レベル8になった女が最初に壊したのは、洗濯籠の取っ手だった。
持ち上げた拍子に、ぽきりと折れた。その向こうで、アルフィアの作った帰りの書付はまだ真新しかった。
女はしばらく、手に残った短い木を見ていた。
「こちらを持てば、まだ運べます!」
「新しくする」
「ヴェルフ様に、継いでいただけます! あまり物を増やしますと、今度は仕舞う場所が──」
アルフィアは折れた取っ手を籠に戻し、何も言わずに底を抱えた。
その様子を、リリが戸口から見ていた。
人の域を一つ越えるほどの
世の中には、レベルを上げても解決しないことがあるらしい。
「次の籠は、少し頑丈なものにしましょう」
リリが言うと、
アルフィアは、それが自分への配慮だと分かっていながら、何も言わなかった。
借りを返そうとするたびに、別の借りが増える家だった。
*
ギルドへ提出する更新の写しは、ヘルメスが届けた。
受け取った職員は、レベルの欄を見てから、書類の一番上に目を戻した。名前を読み直す。もう一度、数字を見る。
その一連の動きを、神は止めなかった。
自分も、同じことをしたからだ。
死者の名簿にあった女が帰ってきて、都市の最上位に並び直し、さらにその上へ進んだ。
もっとも、あの鐘を見た者の多くにとっては、数字の方が遅れてやってきた、という感覚だろう。
「二つ名の審議も、必要になりますね」
職員の声は、いつもより丁寧だった。
ヘルメスは頷き、帽子をかぶり直した。
「そうだね。とても、必要だ」
できれば議題から逃げたかった。だが、神々の手続きは、その手の希望を聞いてはくれない。
*
リヴェリアが茶を出されたとき、レフィーヤはまだ戸口で靴を揃えていた。
アルフィアは、以前と同じ向きに茶器を置く。湯の温度も、葉の香りも、変わらない。
リヴェリアは礼を言い、弟子が入ってくるのを待った。
「七年前も、そうしたな」
茶を注ぎ足しながら、女が言った。
「ガレスに目をやって、詠唱を一拍遅らせた。私から目を離して、助けに入れると、なぜ思った」
茶器を持つ指に、かつて杖を叩き落とされた感触が戻ってきた。
今、その手に茶を渡した指が、あのときの遅れを覚えている。
「彼を見捨てて、おまえに勝てたとも思えん」
「勝てん。だが、負けるまでの手数は増やせた」
アルフィアは、それだけ言って盆を引いた。
リヴェリアは茶器を置かず、入ってきたレフィーヤに、自分の隣を示した。
廊下でベルの声がしたとき、エルフの娘の鼓動が、小さく一つ跳ねた。本人は、気づいていない顔をしていた。アルフィアは、何も言わなかった。
「今日は、私も指導を見せてもらう」
「弟子が心配か」
「その責任がある。教え方について、意見も言わせてもらおう」
「言ってみろ」
リヴェリアは、茶を飲んだ。
記憶を失っていた頃の礼儀正しさを、今の女の免罪符にはできない。かといって、七年前の手を恐れて、弟子が何を学ぶのかから目を逸らすわけにもいかなかった。
空になった茶器は、自分の手で卓に戻した。
*
フェルズは、帰ってきた女に検査の続きを頼んだ。
身体を作り替えたものが、まだ残っていないか。それが、日を追って変わっていないか。
アルフィアは面倒そうな顔をしたが、断らなかった。
「黒い根を、もう少し深いところで見つけた。古い縦穴の下の端から、氷室の外縁へ伸びていた跡だ」
魔術師が報告する。
十八階層へ開いた穴の下には、深いところから炎の届く筋があった。そこで何かに拾われたのなら、さらに下へ運ばれた見込みはある。
確かなのは、女の黒衣に残った焼け跡が、氷の一番古い層に封じ込められていたことだった。
焼けたあとに、凍った。
焼けきる前に、止めたものがいた。
「おまえを残したのが善意だったとは、最後まで思えない」
フェルズが言った。
「構わん。こちらにも、善意を返す相手として数える気はない」
アルフィアは、淡々と答えた。
深層で彼女を閉じ込めたものは、既にベルたちに討たれたという。そこに、自分が感謝を付け足す必要もない。
ただ、その結果として、この身体が残った。
受け取ったものを、誰が何のために使うかは、自分が決める。
「氷の中で溜め込まれた分は、無尽蔵ではないぞ」
「分かっている」
「だが、その圧に耐えるように変わった身体は、失われていない。おまえ自身が生み出す魔力を、以前より広く受け止められる。それは、溜めた分を使い切ることとは別の話だ」
アルフィアは、手を差し出した。
指の上に薄い光を作り、消す。もう一度、作る。
病の代わりに、都合よく働く新しいスキルが生まれたわけではない。自分の才能と、戻った身体と、変わってしまった魔力の通り道。それらを使うために、覚え直すところがある。
覚える速さだけは、昔と変わらなかった。
「……身体が、思ったとおりに動く」
呟いてから、その贅沢を噛みしめた。
魔術師は、口を挟まなかった。
*
ベルとの訓練は、帰ってきた翌朝から始まった。
その朝、先に訪ねてきたのはレオンだった。
アルフィアが台所から出てくると、騎士は椅子から立ち、正面を向いた。以前は勝手に戸口の方を向いた足を、今日は自分で揃えていた。
「新しい身体の使い方も、もう覚えられましたか」
「何が言いたい」
「そのレベル8を、私に試させていただきたい」
「断る」
笑顔を崩さないまま、レオンは理由を待った。
「ベルの朝食を用意する」
続くはずの言葉は、なかった。
台所から、鍋の蓋を持ち上げる音がした。
「……なるほど」
「日を決めて来い。その日は空けておく」
アルフィアは、騎士の腰に目をやった。
「もう、丘を斬れとは言わん。今のおまえが何を斬れるのかは、見ておきたい」
レオンの手が、剣帯に触れた。
「では、約束を。私の生徒たちにも、その場を見せたい」
「教師の体面までは、守ってやらんぞ」
「そのつもりで、参ります」
門を出た騎士は、自分がその約束を待ち遠しく思っていることに気づいた。
ベルの朝食に負けた件は、生徒に話さなくてもいいだろう。
朝食の支度を済ませると、アルフィアはベルを庭に呼んだ。
女は、剣を持たなかった。
足元に線を一本引き、その片側に立つ。
「この線から、私の足を出させろ」
ベルは、短剣を構えた。
手加減すれば叱られることは、もう分かっている。最初から、自分の出せる速さで踏み込んだ。
刃が、曲がったように見えた。
実際には、手首に触れられていた。
気づくより早く身体が回り、ベルは膝から地面に落ちる寸前で、肩を支えられた。
倒されなかったことの方が、倒されることより悔しかった。
「今、足より先に肩が動いた」
アルフィアが言った。
「見える相手には、そこで終わる」
ベルは頷き、構え直した。
次は、肩を残す。足だけを踏み込ませると、今度は脇が開いた。
女の指が、そこに軽く触れる。
同じ線の上に、彼女の足があった。
一度も、出ていない。
「……もう一度!」
ベルの声に、女は口元を上げた。
手を差し伸べて守るときより、ずっと彼女らしい顔だった。
「来い」
*
庭にオッタルが現れたのは、訓練が終わってからだった。
彼は女の顔を見て、短く頷いた。
「確かめたかった」
「生きているかをか。数字をか」
「両方だ」
アルフィアは、不満なく受け取った。
強い者が、他人の強さを自分で測りたいと思うのは、筋の通った望みだ。
「今日は、やらん」
「なぜだ」
「洗濯物を取り込む時刻だ」
オッタルは、女を見た。
女も、オッタルを見た。
余計な説明は、どちらからもなかった。
庭の端で、
しばらくして、
「では、次の機会に」
「取っておけ。おまえにも、足りないところはある」
それを聞いて、オッタルは初めて、わずかに満足した顔をした。
強くなるための相手が、帰ってきた。
そして、その相手には、強くなることより先に済ませる用事がある。
そのどちらも、かつて彼が知っていた女から、遠くはなかった。
*
午後、ヘルメスが広げた探索計画には、リリの書き込みがあった。
数日後に、いくつかの派閥で行う探索である。未知の深さを目指すのではない。救出のときに組んだ連携を、互いに確かめ直すためのものだった。
リヴェリアも加わり、回復中の者を参加させる条件と、各隊が引き返す基準を詰めていた。
「この区間では、ベルくんたちに先行を頼みたい。ただし、この目印を越える前に──」
「分かった。私も行く」
アルフィアが言った。
「本当ですかッ!?」
真っ先に食いついたのは、リリだった。
「レベル8のアルフィア様がご一緒くださるなら、これ以上の戦力はありませんッ! 危険への対処も、撤退の支援も、これほど心強いことは!」
リリの指が、地図の上を走る。
「それなら、こちらの経路も検討できますね。いえ、そもそもアルフィア様に後衛をお願いできれば──」
「リリ」
ベルが、そっと声をかけた。
「今回は、僕たちの連携を確かめ直すための探索だから」
「……あ」
「アルフィアさんと一緒に戦えたら、僕も心強いよ。でも今回は、みんなでどこまでできるか、ちゃんと確かめたいんだ」
リリは、口を閉じた。
何を確かめに行くのかを、真っ先に計画書へ書いたのは、自分だった。
「……ベル様の、おっしゃるとおりです」
それでも、少し名残惜しそうに地図を見る。
「ですが、アルフィア様との連携訓練は、ぜひ別の機会にお願いしたいです!」
「うん。僕も、そう思ってる」
ベルは、アルフィアに向き直った。
「アルフィアさん。そのときは、ぜひお願いします」
女は、少年を見た。
「……私を、訓練の相手に使うつもりか」
「はい!」
迷いのない返事だった。
アルフィアは、しばらく黙っていた。
「随分と、欲張りな息子だな」
言ってから、女は自分の口を確かめるように、少しだけ黙った。
叱るような声だった。けれど、その口元はわずかにゆるんでいた。
「……ならば、行け」
アルフィアは、地図から手を離した。
「帰着の知らせは、私にも寄越せ」
「その前に僕だよ。主神だからね」
「同時でよい」
「どちらにも届く伝令先を、こちらに書いておきます」
ヘルメスは、新しい欄を作った。
アルフィアの指が、最後に携行品の一覧で止まる。
「この重さなら、紐をあと一本足せる」
「予算と用途を、確認してからです」
リリは、もう筆を置かなかった。
*
その夜、ヘスティアは自分の席で食事をした。
隣にベルがいる。少し離れて、アルフィアがいる。
前と同じ席順で、前とは違う食卓だった。
「明日の帰りは、いつだ」
女が、ベルに聞く。
「昼過ぎには、戻る予定です! アイズさんたちと、合同の!」
「分かった。食事は残しておく」
止めなかった。
ヘスティアは、そのことを確かめてから、汁を飲んだ。
いつかまた、止めようとする日も来るだろう。そのときは、自分が口を挟む。
あの子が、自分で選んだことだと。
この女と、一緒に食卓を守ることはできる。だからといって、同じ考え方にならなくてもいい。
「アルフィアくん。塩、取って」
わざと、いつもの調子で頼む。
女は、小さな容器を滑らせた。
音は、やはりしなかった。
「……そこは、変わらないんだね」
「変える理由がない」
アルフィアは答えた。
それから、笑っている少年の横顔を見た。
健康な身体で迎える明日にも、足りないものはある。妹はいない。自分のしたことは、戻らない。あの子が傷つく日を、全部なくせるわけでもない。
だが、帰ってきたときに食べるものなら、作れる。
その程度のことを、今の彼女は、小さいとは思わなかった。
小さくないからこそ、彼女がそれを守ろうとすると、周りは少し困る。
「ベル、明日の朝は、私が見る」
「訓練ですか?」
「靴だ。今日、右の
ヴェルフが吹き出し、リリが帰りの書付を開く。
少年は、困ったように笑った。
アルフィアだけが、大真面目に、明日の最初の用事を決めていた。
翌朝、直された靴の隣に、探索用の荷が並んでいた。
買い足した物にはリリの承認があり、薬の本数も、決めた分を越えていない。細かな荷は重さを揃えて分けられ、包みの外から中身が分かるようになっていた。
繕い針と紐の包みには、濡れないように覆いまで掛けてある。
「出発は、まだ先ですけど……」
「背負え。重さが偏っていれば、詰め直す」
ベルが荷を背負うと、アルフィアはその左右の高さを確かめた。
リリが実際の重さを書き込み、誰が何を持つかを割り振り直す。
「次から、この分け方もお願いします」
「次には、直すところが増えているだろう」
女はそう言って、包みの一つを開いた。
その向こうで、ヘルメスが欄を書き足した帰りの書付が、朝の風に揺れていた。