灰髪の魔女   作:彪(あや)

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第八章 妹を持つ人たち

 

 ギルドの入口で、アルフィは足を止めた。

 書類をめくる音。硬貨の触れ合う音。石の床を、硬い靴が行き交う音。

 

 どれも、初めて聞く音ではない。

 その奥に、聞き覚えのある響きがあった。紙を一枚めくるたびに、どこかで誰かの行き先が決まっていく──そういう場所の音だった。

 

 女の唇から、笑みが消えた。

 受付の男が、筆を持つ手を止める。

 近くの冒険者も、振り向いた。寒くなったのかと肩をさすり、窓が開いていないことに気づいて首を傾げた。

 

「アルフィさん?」

 

 ベルの声に、女は顔を向けた。

 

「すまない。何か、覚えている気がした」

 

「この建物を、ですか?」

 

「ここで、誰かに腹を立てたような……」

 

 ベルは、ちょっと困った顔をした。

 ギルドに腹を立てる冒険者は多い。神様だって、税金の話をされたときにはよく怒っている。

 

「今夜、そのことも聞けるかもしれませんね」

 

 アルフィは頷き、肩の力を抜いた。

 受付の男が、また筆を動かしはじめる。隣の冒険者が、気のせいだったと笑う。

 

 ベルだけが、あとになって気づいた。

 あのとき、女の手が自分の方へ伸びかけ、触れる寸前で止まっていたことに。

 

         *

 

 エイナは不在だった。

 妹と一緒に治療院へ行っていると聞いて、ベルは今日の挨拶を諦めかけた。

 

 そのとき、後ろから明るい声がした。

 

「アルゴノゥトくん!」

 

 ティオナが、片手を大きく振っていた。

 数日前に見たときより、足取りが軽い。肩の傷をかばうように少し腕を引いているが、顔はいつもの彼女だった。

 

「会えてよかった! アイズが、起きたよ!」

 

 ベルの息が、途中で止まった。

 大丈夫だとは聞いていた。治療が進めば、意識は戻る。アミッドも、リヴェリアも、そう言っていた。

 

 それでも毎日、誰かが同じ言葉を言い直してくれなければ、不安だった。

 今は違う。

 起きた。

 声を、聞ける!

 

「……会っても、大丈夫なんですか!?」

 

「短くだけどね! リヴェリアに、呼んできてって言われたの! あ、でも、お出かけ中?」

 

 ティオナの目が、黒い服の女に移った。

 誰なのかは知らない。けれど、立ち方を見て、すぐに分かることがあった。

 

 強さを隠そうとして、肩をこわばらせる者なら何人も見てきた。この人は違う。ただ立っているだけなのに、どの角度から近づくかを、こちらが選ばされる。

 

「……あたし、ティオナ! よろしく!」

 

「アルフィと申します」

 

 女が礼をした。

 ティオナはいつもの調子で、ベルの肩に腕を回そうとした。その瞬間、女の顔が、ほんの少しだけこちらを向いた。

 

 睨まれたわけではない。

 ただ、腕を置く前に、確かめられた気がした。

 回しかけた腕は、空中で行き先を変えた。ぽん、と少年の背中を軽く叩く方へ。

 

「強い人が増えたんだねえ、君の家!」

 

 ベルは、返事に迷った。

 女の方が先に答えた。

 

「今は、皿を運んでいるだけだが」

 

 ティオナは、ますます分からなくなった顔で笑った。

 

         *

 

 ベルは、懐から布包みを取り出した。

 布をめくると、水晶の奥に、見慣れた栗色の髪と大きな瞳が映った。

 

『ベル様! 何かありましたか!?』

 

「リリ、行き先を変えるね。アイズさんが目を覚ましたって。バベルの治療院に寄ってから帰るよ」

 

『アイズ様が……! 分かりました、神様にもお伝えします。……ところで、ベル様のすぐ後ろにいらっしゃるのは』

 

 水晶の中の瞳が、すっと細くなった。

 ティオナが、ベルの肩越しにひょいと顔を出す。

 

「やっほー、ティオナだよ!」

 

『存じ上げております。ベル様、お話が済んだら、すぐに包んでくださいね。すぐに、です』

 

「う、うん。じゃあ、またあとで」

 

 ベルは、言われたとおりに布を戻した。

 その手順を見て、アルフィが頷いた。

 

「忘れていなかったな」

 

「はい! 約束しましたから!」

 

 ティオナは、包まれた水晶と、二人の顔を見比べた。

 

「それ、眼晶(オクルス)? 珍しいもの持ってるねえ」

 

 それから、何か言いかけた。

 言いかけた言葉は、昼に酒場でアーニャが口にしたのと同じものだった。ティオナは、なぜかそれを自分で呑み込んだ。

 

         *

 

 バベルの治療院では、入口に集まる人々を、アミッドが一人で捌いて(さばいて)いた。

 《剣姫(けんき)》が目を覚ましたという報せは、たちまち広がった。だが、報せを聞いたことと、病室に入る権利とは別の話である。

 

 神が来ても、商人が来ても、彼女の言うことは変わらなかった。

 

「面会の順番は、治療の都合で決めます」

 

 ベルも、同じ説明を受けた。

 アルフィには、先に一度、診察室へ寄るよう告げられた。

 

「長く歩かれましたから。今の状態を見せていただきます」

 

 女は素直に従った。

 脈にも呼吸にも、乱れはない。熱もない。本人も、疲れたとは言わなかった。

 

 アミッドは前日と変わらない所見を書き留め、ベルに向き直った。

 

「ご一緒に入られて結構です。ただし、様子が変わったら、すぐに呼んでください」

 

 ベルは、真剣に頷いた。

 ティオナが、先に立って扉を開けた。

 

「連れてきたよ──!」

 

         *

 

 アイズは、枕を重ねた寝台の上で、身体を起こしていた。

 白い寝具の中で、金の髪がいつもより細く見える。

 

 リヴェリアが枕元に座り、レフィーヤは窓を少しだけ開けていた。リューは、差し入れの水差しを卓に置くところだった。

 

 扉が開いても、アイズの表情は大きく変わらなかった。

 目だけが、ベルを見つけた。

 

「……ベル」

 

 その一言で、少年の喉が詰まった。

 

「アイズさん……! よかった……!」

 

 近づいていいのか迷って、寝台から二歩のところで止まる。

 アイズの指が、空いている椅子を示した。

 

「こっち」

 

 ベルが座ると、彼女はようやく、顎をほんの少しだけ下げた。

 肩から、余計な力が抜けたように見えた。

 

「怪我は」

 

「僕はもう大丈夫です! アイズさんこそ、まだ無理しないで──」

 

「うん」

 

 頷いたあとも、金色の目は少年から離れなかった。

 アルフィは入口の近くで、そのやり取りを聞いていた。

 

 リューが、彼女の傍へ来た。

 

「外出の途中だったのですね」

 

「ベルが、街を見せてくれた」

 

 隠す必要のない話だった。

 リューも、そうですか、と頷いた。今夜には本人へ説明する予定だと、朝のうちに聞いている。急に過去を問い詰められることもなく、このまま夕方まで穏やかに過ごせればいい。

 

         *

 

 ティオナは、いったん廊下へ出た。面会の人数を減らすためでもあり、姉に知らせに行くためでもあった。

 入れ替わりに、エイナとニイナが入ってきた。

 

 ギルドで警備の確認を済ませたシャクティが、そのあとに続く。

 エイナはベルを見つけて、ほっとしたように笑った。

 

「ここにいたんだね。怪我は、本当によくなった?」

 

「はい! ご心配をおかけしました。あの、今日ご紹介したかった方が──」

 

 ベルが女を示すと、エイナは丁寧に挨拶を返した。

 ニイナも隣で頭を下げ、すぐにベルの方を見た。

 

「ラピくん、その服、前と違う」

 

「あ、縫ってもらったんだ! 肩を動かしても、もう引っかからなくて!」

 

 ベルが、腕を少し開いてみせる。

 アルフィの顔が、その袖の方を向いた。

 

 繕った糸は、今日一日、一度も音を立てていない。引きつれる音も、擦れる音もない。ヴェルフの仕事は正確だった。

 

 女は、満足した。

 その満足の深さに、自分でも少し驚いた。

 

         *

 

 シャクティは、女の顔を見て、それからリューを見た。

 知っている顔だった。

 

 リューが、小さく頷く。

 それだけで済ませていい話ではない。だが、ここは病人の部屋だった。

 

 シャクティは、寝台の方へ向き直った。

 

「無事で、よかった」

 

 アイズが頷く。

 それは、ここにいる誰もが分かち合える、確かな言葉だった。

 

 エイナは椅子を少しずらして、妹に場所を譲った。

 

「ニイナ、窓には寄りかからないで」

 

「分かってる! 子供じゃないよ!」

 

「分かってる人は、そういう返事をしないの!」

 

 ニイナが、小さく口を尖らせた。

 ベルは、つい笑ってしまった。

 

 似ていない姉妹だった。髪の長さも、声の弾み方も違う。それでも、妹が動くより先に、姉の方がその行き先を気にしている。

 アルフィは、二人から顔を背けられなくなっていた。

 

「姉というものは、どうしても口数が多くなる」

 

 シャクティの声だった。

 エイナが、少しばつの悪い顔になる。

 

「過保護に、見えますか……?」

 

「いや。私にも、よく分かるだけだ」

 

 その声の色が変わったことに、リューが気づいた。

 

「私にも──妹がいた」

 

 アルフィの指が、髪留めに触れた。

 

         *

 

「アーディさん、ですよね」

 

 ベルが言うと、シャクティは意外そうに顔を上げた。

 

「聞いていたのか」

 

「リューさんから。英雄のお話が、お好きだったって」

 

「ああ。そうだった」

 

 シャクティは、笑おうとした。

 その笑い方は、妹には似ていなかった。似せようともしていなかった。それでも、目尻に集まったものは、よく似た光り方をした。

 

「君とは、会わせてやりたかった。きっと、話が合っただろう」

 

 リューは、水差しから手を離した。

 聞き慣れた名前を、それを失った人の傍で聞くことには、何度目でも慣れない。

 

 アイズが、寝具の上で手を動かした。

 ベルが椅子を引いて場所を空けようとすると、細い指が、彼の袖をつまんだ。

 

「……帰る?」

 

「いえ。まだ、大丈夫です」

 

 アイズの指が離れる。

 少年は座り直し、窓から入る風が強すぎないか確かめてから、寝具の端を直した。

 

「寒くないですか?」

 

 その声が、女の中で、もう一つの声に重なった。

 

『──お姉ちゃんこそ、寒くない?』

 

         *

 

 白い髪が、窓の光を透かしていた。

 閉じた瞼の向こうに見えるのは光だけで、色ではない。けれど女は、そこにある髪が何色なのか、もう知っていた。

 

 あの家で迎えた、七つの朝。

 空になった器。お代わりを頼む声。袖に腕を通すときの、小さな息。

 

 その向こうで、誰かが笑っていた。

 

『──そんなに骨を取ったら、お魚が可哀想』

 

 笑われたのは、初めてではない。

 女は、自分の手を見下ろした。

 

 水に浸した手。傷をつけた木を撫でた手。直し方を教わった手。

 その手が、かつて何を壊したのかを、知っている。

 

 知っていたはずなのに、どうして、これほど長く遠ざけていられたのだろう。

 

『──私の子にも、聞かせてあげてね』

 

 旋律が、最後まで繋がった。

 途中で途切れていた、あの一か所も。

 

 女は、初めて深く息を吸った。

 生まれてから一度も、咳に途切れさせずに吸いきったことのない深さまで。

 

「……メーテリア……ッ!」

 

 リューが振り向いた。

 エイナは、考えるより先に、妹の腕を引いて自分の後ろへ入れていた。

 リヴェリアは、椅子を倒さずに立ち上がった。

 

 女の顎が、ゆっくりと持ち上がりはじめていた。

 

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