ベルは、皆が何かを隠していることに気づいていた。
見抜くほどの鋭さがあったわけではない。アルフィのことになると、神様がいつもより丁寧に話す。それだけで、何かあると分かった。
普段の神様は、もっと気軽に怒って、笑って、彼に飛びついてくるのだ。
だから、聞こうと思えば聞けた。
けれど、彼女自身がまだ知らないことを、自分だけ先に知ってしまうのは違う気がした。
代わりに、街を案内しようと決めた。
思い出す手掛かりが見つからなくても、家の外で笑ったことを一つ増やせる。それくらいなら、自分にもできる。
「夕食までには、戻ります!」
七日目の朝、玄関でそう言うと、ヘスティアは腕を組んだ。
「最初にそれを言うあたり、君も少しずつ分かってきたね」
「え?」
「ううん。いいことだよ。行き先は、昨日聞いたとおり?」
「はい! 北のお店を回って、豊穣の女主人へ。そのあと、ギルドに。エイナさんにも、ご紹介したいので!」
リリが、財布の中身を数え直した。
それから、懐から小さな布包みを取り出す。
「追加のお買い物は、この範囲で。それと、ベル様にはこれを」
布の中には、掌に収まるほどの水晶がくるまれていた。
保護を引き受けた日に、フェルズが「何かあれば、これで」と一組だけ置いていった
「道順を変えるときと、何かあったときは、これで知らせてください。話すときだけ布から出して、済んだらすぐに包むこと。出しっぱなしにすると、見えるものも聞こえるものも、全部こちらに筒抜けですからね」
「それ、フェルズくんは僕に預けていったんだけどなあ……」
ヘスティアが、恨めしそうに布包みを見た。
「神様にお預けしたら、三日でどこかへ行ってしまいます。一日目の書類のこと、お忘れですか」
「あれは、なくしたんじゃなくて、ちょっと見当たらなかっただけだよ!」
「同じことです。一組しかないんですよ」
リリは、布包みをベルの掌にしっかりと押しつけた。
「リリ。僕たち、遠征に出るわけじゃ──」
「連絡は、日常から練習するものですッ!」
言っていることは正しかった。
ベルが頷いたとき、階段からアルフィが降りてきた。
借りていたメイド服を脱ぎ、ヴェルフが繕った黒いドレスを着ている。袖の継ぎ目には、よく見ると新しい糸が通っていた。
女は一番下まで降りてから、裾を指でつまんだ。
「足に当たる位置が、前のものと違うな」
「歩きにくいですか?」
「いや。身体が、こちらを知っている」
黒い服は、彼女を昨日より少し遠く見せた。
けれど、こちらへ向けた口元は同じだった。
ベルは、その両方を見てから、手を差し出した。
「行きましょう!」
アルフィは手を見つめ、少し遅れて取った。
ヘスティアが何か言いかける。
ベルは、今朝だけは先回りをした。
「一人にしません! 疲れたら休みます! 遅れるときは、必ず連絡しますッ!」
そのまま門へ向かう。
神様の返事を最後まで待たずに、二人で石段を下りた。
「……少し、強引だな」
女の声に、笑いが混じっていた。
「すみません。今日は、僕の方から案内したくて」
「謝ることはない。君の家の神が追ってこない程度なら、構わない」
背後で、ヘスティアがリリに叫んだ。
「護衛はッ!?」
「出ていただいています! 今度は大丈夫ですッ!」
二階の窓が、がらりと開いた。
「ベル殿ーっ! アルフィ殿に、楽しい思い出をーっ!」
ヘスティアが、窓と門を交互に見て頭を抱える。リリはその横で、懐の布包みを、そっと押さえていた。
「今度は」というのが何のことなのか、ベルには分からなかった。
*
朝の通りは、遠征のあとの都市とは思えないほど賑やかだった。
荷車が通り、パン屋が焼きたてを並べる。布屋の小僧が二階から敷布を振り、叱られて引っ込む。
アルフィは、音の多い方から少しだけ顔を背けた。
ベルが道の端に寄ると、女も同じように寄る。
「こちらなら、静かですか?」
「君は、案内をするだけでなく、耳の番もするのか」
「あっ。余計でしたか……」
「違う。忙しいだろうと思った」
ベルは少し考えて、笑った。
「いつも、僕がしてもらってますから」
女は返事をせず、彼の歩幅に合わせた。
背の高い人なのに、隣を歩くのは不思議と楽だった。急ぐ必要も、気の利いた話題を探す必要もない。
アイズの隣なら、もっと背筋を伸ばす。彼女の見ている景色に追いつきたくて、歩く速さまで気になる。
今日は、追いつかなくてもいい気がした。
立ち止まったら、この人も止まる。何も言わなくても、道を戻ってきてくれる。
そんな、勝手な安心があった。
ベルは、その安心に名前をつけなかった。
*
林檎が転がってきたのは、二つ目の角だった。
籠の取っ手が切れて、老婦人が「あら」と声を上げる。
ベルが屈んだときには、アルフィがもう四つ拾っていた。残りの一つを靴の先で受け止め、落とさずに手まで上げる。
「これで、全部だろうか」
「ええ、ええ。どうもありがとう。お目がお悪いのかい、お嬢さん」
「支障はない。お気遣いなく」
女は林檎を返した。
ベルは、拾いそこねた自分の掌を見た。
「今の、見えてたんですか!?」
「音がした。転がるものは、だいたい決まった方へ行く」
「だいたい……」
ベルも冒険者だ。投げられた短剣を避けられるし、暗い
その自分が、動き出す前に、全部終わっていた。
手を見つめていると、女は少し恥ずかしそうに言った。
「皿で、練習をした」
家事は、ずいぶん役に立つらしい。
ベルは、あとで自分も
*
道具屋では、洗い物用の手袋を買った。
女の指に合うものがなく、店主が倉庫を探している間、ベルは飾り棚を眺めていた。
安い金具の髪留めに、小さな
「綺麗ですね。この色、アルフィさんに似合いそうです」
女は石へ指を伸ばし、触れてよいか店主に確かめた。
許しをもらってから、輪郭をなぞる。
「……これは、何色だ」
「翠です。光に当たると、少し淡くなります」
指が止まった。
「そうか。目が離せない気がした」
ベルは、女の閉じた瞼を見た。
言おうか迷っていると、女の口元の方が先にゆるんだ。
「言葉の使い方を、間違えたか」
「いえ。たぶん、そのままで合ってます」
ベルは財布を開いた。
髪留めは、予算に収まった。けれど、記憶のない相手に、勝手に昔を思わせるものを贈っていいのか、少し迷った。
「気に入ったのなら、今日の記念に。あの、差し上げても──」
アルフィは、すぐには頷かなかった。
「君も、何か買う予定だったのだろう」
「僕のは、また今度にできます!」
女の表情が、ほんの少しだけ厳しくなった。
「君のものを、先に選ぼう」
結局、ベルは針仕事用の小さな糸切りを買った。
髪留めは、そのあとで女に渡した。
彼女は受け取ってから、店の外に出るまで、同じ指で何度もその縁を確かめていた。
*
「やあ、奇遇だね!」
通りの向こうに、ヘルメスがいた。
アスフィもいる。こちらは、主神が何を言い出すかを、先回りして心配している顔だった。
ベルは手を振った。
女を紹介するより先に、ヘルメスが帽子を取る。
「ヘスティアから、お話は。お体の具合はいかがです?」
「おかげさまで。手間をかけて、すまない」
アルフィが頭を下げた。
ヘルメスは、その礼が終わるまで一言も出せなかった。
膝を折らずにいられたことを、誰かに褒めてほしかった。
「……必要なものがあれば、遠慮なく」
「今、手袋を買ったところだ。君にも、この街のことで世話になっていると聞いた。いずれ、返したい」
ヘルメスの笑顔に、余計な線が一本増えた。
返してもらいたい借りと、返しに来てほしくない相手とは、両立するらしい。
「そのお気持ちだけで、十分ですよ!」
声を取り戻してから、彼は女の手を見た。
薄く荒れた指先。買ったばかりの手袋。
伝説の怪物に傷をつけたのが洗剤だという事実を、ヘルメスはまだ受け入れられずにいた。
できることなら、その洗剤にも二つ名を授けておきたかった。
その隣で、アスフィが小さく息を吐いた。
「ベル・クラネル。あなたは本当に、生まれてくる星を間違えたのでは」
「えっ、僕、何かしましたか!?」
アスフィは答えず、主神の背を押して歩き出した。
*
古い教会に寄ったのは、ベルの思いつきだった。
途中の道は、何度も歩いた道だ。大きな家に移ってからも、ここを通ると、一度だけ歩みが遅くなる。
崩れ残った壁の影に、草が生えていた。
「最初は、ここに住んでたんです」
女は、石を撫でた。
「狭かったのか」
「はい。でも、神様と二人だったので。物も少なくて」
ベルは、階段の跡を指さした。下りたところに寝台があった。神様は朝に弱く、彼が先に起きると、毛布だけがもぞもぞ動いた。お金のない日でも、帰れば誰かが待っていた。
話しているうちに、壊れた壁の内側へ、昔の部屋が戻ってくる気がした。
アルフィは、扉のあったあたりへ、長く顔を向けていた。
「なぜ、壊れた」
「襲われたことがあって。でも、今はもう──」
女の指が、石に食い込みかけた。
その指を、彼女は自分で引いた。
「すまない。君の、よい思い出を聞いていたのだったな」
ベルは、首を横に振った。
「嫌なこともありました。でも、それだけの場所には、したくないんです」
女は、少しだけ顎を下げた。
白い壁。崩れる天井。自分を見上げる、若いエルフ。
この教会ではない記憶が、石の奥から響いた。
ベルの手が、女の袖に触れた。
「疲れましたか?」
「いや」
アルフィは、遠い壁から手を離した。
「覚えているのなら、なくなっても、全部は失わないのだな」
ベルは、何と答えればいいのか迷った。
自分の言ったことよりも、ずっと大きなことを聞かれた気がした。
*
豊穣の女主人では、シルが入口で待っていた。
待ち構えていた、と言いたくなるほど、二人を見つけるのが早かった。
「静かなお席を、取ってあります」
「ありがとうございます! ミアさんも、いらっしゃいますか?」
「厨房に。ええ。今日は、ずっと」
案内された卓に、ミア本人が皿を運んできた。
アルフィは立って礼をした。ミアは、その顔を一度、正面から見た。
「食べな」
短い言葉だった。
女は頭を下げて、座り直す。ミアはそれ以上何も言わず、厨房へ戻っていった。
ベルは首を傾げたが、すぐに料理の湯気に気を取られた。
食べはじめると、アルフィは少し遅れてフォークを動かした。
姿勢がいい。刃の向きも、器を引き寄せる距離も、整っている。それなのに、ベルが野菜を一つ転がすと、自分の皿より先にそちらへ手が出た。
「大丈夫です! 自分で拾えます!」
「そうだったな」
女はフォークを戻した。
その一連の動きを、シルが水差しを持ったまま見ていた。
「こちらも、どうぞ」
ヘルンが、杯を二つ置いた。
ベルの前に置くときは、いつもの無愛想な顔だった。
「注文を、間違えました。……捨てるのも惜しいので、飲みなさい」
そして女に向き直ると、声までやわらかくなる。
「ご不自由はございませんか? 何かございましたら、お申し付けを」
「君は、最初に腕を貸してくれた人だな」
ヘルンの表情が、止まった。
覚えていたのだ。主に命じられた介助ではなく、自分が実際に差し出した腕を。
「……当然のことを、したまでです」
通りかかったヘイズが、にやりとした。
「ベルにも、そのくらい親切にしてあげたらどうです? 間違えた杯とか言わずに」
「仕事をしなさい」
「してますって! こっちは三卓まとめて。そっちは、ずうっとこちらのお二人だけ。いやあ、念入りですねえ!」
ヘルンが睨む。ヘイズが笑う。ベルは身を縮める。
アルフィには、互いの手の足りないところを分かり合っている、いい店に見えた。
*
会計のとき、アーニャが二人を見比べた。
「親子みたいだニャ!」
シルの水差しが、一瞬だけ傾いた。
「アーニャさんッ!」
ベルは慌てた。
女は、自分の頬に手をやった。
「そんなに、上に見えるのか」
「年の話じゃないニャ! なんか、似てるニャ! 白いとことか、食べるとことか!」
「食べるところ?」
「待ってあげるとこ! あと、見てるとこ!」
説明は、最後まで要領を得なかった。
それでも女は、しばらく何も言わなかった。
やがて、その顔がアーニャの尻尾の方を向いた。目の代わりに、別の感覚で見ている向き方だった。
「毛が、絡まっている。触れてもよいか」
「ニャ? いいけど──ニャッ!?」
指が、一度だけ通った。
小さな結び目が、嘘のようにほどけた。アーニャの膝が、なぜか一緒にゆるんだ。
「そこ、もう一回……」
「アーニャ、お仕事」
シルの声が、笑顔のまま一段低くなる。
アルフィは、すぐに手を引いた。
「すまない。
「
「お仕事です」
会計台の向こうで、ミアが噴き出した。
その笑い声を聞いて、シルまで少し笑った。
ベルは二人に頭を下げ、女と並んで店を出た。
午後の通りは、朝より明るかった。
記憶は戻らなかった。それでも、今日をまだ失敗だとは思わなかった。