エア・ギア ~運命を追い越す炎~【カズ転生】   作:とらやす

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第13話 新しい翼

「カズゥゥゥッ!!」

 

振り向いたときには、もう遅かった。

 河川敷の斜面を滑り降りてきたイッキが、途中の段差に引っかかり、盛大にバランスを崩す。

 

「うおっ、馬鹿! こっち来んな!」

 

 ――ガシャァン!!

 

 俺の脇をかすめたイッキは、そのまま芝生へ突っ込み、三回転ほどしてようやく止まった。

 

「……生きてるかー?」

「……っ、だあああ! くっそ!」

 

 草むらから、見慣れた黒髪が飛び出す。

 

「今の絶対いけたって!」

「いや、どう見ても無理だったろ」

「途中まではいけたんだよ!」

「それを世間では失敗って言うんだ」

「うるせえ!」

 

 髑髏十字軍との一件から、一週間ほどが経った。

 

 イッキは今日も元気に、A・Tと自分の身体を痛めつけている。

 

 学校が終われば河川敷へ直行し、休日も朝から走り込み。最近では授業中まで窓の外を眺めている始末だ。おかげで、俺もすっかり付き合わされっぱなしだった。

 

「……なあ、イッキ」

「あ?」

「お前、少しは基礎練習したらどうだ?」

「してんだろ!」

「どこがだよ」

「毎日走ってんじゃねえか!」

「それは基礎練習じゃなくて、ただ遊んでるだけだろ!」

 

 イッキが不満そうに顔をしかめる。

 

 俺が最初の三か月で覚えたのは、立つこと、止まること、曲がること。あとは、ひたすら転ばずに走ることだった。

 

 一方、イッキが夢中になっているのは、どうすれば高く跳べるか、どこから飛び降りれば面白いかということばかり。

 

 ……方向性が違いすぎる。

 

「だいたい、曲がるときにまだふらついてんだろ」

「うっせえ! 曲がんのなんか後でいいんだよ!」

「よくねえよ。いつか壁に突っ込むぞ」

「ぶつかる前に跳べばいいだろ!」

「そういう問題じゃねえって!」

 

 イッキは聞く耳を持たず、もう一度斜面の上へ向かっていった。

 

……ったく。

 まあ、怪我しねえ程度にな。

 

「よーし! 今度こそ!」

 

 イッキが勢いよく走り出す。

 

 ――ギュンッ!

 

 斜面を滑り降りる。さっきと同じ段差が迫る。

 

 だが、そこで少しだけ動きが変わった。

 

 ……ん?

 

 さっきは段差を前にして、慌てて身体を起こしていた。今度は逆だ。

 

 膝を曲げ、低く沈む。段差の手前で左足を押し込み、その反動を一気に解放した。

 

 ――タンッ!

 

「……おっ!?」

 

 イッキの身体が宙へ浮いた。

 

 さっきより、ずっと高い。

 

 しかも、ただ跳んでいるわけじゃない。空中で膝を引きつけ、身体をひねる。肩が開き、視線が着地点へ向く。

 

 ……あ。

 

ほんの一瞬。

 イッキが、最初からそこに道があると知っているように見えた。

 

 ――ガタンッ!

 

「……おおっ!?」

 

 着地。

 

 大きくよろめいたものの、今度は転ばなかった。

 

「……っしゃあああ!!」

 

 イッキが両手を突き上げる。

 

「見たか、カズ!」

「……ああ。やるじゃねえか」

「だろ!?」

 

 得意げに笑うイッキを見て、俺も笑った。

 

 ……参ったな。

 

 俺だったら、あそこまで跳ぼうと思う前に、まず着地の練習から始める。

 

こいつは逆だ。

 とりあえず跳んで、着地は空中で何とかしやがる。

 

 ……いや、それで本当に何とかなっちまうのが腹立つんだけどな。

 

 こっちは三か月かけて、ようやくまともに走れるようになったってのに。こいつは、まだカーブ一つ満足に曲がれないくせに、あんな跳び方をする。

 

 正直、ちょっと悔しい。

 

「……おい、イッキ」

「あ?」

「もう一本、勝負するか?」

「へっ! 望むところだ!」

 

 その後、いつもの折り返しコースでイッキをぶっちぎってやった。

 

「……だあああっ! 何で追いつけねえんだよ!」

「だから基礎やれって」

「分かってるっつってんだろ!」

「分かってる奴は、曲がるたびに転びかけねえんだよ!」

 

……うん。

 まだ負けてらんねえな。

 

 もっとも、さっきの跳躍を思い出すと、あまり悠長なことも言っていられない気がした。

 

 イッキは、きっとこれからもっと速くなる。

 

 そのとき俺が隣を走れているかどうかは、今の俺次第だ。

 

     *

 

「……はぁっ、くっそ! また負けた!」

 

 イッキが芝生に寝転がった。

 

「だからカーブで減速しすぎなんだって」

「うるせえ! 次は勝つ!」

「何回目だよ、それ」

 

 そんなやり取りをしていると、背後から笑い声が聞こえた。

 

「あははっ! また二人で勝負してんの?」

「……安達?」

 

 振り返ると、ジャージ姿の安達が立っていた。

 

 肩にスポーツバッグを掛け、片手には飲みかけのスポーツドリンク。どうやら部活の帰りらしい。

 

「おー、安達! 見てたか!? さっき俺、すげえ跳んだんだぜ!」

「えー? 見てない! 何それ!」

「よっしゃ、もう一回見せてやる!」

「待て待て、イッキ。お前さっきから何回跳んでんだよ」

「うるせえ! 今度はもっと高く跳べる気がすんだ!」

 

 イッキはまた斜面へ走っていった。

 

 ……元気だなあ、ほんと。

 

「あははっ。イッキくん、すっかりハマってるねー」

「まあな。最近はあれのことしか考えてねえんじゃねえか?」

「カズくんも人のこと言えないでしょ。最近ほんと、走ってばっかじゃん」

「お前に言われたくねえよ、陸上部」

「それもそっか!」

 

 安達が笑う。それから、何か思い出したように俺の肩を指差した。

 

「……あ、そうそう! カズくんさ」

「ん?」

「さっきの最後、また力んでたよ」

「……さっきの?」

「イッキくんと競走してたとき。向こうから見えてたんだけどさ」

 

 安達が、俺の肩へ軽く手を置いた。

 

「速く走ろうとすると、すぐここがガチガチになるんだよね」

「……そうか?」

「なるなる! 特に最後!」

 

 そう言って、俺の前で腕をぶらぶらと揺らしてみせる。

 

「もっと力抜くの! 最後こそ!」

「……いや、そんな簡単に言われても」

「えー? 簡単だって! ほら、こう!」

 

 安達が大げさに肩を回し、その場で腕を振り始めた。

 

 ……何だ、その動き。

 

「……お前、それ本当に速く走れるのか?」

「ちょっと! 真面目に教えてんのに!」

 

 背中をぱしんと叩かれた。

 

「いてっ!」

「カズくん、すぐ力で何とかしようとするんだもん。陸上だと、最後の方こそ余計な力抜かないと身体が動かなくなるよ?」

「……へえ」

 

 意外とまともなことを言う。

 

 ……いや、陸上部なんだから当たり前か。

 

「……何、その顔」

「いや。ちゃんと先輩っぽいなと思って」

「同級生でしょ!」

「走る方の先輩って意味だよ」

「……ふふん。まあ、そういうことなら!」

 

 安達が得意げに胸を張る。

 

 ほんと、調子のいい奴だ。

 

「……じゃあ、お手本見せてくれよ」

「え?」

「そこからあの木まで。軽く一本走ってみてくれ」

 

 俺が河川敷の先を指差すと、安達が目を丸くした。

 

「……えー? あたし、もう部活終わりなんだけど」

「さっき簡単だって言ってたじゃん」

「むっ。カズくん、あたしのこと舐めてるでしょ?」

「いやいや、そんなことは」

「……よーし! じゃあ見てなさい!」

 

 バッグを置き、軽く足首を回す。

 

「うっし!」

 

 小さく気合いを入れて、安達がスタート位置についた。

 

 ……お。

 

 さっきまでふざけていた顔が、少し変わった。

 

 一度だけ深呼吸。

 

 そして、走り出す。

 

 ――タッ、タッ、タッ!

 

 軽い足取り。

 

 無理に地面を蹴っているようには見えないのに、少しずつ速度が上がっていく。

 

 ……あれ?

 

 あいつ、肩がほとんど上下してねえな。

 

 腕も大きく振り回しているわけじゃない。肘を引くたび、自然に脚が前へ出ている。

 

 対して、俺はどうだ。

 

 速く走ろうとすると、腕を振るのにも、地面を蹴るのにも、必要以上に力を入れている気がする。

 

 ……なるほど。

 

 あいつが言いたいのは、こういうことか。

 

 折り返してきた安達が、俺の前で速度を落とした。

 

「……どうよ!」

「……ああ。やっぱ速えな」

「でしょー?」

 

 にっと笑う。

 

「カズくんも、もうちょっと上手く走ればもっと速くなると思うよ」

「……そっか。ありがとな」

「……えっ?」

「参考になった」

 

 そう言うと、安達はなぜか少しだけ目を丸くした。

 

「……な、何よ。急に素直じゃん」

「褒めたら駄目なのかよ」

「駄目じゃないけど! 何か調子狂う!」

 

 そっちが教えてくれたんだろうに。

 

 俺が笑っていると、斜面の方からイッキの声が響いた。

 

「カズゥゥッ! 見てろよ、今度こそ――」

 

 ――ガシャァン!!

 

「……あ」

「……あーあ」

 

 安達と顔を見合わせる。

 

 そして、二人揃って吹き出した。

 

「あはははっ! イッキくん、また転んでる!」

「だから基礎やれって言ってんのに……!」

 

 まったく。

 

 退屈しねえな、こいつらといると。

 

     *

 

 数日後の夕方。

 

「……へえ。ここか」

 

 俺はシンに教えられた、ストームライダーたちの集まる場所へ来ていた。

 

 駅から少し離れた高架下。

 

 壁には色とりどりのチームステッカーが貼られ、地面には車輪の擦れた跡が幾重にも残っている。頭上を電車が通るたび、低い振動が腹に響いた。

 

 何人ものライダーが、思い思いに走っていた。

 

手すりの上を滑る奴。

 壁を蹴って方向転換する奴。

 小さな段差を利用して、軽々と宙へ跳ぶ奴。

 

 ……おお。

 

 こりゃ、なかなか。

 

 河川敷で一人練習しているだけじゃ、まず見られない光景だった。

 

「おーい、カズ!」

 

 聞き慣れた声に振り返る。

 

「……シン」

「来たな! どうよ、ここ」

「結構すげえな」

「だろ? この辺じゃ、それなりに有名な場所なんだぜ」

 

 シンが得意げに胸を張る。

 

「いろんなチームの奴らが来るからな。腕試しもできるし、上手い奴の走りも見られる」

「……なるほど」

 

 確かに、得られるものは多そうだ。

 

 目の前を、一人のライダーが駆け抜けていく。

 

 手すりへ片足を乗せ、そのまま滑り降りて着地。

 

 ……何だ、今の。

 

 俺だったら、手すりに乗るところから練習が必要だぞ。

 

「……ところで、シン」

「あ?」

「ここって、勝負とかできんの?」

「……おっ?」

 

 シンがにやりと笑った。

 

「やる気じゃん」

「まあな」

 

 俺も笑う。

 

 髑髏十字軍との戦いでは、相手が複数になるだけで思ったように走れなかった。

 

 それに、あの夜に見た眠りの森の走り。

 

 あいつらは、俺が苦労している場所を、まるで当たり前のように駆け抜けていた。

 

 ……あんなの見せられたらな。

 

 今の自分で満足なんて、とてもできない。

 

「いいぜ。じゃ、ちょっと面白い奴紹介してやるよ」

 

 シンはそう言って、奥へ向かって歩き出した。

 

「おーい、ケン!」

 

 壁にもたれていた少年が顔を上げる。

 

「……あ?」

「こいつ、カズってんだ。結構速えんだぜ」

「……ふーん」

 

 少年が俺をじろりと見た。

 

 年齢は高校生くらいだろうか。短めの茶髪に、細身の身体。履いているA・Tは、俺の中古品より随分と新しい。

 

「あ、ちなみにこいつ、Dクラスのチームで走ってんだぜ」

「……Dクラス?」

 

 思わずケンを見る。

 

 ……おいおい。

 

 思ったより本格的な奴じゃねえか。

 

「シン、余計なこと言うなよ」

「いいだろ、別に。お前、走らせたらめちゃくちゃ速いじゃん」

「走るだけならな」

 

 ケンが面倒くさそうに肩をすくめた。

 

「キューブじゃ、どうにも勝ちきれねえんだよ。ああいうタイマン、苦手でさ」

「何言ってんだよ。走る技術だけなら、もっと上でも通用するだろ」

「……だから、その走るだけじゃ上がれねえんだって」

 

 ……なるほど。

 

 どうやら、単なる自信過剰な奴ってわけでもなさそうだ。

 

 Dクラスのキューブ戦。狭い空間で相手とぶつかり合う、走る速さだけじゃ勝てない勝負だ。

 

 ……まあ、俺も人のことは言えねえけどな。

 

「……で?」

 

 ケンがこちらへ向き直った。

 

「俺と走りてえの?」

「……ああ。走ってみたい」

「へえ」

 

 ケンの口元が上がった。

 

「じゃ、一本やる?」

「いいぜ」

「……おいおい、二人とも早えな」

 

 シンが笑いながら割って入る。

 

「せっかくだし、俺が合図してやるよ」

 

     *

 

 最初の勝負は、高架下の直線と二つのカーブを組み合わせたコースだった。

 

「準備いいかー?」

 

 シンが片手を上げる。

 

 隣では、ケンが軽く足を動かしていた。

 

 ――ギュルッ。

 

 車輪の音が、俺のものよりずっと軽い。

 

 ……新しいA・T、いいなあ。

 

「……何見てんだよ」

「いや。いい靴履いてんなと思って」

「ははっ。負けたときの言い訳にすんなよ?」

「……言うねえ」

 

 俺も姿勢を低くした。

 

「よーい、スタート!」

 

 ――ギュンッ!!

 

 先に飛び出したのはケンだった。

 

 ……速い!

 

 最初の三歩で、もう半身ほど前に出ている。

 

 踏み出しに無駄がない。地面を蹴るたびに、あっという間に加速していく。

 

 俺も腰を落として追いかける。

 

 ――ギュンッ!

 

 ケンの背中が、目の前で揺れた。

 

 ……くそ。速えな、こいつ!

 

「……へっ!」

 

 ケンが肩越しに笑う。

 

 だが、最初のカーブが見えた。

 

 ……ここからだ。

 

 俺は重心を落とし、左足へ体重を移す。

 

 ――キィッ!

 

 短い制動。

 

 車輪が路面を擦り、身体が内側へ倒れ込む。

 

 そのまま、右足を強く踏み込んだ。

 

 ――ギュンッ!!

 

「……っ!?」

 

 ケンの背中が、一気に近づいた。

 

 半身。

 

 そして、横へ。

 

 ……抜ける!

 

 カーブの出口で、俺はケンの横を滑り抜けた。

 

「おっ!? やるじゃん!」

 

 ケンが笑う。

 

 当然、そこで終わりじゃない。

 

 背後から、すぐに駆動音が追いかけてきた。

 

 ――ギュオッ!

 

 ……っ!

 

 直線で、また差を詰められる。

 

 ケンの前輪が視界の端へ入った。

 

 だが、次のカーブはもう目の前だ。

 

 俺は早めに腰を沈め、減速の準備をする。

 

 そして。

 

 ――キュンッ!

 

 左から右へ、一気に重心を切り替えた。

 

 ケンが外側へ膨らむ。その内側を抜け、車輪を鳴らしながら再加速。

 

 ――ギュンッ!!

 

「……おいおい!」

 

 背後で声が上がった。

 

 最後の直線。

 

 もう一度ケンが追ってきたが、わずかな差を守りきり、そのままゴールを抜けた。

 

「……っしゃ!」

 

 急制動。

 

 ――キィィッ!

 

 少し身体が流れたが、どうにか姿勢を戻す。

 

 振り返ると、ケンがすぐ後ろへ滑り込んできた。

 

「……へえ」

 

 ケンは俺の足元を見て、それから笑った。

 

「やるじゃん」

「……そっちこそ。最初の加速、かなり速えな」

「ま、そこは自信あるし」

 

「……おいおい、カズ!」

 

 横からシンが割り込んできた。

 

「お前、いつの間にそんな速くなったんだよ!?」

「……え?」

「いや、前に俺と走ったときも速かったけどよ! 今の切り返し、全然違ったぞ!」

 

 シンが興奮した様子で、さっきのカーブを指差す。

 

「あそこでケンを抜くとは思わなかったぜ。しばらく見ねえ間に、随分腕上げたじゃねえか!」

「……まあ、あれから結構練習したからな」

「結構ってレベルかよ!」

 

 シンが笑う。

 

 ……そんなに変わったか?

 

 自分じゃ毎日少しずつ走ってるから、あんまり分からねえんだけど。

 

「へえ。シンがそこまで言うなら、まぐれじゃなさそうだな」

 

 ケンが俺を見た。

 

 さっきより、少し楽しそうな顔だった。

 

「……面白え。じゃ、次はこっちでやろうぜ」

 

 指差した先を見て、俺は少し固まった。

 

「……おい」

「ん?」

「そこ、走るの?」

 

 低い壁。鉄製の手すり。そして、途中に小さな段差がいくつもある。

 

「当たり前だろ。A・T履いてんだからさ」

 

 ケンが、にやりと笑った。

 

     *

 

 二本目。

 

 ――ギュンッ!!

 

 スタートと同時に、ケンが右へ飛び出した。

 

 ……ん?

 

 コースの中心は、左側の通路だ。

 

 なのに、あいつはわざわざ壁際へ向かっている。

 

 次の瞬間。

 

 ――タンッ!

 

 ケンが壁を蹴った。

 

 身体が斜め上へ跳ね上がり、鉄製の手すりへ片足を乗せる。

 

 ――ギャリリリッ!!

 

 車輪が金属を擦り、甲高い音が響いた。

 

「……マジかよ!」

 

 俺が地面の障害物を迂回している間に、ケンは手すりの上を滑っていく。

 

 しかも。

 

 ――タンッ!

 

 手すりの終わりで軽く跳び、今度は向かい側の低い壁へ着地。

 

 そのまま身体をひねり、ほとんど減速せずに次の通路へ飛び出した。

 

 ……何だよ、今の!

 

 慌てて追いかける。

 

 ――ギュンッ!!

 

 平地なら、少しずつ距離を詰められる。

 

 だが、次の障害物が迫った瞬間、また差が開いた。

 

 俺が段差の脇を抜ける。

 

 その頭上を、ケンが飛び越えていく。

 

「遅えぞ、カズ!」

 

 ……うるせえ!

 

 上から声が降ってきた。

 

 顔を上げたときには、もうケンが次の手すりへ着地している。

 

 ――ギャリッ!

 

 車輪が一瞬だけ火花を散らす。

 

 ……うわ。

 

 あれ、怖くねえのかよ。

 

 最後の直線で全力を出したものの、差は縮まらなかった。

 

「……っしゃ!」

 

 先にゴールしたケンが、軽く拳を上げた。

 

 俺が遅れて滑り込むと、あいつはもう壁に寄りかかっていた。

 

「……遅えぞ」

「……うっせ」

 

 息を整えながら、俺はさっきの手すりを見上げた。

 

 ……あんなところ、よく走れるな。

 

「お前、上が全然見えてねえな」

「……上?」

「壁とか手すりとか。使える場所、いっぱいあんだろ」

 

 そう言って、近くの壁を軽く蹴る。

 

「地面だけ走ってたら、そりゃ遠回りになるわ」

 

 ……耳が痛い。

 

 確かに、俺はこの三か月、ほとんど平地で練習してきた。

 

 加速、減速、方向転換。

 

 それなりに上達したつもりだったが、立体的な走りとなると、まだまだだ。

 

 ……しかし、すげえな。

 

 さっきのケンの動き。

 

 あれだけ派手に跳んで、壁を蹴って、手すりを滑って。

 

 それでも、着地のたびに速度がほとんど落ちていなかった。

 

 ……これでDクラスかよ。

 

 いや、シンが言ってたな。

 

 走る技術だけなら、もっと上でも通用するって。

 

「……じゃあ、もう一本」

「……お?」

 

 ケンが顔を上げる。

 

「いいのか? また負けんぞ」

「同じコースじゃなくていい。別の場所、見せてくれよ」

「……ははっ!」

 

 ケンが笑った。

 

「いいねえ。そういうの嫌いじゃないぜ」

 

 三本目は、壁際の短い段差とカーブを組み合わせたコースだった。

 

 今度は、ケンの走りをよく見ることにした。

 

 あいつはカーブの手前で地面を蹴るだけじゃない。壁に片足を触れさせ、その反動で身体の向きを変えている。

 

 ……なるほど。

 

 あれなら、大きく減速しなくても曲がれるのか。

 

 もちろん、今すぐ同じことはできない。

 

 だが、壁だけが使えるものとは限らない。

 

 次のカーブ。

 

 俺は内側にある低い段差へ片足を乗せた。

 

 ――タンッ!

 

 軽く蹴る。

 

 身体が、思っていたより鋭く向きを変えた。

 

「……おっ!?」

 

 ケンが振り返る。

 

 俺も驚いた。

 

 ……おお、いけるじゃん!

 

 勢いのまま地面へ戻る。

 

 着地した瞬間、足首がぐらりと揺れた。

 

「……うおっ!?」

 

 慌てて膝を曲げ、重心を戻す。

 

 ――ギュンッ!

 

 ……っぶねえ!

 

 だが、速度は落ちていない。

 

 そのまま踏み込み、ケンの横へ並んだ。

 

「おいおい! お前、さっきの見て真似したろ!」

「……悪いかよ!」

「いや、いいねえ!」

 

 ケンが笑った。

 

 ――ギュンッ!!

 

 最後の直線。

 

 二人の車輪が、ほとんど同時に唸る。

 

 ……負けるか!

 

 俺はさらに姿勢を沈め、残っていた力を足元へ集中させた。

 

 ケンが半身ほど前へ出る。

 

 だが、まだだ。

 

 ――ギュオッ!

 

「……っ!?」

 

 ケンの肩が近づく。

 

 そして。

 

「……っしゃ!」

 

 ほんのわずかに、俺が先にゴールを抜けた。

 

「……はぁっ、はぁっ……!」

 

 思わず膝に手をつく。

 

 ……危ねえ。

 

 今の、もう少し長かったら負けてたな。

 

「……ははっ! やるじゃん、お前!」

 

 ケンが笑う。

 

「……バレたか」

「分かるわ! さっきの真似だろ? 着地、めちゃくちゃ危なかったぞ!」

「……まあな」

 

 実際、足首が少し痛い。

 

 ……あれは練習しねえと駄目だな。

 

 それでも。

 

 さっきまで、ただの壁と段差にしか見えなかったものが、少し違って見える。

 

 ……次は、あそこの手すりも使えるかな。

 

「……で、どうする?」

 

 ケンが聞いた。

 

「今ので二勝一敗だけど」

「……もう一本、やるか?」

 

 俺がそう言うと、ケンは嬉しそうに笑った。

 

「当たり前だろ」

 

     *

 

 四本目。

 

 最後の勝負は、高架下を大きく回る高速コースだった。

 

 長い直線の先に鋭いカーブ。その先を折り返し、元の場所へ戻ってくる。

 

 速さだけでは勝てない。かといって、慎重に走りすぎても置いていかれる。

 

「……これで最後な!」

 

 シンが声を張り上げた。

 

 俺とケンが、並んでスタート位置につく。

 

「……なあ、カズ」

 

 ケンが横目でこちらを見た。

 

「ん?」

「今度は、さっきみたいに簡単には抜かせねえからな」

「……言ってろよ」

 

 俺も笑った。

 

 正直、かなり疲れている。

 

 だが、不思議と気分はよかった。こうして誰かと本気で走るのは、やっぱり楽しい。

 

「よーい……」

 

 シンの手が上がる。

 

「スタート!」

 

 ――ギュンッ!!

 

 ケンが飛び出した。俺も即座に追う。

 

 最初の直線。

 

 二つの駆動音が高架下に響き、コンクリートの壁へ跳ね返る。

 

 ……速え!

 

 スタートでは、ケンが半身ほど前に出た。

 

 だが、ここからだ。

 

 俺は姿勢を低くし、右足を強く踏み込んだ。

 

 ――ギュオッ!!

 

「……っ!?」

 

 ケンが振り返る。

 

 一メートルあった差が、みるみる縮まっていく。

 

 ……よし!

 

 追いつく!

 

 足元の車輪が路面を噛む。小さな継ぎ目を踏むたび、振動が足の裏から膝へ伝わってきた。

 

 まだだ。

 

 まだ、踏める。

 

「……おいおい、マジかよ!」

 

 ケンが笑った。

 

 そして、さらに加速する。

 

 ――ギュンッ!!

 

 俺も負けじと踏み込んだ。

 

 肩が並ぶ。

 

 風が頬を叩き、地面の継ぎ目が次々と後ろへ流れていく。

 

「うおおっ! カズ、速ええっ!!」

 

 コース脇からシンの声が飛んできた。

 

 ……へっ!

 

 まだまだ!

 

 俺はさらに身体を沈めた。

 

 ――ギュンッ!

 

 ケンの肩が、少しずつ後ろへ下がっていく。

 

 ……抜ける!

 

 直線の終わり。

 

 俺がわずかに前へ出た、そのときだった。

 

「……っ!」

 

 カーブが見えた。

 

 まずい。

 

 この速度で突っ込んだら、曲がりきれない。

 

 俺は反射的に左足を押しつけ、ブレーキをかけた。

 

 ――キィィッ!!

 

 車輪が甲高く鳴く。

 

 速度が落ちる。

 

 だが、隣のケンは――。

 

「……なっ!?」

 

 まだ踏んでいた。

 

「悪いな、カズ!」

 

 ケンが俺の横を駆け抜ける。

 

 ……おい、待て!

 

 そっちは壁だぞ!?

 

 ――ガンッ!!

 

 ケンが手すりへ片足を乗せた。

 

 車輪が金属を擦り、火花が散る。

 

 ――ギャリリリッ!!

 

 そのまま身体を横へ倒し、壁際を斜めに駆け上がっていく。

 

 ……嘘だろ!?

 

 頭上を影が横切った。

 

 ケンだ。

 

 俺がカーブの外側を回り込む間に、あいつは壁と手すりを使って、ほとんど減速せずに向きを変えていた。

 

 そして。

 

 ――タンッ!

 

 壁を蹴り、地面へ飛び出す。

 

 着地。

 

 次の瞬間には、もう加速していた。

 

 ――ギュンッ!!

 

「……っ、くそ!」

 

 俺もカーブを抜け、全力で追いかける。

 

 だが、開いた差は縮まらない。

 

 ……何だよ、それ。

 

 直線じゃ、確かに追いついてた。

 

 なのに、曲がるだけでこんなに差がつくのかよ!

 

 折り返し地点が迫る。

 

 ケンはまた壁際へ寄っていった。

 

 ……また、あれか!

 

 今度こそ食らいつこうと、俺も減速を遅らせる。

 

 ――キィッ!!

 

「……っ!?」

 

 車輪が横へ流れた。

 

 まずい!

 

 慌てて姿勢を起こし、どうにか転倒を防ぐ。

 

 その間にも、ケンは壁を蹴って折り返していた。

 

 ――タンッ!

 

 ……くそっ!

 

 まだ無理かよ!

 

 最後の直線。

 

 俺は残った力を振り絞り、地面を蹴った。

 

 ――ギュンッ!!

 

 少しずつ、ケンの背中が近づく。

 

 二メートル。

 

 一メートル半。

 

 ……追いつけ!

 

 だが。

 

「……っしゃあ!」

 

 先にゴールしたのは、ケンだった。

 

「……っ、はぁ、はぁ……!」

 

 俺は膝に手をついた。

 

 ……負けた。

 

 二勝二敗。

 

 数字だけ見れば互角だが、最後の一本は完敗だった。

 

 いや、速さそのものでは、俺も負けていなかったはずだ。

 

 直線では追いついた。ほんの一瞬だけど、前にも出た。

 

 それなのに、カーブを曲がるだけで置いていかれる。

 

 ……これが、走行技術の差か。

 

 Dクラスのチームに所属しているとはいえ、ケンの走りがそこらのライダーとは違うのはよく分かった。

 

「……お前、結構やるじゃん」

 

 ケンが笑いながら近づいてきた。

 

「そっちこそ。あのカーブ、どうやって曲がってんだよ……」

「ん? ああ、あれか」

 

 ケンが手すりを指差す。

 

「足乗せて、方向変えてるだけだけど」

「その『だけ』ができねえんだよ」

「ははっ! 練習しろよ!」

 

 ……言いやがる。

 

 だが、ケンはそこで俺の足元へ目を落とした。

 

「……なあ、お前」

「ん?」

「最後、何であそこで引いた?」

「……あ?」

「直線の終わり。俺に追いついてたろ」

「……ああ」

「なのに、急に速度落としたじゃん」

「そりゃ、カーブが近かったからな。あのままじゃ曲がれねえし」

「……ほんとに?」

「……は?」

 

 ケンは、さっきのカーブを指差した。

 

「お前さ、曲がれないって決めるの、ちょっと早くね?」

「……早い?」

「ああ。俺に追いついたとき、まだ踏めただろ」

 

 ……確かに。

 

 あのとき、足元にはまだ余裕があった。

 

「けど、それ以上踏んだら――」

「転ぶかもな」

 

 ケンがあっさり言った。

 

「……おい」

「でも、お前の場合、試してもいねえだろ?」

 

「…………」

 

 返す言葉がなかった。

 

 俺は、さっきのカーブへ目を向けた。

 

 いつも、あのあたりから減速している。

 

 練習でも、勝負でも。

 

 最初は何度も転んだ。曲がれなくて壁に突っ込みかけたこともある。

 

 だから、確実に止まれる距離を覚えた。

 

 それ自体は間違っていないはずだ。

 

 ただ。

 

 ……そうか。

 

 俺、いつの間にか同じ場所でブレーキ踏むようになってたのか。

 

 もっと速く走れるようになっても、そのタイミングだけは変えていなかった。

 

「……別に、無茶しろって話じゃねえぞ」

 

 ケンが笑った。

 

「怪我したら馬鹿らしいしな。けど、お前が本当はどこまで踏めるのか、ちょっと見てみたいんだよ」

 

「…………」

 

 俺は、足元のA・Tを見た。

 

 傷だらけの中古品。

 

 三か月間、何度も転びながら乗りこなしてきた一足。

 

 ……もう少し、踏めるのか。

 

「……ありがとな、ケン」

「……は?」

「参考になった」

 

 そう答えると、ケンは少し目を丸くした。

 

 それから、ふっと笑う。

 

「変な奴。でも、次はもっと本気で来いよ」

「ああ」

 

 俺も笑った。

 

「次は、驚かせてやる」

「ははっ! 言ってろ!」

 

 その横で、シンが手を叩いた。

 

「はいはい! 今日はそこまで! お前ら、いつまで走るつもりだよ!」

「……もう一本くらい行けるけど?」

 

 ケンが言う。

 

「いや、俺は勘弁」

 

 即答した。

 

 ……足が、もう限界だ。

 

 シンが吹き出す。

 

「ははっ! でもマジですげえな、カズ。あのケンとここまで競るとは思わなかったぜ」

「……そんな大げさな」

「大げさじゃねえって! こいつ、走るだけなら本当に上手いんだからよ」

 

 シンがケンの肩を叩いた。

 

「キューブでも、もうちょい勝てりゃなあ」

「……余計なお世話だ」

 

 ケンが嫌そうな顔をする。

 

「狭いとこで殴り合うのは苦手なんだよ。俺は走ってる方が楽しいし」

「ははっ! そりゃそうだけどよ!」

 

 ……なるほどな。

 

 ケンにも、得意なことと苦手なことがある。

 

 今日の勝負じゃ、あいつの得意な走りを散々見せつけられた。

 

 でも、もしキューブで戦ったら、また違う結果になるのかもしれない。

 

 ……まあ、今の俺がそんな勝負をしたら、普通にボコボコにされそうだけど。

 

「……カズ」

 

 ケンが片手を上げた。

 

「また来いよ。次は今日より面白いコース用意しとくからさ」

「……おう。今度は四本とも勝ってやるよ」

「ははっ! 無理無理!」

 

 ……言いやがる。

 

 シンとケンが笑った。俺もつられて笑ってしまった。

 

 それから、もう一度だけさっきのカーブへ目を向ける。

 

 次に走るときは。

 

 あと一歩だけ、踏んでみようか。

 

     *

 

 数日後。

 

「……なあ、カズ」

「ん?」

「お前、パーツ・ウォウって知ってる?」

 

 放課後の教室。

 

 イッキが突然、そんなことを聞いてきた。

 

「……ああ」

 

 思わず顔を上げる。

 

 ……来たか。

 

 パーツ・ウォウ。ストームライダー同士が、チームの誇りやパーツ、エンブレムなどを賭けて行う勝負だ。

 

 原作でも、イッキたちが本格的にA・Tの世界へ踏み込んでいくきっかけになった。

 

「何だよ。知ってんのか?」

「まあ、名前くらいはな」

「へえ! 何か面白そうじゃねえ?」

 

 イッキがにやりと笑う。

 

「今度、俺もやってみてえんだよ」

「……おいおい」

 

 思わず苦笑した。

 

「お前、まだA・T始めたばっかだろ」

「だから何だよ!」

「もうちょい慣れてからでもいいんじゃねえかって」

「……へっ!」

 

 イッキが不敵に笑う。

 

「強え奴と戦わなきゃ、強くなれねえだろ?」

 

「…………」

 

 ……まったく。

 

 こいつは、そういう奴だよな。

 

 ついこの前まで、斜面からまともに降りることすらできなかったくせに。もう、次の勝負のことを考えている。

 

「……イッキ」

「あ?」

「勝負するのはいいけど、相手はちゃんと選べよ」

「へっ。お前、心配性だな!」

「うるせえ」

「大丈夫だって! 誰が相手でも、ぶっ飛ばしてやるよ!」

 

 ……その自信、どっから来るんだよ。

 

 俺が呆れていると、イッキは上機嫌で教室を出ていった。

 

 パーツ・ウォウ。

 

 そろそろ、イッキが本格的にストームライダーの世界へ入り込んでいく時期だ。当然、これまでより危ない相手も出てくるだろう。

 

 ……まあ、言ったところで聞く奴じゃねえか。

 

 俺は肩をすくめ、鞄を持ち直した。

 

     *

 

 その日の放課後。

 

 教室へ忘れたノートを取りに戻ったときだった。

 

「……あー、あったあった」

 

 机の中からノートを取り出し、鞄へしまう。

 

 すでに教室にはほとんど人が残っていない。窓の外からは、運動部の掛け声が聞こえていた。

 

 ……さて、帰るか。

 

 そう思って廊下へ出たときだった。

 

「……そんなの、できないよ……」

 

 小さな声が聞こえた。

 

 ……ん?

 

 階段の踊り場に、安達がいた。

 

 携帯を握ったまま、じっと画面を見ている。

 

 いつもなら、俺の顔を見るなり何かしら話しかけてくる奴だ。

 

 それが、こちらに気づきもしない。

 

「……イッキくんに、あんなこと……」

 

「…………」

 

 ……イッキ?

 

 俺は足を止めた。

 

 安達は何かを打ち込もうとして、すぐに指を止めた。

 

 そして、また画面を見る。

 

「……中山も困ってるのに……」

 

 聞き取れたのは、そこまでだった。

 

「……安達?」

「ひゃっ!?」

 

 安達が飛び上がった。

 

「か、カズくん!? びっくりしたぁ!」

「いや、こっちの台詞だよ。何やってんだ?」

「え? あー、ちょっとね!」

 

 慌てて携帯をポケットへしまう。

 

「部活のことだから! 色々あってさ!」

「……部活?」

「そそ! もー、めんどくさいんだよねー!」

 

 あはは、と笑う。

 

 だが、さっきまでの顔を見てしまっている。

 

 俺は少し迷ってから、口を開いた。

 

「……なあ、安達」

「ん?」

「何かあった?」

 

「…………」

 

 一瞬だけ、笑顔が消えた。

 

「……何で?」

「いや。何か元気ねえから」

 

 安達が俺を見上げる。

 

 何か言いたそうに口を開いた。

 

 けれど、すぐに視線を逸らした。

 

「……何でもないって」

「……そっか」

「うん! 気にしないで!」

 

 そう言って笑う。

 

 ……嘘だな。

 

 ここ数か月、安達とは随分と話すようになった。

 

 放課後に走ったり、競走したり、くだらないことで言い争ったり。

 

 だから、分かる。

 

 今の笑顔は、いつもの安達のものじゃない。

 

「……まあ、話したくなったら聞くけど」

「……え?」

「何かあったら、言えよ。俺でよければ話くらい聞くからさ」

 

 安達は、少しだけ目を丸くした。

 

 それから。

 

「……ありがと、カズくん」

 

 小さく笑った。

 

 今度は、さっきより自然に見えた。

 

「……じゃ、また明日ね!」

「ああ。また明日」

 

 安達は小走りで階段を下りていった。

 

 その背中を見送りながら、俺は眉をひそめた。

 

 ……何だよ。

 

 あいつ、あんな顔もすんのか。

 

 昼間の安達を思い出す。

 

 この前まで、河川敷で俺の走り方に文句をつけて、得意げに笑っていた奴だ。

 

 それが今日は、携帯を握り締めたまま、泣きそうな顔をしていた。

 

 ……何か、嫌な感じだな。

 

     *

 

 その日の夜。

 

 俺はベッドに寝転がり、携帯を眺めていた。

 

 安達に何か送ろうかと思ったが、結局やめた。

 

 あいつが何も話さなかったのには、理由があるんだろう。

 

 ……まあ、明日また声掛けてみるか。

 

 携帯を置き、目を閉じる。

 

 すると、今度はケンとの勝負が浮かんできた。

 

『お前、曲がれないって決めるの、ちょっと早くね?』

 

 ……あいつ、嫌なところ突いてきやがる。

 

 あのカーブ。

 

 もう一度走ったら、どうなるだろう。

 

 今度は、あと一歩だけ踏んでみるか。

 

 そう考えていると、今度は安達の声が浮かんだ。

 

『もっと力抜くの! 最後こそ!』

 

「……ははっ」

 

 思わず笑ってしまう。

 

 ……何だよ。

 

 今日は、あっちでもこっちでも駄目出しばっかだな。

 

 でも、悪くなかった。

 

 自分一人で走っているだけじゃ、気づけないこともあるらしい。

 

 ……また、みんなと走りてえな。

 

 そんなことを考えながら、携帯へ手を伸ばす。

 

 安達とのトーク画面を開いた。

 

 最後にやり取りしたのは、何日か前の競走の話だった。

 

『次は絶対勝つからね!』

 

 そんなメッセージが残っている。

 

 ……元気な奴だよな、ほんと。

 

 俺はしばらく画面を眺め、短く打ち込んだ。

 

『また今度、走ろうぜ』

 

 送信ボタンの上で、指が止まった。

 

 ……いや。

 

 今は、そんな気分じゃないかもしれない。

 

 結局、文字を消して携帯を伏せた。

 

 明日、直接話そう。

 

 あいつがまた、いつもみたいに笑ってくれりゃいいんだけどな。

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