灰髪の魔女   作:彪(あや)

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第一章 女神は椅子を引く

 

「つまり──僕の家を使いたいって!?」

 

 事情を聞き終えたヘスティアは、まず結論を確かめた。

 

「保護を頼みたい」

 

「言い方を丁寧にしたって、中身は同じだよ、ウラノス! で、どうして僕なんだい!?」

 

「彼女は、少年の名を呼んだ」

 

 ヘスティアは、寝台へ向けかけた目を止めた。

 伝説の冒険者の名前なら知っている。ヘラの眷族(ファミリア)にどんな女がいたかも、天界にいた頃のヘラを知る神々から、耳に胼胝(たこ)ができるほど聞かされていた。

 

 ベルの母については、それより少し曖昧だった。

 いつか話さなければならない、とヘルメスは言った。いつか聞かなくちゃね、と自分も答えた。そのまま棚に上げておいたものが、いま、薄い毛布の下で呼吸をしている。

 

「あの子の……」

 

「お母様の、双子のお姉様です」

 

 シルが答えた。

 ヘスティアは椅子に座り直そうとして、肘掛けをつかみ損ねた。腰が、すとんと宙へ落ちかける。

 フェルズが、さっと椅子を引き戻した。

 

「ど、どうも……」

 

「気を確かに」

 

「君がそれを言うのかい!?」

 

 骨と黒衣だけの魔術師にも、うまい返しは見つからなかったらしい。

 

「記憶は、本当にないの?」

 

「先ほど目を覚まされました。お名前も、所属も答えられません。ただ、言葉と暮らしの知識は残っています。私を見ても、神だとは分からないようでした」

 

 シルは、寝台の傍らに置かれた空の杯を見た。

 

「お礼を言おうとして、ずいぶん苦労なさっていました」

 

「そこは忘れててもいいだろうに……。いや、よくないな。お礼を言うのに苦労するほうが、よくないんだ!」

 

 ヘスティアは両膝をぱんと叩いて、神らしい顔を作り直した。

 

「危険は?」

 

「あるでしょうね」

 

「そこはもう少し、遠慮ってものを……!」

 

「身体に溜まっている魔力が、普通ではありません。記憶と一緒に使い方まで戻ったとき、何が起きるか。私にも分かりません」

 

 シルの語り口は慎重だった。魅了で人の心の扉を開け、望むままに動かせた頃なら、もっと別の言い方をしたかもしれない。いまは、自分に分かることだけを口にした。

 

「だから、思い出させないようにするのかい」

 

「いっぺんに全部を戻そうとしない。それが必要だと思います。あの方が失ったものは──大きすぎますから」

 

 声は落ち着いていた。

 ただ、空の杯をつまんだ指だけが、さっきから縁を三周している。

 

「永久に隠すのは、なしだよ」

 

 炉の女神は、そこで初めてシルの目を真っすぐ見た。

 

「本人が選べるようにする。ベルくんのことも、僕たちだけで決めない。それなら、預かる!」

 

 シルは一度、唇を引き結んだ。

 断りたい顔ではなかった。

 

「……ええ」

 

 ウラノスが、二柱を見渡した。

 

「古い名簿と、深層から回収した物はこちらで調べる。本人への説明は、様子を見て段階を踏め。恩恵(ファルナ)に触れるときは、本人の許しを得よ。無断で開くことは許さん」

 

「ヘラのものだから?」

 

「誰のものであっても、だ」

 

 それには、ヘスティアも頷いた。

 ただ、ひとつだけ気に入らないことがあった。

 

「僕が断った場合の案も、ちゃんと考えてあったんだろうね!?」

 

 ウラノスは祈りの姿勢を崩さなかった。

 シルは水差しを持ち上げた。

 フェルズは毛布の端を整えた。

 

「ねえ、君たち……!」

 

 神々の沈黙は、ときに白状よりもよく喋る。

 

         *

 

 その日の夕方、ヘルメスはギルドの裏口から入ってきた。

 呼び出し状を見たときから、足取りは重かった。ウラノス、フェルズ、シル。その三つの名が一枚に並ぶ用件が、軽いはずはない。

 

 それでも、軽く見せることはできる。

 

「やあやあ、皆さんお揃いで! 今度は何を拾っ──」

 

「アルフィア」

 

 ヘスティアは、挨拶を途中で切り落とした。

 ヘルメスの指先から、帽子がずり落ちる。床に着く寸前で、アスフィが拾い上げた。

 

「……それは、何かの符丁(ふちょう)かい?」

 

「本人」

 

「同じ名前の、別の誰かという線は──」

 

「本人だよ!」

 

「ははっ、まいったな。冗談なら、もう少し笑えるやつを──」

 

 笑い声は、途中で乾いて止まった。

 アスフィは無言で、帽子を主神の手に押しつけた。二度目は拾わない、という顔だった。

 

 隣の部屋から、女の声がした。

 

「私が持とう。君は、扉を」

 

 杯と盆の触れ合う、かすかな音が続く。

 声は、記憶にあるものよりずっと柔らかかった。それでも、忘れようのない声だった。

 

 ヘルメスは帽子をかぶれないまま、ようやく椅子に腰を落とした。

 

「……爺さんに、どう知らせたものかな」

 

「その前に、君の知ってることを全部話しなよ!」

 

 ヘスティアが仁王立ちになる。

 アスフィが、静かに扉を閉めた。逃げ道を塞ぐ手際は、主神をよく知る者のそれだった。

 

         *

 

 保護の翌朝を、彼女がこの家で過ごす一日目と数えることになった。

 数えると決めたのはリリだった。医者へ報告するにも、本人に昨日のことを話すにも、日付はあった方がいい。

 手帳の新しい頁には、もう「一日目」と書かれ、下線が二本引いてあった。

 

 灰髪の女は、春姫(はるひめ)の腕を借りて廊下を歩いた。

 足はまだ、身体の支え方を忘れているらしい。一歩目で揺れ、二歩目で踏み直す。三歩目には、借りている腕にほとんど体重を預けなくなっていた。

 

「お疲れでしたら、途中でお休みに──」

 

「ありがとう。もう、分かった」

 

「何が、でございましょう?」

 

「歩くときの、力の置き方が」

 

 春姫(はるひめ)は、よく分からないまま微笑んだ。

 分からないことを、笑われずに聞ける相手。それだけで、春姫には得がたい人だと思えた。

 

 食堂には、朝の騒ぎがあふれていた。

 

「ヴェルフ様! そのお皿、まだ熱いです!」

 

「分かってるって! ほら、ベル、そっち持て!」

 

「あっ、はい! 神様、お茶は──」

 

「僕の席に置いといて! あと、サポーターくん! それは三回も説明しなくていい!」

 

「では、一回で書類をなくさないでくださいッ!」

 

「皆様、お味噌汁が冷めてしまいます!」

 

 女は戸口で足を止めた。

 うるさい。率直な感想だった。

 だが、不快な音と、離れたい音とは、どうやら同じではないらしい。

 

 騒ぎが、ほんの一拍だけ途切れた。

 ヘスティアの匙(さじ)が、口の手前で止まる。リリのペン先が、書類の上に小さな染みを作った。

 何も知らない三人だけが、いつもどおりに振り向いた。

 

「おはようございます!」

 

 命(ミコト)が椀を置いて頭を下げ、ヴェルフが片手を上げる。

 白い髪の少年が、慌てて椅子を引いた。

 

「おはようございます! ベル・クラネルです!」

 

 女の指が、春姫(はるひめ)の袖をわずかに掴んだ。

 その名が、胸の中へ落ちていく。

 落ちた先には、もう置き場所があった。

 

「ベル……」

 

「はい!」

 

 少年は、名前を確かめられたのだと思って笑った。

 

「よろしくお願いします!」

 

 女は、その声をもう一度聞きたくなった。

 

         *

 

 リューは、市場で果物の籠を押しつけられていた。

 もらったのではない。断っている最中だった。

 

「お気持ちだけで十分です。巡回中ですので」

 

「だから持っていきなって! あんたたちが帰ってこなきゃ、店も開けられなかったんだよ!」

 

「巡回中ですので」

 

「か〜ら〜の〜?」

 

 足もとから、子どもたちの声が揃った。

 リューは眉間を押さえた。誰がこの合いの手を教えたのか、心当たりは一柱しかない。

 

 売り子の言葉には、昨日も今朝も、うまく返事ができなかった。

 迷宮都市(オラリオ)を堂々と歩けるようになったことと、向けられる好意を受け取ることとは、また別の難しさがある。

 

 籠へ伸びかけた手が止まったのは、その一柱が全力で走ってくるのが見えたからだった。

 

「エルフくーん! 来てくれ──!」

 

「ヘスティア様! 何が──」

 

「家のことで、緊急なんだ!」

 

 リューの顔が引き締まる。

 

「ベルですか!?」

 

「そうだけど、そうじゃなくて……いや、先に言うべきだったな。とにかく、落ち着いて聞いてくれ」

 

 ヘスティアは、走りながら説明した。記憶のない女性を保護したこと。古い知り合いである見込みが高いこと。大声や、いきなり過去を突きつけるのは避けたいこと。

 ただ、肝心の名前だけは、最後まで口にしなかった。

 

 玄関では、リリが待ち構えていた。

 

「リュー様、これを持っていてください!」

 

「果物なら、今も持っていますが」

 

「……そうですね。では、そのままで。両手でお願いします!」

 

 大事な来客なのだろう、とリューは解釈した。

 両手で籠を抱え、居間へ入る。

 

 白い髪の少年の隣に、黒い服の女が座っていた。

 

「────《静寂(せいじゃく)》、アルフィ……!?」

 

「リュー!」

 

 シルの声と、主神の手が同時に飛んだ。

 籠が傾く。女は顔を向けるより早く、転げ落ちかけた果物をひとつ受け止めた。

 

 その手が何をできるかを、リューは知っていた。

 七年前、地に伏した仲間たち。その向こうから届く、低い声。

 リューは、ベルの方へ一歩寄ろうとした。

 

「せい……あるふぃ、と聞こえましたが」

 

 命(ミコト)が律儀に復唱しかけ、ヘスティアに袖を引かれた。

 

「リューさん? こちらの方を、ご存じなんですか?」

 

 少年の声が、過去の戦場に割って入った。

 女は果物を籠へ戻した。膝の上で指を揃え、少し困ったように尋ねる。

 

「今のは、私の名前だろうか」

 

 リューは、言い直す言葉を探した。

 別人だと偽ることも、かつての敵をここで責め立てることも、この顔には向けられなかった。

 

「……あなたに、よく似た人を知っています」

 

 嘘をつかなかったことが勇気だったのか、臆病だったのかは、分からない。

 

「そうか。すまない、急に聞いて」

 

 女は礼を尽くした。

 礼を受けたリューの背に、じわりと汗が浮いた。

 その後ろで、リリが小さく息を吐く。

 

「……籠にしておいて、正解でした」

 

 名前を伏せたのはわざとだったのだと、リューが気づいたのは、あとになってからだった。

 先に聞かされていれば、自分はここへ来なかったか、剣に手を掛けたまま戸を開けていただろう。直接会わせた方がいい、と言い出したのはシルだったという。

 

「アルフィ、という音は馴染む。自分で名乗れるようになるまで、そう呼んでもらってもよいだろうか」

 

 ベルが嬉しそうに頷いた。

 

「い、いい名前じゃないか! ねえ、シル某くん!」

 

「ええ、とっても! とっても、いい名前です!」

 

 二柱の声は、揃って半音ずつ高かった。

 ヘスティアはシルを見た。シルは杯を見た。リリは手帳に「仮名、アルフィ」と書き、筆圧で次の頁まで凹ませた。

 

 その日から、家には一人、名前の途中(アルフィ)にいる客が増えた。

 

         *

 

 昼食のあと、ヘスティアは本人にも話をした。

 食卓の椅子をひとつ引いて、向かいに座ってもらってから。

 

 自分たちには、彼女が誰なのか心当たりがある。けれど、身体には分からないことが多い。所属している神と連絡を取って、確かな形で伝えたい。

 

 アルフィは最後まで聞いてから、問い返した。

 

「私は、君たちに迷惑をかけた者なのか」

 

 女神は、軽い返事をしなかった。

 

「君の昔を知る人は、つらいことを思い出すかもしれない」

 

「……そうか」

 

「でも、ここで君を預かると決めたのは僕だ。だからしばらくは、僕の顔を立てて、ゆっくり休んでくれないかな」

 

 女は俯かなかった。

 膝に置いた手を、ただ、開いて、閉じた。

 

「ならば、私が聞きたいと言うまで、少し待ってもらいたい。空っぽの者が過去だけ渡されても、受け取る手がない気がする」

 

 ヘスティアは、その言葉を胸に刻んだ。

 

「分かった。その代わり、僕たちにも頼ってくれ!」

 

 アルフィは、小さく頷いた。

 廊下から、春姫(はるひめ)が顔を出す。

 

「アルフィ様。お部屋を整えました。お茶もお持ちいたしますね」

 

「いや。私も運ぼう」

 

「では、こちらのお盆を」

 

 その後ろから、命(ミコト)がひょいと首を伸ばした。

 

「アルフィ殿! この家の真価は、極東風の檜(ひのき)風呂にございます! 明日にでも、ぜひ!」

 

「ひのき……ぶろ」

 

 アルフィは、その響きを確かめるように繰り返した。

 それから廊下を見渡し、台所の水音と、二階で誰かが床を踏む音に、少しだけ耳を傾けた。

 

「この家は、居心地のいい音がする」

 

 口元が、ふっとほどけた。

 ヘスティアの背筋が、なぜか、ぴんと伸びた。

 

 二人が並んで廊下を行く。

 ヘスティアは呼び止めかけて、やめた。

 

 灰髪の女が、春姫(はるひめ)にお盆の持ち方を教わっている。

 両手で持つ。身体に寄せる。お客様に背を向けない。

 

 それだけのことが、どうしてこんなにも、見ていて落ち着かないのだろう。

 

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