ギルドの入口で、アルフィは足を止めた。
書類をめくる音。硬貨の触れ合う音。石の床を、硬い靴が行き交う音。
どれも、初めて聞く音ではない。
その奥に、聞き覚えのある響きがあった。紙を一枚めくるたびに、どこかで誰かの行き先が決まっていく──そういう場所の音だった。
女の唇から、笑みが消えた。
受付の男が、筆を持つ手を止める。
近くの冒険者も、振り向いた。寒くなったのかと肩をさすり、窓が開いていないことに気づいて首を傾げた。
「アルフィさん?」
ベルの声に、女は顔を向けた。
「すまない。何か、覚えている気がした」
「この建物を、ですか?」
「ここで、誰かに腹を立てたような……」
ベルは、ちょっと困った顔をした。
ギルドに腹を立てる冒険者は多い。神様だって、税金の話をされたときにはよく怒っている。
「今夜、そのことも聞けるかもしれませんね」
アルフィは頷き、肩の力を抜いた。
受付の男が、また筆を動かしはじめる。隣の冒険者が、気のせいだったと笑う。
ベルだけが、あとになって気づいた。
あのとき、女の手が自分の方へ伸びかけ、触れる寸前で止まっていたことに。
*
エイナは不在だった。
妹と一緒に治療院へ行っていると聞いて、ベルは今日の挨拶を諦めかけた。
そのとき、後ろから明るい声がした。
「アルゴノゥトくん!」
ティオナが、片手を大きく振っていた。
数日前に見たときより、足取りが軽い。肩の傷をかばうように少し腕を引いているが、顔はいつもの彼女だった。
「会えてよかった! アイズが、起きたよ!」
ベルの息が、途中で止まった。
大丈夫だとは聞いていた。治療が進めば、意識は戻る。アミッドも、リヴェリアも、そう言っていた。
それでも毎日、誰かが同じ言葉を言い直してくれなければ、不安だった。
今は違う。
起きた。
声を、聞ける!
「……会っても、大丈夫なんですか!?」
「短くだけどね! リヴェリアに、呼んできてって言われたの! あ、でも、お出かけ中?」
ティオナの目が、黒い服の女に移った。
誰なのかは知らない。けれど、立ち方を見て、すぐに分かることがあった。
強さを隠そうとして、肩をこわばらせる者なら何人も見てきた。この人は違う。ただ立っているだけなのに、どの角度から近づくかを、こちらが選ばされる。
「……あたし、ティオナ! よろしく!」
「アルフィと申します」
女が礼をした。
ティオナはいつもの調子で、ベルの肩に腕を回そうとした。その瞬間、女の顔が、ほんの少しだけこちらを向いた。
睨まれたわけではない。
ただ、腕を置く前に、確かめられた気がした。
回しかけた腕は、空中で行き先を変えた。ぽん、と少年の背中を軽く叩く方へ。
「強い人が増えたんだねえ、君の家!」
ベルは、返事に迷った。
女の方が先に答えた。
「今は、皿を運んでいるだけだが」
ティオナは、ますます分からなくなった顔で笑った。
*
ベルは、懐から布包みを取り出した。
布をめくると、水晶の奥に、見慣れた栗色の髪と大きな瞳が映った。
『ベル様! 何かありましたか!?』
「リリ、行き先を変えるね。アイズさんが目を覚ましたって。バベルの治療院に寄ってから帰るよ」
『アイズ様が……! 分かりました、神様にもお伝えします。……ところで、ベル様のすぐ後ろにいらっしゃるのは』
水晶の中の瞳が、すっと細くなった。
ティオナが、ベルの肩越しにひょいと顔を出す。
「やっほー、ティオナだよ!」
『存じ上げております。ベル様、お話が済んだら、すぐに包んでくださいね。すぐに、です』
「う、うん。じゃあ、またあとで」
ベルは、言われたとおりに布を戻した。
その手順を見て、アルフィが頷いた。
「忘れていなかったな」
「はい! 約束しましたから!」
ティオナは、包まれた水晶と、二人の顔を見比べた。
「それ、
それから、何か言いかけた。
言いかけた言葉は、昼に酒場でアーニャが口にしたのと同じものだった。ティオナは、なぜかそれを自分で呑み込んだ。
*
バベルの治療院では、入口に集まる人々を、アミッドが一人で
《
神が来ても、商人が来ても、彼女の言うことは変わらなかった。
「面会の順番は、治療の都合で決めます」
ベルも、同じ説明を受けた。
アルフィには、先に一度、診察室へ寄るよう告げられた。
「長く歩かれましたから。今の状態を見せていただきます」
女は素直に従った。
脈にも呼吸にも、乱れはない。熱もない。本人も、疲れたとは言わなかった。
アミッドは前日と変わらない所見を書き留め、ベルに向き直った。
「ご一緒に入られて結構です。ただし、様子が変わったら、すぐに呼んでください」
ベルは、真剣に頷いた。
ティオナが、先に立って扉を開けた。
「連れてきたよ──!」
*
アイズは、枕を重ねた寝台の上で、身体を起こしていた。
白い寝具の中で、金の髪がいつもより細く見える。
リヴェリアが枕元に座り、レフィーヤは窓を少しだけ開けていた。リューは、差し入れの水差しを卓に置くところだった。
扉が開いても、アイズの表情は大きく変わらなかった。
目だけが、ベルを見つけた。
「……ベル」
その一言で、少年の喉が詰まった。
「アイズさん……! よかった……!」
近づいていいのか迷って、寝台から二歩のところで止まる。
アイズの指が、空いている椅子を示した。
「こっち」
ベルが座ると、彼女はようやく、顎をほんの少しだけ下げた。
肩から、余計な力が抜けたように見えた。
「怪我は」
「僕はもう大丈夫です! アイズさんこそ、まだ無理しないで──」
「うん」
頷いたあとも、金色の目は少年から離れなかった。
アルフィは入口の近くで、そのやり取りを聞いていた。
リューが、彼女の傍へ来た。
「外出の途中だったのですね」
「ベルが、街を見せてくれた」
隠す必要のない話だった。
リューも、そうですか、と頷いた。今夜には本人へ説明する予定だと、朝のうちに聞いている。急に過去を問い詰められることもなく、このまま夕方まで穏やかに過ごせればいい。
*
ティオナは、いったん廊下へ出た。面会の人数を減らすためでもあり、姉に知らせに行くためでもあった。
入れ替わりに、エイナとニイナが入ってきた。
ギルドで警備の確認を済ませたシャクティが、そのあとに続く。
エイナはベルを見つけて、ほっとしたように笑った。
「ここにいたんだね。怪我は、本当によくなった?」
「はい! ご心配をおかけしました。あの、今日ご紹介したかった方が──」
ベルが女を示すと、エイナは丁寧に挨拶を返した。
ニイナも隣で頭を下げ、すぐにベルの方を見た。
「ラピくん、その服、前と違う」
「あ、縫ってもらったんだ! 肩を動かしても、もう引っかからなくて!」
ベルが、腕を少し開いてみせる。
アルフィの顔が、その袖の方を向いた。
繕った糸は、今日一日、一度も音を立てていない。引きつれる音も、擦れる音もない。ヴェルフの仕事は正確だった。
女は、満足した。
その満足の深さに、自分でも少し驚いた。
*
シャクティは、女の顔を見て、それからリューを見た。
知っている顔だった。
リューが、小さく頷く。
それだけで済ませていい話ではない。だが、ここは病人の部屋だった。
シャクティは、寝台の方へ向き直った。
「無事で、よかった」
アイズが頷く。
それは、ここにいる誰もが分かち合える、確かな言葉だった。
エイナは椅子を少しずらして、妹に場所を譲った。
「ニイナ、窓には寄りかからないで」
「分かってる! 子供じゃないよ!」
「分かってる人は、そういう返事をしないの!」
ニイナが、小さく口を尖らせた。
ベルは、つい笑ってしまった。
似ていない姉妹だった。髪の長さも、声の弾み方も違う。それでも、妹が動くより先に、姉の方がその行き先を気にしている。
アルフィは、二人から顔を背けられなくなっていた。
「姉というものは、どうしても口数が多くなる」
シャクティの声だった。
エイナが、少しばつの悪い顔になる。
「過保護に、見えますか……?」
「いや。私にも、よく分かるだけだ」
その声の色が変わったことに、リューが気づいた。
「私にも──妹がいた」
アルフィの指が、髪留めに触れた。
*
「アーディさん、ですよね」
ベルが言うと、シャクティは意外そうに顔を上げた。
「聞いていたのか」
「リューさんから。英雄のお話が、お好きだったって」
「ああ。そうだった」
シャクティは、笑おうとした。
その笑い方は、妹には似ていなかった。似せようともしていなかった。それでも、目尻に集まったものは、よく似た光り方をした。
「君とは、会わせてやりたかった。きっと、話が合っただろう」
リューは、水差しから手を離した。
聞き慣れた名前を、それを失った人の傍で聞くことには、何度目でも慣れない。
アイズが、寝具の上で手を動かした。
ベルが椅子を引いて場所を空けようとすると、細い指が、彼の袖をつまんだ。
「……帰る?」
「いえ。まだ、大丈夫です」
アイズの指が離れる。
少年は座り直し、窓から入る風が強すぎないか確かめてから、寝具の端を直した。
「寒くないですか?」
その声が、女の中で、もう一つの声に重なった。
『──お姉ちゃんこそ、寒くない?』
*
白い髪が、窓の光を透かしていた。
閉じた瞼の向こうに見えるのは光だけで、色ではない。けれど女は、そこにある髪が何色なのか、もう知っていた。
あの家で迎えた、七つの朝。
空になった器。お代わりを頼む声。袖に腕を通すときの、小さな息。
その向こうで、誰かが笑っていた。
『──そんなに骨を取ったら、お魚が可哀想』
笑われたのは、初めてではない。
女は、自分の手を見下ろした。
水に浸した手。傷をつけた木を撫でた手。直し方を教わった手。
その手が、かつて何を壊したのかを、知っている。
知っていたはずなのに、どうして、これほど長く遠ざけていられたのだろう。
『──私の子にも、聞かせてあげてね』
旋律が、最後まで繋がった。
途中で途切れていた、あの一か所も。
女は、初めて深く息を吸った。
生まれてから一度も、咳に途切れさせずに吸いきったことのない深さまで。
「……メーテリア……ッ!」
リューが振り向いた。
エイナは、考えるより先に、妹の腕を引いて自分の後ろへ入れていた。
リヴェリアは、椅子を倒さずに立ち上がった。
女の顎が、ゆっくりと持ち上がりはじめていた。