灰髪の魔女   作:彪(あや)

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第十一章 鼓動のリスト

 

 ベルが階段を駆け下りてきたのは、朝食が並び終わる直前だった。

 

「すみません、寝坊しました! おはようございます!」

 

 寝癖が一房、天井に向かって跳ねている。

 リリの手帳が、ぱたんと閉じた。

 春姫(はるひめ)が、盆を置き直した。

 ヘスティアは笑いかけて、途中で湯呑みを口へ運んだ。

 

 リューの箸が、椀の縁に触れた。

 かちん。

 どれも、ベルが気に留めるほどの音ではなかった。

 

 アルフィアの耳には、卓のあちこちで鼓動がわずかに跳ねたのが聞こえていた。だが、ほとんどはすぐに元の速さへ戻っていく。

 一人を除いて。

 

 リューの鼓動だけは、跳ねたきり戻らなかった。

 息を整えようとするたびに、かえって速くなる。

 ベルはそんなことには気づかず、いつもの笑顔で椅子を引いていた。

 

 ヴェルフは卓の端で、漬物を噛み続けていた。顔は上げない。賢い男である。

 命(ミコト)はその隣で背筋を伸ばし、味噌汁をすすっている。その鼓動は、凪いで(ないで)いた。

 

 アルフィアが、箸を置いた。

 

「リュー」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「手を出せ」

 

 リューは一拍遅れて、手を出した。

 その手首に、女の親指が乗る。脈の上だ。灰と翠の目は、卓の一点を見たまま動かなかった。

 

「……あの、何を」

 

「黙っていろ。数えている」

 

 卓が静まった。ヘスティアの湯呑みが、口の前で止まる。

 ベルは椅子に手をかけたまま、固まっていた。

 数秒ののち、女は手を離した。

 

「脈が速い。息も浅い。耳の先が、さっきから赤い」

 

「問題ありません」

 

「いつからだ」

 

「問題ありません」

 

「なるほど、しかし、それがいちばん悪いかもしれん」

 

 声は静かだった。静かなまま、卓の空気だけが冷える。

 妹もそうだった。「平気」と言った日の夜ほど、熱を出した。

 ベッドのそばで、濡らした布を絞り続けた夜が、一瞬だけ、手の中へ戻ってきた。

 

「リューは、今日の浴室当番を免除する。部屋で寝ていろ」

 

「昨夜は『逃げるな』と──」

 

「昨夜と今朝は違う」

 

 リューは口を開き、閉じた。

 正論に聞こえるのが、いちばん困る。

 女の目が、そのまま横へ滑る。

 

「おまえもだ」

 

「リリですか!?」

 

「呼吸が二拍遅れている。異常事態だ」

 

「それは、今月の予算の計算が──」

 

「計算で、脈は上がらん」

 

「上がります! 上がるんです! 今月は特に!」

 

 ヘスティアが、湯呑みを置いた。

 リューを見て、リリを見て、それから何も知らずに立っているベルを見た。

 

「あ、あのさ、アルフィアくん! その、リューくんたちは病気じゃなくて、あれで──」

 

「あれ?」

 

 ベルが、首を傾げた。

 ヘスティアの口が、固まった。

 ここで続きを言えば、ベルくんは三人分の福音(ゴスペル)を浴びることになる。

 

 ……いや。

 女神は、湯呑みを握り直した。

 四人だ。

 

「……季節の、変わり目の、あれだよ。うん」

 

「ならば、なおのこと寝かせるべきだ」

 

 神の苦しい嘘は、診断を強めただけだった。

 

「リューさん、具合が悪かったんですか!? ごめんなさい、僕、朝から騒いで──無理しないでください!」

 

 ベルは椅子を回り込み、リューの傍らへ寄った。

 心の底から心配している顔だった。

 

 その瞬間、リューの耳の先に、火がついた。

 

「……悪化したな」

 

 アルフィアが言った。

 事実だけを述べる声。

 

「あ、あの、アルフィア様! 私もお顔が熱うございますが、これはお台所の火のせいでございます!」

 

「そうか。ならば、よい」

 

 リリが椅子を鳴らして立ち上がった。

 

「不公平です!」

 

「火は顔を熱くする。計算は熱くしない」

 

「リリの計算は熱くなります!」

 

「拙者は、至って健康にございます!」

 

 命(ミコト)が胸を張った。

 

「そのようだな。命はよい」

 

 命(ミコト)は誇らしげに頷いた。

 リリの視線が、じとりと横から刺さる。命(ミコト)には、理由が分からなかった。

 

「おっと……俺は、鍛冶場に行く時間だな!」

 

 ヴェルフが漬物を飲み込んで、立ち上がった。

 

「行け」

 

 鍛冶師は音もなく、食堂を出ていった。判断が早い。

 

 アルフィアも立ち上がり、リューの背と膝の裏へ腕を回した。

 

「待ってください、自分で歩け──」

 

 リューは心を許した者でなければ、肌に触れることさえ許さないエルフだ。

 親しい相手でも、不意に手を伸ばされれば、身体が先に退く。

 

 今も、背に腕が触れた瞬間、反射的に払いのけようとした。

 だが、その手はなぜか上がらなかった。

 

 言い終える前に、足が床を離れた。

 抱え上げられたというのに、身体はほとんど揺れない。背を支える腕が、こちらの呼吸に合わせてわずかに動く。

 

 リューは、上げかけた手をそっと握り込んだ。

 なぜ、振り払わなかったのか。

 自分でも、分からなかった。

 

 ただ、運び方だけは妙に丁寧だった。

 揺らさない。息を合わせる。病人を運ぶための腕。

 廊下の奥へ消えていく背中を、リリが見送った。

 

「……ヴェルフ様が出ていった理由が、よく分かりました」

 

「サポーターくん、君も逃げた方がよかったんじゃないかい」

 

「逃げ場がありません。次は、リリの番ですから」

 

 戻ってきたアルフィアの手には、湯気の立つ椀があった。

 茶色く濁り、草の匂いがする。

 

「飲め」

 

「あの、リリは、本当に」

 

「身体に良いものだ。飲め」

 

 リリは、拒む理由を探したが、見つからなかった。

 一息に飲み干し、眉間に皺が寄った。

 

「……に、苦い、です」

 

「効いたか?」

 

「アルフィア様、薬湯(やくとう)が効く病では、ありませんし、そもそも病ではないと言いますか……」

 

 最後の一言を、女は聞き取って、強がりだと判断した。

 

 食堂を出る間際、ベルが戸口で靴を履いていた。

 

「それじゃあ、地下迷宮(ダンジョン)に行ってきます! リューさんには、後で何かお見舞いを──」

 

「ベル」

 

「は、はい!」

 

「手を出せ」

 

 少年は素直に、右手を出した。

 女の親指が、その手首に乗る。

 

 脈は、平常だった。

 

 あまりにも平常で、女はそれに少しだけ引っかかった。

 三人も乱れる朝に、ただ一人、凪いでいる。引っかかる、と思った。引っかかっただけで、先へは進まない。

 

「……よい。行け。夕刻には帰れ」

 

「はい! アルフィアさんの手、あったかいですね!」

 

 少年は笑って、駆けていった。

 その背中が遠ざかるまで、ヘスティアは必死に、湯呑みを両手で握りしめていた。

 

         *

 

 リューの部屋は、よく片づいていた。

 寝台の上のリューは、背筋を伸ばして仰向けに寝ている。休んでいるというより、意識があるまま治療を受けている状態に近い。

 

「あの。本当に、問題ありません」

 

「そうか」

 

 アルフィアは濡らした布を絞り、リューの額に載せた。手つきに迷いがなかった。

 それから椅子に腰を下ろし、耳を澄ませた。

 

 リューの脈は、まだ少し速い。

 けれど玄関で少年を見送ってからは、一拍、また一拍と、確かに落ちてきていた。

 

「……薬も飲ませていないのに、下がるのか」

 

 独り言だった。

 リューが、天井を見たまま息を止めた。女は、それに気づかなかった。

 

 階下からも、同じ音が届く。

 台所で、リリの脈が静まっていく。洗い場の春姫(はるひめ)も、同じ速さで凪いでいく。

 

「リュー」

 

 名を呼ぶと、寝台の上で、耳の先がわずかに動いた。

 女はそれも聞き取った。聞き取って、黙っていた。

 

 そのときだった。

 

 玄関の戸が、勢いよく開く。

 

「すみません、忘れ物です!」

 

 少年の声と、足音。靴底が土間を蹴る音。階段を二段飛ばしで上がる気配。

 

 家じゅうの音が、一斉に跳ねる。

 

 台所で、リリの鼓動が。

 洗い場で、春姫(はるひめ)の鼓動が。

 寝台の上で、リューの鼓動が。

 三つの音が、示し合わせたように同じ拍で、どん、と鳴った。

 

 庭先では、命(ミコト)の足音が少しだけ乱れた。気のせいと呼べる程度に。

 

 足音は部屋の前を通り、隣の部屋へ入り、また出て、階段を駆け下りていく。

 

「行ってきます! 今度こそ、本当に!」

 

 戸が閉まる。

 家じゅうの音が、潮の引くように凪いでいった。

 

 アルフィアは、動かなかった。

 

「…………」

 

 やがて、ゆっくりと、寝台の方を向いた。

 

「リュー」

 

「……はい」

 

「あの子の足音で、跳ねたな」

 

「…………」

 

「引くときも、同時に引いた。薬は、まだ一滴も飲ませていない」

 

 リューの返事は、なかった。

 代わりに、毛布が、頭の上まで上がっていった。

 

 アルフィアは、それを見ていた。

 しばらくして、静かに言った。

 

「……病ではないな」

 

 毛布の中から、くぐもった声が返ってきた。

 

「…………はい」

 

「なぜ、最初に言わん」

 

「言えるはずが、ありません」

 

 小さな声だった。小さいくせに、断言だった。

 

 女は、椅子の背にもたれた。

 耳には自信があった。音を聞き違えたことは、七年前も、氷の底でも、一度もない。

 聞き違えたのは、音ではなく、意味だ。

 そして、この取り違えには、覚えがあった。

 

「あの子は、気づいていないのか」

 

「気づいていません。……努力は、しています」

 

「努力の結果が、これか」

 

「…………」

 

 毛布が、さらに深く沈んだ。

 

 アストレアのもとを離れ、炉の女神の眷族(ファミリア)に改宗(コンバージョン)したと聞いたときは、意外に思った。ヘスティアが善い神だということは、ヘラからも聞いていた。それでも、あの正義の剣と、この家の台所とは、すぐには結びつかなかった。

 

 アルフィアは、立ち上がった。

 濡れた布を取り上げ、もう一度絞り直し、戻す。

 

「顔が冷めるまで、出てくるな。当番は免除のままだ」

 

「……助かります」

 

「あの子には、言わん」

 

 毛布の山が、少し動いた。

 

「約束してください」

 

「約束は、軽々しくは口にせん。……言わんと決めた。それで足りるか」

 

 しばらく、返事はなかった。

 やがて、毛布の端から、目が片方だけ覗いた。

 

「……足ります」

 

         *

 

 廊下へ降りると、リリが待っていた。

 空の椀を両手で持ち、顔は商談の顔をしている。薬湯(やくとう)の苦さが、口の端にまだ残っていた。

 

「全部、聞こえていましたね」

 

「ああ」

 

「でしたら、話が早いです。……同盟を、結びましょう」

 

「同盟」

 

「条件は二つです。一つ、ベル様には絶対に言わないこと」

 

「言わんと決めた」

 

「二つ。病気だと称して誰かを寝かせ、働かせないこと。眷族(ファミリア)の運営に関わります」

 

「病でないなら、寝かせる理由がない」

 

 リリは、小さく息を吐いた。

 この人は、理屈が通ると、案外早い。

 

「こちらからも、一つある」

 

「どうぞ」

 

「あの子を泣かせた者は、殴る順番に加える」

 

 リリの顔から、商談の色が消える。

 彼女はやっぱり、話の通じる相手ではないのかもしれない。

 

「……あの。泣かせた、の定義をお願いします」

 

「涙が出たらだ」

 

「嬉し泣きはいかがでしょうか?」

 

「……除く」

 

「では、ベル様が誰かを選んで、選ばれなかった方が泣いた場合は」

 

「泣いたのは、あの子ではない」

 

「……つまり、リリたちが泣いても、誰も福音(ゴスペ)られない、と」

 

「まあ、そうなるな」

 

 リリは、しばらく黙った。

 分かりきっていたことを、数字で見せられた気がした。

 

「……なるほど。除外規定を……書面にさせてください」

 

「好きにしろ」

 

 リリは手帳を開き、震える字で『殴る順番・除外規定』と書いた。

 順番に入れられる日が来ないことを、彼女は静かに祈った。

 

「それと、話を戻します。誰がベル様を、その……どう思っているかの、確かめ方ですが」

 

 立ち直りの早いのが、この小さな軍師の強みである。

 

「ご本人たちの証言は、当てになりません。数字にしないと」

 

「聞けば分かる」

 

「アルフィア様にしか聞こえません。リリたちは、納得できません」

 

 女は少し考えた。

 

「では、見える形にする。息の乱れを、豆で」

 

         *

 

 午後の中庭に、皿が並んだ。

 一人に二枚ずつ。片方には豆が山盛りで、もう片方は空である。

 

 豆を箸で一粒ずつつまみ、空の皿へ移す。そのあいだ、息の長さを変えてはいけない。息が乱れれば、指先が震える。指先が震えれば、豆は箸から跳ねる。

 

 縁側には、春姫(はるひめ)、命(ミコト)、それにリリが並んで座っていた。

 中庭に面した窓の向こうでは、リューが寝台の上に身を起こし、膝に皿を載せている。

 

 『顔が冷めるまで出てくるな』と言われたきり、その言いつけはまだ解かれていない。病ではないと分かった今も、律儀に守っているらしい。

 

「息の訓練でございますね! がんばります!」

 

「承知!」

 

「リリは、記録係に徹しまして」

 

「記録は私がつける。おまえも受けろ」

 

「くっ……」

 

 アルフィアは中庭の中央に立ち、感情のない声で言った。

 

「これから、今日の出来事を言う。聞いても、手を止めるな。豆を跳ねさせるな」

 

 四人の箸が、同じ速さで豆を移しはじめた。

 

「朝、ベルは寝癖をつけていた」

 

 誰の豆も、跳ねない。

 

「ベルは、昨日の夕食を三杯食べた」

 

 春姫(はるひめ)の箸の先で、豆がほんの少し震えた。

 

「ベルは、笑うと目が細くなる」

 

 春姫(はるひめ)の豆が、一粒、跳ねた。

 

「あっ、申し訳ございません! お名前が出るだけで、胸が、胸が……!」

 

「言わんでよい。聞こえている」

 

「ベルは、昨日のリリの弁当を『おいしい』と言っていた」

 

 リリの皿から、豆が三粒、同時に飛んだ。

 

「か、風です!」

 

「風はない」

 

「測定の誤差です!」

 

「誤差は、三粒も飛ばん」

 

「ベルは、昨日、命(ミコト)の出汁を褒めていた」

 

 命(ミコト)の豆は、跳ねなかった。

 ただ、箸の先で、かちりと一度だけ鳴った。

 

「せ、拙者は、出汁を褒められて嬉しいだけで!」

 

「分かっている」

 

 アルフィアは、それ以上、言わなかった。

 言われなかったので、命(ミコト)は自分が何を弁解したのか分からないまま、次の一粒をつまんだ。

 

「ベルは、リューの淹れた茶を──」

 

 窓の向こうで、豆が一粒、床に転がった。

 乾いた音が、いやに響く。

 

「……最後まで、言っていないが」

 

「…………」

 

 リューは目を閉じ、何も聞こえなかったことにした。

 

         *

 

 試験が終わると、リリは手帳から一頁を破り取った。表題は『競合整理(極秘)』。

 

 アルフィアは、それを一目見て言った。

 

「字が汚い」

 

「リリの最高機密に……そのような!」

 

「こちらに書き直せ」

 

 差し出されたのは、罫線(けいせん)の入った紙だった。昨夜アルフィアが定規で引いたものだという。何の表になるはずだったのかは、教えてもらえなかった。

 

 リリは、渋々ペンを取った。

 

「では、整理します。確定欄に、リュー様。リリルカ・アーデ。……リリの名を書くのは、不本意ですが」

 

「書け」

 

「春姫(はるひめ)様」

 

「はい! 堂々と載せてくださいませ!」

 

 春姫(はるひめ)は両手で顔を覆いながら、胸を張った。

 リリも顔を覆っている。窓の向こうの毛布が、頭の上まで引き上げられた。

 

「保留欄は」

 

 アルフィアは、少し考えた。

 

「命(ミコト)。《千の妖精(サウザンド・エルフ)》。それから、《剣姫(けんき)》」

 

「ヴァレンシュタイン様が、保留ですか?」

 

「あの娘の音は、あの子の名で跳ねる。高く、な」

 

「でしたら、確定では」

 

「あの娘は剣の話でも、同じ高さで跳ねた」

 

「……剣の話でも」

 

「あの子の名と、剣の話と、海竜。どれも同じ音だ。どれに跳ねているのか、私には分けられん」

 

 リリは、胸をなでおろしかけて、途中でやめた。

 保留というのは、確定よりも厄介な場合がある。

 

「では、《千の妖精(サウザンド・エルフ)》はいかがでしょうか?」

 

「魔導士の娘はあの子の名を出すと、怒った音を立てる」

 

「怒っているなら、違うのでは」

 

「怒りにしては、余韻がある。怒りだけではああはならん」

 

 リリは、黙って保留欄に書き足した。

 

「では、ベル様ご本人は……その、どなたを?」

 

「知らん」

 

「え」

 

「あの子の音は、いつも平らだ。誰の名を出しても、変わらん」

 

「……いちばん厄介な方が、残りました」

 

「本人が知らん音を、他人が名付けるな。あの子の分は、なおさらだ」

 

 リリは、反論の言葉を探して、見つけられなかった。

 

 どうやらこの人は、【憧憬一途(リアリス・フレーゼ)】のことを、まだ知らないらしい。

 ベルとの距離を、まだ測りかねているのだろう。ベルの事情を、ヘスティア様に聞こうともしない。

 だが、あのレベルアップの速さだ。この耳のよい人が、いつまでも気づかずにいるとは思えなかった。

 時間の問題である。

 

 命(ミコト)だけが、きょとんとしている。

 

「保留とは、何でございましょう?」

 

「命(ミコト)様は、知らなくてよいことです」

 

「そうか」

 

 命(ミコト)は素直に頷き、豆を移した。

 

「では、未接触の方々はどうされますか?」

 

 リリが、頁をめくる。

 

「シルさん。いえ、女神フレイヤ様。競合ではなく、災害です」

 

「神を災害と書くな」

 

「では、天災と」

 

「同じだ」

 

「【ヘルメス・ファミリア】の、ローリエ・スワル様。普段は、書類のように平らなお顔の方です。ところが、ベル様に名前を呼ばれた途端、湯に落とした茶葉のように、端からほどけていきます」

 

「確定だ」

 

「それから、女神様の付き人のヘルン様。ベル様の話題になると、否定が異様に早い方です」

 

「否定の早い者も、確定だ」

 

「リリも……同意見です」

 

「……多いな」

 

「まだ序の口です。【ミアハ・ファミリア】のカサンドラ様もいらっしゃいますし」

 

 アルフィアは、紙を見下ろした。

 同盟を組んだばかりの小人族(パルゥム)が、リストに名前を書き足していく。

 

 言い寄ってくる男なら、昔もいた。酒場で、通りで、地下迷宮(ダンジョン)の帰り道で。【ヘラ・ファミリア】では、そういう男は、二度目に声をかける前にいなくなった。

 この家の娘たちは、追い払うどころか、自分から一人の少年に寄っていく。炉の女神の眷族(ファミリア)は、ずいぶんとお人好しらしい。

 

 女は、羊皮紙の上の名を、指でひとつずつ押さえていった。

 

「七年前から知っている名と、知らん名がある」

 

「と、申しますと」

 

「フレイヤ。あれは、昔から知っている。敵の神としてな」

 

 指が、次の名へ移る。

 

「リュー。【アストレア・ファミリア】の、眷族だった」

 

「……ご存じだったのですね」

 

「斬り合った相手の名くらいは、覚えている。走りながら、あの長い詠唱を最後まで通した。並行詠唱の筋は、悪くなかった」

 

 リリは、窓の向こうの毛布を見ないようにした。

 毛布は、聞こえていないふりをしているように、動かなかった。

 

「それに、声がいい」

 

「……は?」

 

「うるさくない声だった。戦場で、あれは珍しい」

 

 二階の部屋のエルフの毛布が、わずかに縮んだ。

 

「剣の娘も、知っている。七年前は、まだ背丈がこのくらいだった」

 

 女の手が、卓より少し上の高さで止まった。

 

「ヘルンも、知っている。あの女神の後ろに、いつも黙って控えていた娘だ。顔は覚えていないが、足音は覚えている」

 

「足音、ですか」

 

「主より半歩下がって、決して追い越さん足音だった。あとは、知らん。ローリエ・スワルも、カサンドラも。おまえも、春姫(はるひめ)も、命(ミコト)も、《千の妖精(サウザンド・エルフ)》も。七年前の都市には、いなかった名だ」

 

 リリが、知らない名の横に小さな丸をつけていく。

 丸のほうが、ずっと多かった。

 

「小人族は、見た目で歳が分からん」

 

「……はい?」

 

「四十を過ぎて、子どもの顔をしている男がいた。【フレイヤ・ファミリア】には、同じ顔の四兄弟もいた。どれが上かも、私には分からん」

 

 アルフィアは、リリを見た。

 

「おまえも、そうか」

 

「失礼な! リリは、ベル様より一つ上なだけです!」

 

 言ってから、リリは口を押さえた。

 年寄り扱いを打ち消すつもりが、年を答えていた。

 

「リューは」

 

「そ、それは、ご本人に」

 

「答えられん時点で、上だな」

 

「春姫(はるひめ)様も、命(ミコト)様も……あっ」

 

「剣の娘とエルフの娘は」

 

「…………」

 

「黙ったな」

 

 アルフィアは、名を上から下まで見た。

 神は、数えるまでもない。

 

「年上ばかりか」

 

「……そう、なりますね」

 

「あの子は、年上に好かれる顔をしている」

 

「それは、アルフィア様にも当てはまるのでは」

 

「私は、伯母だ」

 

「伯母様も、年上です」

 

 アルフィアは、黙った。

 リリは、今日初めて、一本取った気がした。

 

         *

 

 夕刻、玄関の戸が開く。

 

「ただいま帰りました!」

 

 土埃を頬につけた少年が、笑って立っている。

 廊下の奥で、台所で、中庭で、三つの鼓動が一斉に鳴った。

 もう驚かない。アルフィアは黙って歩み寄り、煤けた(すすけた)外套(がいとう)を受け取った。

 

 裂け目を指で確かめる。

 今日は一箇所だけだった。昨日より少ない。それを、女は少しだけ満足に思った。

 

 夕食の卓には、全員の分が並んだ。

 リューは起きていた。汁椀を覗き込む顔は、必要以上に真剣だった。

 卓の上座にも、大きな音が一つあった。

 

 ベルは、三杯目をよそわれながら、屈託なく話した。

 

「今日も地下迷宮(ダンジョン)で、すごく助けてもらったんです。神様の差し入れにも、リリのお弁当にも、リューさんの──あ、リューさん、起きて大丈夫なんですか?」

 

「は、はい。もう、すっかり」

 

「よかった! お見舞いに、お菓子を買ってきたんです。後で渡しますね!」

 

 卓のあちこちで、鼓動が小太鼓のように、三つ、四つ、順に鳴った。

 アルフィアの耳には、それがはっきり聞こえている。

 

「みんな、本当に優しいんです」

 

 ベルは、箸を持ったまま照れたように笑った。

 

「僕、誰かに好かれるようなことなんて、してないのに」

 

 アルフィアの手が、止まった。

 

「……今、何と言った」

 

「え? あ、いえ、その、みんな優しいなって……」

 

 同じ文の形を、聞いたことがあった。

 

 ゼウスとヘラが、まだこの都市にいた頃。大通りだった。

 【ゼウス・ファミリア】の男たちが連れ立って歩くと、道の両脇で足が止まった。八百屋の娘。酒場の給仕。通りすがりの女冒険者。

 耳のよい女には、鼓動が波になって、先頭の大男の背中を追いかけていくのが聞こえた。

 

 ザルドは、焼いた肉を片手に頭を掻いた。

 

『俺は、食い物にしか好かれん』

 

 冗談ではなかった。本気だった。

 

 その一歩後ろを、足音の荒い男が歩いていた。

 顔立ちは、今、目の前で四杯目をよそわれている少年に、よく似ていた。目の色も同じだった。

 その背中には、鼓動の波が、一つも届いていなかった。

 

 届いていたのは、一つだけだった。

 妹の脈が速くなる日は、決まって、あの足音が近づく日だった。

 熱だと思い、氷嚢を抱えて走って、笑われた。

 

 順番が、決まった。

 先頭は、あの男である。

 

 血ではない、と女は思った。

 顔は父親のものだ。その父親は、誰にも好かれなかった。

 なら、この子の周りの賑やかさは、顔から来ているのではない。

 

 英雄というものは、そうなのだろう。

 本人の知らぬところで人が集まり、集まった側が、勝手に苦しむ。

 ならば、この子の周りが賑やかなのも、道理か。

 

 アルフィアは、小さく息を吐いた。

 

「……何でもない。食え」

 

「は、はい!」

 

 ベルは首を傾げながら、四杯目をよそわれた。

 

         *

 

 食後の台所で、リリが帳簿を開いていた。

 今日一日で、罫線の紙は四頁に増えている。

 

「アルフィア様。この調子ですと、頁が足りません」

 

「数えるな」

 

「は?」

 

「これは、数える仕事ではない」

 

 アルフィアは、湯を注ぎながら言った。

 

「ザルドの周りが、そうだった。数えるほど、増えた。数えている間に、また増えた」

 

「ザルド……《暴食》の、ですか」

 

「大食いで、図体が大きくて、声の大きい男だ。それでも、通りを歩けば女の足が止まった」

 

「英雄、だったからですか」

 

「そうだ。【ゼウス・ファミリア】の男は、英雄というだけで追いかけられた」

 

「【ヘラ・ファミリア】の方々は」

 

「追いかけられたことはない」

 

 女は、湯の量を確かめた。

 

「逃げられたことなら、ある」

 

 リリは、聞かなかったことにした。

 

「……では、ベル様のお父様も、そのように」

 

「あれは、違う」

 

「違う?」

 

「あの子と同じ顔で、同じ目の色だった。それで、誰にも好かれなかった」

 

 リリの手が、帳簿の上で止まった。

 

「……同じお顔で」

 

「同じ顔でだ」

 

 リリは、四頁に増えた罫線の紙を見下ろした。

 顔が同じなら、この頁の数は、顔のせいではない。

 

「では、ベル様のこれは」

 

「顔ではない。英雄の方だ」

 

 リリは、それ以上を聞かなかった。

 聞けば、また頁が増える気がした。

 

「……では、リリは何をすれば」

 

「おまえは、おまえの勘定だけしていろ。他人の分は、聞こえる者が受け持つ」

 

「リリの勘定……」

 

「今日の脈は、三拍ぶん早かった。明日は、二拍にしろ」

 

「そんな訓練、聞いたことがありません!」

 

「今、作った」

 

 そのとき、アルフィアの耳が、門の外の足音を拾った。

 

 歩幅は落ち着いていた。靴の運びにも、迷いがない。

 ただ、鼓動だけが、やけに速かった。

 

 足音は門の前で止まり、それきり、動かなくなった。

 戸は、叩かれない。

 五分が過ぎても、叩かれなかった。

 

「……一人、増えたな」

 

「え?」

 

「まだ、入ってこん」

 

 リリが、帳簿の新しい頁を開く。

 ペン先が、紙の上でぴたりと止まった。

 

「あの、アルフィア様。そちらのお客様の特徴を」

 

「歩幅は落ち着いている。迷いもない。だが、鼓動だけが速い」

 

 リリは、頁の上の名前を指でたどった。

 

「……ヘルン様かもしれません。普段は、とても落ち着いた方です。ただ、ベル様のこととなると、否定がとにかく早くて」

 

「おまえが言っていた……ツンデレ、というやつか」

 

「はい。ヘスティア様の言葉では、そうなります」

 

 リリは、頁の端に一行、書き足した。

 

『ツンデレ』。

 

 門の外の足音は、まだ動かなかった。

 

 アルフィアは湯呑みを置き、廊下へ出た。リリが、帳簿を抱えてついてくる。

 戸に手をかけるより先に、外の気配が一つ、びくりと揺れた。ノックの手が上がりかけて、下りた。上がって、下りた。三度目で、アルフィアが先に戸を開けた。

 

「入れ。五分、立っていた」

 

 戸口にいたのは、白い前掛けを着けた若い女だった。背筋が定規のように伸び、両手で提げた籠は微動だにしない。

 女は、九十度に腰を折った。

 

「夜分に失礼いたします。シル様の侍女、ヘルンでございます。シル様のお使いで、替えの前掛けをお届けに参りました。それ以上の用件は、一切ございません」

 

「そうか」

 

「ベ、ベルのご様子を窺いに来たわけでも、断じてございません」

 

「まだ何も聞いていない」

 

「存じております。念のためです」

 

 アルフィアは、耳を澄ませた。

 鼓動が速い。ただ、それは一つの音ではなかった。

 一つは、怯えの音である。七年前の自分の名を、この娘はよく知っているらしい。

 もう一つは、怯えとは別の音だった。そちらの方が、少しだけ大きい。

 

「怯えなくてよい。取って食いはしない」

 

「は、はい。恐れ入ります」

 

 ヘルンの背筋が、さらに伸びた。

 リリが、籠の下を覗き込む。

 

「ヘルン様。前掛けの下に、もう一つ包みがありますが」

 

「……煮物でございます」

 

「どなたの」

 

「シル様のご指示で──」

 

「シル様は今夜、お店の当番のはずですが」

 

「……私の、独断です。作りすぎて、余りましたので」

 

「五人前ありますが」

 

「余ったのです」

 

「ベル様の好物の、じゃがいもの煮物が、五人前」

 

「偶然でございます!」

 

 声が、少し裏返った。

 

 そのとき、奥から足音がした。

 

「あれ? ヘルンさん? いらっしゃい!」

 

 ベルが、湯上がりの髪を拭きながら、廊下に顔を出した。

 ヘルンの鼓動が、アルフィアの耳の中で、ひとつ爆ぜた。

 

「べ、別に、あなたのために来たのではありません! 勘違いなさらないでください!」

 

「あ、はい! シルさんのお使いなんですよね。ありがとうございます!」

 

 ベルは、にこにこと頷いた。疑う気配は、少しもなかった。

 

 ヘルンは一瞬だけ、救われたような顔をした。それから、救われなかったような顔をした。

 

 目を伏せる。唇が、小さく動きはじめた。

 

「……疑わない。どうして、この人は少しも疑わないのですか。疑ってくだされば、言い訳もできますのに。疑われないから、私はまた来てしまう。来るつもりなど、ありませんでした。煮物も、余らせるつもりではありませんでした。五人前、きっちり作りました。あなたの好きな、少し甘い味付けで。その味付けを知っている自分が、憎い。知らなければよかった。でも、忘れられない。忘れるくらいなら、いっそ……いいえ。いいえ。シル様のお使いの途中に、私は何を。……ああ、それでも、その濡れた髪で『ありがとうございます』などと言われると、私は、私は、明日もきっと……」

 

 声は、吐息ほどに小さかった。

 リリには、ぶつぶつとしか聞こえない。ベルは、首を傾げて待っている。

 

 アルフィアにだけは、一字残らず聞こえていた。

 女は、表情を変えなかった。変えないように、少しだけ努力した。

 

「……ベルは、本当に、素直な人ですね」

 

 最後の一言だけが、少年に届いた。

 

「え? そうですか?」

 

「いえ。お気になさらず。失礼いたします」

 

 最後にもう一度、九十度に腰を折る。籠の持ち手は、最後まで揺れなかった。

 足音は、規則正しく遠ざかっていった。曲がり角で一度だけ乱れて、また規則正しく戻った。

 

 リリが、帳簿に書き込む。

 

『ヘルン 確定(本人否認・戸口で即否認)』

 

「記録は、正確にしておけ」

 

「はい。リリは、いつも正確です」

 

 玄関には、五人前の煮物が残された。

 湯気は、まだ立っていた。

 

         *

 

 翌朝、アルフィアは居間の卓に、一枚の紙を置いた。

 罫線の入った羊皮紙。定規で引いた線は一本もぶれず、四辺もきっちり揃っている。

 

「帰宅の予定を書かせる表だ。名前。出る時刻。戻る時刻。遅れるときの伝令先」

 

 ヘスティアは紙を手に取り、上から下まで目を通した。それから、卓の引き出しを開けた。

 出てきたのは、角の擦り切れた帳面だった。表紙には、女神自身の字で「みんなの帰る時間」。開くと、ベルの名の横に、何十もの時刻と丸印、それにときどき大きな×が並んでいる。

 

「それなら、この家では僕がもうやってる」

 

 アルフィアは、帳面をしばらく見ていた。

 

「……抜けが多い」

 

「書き忘れる子が多いからね」

 

「伝令も、遅い」

 

 女の目が、窓の外へ流れた。

 門の脇に、フレイヤの眷族(ファミリア)が二人、立っている。保護の名目で、交代で置かれている護衛だった。

 戸口の陰には、もう一人いた。

 

「ヘディン」

 

「呼ばれた覚えはないが」

 

 白妖(ホワイト・エルフ)の男が、壁から背を離した。

 

「立ち聞きしていた者を、呼ぶ必要はない」

 

「護衛だ。聞こえる位置にいるのが、仕事だ」

 

「おまえたちは、毎日この家と店を行き来している。伝令に使える」

 

 ヘディンは、眼鏡の奥で目を細めた。

 

「使える、か。効率の話なら、否定はしない」

 

「なら──」

 

「だが、我らが動くのは、シル様のお言葉があったときだけだ。《静寂(せいじゃく)》の指図も、炉の神の指図も、受けるつもりはない」

 

「そうか……では、シル・フローヴァに言わせよう」

 

「待った待った待った!」

 

 ヘスティアが、帳面を胸に抱えた。

 

 正しい。腹が立つほど正しい。

 けれど、伝令を任せれば、この家の子がどこへ行き、いつ帰るのかを、毎日フレイヤの側が知ることになる。シルくんは、もうこの家で皿を運んでいる。これ以上、家の中に入れたくはなかった。

 

「便利なのは分かるよ。でも、うちの子の帰る時間を、よその家に預けるのは、なしだ」

 

「よその家、か」

 

 ヘディンの口元が、わずかに動いた。

 

「我らが女神は、この家の台所に立っておられるが」

 

「台所はかッ……貸してる! でも、うちの子の帰る時間までは貸してない!」

 

「では、どうする」

 

 アルフィアが聞いた。

 

「伝令先は、この家だ。僕か、ここにいる誰か。外の子に頼むのは、本当に急ぐときだけ」

 

「遅い」

 

「遅くていい。帰ってくる場所がここだって、分かってればそれでいいよ」

 

 アルフィアは、黙った。

 ヘディンが、小さく頭を下げる。

 

「承知した。女神ヘスティアの帳面に、我らの名は載らない」

 

「載らない。君たちの帰る時間は、君たちの女神に預けてくれ」

 

「……もっとも、あの方は、毎日この家の帳面に、ご自分の帰る時間を書いておられるが」

 

「それは言わないでくれ! キミ……そういうとこだよ……」

 

 ヘスティアは、咳払いをひとつした。

 それから、横に立つ女を見た。

 

 便利なものを、迷わず使いこなす女だ。放っておけば、フレイヤの家の眷族ごと、この家を回しはじめるだろう。

 

「君のリストは、使わせてもらうよ。ただし、決まりを決めるのは、主神の僕だ」

 

 ヘスティアは筆を取り、表の一番上に一行、書き足した。

 

 ──帰る者は、全員書くこと。

 

「全員だよ。君もね、アルフィアくん」

 

 アルフィアは、少しだけ黙った。

 それから筆を受け取り、自分の名を書き入れた。神の決めた書式に自分の名を書くのは、ずいぶん久しぶりだった。

 

     *

 

 玄関の鐘が鳴ったのは、そのときである。

 来客は、書類を抱えた几帳面そうな娘だった。敷居の手前で、足を揃える。

 

「【ヘルメス・ファミリア】の、ローリエ・スワルだ。ヘルメス様より、お見舞いの品と、伝言を届けにきた」

 

 迎えに出たベルが、顔をほころばせる。

 

「ローリエさん! お久しぶりです!」

 

「お久しぶり、ベルくん。ご無事で何より」

 

 淡々とした声だった。表情も、ほとんど動かない──はずだった。口の端が、湯に落とした茶葉のように、わずかにほどけた。

 

「どうぞ、上がってください! 居間に、みんないますから」

 

 ベルが先に立って、廊下を歩きだす。

 ローリエは書類を抱え直し、その半歩後ろをついてきた。歩幅を、少年に合わせている。本人は、たぶん気づいていない。

 

 居間の戸口の陰には、白妖(ホワイト・エルフ)の護衛が立っていた。

 ローリエは、その前を素通りした。少年の背中しか、見ていなかった。

 

「アイズさんのときは、本当にありがとうございました。ローリエさんたちが、都市を守ってくれてたって聞きました」

 

「……任務だった。 でもベルくん、ちょっと聞いて欲しい」

 

 ローリエは、抱えた書類を揃え直した。

 

「都市の防衛は、【フレイヤ・ファミリア】のヘディン様の指揮下だった。配置換えは、一日に十一回。報告は三行以内。一行はみ出すごとに、叱責が一つ。休憩は、敵の来ない時間に取れ、とのことで」

 

「そ、それは……」

 

「敵は、来なかった。それなのに、休憩もなかったんだ」

 

「大変でしたね……! でも、ローリエさんがいてくれて、本当によかったです」

 

 その陰で、アルフィアの耳だけが、一拍の欠落を拾った。

 とん、とん、とん、……、とん。

 規則正しい鼓動が、一箇所だけ、抜けた。

 

 同じ瞬間、ローリエの膝が、かくりと折れかけた。

 片手が卓の縁をつかむ。書類だけは、一枚も落とさなかった。

 

「ローリエさん!?」

 

「しッ、失礼。足元が、なぜか腰が……力が抜けてしまって」

 

 ローリエは、何事もなかったように背筋を戻した。

 

「すまない。原因を分析する。……昨夜の睡眠が、四時間。睡眠不足による、一時的なふらつきだろう。問題はない」

 

「四時間も眠れたなら、上等だ」

 

 戸口の陰から、低い声がした。

 ローリエの背筋が、音を立てずに凍った。

 

「ヘ、ヘディン様……なぜ、ここに」

 

「護衛だ」

 

「……左様で」

 

 腕の中の書類が、きっちりと揃い直った。

 

 そこで初めて、ローリエは居間の奥に立つ女に気づいた。

 灰色の髪。灰と翠の目。

 

「ひっ」

 

 小さな声が漏れた。

 記録で、何度も読んだ名前だった。七年前の大抗争の報告書の、いちばん厚い頁。

 

「き、貴殿はア、アルフィア……殿。お、お初にお目にかかる」

 

 娘の鼓動は、さっきの欠落どころではない速さで鳴っていた。怯えの音と、少年の名で崩れた音が、一つの胸の中で喧嘩をしている。

 

 指摘すれば、この娘はたぶん泣く。

 泣かれるのは、好かん。

 

「アルフィアだ。茶を飲んでいけ」

 

 それだけ言った。

 

「あ、あぁッ!」

 

「すぐ淹れますね! リューさんと同じ、香草茶で。ローリエさんは、葉を一枚多めの、少し濃いめでしたよね」

 

「……覚えていてくれたのか」

 

 とん、とん、……、とん。

 

 ローリエは、誰にも聞こえない声で呟いた。

 

「……二度目、だ」

 

 アルフィアには、聞こえた。

 聞こえないふりをした。あとでリリの名簿を借り、ローリエ・スワルの名の横に丸印をつけておこう。ローリエの視線が、卓の紙に止まる。

 

「これは」

 

「帰りの書付だ」

 

「なるほど、とても合理的だな」

 

 ローリエの目が、紙の端から端まで走った。

 

「出発、帰着、遅れるときの伝令先。必要な情報が、過不足なく揃っています。罫線の間隔も一定で、書き込みやすい」

 

「あぁ、定規で引いた」

 

「あぁ、見れば分かる」

 

 ほんの少し、娘の目が輝いた。

 

「写しを取っても、よいだろうか。ヘルメス様にも、提案したく」

 

「よい。好きにしろ」

 

 ローリエは、写しを丁寧に折り畳み、鞄の一番上に収めた。ヘルメスから預かったはずの見舞いの品は、その下で、まだ出番を待っている。

 

 茶を配り終えたベルは、「行ってきます!」と元気に地下迷宮(ダンジョン)へ出ていった。

 その背中を、ローリエは戸口まで見送った。見送りすぎて、ヘディンに咳払いをされた。

 

「では、私もこれで。茶の礼は、淹れた者にだけ言う。……ベルくんに、そう伝えておいてくれ」

 

 ローリエが玄関を出て、ほどなくしてのことだった。

 

 門の方で、二つの声がした。

 一つは、聞いたばかりの、平らな声。もう一つは、聞いたことのない、細く震える声だった。

 

「……カサンドラ・イリオン。なぜ、ここに」

 

「ロ、ローリエさんこそ……」

 

 会話は、そこで途切れた。

 どちらも、続ける気がないらしい。

 

 しばらくして、玄関の戸が開いた。

 ローリエが戻ってきた。表情は、出ていったときより、わずかに硬い。

 

「門の前で、道に迷っている者を拾った。こちらに用があるそうだ」

 

 その背後から、短い悲鳴が上がった。戸口の陰のヘディンに、出くわしたらしい。

 廊下を、足音が小走りに近づいてくる。途中で一度つまずいて、また近づいてきた。

 

 居間の戸口から、娘が半分だけ顔を出した。

 長い髪の、前髪だけが大きく垂れて、目元をほとんど隠している。背を丸め、両腕で自分の身体を抱えるようにして、その髪の隙間から人を窺っていた。唇が、聞こえない何かを、ずっと呟いている。

 

 アルフィアと目が合った瞬間、その肩が、びくんと跳ねた。

 

「あ、あの、あの、すみません! わ、私は、カサンドラです! 【ミアハ・ファミリア】の……ミアハ様のお使いで、ベルさんに、お届け物を……!」

 

「あの子なら、もう出た」

 

「そ、そんな……っ」

 

 娘は、戸口でよろめいた。

 窓際の椅子から、リューが首を傾げる。

 

「カサンドラさん。ダフネさんは、ご一緒では」

 

「ダ、ダフネちゃんは、今日はお店の番で! 私一人で行くのは、反対されたんですけど! ミアハ様が、どうしてもベルさんにって! それで、あの、道に三回迷って、門の前でローリエさんに会って、玄関で怖い方に会って──」

 

「おっ、落ち着いてください」

 

「落ち着いてますぅ……!」

 

 落ち着いていなかった。

 それから、何かを思い出したように、さらに青くなった。

 

「あ、あと、すみません! 夢で、見てしまったんです!」

 

「何の話だ」

 

 居間が静まった。

 

 アルフィアは、耳で数えた。

 上座に、神の大きな音が一つ。卓に、リリと春姫(はるひめ)。窓際の椅子に、リュー。戸口の陰に、白妖の護衛。台所に、鍛冶師。

 それから、戸口の娘と、もう一つ。

 

 帰ると言ったはずの金の髪の娘が、さっきまでの席に、なぜかもう一度腰を下ろしていた。湯呑みまで、手元に引き寄せている。

 

「……帰るのではなかったのか」

 

「情報の収集です。ヘルメス様に、報告する義務がありますので」

 

 ローリエは、戸口のカサンドラから一番遠い席のまま、淡々と補足した。

 

「門の前で、たまたま行き合っただけです。夢のことで、どうしても、こちらのご家族にお伝えしたいそうです」

 

「……たまたまです」

 

 ローリエは、元の席から動かなかった。カサンドラの椅子とは、卓の端と端だった。

 椅子を示すと、カサンドラは泣きそうな顔で座り、膝の上で両手を握りしめた。

 アルフィアは、二人を見比べた。

 

 片方は、金の髪をきっちり結い上げた娘だった。華やかというほどではない。だが、整っている。背筋も、書類の角も、靴の向きも揃っていた。

 もう片方は、日陰に生えたような娘だった。垂れた前髪。下から窺う目。呟きの多い口。何かを知っていて、言わない者の顔をしている。

 自分の身体を隠すように抱えた腕のせいで、胸元がかえって目立っていた。

 

 あの好色爺が見れば、どうしたか。

 金の髪の娘は上から下まで眺めて、悪くない、と顎を撫でただろう。日陰の娘のほうは、まず胸元に目をやり、それから前髪をかき上げて目を輝かせたはずだ。

 

 想像しただけで、殴りたくなった。

 ここにいない神を殴る方法は、まだ見つかっていない。

 

 陰険な顔だ、と女は日陰の娘を見て思った。

 

 二人の鼓動を聞きながら、女は頭の中で、リリのリストをめくった。

 

 リュー。エルフ。透き通るような肌に、きつそうな目をしている。だが、笑うと、その目が細い弧を描く。本人は、笑っていることに気づいていないのだろう。剣を握る手のわりに、指は細く長かった。

 

 リリルカ。小人族。数字で武装した、小さな軍師。ふだんは商人の声で話すくせに、ときどき「ベル様」の「様」だけが、蜜を落としたように甘くなる。

 

 春姫(はるひめ)。狐人(ルナール)。尻尾に、気持ちが全部出る娘。歓楽街の女神の眷族(ファミリア)だったというだけあって、立ち居振る舞いが妙に目を引く。本人だけが、それをまるで知らない。

 

 ヘルン。背の高い、整った顔の侍女。主の半歩後ろを歩き、ベルの話になると否定が早い。気配は陰に沈んでいるのに、思いつめた音だけが、やけに大きい。

 

 炉の女神。誓いを守る処女神が、なぜあの子にだけ、あれほどうるさい音を立てるのか。幼い姿のまま、何億年を生きているのかも分からない。神の姿というものは、何で決まるのだろう。

 

 美の女神。腕のいい彫り師が、生涯をかけて彫り上げたような身体だった。あの好色爺でさえ、一度は本気で口説いたという。冒険者も神も問わず、都市でいちばん人を惑わせる女だ。中身が壊れていたのが、まだ救いだった。

 

 それに、金の髪の娘。森の気難しさを、そのまま綺麗に整えたような顔。

 それと、日陰の娘。前髪の奥で、何かを言いたげな目。

 

 種族が、ばらばらだった。

 エルフも、小人族も、狐人も、人も、神もいる。歳は、上ばかりだ。

 

 ザルドの周りの女たちは、英雄の背中を遠くから追いかけていた。

 このリストの娘たちは、違う。聞いた限り、ほとんどが一度、どこかで沈みかけている。家に縛られた者。売られかけた者。仲間を失った者。誰にも話を聞いてもらえなかった者。

 

 そこへ、あの子が手を伸ばしたのだろう。

 何も考えずに。

 

「……厄介な子だ」

 

「は、はい?」

 

「何でもない。聞こう」

 

 カサンドラは、目を閉じて、息を吸った。

 前髪の奥で、睫毛が一度だけ震える。

 声の調子が、ふっと変わった。夢を語る人の、遠い声だった。

 

「……灰色の、影が見えます」

 

 卓の周りの空気が、ぴんと張った。

 

「朝の、白い光の中を、走っています。とても速くて、風の音も、しません。……その影は、誰かを抱えています。大切そうに、揺らさないように」

 

 全員の目が、ゆっくりと、一人に集まった。

 

「それは、私だ」

 

 アルフィアは、当然のように頷いた。

 

「あ、やっぱり……!」

 

「納得した。続けろ。ただし、私は走らん」

 

「えっ」

 

「抱えることはある。走ることは、ない。走るほどの用が、ない」

 

 リリが、小さく手を挙げた。

 

「ご本人は、気づいておられないだけかと。先日、リュー様を運ばれた際、廊下の端から端まで、リリの目には残像しか」

 

「歩いただけだ」

 

「……速かったです」

 

 窓際の椅子で、リューが、湯呑みに顔を近づけたまま答えた。耳の先が、赤い。

 

「それから、あの」

 

 カサンドラは目を閉じたまま、続けた。

 

「庭で、誰かが、正座をしています。背中がとても真っ直ぐで、真面目そうな……どなたかは、見えません。その人は、とても、叱られています」

 

「え、誰がだい!? 誰が誰に?」

 

 ヘスティアが、身を乗り出した。

 

「灰色の影と、もう一人、とても綺麗な方に……」

 

「綺麗な方」

 

「はい。夢の中で、後光が差していました」

 

「後光」

 

 ヘスティアは眉を寄せ、記憶を探る顔になった。

 リリが、帳簿の端にさらさらと書き留める。『庭で正座・要確認』。

 

 カサンドラは、そこで一度、口をつぐんだ。

 

「それから……その、少し前に」

 

 声の調子が、また変わった。今度は、少しだけ早口だった。

 

「ベルさんが、いらっしゃいます。……私が、石畳で転んでしまって、そうしたら、ベルさんが、手を、差し出して……『カサンドラさん、大丈夫ですか』って。……ええと、それで、手が、あたたかくて」

 

 誰も、動かなかった。

 

「その、……少し笑って、……『一緒に、行きましょう』って」

 

「失礼、カサンドラ氏」

 

 ローリエが、静かに呼んだ。

 

「はい」

 

「それは予知ではなく、願望なのではないか?」

 

「ち、違います! これは、確かに、夢で!」

 

「夢であることと、予知であることは、別では」

 

「予知です! ほとんど! 七割くらいは!」

 

 ヘスティアの湯呑みが、口の前で止まった。リリのペン先は、紙の上で止まったまま動かない。

 春姫(はるひめ)が、両手を頬に当てた。

 

「まあ……! 素敵な夢でございます!」

 

「素敵、では、ありません! 私は、占い師として、あの、公私の混同は……!」

 

「夢の中身は、嘘をつかん」

 

 アルフィアが、静かに言った。

 

「鼓動は、もっと嘘をつかん」

 

 カサンドラは、椅子の上で硬直した。

 

「おまえは、予知の合間に、本当の夢を挟んでいる。区別がついていない」

 

「つ、ついています!」

 

「ついていない」

 

「ついています……ついています……」

 

 声は、だんだん小さくなった。

 

「おまえの話を、最後まで聞いたのは、あの子だけか」

 

 カサンドラは、膝の上の手を見つめた。

 

「……はい。他の方は、笑って、行ってしまいますから。ベルさんだけは、最後まで、聞いてくれて」

 

 居間が、しんとした。

 窓際で、リューが、湯呑みの中身を静かに見つめている。

 

「夢は、選べないものですから」

 

 誰に向けるでもなく、そう呟いた。

 あまりにも真顔だったので、誰も笑わなかった。

 

 ヴェルフが台所の戸から顔だけ出し、状況を一瞥して、また引っ込めた。

 

「俺は、夢なんか見ねえ」

 

 戸の向こうから、独り言が聞こえた。誰も、尋ねていない。

 

 ローリエが、カサンドラの肩にそっと手を置いた。

 

「今日は、ここまでにしよう。予知の部分は、ヘルメス様にご報告する」

 

「お、お願いします……」

 

 帰り際、カサンドラは玄関で深く息を吸い、アルフィアの前に立った。

 

「あの、……影の方」

 

「アルフィアだ」

 

「アルフィアさん。その、庭の人は、悪い人では、ないと思います。夢の中で、一番、必死でしたから」

 

「そうか」

 

 アルフィアは、それだけ答えた。

 叱られる側が悪人でないと聞いたところで、叱る手加減が変わるわけではない。ただ、頭の隅に、一行だけ、記憶した。

 

         *

 

 午後、春姫(はるひめ)が洗濯物を抱えたまま、廊下でもじもじしていた。

 

「あの、アルフィア様。一つ、お願いがございます」

 

「聞こう」

 

「お怪我をなさった方を、お運びするやり方を、教えていただけませんでしょうか」

 

 アルフィアの足が、止まった。

 

「先日、リュー様をお運びになるお姿を拝見しまして。揺らさず、息を合わせて……とても、丁寧でございました。私も、いつか皆様を支える側になりたくて」

 

 春姫(はるひめ)の妖術は、仲間に力を与える。その使い手は、いつも後ろにいる。

 前に出られなくても、倒れた者を運べる腕が欲しい、ということらしい。

 

「教えるのは、一度だけだ。それで覚えろ」

 

「は、はいっ!」

 

 中庭の日だまりに、洗濯物の籠が置かれた。

 春姫(はるひめ)は、言われるまま、石畳に横たわった。

 

「病人の役だ。力を抜け」

 

「はい……!」

 

 アルフィアは膝をつき、片腕を背に、もう片方を膝の裏へ差し入れた。

 持ち上げる。

 足が地面を離れたことを、春姫(はるひめ)は、半拍遅れて知った。

 

「揺らさないことは、速く運ぶことより先だ」

 

「はい……」

 

「歩幅は小さく、踵(かかと)から。呼吸は、運ばれる者に合わせる。吸うときに上げ、吐くときに進む」

 

 中庭を、ゆっくり一周した。

 石畳を踏む靴音が、一つもしなかった。

 

 春姫(はるひめ)の耳に、とん、とん、という音が届いた。

 アルフィア自身の鼓動だった。ゆっくりで、乱れがなく、ひどく落ち着いている。

 鼓動の主は、無表情のまま、前だけを見ていた。

 

「……妹を運んだのも、この持ち方だったな」

 

 独り言のような声だった。

 春姫(はるひめ)は、何も言わなかった。言わない方がよいことだと、分かっている。

 

 一周して、アルフィアは膝を折り、春姫(はるひめ)をそっと石畳に下ろした。

 

「以上だ」

 

「ありがとうございました……」

 

 春姫(はるひめ)は、起き上がらなかった。

 両手で頬を押さえ、地面を見つめている。

 

「どうした。痛むか」

 

「あ、あの、アルフィア様」

 

「何だ」

 

「私、病気かもしれません」

 

 アルフィアの動きが、止まった。

 

「……どこが悪い」

 

「痛くは、ないのです。ただ、胸が、どきどきして、お顔が熱くて……ベル様のときと、似ているのですが、でも、少し、違っていて……」

 

 アルフィアは、聞いた。

 聞いて、後悔した。

 

 同じ音だった。

 ベルの名を聞いたときの、あの鼓動の拍と、同じだ。

 

 【ヘラ・ファミリア】の本拠には、女しかいなかった。

 そういう家では、行き場のない音が、ときどき女から女へ向かう。

 背が高く、口数が少なく、男より剣の速い姉は、その向けられる先になりやすかった。

 

 廊下の角で、顔を真っ赤にした団員に呼び止められたことが、何度かある。

 稽古のあとで、手紙を押しつけられたこともある。

 そのたびに、妹は腹を抱えて笑った。

 

『姉さんは、女の子にばっかり好かれるんだから』

 

 笑いごとではない、と言った。

 妹は、もっと笑った。

 

 ──同じ音だ。

 あの廊下の角で聞いた音と、寸分違わない。

 

「…………」

 

「アルフィア様?」

 

「……病では、ない」

 

「では、何でございましょう」

 

「…………疲れだ。寝ろ」

 

「寝れば、治りますか」

 

「治る……たぶん」

 

「たぶん?」

 

「たぶんだ」

 

 春姫(はるひめ)は、真剣な顔で頷いた。

 

「承知いたしました。では、お言葉に甘えて、少し休みます。……アルフィア様。お運びいただいて、とても、安心いたしました」

 

 にこりと笑って、洗濯物の籠を抱え直し、廊下へ去っていく。

 足取りは、ふわふわと軽かった。

 

 アルフィアは、しばらく動かなかった。

 

 鼓動の意味は、分かっていた。分かっていて、名は付けないと決めた。

 本人が知らん音を、他人が名付けるな。自分で言った言葉が、自分の方へ戻ってきた。

 

 柱の陰から、リリが現れた。

 

「アルフィア様」

 

「見ていたのか」

 

「たまたまです。たまたま、一部始終を」

 

「聞かなかったことにしろ」

 

「リリは、何も聞いておりません」

 

 リリは、手帳を開いた。

 

「ただ、書いておくだけです。アルフィア様(春姫(はるひめ)様経由)」

 

「消せ」

 

「消しません。公平性に関わります」

 

 アルフィアは、言い返そうとして、言葉を探した。

 探しても、見つからなかった。

 

         *

 

 その夜、居間の灯りは一つだけ残っていた。

 

 ヘスティアは、卓の上座で、冷めた茶を前に座っていた。いつもの二つ結びの髪は、片方がほどけかけている。

 アルフィアは、向かいの椅子に腰を下ろした。音は、しない。

 

「この家で、いちばんうるさい音を、聞きに来た」

 

「神様に向かって、うるさいとはなんだい」

 

「神でも、鳴る」

 

 ヘスティアは、湯呑みを両手で包み、顔を隠した。

 

「……廊下を、ベルが通るたびにな」

 

「やめてくれ」

 

「朝、寝癖で降りてきたときは、特に」

 

「やめてくれって言ってるだろう!」

 

 神は卓に突っ伏し、くぐもった声で言った。

 

「……そうだよ。僕は、あの子の神様だ。それ以上になるつもりは、ない。なっちゃいけないと、思ってる」

 

「だが、音は止まらん」

 

「分かってるよ! 分かってるから、困ってるんじゃないか!」

 

 アルフィアは、黙って聞いた。

 茶化す話ではなかった。この神の鼓動は、この家で一番古く、一番大きく、一番長く続いている。

 

 やがて、ヘスティアが顔を上げた。目だけが、少し据わっている。

 

「君こそ、人のことが言えるのかい」

 

「何がだ」

 

「あの子に、『おば』呼ばわりを禁じたくせに」

 

 アルフィアの動きが止まる。

 

「ベルくんから聞いたよ。『おば、という音は要らん』って、言ったんだって? で、アルフィアでよい、って。……それって、どういう意味でだい」

 

「…………」

 

「あの子に、どう呼ばれたいんだい?」

 

「……アルフィア、だ」

 

「それが答えかい」

 

「それ以上は、ない」

 

 ヘスティアは、ふん、と鼻を鳴らした。

 勝ち誇ったのではない。安心したような息だった。

 

「子の色恋に口を挟むのは、母親ごっこの範囲を出ん」

 

 アルフィアが、ぽつりと言った。

 

「神も、私も、同じだ」

 

「ごっこ、か。耳が痛いね」

 

 ヘスティアは、湯呑みを置いた。

 

「……でもね、アルフィアくん。僕は、ごっこでも、やめるつもりはないよ。あの子が誰を選んでも、選ばれなかった子たちが帰ってくる家は、ここだ。そのご飯を作るのが、僕らの仕事だ」

 

「選ばれなかった者を、あの子が泣かせたら」

 

「それは、順番に入れる前に、まず僕に言ってくれ」

 

「……考えておく」

 

「考えるのかい!」

 

 ヘスティアは、ふっと笑った。

 その笑いは、先ほどの声より、ずっと静かだった。

 

 アルフィアは立ち上がり、冷めた茶を下げ、新しい湯を注いだ。

 音は、やはり、しなかった。

 

 新しい茶を一口飲んで、ヘスティアは目を丸くした。

 

「……美味しい。悔しいけど、美味しい」

 

「悔しがる意味が分からん」

 

「神の沽券(こけん)に関わるんだよ!」

 

 湯気の向こうで、神の鼓動が、少しずつ凪いでいった。

 アルフィアは、その音が静まるまで、席を立たなかった。

 

         *

 

 数日後の朝。

 

 居間では、朝食の片づけが済みかけていた。

 シルが盆を持って、卓の周りを回っている。「なら、働け」と言われた日から、彼女が手伝いに顔を出す日は、三日に一度が二日に一度に増えた。理由は、誰も尋ねていない。

 

 壁の帰りの書付には、ベルの欄がある。

 出る時刻、五時。戻る時刻、八時。

 朝五時、「お使いです」と笑って出ていく背中を、アルフィアは見送った。時刻が書いてあれば、足りると思った。

 時計は、ちょうど八時を指している。表は、守られていた。守られていたのは、時刻だけである。

 

 玄関の戸が、そっと開いた。

 

 開いた、と分かったのは、アルフィアだけだった。

 蝶番を鳴らさないように、ゆっくり押している。靴を脱ぐ音も、ほとんどしない。抜き足で廊下を進む足音が、居間の前を通り過ぎようとした。

 

「待て」

 

 足音が、止まった。

 

「……た、ただいま戻りました」

 

 居間の戸口に、ベルが顔だけ出した。

 両手を、背中に回している。肩口の外套が、泥と花びらで汚れていた。

 

 居間にいた者の手が、一斉に止まった。

 上座の大きな音は、数に入れない。いつものことだ。それ以外に、鼓動が四つ、同時に跳ねた。

 

「おかえり、ベルくん。……その、背中のは」

 

「な、何でもないです!」

 

「何でもないものは、背中に隠さん」

 

 アルフィアが言った。

 ベルは観念して、両手を前に出した。

 

 白い花束だった。

 銀の紐で束ねた、片腕に余るほどの大きさである。

 

「ベル様。今朝は、どちらへ」

 

 リリの声が、商談の声になっていた。

 

「フォ、フォールクヴァングです。お掃除を……お掃除です」

 

「それで、なぜ花束を」

 

「お掃除のお礼です!」

 

「掃除の礼に、婚礼の花は出ん」

 

「それは、その……」

 

 ベルの目が、泳いだ。

 

「クラネルさん」

 

 窓際から、リューが静かに言った。

 

「隠し事は、あとで余計に話しにくくなります」

 

「は、はい……」

 

 少年は、花束を抱えたまま、床を見た。

 

「広間に入ったら、その……女の人が、たくさんいて」

 

「何人ですか」

 

「に、二十人くらい……」

 

「二十」

 

 リリのペン先が、ぽきりと折れた。

 

「どんな格好の方々でしたか」

 

「格好は……ええと、白かったです」

 

「白い、何ですか」

 

「白い……服、です。たぶん。服の部分は、白かったです」

 

「服の部分」

 

 リューの声が、一段低くなった。

 

「ぼ、僕、なるべく天井を見てたので! よく分からなくて!」

 

 ベルは、真っ赤になって首を振った。

 嘘は、一つも言っていない。言っていないことが多いだけだ。

 

「そ、それより! 広間の掃除は、ちゃんと終わったんです! 床も拭いたし、窓も──」

 

「窓の話は、していません」

 

 リリが、折れたペン先のまま言った。

 

「それで、その二十人の方々は、何を」

 

「み、みんなで一緒に掃除をって。それで、あの、窓が三十枚くらいあって、全部──」

 

「ベル」

 

 リューが、静かに遮った。

 

「窓は、数えなくて結構です」

 

「……はい」

 

「逃げようとは、なさったのですか」

 

「しました! でも、両側から腕を組まれまして、そのすごい力で!……あ、でも、床は本当に綺麗になってて!」

 

「ベル様の腕を……強引に!」

 

 春姫(はるひめ)の耳が、ぺたりと倒れた。

 

「それから、ヘイズ……さんがご命令を……」

 

「どんな命令だ」

 

 アルフィアの声だった。

 ベルの口が、ぱくりと閉じた。

 

「……ま、窓は」

 

「窓は、もうよい」

 

「め、命令の前に、ヘルンさんが飛び込んできたので」

 

 春姫(はるひめ)の尻尾が、ぴんと立った。

 

「し、白い服の……お綺麗な方々が、二十人も……」

 

 その隣で、命(ミコト)が目を輝かせた。

 

「二十人がかりの大掃除とは! さぞ見事な床になったのでございましょうな!」

 

「ヘルンさんが、僕の外套を掴んで、庭を引きずって、門の外まで連れ出してくれて。『今日のことは、全て忘れてください! もう二度と、いらっしゃってはいけません!』って、泣きそうな顔で。それで、これを押しつけられて」

 

 ベルは、花束を見下ろした。

 

「……だから、ちょっと、言いにくくて」

 

「ちょっと、ね」

 

 ヘスティアが、遠い目で繰り返した。

 

「ベルくん! その花、いったん──いや、今すぐ水に──いや、捨て──どっちだ!」

 

「えっ、きれいなのに、捨てるんですか?」

 

「花に罪はない」

 

 アルフィアが、花束を受け取った。

 

 茎の切り口を見る。銀の紐を見る。白い花の種類を見る。

 祝い事の花だった。それも、使い道が一つしかない組み合わせの。

 

 女は、それを顔に出さなかった。

 代わりに、少年の肩口の泥を、指でなぞった。

 

「外套が汚れている」

 

「あ、はい。ヘルンさん、必死だったので」

 

「そうか」

 

 返事は、それだけだった。

 ただ、声の温度が、少し下がった。

 

 そのとき、アルフィアは気づいた。

 さっきまで、盆の上で鳴っていた杯の音が、聞こえない。

 

 シルが、盆を卓に置いていた。

 音は、しなかった。この家で、それができる者は、もう一人しかいないはずだった。

 

「……少し、掃除に行ってまいります」

 

「掃除? 今からかい?」

 

「今からです。隅々まで。大掃除を」

 

 笑顔だった。笑顔のまま、目だけが、氷の色をしていた。

 声は、どこまでも穏やかだった。穏やかすぎて、春姫(はるひめ)の尻尾が、ゆっくりと足の間に巻き込まれていった。

 

「歩きでは遅い」

 

 アルフィアが言った。

 

「ご心配なく。馬車を呼んで──」

 

「待たん」

 

 その一言が落ちるより早く、シルの足が、床を離れていた。

 

「な──っ!? お、降ろしなさい! 私は女神です!」

 

「知っている。力を抜け」

 

「抜けるわけが──」

 

「重心が、左に寄っている」

 

「分かっていますッ!」

 

 戸口まで追ってきたベルが、目を丸くした。

 

「神様を、担いで!?」

 

「運動だ」

 

 アルフィアは、そのまま戸を出た。

 背後から、居間の声が追いかけてくる。耳のよい女には、閉めた戸の向こうまで、よく聞こえた。

 

「いいかい、みんな! 今日の件は、ベルくんには内緒だ!」

 

「あの、僕、その場にいたんですけど」

 

「だからこそだ!」

 

 街は、朝の白い光で満ちていた。

 その中を、灰色の影が、音もなく抜けていく。

 

 アルフィアは、走っていなかった。歩いているだけである。

 歩幅は小さく、踵から。呼吸は、運ばれる者に合わせる。吸うときに上げ、吐くときに進む。ただ、歩幅の割に、景色の流れ方だけがおかしかった。

 

 腕の中の女神は、最初の辻で一度、抗議した。

 次の辻で、風が顔に当たっていないことに気づいて、やめた。

 

 抱えた身体の鼓動は、怒りだけでは説明のつかない速さだった。

 アルフィアは、その内訳を数えないことにした。

 

 三つ目の辻で、占いの札を広げていた娘が、顔を上げた。

 灰色の影が、目の前を過ぎる。その腕に、白い服の誰かが抱えられている。

 娘の手から、札の束がこぼれた。

 

「当たりました……!」

 

 背後で、札が石畳に散る音がした。悲鳴のような声が、遅れて追いかけてきた。

 アルフィアは、振り返らなかった。

 

         *

 

 女神フレイヤの本拠(ホーム)、フォールクヴァングの門前では、二人の門番が直立していた。

 直立というより、固まっていた。

 

 灰色の影が止まり、その腕に抱えられているのが自分たちの主神だと理解するまで、少しかかった。理解してからも、固まったままだった。

 

「開けなさい」

 

 抱えられたまま、女神が命じた。

 声だけは、凛としていた。

 

 門は、内側から開いた。蝶番(ちょうつがい)が悲鳴を上げたが、壊れてはいない。壊す必要が、なかった。

 

 アルフィアは、石畳の上にシルを下ろした。足元を確かめてから、手を離す。

 シルは前掛けの皺(しわ)を一度だけ直し、顎を上げた。それだけで、街娘の顔は消えた。残ったのは、美の女神だった。

 

 朝日が、その背に回り込む。

 輪郭が金色に縁取られ、後光が差した。

 

 庭は、荒れていた。

 白い花が、花壇の外まで散っている。踏み荒らされた土の上に、二本の溝が、門まで一直線に伸びていた。少年の踵が引きずられた跡である。

 

 その溝の途中、荒れた花壇の真ん中に、一人、座っている者がいた。

 

 ヘルンだった。

 正座である。白い前掛けは土に汚れ、背筋だけが、定規のように伸びている。誰に言いつけられた様子もない。膝の下の土を選んだのは、本人らしかった。

 

 頭の隅に置いていた一行が、浮かんだ。

 夢の中で、一番、必死でしたから。

 それから、リリの帳簿の走り書きも。『庭で正座・要確認』。

 確認は、取れた。

 

 少し離れた木陰の卓では、別の娘が足を組んで茶を飲んでいた。

 ヘイズである。

 

「あ、シル様。お早いお帰りですねえ。アルフィアさんも、おはようございます。朝からお散歩ですか?」

 

 カップを掲げる手つきが、あまりにも暢気(のんき)だった。

 

「ヘイズ」

 

 シルの声は、静かだった。静かな分だけ、温度がなかった。

 

「説明なさい」

 

「説明も何も」

 

 ヘイズは、悪びれずに肩をすくめた。

 

「婿入りの手筈(てはず)を整えただけですよ。ご本人の気が変わったとき、すぐ動けるように。あたし、準備のいい子なんで」

 

 花壇の真ん中で、土が鳴った。

 

 ヘルンが、立ち上がっていた。

 痺れているはずの足で、よろめきもせずに。

 

「準備」

 

 声は、低かった。普段の、否定の早い声ではなかった。

 

「あなたは、ご自分が何をなさったのか、分かっておいでですか。あの方を、何も知らないまま広間に入れて。腕を取って。紙まで用意して」

 

「分かってますって。だから、ちゃんと──」

 

「分かっておいでなら、なおさらです!」

 

 ヘルンの手が、ヘイズの胸ぐらを掴んだ。

 侍女の手が、震えていた。怒りで震える手を、アルフィアは久しぶりに見た。

 

「なぜです。答えなさい、ヘイズ。誰のためです」

 

「あたしが、やりたかったからですよ」

 

「嘘です」

 

「嘘じゃないです」

 

「シル様の御前で、まだそれを──」

 

「あたしが、やりたかったから」

 

 ヘイズは、笑っていた。

 胸ぐらを掴まれたまま、最後まで目を逸らさなかった。

 

 その鼓動を、アルフィアは聞いていた。

 速くも、遅くもない。嘘をつく者の音ではなかった。何かを、一つだけ言わないと決めた者の音だった。

 

 女は、一歩、前へ出た。

 

 右手を、軽く上げる。

 それだけで、庭から音が消えた。

 

 花壇の上を舞っていた白い花びらが、宙で止まったように見えた。門番の息が止まる。ヘルンの手から、力が抜けた。

 ヘイズの笑みが、初めて、固まった。

 

「理由は、もうよい」

 

 アルフィアの声は、平らだった。

 怒鳴りもしない。急ぎもしない。湯の量を確かめるときと、同じ声だった。

 

「あの子を、本人の知らん話に引きずり込んだ。それで足りる」

 

「ちょ、ちょっと待っ──」

 

「【福(ゴス)】……」

 

 超短文詠唱の一語目が、唇から零れかけた。

 

「アルフィア」

 

 別の声が、それを遮った。

 

 大きな声ではなかった。

 けれど、庭じゅうの音が、その声のほうへ傾いた。

 

 シルが、そこに立っていた。

 前掛けの街娘の姿のまま、ただ、もう街娘の目はしていなかった。朝の光を背に負った輪郭が、金色に縁取られている。

 

「その子は、私の子よ」

 

 フレイヤは、ゆっくりとヘイズの前に出た。

 アルフィアの上げた手と、ヘイズのあいだに。

 

「叱るのは、私がやります」

 

 アルフィアは、手を上げたまま、女神を見た。

 女神も、目を逸らさなかった。

 

「……どけ」

 

「どかないわ」

 

 短い沈黙があった。

 ヘルンが、息をするのを忘れていた。

 

 フレイヤは、背中のヘイズへ、振り返らずに言った。

 

「私のため、でしょう」

 

 ヘイズは、答えなかった。

 口を引き結んだまま、最後まで、答えなかった。

 

「言わなくていいわ。分かっているから」

 

 その声だけが、ほんの少し、柔らかかった。

 

 アルフィアは、手を下ろした。

 止まっていたように見えた花びらが、一枚、遅れて地面に落ちた。

 

「……おまえの子なら、おまえが叱れ」

 

「ええ」

 

「手ぬるければ、私がやる」

 

「そのときは、止めないわ」

 

 女神は、そこで初めて笑った。

 街娘の笑顔に、戻っていた。

 

「このことは、あの子には言わん」

 

 アルフィアは、三人を見渡した。

 

「おまえたちも、言うな」

 

 ヘルンが、崩れるように膝をついた。今度は、自分で座ったのではなかった。

 ヘイズは、黙って、その隣に膝をそろえた。

 

 庭には、まだ鼓動が四つ鳴っている。

 ヘルンのそれは、速い。ヘイズのそれは、ようやく揺れはじめていた。フレイヤのそれは、順番を失っている。

 アルフィア自身のそれは、いつもの速さだった。

 

 カサンドラの夢は、七割ほど当たっていた。叱られるはずだった者が、誰よりも先に叱っていた。

 

 アルフィアはそれを聞き、そして、何も言わなかった。

 

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