六日目、アルフィは買い物の代金を、硬貨三枚分余らせて帰ってきた。
リリはまず品物を確かめ、それからお釣りを数えた。
値切ってきたのではない。傷みかけた葉の混じる束を避けて、同じ重さの小さな束を二つ買ったのだという。
「こちらの方が、茎を捨てずに使える。
「そうですけど……よく、底の方の葉まで分かりましたね!?」
「匂いが違う」
アルフィには、それで説明が済んだ。
リリには、済まなかった。
籠を受け取り、わざわざ細い葉を一枚ずつ裏返して確かめる。たしかに、黒ずんだところがない。
「まさか、全部のお店の籠を調べて──!?」
「三軒。君の言った順路からは外れていない」
台所の戸口で、
リリは手帳に書き込んだ。
この人に家計を預けたら──と一瞬でも考えた自分の方こそ、点検が要るのかもしれない。
*
台所では、昨日とは違う汁を作った。
アルフィは
「間違えたか」
「よいお味です」
「だが、昨日と違う。昨日と同じにした」
「今日の野菜は、少し水気が多いので」
女の顔に、初めてはっきりとした不満が浮かんだ。
決めたとおりにやったのに、決めたものができない。それは、覚えることよりずっと難しかった。
「同じにしたいのでしたら、変える必要がございます」
「……矛盾している」
「食べるものが、毎日同じではありませんから」
アルフィは、今度は量をほんの少しだけ変えた。
味見をする。
それから、用意していた塩を、半分だけ元の容器へ戻した。
「今日は、ここまででよいのか」
「はい! ベル殿の分も、それで!」
女は、もう一度汁を見下ろした。
昨日と同じ味にするには、昨日と違う手順が要る。
何か、とても大切なことを思い出しかけた。
だが、思い出したのは結局、鍋を焦がさないための手順だけだった。
*
その日の検診は、ファミリアの一室で行われた。
アミッドは髪の紐をほどかせ、爪と指先の色を確かめた。氷室から回収された物を調べているフェルズにも、必要な所見だけを伝える。
「歩いたあと、息切れは?」
「ない」
「痛みは。胸、喉、お腹など」
「頭が、時々。古いことを考えたときに」
アミッドは、質問を変えた。
「魔力を使ったと感じるときは、ありますか」
アルフィは少し考えた。
「器を、静かに置きたいとき」
フェルズが顔を上げた。
女は、机の上の杯を持ち上げてみせた。
指と器の間に、薄い膜のようなものが寄った。目に見えたのは、光の映り込みがわずかにずれたことだけだった。
杯が卓に着く。
音は、置かれる直前に消えた。
「こうする方が、耳に優しい」
フェルズは、黒衣の奥で腕を組んだ。
「疲れないか」
「少しも」
「……そうか」
女は、その問い方の慎重さを聞き取った。
「以前の私は、疲れたのか」
フェルズは、答える前にアミッドを見た。
医者は、頷きも首振りもしなかった。これは診断ではない。知っている者が答えるべき質問だった。
「少なくとも、今と同じようには使えなかった」
アルフィは、その答えを受け取った。
恐ろしいことを言われた気がした。強くなったのだと言われても、嬉しくはなかった。
以前の自分は、どれほど疲れながら生きていたのだろう。
*
午後、リューが中庭で薬草を選り分けていると、アルフィが空の籠を持ってやってきた。
仕事を教えてほしいのだろう、とリューは場所を空けた。
女は、座らなかった。
「君は、私が怖いのか」
リューは薬草を置いた。
逃げるつもりなら、別の話題はいくらでも出せた。相手には、それを咎められるだけの記憶がない。
「はい」
答えると、女の指が籠の縁を強く押した。木が
「私は、君を傷つけたのだな」
「以前のあなたと、戦ったことがあります」
女は黙っていた。
リューは、その沈黙に任せて逃げなかった。
「だからといって、今のあなたに剣を向ける理由にはなりません。あなたがここでしていることも、見ています」
「だが、同じ手だ」
「ええ」
リューは、自分の掌も開いてみせた。
その手で自分が何をしたのかを、知らないふりはできない。
「私も、そうです」
遠くで、ヴェルフの
アルフィはその音の方へ顔を向け、しばらく聞いてから、空いていた椅子に座った。
「君は、ベルをよく見ている」
「彼は、目を離すと無茶をしますから」
「皆が、そう言う。それでも行かせるのか」
「止めても、行くでしょう。必要だと思えば。私も、あなたも、そのことは忘れない方がいいと思います」
返事はなかった。
聞きたくない話を聞かされた者の、わずかに固い顔だった。
リューはそこに初めて、記憶をなくす前の女と、いまの女との継ぎ目を見た。
優しくなるために、別人になったのではない。どうしても自分で決めたいところが、いまも残っているのだ。
「……この葉は、どこで分ける」
女が尋ねた。
リューは、傷んだところと、まだ使えるところを示した。
アルフィは、今度は迷わず、まだ使える小さな葉を籠に残した。
*
夕方、ヘディンとヘグニが書類を届けに来た。
玄関に出たアルフィを見て、ヘグニが半歩止まった。
ヘディンが、彼の前に出た。
「神ヘスティアへ、ギルドからの確認書だ」
「預かろう。順番は、このままでよいのか」
女は紙の端を揃えた。
まとめ紐を外す前に、三枚目だけ上下が逆なのを、指先で探り当てる。文字の向きを見たのではない。紙の折れ目と、端の擦れ方が違ったらしい。
「……それも、直しておけ」
ヘディンの声は、まるで自分の落ち度を指摘されたかのように硬かった。
部屋に通されても、ヘグニは椅子に座らなかった。
「お、おまえは……働いているのか」
アルフィは、今日二度目の不思議な質問を受けた。
「この家にいる間は。何もしない方が、落ち着かない」
「……そう、か」
ヘグニが続きの言葉を探しているうちに、茶が出た。
ヘディンは受け取る直前、卓の上に置かれた補修済みの服に目を留めた。
「少年に、休息の必要を言っておけ」
「君も、そう思うのか」
「思うだけで足りるなら、苦労はしない」
女は、その返事を覚えておくことにした。
思わぬところで、ヘディンの言葉に全面的に頷く者が現れたのだ。ヘグニが、ぞっとしたように二人を見比べた。
「……ヘディンと、意見が合っている……」
当のヘディンは、それをあまり喜べなかった。
*
夜、アルフィはヘスティアに、名前を知りたいと申し出た。
「明日、ベルが街を案内してくれる。そのあとで、聞きたい」
女神は、書き物の手を止めた。
「怖くはない?」
「怖い」
返事は、素直だった。
その素直さは、この家で過ごした六日のうちに育ったものだと、ヘスティアは感じた。ただ休ませて、何もさせずに置いておいた六日ではなかった。
「君が誰だったのかを知っても、ここにいたことは消えないよ」
「消えてほしくない」
アルフィは、そこでわずかに声の調子を変えた。
「私は、世話になった相手に礼を返したい。以前の私がそれを嫌ったとしても、今の私には、借りがある」
ヘスティアは、筆を置いた。
笑みを消して、椅子の上で背を伸ばす。机の上の灯りの炎が、すっと彼女の方へ傾いた。
「アルフィくん。君は、自分を別々にしすぎだよ」
穏やかな声だった。けれど、言い返す隙間がなかった。
「名前を聞いたあとの君も、この家のご飯を食べて、この家の風呂を洗った君なんだ。昔の君がそれを嫌うなら、嫌ったままでいい。それでも、借りは君のものだ。返したいなら、両方の君で返しにおいで」
アルフィは、背筋を伸ばしていた。
いつ伸ばしたのか、自分でも分からなかった。神の前に立つときの姿勢を、身体の方が先に覚えていた。
「……そうしよう」
「うん。明日の晩、皆で聞こう。君も、ベルくんも。アミッドくんにも来てもらう。君が何を思い出しても、その席は、僕が預かる」
炉の女神は、そう言い切った。
女は頷き、部屋へ戻っていった。
扉が閉まると、ヘスティアの肩から、ふっと力が抜けた。女神は、連絡用の紙を引き寄せた。
文字を書く手が、少しだけ速くなる。
明日の晩までに、話せることを整理する。記憶が戻ったら、まず座ってもらう。体の具合を確かめる。ベルに、本人の口から伝える時間を渡す。
書けば書くほど、これで足りるとは思えなかった。
それでも、何もしないよりはいい。
隣の部屋から、低い鼻歌が聞こえた。
途中で一か所だけ、音が途切れる。しばらくして、女は最初から歌い直した。