灰髪の魔女   作:彪(あや)

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第六章 名前を聞く前の晩

 

 六日目、アルフィは買い物の代金を、硬貨三枚分余らせて帰ってきた。

 リリはまず品物を確かめ、それからお釣りを数えた。

 

 値切ってきたのではない。傷みかけた葉の混じる束を避けて、同じ重さの小さな束を二つ買ったのだという。

 

「こちらの方が、茎を捨てずに使える。命(ミコト)も、そう言っていた」

 

「そうですけど……よく、底の方の葉まで分かりましたね!?」

 

「匂いが違う」

 

 アルフィには、それで説明が済んだ。

 リリには、済まなかった。

 

 籠を受け取り、わざわざ細い葉を一枚ずつ裏返して確かめる。たしかに、黒ずんだところがない。

 

「まさか、全部のお店の籠を調べて──!?」

 

「三軒。君の言った順路からは外れていない」

 

 台所の戸口で、命(ミコト)が小さく拳を握った。自分の教えた茎の話が、ちゃんと生きている。

 リリは手帳に書き込んだ。

 この人に家計を預けたら──と一瞬でも考えた自分の方こそ、点検が要るのかもしれない。

 

         *

 

 台所では、昨日とは違う汁を作った。

 アルフィは出汁(だし)の量も、塩を入れる順も正確に覚えていた。それでも味見をして、しばらく黙り込んだ。

 

「間違えたか」

 

 命(ミコト)が隣から、新しい匙で汁をすくった。

 

「よいお味です」

 

「だが、昨日と違う。昨日と同じにした」

 

「今日の野菜は、少し水気が多いので」

 

 女の顔に、初めてはっきりとした不満が浮かんだ。

 決めたとおりにやったのに、決めたものができない。それは、覚えることよりずっと難しかった。

 

 命(ミコト)は少し考えて、鍋を指した。

 

「同じにしたいのでしたら、変える必要がございます」

 

「……矛盾している」

 

「食べるものが、毎日同じではありませんから」

 

 春姫(はるひめ)が窓を開ける。朝の風が入り、湯気の向きが変わった。

 

 アルフィは、今度は量をほんの少しだけ変えた。

 味見をする。

 それから、用意していた塩を、半分だけ元の容器へ戻した。

 

「今日は、ここまででよいのか」

 

「はい! ベル殿の分も、それで!」

 

 女は、もう一度汁を見下ろした。

 昨日と同じ味にするには、昨日と違う手順が要る。

 

 何か、とても大切なことを思い出しかけた。

 だが、思い出したのは結局、鍋を焦がさないための手順だけだった。

 

         *

 

 その日の検診は、ファミリアの一室で行われた。

 アミッドは髪の紐をほどかせ、爪と指先の色を確かめた。氷室から回収された物を調べているフェルズにも、必要な所見だけを伝える。

 

「歩いたあと、息切れは?」

 

「ない」

 

「痛みは。胸、喉、お腹など」

 

「頭が、時々。古いことを考えたときに」

 

 アミッドは、質問を変えた。

 

「魔力を使ったと感じるときは、ありますか」

 

 アルフィは少し考えた。

 

「器を、静かに置きたいとき」

 

 フェルズが顔を上げた。

 女は、机の上の杯を持ち上げてみせた。

 

 指と器の間に、薄い膜のようなものが寄った。目に見えたのは、光の映り込みがわずかにずれたことだけだった。

 杯が卓に着く。

 音は、置かれる直前に消えた。

 

「こうする方が、耳に優しい」

 

 フェルズは、黒衣の奥で腕を組んだ。

 

「疲れないか」

 

「少しも」

 

「……そうか」

 

 女は、その問い方の慎重さを聞き取った。

 

「以前の私は、疲れたのか」

 

 フェルズは、答える前にアミッドを見た。

 医者は、頷きも首振りもしなかった。これは診断ではない。知っている者が答えるべき質問だった。

 

「少なくとも、今と同じようには使えなかった」

 

 アルフィは、その答えを受け取った。

 恐ろしいことを言われた気がした。強くなったのだと言われても、嬉しくはなかった。

 

 以前の自分は、どれほど疲れながら生きていたのだろう。

 

         *

 

 午後、リューが中庭で薬草を選り分けていると、アルフィが空の籠を持ってやってきた。

 仕事を教えてほしいのだろう、とリューは場所を空けた。

 

 女は、座らなかった。

 

「君は、私が怖いのか」

 

 リューは薬草を置いた。

 逃げるつもりなら、別の話題はいくらでも出せた。相手には、それを咎められるだけの記憶がない。

 

「はい」

 

 答えると、女の指が籠の縁を強く押した。木が軋む(きしむ)前に、その力はゆるめられた。

 

「私は、君を傷つけたのだな」

 

「以前のあなたと、戦ったことがあります」

 

 女は黙っていた。

 リューは、その沈黙に任せて逃げなかった。

 

「だからといって、今のあなたに剣を向ける理由にはなりません。あなたがここでしていることも、見ています」

 

「だが、同じ手だ」

 

「ええ」

 

 リューは、自分の掌も開いてみせた。

 その手で自分が何をしたのかを、知らないふりはできない。

 

「私も、そうです」

 

 遠くで、ヴェルフの槌(つち)が鳴った。

 アルフィはその音の方へ顔を向け、しばらく聞いてから、空いていた椅子に座った。

 

「君は、ベルをよく見ている」

 

「彼は、目を離すと無茶をしますから」

 

「皆が、そう言う。それでも行かせるのか」

 

「止めても、行くでしょう。必要だと思えば。私も、あなたも、そのことは忘れない方がいいと思います」

 

 返事はなかった。

 聞きたくない話を聞かされた者の、わずかに固い顔だった。

 

 リューはそこに初めて、記憶をなくす前の女と、いまの女との継ぎ目を見た。

 優しくなるために、別人になったのではない。どうしても自分で決めたいところが、いまも残っているのだ。

 

「……この葉は、どこで分ける」

 

 女が尋ねた。

 リューは、傷んだところと、まだ使えるところを示した。

 

 アルフィは、今度は迷わず、まだ使える小さな葉を籠に残した。

 

         *

 

 夕方、ヘディンとヘグニが書類を届けに来た。

 玄関に出たアルフィを見て、ヘグニが半歩止まった。

 

 ヘディンが、彼の前に出た。

 

「神ヘスティアへ、ギルドからの確認書だ」

 

「預かろう。順番は、このままでよいのか」

 

 女は紙の端を揃えた。

 まとめ紐を外す前に、三枚目だけ上下が逆なのを、指先で探り当てる。文字の向きを見たのではない。紙の折れ目と、端の擦れ方が違ったらしい。

 

「……それも、直しておけ」

 

 ヘディンの声は、まるで自分の落ち度を指摘されたかのように硬かった。

 

 部屋に通されても、ヘグニは椅子に座らなかった。

 

「お、おまえは……働いているのか」

 

 アルフィは、今日二度目の不思議な質問を受けた。

 

「この家にいる間は。何もしない方が、落ち着かない」

 

「……そう、か」

 

 ヘグニが続きの言葉を探しているうちに、茶が出た。

 ヘディンは受け取る直前、卓の上に置かれた補修済みの服に目を留めた。

 

「少年に、休息の必要を言っておけ」

 

「君も、そう思うのか」

 

「思うだけで足りるなら、苦労はしない」

 

 女は、その返事を覚えておくことにした。

 思わぬところで、ヘディンの言葉に全面的に頷く者が現れたのだ。ヘグニが、ぞっとしたように二人を見比べた。

 

「……ヘディンと、意見が合っている……」

 

 当のヘディンは、それをあまり喜べなかった。

 

         *

 

 夜、アルフィはヘスティアに、名前を知りたいと申し出た。

 

「明日、ベルが街を案内してくれる。そのあとで、聞きたい」

 

 女神は、書き物の手を止めた。

 

「怖くはない?」

 

「怖い」

 

 返事は、素直だった。

 その素直さは、この家で過ごした六日のうちに育ったものだと、ヘスティアは感じた。ただ休ませて、何もさせずに置いておいた六日ではなかった。

 

「君が誰だったのかを知っても、ここにいたことは消えないよ」

 

「消えてほしくない」

 

 アルフィは、そこでわずかに声の調子を変えた。

 

「私は、世話になった相手に礼を返したい。以前の私がそれを嫌ったとしても、今の私には、借りがある」

 

 ヘスティアは、筆を置いた。

 笑みを消して、椅子の上で背を伸ばす。机の上の灯りの炎が、すっと彼女の方へ傾いた。

 

「アルフィくん。君は、自分を別々にしすぎだよ」

 

 穏やかな声だった。けれど、言い返す隙間がなかった。

 

「名前を聞いたあとの君も、この家のご飯を食べて、この家の風呂を洗った君なんだ。昔の君がそれを嫌うなら、嫌ったままでいい。それでも、借りは君のものだ。返したいなら、両方の君で返しにおいで」

 

 アルフィは、背筋を伸ばしていた。

 いつ伸ばしたのか、自分でも分からなかった。神の前に立つときの姿勢を、身体の方が先に覚えていた。

 

「……そうしよう」

 

「うん。明日の晩、皆で聞こう。君も、ベルくんも。アミッドくんにも来てもらう。君が何を思い出しても、その席は、僕が預かる」

 

 炉の女神は、そう言い切った。

 

 女は頷き、部屋へ戻っていった。

 扉が閉まると、ヘスティアの肩から、ふっと力が抜けた。女神は、連絡用の紙を引き寄せた。

 

 文字を書く手が、少しだけ速くなる。

 明日の晩までに、話せることを整理する。記憶が戻ったら、まず座ってもらう。体の具合を確かめる。ベルに、本人の口から伝える時間を渡す。

 

 書けば書くほど、これで足りるとは思えなかった。

 それでも、何もしないよりはいい。

 

 隣の部屋から、低い鼻歌が聞こえた。

 途中で一か所だけ、音が途切れる。しばらくして、女は最初から歌い直した。

 

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