「つまり──僕の家を使いたいって!?」
事情を聞き終えたヘスティアは、まず結論を確かめた。
「保護を頼みたい」
「言い方を丁寧にしたって、中身は同じだよ、ウラノス! で、どうして僕なんだい!?」
「彼女は、少年の名を呼んだ」
ヘスティアは、寝台へ向けかけた目を止めた。
伝説の冒険者の名前なら知っている。ヘラの
ベルの母については、それより少し曖昧だった。
いつか話さなければならない、とヘルメスは言った。いつか聞かなくちゃね、と自分も答えた。そのまま棚に上げておいたものが、いま、薄い毛布の下で呼吸をしている。
「あの子の……」
「お母様の、双子のお姉様です」
シルが答えた。
ヘスティアは椅子に座り直そうとして、肘掛けをつかみ損ねた。腰が、すとんと宙へ落ちかける。
フェルズが、さっと椅子を引き戻した。
「ど、どうも……」
「気を確かに」
「君がそれを言うのかい!?」
骨と黒衣だけの魔術師にも、うまい返しは見つからなかったらしい。
「記憶は、本当にないの?」
「先ほど目を覚まされました。お名前も、所属も答えられません。ただ、言葉と暮らしの知識は残っています。私を見ても、神だとは分からないようでした」
シルは、寝台の傍らに置かれた空の杯を見た。
「お礼を言おうとして、ずいぶん苦労なさっていました」
「そこは忘れててもいいだろうに……。いや、よくないな。お礼を言うのに苦労するほうが、よくないんだ!」
ヘスティアは両膝をぱんと叩いて、神らしい顔を作り直した。
「危険は?」
「あるでしょうね」
「そこはもう少し、遠慮ってものを……!」
「身体に溜まっている魔力が、普通ではありません。記憶と一緒に使い方まで戻ったとき、何が起きるか。私にも分かりません」
シルの語り口は慎重だった。魅了で人の心の扉を開け、望むままに動かせた頃なら、もっと別の言い方をしたかもしれない。いまは、自分に分かることだけを口にした。
「だから、思い出させないようにするのかい」
「いっぺんに全部を戻そうとしない。それが必要だと思います。あの方が失ったものは──大きすぎますから」
声は落ち着いていた。
ただ、空の杯をつまんだ指だけが、さっきから縁を三周している。
「永久に隠すのは、なしだよ」
炉の女神は、そこで初めてシルの目を真っすぐ見た。
「本人が選べるようにする。ベルくんのことも、僕たちだけで決めない。それなら、預かる!」
シルは一度、唇を引き結んだ。
断りたい顔ではなかった。
「……ええ」
ウラノスが、二柱を見渡した。
「古い名簿と、深層から回収した物はこちらで調べる。本人への説明は、様子を見て段階を踏め。
「ヘラのものだから?」
「誰のものであっても、だ」
それには、ヘスティアも頷いた。
ただ、ひとつだけ気に入らないことがあった。
「僕が断った場合の案も、ちゃんと考えてあったんだろうね!?」
ウラノスは祈りの姿勢を崩さなかった。
シルは水差しを持ち上げた。
フェルズは毛布の端を整えた。
「ねえ、君たち……!」
神々の沈黙は、ときに白状よりもよく喋る。
*
その日の夕方、ヘルメスはギルドの裏口から入ってきた。
呼び出し状を見たときから、足取りは重かった。ウラノス、フェルズ、シル。その三つの名が一枚に並ぶ用件が、軽いはずはない。
それでも、軽く見せることはできる。
「やあやあ、皆さんお揃いで! 今度は何を拾っ──」
「アルフィア」
ヘスティアは、挨拶を途中で切り落とした。
ヘルメスの指先から、帽子がずり落ちる。床に着く寸前で、アスフィが拾い上げた。
「……それは、何かの
「本人」
「同じ名前の、別の誰かという線は──」
「本人だよ!」
「ははっ、まいったな。冗談なら、もう少し笑えるやつを──」
笑い声は、途中で乾いて止まった。
アスフィは無言で、帽子を主神の手に押しつけた。二度目は拾わない、という顔だった。
隣の部屋から、女の声がした。
「私が持とう。君は、扉を」
杯と盆の触れ合う、かすかな音が続く。
声は、記憶にあるものよりずっと柔らかかった。それでも、忘れようのない声だった。
ヘルメスは帽子をかぶれないまま、ようやく椅子に腰を落とした。
「……爺さんに、どう知らせたものかな」
「その前に、君の知ってることを全部話しなよ!」
ヘスティアが仁王立ちになる。
アスフィが、静かに扉を閉めた。逃げ道を塞ぐ手際は、主神をよく知る者のそれだった。
*
保護の翌朝を、彼女がこの家で過ごす一日目と数えることになった。
数えると決めたのはリリだった。医者へ報告するにも、本人に昨日のことを話すにも、日付はあった方がいい。
手帳の新しい頁には、もう「一日目」と書かれ、下線が二本引いてあった。
灰髪の女は、
足はまだ、身体の支え方を忘れているらしい。一歩目で揺れ、二歩目で踏み直す。三歩目には、借りている腕にほとんど体重を預けなくなっていた。
「お疲れでしたら、途中でお休みに──」
「ありがとう。もう、分かった」
「何が、でございましょう?」
「歩くときの、力の置き方が」
分からないことを、笑われずに聞ける相手。それだけで、春姫には得がたい人だと思えた。
食堂には、朝の騒ぎがあふれていた。
「ヴェルフ様! そのお皿、まだ熱いです!」
「分かってるって! ほら、ベル、そっち持て!」
「あっ、はい! 神様、お茶は──」
「僕の席に置いといて! あと、サポーターくん! それは三回も説明しなくていい!」
「では、一回で書類をなくさないでくださいッ!」
「皆様、お味噌汁が冷めてしまいます!」
女は戸口で足を止めた。
うるさい。率直な感想だった。
だが、不快な音と、離れたい音とは、どうやら同じではないらしい。
騒ぎが、ほんの一拍だけ途切れた。
ヘスティアの
何も知らない三人だけが、いつもどおりに振り向いた。
「おはようございます!」
白い髪の少年が、慌てて椅子を引いた。
「おはようございます! ベル・クラネルです!」
女の指が、
その名が、胸の中へ落ちていく。
落ちた先には、もう置き場所があった。
「ベル……」
「はい!」
少年は、名前を確かめられたのだと思って笑った。
「よろしくお願いします!」
女は、その声をもう一度聞きたくなった。
*
リューは、市場で果物の籠を押しつけられていた。
もらったのではない。断っている最中だった。
「お気持ちだけで十分です。巡回中ですので」
「だから持っていきなって! あんたたちが帰ってこなきゃ、店も開けられなかったんだよ!」
「巡回中ですので」
「か〜ら〜の〜?」
足もとから、子どもたちの声が揃った。
リューは眉間を押さえた。誰がこの合いの手を教えたのか、心当たりは一柱しかない。
売り子の言葉には、昨日も今朝も、うまく返事ができなかった。
籠へ伸びかけた手が止まったのは、その一柱が全力で走ってくるのが見えたからだった。
「エルフくーん! 来てくれ──!」
「ヘスティア様! 何が──」
「家のことで、緊急なんだ!」
リューの顔が引き締まる。
「ベルですか!?」
「そうだけど、そうじゃなくて……いや、先に言うべきだったな。とにかく、落ち着いて聞いてくれ」
ヘスティアは、走りながら説明した。記憶のない女性を保護したこと。古い知り合いである見込みが高いこと。大声や、いきなり過去を突きつけるのは避けたいこと。
ただ、肝心の名前だけは、最後まで口にしなかった。
玄関では、リリが待ち構えていた。
「リュー様、これを持っていてください!」
「果物なら、今も持っていますが」
「……そうですね。では、そのままで。両手でお願いします!」
大事な来客なのだろう、とリューは解釈した。
両手で籠を抱え、居間へ入る。
白い髪の少年の隣に、黒い服の女が座っていた。
「────《
「リュー!」
シルの声と、主神の手が同時に飛んだ。
籠が傾く。女は顔を向けるより早く、転げ落ちかけた果物をひとつ受け止めた。
その手が何をできるかを、リューは知っていた。
七年前、地に伏した仲間たち。その向こうから届く、低い声。
リューは、ベルの方へ一歩寄ろうとした。
「せい……あるふぃ、と聞こえましたが」
「リューさん? こちらの方を、ご存じなんですか?」
少年の声が、過去の戦場に割って入った。
女は果物を籠へ戻した。膝の上で指を揃え、少し困ったように尋ねる。
「今のは、私の名前だろうか」
リューは、言い直す言葉を探した。
別人だと偽ることも、かつての敵をここで責め立てることも、この顔には向けられなかった。
「……あなたに、よく似た人を知っています」
嘘をつかなかったことが勇気だったのか、臆病だったのかは、分からない。
「そうか。すまない、急に聞いて」
女は礼を尽くした。
礼を受けたリューの背に、じわりと汗が浮いた。
その後ろで、リリが小さく息を吐く。
「……籠にしておいて、正解でした」
名前を伏せたのはわざとだったのだと、リューが気づいたのは、あとになってからだった。
先に聞かされていれば、自分はここへ来なかったか、剣に手を掛けたまま戸を開けていただろう。直接会わせた方がいい、と言い出したのはシルだったという。
「アルフィ、という音は馴染む。自分で名乗れるようになるまで、そう呼んでもらってもよいだろうか」
ベルが嬉しそうに頷いた。
「い、いい名前じゃないか! ねえ、シル某くん!」
「ええ、とっても! とっても、いい名前です!」
二柱の声は、揃って半音ずつ高かった。
ヘスティアはシルを見た。シルは杯を見た。リリは手帳に「仮名、アルフィ」と書き、筆圧で次の頁まで凹ませた。
その日から、家には一人、
*
昼食のあと、ヘスティアは本人にも話をした。
食卓の椅子をひとつ引いて、向かいに座ってもらってから。
自分たちには、彼女が誰なのか心当たりがある。けれど、身体には分からないことが多い。所属している神と連絡を取って、確かな形で伝えたい。
アルフィは最後まで聞いてから、問い返した。
「私は、君たちに迷惑をかけた者なのか」
女神は、軽い返事をしなかった。
「君の昔を知る人は、つらいことを思い出すかもしれない」
「……そうか」
「でも、ここで君を預かると決めたのは僕だ。だからしばらくは、僕の顔を立てて、ゆっくり休んでくれないかな」
女は俯かなかった。
膝に置いた手を、ただ、開いて、閉じた。
「ならば、私が聞きたいと言うまで、少し待ってもらいたい。空っぽの者が過去だけ渡されても、受け取る手がない気がする」
ヘスティアは、その言葉を胸に刻んだ。
「分かった。その代わり、僕たちにも頼ってくれ!」
アルフィは、小さく頷いた。
廊下から、
「アルフィ様。お部屋を整えました。お茶もお持ちいたしますね」
「いや。私も運ぼう」
「では、こちらのお盆を」
その後ろから、
「アルフィ殿! この家の真価は、極東風の
「ひのき……ぶろ」
アルフィは、その響きを確かめるように繰り返した。
それから廊下を見渡し、台所の水音と、二階で誰かが床を踏む音に、少しだけ耳を傾けた。
「この家は、居心地のいい音がする」
口元が、ふっとほどけた。
ヘスティアの背筋が、なぜか、ぴんと伸びた。
二人が並んで廊下を行く。
ヘスティアは呼び止めかけて、やめた。
灰髪の女が、
両手で持つ。身体に寄せる。お客様に背を向けない。
それだけのことが、どうしてこんなにも、見ていて落ち着かないのだろう。