リヴェリアは、主神の説明を二度聞いた。
死んだはずの女が保護された。本人は記憶を失っている。確かめるまでは、昔の名と過去を本人へ突きつけない。訪問の際は、仮の名で接すること。
そこまでは分かった。
「ほんで、レフィーヤ。おまえは根掘り葉掘り聞くな。リヴェリアを立てて、横で茶ぁ飲んどれ」
「は、はい!」
「名前は呼ぶな。初めて会うたように接しぃ。それと──」
ロキは、そこで一拍置いた。
「茶器を落とすな」
最後の忠告だけが、分からなかった。
「ロキ、私を誰だと思っている」
「うちの頼れる副団長」
「ならば、不要な忠告だ」
ロキは、それ以上言い返さなかった。
言い返されなかったことを、リヴェリアは扉を出てから気にした。
*
レオンと合流したとき、彼も同じ報せを受けていた。
噂の確認と、負傷者の治療をめぐる打ち合わせは、分けた方がいいのかもしれない。だが、わざわざ分けて、あの家へ何度も大人数で押しかける方がもっとよくない。
レオンはそう言って、いつもの微笑を浮かべた。
「まずは、助けてもらった礼を。顔を確かめて、必要なら後日、話をさせてもらおう」
「同意する」
レフィーヤだけは、名を知らされていなかった。
保護している人物の身元を、本人への説明より先に、若い団員へ広める気はないのだろう。リヴェリアは門をくぐる前に、そのことを彼女に話した。
「不満か?」
「いいえ。ただ、私がご一緒して、かえってご迷惑にならないでしょうか」
「君は、これから交渉の場にも立つ。分からないことを、その場で全部聞くのがよいとは限らない。今日は、それを覚えておけ」
レフィーヤは、真剣に頷いた。
扉を開けたリューの顔を見て、その教えをさっそく試されることになった。
*
「改めて、君たちの助力に感謝する。ベル・クラネル、リリルカ・アーデ。ヴェルフ・クロッゾ、それに春ひ──」
リヴェリアの挨拶が、一音だけ崩れた。
盆を持つ
黒い長衣に、白い前掛け。襟元まできっちり整えられた灰色の髪。昔の女は、ここまで几帳面に髪を束ねてはいなかった。
だが、顔は見間違えようがない。
リヴェリアが思い出したのは、魔法を放つ瞬間の姿ではなかった。
自分とガレスを路上へ転がし、次にどちらを倒すか、退屈そうに測っていた顔だった。
腹の底が冷えた。
手が、レフィーヤの立つ側へ半分伸びていた。
下げる。
室内を見る。リューは立っているが、剣に手を掛けてはいない。ベルは、少しも身構えていない。リリルカは、こちらの目を見て一度、小さく頷いた。
ここで取り乱すことが、いちばん愚かな行動になる。
「……失礼。
挨拶を継いだところへ、灰髪の女が茶を置いた。
茶碗の底は、確かに卓に触れた。
音がない。
「熱いので、お気をつけください」
女は言った。
リヴェリアはそこでようやく、茶器を落とすなという忠告の意味を理解した。
*
レオンの笑顔は、ほとんど変わらなかった。
レフィーヤはそれを見て、さすが先生だと思った。
リヴェリアは、彼の足を見ていた。
右の
退路と、生徒を守る線とを、身体が勝手に選んでいた。
「お久し──」
レオンは、自分で言葉を止めた。
「失礼。お会いできて、何よりです」
「アルフィと申します。今は、この家で世話になっています」
女が、深く礼をした。
少年だった頃、レオンはあの背中を見たことがある。
海の怪物へ向かっていく、遠い背中だった。自分が英雄と呼ぶものの大きさを、ただひたすら見せつけられた。そのあとも、無謀な挑戦のたびに、同じ差を身体に刻まれた。
その同じ手が、いま、「世話になっています」と言いながら盆を持っている。
レオンは茶へ手を伸ばし、半分のところで止めた。
女の指が、こちらへ近づいてきたのだ。
「失礼。右の袖に、ほつれが」
腰が浮きかける。浮く前に、戻す。
表情は穏やかなまま、騎士は右腕を差し出した。
「……お願いできるかな」
「糸を切るだけだが」
刃が一度、開いて閉じた。
ただの糸くずが一本、女の掌に残った。
レオンは、その糸より細くなりかけていた息を吐いた。
「洗濯物で、同じところを見つけた。ここから裂けると聞いたので」
「……洗濯物?」
ほかに聞くべきことは、いくらでもあった。
口から出たのは、それだけだった。
「はい。
「なるほど。大切なことだ」
レオンは頷いた。
頷き方まで完璧だったので、リヴェリアは口を挟まなかった。
その完璧な微笑みの下で、片膝だけが、かたかたと細かく上下していた。
レオンはさりげなく掌を置いて、止める。止めた手を茶碗へ戻すと、膝がまた、床の硬さを確かめはじめた。
リヴェリアは目をそらす。同格の騎士の尊厳を茶の席で守るのに、ここまで気を遣う日が来るとは思わなかったからだ。
*
茶は、実に美味かった。
それがまた、リヴェリアを困らせた。
自分の好む香りが立っている。渋みは少なく、葉を傷めた苦さもない。何より、目の前の茶碗は、
「三度目ですのに、すっかり覚えてくださって」
「疾風が飲むとき、あまり熱いと香りが強すぎるようだった。同じ葉にしたのだが、よかっただろうか」
アルフィはそう説明した。
リューは茶碗を持ったまま、目を閉じた。
そういう女だった、とリヴェリアは思った。
一度見た動作を、自分のものにする。本人も気づいていない小さな癖まで拾う。真似が上手い、という言葉で片づけるには、理解に至るまでが早すぎる。
それを、茶に使ったのか。
「申し分ない」
返した声は、幸い、いつもの自分のものだった。
レフィーヤも茶を飲み、ほっとしたように肩を下げた。
「美味しいです! 私、こういうのはいつも濃くなってしまって……」
「待っている間、蓋を開けたくなるのか」
「あ、はい! どうなったか、気になって!」
「私も初めは開けた。
レフィーヤが、くすっと笑った。
リヴェリアは、笑わなかった自分を褒めた。
*
議題は山積みだった。
救出に使った物資の精算。負傷者の回復に合わせた合同訓練。学区の生徒が預けていた道具の返却。
ベルはリリの助けを借りながら、一つずつ答えた。まだ他人に任せた方が早いこともある。それでも、分からない項目を分かったふりで通さなかった。
レオンはその姿を見て、自分の呼吸をようやく平らにした。
目の前の少年には、ここで話す責任がある。
教師が、過去の恐怖に呑まれている暇はなかった。
「合同訓練は、しばらく都市の中でどうだろう。君にも、今回の連携を身体に残してもらいたい」
「はい! 僕も、ぜひ!」
ベルが身を乗り出した。
リヴェリアは、用意してきた提案に移った。
「望むなら、我々の
声は、そこで途切れた。
茶が注ぎ足されていた。
注がれる音すら、ほとんど聞こえない。
「何日ほどだろうか」
アルフィが尋ねた。
「……まだ、具体的には」
「そうか。決まったら知らせてほしい。夕食の人数を、
リリは手帳を開き、ヴェルフは「そりゃそうだ」と頷いた。
ベルは慌てて、訓練が終わったら帰ると答えた。
「毎日、ここで食べます! 遅れるときは連絡しますから!」
「分かった。なら、魚は同じ数でよいのだな」
女は、それで納得した。
リヴェリアも、泊まり込みの話をそこで打ち切った。
合理的な判断である。近所の派閥同士の交流に、初めから宿泊まで含める必要はない。
自分がどんな圧力を感じたかについて、議事録に書くつもりはなかった。
*
退出の直前、
「お茶は私が片付けますので。今日はずっと、立ちっぱなしでいらっしゃいます」
「風呂の蓋を戻していない。そちらを済ませてくる」
レオンが、敷居を踏み外しかけた。
踏み外す前に、足を収める。その動きだけ見れば、洗練された足運びだった。
「……風呂も!?」
浴室を掃除したことと、今日はもう、柔らかい布を選んでくださったことを。
リヴェリアは、最後まで聞いた。
レオンも、最後まで聞いた。
レフィーヤは、二人の反応に追いつけず、何度も首を左右に振った。
「私、何か聞き落としましたでしょうか……?」
「いや」
リヴェリアは女を見た。
女も、不思議そうにこちらを向いている。
「少しだけ、理解するのに時間の要る話だった」
*
門を出てから、レフィーヤはようやく尋ねた。
「あの方は、そんなに……」
強いのですか、と続けようとして、やめた。
あの場で感じたものを、いつもの言葉に当てはめられない。
レオンは、自分の右袖を見た。
「私は昔、あの人に、丘を斬れと言われた」
「丘!?」
「言われたときは、冗談だと思ったよ」
それが冗談ではないと、彼がいつ気づいたのか。リヴェリアは聞かなかった。
レオンは袖を下ろした。布の表面には、切り残しの糸一本ない。
「今は何を考えているのか……以前より、分からない」
そう言って、騎士は微笑んだ。
振り返ると、家の窓辺で、洗い上がった白い布が揺れていた。
その下で、伝説の怪物が、布と布の間を、風がちょうど通るだけ空けていた。