灰髪の魔女   作:彪(あや)

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第十三章 帰るための強さ

 

 レベル8になった女が最初に壊したのは、洗濯籠の取っ手だった。

 持ち上げた拍子に、ぽきりと折れた。その向こうで、アルフィアの作った帰りの書付はまだ真新しかった。

 

 女はしばらく、手に残った短い木を見ていた。

 春姫(はるひめ)が駆け寄り、籠の底に両手を添える。

 

「こちらを持てば、まだ運べます!」

 

「新しくする」

 

「ヴェルフ様に、継いでいただけます! あまり物を増やしますと、今度は仕舞う場所が──」

 

 アルフィアは折れた取っ手を籠に戻し、何も言わずに底を抱えた。

 その様子を、リリが戸口から見ていた。

 

 人の域を一つ越えるほどの昇格(ランクアップ)を終えて帰ってきた者が、収納場所について注意されている。

 世の中には、レベルを上げても解決しないことがあるらしい。

 

「次の籠は、少し頑丈なものにしましょう」

 

 リリが言うと、春姫(はるひめ)が頷いた。

 アルフィアは、それが自分への配慮だと分かっていながら、何も言わなかった。

 

 借りを返そうとするたびに、別の借りが増える家だった。

 

         *

 

 ギルドへ提出する更新の写しは、ヘルメスが届けた。

 受け取った職員は、レベルの欄を見てから、書類の一番上に目を戻した。名前を読み直す。もう一度、数字を見る。

 

 その一連の動きを、神は止めなかった。

 自分も、同じことをしたからだ。

 

 死者の名簿にあった女が帰ってきて、都市の最上位に並び直し、さらにその上へ進んだ。

 もっとも、あの鐘を見た者の多くにとっては、数字の方が遅れてやってきた、という感覚だろう。

 

「二つ名の審議も、必要になりますね」

 

 職員の声は、いつもより丁寧だった。

 ヘルメスは頷き、帽子をかぶり直した。

 

「そうだね。とても、必要だ」

 

 できれば議題から逃げたかった。だが、神々の手続きは、その手の希望を聞いてはくれない。

 

         *

 

 リヴェリアが茶を出されたとき、レフィーヤはまだ戸口で靴を揃えていた。

 アルフィアは、以前と同じ向きに茶器を置く。湯の温度も、葉の香りも、変わらない。

 リヴェリアは礼を言い、弟子が入ってくるのを待った。

 

「七年前も、そうしたな」

 

 茶を注ぎ足しながら、女が言った。

 

「ガレスに目をやって、詠唱を一拍遅らせた。私から目を離して、助けに入れると、なぜ思った」

 

 茶器を持つ指に、かつて杖を叩き落とされた感触が戻ってきた。

 今、その手に茶を渡した指が、あのときの遅れを覚えている。

 

「彼を見捨てて、おまえに勝てたとも思えん」

 

「勝てん。だが、負けるまでの手数は増やせた」

 

 アルフィアは、それだけ言って盆を引いた。

 リヴェリアは茶器を置かず、入ってきたレフィーヤに、自分の隣を示した。

 廊下でベルの声がしたとき、エルフの娘の鼓動が、小さく一つ跳ねた。本人は、気づいていない顔をしていた。アルフィアは、何も言わなかった。

 

「今日は、私も指導を見せてもらう」

 

「弟子が心配か」

 

「その責任がある。教え方について、意見も言わせてもらおう」

 

「言ってみろ」

 

 リヴェリアは、茶を飲んだ。

 記憶を失っていた頃の礼儀正しさを、今の女の免罪符にはできない。かといって、七年前の手を恐れて、弟子が何を学ぶのかから目を逸らすわけにもいかなかった。

 空になった茶器は、自分の手で卓に戻した。

 

         *

 

 フェルズは、帰ってきた女に検査の続きを頼んだ。

 身体を作り替えたものが、まだ残っていないか。それが、日を追って変わっていないか。

 

 アルフィアは面倒そうな顔をしたが、断らなかった。

 

「黒い根を、もう少し深いところで見つけた。古い縦穴の下の端から、氷室の外縁へ伸びていた跡だ」

 

 魔術師が報告する。

 十八階層へ開いた穴の下には、深いところから炎の届く筋があった。そこで何かに拾われたのなら、さらに下へ運ばれた見込みはある。

 

 確かなのは、女の黒衣に残った焼け跡が、氷の一番古い層に封じ込められていたことだった。

 焼けたあとに、凍った。

 焼けきる前に、止めたものがいた。

 

「おまえを残したのが善意だったとは、最後まで思えない」

 

 フェルズが言った。

 

「構わん。こちらにも、善意を返す相手として数える気はない」

 

 アルフィアは、淡々と答えた。

 深層で彼女を閉じ込めたものは、既にベルたちに討たれたという。そこに、自分が感謝を付け足す必要もない。

 

 ただ、その結果として、この身体が残った。

 受け取ったものを、誰が何のために使うかは、自分が決める。

 

「氷の中で溜め込まれた分は、無尽蔵ではないぞ」

 

「分かっている」

 

「だが、その圧に耐えるように変わった身体は、失われていない。おまえ自身が生み出す魔力を、以前より広く受け止められる。それは、溜めた分を使い切ることとは別の話だ」

 

 アルフィアは、手を差し出した。

 指の上に薄い光を作り、消す。もう一度、作る。

 

 病の代わりに、都合よく働く新しいスキルが生まれたわけではない。自分の才能と、戻った身体と、変わってしまった魔力の通り道。それらを使うために、覚え直すところがある。

 

 覚える速さだけは、昔と変わらなかった。

 

「……身体が、思ったとおりに動く」

 

 呟いてから、その贅沢を噛みしめた。

 魔術師は、口を挟まなかった。

 

         *

 

 ベルとの訓練は、帰ってきた翌朝から始まった。

 

 その朝、先に訪ねてきたのはレオンだった。

 アルフィアが台所から出てくると、騎士は椅子から立ち、正面を向いた。以前は勝手に戸口の方を向いた足を、今日は自分で揃えていた。

 

「新しい身体の使い方も、もう覚えられましたか」

 

「何が言いたい」

 

「そのレベル8を、私に試させていただきたい」

 

「断る」

 

 笑顔を崩さないまま、レオンは理由を待った。

 

「ベルの朝食を用意する」

 

 続くはずの言葉は、なかった。

 台所から、鍋の蓋を持ち上げる音がした。

 

「……なるほど」

 

「日を決めて来い。その日は空けておく」

 

 アルフィアは、騎士の腰に目をやった。

 

「もう、丘を斬れとは言わん。今のおまえが何を斬れるのかは、見ておきたい」

 

 レオンの手が、剣帯に触れた。

 

「では、約束を。私の生徒たちにも、その場を見せたい」

 

「教師の体面までは、守ってやらんぞ」

 

「そのつもりで、参ります」

 

 門を出た騎士は、自分がその約束を待ち遠しく思っていることに気づいた。

 ベルの朝食に負けた件は、生徒に話さなくてもいいだろう。

 

 朝食の支度を済ませると、アルフィアはベルを庭に呼んだ。

 女は、剣を持たなかった。

 足元に線を一本引き、その片側に立つ。

 

「この線から、私の足を出させろ」

 

 ベルは、短剣を構えた。

 手加減すれば叱られることは、もう分かっている。最初から、自分の出せる速さで踏み込んだ。

 

 刃が、曲がったように見えた。

 実際には、手首に触れられていた。

 気づくより早く身体が回り、ベルは膝から地面に落ちる寸前で、肩を支えられた。

 

 倒されなかったことの方が、倒されることより悔しかった。

 

「今、足より先に肩が動いた」

 

 アルフィアが言った。

 

「見える相手には、そこで終わる」

 

 ベルは頷き、構え直した。

 次は、肩を残す。足だけを踏み込ませると、今度は脇が開いた。

 

 女の指が、そこに軽く触れる。

 同じ線の上に、彼女の足があった。

 一度も、出ていない。

 

「……もう一度!」

 

 ベルの声に、女は口元を上げた。

 手を差し伸べて守るときより、ずっと彼女らしい顔だった。

 

「来い」

 

         *

 

 庭にオッタルが現れたのは、訓練が終わってからだった。

 彼は女の顔を見て、短く頷いた。

 

「確かめたかった」

 

「生きているかをか。数字をか」

 

「両方だ」

 

 アルフィアは、不満なく受け取った。

 強い者が、他人の強さを自分で測りたいと思うのは、筋の通った望みだ。

 

「今日は、やらん」

 

「なぜだ」

 

「洗濯物を取り込む時刻だ」

 

 オッタルは、女を見た。

 女も、オッタルを見た。

 余計な説明は、どちらからもなかった。

 

 庭の端で、春姫(はるひめ)が新しい籠を抱えて待っていた。

 

 しばらくして、猪人(ボアズ)が一歩引いた。

 

「では、次の機会に」

 

「取っておけ。おまえにも、足りないところはある」

 

 それを聞いて、オッタルは初めて、わずかに満足した顔をした。

 強くなるための相手が、帰ってきた。

 そして、その相手には、強くなることより先に済ませる用事がある。

 

 そのどちらも、かつて彼が知っていた女から、遠くはなかった。

 

         *

 

 午後、ヘルメスが広げた探索計画には、リリの書き込みがあった。

 数日後に、いくつかの派閥で行う探索である。未知の深さを目指すのではない。救出のときに組んだ連携を、互いに確かめ直すためのものだった。

 リヴェリアも加わり、回復中の者を参加させる条件と、各隊が引き返す基準を詰めていた。

 

「この区間では、ベルくんたちに先行を頼みたい。ただし、この目印を越える前に──」

 

「分かった。私も行く」

 

 アルフィアが言った。

 

「本当ですかッ!?」

 

 真っ先に食いついたのは、リリだった。

 

「レベル8のアルフィア様がご一緒くださるなら、これ以上の戦力はありませんッ! 危険への対処も、撤退の支援も、これほど心強いことは!」

 

 リリの指が、地図の上を走る。

 

「それなら、こちらの経路も検討できますね。いえ、そもそもアルフィア様に後衛をお願いできれば──」

 

「リリ」

 

 ベルが、そっと声をかけた。

 

「今回は、僕たちの連携を確かめ直すための探索だから」

 

「……あ」

 

「アルフィアさんと一緒に戦えたら、僕も心強いよ。でも今回は、みんなでどこまでできるか、ちゃんと確かめたいんだ」

 

 リリは、口を閉じた。

 何を確かめに行くのかを、真っ先に計画書へ書いたのは、自分だった。

 

「……ベル様の、おっしゃるとおりです」

 

 それでも、少し名残惜しそうに地図を見る。

 

「ですが、アルフィア様との連携訓練は、ぜひ別の機会にお願いしたいです!」

 

「うん。僕も、そう思ってる」

 

 ベルは、アルフィアに向き直った。

 

「アルフィアさん。そのときは、ぜひお願いします」

 

 女は、少年を見た。

 

「……私を、訓練の相手に使うつもりか」

 

「はい!」

 

 迷いのない返事だった。

 アルフィアは、しばらく黙っていた。

 

「随分と、欲張りな息子だな」

 

 言ってから、女は自分の口を確かめるように、少しだけ黙った。

 叱るような声だった。けれど、その口元はわずかにゆるんでいた。

 

「……ならば、行け」

 

 アルフィアは、地図から手を離した。

 

「帰着の知らせは、私にも寄越せ」

 

「その前に僕だよ。主神だからね」

 

「同時でよい」

 

「どちらにも届く伝令先を、こちらに書いておきます」

 

 ヘルメスは、新しい欄を作った。

 アルフィアの指が、最後に携行品の一覧で止まる。

 

「この重さなら、紐をあと一本足せる」

 

「予算と用途を、確認してからです」

 

 リリは、もう筆を置かなかった。

 

         *

 

 その夜、ヘスティアは自分の席で食事をした。

 隣にベルがいる。少し離れて、アルフィアがいる。

 前と同じ席順で、前とは違う食卓だった。

 

「明日の帰りは、いつだ」

 

 女が、ベルに聞く。

 

「昼過ぎには、戻る予定です! アイズさんたちと、合同の!」

 

「分かった。食事は残しておく」

 

 止めなかった。

 ヘスティアは、そのことを確かめてから、汁を飲んだ。

 

 いつかまた、止めようとする日も来るだろう。そのときは、自分が口を挟む。

 あの子が、自分で選んだことだと。

 

 この女と、一緒に食卓を守ることはできる。だからといって、同じ考え方にならなくてもいい。

 

「アルフィアくん。塩、取って」

 

 わざと、いつもの調子で頼む。

 女は、小さな容器を滑らせた。

 音は、やはりしなかった。

 

「……そこは、変わらないんだね」

 

「変える理由がない」

 

 アルフィアは答えた。

 それから、笑っている少年の横顔を見た。

 

 健康な身体で迎える明日にも、足りないものはある。妹はいない。自分のしたことは、戻らない。あの子が傷つく日を、全部なくせるわけでもない。

 

 だが、帰ってきたときに食べるものなら、作れる。

 その程度のことを、今の彼女は、小さいとは思わなかった。

 

 小さくないからこそ、彼女がそれを守ろうとすると、周りは少し困る。

 

「ベル、明日の朝は、私が見る」

 

「訓練ですか?」

 

「靴だ。今日、右の踵(かかと)が擦れていた」

 

 ヴェルフが吹き出し、リリが帰りの書付を開く。

 少年は、困ったように笑った。

 アルフィアだけが、大真面目に、明日の最初の用事を決めていた。

 

 翌朝、直された靴の隣に、探索用の荷が並んでいた。

 買い足した物にはリリの承認があり、薬の本数も、決めた分を越えていない。細かな荷は重さを揃えて分けられ、包みの外から中身が分かるようになっていた。

 繕い針と紐の包みには、濡れないように覆いまで掛けてある。

 

「出発は、まだ先ですけど……」

 

「背負え。重さが偏っていれば、詰め直す」

 

 ベルが荷を背負うと、アルフィアはその左右の高さを確かめた。

 リリが実際の重さを書き込み、誰が何を持つかを割り振り直す。

 

「次から、この分け方もお願いします」

 

「次には、直すところが増えているだろう」

 

 女はそう言って、包みの一つを開いた。

 その向こうで、ヘルメスが欄を書き足した帰りの書付が、朝の風に揺れていた。

 

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