「まず、その手を見せてください」
世界を滅ぼせるかもしれない女に、アミッドは診察用の布を差し出した。
アルフィアは、自分の手首を見た。
「この程度は、じきに消える」
「消える前に、確認します」
医者の声は、少しも変わらない。
アルフィアはわずかに眉を寄せ、それから腕を出した。
ヘスティアは、その動きを見て深く頷いた。
正面から正しい手順を求められると、この女は案外、従う。それを知った者が、また一人増えた。
「痺れは」
「ない」
「息苦しさは」
「ない」
「同じ魔法を、続けて使おうとはなさらないでください」
女の返事が、遅れた。
アミッドが顔を上げる。
「今のは、お願いではありません」
リリが、唇を噛んだ。
この人に、正面から「お願いではない」と言える者がいる。思わず感心の声が漏れそうになったのを、
アルフィアは、短く頷いた。
「分かった。今日は、使わない」
「今日は」という範囲の狭さに、誰かが口を挟むより早く、アイズが寝台の端に手をついた。
「私も、見てほしい」
アミッドが、診察のために彼女へ向き直る。
けれど金の瞳は、医者ではなく、灰と翠の瞳を見ていた。
「……治ってから」
少女はそこで言葉を切った。
アルフィアには、続きを聞く必要がなかった。
「剣の振り方か」
アイズが頷く。
アミッドは、自分が呼ばれたのではないと悟り、黙って少女の肩に手を戻した。
アルフィアは、寝具から外へ出かけていた足を指さした。
「ならば、まず戻せ。人に支えられて立てても、自分で立てたことにはならん」
アイズは、足を戻した。
その素直さを、リヴェリアはありがたいと思った。同時に、この先の面倒を予感した。
*
フェルズが駆けつけたとき、廊下には既にレオンが立っていた。
病室の女は魔術師を見つけ、長く目を留めた。
「おまえが、引き戻したのか」
「ああ」
「余計なことを、と言うべきところだな」
ヘスティアの顔が険しくなる。
それより先に、女が続けた。
「……だが、借りは返す」
フェルズは、何も言わずに頭を下げた。
救った結果に、責任を持てるのか。あの氷室で答えられなかった問いは、今も終わっていない。
それでも、その一言をもらえたことを、魔術師は軽く扱えなかった。
アミッドが、所見を伝えた。病の徴候は、ない。
アルフィアは椅子に腰を下ろし、胸の奥で動き損ねたものについて話しはじめた。
【
彼女の才能のすべてが、その力から来ていたわけではない。生まれ持った病の異常が、
能力を常に
病が消えた今、その発動の手応えがない。
「限界を外す力も、止まっているのだろう」
フェルズの言葉に、女は頷いた。
「昔のまま得をした、という話ではない。
指を開いて、閉じる。
「昔の私が使えた量より、今ここに収まっている量の方が多い。しかも、使った端から身体が崩れていくことはない」
リヴェリアは、その違いを、鐘を止めるところで既に見ていた。
際限なく力を出せる、という意味ではない。大きな器を一度も底まで使えなかった女が、初めてその底に手が届く、ということだ。
しかも、器そのものの形が変わっている。
何が起きたのかを
「ヘラに会う」
女は、迷わず言った。
ヘスティアは頭を抱えかけて、その手を下ろした。
「あぁ、実は目撃者が見つかったんだ。君にも確かめてからと、思ってたところだよ」
「なら、知らせろ。積もる話もあるが、所在が分からぬ神の眷族など、面倒なだけだ」
*
皆が廊下へ出たあと、リューは残った。
シャクティも一緒だった。
ベルはヘスティアに呼ばれ、戸口で一度振り返ってから出ていった。この人たちの間にあるものを、自分の質問で塞いではいけない。そのことが、ようやく分かりはじめていた。
アルフィアは、二人に椅子を勧めなかった。
座って話すべきことかどうかは、相手が決めればいい。
「七年前のことを、忘れてはいません」
リューが言った。
「戻ったあなたが、ベルの血縁であることとも、それは別です」
「ああ」
「あなたの理屈を、正しかったとは言いません」
女は、否定しなかった。
自分のしたことに、勝手に綺麗な名をつけるつもりはない。
正しいと信じたから、ああしたのか。そう問われれば、今も答えは否だ。ほかの道を、選びたくなかっただけだ。
その身勝手さを、いまさら「英雄のため」という言葉だけで覆い隠す気もなかった。
「おまえらが忘れれば、それこそ、すべてが無駄になる」
リューは、その返事を受け取った。
赦しではない。和解と呼ぶには、欠けたままのものが多すぎる。
シャクティが、続けた。
「ギルドの審理には、応じてもらう。過去の行為と、今回の魔法について」
「応じる」
「保護を受けたからといって、問われなくなるとは思わないでほしい」
「思っていない」
明瞭な返事だった。
シャクティは、それ以上、この場で死者の名を並べなかった。一度でもその名を口にすれば、あとに続ける言葉より、呑み込む言葉の方が多くなる。
女は最後に、リューを見た。
「おまえの神は、まだ、同じ神か」
「いいえ」
リューは、背筋を伸ばしたまま答えた。
「アストレア様のもとを離れ、【ヘスティア・ファミリア】に
「アストレアは、それを許したか」
「送り出してくださいました」
アルフィアの目が、ほんの少し細くなった。
「……なら、よい」
よいと言われる筋合いはない、とリューは思った。
それでも、その言葉を、昔と同じ意味では聞かなかった。
「私も、そうする」
「……は?」
「ヘラに会って、更新を済ませたら、こちらへ移る」
リューは、三度まばたきをした。
「ヘスティア様には」
「まだ言っていない」
「先に、申し上げるべきでは」
「順番がある。ヘラが先だ」
「入る家の主神が、最後ですか」
「最後ではない。二番目だ」
リューは、何か言いかけて、やめた。
代わりに、少しだけ顎を上げた。
「では、私が先輩ということになりますね」
「何のだ」
「【ヘスティア・ファミリア】の、です。入った順で言えば」
「レベルは」
「関係ありません。この家では、入った順です」
アルフィアは、黙った。
黙ったまま、リューを上から下まで見た。
「……覚えておく」
「家のことは、ヘスティア様がお決めになります。それと、当番は守っていただきます。後輩ですので」
言い終えてから、リューは自分の口に驚いた。
七年前、この女の前で、こんなことを言える日が来るとは思っていなかった。
戸口へ向かう背に、声が届いた。
「リュー」
二つ名ではなかった。
「明日の浴室当番は、おまえだ。逃げるなよ、先輩」
リューは、一拍遅れて「……はい」と答えた。
後輩から当番を言い渡される先輩が、この家にはいるらしい。
名前を呼ばれることと、掃除当番を言い渡されることが、同じ声の中にあるのだから。
*
ベルが戻ってきたとき、アルフィアは窓の外を見ていた。
鐘は、もうない。
石の塔の影だけが、いつもの向きに落ちている。
「さっきは、その……」
ベルは、言葉を探した。
お母さん、と呼んだ。
目の前の人は母の双子の姉なのだから、正確には違う。
けれど、間違いを訂正するように謝ることも、できなかった。
「僕、よく分からなくなって──」
アルフィアは、少年に向き直った。
「分からないなら、今、決めなくてよい」
言ってから、自分でも少し意外に思った。
待つことを覚えたのは、この一週間だった。
茶葉が開くまで、蓋を開けない。魚の皮が焼けるまで、箸で触らない。先に手を出せばいいというものではなかった。
「だが、おば、という音は要らん」
ベルは、頭の中に並べかけていた呼び方の一つを、そっと引っ込めた。
女は、真剣だった。
「アルフィアでよい。おまえが、ほかに呼びたいと思ったときは、そのときに呼べ」
ベルが、小さく頷く。
そこで女は、ようやく気づいた。
この少年を、光の下で、自分の目で見るのは、これが初めてだった。
声と足音と袖丈で知っていた背丈は、思っていたより高かった。
肩はまだ薄い。首の筋も、細い。それなのに、立ち方の芯だけが、いつの間にか一本通っている。
妹の面影は、探せば見つかるのだろう。けれど今は、探さなかった。探さずに見て、知らない少年だと思い、それでよいと思った。
「……レベル5と、聞いた」
レベルの報告なら、ヘスティアから受けている。数字は知っていたが、詳しくは聞いていない。
「は、はい。あの、まだ全然、駆け出しですけど」
「駆け出しが、そんな手をしているか」
アルフィアは、少年の右手を取った。
取ってから、自分の動きに気づいた。
男という生き物は、昔から好きではない。声が大きく、足音が荒く、約束を軽く口にする。近づく者は払い、払えない者は黙らせてきた。
その自分が、男の手に自分から触れていた。
しかも、少年の掌を、両手で包んでいる。
指の付け根が、短剣の握りの形に硬く盛り上がっていた。擦り切れた古い傷。新しい傷。ヴェルフの縫った袖口から覗く手首に、細い線。
どれも、洗濯のたびに布の上から知っていた傷だった。布越しにしか触れられなかったものに、いま初めて、直接触れている。
「あ、あの、アルフィアさん……? 手……」
ベルの顔は、耳まで赤かった。
「黙っていろ。数えている」
「数えて……!?」
「傷だ」
親指が、手首の線をなぞる。
洗濯物の上から知っていたよりも、多かった。
「……あの男は」
低い声が、少年の手の上に落ちた。
「【ゼウス・ファミリア】の、足音の荒い男だった。メーテリアが選んだと聞いても、私は一度も認めなかった」
「ぼ、僕の……父さん、ですか?」
「……よく戦ってきたな。あの男とは大違いだ。もしヤツが生きていたなら、まず私が殴る。生きていないのなら、墓の前で殴ってやろう」
ベルは、褒められたのか、父が怒られたのか分からなかった。
父親のことなら、祖父からも、ほとんど聞いたことがない。いまその人が、伯母の怒りを受けている。
「……その話は、長くなる。殴る順番も、まだ決めていない」
「じゅ、順番があるんですか……」
「ある。おまえは、心配しなくてよい」
心配しないでいられる理由は、一つもなかったが、ベルはなぜか頷いてしまった。
女は、そこで手を離した。
離したあとも、掌には、硬い指の感触が残っていた。
それから、ふと思い立ったように、少年の髪へ手を伸ばした。
一度、撫でる。
もっと撫でたかった。だが、風呂を洗った日に
ベルはうつむき、少し遅れて頷いた。
その頭の形を、女は指の下で覚えた。
*
帰ってきた一行を、
夕食には間に合ったが、知らせておいた時刻よりは少し遅かった。
「おかえりなさいませ! 今日は、お疲れでは──」
金の狐は、女の顔を見て止まった。
灰と翠の目が、こちらを見ている。
「……お目が……」
「名は、アルフィアだ。手間をかけたな、
「まあ……! 思い出されたのですね! よかったです!」
ヘスティアは、その声を聞いて目の奥が熱くなった。
最初に、そう言ってよかったのだ。
戻ってきたことを、怖がるより前に。
台所から、
「アルフィ殿! ……いえ、アルフィア殿! お帰りなさいませ!」
一音足して、深々と頭を下げる。
その律儀さに、女の口元がわずかに動いた。
「お食事は、すぐに温め直します! お風呂も、今日は私が──」
「なぜだ」
アルフィアが、聞き返した。
「お疲れかと」
「疲れていない。私の当番だったはずだ」
女は玄関に置かれていた籠を取り、取り込み途中の布を抱えた。
「その前に、こちらだ。日が落ちると湿る」
ヴェルフが、作業場から顔を出した。
「おう、目、開いたのか! んじゃ、その服、袖だけあとで見せてくれ。直した糸、引きつれてねえか?」
「問題ない。礼を言う」
女は、短く頭を下げた。
リューが、廊下で足を止めた。
「……まだ、なさるのですか」
アルフィアは、籠を持ち直した。
「私の服もある」
それから、浴室の方へ目をやった。
「あの子の入る湯でもある」
ヘスティアは、壁に手をついた。
全部、戻ってきた。
風呂の洗い方も。指の力加減も。少年の服が何枚破れていたかも。
何ひとつ置き捨てずに、あの女は帰ってきた。
*
食卓では、ベルが三杯目をよそわれた。
女の手つきは変わらない。変わったのは、声から遠慮が消えたことだけだった。
「食べろ。今日歩いた量なら、それで足りる」
「はい! でも、その、アルフィア……さんも」
言われたとおり、名前のあとで一度、切った。
「食べている」
ベルは、いつかの夕食で、神様が同じ返事をもらっていたのを思い出した。
皿の音が、一つ鳴った。
アルフィアの眉が動いた。けれど、叱りはしなかった。リリが慌てて器を置き直し、その慌てた音の方が大きくなる。
女は、かえって口元をゆるめた。
それを見て安心した者は、ほとんどいなかった。ヴェルフの箸が止まり、
夕食が終わる頃、シルがやってきた。
彼女は、女の開いた目を見て、しばらく何も言わなかった。
先に口を開いたのは、アルフィアだった。
「……おまえ」
灰と翠の目が、街娘の頭の先から足の先までを、一度なぞった。
音を拾う目だった。声の高さ。足の運び。息の深さ。
粗末な前掛けの下から、七年前に聞いた響きが、確かに鳴っている。
「その声は、覚えている。七年前、遠くから私を値踏みしていた」
「あら」
シルは、笑顔を崩さなかった。
「……神、だな。おまえ、フレイヤだったのか」
食卓が、しんと静まった。
リリの手帳のペン先が、紙の上でぴたりと止まった。
ヘスティアは、腰を浮かせかけた。
「ア、アルフィアくん! これには事情があってね!」
「分かっている。豊穣の女神が、前掛けを着けているのだ。事情しかない」
シルは、一歩前へ出た。
背筋を伸ばし、顎をわずかに上げる。髪を肩から払う。
街娘の仮面を、ゆっくりと外す仕草だった。
「ええ。久しぶりね、アルフィア。七年も待たせて──」
背後で、空気が少しだけ華やいだ気がした。
気がしただけだった。魅了は封じたままなのだから、出てくるのは自負だけである。
それでも彼女は、優雅に身を翻した。
その拍子に、前掛けの紐が椅子の背に引っかかった。
椅子が鳴る。卓の端の皿が滑る。
誰も、礼を言わなかった。言えるような空気ではなかった。
「……この通り、今は少し、街娘をやっているの」
シルは、紐を外しながら、女神の声で言い切った。
リリが、小さく息を吐く。
「命が何度あったって足りませんよ……全く」
「リリルカさん」
「しっ、失礼しましたッ!」
アルフィアは、それらを黙って見ていた。
それから、ひとつだけ確かめた。
「魅了は、使っていないな」
「使えません。封じています」
「ならば、ただの給仕だ」
「ただの、ではありません。一応女神です」
「神が、酒場の給仕をするのか。それを選んだのか」
シルは、背筋を伸ばした。
「ええ。フォールクヴァングは、取り上げられちゃいましたぁ。片付けとか、掃除とかはしないといけないんですけど……。今は『豊穣の女主人』が私の帰る場所です。昔の幹部たちも、みんなミアお母さんのお店で働いているんですよ」
「皆、か」
「皆です。オッタルさんはダンジョンで食材を採取して運び、ヘディンさんは護衛と帳場。ヘグニさんは……お客様の前に出るのを嫌がって、裏で皿を洗っていますし……アルフリッグさん達は夜表に出ていただいてます」
アルフィアは、しばらく黙った。
「あの猪が、荷を運ぶのか」
「力仕事は、得意ですから」
「気難しいエルフが、帳場で」
「計算が速いんです。お釣りを間違えたお客様は、たぶん、二度と間違えません」
卓の端で、ヘスティアが湯呑みに口をつけた。笑うのをこらえたのか、こらえきれなかったのかは、分からなかった。
「ミアは、何と言っている」
「『働かざる者、食うべからず』と」
「ミアらしいな」
アルフィアは、窓の外に目をやった。
かつてゼウスとヘラを追い出した者たちが、いまはミアの店で皿を運んでいる。
「……妙な店だ」
「今は、【ヘスティア・ファミリア】の団員として、ですが」
リューが、静かに訂正した。
アルフィアは、聞かなかったことにはしなかった。
「かつて殺し合った派閥が、一つの店で、一人の客に、同じ皿を出すのか」
「平和でいいじゃないか」
ヘスティアが言った。
女は、もう一度シルを見た。
「おまえに惚れた男どもは、どうした。冒険者も、神も、列を作っていたはずだ」
「……来ます。毎日」
「何を頼む」
「ミア母さんのお料理を。私が運ぶお皿を、ね」
「……私が運んでも、同じ料理ですが」
リューが、静かに口を挟んだ。
「リュー。そういう話ではないの」
「承知しています。ただ、シルが不在の日にも、皆さん召し上がっていかれますので」
「……なぜ今、それを言うの?」
「ミア母さんの料理の評判は、大切ですから」
アルフィアは、二人を見比べた。
「それで店が回るなら、商売としては正しい」
「神も並んでるよ。毎晩ね」
ヘスティアが、ため息まじりに付け足した。
シルは、笑顔のまま何も言わなかった。
アルフィアは、その笑顔の奥を見た。
昔、天界の女王から、一つの話を聞かされたことがある。美の女神が、何を探しているのか。どれほど長く、探し続けているのか。
喉まで上がってきたその名を、女は飲み込んだ。
少年のいる卓で、口にできる話ではなかった。
「なら、働け」
女は、空いた皿を示した。
シルは笑顔を崩さず、盆を取った。
女神らしく、悠然と歩き出す。
三歩目で、盆の上の皿が鳴った。
「重心が、左に寄っている」
「分かっていますッ!」
ヘスティアは、その笑顔を見て、初めて、少しだけ彼女に同情した。