灰髪の魔女   作:彪(あや)

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終章 その名で呼ぶもの

 

 ヘルメスは、二枚の紙を並べていた。

 一枚は、次の探索に向けた戦力と物資の書付。

 もう一枚は、帰宅予定と、夕食が要るかどうかの書付だった。

 

 重要度は、同じである。

 少なくとも、どちらかを省いてよい相手は、この家にはいなかった。

 

「……神々の仕事、増えたなあ」

 

 向かいで、ロキが呟いた。

 ヘスティアは、もう書き終えている。シルは、酒場の勤めの控えを一緒に出していた。

 

 ヘルメスは紙を揃え、卓の端に置いた。

 今日は、臨時の神会(デナトゥス)で決まったことを、本人に伝える日だった。

 

 レベル8。

 かつて都市を去った女が、かつての自分より上へ進んだ。その報告だけなら、英雄譚の語り手にとって喜ばしい。

 

 問題は、ここへ至るまでに、浴室と洗濯物と味付けの報告書を何枚も読まされたことだった。

 目の前の二枚の紙にしても、英雄の物語にそのまま書けば、聞く者は冗談だと思うだろう。

 

 ヘルメス自身、まだ時折、そう思いたくなる。

 

         *

 

 廊下から、アルフィアが入ってきた。

 盆を持っていた。

 

 メイド服ではない。黒い服に、ごく普通の前掛けを掛けている。

 灰色の髪は後ろで束ねられ、いつかベルが贈ったという翠の髪留めが、光を一粒、留めていた。

 

「冷める前に、飲め」

 

 茶器が置かれる。

 音は、しない。

 

 ヘルメスはそれを見るたびに、初めて茶を出されたレオンの話を思い出す。報告書には「普段と変わらぬ表情を維持」とあった。だが、余白にアスフィが描き添えた足の位置の図だけで、神には十分だった。

 

 女は茶を置き終え、彼の前の紙に目を落とした。

 

「この探索計画、本人には話したのか」

 

 来た、とヘルメスは思った。

 

「ええ。まだ案ですが、選ぶのに必要な情報は、伝えてあります」

 

「危ない箇所も」

 

「もちろん」

 

 アルフィアは、それで頷いた。

 口を出すな、とは言わない。探索をやめろ、とも言わない。

 

 ただし、少年の選択と、神々の用意した筋書きを、黙って重ねることは許さない。

 以前のヘルメスは、物語を遠くから眺めていられた。

 今は、その物語の主人公の伯母が、茶を注いだあとで計画書を読む。

 

 距離が、いささか近すぎた。

 

「それと、帰りが遅いときの食事ですが」

 

 神は、自分から話題を移した。

 女の指が、二枚目の紙を押さえる。

 

「それは、こちらに書け。危険度の欄とは別だ」

 

「ははは……分かっておりますとも」

 

 神は、自分の笑顔が自然かどうかも分からなかった。

 

         *

 

 二つ名の審議は、思いのほか短かった。

 ヘルメスは、その席にいた。

 

 普段なら、神々の趣味と悪意と愛情が、互いに邪魔をし合いながら名を作る。響きのいいものを誰かが出せば、別の誰かがもっと恥ずかしいものを出し、本人の苦情は次の宴の笑い話になる。

 

 今回は、最初に本人の希望が届いていた。

 女の書いた、短い紙片だった。

 添えられたヘラの確認書には、更新の事実と、改宗に異議のない旨、それから二つ名について「異議なし」の一語があった。

 

 それを見て、いつも真っ先に冗談を言う神が、椅子に座り直した。

 冗談まじりに別の候補を挙げる神は、いた。それを推して議論を続ける神は、いなかった。

 

 決められない沈黙と、決まってしまった沈黙は、似ていて違う。

 ヘルメスは後者の中で、紙を次へ回した。

 

         *

 

「《灰髪の魔女》。ご希望のとおり、承認されました」

 

 その決定書を、今、女に渡す。

 アルフィアは受け取り、記された文字と、その下の読みを確かめた。

 

 ヘルメスも、同じ読みを見ていた。

 

 昔の名簿を、彼は知っている。

 そこには、戦場の記録が何頁も続く姉と、ほとんど何も書かれていない妹がいた。

 

 レベルと到達階層だけで英雄を数えれば、妹の名は先に消えてしまう。

 けれど今、最も強い者の記録に、その空白は残されなかった。

 

 ヘルメスは、女の顔を見た。

 自慢する顔でも、説明を求める顔でもなかった。

 ただ、間違いがないことを確かめた顔だった。

 

「……呼び方には、ご希望が?」

 

 分かっていながら、手続きとして尋ねた。

 アルフィアは、紙を畳んだ。

 

「おまえらは、今までどおりでよい」

 

 ヘルメスにも、その読みを口に出すつもりはなかった。

 おそらく、それで正しい。

 

 ヘスティアが茶を飲み、ロキが髪を掻いた。シルは、少しだけ羨ましそうにも見える目で、女の指にある紙を見ていた。

 

 ヘルメスには、その羨ましさを笑えなかった。

 欲しいものを、一つも手放さないつもりの女だった。

 自分の生(これから)も。失った妹の名(あかし)も。あの少年が選ぶ未来に、関わる権利(わがまま)も。

 

 正しいかどうかだけで測れば、困るところはいくらでもある。

 それでも、この世のどこかに名を残したいという、限りある者の欲を、神は否定しなかった。

 

         *

 

 廊下で、若い者たちの声がした。

 レフィーヤが何かに抗議し、ベルが言い訳をしている。

 

 リューが静かにたしなめ、春姫(はるひめ)が台所から、手を貸してほしいと呼ぶ。

 その合間に、アイズの短い声があった。

 

「……明日も、来ていい?」

 

 返事をしたのは、アルフィアだった。

 

「許された範囲でだ。勝手に剣を振るなら、入れん」

 

 扉の向こうから、素直な返事が返ってきた。

 ロキが、小さく唸った。

 

「うちの子、あんたの言うことやと、よう聞くなあ……」

 

「分かるように言えば、分かる」

 

 女は、当然のように答えた。

 その理屈で自分のこれまでを振り返るつもりは、なさそうだった。

 

 ヘルメスは、茶を飲んだ。

 美味かった。

 腹立たしいくらいに、きちんとした茶だった。

 

         *

 

 やがて女は、空いた茶器を盆に集めはじめた。

 ヘルメスは、彼女の指から、自分の前の決定書へ目を移した。

 

 新しい二つ名は、もう記録(ものがたり)に入っている。いずれ紙の外へ出て、酒場の噂になり、子どもの読む物語にもなるだろう。

 

 灰色の髪の魔女が、若い娘たちに力を授ける。

 娘たちは、少年とともに地下迷宮(ダンジョン)へ挑む。

 まことに、よくできた筋書きだった。

 

 中庭で、豆を一粒ずつ移すのに息を詰める娘たちや、盆の上の杯を睨みつける美神を見ていなければ、何の疑いもなく語れただろう。

 

『──慈悲深い魔女の導きにより』

 

 口には出さない。彼女の前では、決して。

 いつか書くとしても、本人には見せない稿の、そのまた下書きの中だけだ。

 

 笑いをこらえた息が、鼻へ抜けた。女の目が向いた途端、喉が、きゅっと狭まった。

 

「……っ!?」

 

 ヘルメスは茶器を置いた。

 咽せた(むせた)のではない。

 そう気づいたのは、少し遅れてからだった。

 

 茶器を集める手が、止まっていた。

 

「余計な飾りをつけるな、ヘルメス」

 

 神は、自分の唇に触れた。

 一言も、出していない。

 だが、息までは隠せなかった。

 

 ロキが、横目で彼を見た。

 

「あんたもか」

 

 ヘスティアは、茶器を両手で包んだまま、何も言わなかった。

 シルも、目を伏せている。

 

 アルフィアは、それ以上、彼を見なかった。

 取っ手の向きを揃え、盆を持ち上げる。春姫(はるひめ)に呼ばれると、いつもの歩調で台所へ戻っていった。

 

 足音が廊下の角を曲がるまで、ヘルメスは茶器に手を伸ばさずにいた。

 湯が、冷めはじめている。茶の香りを吸い直し、椅子にゆっくりと背を預けた。

 向かいのロキも、ようやく片肘を戻す。

 

 これで、今日の用件は終わりだ。

「あとは、帰還を爺さんに知らせる便りか」

 

 詳しく書けば、あちらがどこへ逃げるか分からない。居所を探し直す仕事は、できれば増やしたくなかった。

 ひとまず、『元気』の二文字で──。

 

「端折るな。私が帰ったと書け」

 

 台所からだった。

 声に出したのは、便りのことだけだった。筆は、まだ卓の向こうにある。

 

「それから、あの爺が返事を寄越したら、宛先ごと持ってこい」

 

 ヘルメスは頷きかけ、扉が閉まっていることに気づいた。

 頷くのを、やめた。

 

「どこまで、聞こえているのかな?」

 

 代わりに、口で尋ねた。

 返事は、すぐに来た。

 

「おまえらが、静かになるまでだ」

 

 ヘルメスは、帽子を取った。

 企みを隠すためにかぶるには、どうにも薄すぎる品物だった。

 

         *

 

 台所で、器が一つ鳴った。

 春姫(はるひめ)の声がする。

 

「アルフィア様。今のは、少しだけ」

 

「分かっている。持ち直す」

 

 ヘルメスは、自分の耳を疑わなかった。

 もう、その段階は過ぎていた。

 

 ベルの笑い声が続く。女が、何か短く返す。

 その声を聞いてから、神はもう一度、決定書に目を落とした。

 

 英雄の名は、大きなことを成せば残る。

 それだけでは、語られぬ命もある。

 女は、それも持ち帰ったのだ。

 しかも、語り手に預けておくつもりは、ないらしかった。

 

         *

 

 ヘルメスは、決定書を静かに畳んだ。

 この名を語るとき、どこまでが本当なら許されるのか。それを今から考えるのは、やめておこう。

 

 代わりに、神は頭の中で、もう一度だけ筆を取った。

 今度は、飾りを一つもつけずに。本当にあったことだけを、順に並べてみる。

 

 昔、この都市に、二つの最強があった。

 神々の王の家と、神々の女王の家。英雄たちが大通りを歩けば、子どもたちはその背中を数えて育った。

 

 女王の家に、才能を持ちすぎた娘がいた。

 才能と引き換えに、病を抱えて生まれた娘だった。誰より速く技を覚え、そのぶん、誰より速く身体を削った。大きすぎる器を、一度も底まで使えないまま、戦い続けた。

 

 隣には、いつも双子の妹がいた。

 剣も魔法も持たず、寝台の上で、よく笑う妹だった。

 

 やがて、黒い竜の前で、英雄の時代が終わった。

 妹は、子を一人産んで、死んだ。

 

 姉は、その子が生きる明日のために、都市の敵になった。

 悪として立ち、悪として地の底へ消えた。それで、終わるはずだった。

 

 終わらなかった。

 

 七年、氷の底で眠った。

 目を覚ましたとき、名前を失っていた。

 名前のない女は、炉の女神の家で、風呂の洗い方を教わった。洗濯物の畳み方を、魚の骨の抜き方を、茶葉が開くまで待つことを教わった。

 少年の服の破れた数を、黙って数えた。

 

 その少年が、妹の残した子だった。

 自分が命と引き換えに守ろうとした、明日そのものだった。

 

 名前を取り戻した日、都市の空に、鐘が鳴りかけた。

 止めたのは、母の顔を知らない少年の、一言だった。

 

 お母さん、と。

 

 それから女は、少年の夕食を作るために、家へ帰った。

 

 並べ終えて、ヘルメスは息を止めた。

 どの一行にも、飾りはなかった。本当のことしか、並べていなかった。

 

 それなのに、腕に、鳥肌が立っていた。

 数えきれない英雄を見送り、数えきれない英雄譚を語ってきた神の、腕に。

 

 少年が歩み、女神が記す物語なら、いくつも見てきた。

 死んだ女が帰ってきて、夕食を作る物語は、初めてだった。

 

 台所からは、何も返ってこなかった。

 余計な飾りをつけるな、とは、今度は言われなかった。

 

 まず、帰還(ただいま)を記す。

 七年前に死んだはずの女が、欠けていた身体を取り戻し、居場所と妹の名を抱えて、この世界へ帰ってきた。

 

 そのことだけは、誰にも、違う物語にはさせない。

 

         *

 

 夕方、女は庭で洗濯物を取り込んでいた。

 

 干した白い布が、風に膨らんでいる。

 台所で、春姫(はるひめ)が鍋の蓋を鳴らした。廊下で、リリが帳簿をめくる。二階で、リューが窓を閉める。ヘスティアが何か叫んで、ベルが笑った。

 

 どの音も、よく聞こえた。

 氷の底では、雨だれ一つにさえ文句を言った耳だった。

 うるさい、とは、思わなかった。

 

 《静寂(せいじゃく)》と呼ばれた女は、その音の真ん中に立っていた。

 

 布を一枚、籠に収める。

 この家に戻ってから、まだ一度も口にしていない言葉があった。

 ヘラの戸口では、「戻った」と言った。この家の言葉は、少し違う。

 

「……ただいま」

 

 誰に聞かせるつもりもない声だった。

 家の音は、どれも別のことを話していて、返事はなかった。

 

 背の奥で、何かが、寝息のように一度だけ揺れた。

 

『──おかえり、アル』

 

 女の耳は、それを拾わなかった。

 女は、籠を抱え直した。

 暖炉のともった家の中へ、戻っていく。

 

 ──《灰髪の魔女(メーテリア)》

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