灰髪の魔女   作:彪(あや)

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第二章 才能の怪物、風呂を洗う

 

 翌朝、アルフィは寝台の上で、シーツを整えようとしていた。

 外したシーツを畳んでいたのではない。掛け布団をどけ、敷いたままの布の端を揃えようとして──寝台の脚を、片手で持ち上げていた。

 

「お待ちくださいませ──!」

 

 春姫(はるひめ)は盆を置き、両手をばたばたと振った。

 

「そのまま、そっと、お戻しくださいませ!」

 

「下へ挟むのではないのか」

 

「挟みますけれど、その前に、敷き直しを!」

 

 寝台は、きちんと四本の脚で床へ戻った。

 アルフィはしばらく布を見つめてから、髪を肩へ払った。

 

「順序を間違えた。すまない」

 

「いいえ! 私も、初めは間違えてばかりでした!」

 

 春姫(はるひめ)が一度やってみせると、女は今度こそ同じ順に布を引いた。角を折り込み、皺を伸ばす。二つ目の角からは、教えた本人より正確だった。

 

 できることと、知っていることの間に、ずいぶん開きのある方らしい。

 春姫(はるひめ)はそう思った。寝台の重さについて考えたのは、もう少しあとのことだった。

 

         *

 

「働きたい、って?」

 

 朝食のあとで申し出を受けたヘスティアは、思わずリリを見た。

 リリは小さく首を振る。賃金の話はしていない。滞在費の催促もしていない。そう言いたげな首の振り方だった。

 

「宿と食事をもらって、何もしないのは落ち着かない。できることからで構わない」

 

 アルフィの声に、卑屈さはなかった。

 受けたものを返せないままでいるのが、性に合わないのだろう。ヘスティアには、その方がかえって元の彼女に繋がっている気がして、少し安心した。

 

「アミッドくんは、軽い運動ならいいって言ってたけど」

 

「では、お風呂のお掃除はいかがでしょう!」

 

 春姫(はるひめ)が、ぱっと手を挙げた。

 ヘスティアの口が、返事の形のまま固まった。

 

「ふろ……!?」

 

「はい。今日は床と浴槽を、しっかり洗う日なのです。もちろん、お一人ではなく、私が一緒に!」

 

 その説明で、主神の顔が元に戻ると思ったらしい。

 戻らなかった。

 

 リリが机の下で、ヘスティアのつま先を軽く踏む。ヘスティアは、ようやく頷いた。

 

「……無理をしない範囲でね」

 

 二人が出ていくなり、女神はリリの両肩を掴んだ。

 

「いいのかな!?」

 

「何がです」

 

「その、あの人に、お風呂の……!」

 

「春姫(はるひめ)様が毎日なさっていることです。仕事として、何か問題がおありですか?」

 

 ヘスティアは口を結んだ。

 ない。問題はない。

 

 この家の風呂は、住む者が交代で洗っている。春姫(はるひめ)が働いている横で、伝説の冒険者だからという理由で一人だけ座らせておく理屈は、どこにもなかった。

 正しさというものは、ときどき、神をひどく困った場所へ連れていく。

 

「……様子を見てくる!」

 

「見物料は取りませんよ」

 

「そういうつもりじゃないよッ!」

 

         *

 

 檜の浴室に入ると、アルフィは木の香りを確かめるように立ち止まった。

 春姫(はるひめ)は前掛けを渡し、袖の留め方を教える。長い髪は紐でひとつにまとめた。濡れた床へ落ちかけていた灰色の束が、女の背中でおとなしくなる。

 

「まず、高いところから洗います。床は最後に。そうすると、きれいにしたところへ汚れが落ちません」

 

「なるほど。低い方へ、戻らない順か」

 

「はい。それと、こちらの刷毛(はけ)は木目に沿わせて──あっ!」

 

 アルフィが動かした刷毛の先で、木の表面が白く毛羽立った。

 春姫(はるひめ)の尻尾が、ぴんと立つ。

 

「強すぎます! ここは柔らかい木ですから!」

 

 戸口まで来ていたヘスティアの足が、その声で止まった。

 注意した。

 春姫(はるひめ)が。あれに。

 

 ヘスティアの目は、反射的に浴槽を測っていた。隠れられる大きさではある。何から隠れるつもりなのかは、自分でもよく分からない。

 

「すまない。削れてしまったか」

 

「乾くと引っかかってしまいますので、あとで直していただきましょう。こちらの、柔らかい布を使ってくださいませ」

 

「分かった。やり直す」

 

 女は素直に刷毛を置いた。

 春姫(はるひめ)が手を添えて力加減を示すと、同じ角度で布を走らせる。二往復目には、水の筋まで等間隔になった。

 

「こうか」

 

「はい! その強さで。……もう、お上手です」

 

「今の失敗は、消えていない」

 

「では、同じところを傷めないように、覚えていてくださいませ」

 

 アルフィは一度、布を動かす手を止めた。

 それから、教わったとおりの弱い力で、木目に沿って拭いた。

 

 ヘスティアは、神のくせに、頭の中で拍手をしていた。

 何に対しての拍手なのかは整理できていない。とにかく、春姫(はるひめ)はいま、とんでもないことをやってのけた。

 

「神ヘスティア」

 

 女が、顔をこちらへ向けた。

 

「見ていらしたのか。不手際があった。修繕の費用は、いずれ」

 

「そのくらい、いらないよ。ええと、何て言うか……二人とも、よくやってるね」

 

「まだ、片側が残っている」

 

 その律儀さが、ヘスティアにはなんだか痛快でもあった。

 

 桶の水を替える頃、今度は雑巾が鳴った。

 ぎゅう、と短い悲鳴のような音がして、絞られた布が一本の棒になる。

 

「絞りすぎでございますっ。布が傷んでしまいます!」

 

「水は、残さない方がよいのでは」

 

「少しは残しておきませんと、拭いたあとが毛羽立つ(けばだつ)のです!」

 

 アルフィは棒になった布をほどき、もう一度、半分の力で絞った。

 ぽたり、と一滴だけ落ちた。

 

「……このくらいか」

 

「はい! ちょうどでございます!」

 

 春姫(はるひめ)の手首が疲れはじめると、女は自分から桶を代わった。言われる前に水を替え、残りの布を手元へ寄せる。気配りというには、相手の動きを読む正確さが過ぎていた。

 

 排水口の蓋を持ち上げたとき、女の指が止まった。

 

「ここに詰まっているものは、取ってよいのか」

 

「はい。それは私がいたしますので、布を──」

 

 言い終わる前に、アルフィは髪の塊を取り除いていた。

 細い手が、ぬるりとした水へためらいなく沈み、奥まで確かめる。

 

 ヘスティアは、自分の頬をつねった。

 

「……痛い」

 

「神様、お怪我ですか!?」

 

「ううん。僕は元気だよ。世界の方は、分からないけど……」

 

         *

 

 浴室の戸を開けておく時間も、最後に閉める蓋の向きも、アルフィは一度で覚えた。

 仕事を終えると、前掛けを洗って干した。自分で傷をつけた木の場所には短い紐を結び、使う者の手が引っかからないよう目印にしておいた。

 

 夕方、修繕に来たヴェルフは、そこを指で撫でた。

 

「これなら、軽くならせば済むな。早めに見つかってよかった」

 

「私がやった」

 

「そうかい。じゃ、次は優しくな。こいつら、武具ほど頑丈じゃねえから」

 

 女は、なるほどと頷いた。

 その隣で、ヘスティアは天井を仰いだ。

 

 やった者が申し出て、直せる者が直し、次から気をつける。その単純な話を、七年前に都市を震わせた災厄にもそのまま当てはめていいことが、まだ信じられなかった。

 

「あんたも見るか? 削るのは、この向きだ」

 

「頼む。次は、自分で直したい」

 

 ヴェルフは、小刀の握り方まで教えはじめた。

 悪気のない者が揃うと、神に逃げ場はない。

 

         *

 

 その夜、ヘスティアは仕事帰りのシルへ、今日あったことを報告した。

 報告の場所は玄関脇。女が風呂から上がるのを待つ間の、ごく短い時間である。

 

「春姫(はるひめ)くんが、叱った」

 

「何を?」

 

「力が強いって。浴槽をこする力が」

 

 シルは、ヘスティアの顔を見た。次に、浴室の方を見た。

 

「……それで?」

 

「謝った。やり直した。それから雑巾の絞り方を直されて、排水口も掃除して、ヴェルフくんに小刀の使い方を習った」

 

 街娘が、壁に手をついた。

 

「どうしましょう、ヘスティア様。お話の中身は全部分かるのに、意味だけが分かりません……」

 

「僕もそうなんだよ……」

 

 階段の向こうから、春姫(はるひめ)の声が近づいてきた。

 

「アルフィ様、まだ少し泡が残っております」

 

「これで落ちたと思ったのだが」

 

「髪が長いと、内側に残るのです。こちらへどうぞ」

 

 二人は、湯上がりの髪を拭きながらやってきた。アルフィの肩には、春姫(はるひめ)が掛けた大きな布がある。

 その布の端で、今度はアルフィが、春姫(はるひめ)の尻尾の水気を丁寧に拭っていた。

 

「尻尾も、内側に残るのだろう。毛の流れは、こちらでよいのか」

 

「は、はい、そちらで……ふぁ……」

 

 春姫(はるひめ)の耳が、とろりと寝た。

 シルは、その光景を見たまま笑顔を作った。頬が、ほんのわずかに引きつっている。

 

「今日は、よく働かれたそうですね」

 

「手間を増やした。だが、明日は減らせると思う」

 

 女は真面目に答えた。

 春姫(はるひめ)が、まだ少しとろけた顔で頷く。

 

「ええ。明日は、洗濯を命(ミコト)ちゃんと」

 

 ヘスティアは、春姫(はるひめ)の両手を取った。

 

「君は、すごい!」

 

「はい!?」

 

「よく分かった! 君が一番だ!」

 

 居間から顔を出したリリが、即座に頷いた。

 

「異議なしです」

 

「拙者も負けておられません! 明日は拙者が、洗濯でアルフィ殿を──」

 

 命(ミコト)が拳を握る。

 その後ろで、ヴェルフが頭をかいた。

 

「……おい、何の一番の話だ、これ」

 

 誰も答えなかった。

 春姫(はるひめ)の顔が赤くなる。何の一番かと聞かれたら、ヘスティアにも答えられない。それでも、握った手は離さなかった。

 その後ろで、シルが深々と頷いていた。

 

         *

 

 眠る前、アルフィは自分の手を見た。

 布を力いっぱい絞ってはいけない。木を硬い道具でこすってはいけない。髪についた泡は、見えないところに残る。

 

 知らなかったことを、三つ知った。

 失敗した場所は、直してもらった。隠したいと思わなかったのが、不思議だった。

 

『覚えていてくださいませ』と、春姫(はるひめ)は言った。

 その声を思い返すと、白い寝台の向こうで、誰かが笑った気がした。

 

『──それ、私も同じところで間違えた』

 

 誰だったのかは、分からない。

 けれど今夜は、思い出せないことを追いかけても、苦しくはならなかった。

 

 女は灯りを消した。

 廊下から、少年が本を閉じる音が聞こえた。歯を磨き、窓を閉め、誰かに「おやすみなさい」と言っている。

 

 その声が途切れるまで、アルフィは眠らずにいた。

 

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