ベルが階段を駆け下りてきたのは、朝食が並び終わる直前だった。
「すみません、寝坊しました! おはようございます!」
寝癖が一房、天井に向かって跳ねている。
リリの手帳が、ぱたんと閉じた。
ヘスティアは笑いかけて、途中で湯呑みを口へ運んだ。
リューの箸が、椀の縁に触れた。
かちん。
どれも、ベルが気に留めるほどの音ではなかった。
アルフィアの耳には、卓のあちこちで鼓動がわずかに跳ねたのが聞こえていた。だが、ほとんどはすぐに元の速さへ戻っていく。
一人を除いて。
リューの鼓動だけは、跳ねたきり戻らなかった。
息を整えようとするたびに、かえって速くなる。
ベルはそんなことには気づかず、いつもの笑顔で椅子を引いていた。
ヴェルフは卓の端で、漬物を噛み続けていた。顔は上げない。賢い男である。
アルフィアが、箸を置いた。
「リュー」
「はい、なんでしょうか?」
「手を出せ」
リューは一拍遅れて、手を出した。
その手首に、女の親指が乗る。脈の上だ。灰と翠の目は、卓の一点を見たまま動かなかった。
「……あの、何を」
「黙っていろ。数えている」
卓が静まった。ヘスティアの湯呑みが、口の前で止まる。
ベルは椅子に手をかけたまま、固まっていた。
数秒ののち、女は手を離した。
「脈が速い。息も浅い。耳の先が、さっきから赤い」
「問題ありません」
「いつからだ」
「問題ありません」
「なるほど、しかし、それがいちばん悪いかもしれん」
声は静かだった。静かなまま、卓の空気だけが冷える。
妹もそうだった。「平気」と言った日の夜ほど、熱を出した。
ベッドのそばで、濡らした布を絞り続けた夜が、一瞬だけ、手の中へ戻ってきた。
「リューは、今日の浴室当番を免除する。部屋で寝ていろ」
「昨夜は『逃げるな』と──」
「昨夜と今朝は違う」
リューは口を開き、閉じた。
正論に聞こえるのが、いちばん困る。
女の目が、そのまま横へ滑る。
「おまえもだ」
「リリですか!?」
「呼吸が二拍遅れている。異常事態だ」
「それは、今月の予算の計算が──」
「計算で、脈は上がらん」
「上がります! 上がるんです! 今月は特に!」
ヘスティアが、湯呑みを置いた。
リューを見て、リリを見て、それから何も知らずに立っているベルを見た。
「あ、あのさ、アルフィアくん! その、リューくんたちは病気じゃなくて、あれで──」
「あれ?」
ベルが、首を傾げた。
ヘスティアの口が、固まった。
ここで続きを言えば、ベルくんは三人分の
……いや。
女神は、湯呑みを握り直した。
四人だ。
「……季節の、変わり目の、あれだよ。うん」
「ならば、なおのこと寝かせるべきだ」
神の苦しい嘘は、診断を強めただけだった。
「リューさん、具合が悪かったんですか!? ごめんなさい、僕、朝から騒いで──無理しないでください!」
ベルは椅子を回り込み、リューの傍らへ寄った。
心の底から心配している顔だった。
その瞬間、リューの耳の先に、火がついた。
「……悪化したな」
アルフィアが言った。
事実だけを述べる声。
「あ、あの、アルフィア様! 私もお顔が熱うございますが、これはお台所の火のせいでございます!」
「そうか。ならば、よい」
リリが椅子を鳴らして立ち上がった。
「不公平です!」
「火は顔を熱くする。計算は熱くしない」
「リリの計算は熱くなります!」
「拙者は、至って健康にございます!」
「そのようだな。命はよい」
リリの視線が、じとりと横から刺さる。
「おっと……俺は、鍛冶場に行く時間だな!」
ヴェルフが漬物を飲み込んで、立ち上がった。
「行け」
鍛冶師は音もなく、食堂を出ていった。判断が早い。
アルフィアも立ち上がり、リューの背と膝の裏へ腕を回した。
「待ってください、自分で歩け──」
リューは心を許した者でなければ、肌に触れることさえ許さないエルフだ。
親しい相手でも、不意に手を伸ばされれば、身体が先に退く。
今も、背に腕が触れた瞬間、反射的に払いのけようとした。
だが、その手はなぜか上がらなかった。
言い終える前に、足が床を離れた。
抱え上げられたというのに、身体はほとんど揺れない。背を支える腕が、こちらの呼吸に合わせてわずかに動く。
リューは、上げかけた手をそっと握り込んだ。
なぜ、振り払わなかったのか。
自分でも、分からなかった。
ただ、運び方だけは妙に丁寧だった。
揺らさない。息を合わせる。病人を運ぶための腕。
廊下の奥へ消えていく背中を、リリが見送った。
「……ヴェルフ様が出ていった理由が、よく分かりました」
「サポーターくん、君も逃げた方がよかったんじゃないかい」
「逃げ場がありません。次は、リリの番ですから」
戻ってきたアルフィアの手には、湯気の立つ椀があった。
茶色く濁り、草の匂いがする。
「飲め」
「あの、リリは、本当に」
「身体に良いものだ。飲め」
リリは、拒む理由を探したが、見つからなかった。
一息に飲み干し、眉間に皺が寄った。
「……に、苦い、です」
「効いたか?」
「アルフィア様、
最後の一言を、女は聞き取って、強がりだと判断した。
食堂を出る間際、ベルが戸口で靴を履いていた。
「それじゃあ、
「ベル」
「は、はい!」
「手を出せ」
少年は素直に、右手を出した。
女の親指が、その手首に乗る。
脈は、平常だった。
あまりにも平常で、女はそれに少しだけ引っかかった。
三人も乱れる朝に、ただ一人、凪いでいる。引っかかる、と思った。引っかかっただけで、先へは進まない。
「……よい。行け。夕刻には帰れ」
「はい! アルフィアさんの手、あったかいですね!」
少年は笑って、駆けていった。
その背中が遠ざかるまで、ヘスティアは必死に、湯呑みを両手で握りしめていた。
*
リューの部屋は、よく片づいていた。
寝台の上のリューは、背筋を伸ばして仰向けに寝ている。休んでいるというより、意識があるまま治療を受けている状態に近い。
「あの。本当に、問題ありません」
「そうか」
アルフィアは濡らした布を絞り、リューの額に載せた。手つきに迷いがなかった。
それから椅子に腰を下ろし、耳を澄ませた。
リューの脈は、まだ少し速い。
けれど玄関で少年を見送ってからは、一拍、また一拍と、確かに落ちてきていた。
「……薬も飲ませていないのに、下がるのか」
独り言だった。
リューが、天井を見たまま息を止めた。女は、それに気づかなかった。
階下からも、同じ音が届く。
台所で、リリの脈が静まっていく。洗い場の
「リュー」
名を呼ぶと、寝台の上で、耳の先がわずかに動いた。
女はそれも聞き取った。聞き取って、黙っていた。
そのときだった。
玄関の戸が、勢いよく開く。
「すみません、忘れ物です!」
少年の声と、足音。靴底が土間を蹴る音。階段を二段飛ばしで上がる気配。
家じゅうの音が、一斉に跳ねる。
台所で、リリの鼓動が。
洗い場で、
寝台の上で、リューの鼓動が。
三つの音が、示し合わせたように同じ拍で、どん、と鳴った。
庭先では、
足音は部屋の前を通り、隣の部屋へ入り、また出て、階段を駆け下りていく。
「行ってきます! 今度こそ、本当に!」
戸が閉まる。
家じゅうの音が、潮の引くように凪いでいった。
アルフィアは、動かなかった。
「…………」
やがて、ゆっくりと、寝台の方を向いた。
「リュー」
「……はい」
「あの子の足音で、跳ねたな」
「…………」
「引くときも、同時に引いた。薬は、まだ一滴も飲ませていない」
リューの返事は、なかった。
代わりに、毛布が、頭の上まで上がっていった。
アルフィアは、それを見ていた。
しばらくして、静かに言った。
「……病ではないな」
毛布の中から、くぐもった声が返ってきた。
「…………はい」
「なぜ、最初に言わん」
「言えるはずが、ありません」
小さな声だった。小さいくせに、断言だった。
女は、椅子の背にもたれた。
耳には自信があった。音を聞き違えたことは、七年前も、氷の底でも、一度もない。
聞き違えたのは、音ではなく、意味だ。
そして、この取り違えには、覚えがあった。
「あの子は、気づいていないのか」
「気づいていません。……努力は、しています」
「努力の結果が、これか」
「…………」
毛布が、さらに深く沈んだ。
アストレアのもとを離れ、炉の女神の
アルフィアは、立ち上がった。
濡れた布を取り上げ、もう一度絞り直し、戻す。
「顔が冷めるまで、出てくるな。当番は免除のままだ」
「……助かります」
「あの子には、言わん」
毛布の山が、少し動いた。
「約束してください」
「約束は、軽々しくは口にせん。……言わんと決めた。それで足りるか」
しばらく、返事はなかった。
やがて、毛布の端から、目が片方だけ覗いた。
「……足ります」
*
廊下へ降りると、リリが待っていた。
空の椀を両手で持ち、顔は商談の顔をしている。
「全部、聞こえていましたね」
「ああ」
「でしたら、話が早いです。……同盟を、結びましょう」
「同盟」
「条件は二つです。一つ、ベル様には絶対に言わないこと」
「言わんと決めた」
「二つ。病気だと称して誰かを寝かせ、働かせないこと。
「病でないなら、寝かせる理由がない」
リリは、小さく息を吐いた。
この人は、理屈が通ると、案外早い。
「こちらからも、一つある」
「どうぞ」
「あの子を泣かせた者は、殴る順番に加える」
リリの顔から、商談の色が消える。
彼女はやっぱり、話の通じる相手ではないのかもしれない。
「……あの。泣かせた、の定義をお願いします」
「涙が出たらだ」
「嬉し泣きはいかがでしょうか?」
「……除く」
「では、ベル様が誰かを選んで、選ばれなかった方が泣いた場合は」
「泣いたのは、あの子ではない」
「……つまり、リリたちが泣いても、誰も
「まあ、そうなるな」
リリは、しばらく黙った。
分かりきっていたことを、数字で見せられた気がした。
「……なるほど。除外規定を……書面にさせてください」
「好きにしろ」
リリは手帳を開き、震える字で『殴る順番・除外規定』と書いた。
順番に入れられる日が来ないことを、彼女は静かに祈った。
「それと、話を戻します。誰がベル様を、その……どう思っているかの、確かめ方ですが」
立ち直りの早いのが、この小さな軍師の強みである。
「ご本人たちの証言は、当てになりません。数字にしないと」
「聞けば分かる」
「アルフィア様にしか聞こえません。リリたちは、納得できません」
女は少し考えた。
「では、見える形にする。息の乱れを、豆で」
*
午後の中庭に、皿が並んだ。
一人に二枚ずつ。片方には豆が山盛りで、もう片方は空である。
豆を箸で一粒ずつつまみ、空の皿へ移す。そのあいだ、息の長さを変えてはいけない。息が乱れれば、指先が震える。指先が震えれば、豆は箸から跳ねる。
縁側には、
中庭に面した窓の向こうでは、リューが寝台の上に身を起こし、膝に皿を載せている。
『顔が冷めるまで出てくるな』と言われたきり、その言いつけはまだ解かれていない。病ではないと分かった今も、律儀に守っているらしい。
「息の訓練でございますね! がんばります!」
「承知!」
「リリは、記録係に徹しまして」
「記録は私がつける。おまえも受けろ」
「くっ……」
アルフィアは中庭の中央に立ち、感情のない声で言った。
「これから、今日の出来事を言う。聞いても、手を止めるな。豆を跳ねさせるな」
四人の箸が、同じ速さで豆を移しはじめた。
「朝、ベルは寝癖をつけていた」
誰の豆も、跳ねない。
「ベルは、昨日の夕食を三杯食べた」
「ベルは、笑うと目が細くなる」
「あっ、申し訳ございません! お名前が出るだけで、胸が、胸が……!」
「言わんでよい。聞こえている」
「ベルは、昨日のリリの弁当を『おいしい』と言っていた」
リリの皿から、豆が三粒、同時に飛んだ。
「か、風です!」
「風はない」
「測定の誤差です!」
「誤差は、三粒も飛ばん」
「ベルは、昨日、
ただ、箸の先で、かちりと一度だけ鳴った。
「せ、拙者は、出汁を褒められて嬉しいだけで!」
「分かっている」
アルフィアは、それ以上、言わなかった。
言われなかったので、
「ベルは、リューの淹れた茶を──」
窓の向こうで、豆が一粒、床に転がった。
乾いた音が、いやに響く。
「……最後まで、言っていないが」
「…………」
リューは目を閉じ、何も聞こえなかったことにした。
*
試験が終わると、リリは手帳から一頁を破り取った。表題は『競合整理(極秘)』。
アルフィアは、それを一目見て言った。
「字が汚い」
「リリの最高機密に……そのような!」
「こちらに書き直せ」
差し出されたのは、
リリは、渋々ペンを取った。
「では、整理します。確定欄に、リュー様。リリルカ・アーデ。……リリの名を書くのは、不本意ですが」
「書け」
「
「はい! 堂々と載せてくださいませ!」
リリも顔を覆っている。窓の向こうの毛布が、頭の上まで引き上げられた。
「保留欄は」
アルフィアは、少し考えた。
「
「ヴァレンシュタイン様が、保留ですか?」
「あの娘の音は、あの子の名で跳ねる。高く、な」
「でしたら、確定では」
「あの娘は剣の話でも、同じ高さで跳ねた」
「……剣の話でも」
「あの子の名と、剣の話と、海竜。どれも同じ音だ。どれに跳ねているのか、私には分けられん」
リリは、胸をなでおろしかけて、途中でやめた。
保留というのは、確定よりも厄介な場合がある。
「では、《
「魔導士の娘はあの子の名を出すと、怒った音を立てる」
「怒っているなら、違うのでは」
「怒りにしては、余韻がある。怒りだけではああはならん」
リリは、黙って保留欄に書き足した。
「では、ベル様ご本人は……その、どなたを?」
「知らん」
「え」
「あの子の音は、いつも平らだ。誰の名を出しても、変わらん」
「……いちばん厄介な方が、残りました」
「本人が知らん音を、他人が名付けるな。あの子の分は、なおさらだ」
リリは、反論の言葉を探して、見つけられなかった。
どうやらこの人は、【
ベルとの距離を、まだ測りかねているのだろう。ベルの事情を、ヘスティア様に聞こうともしない。
だが、あのレベルアップの速さだ。この耳のよい人が、いつまでも気づかずにいるとは思えなかった。
時間の問題である。
「保留とは、何でございましょう?」
「
「そうか」
「では、未接触の方々はどうされますか?」
リリが、頁をめくる。
「シルさん。いえ、女神フレイヤ様。競合ではなく、災害です」
「神を災害と書くな」
「では、天災と」
「同じだ」
「【ヘルメス・ファミリア】の、ローリエ・スワル様。普段は、書類のように平らなお顔の方です。ところが、ベル様に名前を呼ばれた途端、湯に落とした茶葉のように、端からほどけていきます」
「確定だ」
「それから、女神様の付き人のヘルン様。ベル様の話題になると、否定が異様に早い方です」
「否定の早い者も、確定だ」
「リリも……同意見です」
「……多いな」
「まだ序の口です。【ミアハ・ファミリア】のカサンドラ様もいらっしゃいますし」
アルフィアは、紙を見下ろした。
同盟を組んだばかりの
言い寄ってくる男なら、昔もいた。酒場で、通りで、
この家の娘たちは、追い払うどころか、自分から一人の少年に寄っていく。炉の女神の
女は、羊皮紙の上の名を、指でひとつずつ押さえていった。
「七年前から知っている名と、知らん名がある」
「と、申しますと」
「フレイヤ。あれは、昔から知っている。敵の神としてな」
指が、次の名へ移る。
「リュー。【アストレア・ファミリア】の、眷族だった」
「……ご存じだったのですね」
「斬り合った相手の名くらいは、覚えている。走りながら、あの長い詠唱を最後まで通した。並行詠唱の筋は、悪くなかった」
リリは、窓の向こうの毛布を見ないようにした。
毛布は、聞こえていないふりをしているように、動かなかった。
「それに、声がいい」
「……は?」
「うるさくない声だった。戦場で、あれは珍しい」
二階の部屋のエルフの毛布が、わずかに縮んだ。
「剣の娘も、知っている。七年前は、まだ背丈がこのくらいだった」
女の手が、卓より少し上の高さで止まった。
「ヘルンも、知っている。あの女神の後ろに、いつも黙って控えていた娘だ。顔は覚えていないが、足音は覚えている」
「足音、ですか」
「主より半歩下がって、決して追い越さん足音だった。あとは、知らん。ローリエ・スワルも、カサンドラも。おまえも、
リリが、知らない名の横に小さな丸をつけていく。
丸のほうが、ずっと多かった。
「小人族は、見た目で歳が分からん」
「……はい?」
「四十を過ぎて、子どもの顔をしている男がいた。【フレイヤ・ファミリア】には、同じ顔の四兄弟もいた。どれが上かも、私には分からん」
アルフィアは、リリを見た。
「おまえも、そうか」
「失礼な! リリは、ベル様より一つ上なだけです!」
言ってから、リリは口を押さえた。
年寄り扱いを打ち消すつもりが、年を答えていた。
「リューは」
「そ、それは、ご本人に」
「答えられん時点で、上だな」
「
「剣の娘とエルフの娘は」
「…………」
「黙ったな」
アルフィアは、名を上から下まで見た。
神は、数えるまでもない。
「年上ばかりか」
「……そう、なりますね」
「あの子は、年上に好かれる顔をしている」
「それは、アルフィア様にも当てはまるのでは」
「私は、伯母だ」
「伯母様も、年上です」
アルフィアは、黙った。
リリは、今日初めて、一本取った気がした。
*
夕刻、玄関の戸が開く。
「ただいま帰りました!」
土埃を頬につけた少年が、笑って立っている。
廊下の奥で、台所で、中庭で、三つの鼓動が一斉に鳴った。
もう驚かない。アルフィアは黙って歩み寄り、
裂け目を指で確かめる。
今日は一箇所だけだった。昨日より少ない。それを、女は少しだけ満足に思った。
夕食の卓には、全員の分が並んだ。
リューは起きていた。汁椀を覗き込む顔は、必要以上に真剣だった。
卓の上座にも、大きな音が一つあった。
ベルは、三杯目をよそわれながら、屈託なく話した。
「今日も
「は、はい。もう、すっかり」
「よかった! お見舞いに、お菓子を買ってきたんです。後で渡しますね!」
卓のあちこちで、鼓動が小太鼓のように、三つ、四つ、順に鳴った。
アルフィアの耳には、それがはっきり聞こえている。
「みんな、本当に優しいんです」
ベルは、箸を持ったまま照れたように笑った。
「僕、誰かに好かれるようなことなんて、してないのに」
アルフィアの手が、止まった。
「……今、何と言った」
「え? あ、いえ、その、みんな優しいなって……」
同じ文の形を、聞いたことがあった。
ゼウスとヘラが、まだこの都市にいた頃。大通りだった。
【ゼウス・ファミリア】の男たちが連れ立って歩くと、道の両脇で足が止まった。八百屋の娘。酒場の給仕。通りすがりの女冒険者。
耳のよい女には、鼓動が波になって、先頭の大男の背中を追いかけていくのが聞こえた。
ザルドは、焼いた肉を片手に頭を掻いた。
『俺は、食い物にしか好かれん』
冗談ではなかった。本気だった。
その一歩後ろを、足音の荒い男が歩いていた。
顔立ちは、今、目の前で四杯目をよそわれている少年に、よく似ていた。目の色も同じだった。
その背中には、鼓動の波が、一つも届いていなかった。
届いていたのは、一つだけだった。
妹の脈が速くなる日は、決まって、あの足音が近づく日だった。
熱だと思い、氷嚢を抱えて走って、笑われた。
順番が、決まった。
先頭は、あの男である。
血ではない、と女は思った。
顔は父親のものだ。その父親は、誰にも好かれなかった。
なら、この子の周りの賑やかさは、顔から来ているのではない。
英雄というものは、そうなのだろう。
本人の知らぬところで人が集まり、集まった側が、勝手に苦しむ。
ならば、この子の周りが賑やかなのも、道理か。
アルフィアは、小さく息を吐いた。
「……何でもない。食え」
「は、はい!」
ベルは首を傾げながら、四杯目をよそわれた。
*
食後の台所で、リリが帳簿を開いていた。
今日一日で、罫線の紙は四頁に増えている。
「アルフィア様。この調子ですと、頁が足りません」
「数えるな」
「は?」
「これは、数える仕事ではない」
アルフィアは、湯を注ぎながら言った。
「ザルドの周りが、そうだった。数えるほど、増えた。数えている間に、また増えた」
「ザルド……《暴食》の、ですか」
「大食いで、図体が大きくて、声の大きい男だ。それでも、通りを歩けば女の足が止まった」
「英雄、だったからですか」
「そうだ。【ゼウス・ファミリア】の男は、英雄というだけで追いかけられた」
「【ヘラ・ファミリア】の方々は」
「追いかけられたことはない」
女は、湯の量を確かめた。
「逃げられたことなら、ある」
リリは、聞かなかったことにした。
「……では、ベル様のお父様も、そのように」
「あれは、違う」
「違う?」
「あの子と同じ顔で、同じ目の色だった。それで、誰にも好かれなかった」
リリの手が、帳簿の上で止まった。
「……同じお顔で」
「同じ顔でだ」
リリは、四頁に増えた罫線の紙を見下ろした。
顔が同じなら、この頁の数は、顔のせいではない。
「では、ベル様のこれは」
「顔ではない。英雄の方だ」
リリは、それ以上を聞かなかった。
聞けば、また頁が増える気がした。
「……では、リリは何をすれば」
「おまえは、おまえの勘定だけしていろ。他人の分は、聞こえる者が受け持つ」
「リリの勘定……」
「今日の脈は、三拍ぶん早かった。明日は、二拍にしろ」
「そんな訓練、聞いたことがありません!」
「今、作った」
そのとき、アルフィアの耳が、門の外の足音を拾った。
歩幅は落ち着いていた。靴の運びにも、迷いがない。
ただ、鼓動だけが、やけに速かった。
足音は門の前で止まり、それきり、動かなくなった。
戸は、叩かれない。
五分が過ぎても、叩かれなかった。
「……一人、増えたな」
「え?」
「まだ、入ってこん」
リリが、帳簿の新しい頁を開く。
ペン先が、紙の上でぴたりと止まった。
「あの、アルフィア様。そちらのお客様の特徴を」
「歩幅は落ち着いている。迷いもない。だが、鼓動だけが速い」
リリは、頁の上の名前を指でたどった。
「……ヘルン様かもしれません。普段は、とても落ち着いた方です。ただ、ベル様のこととなると、否定がとにかく早くて」
「おまえが言っていた……ツンデレ、というやつか」
「はい。ヘスティア様の言葉では、そうなります」
リリは、頁の端に一行、書き足した。
『ツンデレ』。
門の外の足音は、まだ動かなかった。
アルフィアは湯呑みを置き、廊下へ出た。リリが、帳簿を抱えてついてくる。
戸に手をかけるより先に、外の気配が一つ、びくりと揺れた。ノックの手が上がりかけて、下りた。上がって、下りた。三度目で、アルフィアが先に戸を開けた。
「入れ。五分、立っていた」
戸口にいたのは、白い前掛けを着けた若い女だった。背筋が定規のように伸び、両手で提げた籠は微動だにしない。
女は、九十度に腰を折った。
「夜分に失礼いたします。シル様の侍女、ヘルンでございます。シル様のお使いで、替えの前掛けをお届けに参りました。それ以上の用件は、一切ございません」
「そうか」
「ベ、ベルのご様子を窺いに来たわけでも、断じてございません」
「まだ何も聞いていない」
「存じております。念のためです」
アルフィアは、耳を澄ませた。
鼓動が速い。ただ、それは一つの音ではなかった。
一つは、怯えの音である。七年前の自分の名を、この娘はよく知っているらしい。
もう一つは、怯えとは別の音だった。そちらの方が、少しだけ大きい。
「怯えなくてよい。取って食いはしない」
「は、はい。恐れ入ります」
ヘルンの背筋が、さらに伸びた。
リリが、籠の下を覗き込む。
「ヘルン様。前掛けの下に、もう一つ包みがありますが」
「……煮物でございます」
「どなたの」
「シル様のご指示で──」
「シル様は今夜、お店の当番のはずですが」
「……私の、独断です。作りすぎて、余りましたので」
「五人前ありますが」
「余ったのです」
「ベル様の好物の、じゃがいもの煮物が、五人前」
「偶然でございます!」
声が、少し裏返った。
そのとき、奥から足音がした。
「あれ? ヘルンさん? いらっしゃい!」
ベルが、湯上がりの髪を拭きながら、廊下に顔を出した。
ヘルンの鼓動が、アルフィアの耳の中で、ひとつ爆ぜた。
「べ、別に、あなたのために来たのではありません! 勘違いなさらないでください!」
「あ、はい! シルさんのお使いなんですよね。ありがとうございます!」
ベルは、にこにこと頷いた。疑う気配は、少しもなかった。
ヘルンは一瞬だけ、救われたような顔をした。それから、救われなかったような顔をした。
目を伏せる。唇が、小さく動きはじめた。
「……疑わない。どうして、この人は少しも疑わないのですか。疑ってくだされば、言い訳もできますのに。疑われないから、私はまた来てしまう。来るつもりなど、ありませんでした。煮物も、余らせるつもりではありませんでした。五人前、きっちり作りました。あなたの好きな、少し甘い味付けで。その味付けを知っている自分が、憎い。知らなければよかった。でも、忘れられない。忘れるくらいなら、いっそ……いいえ。いいえ。シル様のお使いの途中に、私は何を。……ああ、それでも、その濡れた髪で『ありがとうございます』などと言われると、私は、私は、明日もきっと……」
声は、吐息ほどに小さかった。
リリには、ぶつぶつとしか聞こえない。ベルは、首を傾げて待っている。
アルフィアにだけは、一字残らず聞こえていた。
女は、表情を変えなかった。変えないように、少しだけ努力した。
「……ベルは、本当に、素直な人ですね」
最後の一言だけが、少年に届いた。
「え? そうですか?」
「いえ。お気になさらず。失礼いたします」
最後にもう一度、九十度に腰を折る。籠の持ち手は、最後まで揺れなかった。
足音は、規則正しく遠ざかっていった。曲がり角で一度だけ乱れて、また規則正しく戻った。
リリが、帳簿に書き込む。
『ヘルン 確定(本人否認・戸口で即否認)』
「記録は、正確にしておけ」
「はい。リリは、いつも正確です」
玄関には、五人前の煮物が残された。
湯気は、まだ立っていた。
*
翌朝、アルフィアは居間の卓に、一枚の紙を置いた。
罫線の入った羊皮紙。定規で引いた線は一本もぶれず、四辺もきっちり揃っている。
「帰宅の予定を書かせる表だ。名前。出る時刻。戻る時刻。遅れるときの伝令先」
ヘスティアは紙を手に取り、上から下まで目を通した。それから、卓の引き出しを開けた。
出てきたのは、角の擦り切れた帳面だった。表紙には、女神自身の字で「みんなの帰る時間」。開くと、ベルの名の横に、何十もの時刻と丸印、それにときどき大きな×が並んでいる。
「それなら、この家では僕がもうやってる」
アルフィアは、帳面をしばらく見ていた。
「……抜けが多い」
「書き忘れる子が多いからね」
「伝令も、遅い」
女の目が、窓の外へ流れた。
門の脇に、フレイヤの
戸口の陰には、もう一人いた。
「ヘディン」
「呼ばれた覚えはないが」
「立ち聞きしていた者を、呼ぶ必要はない」
「護衛だ。聞こえる位置にいるのが、仕事だ」
「おまえたちは、毎日この家と店を行き来している。伝令に使える」
ヘディンは、眼鏡の奥で目を細めた。
「使える、か。効率の話なら、否定はしない」
「なら──」
「だが、我らが動くのは、シル様のお言葉があったときだけだ。《
「そうか……では、シル・フローヴァに言わせよう」
「待った待った待った!」
ヘスティアが、帳面を胸に抱えた。
正しい。腹が立つほど正しい。
けれど、伝令を任せれば、この家の子がどこへ行き、いつ帰るのかを、毎日フレイヤの側が知ることになる。シルくんは、もうこの家で皿を運んでいる。これ以上、家の中に入れたくはなかった。
「便利なのは分かるよ。でも、うちの子の帰る時間を、よその家に預けるのは、なしだ」
「よその家、か」
ヘディンの口元が、わずかに動いた。
「我らが女神は、この家の台所に立っておられるが」
「台所はかッ……貸してる! でも、うちの子の帰る時間までは貸してない!」
「では、どうする」
アルフィアが聞いた。
「伝令先は、この家だ。僕か、ここにいる誰か。外の子に頼むのは、本当に急ぐときだけ」
「遅い」
「遅くていい。帰ってくる場所がここだって、分かってればそれでいいよ」
アルフィアは、黙った。
ヘディンが、小さく頭を下げる。
「承知した。女神ヘスティアの帳面に、我らの名は載らない」
「載らない。君たちの帰る時間は、君たちの女神に預けてくれ」
「……もっとも、あの方は、毎日この家の帳面に、ご自分の帰る時間を書いておられるが」
「それは言わないでくれ! キミ……そういうとこだよ……」
ヘスティアは、咳払いをひとつした。
それから、横に立つ女を見た。
便利なものを、迷わず使いこなす女だ。放っておけば、フレイヤの家の眷族ごと、この家を回しはじめるだろう。
「君のリストは、使わせてもらうよ。ただし、決まりを決めるのは、主神の僕だ」
ヘスティアは筆を取り、表の一番上に一行、書き足した。
──帰る者は、全員書くこと。
「全員だよ。君もね、アルフィアくん」
アルフィアは、少しだけ黙った。
それから筆を受け取り、自分の名を書き入れた。神の決めた書式に自分の名を書くのは、ずいぶん久しぶりだった。
*
玄関の鐘が鳴ったのは、そのときである。
来客は、書類を抱えた几帳面そうな娘だった。敷居の手前で、足を揃える。
「【ヘルメス・ファミリア】の、ローリエ・スワルだ。ヘルメス様より、お見舞いの品と、伝言を届けにきた」
迎えに出たベルが、顔をほころばせる。
「ローリエさん! お久しぶりです!」
「お久しぶり、ベルくん。ご無事で何より」
淡々とした声だった。表情も、ほとんど動かない──はずだった。口の端が、湯に落とした茶葉のように、わずかにほどけた。
「どうぞ、上がってください! 居間に、みんないますから」
ベルが先に立って、廊下を歩きだす。
ローリエは書類を抱え直し、その半歩後ろをついてきた。歩幅を、少年に合わせている。本人は、たぶん気づいていない。
居間の戸口の陰には、
ローリエは、その前を素通りした。少年の背中しか、見ていなかった。
「アイズさんのときは、本当にありがとうございました。ローリエさんたちが、都市を守ってくれてたって聞きました」
「……任務だった。 でもベルくん、ちょっと聞いて欲しい」
ローリエは、抱えた書類を揃え直した。
「都市の防衛は、【フレイヤ・ファミリア】のヘディン様の指揮下だった。配置換えは、一日に十一回。報告は三行以内。一行はみ出すごとに、叱責が一つ。休憩は、敵の来ない時間に取れ、とのことで」
「そ、それは……」
「敵は、来なかった。それなのに、休憩もなかったんだ」
「大変でしたね……! でも、ローリエさんがいてくれて、本当によかったです」
その陰で、アルフィアの耳だけが、一拍の欠落を拾った。
とん、とん、とん、……、とん。
規則正しい鼓動が、一箇所だけ、抜けた。
同じ瞬間、ローリエの膝が、かくりと折れかけた。
片手が卓の縁をつかむ。書類だけは、一枚も落とさなかった。
「ローリエさん!?」
「しッ、失礼。足元が、なぜか腰が……力が抜けてしまって」
ローリエは、何事もなかったように背筋を戻した。
「すまない。原因を分析する。……昨夜の睡眠が、四時間。睡眠不足による、一時的なふらつきだろう。問題はない」
「四時間も眠れたなら、上等だ」
戸口の陰から、低い声がした。
ローリエの背筋が、音を立てずに凍った。
「ヘ、ヘディン様……なぜ、ここに」
「護衛だ」
「……左様で」
腕の中の書類が、きっちりと揃い直った。
そこで初めて、ローリエは居間の奥に立つ女に気づいた。
灰色の髪。灰と翠の目。
「ひっ」
小さな声が漏れた。
記録で、何度も読んだ名前だった。七年前の大抗争の報告書の、いちばん厚い頁。
「き、貴殿はア、アルフィア……殿。お、お初にお目にかかる」
娘の鼓動は、さっきの欠落どころではない速さで鳴っていた。怯えの音と、少年の名で崩れた音が、一つの胸の中で喧嘩をしている。
指摘すれば、この娘はたぶん泣く。
泣かれるのは、好かん。
「アルフィアだ。茶を飲んでいけ」
それだけ言った。
「あ、あぁッ!」
「すぐ淹れますね! リューさんと同じ、香草茶で。ローリエさんは、葉を一枚多めの、少し濃いめでしたよね」
「……覚えていてくれたのか」
とん、とん、……、とん。
ローリエは、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……二度目、だ」
アルフィアには、聞こえた。
聞こえないふりをした。あとでリリの名簿を借り、ローリエ・スワルの名の横に丸印をつけておこう。ローリエの視線が、卓の紙に止まる。
「これは」
「帰りの書付だ」
「なるほど、とても合理的だな」
ローリエの目が、紙の端から端まで走った。
「出発、帰着、遅れるときの伝令先。必要な情報が、過不足なく揃っています。罫線の間隔も一定で、書き込みやすい」
「あぁ、定規で引いた」
「あぁ、見れば分かる」
ほんの少し、娘の目が輝いた。
「写しを取っても、よいだろうか。ヘルメス様にも、提案したく」
「よい。好きにしろ」
ローリエは、写しを丁寧に折り畳み、鞄の一番上に収めた。ヘルメスから預かったはずの見舞いの品は、その下で、まだ出番を待っている。
茶を配り終えたベルは、「行ってきます!」と元気に
その背中を、ローリエは戸口まで見送った。見送りすぎて、ヘディンに咳払いをされた。
「では、私もこれで。茶の礼は、淹れた者にだけ言う。……ベルくんに、そう伝えておいてくれ」
ローリエが玄関を出て、ほどなくしてのことだった。
門の方で、二つの声がした。
一つは、聞いたばかりの、平らな声。もう一つは、聞いたことのない、細く震える声だった。
「……カサンドラ・イリオン。なぜ、ここに」
「ロ、ローリエさんこそ……」
会話は、そこで途切れた。
どちらも、続ける気がないらしい。
しばらくして、玄関の戸が開いた。
ローリエが戻ってきた。表情は、出ていったときより、わずかに硬い。
「門の前で、道に迷っている者を拾った。こちらに用があるそうだ」
その背後から、短い悲鳴が上がった。戸口の陰のヘディンに、出くわしたらしい。
廊下を、足音が小走りに近づいてくる。途中で一度つまずいて、また近づいてきた。
居間の戸口から、娘が半分だけ顔を出した。
長い髪の、前髪だけが大きく垂れて、目元をほとんど隠している。背を丸め、両腕で自分の身体を抱えるようにして、その髪の隙間から人を窺っていた。唇が、聞こえない何かを、ずっと呟いている。
アルフィアと目が合った瞬間、その肩が、びくんと跳ねた。
「あ、あの、あの、すみません! わ、私は、カサンドラです! 【ミアハ・ファミリア】の……ミアハ様のお使いで、ベルさんに、お届け物を……!」
「あの子なら、もう出た」
「そ、そんな……っ」
娘は、戸口でよろめいた。
窓際の椅子から、リューが首を傾げる。
「カサンドラさん。ダフネさんは、ご一緒では」
「ダ、ダフネちゃんは、今日はお店の番で! 私一人で行くのは、反対されたんですけど! ミアハ様が、どうしてもベルさんにって! それで、あの、道に三回迷って、門の前でローリエさんに会って、玄関で怖い方に会って──」
「おっ、落ち着いてください」
「落ち着いてますぅ……!」
落ち着いていなかった。
それから、何かを思い出したように、さらに青くなった。
「あ、あと、すみません! 夢で、見てしまったんです!」
「何の話だ」
居間が静まった。
アルフィアは、耳で数えた。
上座に、神の大きな音が一つ。卓に、リリと
それから、戸口の娘と、もう一つ。
帰ると言ったはずの金の髪の娘が、さっきまでの席に、なぜかもう一度腰を下ろしていた。湯呑みまで、手元に引き寄せている。
「……帰るのではなかったのか」
「情報の収集です。ヘルメス様に、報告する義務がありますので」
ローリエは、戸口のカサンドラから一番遠い席のまま、淡々と補足した。
「門の前で、たまたま行き合っただけです。夢のことで、どうしても、こちらのご家族にお伝えしたいそうです」
「……たまたまです」
ローリエは、元の席から動かなかった。カサンドラの椅子とは、卓の端と端だった。
椅子を示すと、カサンドラは泣きそうな顔で座り、膝の上で両手を握りしめた。
アルフィアは、二人を見比べた。
片方は、金の髪をきっちり結い上げた娘だった。華やかというほどではない。だが、整っている。背筋も、書類の角も、靴の向きも揃っていた。
もう片方は、日陰に生えたような娘だった。垂れた前髪。下から窺う目。呟きの多い口。何かを知っていて、言わない者の顔をしている。
自分の身体を隠すように抱えた腕のせいで、胸元がかえって目立っていた。
あの好色爺が見れば、どうしたか。
金の髪の娘は上から下まで眺めて、悪くない、と顎を撫でただろう。日陰の娘のほうは、まず胸元に目をやり、それから前髪をかき上げて目を輝かせたはずだ。
想像しただけで、殴りたくなった。
ここにいない神を殴る方法は、まだ見つかっていない。
陰険な顔だ、と女は日陰の娘を見て思った。
二人の鼓動を聞きながら、女は頭の中で、リリのリストをめくった。
リュー。エルフ。透き通るような肌に、きつそうな目をしている。だが、笑うと、その目が細い弧を描く。本人は、笑っていることに気づいていないのだろう。剣を握る手のわりに、指は細く長かった。
リリルカ。小人族。数字で武装した、小さな軍師。ふだんは商人の声で話すくせに、ときどき「ベル様」の「様」だけが、蜜を落としたように甘くなる。
ヘルン。背の高い、整った顔の侍女。主の半歩後ろを歩き、ベルの話になると否定が早い。気配は陰に沈んでいるのに、思いつめた音だけが、やけに大きい。
炉の女神。誓いを守る処女神が、なぜあの子にだけ、あれほどうるさい音を立てるのか。幼い姿のまま、何億年を生きているのかも分からない。神の姿というものは、何で決まるのだろう。
美の女神。腕のいい彫り師が、生涯をかけて彫り上げたような身体だった。あの好色爺でさえ、一度は本気で口説いたという。冒険者も神も問わず、都市でいちばん人を惑わせる女だ。中身が壊れていたのが、まだ救いだった。
それに、金の髪の娘。森の気難しさを、そのまま綺麗に整えたような顔。
それと、日陰の娘。前髪の奥で、何かを言いたげな目。
種族が、ばらばらだった。
エルフも、小人族も、狐人も、人も、神もいる。歳は、上ばかりだ。
ザルドの周りの女たちは、英雄の背中を遠くから追いかけていた。
このリストの娘たちは、違う。聞いた限り、ほとんどが一度、どこかで沈みかけている。家に縛られた者。売られかけた者。仲間を失った者。誰にも話を聞いてもらえなかった者。
そこへ、あの子が手を伸ばしたのだろう。
何も考えずに。
「……厄介な子だ」
「は、はい?」
「何でもない。聞こう」
カサンドラは、目を閉じて、息を吸った。
前髪の奥で、睫毛が一度だけ震える。
声の調子が、ふっと変わった。夢を語る人の、遠い声だった。
「……灰色の、影が見えます」
卓の周りの空気が、ぴんと張った。
「朝の、白い光の中を、走っています。とても速くて、風の音も、しません。……その影は、誰かを抱えています。大切そうに、揺らさないように」
全員の目が、ゆっくりと、一人に集まった。
「それは、私だ」
アルフィアは、当然のように頷いた。
「あ、やっぱり……!」
「納得した。続けろ。ただし、私は走らん」
「えっ」
「抱えることはある。走ることは、ない。走るほどの用が、ない」
リリが、小さく手を挙げた。
「ご本人は、気づいておられないだけかと。先日、リュー様を運ばれた際、廊下の端から端まで、リリの目には残像しか」
「歩いただけだ」
「……速かったです」
窓際の椅子で、リューが、湯呑みに顔を近づけたまま答えた。耳の先が、赤い。
「それから、あの」
カサンドラは目を閉じたまま、続けた。
「庭で、誰かが、正座をしています。背中がとても真っ直ぐで、真面目そうな……どなたかは、見えません。その人は、とても、叱られています」
「え、誰がだい!? 誰が誰に?」
ヘスティアが、身を乗り出した。
「灰色の影と、もう一人、とても綺麗な方に……」
「綺麗な方」
「はい。夢の中で、後光が差していました」
「後光」
ヘスティアは眉を寄せ、記憶を探る顔になった。
リリが、帳簿の端にさらさらと書き留める。『庭で正座・要確認』。
カサンドラは、そこで一度、口をつぐんだ。
「それから……その、少し前に」
声の調子が、また変わった。今度は、少しだけ早口だった。
「ベルさんが、いらっしゃいます。……私が、石畳で転んでしまって、そうしたら、ベルさんが、手を、差し出して……『カサンドラさん、大丈夫ですか』って。……ええと、それで、手が、あたたかくて」
誰も、動かなかった。
「その、……少し笑って、……『一緒に、行きましょう』って」
「失礼、カサンドラ氏」
ローリエが、静かに呼んだ。
「はい」
「それは予知ではなく、願望なのではないか?」
「ち、違います! これは、確かに、夢で!」
「夢であることと、予知であることは、別では」
「予知です! ほとんど! 七割くらいは!」
ヘスティアの湯呑みが、口の前で止まった。リリのペン先は、紙の上で止まったまま動かない。
「まあ……! 素敵な夢でございます!」
「素敵、では、ありません! 私は、占い師として、あの、公私の混同は……!」
「夢の中身は、嘘をつかん」
アルフィアが、静かに言った。
「鼓動は、もっと嘘をつかん」
カサンドラは、椅子の上で硬直した。
「おまえは、予知の合間に、本当の夢を挟んでいる。区別がついていない」
「つ、ついています!」
「ついていない」
「ついています……ついています……」
声は、だんだん小さくなった。
「おまえの話を、最後まで聞いたのは、あの子だけか」
カサンドラは、膝の上の手を見つめた。
「……はい。他の方は、笑って、行ってしまいますから。ベルさんだけは、最後まで、聞いてくれて」
居間が、しんとした。
窓際で、リューが、湯呑みの中身を静かに見つめている。
「夢は、選べないものですから」
誰に向けるでもなく、そう呟いた。
あまりにも真顔だったので、誰も笑わなかった。
ヴェルフが台所の戸から顔だけ出し、状況を一瞥して、また引っ込めた。
「俺は、夢なんか見ねえ」
戸の向こうから、独り言が聞こえた。誰も、尋ねていない。
ローリエが、カサンドラの肩にそっと手を置いた。
「今日は、ここまでにしよう。予知の部分は、ヘルメス様にご報告する」
「お、お願いします……」
帰り際、カサンドラは玄関で深く息を吸い、アルフィアの前に立った。
「あの、……影の方」
「アルフィアだ」
「アルフィアさん。その、庭の人は、悪い人では、ないと思います。夢の中で、一番、必死でしたから」
「そうか」
アルフィアは、それだけ答えた。
叱られる側が悪人でないと聞いたところで、叱る手加減が変わるわけではない。ただ、頭の隅に、一行だけ、記憶した。
*
午後、
「あの、アルフィア様。一つ、お願いがございます」
「聞こう」
「お怪我をなさった方を、お運びするやり方を、教えていただけませんでしょうか」
アルフィアの足が、止まった。
「先日、リュー様をお運びになるお姿を拝見しまして。揺らさず、息を合わせて……とても、丁寧でございました。私も、いつか皆様を支える側になりたくて」
前に出られなくても、倒れた者を運べる腕が欲しい、ということらしい。
「教えるのは、一度だけだ。それで覚えろ」
「は、はいっ!」
中庭の日だまりに、洗濯物の籠が置かれた。
「病人の役だ。力を抜け」
「はい……!」
アルフィアは膝をつき、片腕を背に、もう片方を膝の裏へ差し入れた。
持ち上げる。
足が地面を離れたことを、
「揺らさないことは、速く運ぶことより先だ」
「はい……」
「歩幅は小さく、
中庭を、ゆっくり一周した。
石畳を踏む靴音が、一つもしなかった。
アルフィア自身の鼓動だった。ゆっくりで、乱れがなく、ひどく落ち着いている。
鼓動の主は、無表情のまま、前だけを見ていた。
「……妹を運んだのも、この持ち方だったな」
独り言のような声だった。
一周して、アルフィアは膝を折り、
「以上だ」
「ありがとうございました……」
両手で頬を押さえ、地面を見つめている。
「どうした。痛むか」
「あ、あの、アルフィア様」
「何だ」
「私、病気かもしれません」
アルフィアの動きが、止まった。
「……どこが悪い」
「痛くは、ないのです。ただ、胸が、どきどきして、お顔が熱くて……ベル様のときと、似ているのですが、でも、少し、違っていて……」
アルフィアは、聞いた。
聞いて、後悔した。
同じ音だった。
ベルの名を聞いたときの、あの鼓動の拍と、同じだ。
【ヘラ・ファミリア】の本拠には、女しかいなかった。
そういう家では、行き場のない音が、ときどき女から女へ向かう。
背が高く、口数が少なく、男より剣の速い姉は、その向けられる先になりやすかった。
廊下の角で、顔を真っ赤にした団員に呼び止められたことが、何度かある。
稽古のあとで、手紙を押しつけられたこともある。
そのたびに、妹は腹を抱えて笑った。
『姉さんは、女の子にばっかり好かれるんだから』
笑いごとではない、と言った。
妹は、もっと笑った。
──同じ音だ。
あの廊下の角で聞いた音と、寸分違わない。
「…………」
「アルフィア様?」
「……病では、ない」
「では、何でございましょう」
「…………疲れだ。寝ろ」
「寝れば、治りますか」
「治る……たぶん」
「たぶん?」
「たぶんだ」
「承知いたしました。では、お言葉に甘えて、少し休みます。……アルフィア様。お運びいただいて、とても、安心いたしました」
にこりと笑って、洗濯物の籠を抱え直し、廊下へ去っていく。
足取りは、ふわふわと軽かった。
アルフィアは、しばらく動かなかった。
鼓動の意味は、分かっていた。分かっていて、名は付けないと決めた。
本人が知らん音を、他人が名付けるな。自分で言った言葉が、自分の方へ戻ってきた。
柱の陰から、リリが現れた。
「アルフィア様」
「見ていたのか」
「たまたまです。たまたま、一部始終を」
「聞かなかったことにしろ」
「リリは、何も聞いておりません」
リリは、手帳を開いた。
「ただ、書いておくだけです。アルフィア様(
「消せ」
「消しません。公平性に関わります」
アルフィアは、言い返そうとして、言葉を探した。
探しても、見つからなかった。
*
その夜、居間の灯りは一つだけ残っていた。
ヘスティアは、卓の上座で、冷めた茶を前に座っていた。いつもの二つ結びの髪は、片方がほどけかけている。
アルフィアは、向かいの椅子に腰を下ろした。音は、しない。
「この家で、いちばんうるさい音を、聞きに来た」
「神様に向かって、うるさいとはなんだい」
「神でも、鳴る」
ヘスティアは、湯呑みを両手で包み、顔を隠した。
「……廊下を、ベルが通るたびにな」
「やめてくれ」
「朝、寝癖で降りてきたときは、特に」
「やめてくれって言ってるだろう!」
神は卓に突っ伏し、くぐもった声で言った。
「……そうだよ。僕は、あの子の神様だ。それ以上になるつもりは、ない。なっちゃいけないと、思ってる」
「だが、音は止まらん」
「分かってるよ! 分かってるから、困ってるんじゃないか!」
アルフィアは、黙って聞いた。
茶化す話ではなかった。この神の鼓動は、この家で一番古く、一番大きく、一番長く続いている。
やがて、ヘスティアが顔を上げた。目だけが、少し据わっている。
「君こそ、人のことが言えるのかい」
「何がだ」
「あの子に、『おば』呼ばわりを禁じたくせに」
アルフィアの動きが止まる。
「ベルくんから聞いたよ。『おば、という音は要らん』って、言ったんだって? で、アルフィアでよい、って。……それって、どういう意味でだい」
「…………」
「あの子に、どう呼ばれたいんだい?」
「……アルフィア、だ」
「それが答えかい」
「それ以上は、ない」
ヘスティアは、ふん、と鼻を鳴らした。
勝ち誇ったのではない。安心したような息だった。
「子の色恋に口を挟むのは、母親ごっこの範囲を出ん」
アルフィアが、ぽつりと言った。
「神も、私も、同じだ」
「ごっこ、か。耳が痛いね」
ヘスティアは、湯呑みを置いた。
「……でもね、アルフィアくん。僕は、ごっこでも、やめるつもりはないよ。あの子が誰を選んでも、選ばれなかった子たちが帰ってくる家は、ここだ。そのご飯を作るのが、僕らの仕事だ」
「選ばれなかった者を、あの子が泣かせたら」
「それは、順番に入れる前に、まず僕に言ってくれ」
「……考えておく」
「考えるのかい!」
ヘスティアは、ふっと笑った。
その笑いは、先ほどの声より、ずっと静かだった。
アルフィアは立ち上がり、冷めた茶を下げ、新しい湯を注いだ。
音は、やはり、しなかった。
新しい茶を一口飲んで、ヘスティアは目を丸くした。
「……美味しい。悔しいけど、美味しい」
「悔しがる意味が分からん」
「神の
湯気の向こうで、神の鼓動が、少しずつ凪いでいった。
アルフィアは、その音が静まるまで、席を立たなかった。
*
数日後の朝。
居間では、朝食の片づけが済みかけていた。
シルが盆を持って、卓の周りを回っている。「なら、働け」と言われた日から、彼女が手伝いに顔を出す日は、三日に一度が二日に一度に増えた。理由は、誰も尋ねていない。
壁の帰りの書付には、ベルの欄がある。
出る時刻、五時。戻る時刻、八時。
朝五時、「お使いです」と笑って出ていく背中を、アルフィアは見送った。時刻が書いてあれば、足りると思った。
時計は、ちょうど八時を指している。表は、守られていた。守られていたのは、時刻だけである。
玄関の戸が、そっと開いた。
開いた、と分かったのは、アルフィアだけだった。
蝶番を鳴らさないように、ゆっくり押している。靴を脱ぐ音も、ほとんどしない。抜き足で廊下を進む足音が、居間の前を通り過ぎようとした。
「待て」
足音が、止まった。
「……た、ただいま戻りました」
居間の戸口に、ベルが顔だけ出した。
両手を、背中に回している。肩口の外套が、泥と花びらで汚れていた。
居間にいた者の手が、一斉に止まった。
上座の大きな音は、数に入れない。いつものことだ。それ以外に、鼓動が四つ、同時に跳ねた。
「おかえり、ベルくん。……その、背中のは」
「な、何でもないです!」
「何でもないものは、背中に隠さん」
アルフィアが言った。
ベルは観念して、両手を前に出した。
白い花束だった。
銀の紐で束ねた、片腕に余るほどの大きさである。
「ベル様。今朝は、どちらへ」
リリの声が、商談の声になっていた。
「フォ、フォールクヴァングです。お掃除を……お掃除です」
「それで、なぜ花束を」
「お掃除のお礼です!」
「掃除の礼に、婚礼の花は出ん」
「それは、その……」
ベルの目が、泳いだ。
「クラネルさん」
窓際から、リューが静かに言った。
「隠し事は、あとで余計に話しにくくなります」
「は、はい……」
少年は、花束を抱えたまま、床を見た。
「広間に入ったら、その……女の人が、たくさんいて」
「何人ですか」
「に、二十人くらい……」
「二十」
リリのペン先が、ぽきりと折れた。
「どんな格好の方々でしたか」
「格好は……ええと、白かったです」
「白い、何ですか」
「白い……服、です。たぶん。服の部分は、白かったです」
「服の部分」
リューの声が、一段低くなった。
「ぼ、僕、なるべく天井を見てたので! よく分からなくて!」
ベルは、真っ赤になって首を振った。
嘘は、一つも言っていない。言っていないことが多いだけだ。
「そ、それより! 広間の掃除は、ちゃんと終わったんです! 床も拭いたし、窓も──」
「窓の話は、していません」
リリが、折れたペン先のまま言った。
「それで、その二十人の方々は、何を」
「み、みんなで一緒に掃除をって。それで、あの、窓が三十枚くらいあって、全部──」
「ベル」
リューが、静かに遮った。
「窓は、数えなくて結構です」
「……はい」
「逃げようとは、なさったのですか」
「しました! でも、両側から腕を組まれまして、そのすごい力で!……あ、でも、床は本当に綺麗になってて!」
「ベル様の腕を……強引に!」
「それから、ヘイズ……さんがご命令を……」
「どんな命令だ」
アルフィアの声だった。
ベルの口が、ぱくりと閉じた。
「……ま、窓は」
「窓は、もうよい」
「め、命令の前に、ヘルンさんが飛び込んできたので」
「し、白い服の……お綺麗な方々が、二十人も……」
その隣で、
「二十人がかりの大掃除とは! さぞ見事な床になったのでございましょうな!」
「ヘルンさんが、僕の外套を掴んで、庭を引きずって、門の外まで連れ出してくれて。『今日のことは、全て忘れてください! もう二度と、いらっしゃってはいけません!』って、泣きそうな顔で。それで、これを押しつけられて」
ベルは、花束を見下ろした。
「……だから、ちょっと、言いにくくて」
「ちょっと、ね」
ヘスティアが、遠い目で繰り返した。
「ベルくん! その花、いったん──いや、今すぐ水に──いや、捨て──どっちだ!」
「えっ、きれいなのに、捨てるんですか?」
「花に罪はない」
アルフィアが、花束を受け取った。
茎の切り口を見る。銀の紐を見る。白い花の種類を見る。
祝い事の花だった。それも、使い道が一つしかない組み合わせの。
女は、それを顔に出さなかった。
代わりに、少年の肩口の泥を、指でなぞった。
「外套が汚れている」
「あ、はい。ヘルンさん、必死だったので」
「そうか」
返事は、それだけだった。
ただ、声の温度が、少し下がった。
そのとき、アルフィアは気づいた。
さっきまで、盆の上で鳴っていた杯の音が、聞こえない。
シルが、盆を卓に置いていた。
音は、しなかった。この家で、それができる者は、もう一人しかいないはずだった。
「……少し、掃除に行ってまいります」
「掃除? 今からかい?」
「今からです。隅々まで。大掃除を」
笑顔だった。笑顔のまま、目だけが、氷の色をしていた。
声は、どこまでも穏やかだった。穏やかすぎて、
「歩きでは遅い」
アルフィアが言った。
「ご心配なく。馬車を呼んで──」
「待たん」
その一言が落ちるより早く、シルの足が、床を離れていた。
「な──っ!? お、降ろしなさい! 私は女神です!」
「知っている。力を抜け」
「抜けるわけが──」
「重心が、左に寄っている」
「分かっていますッ!」
戸口まで追ってきたベルが、目を丸くした。
「神様を、担いで!?」
「運動だ」
アルフィアは、そのまま戸を出た。
背後から、居間の声が追いかけてくる。耳のよい女には、閉めた戸の向こうまで、よく聞こえた。
「いいかい、みんな! 今日の件は、ベルくんには内緒だ!」
「あの、僕、その場にいたんですけど」
「だからこそだ!」
街は、朝の白い光で満ちていた。
その中を、灰色の影が、音もなく抜けていく。
アルフィアは、走っていなかった。歩いているだけである。
歩幅は小さく、踵から。呼吸は、運ばれる者に合わせる。吸うときに上げ、吐くときに進む。ただ、歩幅の割に、景色の流れ方だけがおかしかった。
腕の中の女神は、最初の辻で一度、抗議した。
次の辻で、風が顔に当たっていないことに気づいて、やめた。
抱えた身体の鼓動は、怒りだけでは説明のつかない速さだった。
アルフィアは、その内訳を数えないことにした。
三つ目の辻で、占いの札を広げていた娘が、顔を上げた。
灰色の影が、目の前を過ぎる。その腕に、白い服の誰かが抱えられている。
娘の手から、札の束がこぼれた。
「当たりました……!」
背後で、札が石畳に散る音がした。悲鳴のような声が、遅れて追いかけてきた。
アルフィアは、振り返らなかった。
*
女神フレイヤの
直立というより、固まっていた。
灰色の影が止まり、その腕に抱えられているのが自分たちの主神だと理解するまで、少しかかった。理解してからも、固まったままだった。
「開けなさい」
抱えられたまま、女神が命じた。
声だけは、凛としていた。
門は、内側から開いた。
アルフィアは、石畳の上にシルを下ろした。足元を確かめてから、手を離す。
シルは前掛けの
朝日が、その背に回り込む。
輪郭が金色に縁取られ、後光が差した。
庭は、荒れていた。
白い花が、花壇の外まで散っている。踏み荒らされた土の上に、二本の溝が、門まで一直線に伸びていた。少年の踵が引きずられた跡である。
その溝の途中、荒れた花壇の真ん中に、一人、座っている者がいた。
ヘルンだった。
正座である。白い前掛けは土に汚れ、背筋だけが、定規のように伸びている。誰に言いつけられた様子もない。膝の下の土を選んだのは、本人らしかった。
頭の隅に置いていた一行が、浮かんだ。
夢の中で、一番、必死でしたから。
それから、リリの帳簿の走り書きも。『庭で正座・要確認』。
確認は、取れた。
少し離れた木陰の卓では、別の娘が足を組んで茶を飲んでいた。
ヘイズである。
「あ、シル様。お早いお帰りですねえ。アルフィアさんも、おはようございます。朝からお散歩ですか?」
カップを掲げる手つきが、あまりにも
「ヘイズ」
シルの声は、静かだった。静かな分だけ、温度がなかった。
「説明なさい」
「説明も何も」
ヘイズは、悪びれずに肩をすくめた。
「婿入りの
花壇の真ん中で、土が鳴った。
ヘルンが、立ち上がっていた。
痺れているはずの足で、よろめきもせずに。
「準備」
声は、低かった。普段の、否定の早い声ではなかった。
「あなたは、ご自分が何をなさったのか、分かっておいでですか。あの方を、何も知らないまま広間に入れて。腕を取って。紙まで用意して」
「分かってますって。だから、ちゃんと──」
「分かっておいでなら、なおさらです!」
ヘルンの手が、ヘイズの胸ぐらを掴んだ。
侍女の手が、震えていた。怒りで震える手を、アルフィアは久しぶりに見た。
「なぜです。答えなさい、ヘイズ。誰のためです」
「あたしが、やりたかったからですよ」
「嘘です」
「嘘じゃないです」
「シル様の御前で、まだそれを──」
「あたしが、やりたかったから」
ヘイズは、笑っていた。
胸ぐらを掴まれたまま、最後まで目を逸らさなかった。
その鼓動を、アルフィアは聞いていた。
速くも、遅くもない。嘘をつく者の音ではなかった。何かを、一つだけ言わないと決めた者の音だった。
女は、一歩、前へ出た。
右手を、軽く上げる。
それだけで、庭から音が消えた。
花壇の上を舞っていた白い花びらが、宙で止まったように見えた。門番の息が止まる。ヘルンの手から、力が抜けた。
ヘイズの笑みが、初めて、固まった。
「理由は、もうよい」
アルフィアの声は、平らだった。
怒鳴りもしない。急ぎもしない。湯の量を確かめるときと、同じ声だった。
「あの子を、本人の知らん話に引きずり込んだ。それで足りる」
「ちょ、ちょっと待っ──」
「【
超短文詠唱の一語目が、唇から零れかけた。
「アルフィア」
別の声が、それを遮った。
大きな声ではなかった。
けれど、庭じゅうの音が、その声のほうへ傾いた。
シルが、そこに立っていた。
前掛けの街娘の姿のまま、ただ、もう街娘の目はしていなかった。朝の光を背に負った輪郭が、金色に縁取られている。
「その子は、私の子よ」
フレイヤは、ゆっくりとヘイズの前に出た。
アルフィアの上げた手と、ヘイズのあいだに。
「叱るのは、私がやります」
アルフィアは、手を上げたまま、女神を見た。
女神も、目を逸らさなかった。
「……どけ」
「どかないわ」
短い沈黙があった。
ヘルンが、息をするのを忘れていた。
フレイヤは、背中のヘイズへ、振り返らずに言った。
「私のため、でしょう」
ヘイズは、答えなかった。
口を引き結んだまま、最後まで、答えなかった。
「言わなくていいわ。分かっているから」
その声だけが、ほんの少し、柔らかかった。
アルフィアは、手を下ろした。
止まっていたように見えた花びらが、一枚、遅れて地面に落ちた。
「……おまえの子なら、おまえが叱れ」
「ええ」
「手ぬるければ、私がやる」
「そのときは、止めないわ」
女神は、そこで初めて笑った。
街娘の笑顔に、戻っていた。
「このことは、あの子には言わん」
アルフィアは、三人を見渡した。
「おまえたちも、言うな」
ヘルンが、崩れるように膝をついた。今度は、自分で座ったのではなかった。
ヘイズは、黙って、その隣に膝をそろえた。
庭には、まだ鼓動が四つ鳴っている。
ヘルンのそれは、速い。ヘイズのそれは、ようやく揺れはじめていた。フレイヤのそれは、順番を失っている。
アルフィア自身のそれは、いつもの速さだった。
カサンドラの夢は、七割ほど当たっていた。叱られるはずだった者が、誰よりも先に叱っていた。
アルフィアはそれを聞き、そして、何も言わなかった。