灰髪の魔女   作:彪(あや)

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第五章 神々の報告会

 

 ヘルメスの机には、都市の危機を記した紙が積まれていた。

 上から二枚目には、「浴室清掃」と書いてあった。

 

「アスフィ」

 

「はい」

 

「これを、どこに入れればいいのかな?」

 

「対象者の行動記録です」

 

「ああ、悪い……分類は読めるよ。僕が聞いてるのは、その……世界との折り合いのつけ方なんだ」

 

 アスフィは眼鏡を押し上げた。

 主神に付き合っていても、仕事は減らない。紙の山の下から未処理の依頼を引き抜き、黙々と仕分けを続ける。

 

 ヘルメスは、報告書を読み上げた。

 

「浴室清掃。排水口の詰まりを除去。洗濯。少年の上着の補強を鍛冶師に依頼。魚の骨を抜きすぎ、つみれ汁に変更……」

 

 そこで、紙を置いた。

 

「剣を握ったとか、魔法を詠唱したとか。そういう報告を待つのが、僕の仕事だったよね?」

 

「包丁は握りました。詠唱はしていません。次の頁にあります」

 

「律儀に答えてくれてありがとう……」

 

 ヘルメスは次の頁をめくった。

 刃物を持つアルフィア。なるほど、危険に聞こえる。

 小骨を抜くアルフィア。

 

 紙へ目を戻すたびに、危険の大きさが台所くらいに縮んでいく。それなのに、安心の方は少しも大きくならなかった。

 

「……よく、彼女からこんな話を聞けたね」

 

「本人に尋ねたのではありません。許可をいただいて、ヘスティア・ファミリアの方々からまとめています」

 

「ああ、そうか」

 

「本人に尋ねる必要がおありでしたら、ヘルメス様が」

 

「いや、今のところ、君の判断は適切だ!」

 

 アスフィは、適切という言葉に反論しなかった。

 

         *

 

 五日目の午後、神々は小さな会議を開いた。

 顔ぶれを絞ったのは、秘密を守るためでもあり、全員が喋ると女の休息を損なうからでもあった。

 

 場所はギルドの一室。ヘスティア、ロキ、シル、ヘルメス。ガネーシャは都市の警戒態勢についての報告だけを聞く予定で、壁際に座っている。

 

 最初に報告書を見て笑ったのは、ロキだった。

 

「風呂! あの女が! しかも叱られたんかい!」

 

 笑い声は、そこでぷつりと切れた。

 誰も笑わなかったからではない。ヘスティアが、深々と頷いたからだ。

 

「……ほんまに?」

 

「僕は見た」

 

「排水口も!?」

 

「手を突っ込んで」

 

 ロキは、ふざけて持ち上げかけた片足を、そっと床へ戻した。

 

「ヘラに言うとき、そこ、省いたらあかんかな……」

 

「君が言うなら、好きにしたらいい」

 

「うちは、そこの伝令神に任せたい!」

 

 ヘルメスは席を立とうとした。

 アスフィの手が、すっと肩に置かれた。

 立つことはできた。立ったところで得るものは、何もなさそうだった。

 

「目撃者は探してるよ。ゼウスの便りが通っていた古い宿場に、信頼できる者を回した。あの二柱、居場所を移すのは得意だからね」

 

「見つけても、勝手に呼び寄せないでおくれ。まず本人に話すんだ」

 

 ヘスティアの声に、ヘルメスは頷いた。

 もともと、自分が説明を先延ばしにしてきた事柄だ。それだけに、今度ばかりは軽く流せなかった。

 

「承知しているよ」

 

         *

 

 ガネーシャは、報告を聞く間も大声を出さなかった。

 それを不思議に思ったロキが、横から顔を覗き込む。

 

「おまえ、どっか悪いん?」

 

「俺は、ガネーシャだ」

 

「知っとる。声量の話や」

 

「今は、大きくする必要がない」

 

 それだけで、部屋の空気が落ち着いた。

 

「シャクティは、元々顔見知りだったが、顔と身元を伝えている。部下には外見と、一般の保護対象であることだけを伝えてある。手を出すな、騒ぎを起こさせるな、という命令だ」

 

「シャクティ団長は、何と?」

 

 シルが尋ねた。

 

「職務を果たす、と」

 

 その短さで、何を呑み込んだ返事なのか、神々には分かった。

 七年前を生きた者が、皆同じものを失ったわけではない。アルフィアのしたことも、闇派閥(イヴィルス)のしたことも、ひとまとめにして忘れられはしない。

 

「記憶が戻ったあと、本人から話を聞く。保護することと、過去を問わないことは別だ。ウラノスも、そう言っている」

 

 ガネーシャは、今度は少しだけ声を強めた。

 

「だが──記憶のない女を、見世物にはしない!」

 

 ロキが頷いた。

 

         *

 

「魂を見れば、もっと分かるんちゃうの?」

 

 ロキの問いに、シルは首を横に振った。

 

「色と、輝きと、その揺れ方は分かります。何を思い出すか、いつ思い出すかまでは──」

 

「へえ。あんたにも分からんことがあるんやな」

 

「私が何でも知っていたら、今この席にいると思いますか?」

 

 街娘の笑顔に、ロキが口を曲げた。

 言い返しにくい。何でも見通せる女神なら、ベルをめぐるあの大騒動を、あんな形で終えてはいなかっただろう。

 

「心配なのは、思い出すこと自体ではありません」

 

 シルは、茶の表面に目を落とした。

 

「昔の痛みと、今の心地よさが、いっぺんに意味を持ってしまうことです。記憶がない間にも、執着は育ちます。新しく手に入れたものを、昔の喪失から守ろうとすれば──」

 

「僕たちに向く?」

 

 ヘスティアが聞き返した。

 

「向かないとは、言えません」

 

 シルは言い切ってから、女神としての矜持(きょうじ)を少しだけ覗かせた。

 

「ただ、あの方に何も与えず、遠ざけておけば安全だとも思いません。人は、閉じ込められた場所に恩を感じたりしませんから」

 

 ヘルメスは、その言葉が自分の仕事にも向けられている気がした。

 筋書きの上に置かれた者にも、置かれた場所での暮らしがある。

 それを見ずにいれば、いつか、思い描いた筋書きの方が壊れる。

 

         *

 

 フェルズが持ち込んだのは、小さな氷の欠片だった。

 布で包んであるのに冷気が漏れ、中には黒い繊維が一筋、沈んでいる。

 

「凍っているのは、水だけではない」

 

 魔術師は、古い深層の地図を卓に広げた。

 女の見つかった場所に、印がついている。今の通路図と重ねると、その周りだけ、線がまるで違う方へ走っていた。

 

「根が育って、通路そのものを変えた跡がある。氷室は、普通の地形から切り離された場所にあった。彼女をあそこへ運んだものがいるとすれば、この根だろう」

 

「死体を、わざわざ深い方へ?」

 

「強い魔力を運ぶ理由なら、精霊の側にはある」

 

 フェルズは、そこで言い切るのを避けた。

 氷からは、火傷の跡の残る黒衣も回収されている。燃える縦穴へ落ちた女が、そのまま灰になったとは限らない。けれど、どこで、なぜ捕らえられたのかは、見た者がいない。

 

「分かっているのは、彼女を包んでいた魔力が一種類ではないことだ。取り込もうとした力と、取り込まれまいとした力。その境目が、幾重にも重なっている」

 

「精霊の分身(デミ・スピリット)が、あちこちに根を伸ばしとったんやろ。そっちの魔力も混じっとるんか?」

 

「その見込みはある。本体と分身の間を行き来した魔力の流れが、氷室にも届いていたのだろう。だが、どれが、どう身体を変えたのかまでは、まだ分けられない」

 

 ロキは氷へ手を伸ばしかけて、やめた。

 

「治したのかい?」

 

 ヘスティアの問いに、フェルズは首を振った。

 

「そんな治療法を、私は知らない」

 

「治そうとしたのかどうかさえ、分からないのだ。彼女が、普通の人間と同じ条件であそこに置かれていたとは思えない」

 

 シルは、氷の奥に沈む糸を見つめた。

 

         *

 

 会議の終わりに、ヘスティアが聞きにくそうに切り出した。

 

「ベルくんの服、早めに直してしまった方がいいと思う」

 

 神々が、一斉に彼女を見た。

 

「洗濯のたびに、傷の場所を確かめてるんだよ。何着も、何着も……」

 

 シルは、すぐに頷いた。

 ロキは笑いかけて、やめた。

 ヘルメスは、報告書の余白に「衣服補修、優先」と書き込んだ。

 

「あと、食事を抜いた日も、今のうちに調べておこうか」

 

「それ、要る?」

 

「分からない。でも、聞かれたときに知らないよりは、いい気がする」

 

 英雄の運命を論じるはずの卓で、神々は少年の食事記録を作りはじめた。

 ロキが過去の遠征日程を指で数え、シルが酒場で弁当を渡した日を思い出し、ヘスティアが「この日は僕のじゃがまる君を半分」と書き足す。

 

 ガネーシャだけが、途中で笑った。

 皆が振り向くと、神は大きな手で紙を押さえた。

 

「これで帰ってくる者が増えるなら、よいことだ!」

 

 反対する神はいなかった。

 ただ、ヘルメスだけは、その紙の分類欄を、最後まで埋められなかった。

 

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