灰髪の魔女   作:彪(あや)

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第四章 茶器を落とすな

 

 リヴェリアは、主神の説明を二度聞いた。

 死んだはずの女が保護された。本人は記憶を失っている。確かめるまでは、昔の名と過去を本人へ突きつけない。訪問の際は、仮の名で接すること。

 

 そこまでは分かった。

 

「ほんで、レフィーヤ。おまえは根掘り葉掘り聞くな。リヴェリアを立てて、横で茶ぁ飲んどれ」

 

「は、はい!」

 

「名前は呼ぶな。初めて会うたように接しぃ。それと──」

 

 ロキは、そこで一拍置いた。

 

「茶器を落とすな」

 

 最後の忠告だけが、分からなかった。

 

「ロキ、私を誰だと思っている」

 

「うちの頼れる副団長」

 

「ならば、不要な忠告だ」

 

 ロキは、それ以上言い返さなかった。

 言い返されなかったことを、リヴェリアは扉を出てから気にした。

 

         *

 

 レオンと合流したとき、彼も同じ報せを受けていた。

 噂の確認と、負傷者の治療をめぐる打ち合わせは、分けた方がいいのかもしれない。だが、わざわざ分けて、あの家へ何度も大人数で押しかける方がもっとよくない。

 

 レオンはそう言って、いつもの微笑を浮かべた。

 

「まずは、助けてもらった礼を。顔を確かめて、必要なら後日、話をさせてもらおう」

 

「同意する」

 

 レフィーヤだけは、名を知らされていなかった。

 保護している人物の身元を、本人への説明より先に、若い団員へ広める気はないのだろう。リヴェリアは門をくぐる前に、そのことを彼女に話した。

 

「不満か?」

 

「いいえ。ただ、私がご一緒して、かえってご迷惑にならないでしょうか」

 

「君は、これから交渉の場にも立つ。分からないことを、その場で全部聞くのがよいとは限らない。今日は、それを覚えておけ」

 

 レフィーヤは、真剣に頷いた。

 扉を開けたリューの顔を見て、その教えをさっそく試されることになった。

 

         *

 

「改めて、君たちの助力に感謝する。ベル・クラネル、リリルカ・アーデ。ヴェルフ・クロッゾ、それに春ひ──」

 

 リヴェリアの挨拶が、一音だけ崩れた。

 盆を持つ春姫(はるひめ)の横に、もう一人、メイドがいた。

 

 黒い長衣に、白い前掛け。襟元まできっちり整えられた灰色の髪。昔の女は、ここまで几帳面に髪を束ねてはいなかった。

 だが、顔は見間違えようがない。

 

 リヴェリアが思い出したのは、魔法を放つ瞬間の姿ではなかった。

 自分とガレスを路上へ転がし、次にどちらを倒すか、退屈そうに測っていた顔だった。

 

 腹の底が冷えた。

 手が、レフィーヤの立つ側へ半分伸びていた。

 下げる。

 

 室内を見る。リューは立っているが、剣に手を掛けてはいない。ベルは、少しも身構えていない。リリルカは、こちらの目を見て一度、小さく頷いた。

 ここで取り乱すことが、いちばん愚かな行動になる。

 

「……失礼。春姫(はるひめ)、命(ミコト)、そしてリュー。君たちにも」

 

 挨拶を継いだところへ、灰髪の女が茶を置いた。

 茶碗の底は、確かに卓に触れた。

 音がない。

 

「熱いので、お気をつけください」

 

 女は言った。

 リヴェリアはそこでようやく、茶器を落とすなという忠告の意味を理解した。

 

         *

 

 レオンの笑顔は、ほとんど変わらなかった。

 レフィーヤはそれを見て、さすが先生だと思った。

 

 リヴェリアは、彼の足を見ていた。

 右の踵(かかと)が、椅子の下から半分出ている。次に立つとき、左足を引かずに動ける位置だ。腰は半分だけ戸口へ向き、右肩はレフィーヤの前にある。

 退路と、生徒を守る線とを、身体が勝手に選んでいた。

 

「お久し──」

 

 レオンは、自分で言葉を止めた。

 

「失礼。お会いできて、何よりです」

 

「アルフィと申します。今は、この家で世話になっています」

 

 女が、深く礼をした。

 少年だった頃、レオンはあの背中を見たことがある。

 

 海の怪物へ向かっていく、遠い背中だった。自分が英雄と呼ぶものの大きさを、ただひたすら見せつけられた。そのあとも、無謀な挑戦のたびに、同じ差を身体に刻まれた。

 その同じ手が、いま、「世話になっています」と言いながら盆を持っている。

 

 レオンは茶へ手を伸ばし、半分のところで止めた。

 女の指が、こちらへ近づいてきたのだ。

 

「失礼。右の袖に、ほつれが」

 

 腰が浮きかける。浮く前に、戻す。

 表情は穏やかなまま、騎士は右腕を差し出した。

 

「……お願いできるかな」

 

「糸を切るだけだが」

 

 春姫(はるひめ)が鋏(はさみ)を貸した。

 刃が一度、開いて閉じた。

 ただの糸くずが一本、女の掌に残った。

 

 レオンは、その糸より細くなりかけていた息を吐いた。

 

「洗濯物で、同じところを見つけた。ここから裂けると聞いたので」

 

「……洗濯物?」

 

 ほかに聞くべきことは、いくらでもあった。

 口から出たのは、それだけだった。

 

「はい。命(ミコト)に習っている。君の服も、汗を落としてから、この縫い目を」

 

「なるほど。大切なことだ」

 

 レオンは頷いた。

 頷き方まで完璧だったので、リヴェリアは口を挟まなかった。

 

 その完璧な微笑みの下で、片膝だけが、かたかたと細かく上下していた。

 レオンはさりげなく掌を置いて、止める。止めた手を茶碗へ戻すと、膝がまた、床の硬さを確かめはじめた。

 

 リヴェリアは目をそらす。同格の騎士の尊厳を茶の席で守るのに、ここまで気を遣う日が来るとは思わなかったからだ。

 

         *

 

 茶は、実に美味かった。

 それがまた、リヴェリアを困らせた。

 

 自分の好む香りが立っている。渋みは少なく、葉を傷めた苦さもない。何より、目の前の茶碗は、春姫(はるひめ)が慌てて淹れ直したものではなかった。

 

「三度目ですのに、すっかり覚えてくださって」

 

 春姫(はるひめ)が、教え子を誇らしげに見る。

 

「疾風が飲むとき、あまり熱いと香りが強すぎるようだった。同じ葉にしたのだが、よかっただろうか」

 

 アルフィはそう説明した。

 リューは茶碗を持ったまま、目を閉じた。

 

 そういう女だった、とリヴェリアは思った。

 一度見た動作を、自分のものにする。本人も気づいていない小さな癖まで拾う。真似が上手い、という言葉で片づけるには、理解に至るまでが早すぎる。

 それを、茶に使ったのか。

 

「申し分ない」

 

 返した声は、幸い、いつもの自分のものだった。

 レフィーヤも茶を飲み、ほっとしたように肩を下げた。

 

「美味しいです! 私、こういうのはいつも濃くなってしまって……」

 

「待っている間、蓋を開けたくなるのか」

 

「あ、はい! どうなったか、気になって!」

 

「私も初めは開けた。春姫(はるひめ)に止められた」

 

 レフィーヤが、くすっと笑った。

 リヴェリアは、笑わなかった自分を褒めた。

 

         *

 

 議題は山積みだった。

 救出に使った物資の精算。負傷者の回復に合わせた合同訓練。学区の生徒が預けていた道具の返却。

 

 ベルはリリの助けを借りながら、一つずつ答えた。まだ他人に任せた方が早いこともある。それでも、分からない項目を分かったふりで通さなかった。

 レオンはその姿を見て、自分の呼吸をようやく平らにした。

 

 目の前の少年には、ここで話す責任がある。

 教師が、過去の恐怖に呑まれている暇はなかった。

 

「合同訓練は、しばらく都市の中でどうだろう。君にも、今回の連携を身体に残してもらいたい」

 

「はい! 僕も、ぜひ!」

 

 ベルが身を乗り出した。

 リヴェリアは、用意してきた提案に移った。

 

「望むなら、我々の本拠(ホーム)で、数日単位の訓練も組める。必ずしも移籍を意味するものではないが──」

 

 声は、そこで途切れた。

 茶が注ぎ足されていた。

 注がれる音すら、ほとんど聞こえない。

 

「何日ほどだろうか」

 

 アルフィが尋ねた。

 

「……まだ、具体的には」

 

「そうか。決まったら知らせてほしい。夕食の人数を、春姫(はるひめ)と合わせなくてはならない」

 

 リリは手帳を開き、ヴェルフは「そりゃそうだ」と頷いた。

 ベルは慌てて、訓練が終わったら帰ると答えた。

 

「毎日、ここで食べます! 遅れるときは連絡しますから!」

 

「分かった。なら、魚は同じ数でよいのだな」

 

 女は、それで納得した。

 リヴェリアも、泊まり込みの話をそこで打ち切った。

 

 合理的な判断である。近所の派閥同士の交流に、初めから宿泊まで含める必要はない。

 自分がどんな圧力を感じたかについて、議事録に書くつもりはなかった。

 

         *

 

 退出の直前、春姫(はるひめ)がアルフィに休むよう勧めた。

 

「お茶は私が片付けますので。今日はずっと、立ちっぱなしでいらっしゃいます」

 

「風呂の蓋を戻していない。そちらを済ませてくる」

 

 レオンが、敷居を踏み外しかけた。

 踏み外す前に、足を収める。その動きだけ見れば、洗練された足運びだった。

 

「……風呂も!?」

 

 春姫(はるひめ)が、嬉しそうに説明した。

 浴室を掃除したことと、今日はもう、柔らかい布を選んでくださったことを。

 

 リヴェリアは、最後まで聞いた。

 レオンも、最後まで聞いた。

 レフィーヤは、二人の反応に追いつけず、何度も首を左右に振った。

 

「私、何か聞き落としましたでしょうか……?」

 

「いや」

 

 リヴェリアは女を見た。

 女も、不思議そうにこちらを向いている。

 

「少しだけ、理解するのに時間の要る話だった」

 

         *

 

 門を出てから、レフィーヤはようやく尋ねた。

 

「あの方は、そんなに……」

 

 強いのですか、と続けようとして、やめた。

 あの場で感じたものを、いつもの言葉に当てはめられない。

 レオンは、自分の右袖を見た。

 

「私は昔、あの人に、丘を斬れと言われた」

 

「丘!?」

 

「言われたときは、冗談だと思ったよ」

 

 それが冗談ではないと、彼がいつ気づいたのか。リヴェリアは聞かなかった。

 レオンは袖を下ろした。布の表面には、切り残しの糸一本ない。

 

「今は何を考えているのか……以前より、分からない」

 

 そう言って、騎士は微笑んだ。

 振り返ると、家の窓辺で、洗い上がった白い布が揺れていた。

 その下で、伝説の怪物が、布と布の間を、風がちょうど通るだけ空けていた。

 

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