「カズゥゥゥッ!!」
振り向いたときには、もう遅かった。
河川敷の斜面を滑り降りてきたイッキが、途中の段差に引っかかり、盛大にバランスを崩す。
「うおっ、馬鹿! こっち来んな!」
――ガシャァン!!
俺の脇をかすめたイッキは、そのまま芝生へ突っ込み、三回転ほどしてようやく止まった。
「……生きてるかー?」
「……っ、だあああ! くっそ!」
草むらから、見慣れた黒髪が飛び出す。
「今の絶対いけたって!」
「いや、どう見ても無理だったろ」
「途中まではいけたんだよ!」
「それを世間では失敗って言うんだ」
「うるせえ!」
髑髏十字軍との一件から、一週間ほどが経った。
イッキは今日も元気に、A・Tと自分の身体を痛めつけている。
学校が終われば河川敷へ直行し、休日も朝から走り込み。最近では授業中まで窓の外を眺めている始末だ。おかげで、俺もすっかり付き合わされっぱなしだった。
「……なあ、イッキ」
「あ?」
「お前、少しは基礎練習したらどうだ?」
「してんだろ!」
「どこがだよ」
「毎日走ってんじゃねえか!」
「それは基礎練習じゃなくて、ただ遊んでるだけだろ!」
イッキが不満そうに顔をしかめる。
俺が最初の三か月で覚えたのは、立つこと、止まること、曲がること。あとは、ひたすら転ばずに走ることだった。
一方、イッキが夢中になっているのは、どうすれば高く跳べるか、どこから飛び降りれば面白いかということばかり。
……方向性が違いすぎる。
「だいたい、曲がるときにまだふらついてんだろ」
「うっせえ! 曲がんのなんか後でいいんだよ!」
「よくねえよ。いつか壁に突っ込むぞ」
「ぶつかる前に跳べばいいだろ!」
「そういう問題じゃねえって!」
イッキは聞く耳を持たず、もう一度斜面の上へ向かっていった。
……ったく。
まあ、怪我しねえ程度にな。
「よーし! 今度こそ!」
イッキが勢いよく走り出す。
――ギュンッ!
斜面を滑り降りる。さっきと同じ段差が迫る。
だが、そこで少しだけ動きが変わった。
……ん?
さっきは段差を前にして、慌てて身体を起こしていた。今度は逆だ。
膝を曲げ、低く沈む。段差の手前で左足を押し込み、その反動を一気に解放した。
――タンッ!
「……おっ!?」
イッキの身体が宙へ浮いた。
さっきより、ずっと高い。
しかも、ただ跳んでいるわけじゃない。空中で膝を引きつけ、身体をひねる。肩が開き、視線が着地点へ向く。
……あ。
ほんの一瞬。
イッキが、最初からそこに道があると知っているように見えた。
――ガタンッ!
「……おおっ!?」
着地。
大きくよろめいたものの、今度は転ばなかった。
「……っしゃあああ!!」
イッキが両手を突き上げる。
「見たか、カズ!」
「……ああ。やるじゃねえか」
「だろ!?」
得意げに笑うイッキを見て、俺も笑った。
……参ったな。
俺だったら、あそこまで跳ぼうと思う前に、まず着地の練習から始める。
こいつは逆だ。
とりあえず跳んで、着地は空中で何とかしやがる。
……いや、それで本当に何とかなっちまうのが腹立つんだけどな。
こっちは三か月かけて、ようやくまともに走れるようになったってのに。こいつは、まだカーブ一つ満足に曲がれないくせに、あんな跳び方をする。
正直、ちょっと悔しい。
「……おい、イッキ」
「あ?」
「もう一本、勝負するか?」
「へっ! 望むところだ!」
その後、いつもの折り返しコースでイッキをぶっちぎってやった。
「……だあああっ! 何で追いつけねえんだよ!」
「だから基礎やれって」
「分かってるっつってんだろ!」
「分かってる奴は、曲がるたびに転びかけねえんだよ!」
……うん。
まだ負けてらんねえな。
もっとも、さっきの跳躍を思い出すと、あまり悠長なことも言っていられない気がした。
イッキは、きっとこれからもっと速くなる。
そのとき俺が隣を走れているかどうかは、今の俺次第だ。
*
「……はぁっ、くっそ! また負けた!」
イッキが芝生に寝転がった。
「だからカーブで減速しすぎなんだって」
「うるせえ! 次は勝つ!」
「何回目だよ、それ」
そんなやり取りをしていると、背後から笑い声が聞こえた。
「あははっ! また二人で勝負してんの?」
「……安達?」
振り返ると、ジャージ姿の安達が立っていた。
肩にスポーツバッグを掛け、片手には飲みかけのスポーツドリンク。どうやら部活の帰りらしい。
「おー、安達! 見てたか!? さっき俺、すげえ跳んだんだぜ!」
「えー? 見てない! 何それ!」
「よっしゃ、もう一回見せてやる!」
「待て待て、イッキ。お前さっきから何回跳んでんだよ」
「うるせえ! 今度はもっと高く跳べる気がすんだ!」
イッキはまた斜面へ走っていった。
……元気だなあ、ほんと。
「あははっ。イッキくん、すっかりハマってるねー」
「まあな。最近はあれのことしか考えてねえんじゃねえか?」
「カズくんも人のこと言えないでしょ。最近ほんと、走ってばっかじゃん」
「お前に言われたくねえよ、陸上部」
「それもそっか!」
安達が笑う。それから、何か思い出したように俺の肩を指差した。
「……あ、そうそう! カズくんさ」
「ん?」
「さっきの最後、また力んでたよ」
「……さっきの?」
「イッキくんと競走してたとき。向こうから見えてたんだけどさ」
安達が、俺の肩へ軽く手を置いた。
「速く走ろうとすると、すぐここがガチガチになるんだよね」
「……そうか?」
「なるなる! 特に最後!」
そう言って、俺の前で腕をぶらぶらと揺らしてみせる。
「もっと力抜くの! 最後こそ!」
「……いや、そんな簡単に言われても」
「えー? 簡単だって! ほら、こう!」
安達が大げさに肩を回し、その場で腕を振り始めた。
……何だ、その動き。
「……お前、それ本当に速く走れるのか?」
「ちょっと! 真面目に教えてんのに!」
背中をぱしんと叩かれた。
「いてっ!」
「カズくん、すぐ力で何とかしようとするんだもん。陸上だと、最後の方こそ余計な力抜かないと身体が動かなくなるよ?」
「……へえ」
意外とまともなことを言う。
……いや、陸上部なんだから当たり前か。
「……何、その顔」
「いや。ちゃんと先輩っぽいなと思って」
「同級生でしょ!」
「走る方の先輩って意味だよ」
「……ふふん。まあ、そういうことなら!」
安達が得意げに胸を張る。
ほんと、調子のいい奴だ。
「……じゃあ、お手本見せてくれよ」
「え?」
「そこからあの木まで。軽く一本走ってみてくれ」
俺が河川敷の先を指差すと、安達が目を丸くした。
「……えー? あたし、もう部活終わりなんだけど」
「さっき簡単だって言ってたじゃん」
「むっ。カズくん、あたしのこと舐めてるでしょ?」
「いやいや、そんなことは」
「……よーし! じゃあ見てなさい!」
バッグを置き、軽く足首を回す。
「うっし!」
小さく気合いを入れて、安達がスタート位置についた。
……お。
さっきまでふざけていた顔が、少し変わった。
一度だけ深呼吸。
そして、走り出す。
――タッ、タッ、タッ!
軽い足取り。
無理に地面を蹴っているようには見えないのに、少しずつ速度が上がっていく。
……あれ?
あいつ、肩がほとんど上下してねえな。
腕も大きく振り回しているわけじゃない。肘を引くたび、自然に脚が前へ出ている。
対して、俺はどうだ。
速く走ろうとすると、腕を振るのにも、地面を蹴るのにも、必要以上に力を入れている気がする。
……なるほど。
あいつが言いたいのは、こういうことか。
折り返してきた安達が、俺の前で速度を落とした。
「……どうよ!」
「……ああ。やっぱ速えな」
「でしょー?」
にっと笑う。
「カズくんも、もうちょっと上手く走ればもっと速くなると思うよ」
「……そっか。ありがとな」
「……えっ?」
「参考になった」
そう言うと、安達はなぜか少しだけ目を丸くした。
「……な、何よ。急に素直じゃん」
「褒めたら駄目なのかよ」
「駄目じゃないけど! 何か調子狂う!」
そっちが教えてくれたんだろうに。
俺が笑っていると、斜面の方からイッキの声が響いた。
「カズゥゥッ! 見てろよ、今度こそ――」
――ガシャァン!!
「……あ」
「……あーあ」
安達と顔を見合わせる。
そして、二人揃って吹き出した。
「あはははっ! イッキくん、また転んでる!」
「だから基礎やれって言ってんのに……!」
まったく。
退屈しねえな、こいつらといると。
*
数日後の夕方。
「……へえ。ここか」
俺はシンに教えられた、ストームライダーたちの集まる場所へ来ていた。
駅から少し離れた高架下。
壁には色とりどりのチームステッカーが貼られ、地面には車輪の擦れた跡が幾重にも残っている。頭上を電車が通るたび、低い振動が腹に響いた。
何人ものライダーが、思い思いに走っていた。
手すりの上を滑る奴。
壁を蹴って方向転換する奴。
小さな段差を利用して、軽々と宙へ跳ぶ奴。
……おお。
こりゃ、なかなか。
河川敷で一人練習しているだけじゃ、まず見られない光景だった。
「おーい、カズ!」
聞き慣れた声に振り返る。
「……シン」
「来たな! どうよ、ここ」
「結構すげえな」
「だろ? この辺じゃ、それなりに有名な場所なんだぜ」
シンが得意げに胸を張る。
「いろんなチームの奴らが来るからな。腕試しもできるし、上手い奴の走りも見られる」
「……なるほど」
確かに、得られるものは多そうだ。
目の前を、一人のライダーが駆け抜けていく。
手すりへ片足を乗せ、そのまま滑り降りて着地。
……何だ、今の。
俺だったら、手すりに乗るところから練習が必要だぞ。
「……ところで、シン」
「あ?」
「ここって、勝負とかできんの?」
「……おっ?」
シンがにやりと笑った。
「やる気じゃん」
「まあな」
俺も笑う。
髑髏十字軍との戦いでは、相手が複数になるだけで思ったように走れなかった。
それに、あの夜に見た眠りの森の走り。
あいつらは、俺が苦労している場所を、まるで当たり前のように駆け抜けていた。
……あんなの見せられたらな。
今の自分で満足なんて、とてもできない。
「いいぜ。じゃ、ちょっと面白い奴紹介してやるよ」
シンはそう言って、奥へ向かって歩き出した。
「おーい、ケン!」
壁にもたれていた少年が顔を上げる。
「……あ?」
「こいつ、カズってんだ。結構速えんだぜ」
「……ふーん」
少年が俺をじろりと見た。
年齢は高校生くらいだろうか。短めの茶髪に、細身の身体。履いているA・Tは、俺の中古品より随分と新しい。
「あ、ちなみにこいつ、Dクラスのチームで走ってんだぜ」
「……Dクラス?」
思わずケンを見る。
……おいおい。
思ったより本格的な奴じゃねえか。
「シン、余計なこと言うなよ」
「いいだろ、別に。お前、走らせたらめちゃくちゃ速いじゃん」
「走るだけならな」
ケンが面倒くさそうに肩をすくめた。
「キューブじゃ、どうにも勝ちきれねえんだよ。ああいうタイマン、苦手でさ」
「何言ってんだよ。走る技術だけなら、もっと上でも通用するだろ」
「……だから、その走るだけじゃ上がれねえんだって」
……なるほど。
どうやら、単なる自信過剰な奴ってわけでもなさそうだ。
Dクラスのキューブ戦。狭い空間で相手とぶつかり合う、走る速さだけじゃ勝てない勝負だ。
……まあ、俺も人のことは言えねえけどな。
「……で?」
ケンがこちらへ向き直った。
「俺と走りてえの?」
「……ああ。走ってみたい」
「へえ」
ケンの口元が上がった。
「じゃ、一本やる?」
「いいぜ」
「……おいおい、二人とも早えな」
シンが笑いながら割って入る。
「せっかくだし、俺が合図してやるよ」
*
最初の勝負は、高架下の直線と二つのカーブを組み合わせたコースだった。
「準備いいかー?」
シンが片手を上げる。
隣では、ケンが軽く足を動かしていた。
――ギュルッ。
車輪の音が、俺のものよりずっと軽い。
……新しいA・T、いいなあ。
「……何見てんだよ」
「いや。いい靴履いてんなと思って」
「ははっ。負けたときの言い訳にすんなよ?」
「……言うねえ」
俺も姿勢を低くした。
「よーい、スタート!」
――ギュンッ!!
先に飛び出したのはケンだった。
……速い!
最初の三歩で、もう半身ほど前に出ている。
踏み出しに無駄がない。地面を蹴るたびに、あっという間に加速していく。
俺も腰を落として追いかける。
――ギュンッ!
ケンの背中が、目の前で揺れた。
……くそ。速えな、こいつ!
「……へっ!」
ケンが肩越しに笑う。
だが、最初のカーブが見えた。
……ここからだ。
俺は重心を落とし、左足へ体重を移す。
――キィッ!
短い制動。
車輪が路面を擦り、身体が内側へ倒れ込む。
そのまま、右足を強く踏み込んだ。
――ギュンッ!!
「……っ!?」
ケンの背中が、一気に近づいた。
半身。
そして、横へ。
……抜ける!
カーブの出口で、俺はケンの横を滑り抜けた。
「おっ!? やるじゃん!」
ケンが笑う。
当然、そこで終わりじゃない。
背後から、すぐに駆動音が追いかけてきた。
――ギュオッ!
……っ!
直線で、また差を詰められる。
ケンの前輪が視界の端へ入った。
だが、次のカーブはもう目の前だ。
俺は早めに腰を沈め、減速の準備をする。
そして。
――キュンッ!
左から右へ、一気に重心を切り替えた。
ケンが外側へ膨らむ。その内側を抜け、車輪を鳴らしながら再加速。
――ギュンッ!!
「……おいおい!」
背後で声が上がった。
最後の直線。
もう一度ケンが追ってきたが、わずかな差を守りきり、そのままゴールを抜けた。
「……っしゃ!」
急制動。
――キィィッ!
少し身体が流れたが、どうにか姿勢を戻す。
振り返ると、ケンがすぐ後ろへ滑り込んできた。
「……へえ」
ケンは俺の足元を見て、それから笑った。
「やるじゃん」
「……そっちこそ。最初の加速、かなり速えな」
「ま、そこは自信あるし」
「……おいおい、カズ!」
横からシンが割り込んできた。
「お前、いつの間にそんな速くなったんだよ!?」
「……え?」
「いや、前に俺と走ったときも速かったけどよ! 今の切り返し、全然違ったぞ!」
シンが興奮した様子で、さっきのカーブを指差す。
「あそこでケンを抜くとは思わなかったぜ。しばらく見ねえ間に、随分腕上げたじゃねえか!」
「……まあ、あれから結構練習したからな」
「結構ってレベルかよ!」
シンが笑う。
……そんなに変わったか?
自分じゃ毎日少しずつ走ってるから、あんまり分からねえんだけど。
「へえ。シンがそこまで言うなら、まぐれじゃなさそうだな」
ケンが俺を見た。
さっきより、少し楽しそうな顔だった。
「……面白え。じゃ、次はこっちでやろうぜ」
指差した先を見て、俺は少し固まった。
「……おい」
「ん?」
「そこ、走るの?」
低い壁。鉄製の手すり。そして、途中に小さな段差がいくつもある。
「当たり前だろ。A・T履いてんだからさ」
ケンが、にやりと笑った。
*
二本目。
――ギュンッ!!
スタートと同時に、ケンが右へ飛び出した。
……ん?
コースの中心は、左側の通路だ。
なのに、あいつはわざわざ壁際へ向かっている。
次の瞬間。
――タンッ!
ケンが壁を蹴った。
身体が斜め上へ跳ね上がり、鉄製の手すりへ片足を乗せる。
――ギャリリリッ!!
車輪が金属を擦り、甲高い音が響いた。
「……マジかよ!」
俺が地面の障害物を迂回している間に、ケンは手すりの上を滑っていく。
しかも。
――タンッ!
手すりの終わりで軽く跳び、今度は向かい側の低い壁へ着地。
そのまま身体をひねり、ほとんど減速せずに次の通路へ飛び出した。
……何だよ、今の!
慌てて追いかける。
――ギュンッ!!
平地なら、少しずつ距離を詰められる。
だが、次の障害物が迫った瞬間、また差が開いた。
俺が段差の脇を抜ける。
その頭上を、ケンが飛び越えていく。
「遅えぞ、カズ!」
……うるせえ!
上から声が降ってきた。
顔を上げたときには、もうケンが次の手すりへ着地している。
――ギャリッ!
車輪が一瞬だけ火花を散らす。
……うわ。
あれ、怖くねえのかよ。
最後の直線で全力を出したものの、差は縮まらなかった。
「……っしゃ!」
先にゴールしたケンが、軽く拳を上げた。
俺が遅れて滑り込むと、あいつはもう壁に寄りかかっていた。
「……遅えぞ」
「……うっせ」
息を整えながら、俺はさっきの手すりを見上げた。
……あんなところ、よく走れるな。
「お前、上が全然見えてねえな」
「……上?」
「壁とか手すりとか。使える場所、いっぱいあんだろ」
そう言って、近くの壁を軽く蹴る。
「地面だけ走ってたら、そりゃ遠回りになるわ」
……耳が痛い。
確かに、俺はこの三か月、ほとんど平地で練習してきた。
加速、減速、方向転換。
それなりに上達したつもりだったが、立体的な走りとなると、まだまだだ。
……しかし、すげえな。
さっきのケンの動き。
あれだけ派手に跳んで、壁を蹴って、手すりを滑って。
それでも、着地のたびに速度がほとんど落ちていなかった。
……これでDクラスかよ。
いや、シンが言ってたな。
走る技術だけなら、もっと上でも通用するって。
「……じゃあ、もう一本」
「……お?」
ケンが顔を上げる。
「いいのか? また負けんぞ」
「同じコースじゃなくていい。別の場所、見せてくれよ」
「……ははっ!」
ケンが笑った。
「いいねえ。そういうの嫌いじゃないぜ」
三本目は、壁際の短い段差とカーブを組み合わせたコースだった。
今度は、ケンの走りをよく見ることにした。
あいつはカーブの手前で地面を蹴るだけじゃない。壁に片足を触れさせ、その反動で身体の向きを変えている。
……なるほど。
あれなら、大きく減速しなくても曲がれるのか。
もちろん、今すぐ同じことはできない。
だが、壁だけが使えるものとは限らない。
次のカーブ。
俺は内側にある低い段差へ片足を乗せた。
――タンッ!
軽く蹴る。
身体が、思っていたより鋭く向きを変えた。
「……おっ!?」
ケンが振り返る。
俺も驚いた。
……おお、いけるじゃん!
勢いのまま地面へ戻る。
着地した瞬間、足首がぐらりと揺れた。
「……うおっ!?」
慌てて膝を曲げ、重心を戻す。
――ギュンッ!
……っぶねえ!
だが、速度は落ちていない。
そのまま踏み込み、ケンの横へ並んだ。
「おいおい! お前、さっきの見て真似したろ!」
「……悪いかよ!」
「いや、いいねえ!」
ケンが笑った。
――ギュンッ!!
最後の直線。
二人の車輪が、ほとんど同時に唸る。
……負けるか!
俺はさらに姿勢を沈め、残っていた力を足元へ集中させた。
ケンが半身ほど前へ出る。
だが、まだだ。
――ギュオッ!
「……っ!?」
ケンの肩が近づく。
そして。
「……っしゃ!」
ほんのわずかに、俺が先にゴールを抜けた。
「……はぁっ、はぁっ……!」
思わず膝に手をつく。
……危ねえ。
今の、もう少し長かったら負けてたな。
「……ははっ! やるじゃん、お前!」
ケンが笑う。
「……バレたか」
「分かるわ! さっきの真似だろ? 着地、めちゃくちゃ危なかったぞ!」
「……まあな」
実際、足首が少し痛い。
……あれは練習しねえと駄目だな。
それでも。
さっきまで、ただの壁と段差にしか見えなかったものが、少し違って見える。
……次は、あそこの手すりも使えるかな。
「……で、どうする?」
ケンが聞いた。
「今ので二勝一敗だけど」
「……もう一本、やるか?」
俺がそう言うと、ケンは嬉しそうに笑った。
「当たり前だろ」
*
四本目。
最後の勝負は、高架下を大きく回る高速コースだった。
長い直線の先に鋭いカーブ。その先を折り返し、元の場所へ戻ってくる。
速さだけでは勝てない。かといって、慎重に走りすぎても置いていかれる。
「……これで最後な!」
シンが声を張り上げた。
俺とケンが、並んでスタート位置につく。
「……なあ、カズ」
ケンが横目でこちらを見た。
「ん?」
「今度は、さっきみたいに簡単には抜かせねえからな」
「……言ってろよ」
俺も笑った。
正直、かなり疲れている。
だが、不思議と気分はよかった。こうして誰かと本気で走るのは、やっぱり楽しい。
「よーい……」
シンの手が上がる。
「スタート!」
――ギュンッ!!
ケンが飛び出した。俺も即座に追う。
最初の直線。
二つの駆動音が高架下に響き、コンクリートの壁へ跳ね返る。
……速え!
スタートでは、ケンが半身ほど前に出た。
だが、ここからだ。
俺は姿勢を低くし、右足を強く踏み込んだ。
――ギュオッ!!
「……っ!?」
ケンが振り返る。
一メートルあった差が、みるみる縮まっていく。
……よし!
追いつく!
足元の車輪が路面を噛む。小さな継ぎ目を踏むたび、振動が足の裏から膝へ伝わってきた。
まだだ。
まだ、踏める。
「……おいおい、マジかよ!」
ケンが笑った。
そして、さらに加速する。
――ギュンッ!!
俺も負けじと踏み込んだ。
肩が並ぶ。
風が頬を叩き、地面の継ぎ目が次々と後ろへ流れていく。
「うおおっ! カズ、速ええっ!!」
コース脇からシンの声が飛んできた。
……へっ!
まだまだ!
俺はさらに身体を沈めた。
――ギュンッ!
ケンの肩が、少しずつ後ろへ下がっていく。
……抜ける!
直線の終わり。
俺がわずかに前へ出た、そのときだった。
「……っ!」
カーブが見えた。
まずい。
この速度で突っ込んだら、曲がりきれない。
俺は反射的に左足を押しつけ、ブレーキをかけた。
――キィィッ!!
車輪が甲高く鳴く。
速度が落ちる。
だが、隣のケンは――。
「……なっ!?」
まだ踏んでいた。
「悪いな、カズ!」
ケンが俺の横を駆け抜ける。
……おい、待て!
そっちは壁だぞ!?
――ガンッ!!
ケンが手すりへ片足を乗せた。
車輪が金属を擦り、火花が散る。
――ギャリリリッ!!
そのまま身体を横へ倒し、壁際を斜めに駆け上がっていく。
……嘘だろ!?
頭上を影が横切った。
ケンだ。
俺がカーブの外側を回り込む間に、あいつは壁と手すりを使って、ほとんど減速せずに向きを変えていた。
そして。
――タンッ!
壁を蹴り、地面へ飛び出す。
着地。
次の瞬間には、もう加速していた。
――ギュンッ!!
「……っ、くそ!」
俺もカーブを抜け、全力で追いかける。
だが、開いた差は縮まらない。
……何だよ、それ。
直線じゃ、確かに追いついてた。
なのに、曲がるだけでこんなに差がつくのかよ!
折り返し地点が迫る。
ケンはまた壁際へ寄っていった。
……また、あれか!
今度こそ食らいつこうと、俺も減速を遅らせる。
――キィッ!!
「……っ!?」
車輪が横へ流れた。
まずい!
慌てて姿勢を起こし、どうにか転倒を防ぐ。
その間にも、ケンは壁を蹴って折り返していた。
――タンッ!
……くそっ!
まだ無理かよ!
最後の直線。
俺は残った力を振り絞り、地面を蹴った。
――ギュンッ!!
少しずつ、ケンの背中が近づく。
二メートル。
一メートル半。
……追いつけ!
だが。
「……っしゃあ!」
先にゴールしたのは、ケンだった。
「……っ、はぁ、はぁ……!」
俺は膝に手をついた。
……負けた。
二勝二敗。
数字だけ見れば互角だが、最後の一本は完敗だった。
いや、速さそのものでは、俺も負けていなかったはずだ。
直線では追いついた。ほんの一瞬だけど、前にも出た。
それなのに、カーブを曲がるだけで置いていかれる。
……これが、走行技術の差か。
Dクラスのチームに所属しているとはいえ、ケンの走りがそこらのライダーとは違うのはよく分かった。
「……お前、結構やるじゃん」
ケンが笑いながら近づいてきた。
「そっちこそ。あのカーブ、どうやって曲がってんだよ……」
「ん? ああ、あれか」
ケンが手すりを指差す。
「足乗せて、方向変えてるだけだけど」
「その『だけ』ができねえんだよ」
「ははっ! 練習しろよ!」
……言いやがる。
だが、ケンはそこで俺の足元へ目を落とした。
「……なあ、お前」
「ん?」
「最後、何であそこで引いた?」
「……あ?」
「直線の終わり。俺に追いついてたろ」
「……ああ」
「なのに、急に速度落としたじゃん」
「そりゃ、カーブが近かったからな。あのままじゃ曲がれねえし」
「……ほんとに?」
「……は?」
ケンは、さっきのカーブを指差した。
「お前さ、曲がれないって決めるの、ちょっと早くね?」
「……早い?」
「ああ。俺に追いついたとき、まだ踏めただろ」
……確かに。
あのとき、足元にはまだ余裕があった。
「けど、それ以上踏んだら――」
「転ぶかもな」
ケンがあっさり言った。
「……おい」
「でも、お前の場合、試してもいねえだろ?」
「…………」
返す言葉がなかった。
俺は、さっきのカーブへ目を向けた。
いつも、あのあたりから減速している。
練習でも、勝負でも。
最初は何度も転んだ。曲がれなくて壁に突っ込みかけたこともある。
だから、確実に止まれる距離を覚えた。
それ自体は間違っていないはずだ。
ただ。
……そうか。
俺、いつの間にか同じ場所でブレーキ踏むようになってたのか。
もっと速く走れるようになっても、そのタイミングだけは変えていなかった。
「……別に、無茶しろって話じゃねえぞ」
ケンが笑った。
「怪我したら馬鹿らしいしな。けど、お前が本当はどこまで踏めるのか、ちょっと見てみたいんだよ」
「…………」
俺は、足元のA・Tを見た。
傷だらけの中古品。
三か月間、何度も転びながら乗りこなしてきた一足。
……もう少し、踏めるのか。
「……ありがとな、ケン」
「……は?」
「参考になった」
そう答えると、ケンは少し目を丸くした。
それから、ふっと笑う。
「変な奴。でも、次はもっと本気で来いよ」
「ああ」
俺も笑った。
「次は、驚かせてやる」
「ははっ! 言ってろ!」
その横で、シンが手を叩いた。
「はいはい! 今日はそこまで! お前ら、いつまで走るつもりだよ!」
「……もう一本くらい行けるけど?」
ケンが言う。
「いや、俺は勘弁」
即答した。
……足が、もう限界だ。
シンが吹き出す。
「ははっ! でもマジですげえな、カズ。あのケンとここまで競るとは思わなかったぜ」
「……そんな大げさな」
「大げさじゃねえって! こいつ、走るだけなら本当に上手いんだからよ」
シンがケンの肩を叩いた。
「キューブでも、もうちょい勝てりゃなあ」
「……余計なお世話だ」
ケンが嫌そうな顔をする。
「狭いとこで殴り合うのは苦手なんだよ。俺は走ってる方が楽しいし」
「ははっ! そりゃそうだけどよ!」
……なるほどな。
ケンにも、得意なことと苦手なことがある。
今日の勝負じゃ、あいつの得意な走りを散々見せつけられた。
でも、もしキューブで戦ったら、また違う結果になるのかもしれない。
……まあ、今の俺がそんな勝負をしたら、普通にボコボコにされそうだけど。
「……カズ」
ケンが片手を上げた。
「また来いよ。次は今日より面白いコース用意しとくからさ」
「……おう。今度は四本とも勝ってやるよ」
「ははっ! 無理無理!」
……言いやがる。
シンとケンが笑った。俺もつられて笑ってしまった。
それから、もう一度だけさっきのカーブへ目を向ける。
次に走るときは。
あと一歩だけ、踏んでみようか。
*
数日後。
「……なあ、カズ」
「ん?」
「お前、パーツ・ウォウって知ってる?」
放課後の教室。
イッキが突然、そんなことを聞いてきた。
「……ああ」
思わず顔を上げる。
……来たか。
パーツ・ウォウ。ストームライダー同士が、チームの誇りやパーツ、エンブレムなどを賭けて行う勝負だ。
原作でも、イッキたちが本格的にA・Tの世界へ踏み込んでいくきっかけになった。
「何だよ。知ってんのか?」
「まあ、名前くらいはな」
「へえ! 何か面白そうじゃねえ?」
イッキがにやりと笑う。
「今度、俺もやってみてえんだよ」
「……おいおい」
思わず苦笑した。
「お前、まだA・T始めたばっかだろ」
「だから何だよ!」
「もうちょい慣れてからでもいいんじゃねえかって」
「……へっ!」
イッキが不敵に笑う。
「強え奴と戦わなきゃ、強くなれねえだろ?」
「…………」
……まったく。
こいつは、そういう奴だよな。
ついこの前まで、斜面からまともに降りることすらできなかったくせに。もう、次の勝負のことを考えている。
「……イッキ」
「あ?」
「勝負するのはいいけど、相手はちゃんと選べよ」
「へっ。お前、心配性だな!」
「うるせえ」
「大丈夫だって! 誰が相手でも、ぶっ飛ばしてやるよ!」
……その自信、どっから来るんだよ。
俺が呆れていると、イッキは上機嫌で教室を出ていった。
パーツ・ウォウ。
そろそろ、イッキが本格的にストームライダーの世界へ入り込んでいく時期だ。当然、これまでより危ない相手も出てくるだろう。
……まあ、言ったところで聞く奴じゃねえか。
俺は肩をすくめ、鞄を持ち直した。
*
その日の放課後。
教室へ忘れたノートを取りに戻ったときだった。
「……あー、あったあった」
机の中からノートを取り出し、鞄へしまう。
すでに教室にはほとんど人が残っていない。窓の外からは、運動部の掛け声が聞こえていた。
……さて、帰るか。
そう思って廊下へ出たときだった。
「……そんなの、できないよ……」
小さな声が聞こえた。
……ん?
階段の踊り場に、安達がいた。
携帯を握ったまま、じっと画面を見ている。
いつもなら、俺の顔を見るなり何かしら話しかけてくる奴だ。
それが、こちらに気づきもしない。
「……イッキくんに、あんなこと……」
「…………」
……イッキ?
俺は足を止めた。
安達は何かを打ち込もうとして、すぐに指を止めた。
そして、また画面を見る。
「……中山も困ってるのに……」
聞き取れたのは、そこまでだった。
「……安達?」
「ひゃっ!?」
安達が飛び上がった。
「か、カズくん!? びっくりしたぁ!」
「いや、こっちの台詞だよ。何やってんだ?」
「え? あー、ちょっとね!」
慌てて携帯をポケットへしまう。
「部活のことだから! 色々あってさ!」
「……部活?」
「そそ! もー、めんどくさいんだよねー!」
あはは、と笑う。
だが、さっきまでの顔を見てしまっている。
俺は少し迷ってから、口を開いた。
「……なあ、安達」
「ん?」
「何かあった?」
「…………」
一瞬だけ、笑顔が消えた。
「……何で?」
「いや。何か元気ねえから」
安達が俺を見上げる。
何か言いたそうに口を開いた。
けれど、すぐに視線を逸らした。
「……何でもないって」
「……そっか」
「うん! 気にしないで!」
そう言って笑う。
……嘘だな。
ここ数か月、安達とは随分と話すようになった。
放課後に走ったり、競走したり、くだらないことで言い争ったり。
だから、分かる。
今の笑顔は、いつもの安達のものじゃない。
「……まあ、話したくなったら聞くけど」
「……え?」
「何かあったら、言えよ。俺でよければ話くらい聞くからさ」
安達は、少しだけ目を丸くした。
それから。
「……ありがと、カズくん」
小さく笑った。
今度は、さっきより自然に見えた。
「……じゃ、また明日ね!」
「ああ。また明日」
安達は小走りで階段を下りていった。
その背中を見送りながら、俺は眉をひそめた。
……何だよ。
あいつ、あんな顔もすんのか。
昼間の安達を思い出す。
この前まで、河川敷で俺の走り方に文句をつけて、得意げに笑っていた奴だ。
それが今日は、携帯を握り締めたまま、泣きそうな顔をしていた。
……何か、嫌な感じだな。
*
その日の夜。
俺はベッドに寝転がり、携帯を眺めていた。
安達に何か送ろうかと思ったが、結局やめた。
あいつが何も話さなかったのには、理由があるんだろう。
……まあ、明日また声掛けてみるか。
携帯を置き、目を閉じる。
すると、今度はケンとの勝負が浮かんできた。
『お前、曲がれないって決めるの、ちょっと早くね?』
……あいつ、嫌なところ突いてきやがる。
あのカーブ。
もう一度走ったら、どうなるだろう。
今度は、あと一歩だけ踏んでみるか。
そう考えていると、今度は安達の声が浮かんだ。
『もっと力抜くの! 最後こそ!』
「……ははっ」
思わず笑ってしまう。
……何だよ。
今日は、あっちでもこっちでも駄目出しばっかだな。
でも、悪くなかった。
自分一人で走っているだけじゃ、気づけないこともあるらしい。
……また、みんなと走りてえな。
そんなことを考えながら、携帯へ手を伸ばす。
安達とのトーク画面を開いた。
最後にやり取りしたのは、何日か前の競走の話だった。
『次は絶対勝つからね!』
そんなメッセージが残っている。
……元気な奴だよな、ほんと。
俺はしばらく画面を眺め、短く打ち込んだ。
『また今度、走ろうぜ』
送信ボタンの上で、指が止まった。
……いや。
今は、そんな気分じゃないかもしれない。
結局、文字を消して携帯を伏せた。
明日、直接話そう。
あいつがまた、いつもみたいに笑ってくれりゃいいんだけどな。