――ギュンッ!
夜の路地に、A・Tの駆動音が響いた。
「……あ?」
鉄パイプを持った男が、こちらを振り向く。
「何だ、てめえ! 昨日のガキか!」
「ご名答!」
男が鉄パイプを振り上げた。俺はそのまま距離を詰める。相手が腕を振り下ろす直前、左足へ体重を移し、身体を横へ滑らせた。
――ブンッ!
鉄パイプが肩先をかすめる。
「……なっ!?」
その脇を抜け、低く沈み込む。男が振り返ろうとしたところで、軸足を払った。
「うおっ!?」
――ドサッ!
男が派手に尻餅をつく。
……よし! まず一人。
「てめえッ!」
「調子乗んなよ!」
今度は左右から二人。片方は正面。もう片方は、大きく回り込んで俺の背後を取ろうとしている。
……挟む気か。
後ろへ下がれば、背後の男に捕まる。横へ逃げても、もう一人に進路を塞がれるだろう。
だったら。
俺は正面の男へ突っ込んだ。
「馬鹿が! 自分から来やがった!」
男が腕を広げる。
掴める。そう思ったのだろう。
だが、そいつが踏み込むより早く、俺は左足で急制動をかけた。
――キィッ!
身体を斜めへ滑らせ、その脇を抜ける。
「……あっ!?」
抜けざまに、相手の背中を突き飛ばした。
――ドンッ!
「ぐあっ!」
男が前へつんのめる。ちょうど、俺を追ってきたもう一人の正面へ。
「おい、避けろッ!」
「ちょっ、待て――!」
――ガシャァン!!
二人がまとめて倒れ込んだ。
「……っしゃ!」
思わず拳を握る。
三か月前の俺だったら、まず無理だったな。最初は立つだけで精一杯だった。止まりたい場所で止まれず、カーブを曲がりきれず、何度も地面を転がった。
それが今は、相手の動きに合わせて進路を変えられる。昨日は女の子たちを逃がすのに必死だったが、今日は自分の走りに集中できる。
……練習した甲斐があったってもんだ。
「クソッ! こいつ結構速えぞ!」
「囲め! 一人で調子乗らせんな!」
……おいおい。まだ来るのかよ。
倒れた男の後ろから、さらに三人が現れた。さすがに数が多い。だが、逃げるつもりはなかった。
「……おら、次!」
俺は地面を蹴った。
――ギュンッ!
正面の男が腕を伸ばす。その外側へ滑り込み、壁を軽く蹴って方向を変える。
――タンッ!
「……っ!?」
男の横へ着地。そのまま肩をぶつけた。
――ドンッ!
「ぐあっ!」
男が壁へ倒れ込む。
……いける。
今の切り返し、結構うまく決まったんじゃねえか?
そう思った、その瞬間だった。
「カズッ!!」
聞き慣れた声が響いた。
……え?
振り返る。
鉄パイプ。すぐ背後にいた男が、両手で振りかぶっていた。
……しまっ!
目の前の相手に集中しすぎた。
慌てて足を動かそうとする。だが、踏み込んだばかりで体重が前へ乗っている。
間に合わない。
反射的に腕を上げた、その瞬間。
――ドゴンッ!!
「ぐああっ!?」
男の身体が、真横へ吹っ飛んだ。鉄パイプが路面を転がり、甲高い音を立てる。
「……は?」
目の前を、一本の脚が通り過ぎた。直後、軽い着地音。
「……おい、カズ」
そこにいたのは。
「……みかんさん!?」
野山野みかん。いつもの強気な顔で、こちらを睨んでいた。
「お前、何やってんだ」
「……いや、あの」
「前しか見えてねえなら、ただの的だろうが!」
――ゴツッ!
「いって!」
頭を小突かれた。
「今のまともに食らってたら、頭かち割られてたぞ!」
「……はい。助かりました」
「ったく。速く走るのもいいけどよ、喧嘩してんの忘れんな!」
みかんさんは、俺の後ろへ目を向けた。まだ二人の男が立っている。
「……けどまあ」
「……ん?」
「さっきの切り返しは、悪くなかったぜ」
「……本当ですか?」
「おう。ま、あれで後ろも見えてりゃ、もっとよかったけどな」
「……それは反省してます」
「ハッ! だったら次は気をつけろよ!」
……おお。
今、褒められたよな? あのみかんさんに?
思わず口元が緩む。
「何ニヤついてんだ。ほら、ちょっと見てろ」
「……はい?」
みかんさんは俺を軽く押しのけると、前へ向き直った。
「相手が何しようとしてんのか、ちゃんと見てから動け」
そう言って、膝を曲げた。
――ギュンッ!
姿が前へ飛び出した。
「……っ!?」
最初の男が拳を振るう。みかんさんは、その腕の内側へ踏み込んだ。
――ドッ!
「ぐっ!?」
短い蹴りが、脇腹へ入る。男が折れ曲がる。その背後から、もう一人が飛び込んできた。
「このアマァッ!」
だが、みかんさんは振り返らない。相手が腕を伸ばしたときには、もう身体を沈めていた。
――ゴッ!
「……がっ!」
肘が腹へ突き刺さる。二人目も膝から崩れ落ちた。
……速え。
それも、ただ速度が出ているんじゃない。俺なら大きく回り込むところを、ほんの一歩で相手の懐へ入り込んでいる。
最初の男を倒してから次の男へ向かうまで、ほとんど間がなかった。
「……ま、こんなもんか」
みかんさんが首を鳴らす。
「おい、カズ!」
「……はい!」
「今の見えたか?」
「……一応」
「一応かよ。ま、最初はそんなもんだ」
みかんさんが、にやりと笑う。
「ほら、行くぞ! あのバカを追いかけんだろ!」
「……はい!」
――キュンッ!
みかんさんが壁を蹴る。そのまま、建物の上へと駆け上がっていった。
……ったく。
格が違うな、ほんと。
俺は倒れた男たちを一瞥し、地面を蹴った。
*
建物の裏手へ回ると、怒鳴り声が聞こえてきた。
「ふざけんな! 何であいつらが来てんだよ!」
……あ。
間垣だ。
俺は速度を落とし、建物の陰から様子を窺った。少し先の広場。大柄な男が、部下らしい連中を怒鳴りつけている。
その顔には、昨日の余裕など欠片もなかった。
「間垣さん! 北も南もやられました!」
「だから何とかしろっつってんだろ!」
「無理ですよ! 相手は眠りの森ですよ!?」
「……っ!」
間垣の顔が引きつった。
「うるせえ! だったらさっさと逃げ道作れ!」
そう怒鳴り、建物の裏口へ向かって走り出す。
だが。
――キュンッ。
屋根の上から、小さな車輪の音がした。
「……ん?」
間垣が足を止める。
月明かりの下。
リンゴが、静かに屋根の縁へ立っていた。その隣にはウメ。さらに少し離れた壁には、みかんさんの姿もある。
「……ま、まさか」
間垣が後ずさった。
「スリーピング・フォレスト……!?」
「よう」
みかんさんが、屋根の縁にしゃがみ込んだ。
「随分楽しそうなことしてくれたじゃねえか」
「……ひっ!」
間垣が、びくりと肩を震わせる。
「お、おい! お前ら! 何ぼさっとしてんだ!」
周囲の男たちが、慌てて前へ出た。だが、三人の顔を見た途端、足が止まる。
「……う、嘘だろ」
「何で眠りの森が……」
誰も、最初の一歩を踏み出そうとしない。
間垣の目が、忙しなく左右へ動く。裏口には部下が倒れている。前にはリンゴたち。そして、その反対側には俺。
逃げ道を探しているのが、ここからでも丸分かりだった。
……昨日の威勢はどこ行ったんだよ。
そのときだった。
――キュンッ!
広場の入口から、車輪の音が響いた。
「……待てよ」
聞き慣れた声。
振り返る。
そこにいたのは、イッキだった。
「……イッキ!」
傷だらけの顔で、肩を上下させている。少し遠回りをしたのか、髪が汗で額に張りついていた。
だが、その目は真っ直ぐ間垣を捉えていた。
「……よう」
イッキが笑った。
「探したぜ、間垣」
「…………」
間垣の顔が、ゆっくりとこちらへ向いた。
「……何だよ」
その視線が、イッキの顔で止まる。
「……へっ」
口元が吊り上がった。
「昨日の泣き虫じゃねえか」
さっきまで真っ青だった顔に、少しずつ笑みが戻っていく。
「何だ? またやられに来たのか?」
「……あ?」
イッキが眉を吊り上げた。
「誰がやられに来たっつったよ」
「ははっ! お前、昨日あんだけボコられたの忘れたのかよ!」
間垣が笑う。その目が、ちらりと屋根の上へ向いた。
リンゴたちは動かない。みかんさんも腕を組んだまま、様子を見ている。
……なるほど。
眠りの森には勝てねえが、イッキになら勝てるってわけか。
「……おい、ボーズ」
間垣が、イッキへ顎をしゃくった。
「今日は姉ちゃんたちに守ってもらうつもりかよ?」
「……あ?」
「それとも、俺ともう一回やってみるか?」
間垣が、にやりと笑う。
「ここは一つ、正式な戦で決着つけねえか?」
「……正式な戦?」
イッキが眉をひそめた。
間垣は自分の胸元へ手を伸ばす。そこに留められていた髑髏のエンブレムを、指で弾いた。
「賭けろよ、ボーズ。族章《エンブレム》を」
「……エンブレム?」
「おい、イッキ」
みかんさんが口を開いた。
「お前、意味分かってんのか?」
「……あ?」
「族章は暴風族の命だ。チームの看板みてえなもんだよ」
みかんさんの視線が、間垣の胸元へ向いた。
「相手の族章を先に奪った方が勝ち。負けりゃ、自分らの族章を持ってかれる。そういう勝負だ」
「……へえ」
イッキが、間垣の髑髏を見た。
「……でもよ。俺、そんなもん持ってねえぞ?」
「だったら、これを使えばいいよ」
リンゴが、屋根から軽く降り立った。
差し出した手のひらには、小さな金属のエンブレム。眠りの森の紋章が刻まれていた。
「……リンゴ?」
イッキが目を丸くする。
俺も、その手のひらにある紋章を見て、ようやく思い出した。
……ああ、そうだった。ここでリンゴがエンブレムを渡すんだったか。
原作の大筋は覚えていても、こういう細かい展開は結構抜け落ちてるんだよな。
それにしても、負けたら持っていかれるんだろ?
まだA・Tを始めたばかりのイッキに、よく預けられるよな。
リンゴの顔には、少しの迷いもなかった。
「おい、リンゴ!」
みかんさんも、少しだけ目を見開いた。
「……いいのかよ?」
リンゴは小さく頷いた。
「うん」
それから、イッキへ笑いかける。
「デビュー戦だね」
「…………」
イッキは、差し出されたエンブレムを見つめていた。
「……お前、いいのかよ」
「いいよ」
リンゴが、もう一度頷く。
「大切なのは、勝つか負けるかだけじゃないから」
その言葉に、イッキはしばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと手を伸ばす。
……あ。
指先が、わずかに震えていた。
エンブレムを掴んだイッキは、ぐっと拳を握り締める。
間垣が、それを見て鼻で笑った。
「……へえ。震えてんじゃねえか、ボーズ」
「…………」
「怖えなら、今のうちにやめとけよ。昨日みてえに泣いても知らねえぞ?」
「……知らねーよ」
イッキが顔を上げた。
「……あ?」
「俺、族じゃないし。そういうルールもよく分かんねえ」
イッキの口元が吊り上がる。
「けどよ」
一歩、前へ出た。
「おんなじ相手に二度も負けるような奴は、どこの世界でもクズってこたぁ知ってるぜ」
「……っ!」
間垣の顔が歪んだ。
「……言ってくれるじゃねえか」
「へっ!」
イッキが、エンブレムを胸元へ留めた。
「昨日の借り、きっちり返してやるよ!」
……イッキ。
あいつの手が震えていたことを、間垣も見ていた。だが、リンゴから受け取ったエンブレムを返す素振りはなかった。
「……おい、カズ」
隣へ降りてきたみかんさんが、声をかけてきた。
「……はい?」
「手ぇ出すなよ」
「……分かってます」
俺はイッキを見た。
「あいつが、自分で決めた勝負ですから」
「……へえ」
みかんさんが口元を緩めた。
「分かってんじゃねえか」
俺も、少しだけ笑った。
……ああ。
ここからは、イッキの喧嘩だ。
*
「……それじゃ、始めようか」
間垣が腰を落とした。胸元には髑髏のエンブレム。対するイッキの胸には、眠りの森の紋章がある。
先に相手のエンブレムを奪った方が勝ち。
……分かりやすいルールだな。
「へっ。昨日みたいに泣かせてやるぜ、ボーズ!」
間垣がA・Tを鳴らす。
――ギュンッ!
一気に距離を詰めてきた。その動きに合わせ、イッキも腰を落とす。
……さて。
どうする?
イッキが片足を持ち上げた。
「……ん?」
A・Tの留め具に、手をかけている。
……おいおい。
こんな時に、何する気だ?
――カチッ。
留め具が外れた。イッキは片足のA・Tを脱ぐと、そのまま手に取った。
「……は?」
間垣が、間の抜けた声を漏らした。
「何だよ。ビビって靴まで脱いじまったのか?」
「……へへっ」
イッキが笑う。
次の瞬間、手に持ったA・Tの車輪を地面へ押し当てた。
――ギュルルルッ!!
駆動音が高くなる。
「……あ?」
間垣が眉をひそめた。
「何やってんだ、てめえ」
「……なあ、間垣」
イッキが顔を上げる。
「人間なんつー、何十キロもある重てぇモンをよ」
車輪が、さらに激しく回転する。
――ギュルルルルッ!!
「あんだけのスピードで走らせんだろ?」
イッキが歯を見せて笑った。
「シューズだけなら、どんだけ速えかな?」
……あっ!
そうだ、こんな戦い方してたっけ!
間垣の顔が引きつる。
「……てめえ、何を――」
――ギュンッ!!
イッキが手に持ったA・Tを走らせた。地面を噛んだ車輪が、一気に加速する。
手元から飛び出すような勢いに引っ張られ、イッキの身体が低く滑った。
「……なっ!?」
間垣の目が見開かれる。その懐へ、イッキが飛び込んだ。
「――オラァッ!!」
――ガゴンッ!!
勢いの乗ったA・Tが、間垣の顔面へ叩き込まれた。
「……がっ!?」
大柄な身体が、ぐらりと傾く。間垣は慌てて腕を上げた。
だが、そのときにはもう遅かった。
「――まだだッ!!」
――ドゴッ!!
イッキの拳が、間垣の顎を跳ね上げる。
「……ぐあっ!!」
間垣の身体が仰け反った。
その一瞬。
イッキの手が、間垣の胸元へ伸びる。
――ブチッ!
「……っ!?」
留め具が弾けた。髑髏のエンブレムが、宙を舞う。
イッキがそれを掴み取った。
――ドサァッ!!
間垣が、背中から地面へ倒れ込んだ。
「…………」
一瞬、誰も声を出さなかった。イッキは拳を握り締めたまま、肩で息をしている。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
その手には。
髑髏十字軍のエンブレム。
……取った。
俺がそう思ったとき、みかんさんが口笛を吹いた。
「……おお。やるじゃねえか」
「…………」
リンゴは黙ったまま、イッキを見つめている。
間垣が、地面に這いつくばったまま顔を上げた。
「……て、てめえ……!」
イッキが、その前へ歩み寄る。
「……へっ」
そして、髑髏のエンブレムを掲げた。
「勝負あったな、間垣」
「……くっ!」
「言っただろ?」
イッキが、にやりと笑う。
「二度も同じ相手に負けるほど、俺様は安くねえんだよ!」
……ははっ。
やりやがった。
A・Tを履くんじゃなく、脱いで武器にするなんて、ほんと無茶苦茶な発想だよな。
原作で読んだ場面のはずなのに、すっかり忘れてたぜ。
けど、実際に目の前で見ると、迫力が全然違う。
しかも、こいつはA・Tを履き始めたばかりなんだよな。
「……やったな、イッキ!」
思わず声を上げた。イッキが、こちらを振り返る。
「……へっ!」
いつもの、生意気な笑顔。
「当然だろ!」
その顔を見た途端、俺も笑っていた。
昨日、あんなにボロボロにされた奴が。今日は、相手のエンブレムを奪って堂々と立っている。
……まったく。
ほんと、とんでもねえ奴だよ、お前は。
*
「……マジかよ」
周囲の男たちが、ざわめき始めた。
「間垣さんが……」
「あのガキに負けた……?」
そのうちの一人が、イッキへ近づこうとした。
「おい、待てよ!」
――ギュンッ!
俺はそいつの前へ滑り込んだ。
「……ああ!?」
「もう勝負はついただろ。まだやんのか?」
男が顔をしかめる。その背後から、仲間が二人近づいてきた。
……おいおい。
まだやる気かよ。
俺が身構えたところで、頭上から声が降ってきた。
「おいおい。往生際が悪いな、お前ら」
みかんさんだった。その横にはリンゴとウメもいる。
「まだやり足りねえってんなら、相手してやるぜ?」
「……ひっ!」
男たちの顔色が変わった。
「い、いや……」
「もういいだろ! 帰るぞ!」
連中は倒れた仲間を起こし、慌てて広場を離れていった。
「ったく。最初からそうしてりゃいいんだよ」
みかんさんが、鼻を鳴らす。
……やっぱ、眠りの森の名前は伊達じゃねえな。
そのとき、リンゴがイッキの方へ駆け寄った。
「イッキ! 大丈夫!?」
「うっせえな! 大丈夫だって!」
「でも、また怪我増えてるよ!」
「かすり傷だっつってんだろ!」
……いや。
その顔でかすり傷は無理があるだろ。
ウメもイッキの周りをちょこちょこ走り回っている。
「イッキちゃん、勝ったー!」
「へへっ! 当たり前だろ!」
「でも顔はボロボロでし!」
「うるせえ!」
いつもの野山野家の光景だ。さっきまでの物騒な雰囲気が、嘘みたいに薄れていく。
俺は、その様子を少し離れたところから見ていた。
……ああ。
よかったな、イッキ。
*
広場を出たところで、壁にもたれかかった。
「……あー、疲れた」
腕も背中も脚も、あちこち痛い。明日の筋肉痛は覚悟した方がよさそうだ。
「……おい、カズ」
声をかけられて顔を上げる。
「……みかんさん」
「何だよ、そのしけた面」
「いや、ちょっと疲れただけですよ」
「ハッ! あんだけ走り回ってりゃな」
みかんさんが、俺の隣へ寄りかかった。
「……つーか、お前さ」
「はい?」
「A・T始めてどのくらいだ?」
「三か月くらいです」
「……三か月?」
みかんさんが、意外そうに俺を見た。
「マジかよ」
「……そんなに意外ですか?」
「まあな。動きはまだ雑だけどよ、三か月にしちゃ悪くねえ」
「……ありがとうございます」
「調子乗んなよ。周り見えてねえのは相変わらずだからな!」
「……はい。身に染みてます」
実際、さっきはみかんさんがいなかったら危なかった。
「でも、今日は本当に驚きましたよ」
「あ?」
「みかんさんたちの走りです。俺も少しは速くなったつもりだったんですけど、全然ついていけませんでしたし」
「当たり前だろ、ボケ! 三か月で追いつかれてたまるかよ!」
「……まあ、今は無理ですね」
「今は?」
みかんさんが、にやりと笑った。
「何だよ。そのうち追いつく気か?」
「……ええ」
俺も笑った。
「いや、追い越したいですね」
「…………」
みかんさんが、一瞬だけ目を丸くした。それから、ゆっくりと口元を吊り上げる。
「……へえ。言うじゃねえか、カズ」
「本気ですよ?」
「ハッ! 百年早えっての!」
「……そこは否定できないですね」
「そこは、じゃねえよ!」
みかんさんが吹き出した。
「……ま、そういう生意気なのは嫌いじゃねえけどな」
そう言って、俺の肩を軽く小突く。
……お。
何だろう。素直に嬉しいな。
「……じゃあ、いつか本当に追い越してみせますよ」
「おう。せいぜい頑張んな!」
みかんさんは笑っていたが、ふと俺の足元へ視線を落とした。
「……つーか、お前。その左足」
「……はい?」
「ちょっと動かしてみろ」
「……え?」
「いいから」
言われるまま、その場でA・Tを軽く滑らせる。
――ギリッ。
「……あれ?」
もう一度。
――ギリッ。
嫌な音がした。
「……ほらな」
みかんさんが、呆れた顔をする。
「さっきから変な音してんぞ」
「……あー。そういえば、出発前もちょっと引っかかってたんですよね」
「はあ!? 気づいてたのかよ!」
「いや、その後は普通に回ったんで、大丈夫かなって……」
「大丈夫かな、じゃねえよ!」
みかんさんはしゃがみ込むと、俺のA・Tの車輪を指で回した。
――カラッ、ギリッ。
「……こりゃ、ちゃんと整備した方がいいな」
「……やっぱりまずいですか?」
「当たり前だろ。変なところで引っかかったら、怪我すんぞ」
「……ですよね」
「ったく。自分の足元くらい、ちゃんと気にしとけよ」
みかんさんが立ち上がり、手についた汚れを払った。
「ま、今日壊れなくてよかったな。早めに直しとけ」
「……はい。ありがとうございます」
「礼なんかいらねえって」
そう言って、みかんさんは俺の肩を軽く叩いた。
「俺らを追い越すんだろ?」
「……ええ」
「だったら、そんなボロ靴で自爆してんじゃねえぞ」
にやりと笑う。
……なるほど。
そう来たか。
「……みかんさん」
「あ?」
「直したら、また走りを見てもらってもいいですか?」
「……は?」
みかんさんが眉を上げた。
「何で俺が?」
「いや、追い越す相手の走りは、ちゃんと見ときたいんで」
「……ハッ!」
みかんさんが楽しそうに笑った。
「ほんっと、生意気な奴だな、お前!」
「……すみません」
「謝んなよ。褒めてんだよ!」
……いや、分かりにくいって。
みかんさんは背を向け、軽く手を振った。
「……ま、暇だったらな」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「次は、もうちょいマシな走り見せろよ!」
「……任せてください!」
「ハッ! 言ってろ、ボケ!」
みかんさんは肩越しに笑うと、そのまま歩いていった。
俺は足元のA・Tを見下ろす。
……確かに。
出発前にも引っかかりには気づいていた。
なのに、走り始めたらすっかり頭から抜け落ちていたんだよな。
相手の動きも、周囲の状況も、自分の足元さえも。
まだまだ足りないことだらけだな。
――ギリッ。
軽く車輪を回すと、また嫌な音がした。
「……早めに直さないとな、これ」
俺は小さく息を吐き、歩き出した。
*
「……おーい、カズ!」
聞き慣れた声が響いた。振り返ると、イッキがこちらへ歩いてきていた。
頬には昨日の絆創膏。そこに、今日の擦り傷まで増えている。
……お前、ほんと大丈夫かよ。
「……おう」
「何やってんだよ、こんなとこで」
「ちょっと反省会」
「……は?」
「今日の走り、色々課題あったなって」
「真面目かよ、お前!」
イッキが呆れたように笑った。
「……まあな」
俺も笑い返す。
「……なあ、カズ」
イッキが、少しだけ声を落とした。
「ん?」
「……昨日のことだけどよ」
そう言って、視線を逸らす。
「あの子たち、ちゃんと帰れたんだよな?」
「……ああ」
俺は頷いた。
「家の人が迎えに来たよ。怪我も大したことなかったみたいだ」
「……そっか」
イッキが、小さく息を吐いた。
「……よかった」
その顔が、少しだけ緩む。
……こいつ、ずっと気にしてたのか。
「……そういや、イッキ」
「あ?」
「あの子たち、お前にもありがとうって言ってたぞ」
「……え?」
イッキが目を丸くした。
「……マジで?」
「ああ。ちゃんと伝えてくれって」
「……へへっ」
イッキが、照れくさそうに鼻を擦った。
「……そっか」
何とも分かりやすい奴だ。
「……よかったな、イッキ」
「……うるせえ!」
そう言いながらも、口元は緩んでいる。俺は笑った。
昨日あれだけ殴られて、今日も間垣と戦って。それでも、助けようとした女子たちのことを気にかけている。
……ほんと。
大した奴だよ、お前は。
「……なあ、カズ」
「ん?」
「お前、A・Tって結構前から乗ってたんだよな?」
「……ああ」
「どんくらい?」
「三か月くらいかな」
「……へえ」
イッキが、にやりと笑った。
「じゃあさ」
「……ん?」
「今度、俺と勝負しようぜ」
……来たか。
思わず、足元のA・Tへ目を落とした。
イッキに負けて悔しがった記憶なら、嫌というほどある。俺がここに来るより、ずっと前からだ。
思い出すと、今でもちょっと腹が立つ。
けど、A・Tは違う。
三か月前。こいつがA・Tを履くより先に、俺は走り始めた。
最初はまともに立つことさえできなかった。何度も転んだし、怪我もした。今日だって、みかんさんに助けられなければ危なかった。
それでも。
俺には俺の、積み重ねてきた三か月がある。
「……いいぜ」
俺も笑った。
「言っとくけど、手加減しねえからな」
「へっ! 誰がしてくれなんて言ったよ!」
イッキが歯を見せて笑う。
「むしろ全力で来いよ! その方がぶっ倒しがいがあるだろ!」
「……お前、A・T履いてまだ二日目だろ」
「だから何だよ!」
「いや、もうちょい練習してからの方が……」
「うるせえ! 俺様を誰だと思ってんだ!」
イッキが胸を張る。
「天下の南樹様だぞ! お前なんか、あっという間にぶっちぎってやる!」
「……はいはい」
俺は笑った。
「じゃあ、楽しみにしてるぜ」
「おう! 覚悟しとけよ、カズ!」
イッキが拳を突き出す。俺も、そこへ拳を軽くぶつけた。
「……なあ、イッキ」
「あ?」
「負けても泣くなよ?」
「誰が泣くか、ボケェ!!」
イッキの怒鳴り声が、夜の街に響いた。俺は腹を抱えて笑った。
笑い疲れて顔を上げると、ビルの隙間に月が浮かんでいた。雲の切れ間から覗く、小さな月。
さっきまで、あの空の下を眠りの森が駆け抜けていた。俺たちは、その背中を必死に追いかけていたんだよな。
……まったく。
とんでもない世界に足を踏み入れちまったもんだ。
隣では、イッキがまだ何か騒いでいる。俺は笑いながら、その肩を軽く小突いた。
「……ほら、帰るぞ」
「おう!」
二人で地面を蹴る。
――ギュンッ!
少し先を走り出したところで、後ろからイッキの声が飛んできた。
「おい、カズ! 待てって!」
「……ったく」
俺は少しだけ速度を落とした。
すぐに、イッキが隣へ並ぶ。
「へへっ! 次は負けねえからな!」
「まずはちゃんと走れるようになれよ」
「うっせえ!」
思わず笑った。
夜の街に、二人分の車輪の音が伸びていった。
────────────────────────
……何で、こんな時にあの夜のことを思い出すんだろうな。
ビルとビルの隙間に浮かんでいた、ひどく小さな月。
傷だらけの顔で笑うイッキと、あいつに負けまいと必死だった俺。
あれから、随分と遠くまで走ってきた。
笑ってばかりいられる夜じゃなかった。知っているはずの未来に、何度も足をすくわれた。
それでも、あの夜のことは妙にはっきり覚えている。
……まったく。
あの頃は、こんな遠くまで来るなんて思ってもみなかったな。