三日目の朝、
「白いもの、色の濃いもの、手洗いのもの。まず、この三つに分けます」
「汚れの程度ではないのか」
「それもございます! ただ、先に色を。以前、白い手拭いを桃色にしてしまったことがありまして──」
「誰が」
「拙者がッ!」
言ってから、
「以来、一度も繰り返しておりません!」
アルフィは、それなら信頼できる教師だと判断した。
庭には、よく風が通った。湯を張った桶と冷たい水の桶が並び、
革には洗剤をつけないこと。薬の染みを闇雲に混ぜないこと。血は、最初から熱い湯に入れないこと。
女は布の端を指に挟み、言われたことをひとつずつ覚えていった。
次に渡された上着を持ち上げたとき、その手が遅くなった。
「これは、ベルの──」
「はい。普段着にしていたものですが、着るものが足りなくなると、訓練にもそのまま」
袖が擦り切れていた。
肩の縫い目は一度補修され、その隣がもう弱っている。脇腹の裏には、洗っても落ちきらなかった血の色が残っていた。
アルフィは、布の内側へ指を通した。
この傷をつけたものが、その下にあった身体へどれほど近づいたか。指先だけで、測れてしまった。
「ほかにも、あるのか」
「はい。ただ、今日のものは少ない方です。遠征から戻ったときは──」
「洗うのがおつらいようでしたら」
「いや。やり方を、もう一度」
アルフィは上着を水に沈めた。
水が赤く染まることはなかった。残っていたのは泥汚れだけで、少年は今朝も元気に食べて出ていった。
それを、なぜか自分に言い聞かせる必要があった。
*
「この縫い目だけでいいのか?」
ヴェルフは、持ち込まれた服を作業台に広げた。
鍛冶場へ出る前の短い時間だった。けれど、女の指が示した箇所を見ると、座り直して灯りを引き寄せた。
「こっちも危ねえな。よく見つけた」
「そちらは、着るときに引っかかると思った。だが、動くために緩くしてあるのなら、勝手には直せない」
「ああ。そこを詰めると、剣を振りづらくなる。糸だけ強いのに替えよう。こっちは上から布を当てる」
ヴェルフは針を取った。剣を鍛える指が、細い針穴へ糸を通す。
アルフィが隣に座ると、長椅子がわずかに沈んだ。
「あんたも縫うか?」
「見ていてよければ」
「そんな、大げさなもんじゃねえよ」
同じ向きに、針を通すだけだ。それでも女は、じっと手元へ顔を向けていた。
ヴェルフは縫い終えた布を引っ張って確かめた。
「ほら。これで当分もつ。もっとも、あいつの場合、次は別の場所を破いてくるけどな」
アルフィは笑わなかった。
冗談が滑ったと思ったのか、ヴェルフは少し声の調子を変えた。
「帰ってくるんだよ。何遍破いてもな。だから、直しておく」
その言い方に、女の肩が少しだけ下がった。
「……なら、私も覚えたい」
廊下で足を止めたリューは、入る機会を失っていた。
七年前、あの女の手が折ったものを覚えている。骨も、剣も、誇りも。
あの戦いに、のちの自分たちを生かす意味があったとしても、床を這ったときの痛みが変わるわけではない。
その手が、少年の服の
取り繕った慈悲の顔でもなかった。自分に分からないことを、分かる者に尋ねる、真剣な顔だった。
「《
呼ばれて、リューは息を整えた。
「……お邪魔でしたか」
「違う。この糸を、ベルが痒がることはないだろうか。君の方が、知っていると思って」
問われたのは、自分が答えられることだった。
それに救われてしまったのが、腹立たしかった。
「それなら、肌に触れる部分を内側へ折るとよいでしょう。彼は、気になっても言いませんから」
「言わないのか」
「たいていのことは」
アルフィは、針を持つヴェルフへ顔を戻した。
「では、そうしてもらいたい」
「了解! あいつの服一枚で、ずいぶん大袈裟になったな!」
ヴェルフの笑い声に、今度は女も口元をゆるめた。
リューはその横顔を、最後まで見ていられなかった。
*
昼前、台所で新しい問題が起きた。
アルフィが、魚の骨を一本残らず抜こうとしたのである。
小骨を残してはいけない、と聞いた。ならば残さない。教えられたことを、女は文字どおりに受け取った。
「そこまで抜きますと、身が崩れてしまいますッ!」
アルフィの手元には、細い骨が長さの順にきれいに並んでいた。
「食べるとき、邪魔になるのだろう」
「はい! しかし、焼いたあとに外す骨もございます!」
「今ではないのか」
「今では、ございませんッ!」
笑ってよいものか迷っていると、女は困ったように魚を見下ろした。
「風呂の次は、魚か……」
とうとう
台所の戸口から顔を出したベルが、不思議そうに首を傾げる。
「何かあったんですか?」
「いいえ、ベル殿! 今夜は、つみれ汁を一品増やします!」
崩れた魚は、捨てなかった。
「そこは、揃えていただいてよいのですが!」
「だが、今は小さく──」
「手加減を間違えたのです、拙者がッ!」
女はしばらく考えてから、三つ目を崩して作り直した。
「教師も、間違えるということだな」
「はい! 毎日!」
アルフィは、そういう教師が気に入った。
*
夕食で、ベルは焼き魚を食べた。
アルフィの皿のものより、少しだけ端が焦げていた。女は出す前に取り替えようとしたが、ベルはそのままでいいと言った。
「香ばしくて、好きです!」
「苦ければ、残してよい」
「大丈夫です! ……あ、このお汁も、美味しい!」
つみれを口へ運んだ少年が笑う。
アルフィは、その笑顔へ、つみれをひとつ足した。
もうひとつ足した。
「アルフィ殿! そのお鍋は、皆の分でッ!」
「……すまない」
鍋が
ヴェルフが箸の先で、少年の椀を指す。
「おいベル、お前のだけ山になってるぞ」
「えっ、あ、ほんとだ……ありがとうございます……?」
リリは一連のやり取りを見て、数秒だけ食費の勘定を忘れた。
それから思い出し、手帳に小さく「つみれ、ベル様偏重」と書いた。
ヘスティアは、忘れられなかった。
女の皿には、まだ同じ大きさの魚が残っている。自分の分を減らしてでも少年に渡そうとする、その手の動きを見てしまった。
「アルフィくん。君も食べなよ」
「食べている」
「見てる時間の方が長いよ!」
女は少し考えて、ようやく箸を動かした。
自分で抱え込むことも、好きになったものへ偏ることも、もう始まっている。
ヘスティアは、少年が次のお代わりを頼む前に、その茶碗をさっと取った。
「今度は僕がよそう。今日はね」
理由はうまく言えなかった。それくらいの意地は、張っておきたかった。
*
片付けの途中、ベルが一枚の布を持ってきた。
ヴェルフにもらった
「僕も、少しは縫えた方がいいですよね。これからは、帰る前に直せるところを──」
「帰ってから直せばよい」
女の返事は、速かった。
ベルが瞬きをする。
アルフィ自身も、自分の口から出た言葉を確かめるように、顎へ手をやった。
「明るいところの方が、針は使いやすい。ここなら、分かる者もいる」
「あ、そうですよね!」
ベルは隣に座った。
教えるのはヴェルフで、練習するのは二人になった。ベルの糸は絡まり、アルフィは自分の糸を、絡まる寸前で元に戻す。
「……今、何をしたんですか!?」
「糸の輪を戻した」
「その前の、指が──」
「そこ、もう絡まってるぞ、ベル!」
ヴェルフが笑い、少年が慌てる。
アルフィは、教えられた手順を、まだ人に教えられなかった。
見れば分かることが、見ても分からない者の方が多い。彼女にとっては、それこそが一番覚えにくい知識だった。
*
寝る前、女は針を箱に収めた。
針の音。糸の擦れる音。少年が苦労して息を吐く音。その組み合わせが、頭の中で短い節になっていた。
何気なく口ずさむと、途中から旋律が変わった。
もっと古い節がある。
それを誰かが、寝台の上で笑いながら直した。
『──そこ、長すぎる。そんなに息が続かないよ』
女は、息を止めた。
頭が痛む。けれど、今日の夕食を思い出すと、その痛みに埋もれずに済んだ。
焦げた端を食べた少年。
魚を守った
笑っていた
名前の分からない誰かも、同じ食卓にいたらよかった。
そう思ったところで、アルフィは胸を押さえた。
そこに、穴は開かなかった。
代わりに、ひどく静かな鼓動があった。