エア・ギア ~運命を追い越す炎~【カズ転生】   作:とらやす

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第11話 夜の、その先へ

――ギュンッ!

 

 夜の路地に、A・Tの駆動音が響いた。

 

「……あ?」

 

 鉄パイプを持った男が、こちらを振り向く。

 

「何だ、てめえ! 昨日のガキか!」

「ご名答!」

 

 男が鉄パイプを振り上げた。俺はそのまま距離を詰める。相手が腕を振り下ろす直前、左足へ体重を移し、身体を横へ滑らせた。

 

 ――ブンッ!

 

 鉄パイプが肩先をかすめる。

 

「……なっ!?」

 

 その脇を抜け、低く沈み込む。男が振り返ろうとしたところで、軸足を払った。

 

「うおっ!?」

 

 ――ドサッ!

 

 男が派手に尻餅をつく。

 

 ……よし! まず一人。

 

「てめえッ!」

「調子乗んなよ!」

 

 今度は左右から二人。片方は正面。もう片方は、大きく回り込んで俺の背後を取ろうとしている。

 

 ……挟む気か。

 

 後ろへ下がれば、背後の男に捕まる。横へ逃げても、もう一人に進路を塞がれるだろう。

 

 だったら。

 

 俺は正面の男へ突っ込んだ。

 

「馬鹿が! 自分から来やがった!」

 

男が腕を広げる。

 掴める。そう思ったのだろう。

 

 だが、そいつが踏み込むより早く、俺は左足で急制動をかけた。

 

 ――キィッ!

 

 身体を斜めへ滑らせ、その脇を抜ける。

 

「……あっ!?」

 

 抜けざまに、相手の背中を突き飛ばした。

 

 ――ドンッ!

 

「ぐあっ!」

 

 男が前へつんのめる。ちょうど、俺を追ってきたもう一人の正面へ。

 

「おい、避けろッ!」

「ちょっ、待て――!」

 

 ――ガシャァン!!

 

 二人がまとめて倒れ込んだ。

 

「……っしゃ!」

 

 思わず拳を握る。

 

 三か月前の俺だったら、まず無理だったな。最初は立つだけで精一杯だった。止まりたい場所で止まれず、カーブを曲がりきれず、何度も地面を転がった。

 

 それが今は、相手の動きに合わせて進路を変えられる。昨日は女の子たちを逃がすのに必死だったが、今日は自分の走りに集中できる。

 

 ……練習した甲斐があったってもんだ。

 

「クソッ! こいつ結構速えぞ!」

「囲め! 一人で調子乗らせんな!」

 

 ……おいおい。まだ来るのかよ。

 

 倒れた男の後ろから、さらに三人が現れた。さすがに数が多い。だが、逃げるつもりはなかった。

 

「……おら、次!」

 

 俺は地面を蹴った。

 

 ――ギュンッ!

 

 正面の男が腕を伸ばす。その外側へ滑り込み、壁を軽く蹴って方向を変える。

 

 ――タンッ!

 

「……っ!?」

 

 男の横へ着地。そのまま肩をぶつけた。

 

 ――ドンッ!

 

「ぐあっ!」

 

 男が壁へ倒れ込む。

 

……いける。

 今の切り返し、結構うまく決まったんじゃねえか?

 

 そう思った、その瞬間だった。

 

「カズッ!!」

 

 聞き慣れた声が響いた。

 

 ……え?

 

振り返る。

 鉄パイプ。すぐ背後にいた男が、両手で振りかぶっていた。

 

……しまっ!

 目の前の相手に集中しすぎた。

 

 慌てて足を動かそうとする。だが、踏み込んだばかりで体重が前へ乗っている。

 

 間に合わない。

 

 反射的に腕を上げた、その瞬間。

 

 ――ドゴンッ!!

 

「ぐああっ!?」

 

 男の身体が、真横へ吹っ飛んだ。鉄パイプが路面を転がり、甲高い音を立てる。

 

「……は?」

 

 目の前を、一本の脚が通り過ぎた。直後、軽い着地音。

 

「……おい、カズ」

 

 そこにいたのは。

 

「……みかんさん!?」

 

 野山野みかん。いつもの強気な顔で、こちらを睨んでいた。

 

「お前、何やってんだ」

「……いや、あの」

「前しか見えてねえなら、ただの的だろうが!」

 

 ――ゴツッ!

 

「いって!」

 

 頭を小突かれた。

 

「今のまともに食らってたら、頭かち割られてたぞ!」

「……はい。助かりました」

「ったく。速く走るのもいいけどよ、喧嘩してんの忘れんな!」

 

 みかんさんは、俺の後ろへ目を向けた。まだ二人の男が立っている。

 

「……けどまあ」

「……ん?」

「さっきの切り返しは、悪くなかったぜ」

「……本当ですか?」

「おう。ま、あれで後ろも見えてりゃ、もっとよかったけどな」

「……それは反省してます」

「ハッ! だったら次は気をつけろよ!」

 

……おお。

 今、褒められたよな? あのみかんさんに?

 

 思わず口元が緩む。

 

「何ニヤついてんだ。ほら、ちょっと見てろ」

「……はい?」

 

 みかんさんは俺を軽く押しのけると、前へ向き直った。

 

「相手が何しようとしてんのか、ちゃんと見てから動け」

 

 そう言って、膝を曲げた。

 

 ――ギュンッ!

 

 姿が前へ飛び出した。

 

「……っ!?」

 

 最初の男が拳を振るう。みかんさんは、その腕の内側へ踏み込んだ。

 

 ――ドッ!

 

「ぐっ!?」

 

 短い蹴りが、脇腹へ入る。男が折れ曲がる。その背後から、もう一人が飛び込んできた。

 

「このアマァッ!」

 

 だが、みかんさんは振り返らない。相手が腕を伸ばしたときには、もう身体を沈めていた。

 

 ――ゴッ!

 

「……がっ!」

 

 肘が腹へ突き刺さる。二人目も膝から崩れ落ちた。

 

 ……速え。

 

 それも、ただ速度が出ているんじゃない。俺なら大きく回り込むところを、ほんの一歩で相手の懐へ入り込んでいる。

 

 最初の男を倒してから次の男へ向かうまで、ほとんど間がなかった。

 

「……ま、こんなもんか」

 

 みかんさんが首を鳴らす。

 

「おい、カズ!」

「……はい!」

「今の見えたか?」

「……一応」

「一応かよ。ま、最初はそんなもんだ」

 

 みかんさんが、にやりと笑う。

 

「ほら、行くぞ! あのバカを追いかけんだろ!」

「……はい!」

 

 ――キュンッ!

 

 みかんさんが壁を蹴る。そのまま、建物の上へと駆け上がっていった。

 

……ったく。

 格が違うな、ほんと。

 

 俺は倒れた男たちを一瞥し、地面を蹴った。

 

     *

 

 建物の裏手へ回ると、怒鳴り声が聞こえてきた。

 

「ふざけんな! 何であいつらが来てんだよ!」

 

……あ。

 間垣だ。

 

 俺は速度を落とし、建物の陰から様子を窺った。少し先の広場。大柄な男が、部下らしい連中を怒鳴りつけている。

 

 その顔には、昨日の余裕など欠片もなかった。

 

「間垣さん! 北も南もやられました!」

「だから何とかしろっつってんだろ!」

「無理ですよ! 相手は眠りの森ですよ!?」

 

「……っ!」

 

 間垣の顔が引きつった。

 

「うるせえ! だったらさっさと逃げ道作れ!」

 

 そう怒鳴り、建物の裏口へ向かって走り出す。

 

 だが。

 

 ――キュンッ。

 

 屋根の上から、小さな車輪の音がした。

 

「……ん?」

 

 間垣が足を止める。

 

月明かりの下。

 リンゴが、静かに屋根の縁へ立っていた。その隣にはウメ。さらに少し離れた壁には、みかんさんの姿もある。

 

「……ま、まさか」

 

 間垣が後ずさった。

 

「スリーピング・フォレスト……!?」

「よう」

 

 みかんさんが、屋根の縁にしゃがみ込んだ。

 

「随分楽しそうなことしてくれたじゃねえか」

「……ひっ!」

 

 間垣が、びくりと肩を震わせる。

 

「お、おい! お前ら! 何ぼさっとしてんだ!」

 

 周囲の男たちが、慌てて前へ出た。だが、三人の顔を見た途端、足が止まる。

 

「……う、嘘だろ」

「何で眠りの森が……」

 

 誰も、最初の一歩を踏み出そうとしない。

 

 間垣の目が、忙しなく左右へ動く。裏口には部下が倒れている。前にはリンゴたち。そして、その反対側には俺。

 

 逃げ道を探しているのが、ここからでも丸分かりだった。

 

 ……昨日の威勢はどこ行ったんだよ。

 

 そのときだった。

 

 ――キュンッ!

 

 広場の入口から、車輪の音が響いた。

 

「……待てよ」

 

聞き慣れた声。

 振り返る。

 

 そこにいたのは、イッキだった。

 

「……イッキ!」

 

 傷だらけの顔で、肩を上下させている。少し遠回りをしたのか、髪が汗で額に張りついていた。

 

 だが、その目は真っ直ぐ間垣を捉えていた。

 

「……よう」

 

 イッキが笑った。

 

「探したぜ、間垣」

 

「…………」

 

 間垣の顔が、ゆっくりとこちらへ向いた。

 

「……何だよ」

 

 その視線が、イッキの顔で止まる。

 

「……へっ」

 

 口元が吊り上がった。

 

「昨日の泣き虫じゃねえか」

 

 さっきまで真っ青だった顔に、少しずつ笑みが戻っていく。

 

「何だ? またやられに来たのか?」

「……あ?」

 

 イッキが眉を吊り上げた。

 

「誰がやられに来たっつったよ」

「ははっ! お前、昨日あんだけボコられたの忘れたのかよ!」

 

 間垣が笑う。その目が、ちらりと屋根の上へ向いた。

 

 リンゴたちは動かない。みかんさんも腕を組んだまま、様子を見ている。

 

……なるほど。

 眠りの森には勝てねえが、イッキになら勝てるってわけか。

 

「……おい、ボーズ」

 

 間垣が、イッキへ顎をしゃくった。

 

「今日は姉ちゃんたちに守ってもらうつもりかよ?」

「……あ?」

「それとも、俺ともう一回やってみるか?」

 

 間垣が、にやりと笑う。

 

「ここは一つ、正式な戦で決着つけねえか?」

「……正式な戦?」

 

 イッキが眉をひそめた。

 

 間垣は自分の胸元へ手を伸ばす。そこに留められていた髑髏のエンブレムを、指で弾いた。

 

「賭けろよ、ボーズ。族章《エンブレム》を」

「……エンブレム?」

「おい、イッキ」

 

 みかんさんが口を開いた。

 

「お前、意味分かってんのか?」

「……あ?」

「族章は暴風族の命だ。チームの看板みてえなもんだよ」

 

 みかんさんの視線が、間垣の胸元へ向いた。

 

「相手の族章を先に奪った方が勝ち。負けりゃ、自分らの族章を持ってかれる。そういう勝負だ」

「……へえ」

 

 イッキが、間垣の髑髏を見た。

 

「……でもよ。俺、そんなもん持ってねえぞ?」

「だったら、これを使えばいいよ」

 

リンゴが、屋根から軽く降り立った。

 差し出した手のひらには、小さな金属のエンブレム。眠りの森の紋章が刻まれていた。

 

「……リンゴ?」

 

 イッキが目を丸くする。

 

 俺も、その手のひらにある紋章を見て、ようやく思い出した。

 

 ……ああ、そうだった。ここでリンゴがエンブレムを渡すんだったか。

 

 原作の大筋は覚えていても、こういう細かい展開は結構抜け落ちてるんだよな。

 

 それにしても、負けたら持っていかれるんだろ?

 

 まだA・Tを始めたばかりのイッキに、よく預けられるよな。

 

 リンゴの顔には、少しの迷いもなかった。

 

「おい、リンゴ!」

 

 みかんさんも、少しだけ目を見開いた。

 

「……いいのかよ?」

 

 リンゴは小さく頷いた。

 

「うん」

 

 それから、イッキへ笑いかける。

 

「デビュー戦だね」

 

「…………」

 

 イッキは、差し出されたエンブレムを見つめていた。

 

「……お前、いいのかよ」

「いいよ」

 

 リンゴが、もう一度頷く。

 

「大切なのは、勝つか負けるかだけじゃないから」

 

 その言葉に、イッキはしばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと手を伸ばす。

 

 ……あ。

 

 指先が、わずかに震えていた。

 

 エンブレムを掴んだイッキは、ぐっと拳を握り締める。

 

 間垣が、それを見て鼻で笑った。

 

「……へえ。震えてんじゃねえか、ボーズ」

 

「…………」

 

「怖えなら、今のうちにやめとけよ。昨日みてえに泣いても知らねえぞ?」

「……知らねーよ」

 

 イッキが顔を上げた。

 

「……あ?」

「俺、族じゃないし。そういうルールもよく分かんねえ」

 

 イッキの口元が吊り上がる。

 

「けどよ」

 

 一歩、前へ出た。

 

「おんなじ相手に二度も負けるような奴は、どこの世界でもクズってこたぁ知ってるぜ」

 

「……っ!」

 

 間垣の顔が歪んだ。

 

「……言ってくれるじゃねえか」

「へっ!」

 

 イッキが、エンブレムを胸元へ留めた。

 

「昨日の借り、きっちり返してやるよ!」

 

 ……イッキ。

 

 あいつの手が震えていたことを、間垣も見ていた。だが、リンゴから受け取ったエンブレムを返す素振りはなかった。

 

「……おい、カズ」

 

 隣へ降りてきたみかんさんが、声をかけてきた。

 

「……はい?」

「手ぇ出すなよ」

「……分かってます」

 

 俺はイッキを見た。

 

「あいつが、自分で決めた勝負ですから」

「……へえ」

 

 みかんさんが口元を緩めた。

 

「分かってんじゃねえか」

 

 俺も、少しだけ笑った。

 

……ああ。

 ここからは、イッキの喧嘩だ。

 

     *

 

「……それじゃ、始めようか」

 

 間垣が腰を落とした。胸元には髑髏のエンブレム。対するイッキの胸には、眠りの森の紋章がある。

 

 先に相手のエンブレムを奪った方が勝ち。

 

 ……分かりやすいルールだな。

 

「へっ。昨日みたいに泣かせてやるぜ、ボーズ!」

 

 間垣がA・Tを鳴らす。

 

 ――ギュンッ!

 

 一気に距離を詰めてきた。その動きに合わせ、イッキも腰を落とす。

 

……さて。

 どうする?

 

 イッキが片足を持ち上げた。

 

「……ん?」

 

 A・Tの留め具に、手をかけている。

 

……おいおい。

 こんな時に、何する気だ?

 

 ――カチッ。

 

 留め具が外れた。イッキは片足のA・Tを脱ぐと、そのまま手に取った。

 

「……は?」

 

 間垣が、間の抜けた声を漏らした。

 

「何だよ。ビビって靴まで脱いじまったのか?」

「……へへっ」

 

イッキが笑う。

 次の瞬間、手に持ったA・Tの車輪を地面へ押し当てた。

 

 ――ギュルルルッ!!

 

 駆動音が高くなる。

 

「……あ?」

 

 間垣が眉をひそめた。

 

「何やってんだ、てめえ」

「……なあ、間垣」

 

 イッキが顔を上げる。

 

「人間なんつー、何十キロもある重てぇモンをよ」

 

 車輪が、さらに激しく回転する。

 

 ――ギュルルルルッ!!

 

「あんだけのスピードで走らせんだろ?」

 

 イッキが歯を見せて笑った。

 

「シューズだけなら、どんだけ速えかな?」

 

 ……あっ!

 

 そうだ、こんな戦い方してたっけ!

 

 間垣の顔が引きつる。

 

「……てめえ、何を――」

 

 ――ギュンッ!!

 

イッキが手に持ったA・Tを走らせた。地面を噛んだ車輪が、一気に加速する。

 手元から飛び出すような勢いに引っ張られ、イッキの身体が低く滑った。

 

「……なっ!?」

 

 間垣の目が見開かれる。その懐へ、イッキが飛び込んだ。

 

「――オラァッ!!」

 

 ――ガゴンッ!!

 

 勢いの乗ったA・Tが、間垣の顔面へ叩き込まれた。

 

「……がっ!?」

 

 大柄な身体が、ぐらりと傾く。間垣は慌てて腕を上げた。

 

 だが、そのときにはもう遅かった。

 

「――まだだッ!!」

 

 ――ドゴッ!!

 

 イッキの拳が、間垣の顎を跳ね上げる。

 

「……ぐあっ!!」

 

 間垣の身体が仰け反った。

 

 その一瞬。

 

 イッキの手が、間垣の胸元へ伸びる。

 

 ――ブチッ!

 

「……っ!?」

 

 留め具が弾けた。髑髏のエンブレムが、宙を舞う。

 

 イッキがそれを掴み取った。

 

 ――ドサァッ!!

 

 間垣が、背中から地面へ倒れ込んだ。

 

「…………」

 

 一瞬、誰も声を出さなかった。イッキは拳を握り締めたまま、肩で息をしている。

 

 そして、ゆっくりと顔を上げた。

 

 その手には。

 

 髑髏十字軍のエンブレム。

 

 ……取った。

 

 俺がそう思ったとき、みかんさんが口笛を吹いた。

 

「……おお。やるじゃねえか」

 

「…………」

 

 リンゴは黙ったまま、イッキを見つめている。

 

 間垣が、地面に這いつくばったまま顔を上げた。

 

「……て、てめえ……!」

 

 イッキが、その前へ歩み寄る。

 

「……へっ」

 

 そして、髑髏のエンブレムを掲げた。

 

「勝負あったな、間垣」

「……くっ!」

「言っただろ?」

 

 イッキが、にやりと笑う。

 

「二度も同じ相手に負けるほど、俺様は安くねえんだよ!」

 

……ははっ。

 やりやがった。

 

 A・Tを履くんじゃなく、脱いで武器にするなんて、ほんと無茶苦茶な発想だよな。

 

 原作で読んだ場面のはずなのに、すっかり忘れてたぜ。

 

 けど、実際に目の前で見ると、迫力が全然違う。

 

 しかも、こいつはA・Tを履き始めたばかりなんだよな。

 

「……やったな、イッキ!」

 

 思わず声を上げた。イッキが、こちらを振り返る。

 

「……へっ!」

 

 いつもの、生意気な笑顔。

 

「当然だろ!」

 

 その顔を見た途端、俺も笑っていた。

 

 昨日、あんなにボロボロにされた奴が。今日は、相手のエンブレムを奪って堂々と立っている。

 

……まったく。

 ほんと、とんでもねえ奴だよ、お前は。

 

     *

 

「……マジかよ」

 

 周囲の男たちが、ざわめき始めた。

 

「間垣さんが……」

「あのガキに負けた……?」

 

 そのうちの一人が、イッキへ近づこうとした。

 

「おい、待てよ!」

 

 ――ギュンッ!

 

 俺はそいつの前へ滑り込んだ。

 

「……ああ!?」

「もう勝負はついただろ。まだやんのか?」

 

 男が顔をしかめる。その背後から、仲間が二人近づいてきた。

 

……おいおい。

 まだやる気かよ。

 

 俺が身構えたところで、頭上から声が降ってきた。

 

「おいおい。往生際が悪いな、お前ら」

 

 みかんさんだった。その横にはリンゴとウメもいる。

 

「まだやり足りねえってんなら、相手してやるぜ?」

 

「……ひっ!」

 

 男たちの顔色が変わった。

 

「い、いや……」

「もういいだろ! 帰るぞ!」

 

 連中は倒れた仲間を起こし、慌てて広場を離れていった。

 

「ったく。最初からそうしてりゃいいんだよ」

 

 みかんさんが、鼻を鳴らす。

 

 ……やっぱ、眠りの森の名前は伊達じゃねえな。

 

 そのとき、リンゴがイッキの方へ駆け寄った。

 

「イッキ! 大丈夫!?」

「うっせえな! 大丈夫だって!」

「でも、また怪我増えてるよ!」

「かすり傷だっつってんだろ!」

 

……いや。

 その顔でかすり傷は無理があるだろ。

 

 ウメもイッキの周りをちょこちょこ走り回っている。

 

「イッキちゃん、勝ったー!」

「へへっ! 当たり前だろ!」

「でも顔はボロボロでし!」

「うるせえ!」

 

 いつもの野山野家の光景だ。さっきまでの物騒な雰囲気が、嘘みたいに薄れていく。

 

 俺は、その様子を少し離れたところから見ていた。

 

……ああ。

 よかったな、イッキ。

 

     *

 

 広場を出たところで、壁にもたれかかった。

 

「……あー、疲れた」

 

 腕も背中も脚も、あちこち痛い。明日の筋肉痛は覚悟した方がよさそうだ。

 

「……おい、カズ」

 

 声をかけられて顔を上げる。

 

「……みかんさん」

「何だよ、そのしけた面」

「いや、ちょっと疲れただけですよ」

「ハッ! あんだけ走り回ってりゃな」

 

 みかんさんが、俺の隣へ寄りかかった。

 

「……つーか、お前さ」

「はい?」

「A・T始めてどのくらいだ?」

「三か月くらいです」

「……三か月?」

 

 みかんさんが、意外そうに俺を見た。

 

「マジかよ」

「……そんなに意外ですか?」

「まあな。動きはまだ雑だけどよ、三か月にしちゃ悪くねえ」

「……ありがとうございます」

「調子乗んなよ。周り見えてねえのは相変わらずだからな!」

「……はい。身に染みてます」

 

 実際、さっきはみかんさんがいなかったら危なかった。

 

「でも、今日は本当に驚きましたよ」

「あ?」

「みかんさんたちの走りです。俺も少しは速くなったつもりだったんですけど、全然ついていけませんでしたし」

「当たり前だろ、ボケ! 三か月で追いつかれてたまるかよ!」

「……まあ、今は無理ですね」

「今は?」

 

 みかんさんが、にやりと笑った。

 

「何だよ。そのうち追いつく気か?」

「……ええ」

 

 俺も笑った。

 

「いや、追い越したいですね」

 

「…………」

 

 みかんさんが、一瞬だけ目を丸くした。それから、ゆっくりと口元を吊り上げる。

 

「……へえ。言うじゃねえか、カズ」

「本気ですよ?」

「ハッ! 百年早えっての!」

「……そこは否定できないですね」

「そこは、じゃねえよ!」

 

 みかんさんが吹き出した。

 

「……ま、そういう生意気なのは嫌いじゃねえけどな」

 

 そう言って、俺の肩を軽く小突く。

 

……お。

 何だろう。素直に嬉しいな。

 

「……じゃあ、いつか本当に追い越してみせますよ」

「おう。せいぜい頑張んな!」

 

 みかんさんは笑っていたが、ふと俺の足元へ視線を落とした。

 

「……つーか、お前。その左足」

「……はい?」

「ちょっと動かしてみろ」

「……え?」

「いいから」

 

 言われるまま、その場でA・Tを軽く滑らせる。

 

 ――ギリッ。

 

「……あれ?」

 

 もう一度。

 

 ――ギリッ。

 

 嫌な音がした。

 

「……ほらな」

 

 みかんさんが、呆れた顔をする。

 

「さっきから変な音してんぞ」

「……あー。そういえば、出発前もちょっと引っかかってたんですよね」

「はあ!? 気づいてたのかよ!」

「いや、その後は普通に回ったんで、大丈夫かなって……」

「大丈夫かな、じゃねえよ!」

 

 みかんさんはしゃがみ込むと、俺のA・Tの車輪を指で回した。

 

 ――カラッ、ギリッ。

 

「……こりゃ、ちゃんと整備した方がいいな」

「……やっぱりまずいですか?」

「当たり前だろ。変なところで引っかかったら、怪我すんぞ」

「……ですよね」

「ったく。自分の足元くらい、ちゃんと気にしとけよ」

 

 みかんさんが立ち上がり、手についた汚れを払った。

 

「ま、今日壊れなくてよかったな。早めに直しとけ」

「……はい。ありがとうございます」

「礼なんかいらねえって」

 

 そう言って、みかんさんは俺の肩を軽く叩いた。

 

「俺らを追い越すんだろ?」

「……ええ」

「だったら、そんなボロ靴で自爆してんじゃねえぞ」

 

 にやりと笑う。

 

……なるほど。

 そう来たか。

 

「……みかんさん」

「あ?」

「直したら、また走りを見てもらってもいいですか?」

「……は?」

 

 みかんさんが眉を上げた。

 

「何で俺が?」

「いや、追い越す相手の走りは、ちゃんと見ときたいんで」

「……ハッ!」

 

 みかんさんが楽しそうに笑った。

 

「ほんっと、生意気な奴だな、お前!」

「……すみません」

「謝んなよ。褒めてんだよ!」

 

 ……いや、分かりにくいって。

 

 みかんさんは背を向け、軽く手を振った。

 

「……ま、暇だったらな」

「……え?」

 

 思わず顔を上げる。

 

「次は、もうちょいマシな走り見せろよ!」

 

「……任せてください!」

 

「ハッ! 言ってろ、ボケ!」

 

 みかんさんは肩越しに笑うと、そのまま歩いていった。

 

 俺は足元のA・Tを見下ろす。

 

……確かに。

 出発前にも引っかかりには気づいていた。

 

 なのに、走り始めたらすっかり頭から抜け落ちていたんだよな。

 

 相手の動きも、周囲の状況も、自分の足元さえも。

 

 まだまだ足りないことだらけだな。

 

 ――ギリッ。

 

 軽く車輪を回すと、また嫌な音がした。

 

「……早めに直さないとな、これ」

 

 俺は小さく息を吐き、歩き出した。

 

     *

 

「……おーい、カズ!」

 

 聞き慣れた声が響いた。振り返ると、イッキがこちらへ歩いてきていた。

 

 頬には昨日の絆創膏。そこに、今日の擦り傷まで増えている。

 

 ……お前、ほんと大丈夫かよ。

 

「……おう」

「何やってんだよ、こんなとこで」

「ちょっと反省会」

「……は?」

「今日の走り、色々課題あったなって」

「真面目かよ、お前!」

 

 イッキが呆れたように笑った。

 

「……まあな」

 

 俺も笑い返す。

 

「……なあ、カズ」

 

 イッキが、少しだけ声を落とした。

 

「ん?」

「……昨日のことだけどよ」

 

 そう言って、視線を逸らす。

 

「あの子たち、ちゃんと帰れたんだよな?」

「……ああ」

 

 俺は頷いた。

 

「家の人が迎えに来たよ。怪我も大したことなかったみたいだ」

「……そっか」

 

 イッキが、小さく息を吐いた。

 

「……よかった」

 

 その顔が、少しだけ緩む。

 

 ……こいつ、ずっと気にしてたのか。

 

「……そういや、イッキ」

「あ?」

「あの子たち、お前にもありがとうって言ってたぞ」

「……え?」

 

 イッキが目を丸くした。

 

「……マジで?」

「ああ。ちゃんと伝えてくれって」

「……へへっ」

 

 イッキが、照れくさそうに鼻を擦った。

 

「……そっか」

 

 何とも分かりやすい奴だ。

 

「……よかったな、イッキ」

「……うるせえ!」

 

 そう言いながらも、口元は緩んでいる。俺は笑った。

 

 昨日あれだけ殴られて、今日も間垣と戦って。それでも、助けようとした女子たちのことを気にかけている。

 

……ほんと。

 大した奴だよ、お前は。

 

「……なあ、カズ」

「ん?」

「お前、A・Tって結構前から乗ってたんだよな?」

「……ああ」

「どんくらい?」

「三か月くらいかな」

「……へえ」

 

 イッキが、にやりと笑った。

 

「じゃあさ」

「……ん?」

「今度、俺と勝負しようぜ」

 

 ……来たか。

 

 思わず、足元のA・Tへ目を落とした。

 

 イッキに負けて悔しがった記憶なら、嫌というほどある。俺がここに来るより、ずっと前からだ。

 

 思い出すと、今でもちょっと腹が立つ。

 

 けど、A・Tは違う。

 

 三か月前。こいつがA・Tを履くより先に、俺は走り始めた。

 

 最初はまともに立つことさえできなかった。何度も転んだし、怪我もした。今日だって、みかんさんに助けられなければ危なかった。

 

 それでも。

 

 俺には俺の、積み重ねてきた三か月がある。

 

「……いいぜ」

 

 俺も笑った。

 

「言っとくけど、手加減しねえからな」

「へっ! 誰がしてくれなんて言ったよ!」

 

 イッキが歯を見せて笑う。

 

「むしろ全力で来いよ! その方がぶっ倒しがいがあるだろ!」

「……お前、A・T履いてまだ二日目だろ」

「だから何だよ!」

「いや、もうちょい練習してからの方が……」

「うるせえ! 俺様を誰だと思ってんだ!」

 

 イッキが胸を張る。

 

「天下の南樹様だぞ! お前なんか、あっという間にぶっちぎってやる!」

「……はいはい」

 

 俺は笑った。

 

「じゃあ、楽しみにしてるぜ」

「おう! 覚悟しとけよ、カズ!」

 

 イッキが拳を突き出す。俺も、そこへ拳を軽くぶつけた。

 

「……なあ、イッキ」

「あ?」

「負けても泣くなよ?」

「誰が泣くか、ボケェ!!」

 

 イッキの怒鳴り声が、夜の街に響いた。俺は腹を抱えて笑った。

 

 笑い疲れて顔を上げると、ビルの隙間に月が浮かんでいた。雲の切れ間から覗く、小さな月。

 

 さっきまで、あの空の下を眠りの森が駆け抜けていた。俺たちは、その背中を必死に追いかけていたんだよな。

 

……まったく。

 とんでもない世界に足を踏み入れちまったもんだ。

 

 隣では、イッキがまだ何か騒いでいる。俺は笑いながら、その肩を軽く小突いた。

 

「……ほら、帰るぞ」

「おう!」

 

 二人で地面を蹴る。

 

 ――ギュンッ!

 

 少し先を走り出したところで、後ろからイッキの声が飛んできた。

 

「おい、カズ! 待てって!」

「……ったく」

 

 俺は少しだけ速度を落とした。

 

 すぐに、イッキが隣へ並ぶ。

 

「へへっ! 次は負けねえからな!」

「まずはちゃんと走れるようになれよ」

「うっせえ!」

 

 思わず笑った。

 

 夜の街に、二人分の車輪の音が伸びていった。

 

────────────────────────

 

……何で、こんな時にあの夜のことを思い出すんだろうな。

 

ビルとビルの隙間に浮かんでいた、ひどく小さな月。

 

傷だらけの顔で笑うイッキと、あいつに負けまいと必死だった俺。

 

あれから、随分と遠くまで走ってきた。

 

笑ってばかりいられる夜じゃなかった。知っているはずの未来に、何度も足をすくわれた。

 

それでも、あの夜のことは妙にはっきり覚えている。

 

……まったく。

 

あの頃は、こんな遠くまで来るなんて思ってもみなかったな。

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