灰髪の魔女   作:彪(あや)

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第十二章 女王の戸口

 

 ヘラからの返事は、一行だった。

 

『連れておいで』

 

 ヘルメスは紙を明かりに透かし、裏返し、もう一度表に戻した。

 何度見ても、文字は増えなかった。

 

「アスフィ。僕は手紙に、何を書いたんだったかな」

 

「消息、身体の状態、記憶の回復、深層での発見状況。それから、ヘラ様のご機嫌を伺う文を三行ほど」

 

「その三行への返事は」

 

「ありません」

 

 アスフィは、紙の端を指で示した。

 本文の脇に、小さな字で、街道と宿場の名が書き添えてある。

 

「少なくとも、道は合っています」

 

「そういう安心の仕方は、初めて聞いたよ」

 

 手紙は、昔の連絡網をたどって戻ってきた。古い宿の主人が次の馬車に託し、その先の小さな祠(ほこら)で受け取られたらしい。

 女神がそこに住んでいるのか、手紙の受け取りにだけ使っているのか。それすら分からないまま、会いに行く日だけが決まった。

 

         *

 

 出発は、記憶が戻ってから二週間後になった。

 

 その二週間で、アルフィアはギルドの小部屋に三度呼ばれた。

 シャクティが記録を取り、ウラノスの名代(みょうだい)が問いを読み上げる。七年前の夜のこと。誰と、どこで、何をしたのか。今回の鐘のこと。

 女は、一度も言葉を濁さなかった。言い訳もしなかった。

 

 三度目の終わりに、シャクティは筆を置き、裁定はまだ先になると告げた。それまでは、都市の外へ出る前に必ず届けを出すこと。

 

「届けは出す」

 

 その届けが、ひと騒ぎになった。

 

「ならん! 断じて、ならんッ!」

 

 四度目の小部屋に、ギルド長のロイマンが飛び込んできた。

 丸い身体を揺らし、額の汗を拭う暇もなく、卓に両手をつく。

 

「あのバケモノを、都市の外へ出すだと!? 街道で何かあってみろ、責任は誰が取る! ギルドだ! この私だ!」

 

「本人の前だ、ロイマン」

 

 シャクティが、記録の筆を止めずに言った。

 

「本人の前だから言っておるのだ! レベル7だぞ! 【ヘラ・ファミリア】の生き残りだぞ! 七年前に都市で何をしたか、忘れたとは──」

 

 アルフィアが、顔を上げた。

 

 ロイマンの言葉が、喉の途中で止まった。

 部屋の空気が、ひとつ冷えた気がした。

 

「……忘れたとは、言わせんぞ」

 

 たどたどしい。

 それでも最後まで言い切ったことだけは、ギルド長の名誉のために記しておく価値があった。

 

「出ると言ったのではない。届けを出すと言った」

 

「同じことだ!」

 

「違う。届けは、帰る者が出すものだ」

 

 ロイマンが、次の言葉を探して口を開けた。

 そのとき、部屋の隅に控えていた兎人(ヒュームバニー)の班長が、一枚の紙を卓に置いた。

 

「神ウラノスより、裁定までのあいだの外出について、ご返答です」

 

 ロイマンが、紙をひったくる。

 読んで、目を剥いた。もう一度読んで、肩を落とした。

 

 シャクティが、横から読み上げた。

 

「『許可する。行き先と日数を届け出ること。それと、必ず戻ること』」

 

「……神ウラノスは、正気か」

 

「ギルド長」

 

「分かっておる! 分かっておるわ!」

 

 ロイマンは、紙を卓に叩きつけた。

 それから、急に声を落として、アルフィアの方を見ないまま言った。

 

「……戻らなかったら、今度こそ、私の首が飛ぶ」

 

「戻る」

 

 女は、短く答えた。

 

「戻る場所がある」

 

 ロイマンは、何か言い返そうとして、やめた。

 

     *

 

 出立の前日、フェルズが最後の検査結果を持ってきた。

 魔術師は卓に布を広げ、黒い根の切れ端をその上に置いた。骨の指でつつくと、乾いた土のように崩れた。

 

「おまえを引き戻したのは、私の魔法だ。だが、病を消したのは、私の魔法ではない」

 

「氷の中で、既に変わっていた、と」

 

「回収した氷を割って調べた。殻は、一度に固まったものではない。内側から、何度も作り直されている。木の年輪のように、層が重なっていた。……おまえの身体にも、同じ跡がある」

 

 アルフィアは、崩れた根に伸ばしかけた指を、途中で止めた。

 自分が眠っていた七年の間、深い場所の何かが、この身体に手を入れ続けていた。

 

「治療ではないな」

 

「恐らくは、取り込むための干渉だ。おまえの魔力が欲しかったのだろう。生死の境を氷で留め、邪魔なところを作り替えようとした。だが、取り込みきれなかった」

 

 アルフィアは、自分の内側へ意識を向けた。

 【静寂の園(シレンティウム・エデン)】は、今もそこにある。意識をなくしたあと、それがどこまで働いていたのかは、自分にも分からない。

 

「食えない餌を、捨てもしなかったわけか」

 

「病の異常が直ったのは、その綱引きの中でのことだろう。……断っておくが、ここからは私の推測だ。おまえの身体が特別だったこと。干渉が長く続いたこと。どちらか一つでも欠けていれば、同じ結果にはならなかったと思う」

 

 女は、しばらく崩れた根を見ていた。

 

「……あれにも、使えたか」

 

 誰のことか、フェルズは聞かなかった。

 

「分からない。だが、誰かをあそこへ入れれば治る、とは──決して言えない」

 

 アルフィアは何も言わずに布の端をつまみ、根を包み直した。

 それをフェルズの方へ押しやってから、窓の外に目を向けた。

 庭では、春姫(はるひめ)の干した白い布が、風に膨らんでいた。

 

         *

 

 ある日の【ヘラ・ファミリア】。

 神が眷族(ファミリア)を一人だけ呼ぶ、奥の部屋。

 

 窓の外から、歓声が聞こえていた。

 レベル7。今日、都市じゅうがその名を呼んでいる。誰よりも速く、誰よりも強く、誰よりも口の悪い姉の名を。

 

『もう一回、読んで』

 

 寝台の上で、娘が言った。

 背を出したまま、枕に頬をつけている。姉と同じ灰色の髪が、敷布の上に広がっていた。片手は、毛布の下で、少しふくらんだ腹に添えられている。

 

『読んだわ。三度』

 

『四度目を』

 

『アルフィアの更新のほうが、よほど手間がかからなかったわ』

 

『だって、アルのは数字が増えるだけでしょう。わたしのは、読むところがあるもの』

 

 女神は、ため息をついた。

 それから、娘の背に指を戻した。神聖文字(ヒエログリフ)が、薄く浮かび上がる。

 

 レベル2。

 ひと月前に、やっと昇格した。寝台の上で過ごす日のほうが多い娘が、それでも動ける日には、デメテルの畑で土をいじり続けた。少しでも身体がよくなればと、鍬を握った。その積み重ねが、一度だけ、自分の限界を越えさせた。

 爪の先には、まだ、畑の土が残っている。

 

 基本能力(アビリティ)は、どれも低い。

 その下に、昇格と同時に芽吹いた一行が、不釣り合いに並んでいた。

 

『【聖母哀歌(ピエタ)】。……担い手の死後、愛する者のスキルに宿る。宿主が死に至るとき目を覚まし、その身を蝕む枷を、永久に取り除く』

 

 読み上げてから、女神は指を止めた。

 

『神の定めに、逆らうスキルよ。死んだ者の恩恵(ファルナ)は、閉じる。閉じたあとで、他人のスキルに宿って生き延びるものなど、本来ありはしない』

 

『すごいでしょう』

 

『それに、使い道のないスキルね』

 

 女神の声は、冷ややかだった。

 

『枷を取り除くのは、宿主が死ぬとき。取り除いたところで、その子はもう死んでいる。死人の病を治して、何になるの』

 

『だから、アルが死にきる前に、誰かが止めてくれたらいいの』

 

 娘は、枕に頬をつけたまま、軽く言った。

 

『止まっているあいだに、わたしが、アルの病を全部持っていく』

 

『止める者が、いなかったら』

 

『いるよ。アルは、ああ見えて、放っておかれない人だから』

 

 ヘラは、答えなかった。

 代わりに、毛布の上から、娘の腹に目を落とした。

 

『……あなた自身の病は、どうするの』

 

『わたしのは、いいの』

 

『いいはずがないでしょう。その身体で産めば──』

 

『分かってる』

 

 娘は、毛布の下の手を、そっと動かした。

 なだめるように。あるいは、まだ見ぬ誰かに、挨拶するように。

 

『そうなるなら、そうなればいい。わたしは、この子を産む。それで、アルの分は、あとから持っていく。それで、いいの』

 

 女神は、しばらく娘の横顔を見ていた。

 

『……その胸、いずれ剣で貫かれるわよ』

 

『知ってる』

 

『あの男を選んだ時点で、男を見る目はないと思っていたけれど』

 

『ひどい』

 

『神の定めにまで逆らうなんて。わたくしの子のくせに』

 

『アルの妹だもの』

 

 娘は、笑った。

 咳が一つ、その笑いを途中で切った。

 

『このことは、誰にも言わないで。……アルには、特に』

 

『言ったら?』

 

『アルは、わたしを助けるために、自分の命を先に使いきろうとするから』

 

『神会(デナトゥス)にも、言えない類の話よ。わたくしの胸の中にしまって、何も起こらずに風化する。そういう話』

 

 女神は、娘の背から指を離した。

 浮かんでいた文字が、ゆっくりと沈んでいく。

 

『……でも、いいわ。わたくしだけが、知っていてあげる』

 

『ありがとう、ヘラ』

 

『礼を言われることではないわ』

 

 ヘラは、毛布を娘の肩まで引き上げた。

 

『あなたは、わたくしの子の中で、いちばん我儘ね』

 

『アルの次に、ね』

 

 女神は、今度は笑った。

 窓の外では、まだ姉の名を呼ぶ声が続いていた。窓辺には、デメテルの畑から娘が摘んできた白い花が一輪、挿してあった。

 

         *

 

 同行するのは、ヘルメスとアスフィ、それにベルだった。

 ベルを行かせると決めたのは、主神だった。

 

「ベルくんが会いたいなら、行かせる」

 

 ヘスティアは、食卓の上座でそう言い切った。リリが、家を空ける人数と日数を指を折って数え上げても、その結論は揺るがなかった。

 

「その代わり、帰る日は帰りの書付に書いていくこと。全員だよ。それと──」

 

 女神は、封をした手紙をアルフィアに差し出した。

 

「これを、ヘラに。神から神への手紙だ。君は、読まないこと」

 

「読まん」

 

「封の上から透かすのも、なしだからね」

 

 アルフィアの指が、ほんのわずかに止まった。

 ヘスティアは見なかったことにして、ベルの方を向いた。

 

「ベルくんは、何を聞きたい?」

 

「……母のことを知っている神様に、会ってみたいです。何を聞けばいいのかは、まだ分からないけど」

 

「分からないなら、それでいい。会えば、分かることもあるさ」

 

 出発の朝、アルフィアは玄関でベルの荷をほどかせた。

 

「街道を歩くんだ。新しい靴を、その日に下ろすな」

 

「履き慣れたものです!」

 

「水は」

 

「あります!」

 

「食事を抜くな」

 

「抜きません!」

 

 ヘルメスは門の外で帽子を目深にかぶり、聞こえないふりをした。

 英雄の運命を背負う少年が、旅立ちの朝にここまで細かく点検される物語を、彼はまだ一度も語ったことがなかった。

 アスフィが、主神の背中を押して歩かせた。

 

         *

 

 街道の旅は、三日かかった。

 ベルは宿場に着くたび、宿の主人から土地の話を聞きたがった。アルフィアはその間に、少年の靴擦れを確かめ、布を巻き直した。

 ヘルメスは、目的の場所に近づくほど口数が減っていった。

 

「ヘルメス様。ヘラ様と、何かあったんですか?」

 

 二日目の夜、ベルが尋ねた。

 神は、宿の暖炉に手をかざしたまま笑った。

 

「何もないよ。……僕が昔、ゼウスの使い走りだったこと以外はね」

 

「昔……?」

 

 アスフィが、薪を一本足した。

 

         *

 

 指定された家は、街道を外れた丘の陰にあった。

 白い壁の、小さな家だった。庭には、手入れの行き届いた薬草が並んでいる。祠は隣にあったが、家の中に祭壇らしいものは見えなかった。

 

 戸を叩く前に、内側から声がした。

 

「遅い」

 

 アルフィアは、扉に手を置いた。

 

「手紙にあった刻限には、まだ早い」

 

「刻限の話ではないわ」

 

 女は、そこで初めて言い返さなかった。

 扉が開いた。

 

 ヘラは、土のついた前掛けをしていた。

 袖をまくり、髪を簡単に結い上げている。宝石の一つも身につけていない。それなのに、彼女が戸口に立っただけで、小さな家が玉座の間のように見えた。

 

 女神の目が、まず、伝令の神に向いた。

 

「伝令の坊や。あなたは庭で待ちなさい」

 

「ええと、女神ヘラ。僕はその、案内役として──」

 

「庭で」

 

 ヘルメスは帽子を胸に当て、言われたとおり庭へ下がった。

 アスフィは一礼し、主神の後を追おうとした。

 

 その背中へ、女神の声が追いついた。

 

「あの男は、元気?」

 

「ええと……相変わらず、です」

 

「そう。相変わらず、ね」

 

 ヘラは、庭の薬草に目を落とした。

 

「相変わらずなら、まだこっちにいるのね。運のいいこと」

 

 ヘルメスは返事をしなかった。

 足元の薬草に、葉の形の違う草が何本か混じっていることにも、気づかないふりをした。

 

「あなたは入りなさい。坊やの見張りなら、窓からでもできるでしょう」

 

「……失礼いたします」

 

 アスフィは主神を一度だけ振り返り、敷居をまたいだ。

 

 アルフィアだけが、まだ戸口に立っていた。

 

「戻った」

 

 女神の視線が、灰と翠の目から頬へ下り、喉のところで止まった。

 それから、何かを聞き取ろうとするように、黙った。

 

 風が、庭の薬草を揺らした。

 その音のほかには、何も聞こえなかった。

 

「……咳を、しないのね」

 

 それが、最初の言葉だった。

 

「しない」

 

 ヘラの手が、上がった。

 頬を打つのか、抱き寄せるのか。庭のヘルメスにも、戸口のベルにも分からなかった。

 

 その手は、結局、女の顎にかかった。

 土のついた指が、ほんの少しだけ、顔を上へ向けさせる。

 

「遅すぎるわ」

 

 アルフィアは、今度も言い返さなかった。

 

         *

 

 家の中は狭く、よく片づいていた。

 卓が一つに、椅子が四脚。棚には、揃いでない茶器が、数えるほどしか並んでいない。

 

 ヘラは、ベルの前に立った。

 

「ベル・クラネルです! あの、お会いできて──」

 

「知っているわ」

 

 女神は、名乗りの終わりを待たなかった。

 土を払った指が、白い髪に触れる。こめかみをたどり、頬の線をなぞる。

 目元まで来たところで、その指が止まった。

 

「……その目は、別ね」

 

 ベルは、何と答えればいいのか分からなかった。

 女神の指が、頬から離れた。

 

「……あなた、女の子に、囲まれているでしょう」

 

「えっ!? い、いえ、家族に多いだけで」

 

 ヘラは少年ではなく、隣の女を見た。

 

「数えたの?」

 

「数えるのは、やめた」

 

「賢明ね。数えると、殺したくなるもの」

 

 ベルは、聞き間違いだと思うことにした。

 ヘラは答えを待たず、椅子を引いた。

 

「座りなさい。立たせたままでは、何も出せないわ」

 

 アルフィアが、懐から封書を取り出した。

 

「炉の女神からだ」

 

 ヘラは封を切り、立ったまま読んだ。

 

 ──ヘラへ。久しぶり!

 君の大事な子を、うちで預かってるよ。ご飯はちゃんと食べてる。食べさせすぎだって、ほかの子に怒られるくらい。

 この子を返すかどうかは、本人に決めさせてね。それと、僕の子にも会ってやって。いい子だよ。

 

 P.S この子がうちに来たいって言ったら、許してあげてね。

 

 ヘスティア。

 

 読み終えても、女神はしばらく紙から目を上げなかった。

 

「……相変わらずね、姉様は」

 

 天界で、誰の妻にもならず、誰にも膝を折らず、炉の火だけを守り続けた姉。

 誓いを一度も破ったことのない神を、婚姻の女神は軽んじない。それが、たとえ文末に大きな丸をつける神でも。

 

 ヘラは手紙を丁寧に畳み、前掛けの内側にしまった。

 

 ヘラの器とは別に、棚から茶器が二つ下ろされた。

 どちらも古い。片方の縁が、小さく欠けている。

 

 アルフィアの手が、膝の上で止まった。

 

「……まだ、あったのか」

 

「捨てる理由がなかったわ」

 

 ヘラは、欠けた方をベルの前に置いた。

 

「あの子のよ。欠けたところに、唇を当てないようにお飲みなさい」

 

 ベルは、両手で器を包んだ。

 思っていたより、ずっと軽かった。

 

「あの……母は、どんな人でしたか」

 

 聞いてから、言葉が足りないと思った。けれど、それ以上の聞き方を、ベルは知らなかった。

 

 ヘラは自分の器に茶を注ぎながら、答えた。

 

「身体の弱い子だったわ。一日の半分は、寝台の上。そのくせ、よく笑って、よく食べて、よく人をからかった」

 

 女神の目が、ちらりとアルフィアを見た。

 

「わたくしの所で、これに言うことを聞かせられたのは、あの子だけよ」

 

「聞いたつもりはない」

 

「聞いていたわ。毎回」

 

「男の見方も、教えたはずよ」

 

 アルフィアは、器を置かずに答えた。

 

「約束を軽く口にする男は、信じるな」

 

「それから」

 

「誓いを破った男に、二度目を許すな」

 

「違うわ」

 

 ヘラは、静かに茶を注ぎ足した。

 

「二度目は、来ないの。一度目で終わるから」

 

 ベルの器の中で、茶が小さく揺れた。

 アルフィアは、黙って茶を飲んだ。

 ベルは、欠けたところを避けて、器に口をつけた。

 少し苦くて、あとからほんのり甘い茶だった。母はこの器で、何を飲んでいたのだろう。どんな顔で、この人たちと言い合っていたのだろう。

 

 答えは、出なかった。

 それでも、聞いてよかった、とベルは思った。

 

         *

 

 恩恵(ファルナ)の更新は、奥の部屋で行われた。

 同席したのは、アルフィアとヘラだけだった。

 

 背に女神の指が触れると、長く伏せられていた神聖文字(ヒエログリフ)が、薄く光りながら浮かび上がった。

 ヘラは、すぐには更新に進まなかった。最後に自分が刻んだ数値と、そこに残された名を、一行ずつ指でなぞっていく。

 

「恩恵(ファルナ)は、切れていない」

 

「知っている」

 

「おまえが知っていることと、わたくしが確かめることを、一緒にしないで」

 

 女は、黙った。

 この女神の前でだけは、黙ることを知っていた。

 

 指が、ある名のところで止まった。

 

「【才禍代償(ギフ・ブレッシング)】。名は残っているわね。けれど、もう目を覚ます理由がない」

 

 病を起点に働いていた力だった。病が消えれば、動き出すきっかけもない。限界を外していた働きも、それと一緒に眠っている。

 生まれ持った才能や、積み重ねた技、ほかの発展アビリティは、そっくり残っていた。病とは別のところに、根を張っていたものだ。

 

「都合よく、祝福だけもらって帰ってきたとは、言わないわけね」

 

「言わない」

 

「よろしい」

 

 女神は、さらに奥を読み進めた。

 氷の中で溜め込まれた魔力は、経験値(エクセリア)にはならない。浴室を磨いて過ごした日々が、深層の偉業に化けるわけでもない。

 

 だが、この背には、それより前に刻まれたものが残っていた。

 黒竜の前に立った日。

 敗れても生き延び、削れていく身体を引きずって戦い続けた年月。

 そして、最後の正式な更新のあと、十八階層で、自分のすべてを使い切った戦い。

 

「恩恵(ファルナ)は、善し悪しを数えないわ。おまえが何をして、何を越えたか。それだけを見る」

 

 ヘラの指が、背の中ほどで止まった。

 

「……器は、満ちている」

 

 アルフィアは、目を閉じた。

 

「基本能力(アビリティ)は、昔から足りていた。昇格(ランクアップ)に欠けていたのは、おまえ自身を越える一戦だけ。……七年前、おまえはそこに届いていたのね。病を抱えたまま、無茶を重ねて」

 

 女神の声が、少しだけ低くなった。

 

「そして、わたくしの所へは、帰らなかった」

 

 アルフィアは、否定しなかった。

 あのときは、帰るつもりがなかった。未来のために死ぬと決めた者が、次の階位をもらいに戻るはずがない。

 

 ヘラの指が、背にぐっと押し当てられた。

 

「今度は、持って帰りなさい」

 

 神血(イコル)が、止まっていた記録を、一つ先へ進めた。

 

         *

 

 レベル8。

 

 文字が書き換わったとき、女は目を開いた。

 身体の奥の、力の通り道に、もう一枚、厚い底板が敷かれたような感覚があった。指を握って、開く。卓の灯りの炎は、揺れもしなかった。

 

 帰ると決めたのは、この力を得るより前だ。

 

 ヘラは写しを取り、本人に渡した。

 

「慣れるまでは、細かいものを壊すわよ」

 

「分かっている」

 

「分かっていても、壊すの。おまえは、そういう子だったわ」

 

 写しを畳もうとした指が、止まった。

 そのためらいを見て、女神がわずかに口元をゆるめた。

 

「何を思い出したの?」

 

「……木を、傷めた」

 

「何の木?」

 

「風呂の」

 

 女神の笑みが、止まった。

 アルフィアは、この女神に何かを説明するのが少し面白いと、初めて思った。

 

         *

 

 写しを畳み終えても、女神は奥の部屋から動かなかった。

 アルフィアも、立たなかった。

 

「ヘスティアの家に、移る」

 

 女は、それだけ言った。

 

「そう。分かったわ。姉様の手紙に、書いてあったもの」

 

 ヘラは、卓の上の小瓶を取った。

 とうに用意してあったらしい。中で、神血(イコル)が一滴、光を吸って揺れている。

 

「これを、姉様に渡しなさい。わたくしの血がなければ、おまえの背の封は開かない」

 

「……用意が早い」

 

「早くないわ。遅いくらいよ」

 

 女神は、小瓶を差し出した。

 差し出したまま、指を離さなかった。

 

「姉様なら、いいわ。あの方は、誓いを一度も破ったことがない。わたくしの子を預けて、恥ずかしくない神は、天界にも数えるほどしかいない」

 

「なら、離せ」

 

「離すわよ」

 

 離さなかった。

 

「……ほかの神だったら、殺していたわ」

 

「知っている」

 

「ゼウスの家なら、なおさら」

 

「知っている」

 

「それと、向こうで食事を抜いたら許さない。咳をしたら、すぐに手紙を寄越しなさい。あの子の家の者に、迷惑をかけないこと。それから──」

 

「ヘラ」

 

 女神の口が、止まった。

 

 アルフィアは、その手を見ていた。

 土のついた指が、小瓶を握ったまま、白くなっている。

 

 リューの顔が、ふと浮かんだ。

 『送り出してくださいました』と、あの娘は言った。

 

 女は、自分の手を、女神の手に重ねた。

 力は、入れなかった。

 

「……世話になった」

 

 ヘラの指から、ゆっくりと力が抜けた。

 小瓶が、女の掌に落ちる。

 

「礼を言われることでは、ないわ」

 

 女神は、顔を背けた。

 

「早く行きなさい。坊やが、庭で干からびているわよ」

 

         *

 

 出立のとき、ヘラはベルに包みを持たせた。

 油紙にくるんだ焼き菓子だった。道中でも傷まないよう、日持ちのするものばかりが詰めてある。

 

「道中で食べなさい。半分は、姉様に。……わたくしからだとは、言わなくていいわ」

 

「はい! 必ず渡します!」

 

 ベルは包みを抱えたまま、一度だけ棚の方を見た。

 洗われた二つの茶器が、元の場所に、並べて伏せてあった。欠けた方が、少しだけ手前に。

 

 女神は、最後にアルフィアを見た。

 

「次は、手紙より先に来なさい」

 

「善処する」

 

「……来るのよ」

 

 アルフィアは、今度は頷いた。

 

 丘を下りきったところで、女は一度だけ振り返った。

 白い家の戸口に、土のついた前掛けの女神が、まだ立っていた。

 扉は、開いたままだった。

 

     *

 

 帰宅した夜、ヘスティアの部屋に、灯りが一つともった。

 

 アルフィアは、寝台の端に腰を下ろし、背を出していた。

 卓の上には、ヘラから預かった小瓶がある。

 

「……いいんだね」

 

「何度も聞くな」

 

「主神は、何度でも聞くものなんだよ」

 

 ヘスティアは、小瓶の封を切った。

 一滴を、女の背に落とす。長く伏せられていた神聖文字(ヒエログリフ)が、薄く浮かび上がり、ゆっくりとほどけていった。

 それから、自分の指先に針を当てた。

 

 炉の女神の血が、新しい文字を刻んでいく。

 

 途中で、指が一度だけ止まった。

 【才禍代償(ギフ・ブレッシング)】。名は、深く眠っている。

 その文字の奥で、何かが、寝息のように光った気がした。

 

 気のせいだと、炉の女神は思った。

 

「……終わったよ」

 

 アルフィアは、服を戻した。

 背中に手を当てることはしなかった。確かめなくても、分かっていた。

 

 戸が、控えめに叩かれた。

 

「失礼します」

 

 リューだった。手に、一枚の紙を持っている。

 

「当番表です。今日から、改めて組み直しました」

 

「ずいぶん早いな」

 

「先輩ですので」

 

 リューは、紙を卓に置いた。

 

「探索の付き添いは、私が受け持ちます。前に出るのは、私の役です。あなたは、ファミリアのことを」

 

「逆だろう。普通は」

 

「普通の家ではありませんので」

 

「なら、後ろで帰りを待つのが、私の役か」

 

「待つのは、ヘスティア様の役です」

 

 リューは、きっぱりと言った。

 

「あなたは、帰ってきた者の服を繕う役です。それと、新入りは最初の一週間、浴室当番です」

 

「……一週間」

 

「規則です。私も、そうでした」

 

「そんな規則、あったっけ?」

 

 ヘスティアが、首を傾げた。

 リューは、表情を変えなかった。

 

「今、作りました」

 

 一拍、静かになった。

 

 それから、アルフィアが、笑った。

 

 口元をゆるめる、いつもの笑い方ではなかった。肩が揺れ、息がこぼれ、声が出た。

 自分でも止め方が分からないらしく、片手で口を押さえて、まだ笑っていた。

 

 リューが、目を丸くした。

 この人の笑い声を、七年前も、この家に来てからも、一度も聞いたことがなかった。

 

 ヘスティアは、それを見ていた。

 つられて、自分の顔もゆるんだ。

 

 炉の女神は、卓の引き出しを開けた。

 角の擦り切れた帳面を取り出し、いちばん新しい頁を開く。

 「みんなの帰る時間」。

 その一番下に、筆で一行、書き足した。

 

 ──アルフィア。

 

「おかえり。……いや、ようこそ、かな」

 

 笑いの残る声で、女は答えた。

 

「どちらでもよい」

 

「じゃあ、両方だ」

 

 ヘスティアは、帳面を閉じた。

 

「うちの子に、なったんだからね」

 

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