第12話 追いかけてくる風
「カズ! 今日こそ勝負だ!」
――バンッ!
朝から俺の机が悲鳴を上げた。
「……お前、昨日もそれ言ってなかったか?」
「昨日は雨だったろ!」
「一昨日も聞いた気がするんだが」
「細けえこと気にすんな!」
まったく、朝っぱらから元気な奴だ。
髑髏十字軍との一件から、五日。あの夜、間垣をぶん殴ったイッキは、どうやらA・Tの面白さにすっかり取り憑かれてしまったらしい。
休み時間はA・Tの話。放課後は河川敷。授業中まで窓の外を眺めて、何やら跳べそうな場所を探している。
……いや、授業はちゃんと聞けよ。
「で、どこでやんだよ?」
「いつもの河川敷! 広い方の舗装路な!」
「分かった。ただし、今日はちゃんと止まる練習もしろよ」
「止まれんだろ、それくらい!」
「昨日、電柱に突っ込みかけた奴の台詞とは思えねえな」
「……見てたのかよ」
「見てたよ。なかなかいい音してたぞ」
「忘れろ!!」
イッキが顔をしかめる。だが、すぐににやりと笑った。
「……なあ、カズ」
「ん?」
「今日勝ったら、俺のことイッキ様って呼べよ」
「……は?」
「へっ! 帝王たるこの俺様に、カズごときが勝てると思ってんのか!」
「誰が帝王だ。昨日電柱に突っ込みかけてた奴が」
「うっせえ! あれはちょっと距離を見誤っただけだ!」
「帝王、距離感ガバガバじゃねえか」
「黙れ! 今日こそてめえに上下関係を叩き込んでやるぜ!」
……どこから湧いてくるんだよ、その自信。
「……はいはい。じゃあ負けたら、お前が俺をカズ様って呼べよ」
「ああ!? 上等じゃねえか!!」
イッキが歯を見せて笑う。俺も、つられて笑ってしまった。
……いいぜ。
こういう日を、ずっと待っていた。
前世の記憶を取り戻してから、身体を鍛え、中古のA・Tを買って、三か月間ひたすら走ってきた。
最初は立つことさえ難しかった。何度も転んだし、情けない話、帰り道で足が痛くて泣きそうになったこともある。
その成果を、ようやくこいつに見せられる。
原作の主人公が相手だろうと、関係ない。
今日くらいは、先輩面させてもらおうじゃねえか。
*
「……で、何で安達までいるんだ?」
放課後、河川敷に着くと、見慣れた女子がベンチに座っていた。
安達絵美理。陸上部所属。最近では、顔を合わせるたびに俺へ競走を挑んでくる、なかなか負けず嫌いな奴である。
「何でって、イッキくんに誘われたからだけど?」
「……イッキ?」
振り返ると、当の本人がにやにやしていた。
「いやー、せっかくだしよ。カズが最近どんだけ速くなったか、見てもらおうと思って」
「余計なお世話だ!」
「えー、いいじゃん!」
安達が楽しそうに笑う。
「あたしも気になってたんだよね。カズくん、最近ずっとそれ乗ってるって言ってたし」
「……それって、A・T?」
「そうそう! ちゃんと走ってるところ、まだ見たことなかったからさ」
安達はベンチから立ち上がると、俺の足元を覗き込んだ。
「へえ……これがエア・トレックなんだ」
傷だらけの中古品。買ったときより、ずいぶん傷が増えた一足だ。
「思ってたより普通の靴っぽいね」
「まあ、外見はな」
「でも車輪ついてるし、何か機械っぽい音する!」
「そりゃ機械だからな」
「分かってるって!」
安達が笑いながら、俺の周りをぐるりと回る。
「……でもさ、カズくん」
「ん?」
「それ履いたら、あたしより速かったりする?」
「……どうだろうな」
「えー! 何それ! 絶対速いと思ってるでしょ!」
「いや、そりゃA・Tだからな。普通の靴とは違うだろ」
「むーっ。何かずるい!」
安達が頬を膨らませる。
……ずるいって何だよ。こっちは三か月、散々転んできたんだけどな。
「ま、いっか! 今日は特別に応援してあげる!」
「俺を?」
「うーん……勝った方?」
「適当かよ!」
「あははっ!」
その横からイッキが割り込んできた。
「へっ! 見てろよ、安達! カズなんかあっという間にぶっちぎってやるからな!」
「おー! イッキくん、言うねえ!」
「お前も煽るなよ……」
……まったく。
でも、悪くない。
イッキと勝負して、安達がそれを見ている。何でもない放課後の光景だ。それなのに、少し浮かれている自分がいた。
*
「じゃあ、向こうの橋の手前で折り返して、ここまで戻ってくる。それでいいな?」
「おう!」
「途中のカーブは二つ。無理に突っ込むなよ」
「分かってるって!」
「……本当に?」
「しつけえ!」
……まあ、いいか。
河川敷の舗装路。往復で四百メートルほど。以前、シンと勝負したときにも使ったコースだ。
直線だけでなく、カーブと折り返しがある。単純な加速だけでは走りきれない。
俺にとっては、何度も練習した慣れた道。一方のイッキは、まだA・Tを履き始めて数日だ。
普通に考えれば、負ける要素はない。
……普通に考えれば、な。
「じゃあ、あたしが合図するね!」
安達がスタート地点へ移動した。俺とイッキが並ぶ。
「……おい、カズ」
「ん?」
「手加減すんなよ」
イッキが、にやりと笑った。俺も笑い返す。
「……当たり前だろ」
こいつ相手に遠慮なんかしたら、後で何を言われるか分かったもんじゃない。
「位置についてー!」
安達が片手を上げる。
俺は軽く膝を曲げ、重心を前へ移した。隣ではイッキが、今にも転びそうなほど前傾している。
……おいおい。
本当に大丈夫か、それ。
「よーい……」
一瞬の静寂。
「スタート!」
――ギュンッ!!
「うおおおおおっ!!」
「……おっ!?」
最初に飛び出したのは、イッキだった。
……速え!
いや、正確には無茶苦茶な加速だ。A・Tの出力に任せて、身体ごと前へ投げ出している。重心は高い。膝も伸びきっている。
……あれ、絶対転ぶぞ。
そう思った直後。
「うおっ!?」
――ガクンッ!
イッキの右足が前へ流れた。身体が大きく傾く。
……ほらな!
だが、そこで転ばなかった。
「……っしゃらくせえ!」
――ガリッ!
滑った足を強引に踏み直し、その勢いを使ってもう一度地面を蹴る。
――ギュンッ!
「……マジかよ」
思わず笑ってしまった。今の、立て直したのか?
いや、立て直したというより、転びかけた勢いをそのまま次の動きにつなげたように見えた。
……何つー身体の使い方だよ。
だが。
「……悪いな、イッキ!」
俺は姿勢を低くし、踏み込んだ。足元の駆動が滑らかにつながる。
――ギュンッ!
「……あっ!?」
イッキの横を抜き去った。そして、そのまま差を広げる。
「おいっ! ちょっと待て、カズ!!」
「待つわけねえだろ!」
後ろから文句が飛んできたが、構っている暇はない。
……いい感じだ。
足元がぶれない。余計な力も入っていない。三か月間、何度も練習した加速が、ようやく身体に馴染んできた。
五メートル。
十メートル。
後ろの駆動音が、少しずつ遠ざかっていく。
……へへっ。
悪いな、イッキ。
今日のところは、そう簡単には追いつかせねえよ。
*
最初のカーブ。
俺は速度を落とし、身体を内側へ倒した。
――キュッ!
車輪が舗装路を噛む。わずかに横へ流れる感触を受け止め、そのまま出口へ向かって踏み込む。
――ギュンッ!
……よし。
綺麗に抜けられた。
シンとの勝負で覚えた切り返しも、少しずつ安定してきたらしい。
ふと、後ろから車輪の音が響いた。
……ん?
ちらりと振り返る。イッキが、カーブの外側へ大きく膨らんでいた。
……おいおい。そっちじゃ遠回りだろ。
しかも、あいつは減速していない。むしろ、さらに踏み込んでいる。
その先には、舗装路の端にできた小さな段差があった。
……まさか。
「イッキ! そこは――!」
叫んだ、その瞬間。
――タンッ!
跳んだ。
「……っ!?」
イッキの身体が宙へ浮いた。高さにすれば、ほんの数十センチだろう。
大したことのない跳躍。A・Tに慣れたライダーなら、誰でもできるかもしれない。
だが、その姿勢を見て、息を呑んだ。
さっきまで、あんなに足元がおぼつかなかった奴が。空中では、驚くほど自然に身体を動かしていた。
膝を引きつけ、肩を開く。吹き抜ける横風に合わせるように、身体をわずかにひねった。
……何だ、今の。
イッキが笑っていた。
まるで、そこに道を見つけたみたいに。
……ぞくっ。
背中が粟立った。ほんの一瞬だった。なのに、妙に長く見えた。
そして。
「うおおおっ! ……あ?」
――ガシャァン!!
「いってええええ!!」
……あーあ。
着地で盛大に転んだ。
俺は思わず吹き出した。
「……ははっ! 何やってんだよ!」
「うるせえ! 今の跳ぶとこは完璧だったろ!」
「着地できなきゃ意味ねえよ!」
「次はできるって!」
……まったく。ほんと、懲りねえ奴だな。
だが、あの跳躍は頭から離れなかった。
俺なら、あの段差をどう越えるだろう。
まず減速する。足場を確かめる。安全に跳べる位置を選ぶ。
それが当たり前だと思っていた。
なのに、イッキは違った。
まるで、跳んだ先にも地面が続いているみたいに走っていた。
……あいつ。
まだA・T履いて数日なんだよな。
今さらながら、末恐ろしい。
……まあ、今は俺の方が速いけどな!
俺はもう一度地面を蹴り、折り返し地点へ向かった。
*
橋の手前で減速し、そのまま方向転換。
――キュッ!
折り返しを抜けた俺は、再び加速した。向かい風が、頬を打つ。
少し遅れて、イッキとすれ違った。
「カズゥッ! 次は絶対抜くからなーっ!」
「まずゴールまで転ばずに来いよー!」
「うるせえええっ!」
すれ違いざまの叫び声に、笑ってしまった。
……楽しいな。
身体が思った通りに動く。曲がりたいところで曲がれる。速度を落とせば、また加速できる。
A・Tを履き始めた頃には、想像もできなかった感覚だ。
最後の直線。
遠くに、安達の姿が見えた。こっちへ向かって大きく手を振っている。
「カズくーん! あとちょっとー!」
その声に応えるように、もう一度踏み込んだ。
――ギュンッ!
景色が流れる。舗装路の継ぎ目が、次々と足元を通り過ぎていく。風が強くなった。
俺は、思わず笑っていた。
……いいな、これ。
そのまま、ゴールラインを駆け抜けた。
「……っしゃあ!!」
拳を握る。
勝った。
しかも、かなり余裕を残しての勝利だ。
「カズくん、速っ!」
安達が目を丸くしている。
「何あれ!? めちゃくちゃ速かったじゃん!」
「……まあな」
俺は少し得意げに笑った。
「三か月も練習したからな」
「えー、何かちょっと悔しい!」
「何でお前が悔しがってんだよ」
「だって、あたしまだちゃんとA・T乗ってるとこ見たことなかったし!」
安達が頬を膨らませた。
……いや、それは俺のせいじゃなくね?
そんなやり取りをしていると、遠くからイッキの声が聞こえてきた。
「……だああああっ!!」
ようやく戻ってきたイッキが、勢いよくブレーキをかける。
――ガガガッ!
「……うおっ!」
危うく転びかけ、何とか踏みとどまった。
「……っ、はぁ、はぁ……!」
そのまま膝に手をつく。
「くっそおおおお!! 全然追いつけねえじゃねえか!」
「……そりゃそうだろ」
俺はにやりと笑った。
「こっちは三か月、お前より先に走ってんだぞ」
「ぐぬぬ……この俺様が、カズごときに……!」
「ごときって言うな、ごときって」
「うっせえ! 帝王はな、一回負けたくらいじゃへこたれねえんだよ!」
「その帝王様、さっきから膝ついたままだけど」
「休憩だよ、休憩!」
イッキが勢いよく立ち上がった。
「見てろよ、カズ! 次はぜってえぶっちぎってやる!」
「……おう。楽しみにしてるぜ」
俺が笑うと、イッキも歯を見せて笑った。
……ああ。
やっぱり、こいつはこうじゃなきゃな。
あれだけ差をつけられて、まだそんな顔で笑えるんだから。
俺も、負けてられねえ。
*
「……でもさ、カズくん」
イッキが水を飲みに行ったところで、安達が話しかけてきた。
「ん?」
「ちょっと、何か悔しいかも」
「……まだ言ってんのかよ」
「だってさあ!」
安達が俺の足元を指差す。
「カズくんって最初、あたしより全然遅かったじゃん?」
「……まあ、そうだな」
「なのに、今じゃあんな速く走ってんだもん」
少しだけ口を尖らせる。
「……何か、置いてかれた気分」
……おいおい。
「A・T履いてんだから、普通の競走とは違うだろ」
「そーゆー問題じゃないの!」
「……難しい奴だな、お前」
「何よー!」
安達が軽く肩を小突いてくる。だが、すぐに笑った。
「……ま、いっか!」
「いいのかよ」
「うん。だって、カズくんが頑張ってたのは知ってるし」
「……ん?」
「毎日走ってたじゃん。ずっと」
安達が、俺の足元へ視線を落とした。
「こないだなんか、学校でも足引きずってたでしょ?」
「……見てたのかよ」
「そりゃ見るでしょ。あんな変な歩き方してたら!」
……うっ。
あれ、筋肉痛がひどかった日か。
「でも、次の日も走ってたしさ」
安達が笑った。
「だから、今日あんなに速かったの見たら……何か、ちょっと嬉しかった」
「…………」
思わず、安達を見る。
「……何?」
「いや。お前、そんなこと思ってたんだな」
「何それ! あたしだって人の努力くらい分かるし!」
「……いや、そういう意味じゃなくて」
言いかけて、やめた。
普段はふざけてばかりいるから、あまり意識していなかった。でも、こいつはちゃんと見てくれていたらしい。
転んで、疲れて、それでも走っていたところを。
「……ありがとな、安達」
「……え?」
「何か、嬉しいわ」
そう言うと、安達は少しだけ目を丸くした。それから、ふいっと顔を逸らす。
「……べ、別に! そんな大したこと言ってないし!」
「……そうか?」
「そうだよ!」
……何だよ。
そっちが言い出したんだろうに。
だが、安達は少し間を置いてから、またこちらを向いた。
「……でもさ」
「ん?」
「最近のカズくん、結構格好いいと思うよ」
「…………」
「……あ」
言った本人が、先に固まった。
……いや。
何でお前が驚いてんだよ。
「……えっと、その!」
安達が慌てて手を振る。
「走ってるときの話だからね!? 何か、前よりちゃんと走ってる感じするし!」
「……お、おう」
「別に、変な意味じゃないから!」
「分かったって」
「……ほんとに?」
「ほんとだよ」
……何だ、この空気。
俺まで妙に照れくさくなってきたんだけど。
安達は少し俯いた後、ぷいっと顔を背けた。
「……ま、頑張ってんのは認めてあげる!」
「……そりゃどうも」
「ふふん!」
……ったく。
こいつ、調子戻るの早えな。
そのときだった。
「おいおい! 俺の跳んだとこも見ただろ!」
イッキが割り込んできた。
「あ、見た見た!」
「だろ!? すげえ跳べたんだぜ!」
「うん! 着地もすごかったね!」
「……おう!」
「ものすごい勢いで転んでた!」
「そっちかよ!!」
俺と安達が、揃って吹き出した。
「……はははっ!」
「ちくしょう! 覚えてろよ、お前ら!」
イッキが悔しそうに叫ぶ。その顔があまりにもいつも通りで、また笑ってしまった。
*
それから、しばらく三人で河川敷に残った。
イッキは相変わらず無茶な走り方を繰り返していた。俺が止まり方を教えようとすると、文句を言う。減速の練習をさせようとすると、勝手に加速する。
「だから、そこはもっと膝を曲げろって!」
「分かってるって!」
「分かってねえから転ぶんだろ!」
「うるせえ! 俺には俺のやり方があんだよ!」
……まったく。
教える側になって初めて分かった。こいつ、めちゃくちゃ面倒くせえ。
安達なんか、もうベンチに座って笑っているだけだ。
「あははっ! カズくん、先生みたーい!」
「誰が先生だよ!」
「イッキくん、ちゃんと言うこと聞きなよー!」
「うるせえ! お前はどっちの味方なんだよ!」
「えー? 面白い方!」
「だから適当すぎんだろ!」
安達の笑い声が、河川敷に響いた。
やがて、イッキがまた段差へ向かい始める。
「……おい、イッキ」
「あ?」
「さっきの跳ぶやつ、まだやんのか?」
「当たり前だろ!」
イッキが、段差の向こうを指差す。
「何かさ、あのときすげえ気持ちよかったんだよな」
「……へえ」
「風が、こう……身体持ち上げてくれるっつーか」
手を動かしながら、上手く説明しようとしている。
「何つーのかな。もうちょいで、もっと上手く跳べそうなんだよ」
……なるほど。
こいつなりに、何か掴みかけているらしい。
「……まあ、今度は着地も考えろよ」
「分かってるって!」
「……本当に?」
「しつけえな!」
イッキが走り出す。今度はさっきより、少しだけ低い姿勢だった。
……お。
ちゃんと考えてるじゃねえか。
――タンッ!
身体が浮く。
――ガタンッ!
「……うおっ!」
着地でよろめいたが、どうにか転ばずに済んだ。
「……っしゃああ!」
イッキが拳を突き上げる。
「見たか、カズ!」
「……ああ。今のは上手かったな」
「だろ!?」
得意げに笑う。
……参ったな。
さっき転んだばかりなのに、もう一つ覚えやがった。
こいつがA・Tを始めたのは、ほんの数日前だ。それを考えると、素直に感心する。
……ちょっと腹立つけど。
そう思っていると、イッキがこちらを振り返った。
「おい、カズ! お前もやってみろよ!」
「……は?」
「跳ぶやつ! 結構気持ちいいぜ!」
「いや、俺は……」
段差を見る。高さは大したことない。だが、あそこをあの速度で跳ぶのは、今の俺にはちょっと怖い。
「……また今度な」
「へっ! ビビってんのか?」
「うるせえ。先に着地を安定させてから言え」
「何だよー!」
イッキが笑う。俺も笑い返した。
……でも。
そのうち、やってみてもいいかもしれない。
今日のイッキを見ていると、少しだけそう思えた。
*
夕方。日が傾き、河川敷を通る風が少し冷たくなってきた。俺たちは練習を切り上げ、ベンチに腰を下ろしていた。
「……あー、疲れた!」
イッキが大きく伸びをする。
「そりゃ、あんだけ転べばな」
「うるせえ!」
……何回目だ、このやり取り。
少し離れたところでは、安達が携帯をいじっている。部活の友達と連絡を取っているらしい。時折、画面を見て笑っていた。
「……なあ、カズ」
隣のイッキが、ふと口を開いた。
「ん?」
「お前さ、何でA・T始めたんだ?」
「……急だな」
「いや、前から思ってたんだよ。お前、いつの間にか走るようになってたじゃん」
「……まあな」
「何か理由あんの?」
……理由、か。
ある。
前世の記憶も、この先に待っている戦いも。できれば変えたい未来だってある。
けれど、今の俺が毎日走っている理由は、それだけじゃなかった。
「……楽しいから、かな」
「……は?」
イッキが目を丸くした。
「最初は別の理由があったんだけどな。実際に履いてみたら、思ってた以上に面白くてさ」
「……ふーん」
「昨日できなかったことが、今日できるようになったりするだろ。走れば走るほど、もっと速くなりたくなる」
俺は足元のA・Tを見た。傷だらけの中古品。
こいつを初めて履いたときは、こんなふうに誰かと競走することすら想像できなかった。
「……まあ、負けんのは悔しいけどな」
そう付け加えると、イッキが突然笑い出した。
「……ハハッ!」
「……何だよ」
「いや、俺と同じじゃねえか!」
そう言って、イッキは背もたれに身体を預けた。
「俺もよ、最初はあいつらぶっ飛ばすためにA・T履いたんだよな」
「……ああ」
「でも、何か違うんだよ」
イッキが、空を見上げる。
「走ってるとさ、もっとすげえことできそうな気がすんだよ」
「……へえ」
「さっき跳んだときも、ほんの一瞬だったけどよ」
イッキが、自分の手を空へかざした。
「地面がなくなったのに、まだ走ってるみてえでさ」
「…………」
「もっと上手くなったら、本当に空とか飛べんじゃねえかなって」
イッキは、何でもないことのように言った。
普通なら笑い飛ばすような話だ。だが、俺は笑えなかった。
こいつがいつか、本当に空へ届くことを知っている。その未来を思い浮かべたとき、少しだけ羨ましくなった。
……いいな。
お前は、まだ何も知らないくせに。そんなに楽しそうに、その先の話ができるんだな。
けれど。
俺だって、負けたくはない。
「……なあ、イッキ」
「あ?」
「競争しようぜ」
「……は?」
イッキがこちらを向いた。
「今だって競争しただろ?」
「いや、そうじゃなくて」
俺は少し笑った。
「どっちが先に、空まで行けるか」
「…………」
イッキが、ぽかんと俺を見た。
それから。
「……へっ!」
にやりと笑う。
「面白えじゃん!」
そう言って、拳を差し出してきた。
「負けねえぞ、カズ」
「……俺もだ」
差し出された拳に、自分の拳をぶつける。
――コツン。
小さな音がした。
「……あっ!」
少し離れたところから、安達の声が飛んできた。
「何それ! 二人で何か約束してんの!?」
「へっ! 俺とカズで、どっちが先に空飛べるか勝負すんだよ!」
「……はあ?」
安達が、思いきり眉をひそめた。
「何それ! 男子ってほんと馬鹿だよね!」
「うるせえ! お前には分かんねえんだよ!」
「分かんなくて結構でーす!」
べーっと舌を出す安達。イッキも負けじと言い返す。
俺は、そのやり取りを横で聞いていた。
……まあ。
馬鹿みたいな約束なのは、否定できねえな。
それでも、妙に楽しみだった。
イッキは、また空を見上げている。俺は、その横顔を見ていた。
*
帰り道。イッキとは途中で別れ、俺は一人で歩いていた。
すっかり暗くなった空の下、昼間の河川敷を思い出す。
……今日は勝ったな。
それも、かなり余裕を持って。
三か月間の練習が無駄じゃなかったことを、久しぶりにはっきり実感できた。
正直、めちゃくちゃ嬉しい。
だが、頭から離れないのは、イッキがカーブの外側から跳んだ瞬間だった。あの身体の動き。宙へ飛び出す直前、イッキが浮かべた笑顔。
……あいつ、まだ数日だぞ。
この先、どれだけ上手くなるんだろうな。
考えると、少し怖い。でも、同じくらい楽しみでもあった。
……さて。
俺も、負けてらんねえな。
そのとき、ポケットの携帯が震えた。シンからだった。
『おいカズ。今度、面白い走り屋が集まる場所教えてやるよ』
「……へえ」
思わず足を止める。
面白い走り屋が集まる場所、か。
シンと勝負して以来、他のストームライダーと走ることにも興味が湧いていた。どれくらい速い奴がいるんだろう。今日のイッキとは、また違う走りを見られるかもしれない。
『いいぜ。詳しく教えてくれ』
そう返信して、携帯をしまった。
歩き出そうとして、ふと右手を見る。さっき、イッキとぶつけた拳。
別に、何か変わったわけじゃない。ただ、あいつと約束しただけだ。
どっちが先に、空まで行けるか。
「……ははっ」
思い出すと、何だか笑えてきた。小さい頃から一緒にいたイッキと、今さらそんな約束をするなんてな。
夜風が頬を撫でる。昼間の河川敷と、同じ風だった。
俺は、もう一度だけ空を見上げた。
……ま、明日も練習だな。
その前に。
「……腹減った」
思った途端、腹が鳴った。
……とりあえず、帰ろう。
明日も、走りたい。
今は、それだけで十分だった。