翌朝、アルフィは寝台の上で、シーツを整えようとしていた。
外したシーツを畳んでいたのではない。掛け布団をどけ、敷いたままの布の端を揃えようとして──寝台の脚を、片手で持ち上げていた。
「お待ちくださいませ──!」
「そのまま、そっと、お戻しくださいませ!」
「下へ挟むのではないのか」
「挟みますけれど、その前に、敷き直しを!」
寝台は、きちんと四本の脚で床へ戻った。
アルフィはしばらく布を見つめてから、髪を肩へ払った。
「順序を間違えた。すまない」
「いいえ! 私も、初めは間違えてばかりでした!」
できることと、知っていることの間に、ずいぶん開きのある方らしい。
*
「働きたい、って?」
朝食のあとで申し出を受けたヘスティアは、思わずリリを見た。
リリは小さく首を振る。賃金の話はしていない。滞在費の催促もしていない。そう言いたげな首の振り方だった。
「宿と食事をもらって、何もしないのは落ち着かない。できることからで構わない」
アルフィの声に、卑屈さはなかった。
受けたものを返せないままでいるのが、性に合わないのだろう。ヘスティアには、その方がかえって元の彼女に繋がっている気がして、少し安心した。
「アミッドくんは、軽い運動ならいいって言ってたけど」
「では、お風呂のお掃除はいかがでしょう!」
ヘスティアの口が、返事の形のまま固まった。
「ふろ……!?」
「はい。今日は床と浴槽を、しっかり洗う日なのです。もちろん、お一人ではなく、私が一緒に!」
その説明で、主神の顔が元に戻ると思ったらしい。
戻らなかった。
リリが机の下で、ヘスティアのつま先を軽く踏む。ヘスティアは、ようやく頷いた。
「……無理をしない範囲でね」
二人が出ていくなり、女神はリリの両肩を掴んだ。
「いいのかな!?」
「何がです」
「その、あの人に、お風呂の……!」
「
ヘスティアは口を結んだ。
ない。問題はない。
この家の風呂は、住む者が交代で洗っている。
正しさというものは、ときどき、神をひどく困った場所へ連れていく。
「……様子を見てくる!」
「見物料は取りませんよ」
「そういうつもりじゃないよッ!」
*
檜の浴室に入ると、アルフィは木の香りを確かめるように立ち止まった。
「まず、高いところから洗います。床は最後に。そうすると、きれいにしたところへ汚れが落ちません」
「なるほど。低い方へ、戻らない順か」
「はい。それと、こちらの
アルフィが動かした刷毛の先で、木の表面が白く毛羽立った。
「強すぎます! ここは柔らかい木ですから!」
戸口まで来ていたヘスティアの足が、その声で止まった。
注意した。
ヘスティアの目は、反射的に浴槽を測っていた。隠れられる大きさではある。何から隠れるつもりなのかは、自分でもよく分からない。
「すまない。削れてしまったか」
「乾くと引っかかってしまいますので、あとで直していただきましょう。こちらの、柔らかい布を使ってくださいませ」
「分かった。やり直す」
女は素直に刷毛を置いた。
「こうか」
「はい! その強さで。……もう、お上手です」
「今の失敗は、消えていない」
「では、同じところを傷めないように、覚えていてくださいませ」
アルフィは一度、布を動かす手を止めた。
それから、教わったとおりの弱い力で、木目に沿って拭いた。
ヘスティアは、神のくせに、頭の中で拍手をしていた。
何に対しての拍手なのかは整理できていない。とにかく、
「神ヘスティア」
女が、顔をこちらへ向けた。
「見ていらしたのか。不手際があった。修繕の費用は、いずれ」
「そのくらい、いらないよ。ええと、何て言うか……二人とも、よくやってるね」
「まだ、片側が残っている」
その律儀さが、ヘスティアにはなんだか痛快でもあった。
桶の水を替える頃、今度は雑巾が鳴った。
ぎゅう、と短い悲鳴のような音がして、絞られた布が一本の棒になる。
「絞りすぎでございますっ。布が傷んでしまいます!」
「水は、残さない方がよいのでは」
「少しは残しておきませんと、拭いたあとが
アルフィは棒になった布をほどき、もう一度、半分の力で絞った。
ぽたり、と一滴だけ落ちた。
「……このくらいか」
「はい! ちょうどでございます!」
排水口の蓋を持ち上げたとき、女の指が止まった。
「ここに詰まっているものは、取ってよいのか」
「はい。それは私がいたしますので、布を──」
言い終わる前に、アルフィは髪の塊を取り除いていた。
細い手が、ぬるりとした水へためらいなく沈み、奥まで確かめる。
ヘスティアは、自分の頬をつねった。
「……痛い」
「神様、お怪我ですか!?」
「ううん。僕は元気だよ。世界の方は、分からないけど……」
*
浴室の戸を開けておく時間も、最後に閉める蓋の向きも、アルフィは一度で覚えた。
仕事を終えると、前掛けを洗って干した。自分で傷をつけた木の場所には短い紐を結び、使う者の手が引っかからないよう目印にしておいた。
夕方、修繕に来たヴェルフは、そこを指で撫でた。
「これなら、軽くならせば済むな。早めに見つかってよかった」
「私がやった」
「そうかい。じゃ、次は優しくな。こいつら、武具ほど頑丈じゃねえから」
女は、なるほどと頷いた。
その隣で、ヘスティアは天井を仰いだ。
やった者が申し出て、直せる者が直し、次から気をつける。その単純な話を、七年前に都市を震わせた災厄にもそのまま当てはめていいことが、まだ信じられなかった。
「あんたも見るか? 削るのは、この向きだ」
「頼む。次は、自分で直したい」
ヴェルフは、小刀の握り方まで教えはじめた。
悪気のない者が揃うと、神に逃げ場はない。
*
その夜、ヘスティアは仕事帰りのシルへ、今日あったことを報告した。
報告の場所は玄関脇。女が風呂から上がるのを待つ間の、ごく短い時間である。
「
「何を?」
「力が強いって。浴槽をこする力が」
シルは、ヘスティアの顔を見た。次に、浴室の方を見た。
「……それで?」
「謝った。やり直した。それから雑巾の絞り方を直されて、排水口も掃除して、ヴェルフくんに小刀の使い方を習った」
街娘が、壁に手をついた。
「どうしましょう、ヘスティア様。お話の中身は全部分かるのに、意味だけが分かりません……」
「僕もそうなんだよ……」
階段の向こうから、
「アルフィ様、まだ少し泡が残っております」
「これで落ちたと思ったのだが」
「髪が長いと、内側に残るのです。こちらへどうぞ」
二人は、湯上がりの髪を拭きながらやってきた。アルフィの肩には、
その布の端で、今度はアルフィが、
「尻尾も、内側に残るのだろう。毛の流れは、こちらでよいのか」
「は、はい、そちらで……ふぁ……」
シルは、その光景を見たまま笑顔を作った。頬が、ほんのわずかに引きつっている。
「今日は、よく働かれたそうですね」
「手間を増やした。だが、明日は減らせると思う」
女は真面目に答えた。
「ええ。明日は、洗濯を
ヘスティアは、
「君は、すごい!」
「はい!?」
「よく分かった! 君が一番だ!」
居間から顔を出したリリが、即座に頷いた。
「異議なしです」
「拙者も負けておられません! 明日は拙者が、洗濯でアルフィ殿を──」
その後ろで、ヴェルフが頭をかいた。
「……おい、何の一番の話だ、これ」
誰も答えなかった。
その後ろで、シルが深々と頷いていた。
*
眠る前、アルフィは自分の手を見た。
布を力いっぱい絞ってはいけない。木を硬い道具でこすってはいけない。髪についた泡は、見えないところに残る。
知らなかったことを、三つ知った。
失敗した場所は、直してもらった。隠したいと思わなかったのが、不思議だった。
『覚えていてくださいませ』と、
その声を思い返すと、白い寝台の向こうで、誰かが笑った気がした。
『──それ、私も同じところで間違えた』
誰だったのかは、分からない。
けれど今夜は、思い出せないことを追いかけても、苦しくはならなかった。
女は灯りを消した。
廊下から、少年が本を閉じる音が聞こえた。歯を磨き、窓を閉め、誰かに「おやすみなさい」と言っている。
その声が途切れるまで、アルフィは眠らずにいた。