当番だったはずだ」

 

 女は玄関に置かれていた籠を取り、取り込み途中の布を抱えた。

 

「その前に、こちらだ。日が落ちると湿る」

 

 ヴェルフが、作業場から顔を出した。

 

「おう、目、開いたのか! んじゃ、その服、袖だけあとで見せてくれ。直した糸、引きつれてねえか?」

 

「問題ない。礼を言う」

 

 女は、短く頭を下げた。

 リューが、廊下で足を止めた。

 

「……まだ、なさるのですか」

 

 アルフィアは、籠を持ち直した。

 

「私の服もある」

 

 それから、浴室の方へ目をやった。

 

「あの子の入る湯でもある」

 

 ヘスティアは、壁に手をついた。

 全部、戻ってきた。

 

 風呂の洗い方も。指の力加減も。少年の服が何枚破れていたかも。

 何ひとつ置き捨てずに、あの女は帰ってきた。

 

         *

 

 食卓では、ベルが三杯目をよそわれた。

 女の手つきは変わらない。変わったのは、声から遠慮が消えたことだけだった。

 

「食べろ。今日歩いた量なら、それで足りる」

 

「はい! でも、その、アルフィア……さんも」

 

 言われたとおり、名前のあとで一度、切った。

 

「食べている」

 

 ベルは、いつかの夕食で、神様が同じ返事をもらっていたのを思い出した。

 

 皿の音が、一つ鳴った。

 アルフィアの眉が動いた。けれど、叱りはしなかった。リリが慌てて器を置き直し、その慌てた音の方が大きくなる。

 

 女は、かえって口元をゆるめた。

 それを見て安心した者は、ほとんどいなかった。ヴェルフの箸が止まり、命(ミコト)の背筋がぴんと伸び、リリは器から手を離せなくなった。

 春姫(はるひめ)だけが、にこにこと笑い返していた。

 

 夕食が終わる頃、シルがやってきた。

 彼女は、女の開いた目を見て、しばらく何も言わなかった。

 

 先に口を開いたのは、アルフィアだった。

 

「……おまえ」

 

 灰と翠の目が、街娘の頭の先から足の先までを、一度なぞった。

 音を拾う目だった。声の高さ。足の運び。息の深さ。

 粗末な前掛けの下から、七年前に聞いた響きが、確かに鳴っている。

 

「その声は、覚えている。七年前、遠くから私を値踏みしていた」

 

「あら」

 

 シルは、笑顔を崩さなかった。

 

「……神、だな。おまえ、フレイヤだったのか」

 

 食卓が、しんと静まった。

 リリの手帳のペン先が、紙の上でぴたりと止まった。

 ヘスティアは、腰を浮かせかけた。

 

「ア、アルフィアくん! これには事情があってね!」

 

「分かっている。豊穣の女神が、前掛けを着けているのだ。事情しかない」

 

 シルは、一歩前へ出た。

 背筋を伸ばし、顎をわずかに上げる。髪を肩から払う。

 街娘の仮面を、ゆっくりと外す仕草だった。

 

「ええ。久しぶりね、アルフィア。七年も待たせて──」

 

 背後で、空気が少しだけ華やいだ気がした。

 気がしただけだった。魅了は封じたままなのだから、出てくるのは自負だけである。

 

 それでも彼女は、優雅に身を翻した。

 その拍子に、前掛けの紐が椅子の背に引っかかった。

 椅子が鳴る。卓の端の皿が滑る。

 

 春姫(はるひめ)の手が、一瞬で皿を受け止めた。

 誰も、礼を言わなかった。言えるような空気ではなかった。

 

「……この通り、今は少し、街娘をやっているの」

 

 シルは、紐を外しながら、女神の声で言い切った。

 リリが、小さく息を吐く。

 

「命が何度あったって足りませんよ……全く」

 

「リリルカさん」

 

「しっ、失礼しましたッ!」

 

 アルフィアは、それらを黙って見ていた。

 それから、ひとつだけ確かめた。

 

「魅了は、使っていないな」

 

「使えません。封じています」

 

「ならば、ただの給仕だ」

 

「ただの、ではありません。一応女神です」

 

「神が、酒場の給仕をするのか。それを選んだのか」

 

 シルは、背筋を伸ばした。

 

「ええ。フォールクヴァングは、取り上げられちゃいましたぁ。片付けとか、掃除とかはしないといけないんですけど……。今は『豊穣の女主人』が私の帰る場所です。昔の幹部たちも、みんなミアお母さんのお店で働いているんですよ」

 

「皆、か」

 

「皆です。オッタルさんはダンジョンで食材を採取して運び、ヘディンさんは護衛と帳場。ヘグニさんは……お客様の前に出るのを嫌がって、裏で皿を洗っていますし……アルフリッグさん達は夜表に出ていただいてます」

 

 アルフィアは、しばらく黙った。

 

「あの猪が、荷を運ぶのか」

 

「力仕事は、得意ですから」

 

「気難しいエルフが、帳場で」

 

「計算が速いんです。お釣りを間違えたお客様は、たぶん、二度と間違えません」

 

 卓の端で、ヘスティアが湯呑みに口をつけた。笑うのをこらえたのか、こらえきれなかったのかは、分からなかった。

 

「ミアは、何と言っている」

 

「『働かざる者、食うべからず』と」

 

「ミアらしいな」

 

 アルフィアは、窓の外に目をやった。

 かつてゼウスとヘラを追い出した者たちが、いまはミアの店で皿を運んでいる。

 

「……妙な店だ」

 

「今は、【ヘスティア・ファミリア】の団員として、ですが」

 

 リューが、静かに訂正した。

 アルフィアは、聞かなかったことにはしなかった。

 

「かつて殺し合った派閥が、一つの店で、一人の客に、同じ皿を出すのか」

 

「平和でいいじゃないか」

 

 ヘスティアが言った。

 

 女は、もう一度シルを見た。

 

「おまえに惚れた男どもは、どうした。冒険者も、神も、列を作っていたはずだ」

 

「……来ます。毎日」

 

「何を頼む」

 

「ミア母さんのお料理を。私が運ぶお皿を、ね」

 

「……私が運んでも、同じ料理ですが」

 

 リューが、静かに口を挟んだ。

 

「リュー。そういう話ではないの」

 

「承知しています。ただ、シルが不在の日にも、皆さん召し上がっていかれますので」

 

「……なぜ今、それを言うの?」

 

「ミア母さんの料理の評判は、大切ですから」

 

 アルフィアは、二人を見比べた。

 

「それで店が回るなら、商売としては正しい」

 

「神も並んでるよ。毎晩ね」

 ヘスティアが、ため息まじりに付け足した。

 シルは、笑顔のまま何も言わなかった。

 

 アルフィアは、その笑顔の奥を見た。

 昔、天界の女王から、一つの話を聞かされたことがある。美の女神が、何を探しているのか。どれほど長く、探し続けているのか。

 

 喉まで上がってきたその名を、女は飲み込んだ。

 少年のいる卓で、口にできる話ではなかった。

 

「なら、働け」

 

 女は、空いた皿を示した。

 シルは笑顔を崩さず、盆を取った。

 

 女神らしく、悠然と歩き出す。

 三歩目で、盆の上の皿が鳴った。

 

「重心が、左に寄っている」

 

「分かっていますッ!」

 

 ヘスティアは、その笑顔を見て、初めて、少しだけ彼女に同情した。

 

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