ヘラからの返事は、一行だった。
『連れておいで』
ヘルメスは紙を明かりに透かし、裏返し、もう一度表に戻した。
何度見ても、文字は増えなかった。
「アスフィ。僕は手紙に、何を書いたんだったかな」
「消息、身体の状態、記憶の回復、深層での発見状況。それから、ヘラ様のご機嫌を伺う文を三行ほど」
「その三行への返事は」
「ありません」
アスフィは、紙の端を指で示した。
本文の脇に、小さな字で、街道と宿場の名が書き添えてある。
「少なくとも、道は合っています」
「そういう安心の仕方は、初めて聞いたよ」
手紙は、昔の連絡網をたどって戻ってきた。古い宿の主人が次の馬車に託し、その先の小さな
女神がそこに住んでいるのか、手紙の受け取りにだけ使っているのか。それすら分からないまま、会いに行く日だけが決まった。
*
出発は、記憶が戻ってから二週間後になった。
その二週間で、アルフィアはギルドの小部屋に三度呼ばれた。
シャクティが記録を取り、ウラノスの
女は、一度も言葉を濁さなかった。言い訳もしなかった。
三度目の終わりに、シャクティは筆を置き、裁定はまだ先になると告げた。それまでは、都市の外へ出る前に必ず届けを出すこと。
「届けは出す」
その届けが、ひと騒ぎになった。
「ならん! 断じて、ならんッ!」
四度目の小部屋に、ギルド長のロイマンが飛び込んできた。
丸い身体を揺らし、額の汗を拭う暇もなく、卓に両手をつく。
「あのバケモノを、都市の外へ出すだと!? 街道で何かあってみろ、責任は誰が取る! ギルドだ! この私だ!」
「本人の前だ、ロイマン」
シャクティが、記録の筆を止めずに言った。
「本人の前だから言っておるのだ! レベル7だぞ! 【ヘラ・ファミリア】の生き残りだぞ! 七年前に都市で何をしたか、忘れたとは──」
アルフィアが、顔を上げた。
ロイマンの言葉が、喉の途中で止まった。
部屋の空気が、ひとつ冷えた気がした。
「……忘れたとは、言わせんぞ」
たどたどしい。
それでも最後まで言い切ったことだけは、ギルド長の名誉のために記しておく価値があった。
「出ると言ったのではない。届けを出すと言った」
「同じことだ!」
「違う。届けは、帰る者が出すものだ」
ロイマンが、次の言葉を探して口を開けた。
そのとき、部屋の隅に控えていた
「神ウラノスより、裁定までのあいだの外出について、ご返答です」
ロイマンが、紙をひったくる。
読んで、目を剥いた。もう一度読んで、肩を落とした。
シャクティが、横から読み上げた。
「『許可する。行き先と日数を届け出ること。それと、必ず戻ること』」
「……神ウラノスは、正気か」
「ギルド長」
「分かっておる! 分かっておるわ!」
ロイマンは、紙を卓に叩きつけた。
それから、急に声を落として、アルフィアの方を見ないまま言った。
「……戻らなかったら、今度こそ、私の首が飛ぶ」
「戻る」
女は、短く答えた。
「戻る場所がある」
ロイマンは、何か言い返そうとして、やめた。
*
出立の前日、フェルズが最後の検査結果を持ってきた。
魔術師は卓に布を広げ、黒い根の切れ端をその上に置いた。骨の指でつつくと、乾いた土のように崩れた。
「おまえを引き戻したのは、私の魔法だ。だが、病を消したのは、私の魔法ではない」
「氷の中で、既に変わっていた、と」
「回収した氷を割って調べた。殻は、一度に固まったものではない。内側から、何度も作り直されている。木の年輪のように、層が重なっていた。……おまえの身体にも、同じ跡がある」
アルフィアは、崩れた根に伸ばしかけた指を、途中で止めた。
自分が眠っていた七年の間、深い場所の何かが、この身体に手を入れ続けていた。
「治療ではないな」
「恐らくは、取り込むための干渉だ。おまえの魔力が欲しかったのだろう。生死の境を氷で留め、邪魔なところを作り替えようとした。だが、取り込みきれなかった」
アルフィアは、自分の内側へ意識を向けた。
【
「食えない餌を、捨てもしなかったわけか」
「病の異常が直ったのは、その綱引きの中でのことだろう。……断っておくが、ここからは私の推測だ。おまえの身体が特別だったこと。干渉が長く続いたこと。どちらか一つでも欠けていれば、同じ結果にはならなかったと思う」
女は、しばらく崩れた根を見ていた。
「……あれにも、使えたか」
誰のことか、フェルズは聞かなかった。
「分からない。だが、誰かをあそこへ入れれば治る、とは──決して言えない」
アルフィアは何も言わずに布の端をつまみ、根を包み直した。
それをフェルズの方へ押しやってから、窓の外に目を向けた。
庭では、
*
ある日の【ヘラ・ファミリア】。
神が
窓の外から、歓声が聞こえていた。
レベル7。今日、都市じゅうがその名を呼んでいる。誰よりも速く、誰よりも強く、誰よりも口の悪い姉の名を。
『もう一回、読んで』
寝台の上で、娘が言った。
背を出したまま、枕に頬をつけている。姉と同じ灰色の髪が、敷布の上に広がっていた。片手は、毛布の下で、少しふくらんだ腹に添えられている。
『読んだわ。三度』
『四度目を』
『アルフィアの更新のほうが、よほど手間がかからなかったわ』
『だって、アルのは数字が増えるだけでしょう。わたしのは、読むところがあるもの』
女神は、ため息をついた。
それから、娘の背に指を戻した。
レベル2。
ひと月前に、やっと昇格した。寝台の上で過ごす日のほうが多い娘が、それでも動ける日には、デメテルの畑で土をいじり続けた。少しでも身体がよくなればと、鍬を握った。その積み重ねが、一度だけ、自分の限界を越えさせた。
爪の先には、まだ、畑の土が残っている。
その下に、昇格と同時に芽吹いた一行が、不釣り合いに並んでいた。
『【
読み上げてから、女神は指を止めた。
『神の定めに、逆らうスキルよ。死んだ者の
『すごいでしょう』
『それに、使い道のないスキルね』
女神の声は、冷ややかだった。
『枷を取り除くのは、宿主が死ぬとき。取り除いたところで、その子はもう死んでいる。死人の病を治して、何になるの』
『だから、アルが死にきる前に、誰かが止めてくれたらいいの』
娘は、枕に頬をつけたまま、軽く言った。
『止まっているあいだに、わたしが、アルの病を全部持っていく』
『止める者が、いなかったら』
『いるよ。アルは、ああ見えて、放っておかれない人だから』
ヘラは、答えなかった。
代わりに、毛布の上から、娘の腹に目を落とした。
『……あなた自身の病は、どうするの』
『わたしのは、いいの』
『いいはずがないでしょう。その身体で産めば──』
『分かってる』
娘は、毛布の下の手を、そっと動かした。
なだめるように。あるいは、まだ見ぬ誰かに、挨拶するように。
『そうなるなら、そうなればいい。わたしは、この子を産む。それで、アルの分は、あとから持っていく。それで、いいの』
女神は、しばらく娘の横顔を見ていた。
『……その胸、いずれ剣で貫かれるわよ』
『知ってる』
『あの男を選んだ時点で、男を見る目はないと思っていたけれど』
『ひどい』
『神の定めにまで逆らうなんて。わたくしの子のくせに』
『アルの妹だもの』
娘は、笑った。
咳が一つ、その笑いを途中で切った。
『このことは、誰にも言わないで。……アルには、特に』
『言ったら?』
『アルは、わたしを助けるために、自分の命を先に使いきろうとするから』
『
女神は、娘の背から指を離した。
浮かんでいた文字が、ゆっくりと沈んでいく。
『……でも、いいわ。わたくしだけが、知っていてあげる』
『ありがとう、ヘラ』
『礼を言われることではないわ』
ヘラは、毛布を娘の肩まで引き上げた。
『あなたは、わたくしの子の中で、いちばん我儘ね』
『アルの次に、ね』
女神は、今度は笑った。
窓の外では、まだ姉の名を呼ぶ声が続いていた。窓辺には、デメテルの畑から娘が摘んできた白い花が一輪、挿してあった。
*
同行するのは、ヘルメスとアスフィ、それにベルだった。
ベルを行かせると決めたのは、主神だった。
「ベルくんが会いたいなら、行かせる」
ヘスティアは、食卓の上座でそう言い切った。リリが、家を空ける人数と日数を指を折って数え上げても、その結論は揺るがなかった。
「その代わり、帰る日は帰りの書付に書いていくこと。全員だよ。それと──」
女神は、封をした手紙をアルフィアに差し出した。
「これを、ヘラに。神から神への手紙だ。君は、読まないこと」
「読まん」
「封の上から透かすのも、なしだからね」
アルフィアの指が、ほんのわずかに止まった。
ヘスティアは見なかったことにして、ベルの方を向いた。
「ベルくんは、何を聞きたい?」
「……母のことを知っている神様に、会ってみたいです。何を聞けばいいのかは、まだ分からないけど」
「分からないなら、それでいい。会えば、分かることもあるさ」
出発の朝、アルフィアは玄関でベルの荷をほどかせた。
「街道を歩くんだ。新しい靴を、その日に下ろすな」
「履き慣れたものです!」
「水は」
「あります!」
「食事を抜くな」
「抜きません!」
ヘルメスは門の外で帽子を目深にかぶり、聞こえないふりをした。
英雄の運命を背負う少年が、旅立ちの朝にここまで細かく点検される物語を、彼はまだ一度も語ったことがなかった。
アスフィが、主神の背中を押して歩かせた。
*
街道の旅は、三日かかった。
ベルは宿場に着くたび、宿の主人から土地の話を聞きたがった。アルフィアはその間に、少年の靴擦れを確かめ、布を巻き直した。
ヘルメスは、目的の場所に近づくほど口数が減っていった。
「ヘルメス様。ヘラ様と、何かあったんですか?」
二日目の夜、ベルが尋ねた。
神は、宿の暖炉に手をかざしたまま笑った。
「何もないよ。……僕が昔、ゼウスの使い走りだったこと以外はね」
「昔……?」
アスフィが、薪を一本足した。
*
指定された家は、街道を外れた丘の陰にあった。
白い壁の、小さな家だった。庭には、手入れの行き届いた薬草が並んでいる。祠は隣にあったが、家の中に祭壇らしいものは見えなかった。
戸を叩く前に、内側から声がした。
「遅い」
アルフィアは、扉に手を置いた。
「手紙にあった刻限には、まだ早い」
「刻限の話ではないわ」
女は、そこで初めて言い返さなかった。
扉が開いた。
ヘラは、土のついた前掛けをしていた。
袖をまくり、髪を簡単に結い上げている。宝石の一つも身につけていない。それなのに、彼女が戸口に立っただけで、小さな家が玉座の間のように見えた。
女神の目が、まず、伝令の神に向いた。
「伝令の坊や。あなたは庭で待ちなさい」
「ええと、女神ヘラ。僕はその、案内役として──」
「庭で」
ヘルメスは帽子を胸に当て、言われたとおり庭へ下がった。
アスフィは一礼し、主神の後を追おうとした。
その背中へ、女神の声が追いついた。
「あの男は、元気?」
「ええと……相変わらず、です」
「そう。相変わらず、ね」
ヘラは、庭の薬草に目を落とした。
「相変わらずなら、まだこっちにいるのね。運のいいこと」
ヘルメスは返事をしなかった。
足元の薬草に、葉の形の違う草が何本か混じっていることにも、気づかないふりをした。
「あなたは入りなさい。坊やの見張りなら、窓からでもできるでしょう」
「……失礼いたします」
アスフィは主神を一度だけ振り返り、敷居をまたいだ。
アルフィアだけが、まだ戸口に立っていた。
「戻った」
女神の視線が、灰と翠の目から頬へ下り、喉のところで止まった。
それから、何かを聞き取ろうとするように、黙った。
風が、庭の薬草を揺らした。
その音のほかには、何も聞こえなかった。
「……咳を、しないのね」
それが、最初の言葉だった。
「しない」
ヘラの手が、上がった。
頬を打つのか、抱き寄せるのか。庭のヘルメスにも、戸口のベルにも分からなかった。
その手は、結局、女の顎にかかった。
土のついた指が、ほんの少しだけ、顔を上へ向けさせる。
「遅すぎるわ」
アルフィアは、今度も言い返さなかった。
*
家の中は狭く、よく片づいていた。
卓が一つに、椅子が四脚。棚には、揃いでない茶器が、数えるほどしか並んでいない。
ヘラは、ベルの前に立った。
「ベル・クラネルです! あの、お会いできて──」
「知っているわ」
女神は、名乗りの終わりを待たなかった。
土を払った指が、白い髪に触れる。こめかみをたどり、頬の線をなぞる。
目元まで来たところで、その指が止まった。
「……その目は、別ね」
ベルは、何と答えればいいのか分からなかった。
女神の指が、頬から離れた。
「……あなた、女の子に、囲まれているでしょう」
「えっ!? い、いえ、家族に多いだけで」
ヘラは少年ではなく、隣の女を見た。
「数えたの?」
「数えるのは、やめた」
「賢明ね。数えると、殺したくなるもの」
ベルは、聞き間違いだと思うことにした。
ヘラは答えを待たず、椅子を引いた。
「座りなさい。立たせたままでは、何も出せないわ」
アルフィアが、懐から封書を取り出した。
「炉の女神からだ」
ヘラは封を切り、立ったまま読んだ。
──ヘラへ。久しぶり!
君の大事な子を、うちで預かってるよ。ご飯はちゃんと食べてる。食べさせすぎだって、ほかの子に怒られるくらい。
この子を返すかどうかは、本人に決めさせてね。それと、僕の子にも会ってやって。いい子だよ。
P.S この子がうちに来たいって言ったら、許してあげてね。
ヘスティア。
読み終えても、女神はしばらく紙から目を上げなかった。
「……相変わらずね、姉様は」
天界で、誰の妻にもならず、誰にも膝を折らず、炉の火だけを守り続けた姉。
誓いを一度も破ったことのない神を、婚姻の女神は軽んじない。それが、たとえ文末に大きな丸をつける神でも。
ヘラは手紙を丁寧に畳み、前掛けの内側にしまった。
ヘラの器とは別に、棚から茶器が二つ下ろされた。
どちらも古い。片方の縁が、小さく欠けている。
アルフィアの手が、膝の上で止まった。
「……まだ、あったのか」
「捨てる理由がなかったわ」
ヘラは、欠けた方をベルの前に置いた。
「あの子のよ。欠けたところに、唇を当てないようにお飲みなさい」
ベルは、両手で器を包んだ。
思っていたより、ずっと軽かった。
「あの……母は、どんな人でしたか」
聞いてから、言葉が足りないと思った。けれど、それ以上の聞き方を、ベルは知らなかった。
ヘラは自分の器に茶を注ぎながら、答えた。
「身体の弱い子だったわ。一日の半分は、寝台の上。そのくせ、よく笑って、よく食べて、よく人をからかった」
女神の目が、ちらりとアルフィアを見た。
「わたくしの所で、これに言うことを聞かせられたのは、あの子だけよ」
「聞いたつもりはない」
「聞いていたわ。毎回」
「男の見方も、教えたはずよ」
アルフィアは、器を置かずに答えた。
「約束を軽く口にする男は、信じるな」
「それから」
「誓いを破った男に、二度目を許すな」
「違うわ」
ヘラは、静かに茶を注ぎ足した。
「二度目は、来ないの。一度目で終わるから」
ベルの器の中で、茶が小さく揺れた。
アルフィアは、黙って茶を飲んだ。
ベルは、欠けたところを避けて、器に口をつけた。
少し苦くて、あとからほんのり甘い茶だった。母はこの器で、何を飲んでいたのだろう。どんな顔で、この人たちと言い合っていたのだろう。
答えは、出なかった。
それでも、聞いてよかった、とベルは思った。
*
同席したのは、アルフィアとヘラだけだった。
背に女神の指が触れると、長く伏せられていた
ヘラは、すぐには更新に進まなかった。最後に自分が刻んだ数値と、そこに残された名を、一行ずつ指でなぞっていく。
「
「知っている」
「おまえが知っていることと、わたくしが確かめることを、一緒にしないで」
女は、黙った。
この女神の前でだけは、黙ることを知っていた。
指が、ある名のところで止まった。
「【
病を起点に働いていた力だった。病が消えれば、動き出すきっかけもない。限界を外していた働きも、それと一緒に眠っている。
生まれ持った才能や、積み重ねた技、ほかの発展アビリティは、そっくり残っていた。病とは別のところに、根を張っていたものだ。
「都合よく、祝福だけもらって帰ってきたとは、言わないわけね」
「言わない」
「よろしい」
女神は、さらに奥を読み進めた。
氷の中で溜め込まれた魔力は、
だが、この背には、それより前に刻まれたものが残っていた。
黒竜の前に立った日。
敗れても生き延び、削れていく身体を引きずって戦い続けた年月。
そして、最後の正式な更新のあと、十八階層で、自分のすべてを使い切った戦い。
「
ヘラの指が、背の中ほどで止まった。
「……器は、満ちている」
アルフィアは、目を閉じた。
「
女神の声が、少しだけ低くなった。
「そして、わたくしの所へは、帰らなかった」
アルフィアは、否定しなかった。
あのときは、帰るつもりがなかった。未来のために死ぬと決めた者が、次の階位をもらいに戻るはずがない。
ヘラの指が、背にぐっと押し当てられた。
「今度は、持って帰りなさい」
*
レベル8。
文字が書き換わったとき、女は目を開いた。
身体の奥の、力の通り道に、もう一枚、厚い底板が敷かれたような感覚があった。指を握って、開く。卓の灯りの炎は、揺れもしなかった。
帰ると決めたのは、この力を得るより前だ。
ヘラは写しを取り、本人に渡した。
「慣れるまでは、細かいものを壊すわよ」
「分かっている」
「分かっていても、壊すの。おまえは、そういう子だったわ」
写しを畳もうとした指が、止まった。
そのためらいを見て、女神がわずかに口元をゆるめた。
「何を思い出したの?」
「……木を、傷めた」
「何の木?」
「風呂の」
女神の笑みが、止まった。
アルフィアは、この女神に何かを説明するのが少し面白いと、初めて思った。
*
写しを畳み終えても、女神は奥の部屋から動かなかった。
アルフィアも、立たなかった。
「ヘスティアの家に、移る」
女は、それだけ言った。
「そう。分かったわ。姉様の手紙に、書いてあったもの」
ヘラは、卓の上の小瓶を取った。
とうに用意してあったらしい。中で、
「これを、姉様に渡しなさい。わたくしの血がなければ、おまえの背の封は開かない」
「……用意が早い」
「早くないわ。遅いくらいよ」
女神は、小瓶を差し出した。
差し出したまま、指を離さなかった。
「姉様なら、いいわ。あの方は、誓いを一度も破ったことがない。わたくしの子を預けて、恥ずかしくない神は、天界にも数えるほどしかいない」
「なら、離せ」
「離すわよ」
離さなかった。
「……ほかの神だったら、殺していたわ」
「知っている」
「ゼウスの家なら、なおさら」
「知っている」
「それと、向こうで食事を抜いたら許さない。咳をしたら、すぐに手紙を寄越しなさい。あの子の家の者に、迷惑をかけないこと。それから──」
「ヘラ」
女神の口が、止まった。
アルフィアは、その手を見ていた。
土のついた指が、小瓶を握ったまま、白くなっている。
リューの顔が、ふと浮かんだ。
『送り出してくださいました』と、あの娘は言った。
女は、自分の手を、女神の手に重ねた。
力は、入れなかった。
「……世話になった」
ヘラの指から、ゆっくりと力が抜けた。
小瓶が、女の掌に落ちる。
「礼を言われることでは、ないわ」
女神は、顔を背けた。
「早く行きなさい。坊やが、庭で干からびているわよ」
*
出立のとき、ヘラはベルに包みを持たせた。
油紙にくるんだ焼き菓子だった。道中でも傷まないよう、日持ちのするものばかりが詰めてある。
「道中で食べなさい。半分は、姉様に。……わたくしからだとは、言わなくていいわ」
「はい! 必ず渡します!」
ベルは包みを抱えたまま、一度だけ棚の方を見た。
洗われた二つの茶器が、元の場所に、並べて伏せてあった。欠けた方が、少しだけ手前に。
女神は、最後にアルフィアを見た。
「次は、手紙より先に来なさい」
「善処する」
「……来るのよ」
アルフィアは、今度は頷いた。
丘を下りきったところで、女は一度だけ振り返った。
白い家の戸口に、土のついた前掛けの女神が、まだ立っていた。
扉は、開いたままだった。
*
帰宅した夜、ヘスティアの部屋に、灯りが一つともった。
アルフィアは、寝台の端に腰を下ろし、背を出していた。
卓の上には、ヘラから預かった小瓶がある。
「……いいんだね」
「何度も聞くな」
「主神は、何度でも聞くものなんだよ」
ヘスティアは、小瓶の封を切った。
一滴を、女の背に落とす。長く伏せられていた
それから、自分の指先に針を当てた。
炉の女神の血が、新しい文字を刻んでいく。
途中で、指が一度だけ止まった。
【
その文字の奥で、何かが、寝息のように光った気がした。
気のせいだと、炉の女神は思った。
「……終わったよ」
アルフィアは、服を戻した。
背中に手を当てることはしなかった。確かめなくても、分かっていた。
戸が、控えめに叩かれた。
「失礼します」
リューだった。手に、一枚の紙を持っている。
「当番表です。今日から、改めて組み直しました」
「ずいぶん早いな」
「先輩ですので」
リューは、紙を卓に置いた。
「探索の付き添いは、私が受け持ちます。前に出るのは、私の役です。あなたは、ファミリアのことを」
「逆だろう。普通は」
「普通の家ではありませんので」
「なら、後ろで帰りを待つのが、私の役か」
「待つのは、ヘスティア様の役です」
リューは、きっぱりと言った。
「あなたは、帰ってきた者の服を繕う役です。それと、新入りは最初の一週間、浴室当番です」
「……一週間」
「規則です。私も、そうでした」
「そんな規則、あったっけ?」
ヘスティアが、首を傾げた。
リューは、表情を変えなかった。
「今、作りました」
一拍、静かになった。
それから、アルフィアが、笑った。
口元をゆるめる、いつもの笑い方ではなかった。肩が揺れ、息がこぼれ、声が出た。
自分でも止め方が分からないらしく、片手で口を押さえて、まだ笑っていた。
リューが、目を丸くした。
この人の笑い声を、七年前も、この家に来てからも、一度も聞いたことがなかった。
ヘスティアは、それを見ていた。
つられて、自分の顔もゆるんだ。
炉の女神は、卓の引き出しを開けた。
角の擦り切れた帳面を取り出し、いちばん新しい頁を開く。
「みんなの帰る時間」。
その一番下に、筆で一行、書き足した。
──アルフィア。
「おかえり。……いや、ようこそ、かな」
笑いの残る声で、女は答えた。
「どちらでもよい」
「じゃあ、両方だ」
ヘスティアは、帳面を閉じた。
「うちの子に、なったんだからね」