エア・ギア ~運命を追い越す炎~【カズ転生】   作:とらやす

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第14話 笑わなくなった理由

 朝の教室は、いつも通り騒がしかった。

 

 廊下では誰かが追いかけっこをしているし、窓際では男子がテレビ番組の話で盛り上がっている。イッキとオニギリに至っては、俺の机を挟んで言い争っていた。

 

「だからよ! この前のジャンプは絶対二メートルいってたって!」

「いやいや、イッキ。どう見ても一メートルくらいだったろ」

「てめえ、見てもいねえくせに!」

「カズが言ってたんだよ!」

「おい、俺を巻き込むな」

 

 イッキがこっちを向いた。

 

「お前、ちゃんと見てたよな!?」

「見てたよ。そのあと転んだところまで」

「そこは忘れろ!」

 

 オニギリが腹を抱えて笑う。イッキはその頭を小突き、また二人で騒ぎ始めた。

 

 平和だな、お前ら。

 

 俺は頬杖をつき、教室の入口へ目をやった。

 昨日、階段の踊り場で見かけた安達の顔が、まだ頭から離れない。

 

『……そんなの、できないよ……』

『……イッキくんに、あんなこと……』

 

 部活のことだとは言っていた。

 けれど、それなら何でイッキの名前が出てくるんだ。

 

 携帯を隠したときの慌て方も、気にしないでと笑った顔も、いつもの安達とは違っていた。

 

 無理に聞き出すつもりはない。

 ただ、何も見なかったことにして、いつもどおり話せる気もしなかった。

 

「おはよー!」

 

 顔を上げる。

 

 安達が教室へ入ってきた。

 

「おう、安達」

「あ、カズくん。おはよ!」

 

 笑いながら近づいてきた足が、途中で止まる。

 その目は、俺の隣にいるイッキを見ていた。

 

「……あ」

「ん? 何だよ、安達」

 

 イッキが振り返る。

 

「お前も見たかったか? 俺様のすげえジャンプ!」

「……え?」

「こいつら、全然分かってねえんだよ!」

「あ、あはは。何それ。朝からその話?」

 

 安達は笑ったが、イッキとは目を合わせなかった。

 鞄の持ち手を握り直し、俺の方へ何か言いかける。

 

「エミリ!」

 

 廊下から中山の声がした。

 

「ちょっと、いい?」

「……うん!」

 

 安達はすぐに頷いた。

 

「じゃ、カズくん。また後で!」

「ああ」

 

 二人が教室を離れていく。

 中山も、いつもみたいに安達へ話しかける様子ではなかった。

 

 昨日、携帯を見ながら中山も困っていると言っていたな。

 あの二人が、何かに巻き込まれているのか。

 

「おい、カズ」

 

 イッキが俺の顔を覗き込んできた。

 

「何だよ」

「お前、安達と何かあったのか?」

「……何で?」

「最近、よく喋ってんじゃん」

 

 その口元が、にやりと上がった。

 

「さては、お前ら――」

「違えよ」

「まだ何も言ってねえだろ!」

「顔に書いてあんだよ!」

 

「へっへっへ。河川敷で二人っきりとは、カズも隅に置けねえなあ」

 

 オニギリまで乗ってきた。

 

「イッキもいただろうが」

「つまり三角関係!?」

「何でだよ!」

 

 二人が揃って笑う。

 俺は机に乗せられたイッキの肘を押しのけた。

 

 普段なら、もう少し付き合ってやるところなんだけどな。

 

 廊下へ目を向けても、安達たちの姿はもう見えなかった。

 

     *

 

「……ねえ、エミリ。本当にどうするの?」

 

 教室から離れたところで、中山が声を落とした。

 

「どうするって……やんないよ、あんなの」

「でも、また呼び出されたら……」

「分かってるって」

 

 ポケットの中で、携帯を握り直す。

 

 昨日だって断った。

 嫌だって、何度も言った。

 

 なのに、あいつらは笑うばっかりで、全然聞いてくれなくて。

 最後には中山の腕まで掴んできて、何とかその場を離れるので精いっぱいだった。

 

 ……あー、やだやだ。

 何で、あたしたちがこんな目に遭わなきゃいけないのよ。

 

「先生に言おうよ」

 

 中山が言った。

 

「……うん」

 

 それで、全部終わってくれればいい。

 でも、昨日のあいつらの顔を思い出すと、すぐには足が動かなかった。

 

 言ったことが知られたら、また何かされるんじゃないか。

 そんなことばかり考えてしまう。

 

 窓の外へ目をやると、校庭のトラックが見えた。

 朝練を終えた誰かが、置きっぱなしになっていたコーンを拾っている。

 

 カズくんと、ちゃんと競走したいな。

 

 この前、河川敷で会ったときは、走り方に文句をつけてやっただけだった。あっちはすっかりA・Tに夢中で、普通の靴で勝負する機会も前より減っている。

 

 あんなに何度も、競走しようって言ってきたくせに。

 

 小っちゃい頃から、走るのが好きだったワケじゃない。

 

 だって、疲れるし、汗かくし。特に人より足が速かったわけでもないし。

 

 だいたい、なんか一生懸命っぽいのがちょっとカッコ悪いなあ――なんて。

 

 そんなことを思っていた。

 

 陸上部に入ってからも、嫌いではなかったけれど、走ることばっかり考えていたわけじゃない。

 練習が終わったら帰りたいし、きついメニューの日は、始まる前からげんなりしていた。

 

 なのに、カズくんと勝負するようになってから、少し変わった。

 

 こっちが勝っても、次に会うと、また競走を申し込んでくる。

 悔しそうにしていたくせに、もう次の勝負の話をしている。

 

 そうやって何度も走っているうちに、差が縮まってきて。

 

 この前は、とうとう負けた。

 

 ……あのときの顔、忘れてないからね。

 

 拳まで握って、大喜びしちゃって。

 そんなに嬉しいかって言いたくなるくらい、笑っていた。

 

 でも、あたしだって、もし次に勝ったら同じ顔をすると思う。

 

 負けたら悔しい。

 勝ったら嬉しい。

 

 カズくんがまた速くなっていると、次までにこっちも何とかしなきゃって思う。

 部活が終わっても、もう一本だけ走ろうかな、なんて考えたりして。

 

 ……人のこと、言えないじゃん。

 

 一生懸命になるの、カッコ悪いとか思ってたくせに。

 

 それに、この前。

 

『最近のカズくん、結構格好いいと思うよ』

 

 ……ああ、もう。

 

 何で面と向かって言っちゃったんだろ。

 

 本当にそう思ったんだけど。

 思ったんだけどさ。

 

 カズくんまで黙っちゃうし、こっちが慌てて言い直してるのに、何か変な顔してるし。

 

 いつもは、何を言ってもすぐに言い返してくるくせに。

 

 ……あのときは、ちょっと面白かったな。

 

「エミリ?」

「……っ!?」

 

 中山が顔を覗き込んできた。

 

「何で笑ってるの?」

「えっ、笑ってた!?」

「うん。ちょっと」

 

 慌てて口元を引き締めた。

 

「な、何でもないって」

「……カズくん?」

「何でそこでカズくんが出てくんの!」

「名前、言ってないのに分かりやすいんだもん」

 

 中山が、くすっと笑う。

 

 もう。

 人が困ってるときに、何でそんなとこばっかり気づくかな。

 

 その肩を軽く小突くと、中山は「ごめんごめん」と笑った。

 さっきまで強張っていた口元が、少しだけ緩んでいる。

 

 それを見たら、あたしも少し息がしやすくなった。

 

 でも、ポケットの中には携帯がある。

 また画面が光ったらと思うと、手を離せなかった。

 

「……ね、中山」

「ん?」

「また何か言われても、変なことはしないでおこうね」

 

 中山が、あたしを見る。

 

「嫌なものは嫌だし。イッキくんにあんなことするのも、絶対やだ」

「……うん」

「だから、先生にも話そ。二人で」

「そうだね」

 

 中山の肩が、少し下がった。

 

 あたしは携帯から手を離して、制服の裾を引っ張った。

 

「うっし。とりあえず授業、戻ろ!」

「エミリ、そっち逆」

「……分かってるって!」

 

 中山がまた笑った。

 

 笑われたのはちょっと悔しいけど、今は、さっきの顔をしているよりずっとよかった。

 

     *

 

 昼休み。

 

 俺は購買で買ったパンを片手に、階段を下りていた。

 

 安達にはまだ、昨日のことを聞けていない。

 中山と一緒にいることが多く、休み時間にも二人でどこかへ行ってしまう。

 

 別に、一人になるのを待たなくてもいいんだろうけど。

 

 昨日の様子を思い出すと、こっちから捕まえて話をさせるのも違う気がした。

 

 そう考えて、階段をもう一段下りたときだった。

 

「だから、やれって言ってんだろ」

 

 低い声が聞こえた。

 

 足を止める。

 人気の少ない渡り廊下の方だ。

 

「……嫌だって、昨日も言ったじゃん」

 

 安達の声だった。

 

 俺はパンを袋へ戻し、声のする方へ向かった。

 

 曲がり角の向こうに、三人の男子生徒がいる。

 その前に立っていたのは、安達と中山だった。

 

 先頭の細身の男が、苛立ったように頭をかく。

 

「別に難しいこと頼んでねえだろ」

「イッキくん、関係ないじゃん」

「関係あるかどうかは、こっちが決めんだよ」

 

 安達が顔を上げた。

 

「そんなの、おかしいでしょ。何であたしたちが嫌がらせしなきゃなんないの?」

「お前らがちゃんと商品売ってくれりゃ、こんなこと頼まねえよ」

「だから、あんなの売れないって言ってるじゃん!」

 

 その声が、渡り廊下に響いた。

 

「何が入ってるかも分かんないもの、友達に売れるわけないでしょ!」

 

 ……待てよ。

 

 怪しげな商品を生徒に売らせる。

 断った相手には、イッキへの嫌がらせを強要する。

 

 ……ああ、そうか。

 

 ブッチャだ。

 

 御仏一茶。

 

 ……くそ。何で今まで気づかなかったんだ。

 

 原作で覚えているブッチャは、小烏丸に加わってからの姿ばかりだった。

 あの馬鹿でかい身体で仲間を助けて、何だかんだ頼りになる奴。イッキたちと馬鹿をやっている印象の方が、ずっと強い。

 

 そうだよな。

 

 あいつ、最初はこんなことしてたんだっけ。

 

 後のブッチャを知っているからって、今のあいつまで同じだと思っていた。

 

 ……ったく。肝心なところを忘れてどうすんだよ、俺。

 

「おい、聞いてんのか!」

 

 男が安達の肩を掴んだ。

 

「……っ、痛っ!」

「エミリ!」

 

 中山が手を伸ばす。

 

 俺は曲がり角を抜けた。

 

「離せよ」

 

 三人の顔が、こちらを向く。

 

 男の手を見てから、俺はもう一度言った。

 

「嫌がってるだろ」

 

     *

 

「誰だよ、お前」

 

 細身の男が、俺を睨んだ。

 

「そいつらの友達」

「……正義の味方か?」

「そんな立派なもんじゃねえよ」

 

 俺は安達の隣まで歩き、男の手元へ目を落とした。

 

「話すだけなら、掴まなくてもできるだろ」

 

 男は舌打ちして手を離した。

 安達が肩を押さえ、中山がその腕を引く。

 

「大丈夫か?」

「……カズくん」

 

 安達の声が、少し裏返った。

 

 男が俺の肩へ手を伸ばしてくる。

 半歩下がり、指先をかわした。

 

「おい。無視してんじゃねえぞ」

「聞いてるよ。だから、話なら俺にしてくれ」

 

 後ろで、中山が安達へ何かを尋ねている。

 返事は小さかったが、二人とも歩けるようだった。

 

 俺は少し身体の向きを変え、二人が教室側へ戻れるように隙間を空けた。

 

「変な商品を売れとか、イッキに嫌がらせしろとか。断られてんだから、もうやめろよ」

「お前、何も知らねえくせに首突っ込んでんじゃねえぞ」

「少なくとも、二人が嫌がってるのは分かる」

 

 男の後ろにいた二人が、左右へ動いた。

 

 俺は壁際へ寄りすぎないよう、足をずらす。

 相手は三人。ここで殴り合えば、安達たちまで巻き込む。

 

 階段の方では、まだ誰かが喋っていた。

 今なら、声を張れば届く。

 

「……カズくん」

 

 袖を引かれた。

 

 安達だった。

 

「もういいよ。これ以上、怒らせないで……」

「安達」

「カズくんまで、何かされたら……!」

 

 袖を掴む指が震えている。

 

 俺は一度、安達の顔を見た。

 

「ここで喧嘩するつもりはねえよ」

 

 それから、男たちへ向き直る。

 

「誰に言われてやってんだ?」

 

 細身の男が、目を細めた。

 

 しばらく俺を睨んでいたが、やがて口の端を上げる。

 

「そんなに話がしてえなら、夜に来いよ」

「……夜?」

「夜の東中。そこで、うちのボスが聞いてくれるぜ」

 

 後ろの二人が、くつくつ笑った。

 

「でっけえ奴だから、見りゃすぐ分かるよ」

 

 ……やっぱり、ブッチャか。

 

 俺は安達の手を見た。

 まだ袖を掴んでいる。

 

「そいつに言えば、二人への話も終わるんだな?」

「さあな。お前がちゃんと話せればな」

 

 笑い声が大きくなる。

 

 こいつらに何を言っても、ボスに言われた、で終わりそうだ。

 

「……分かった」

 

「カズくん!」

 

 安達の声を背に、俺は続けた。

 

「その代わり、二人にはもう近づくな。用があるなら、俺に言え」

「条件つけられる立場だと思ってんのか?」

「ボスと話せって言ったの、そっちだろ」

 

 細身の男が、しばらく俺の顔を見た。

 

 階段の方から足音が近づいてくる。

 そいつはそちらへ目をやり、仲間の肩を叩いた。

 

「行くぞ」

「……でも」

「今夜でいいだろ」

 

 すれ違いざま、俺の肩へわざとぶつかってくる。

 

「来なかったら、分かってんだろうな」

 

 俺は返事をしなかった。

 

 三人が曲がり角の向こうへ消えてから、ようやく息を吐く。

 手に持ったパンの袋が、くしゃくしゃになっていた。

 

     *

 

「何やってんの、カズくん!」

 

 安達が俺の前へ回り込んだ。

 

「夜の学校なんて行っちゃ駄目だよ!」

「いや、でも」

「でもじゃない!」

 

 びしっと指を突きつけられる。

 

「あの人たち、どんな奴らか分かってるの!?」

「……大体は」

「絶対分かってない!」

 

 言い切ったあと、安達は口を閉じた。

 突きつけていた指が、ゆっくり下がる。

 

「……あたし、怖かったんだよ」

 

 さっきまでと違う声だった。

 

「昨日だって、今日だって。呼び出されるのも、あんなもの売れって言われるのも、全部嫌で」

 

 中山が隣へ来て、安達の肩に手を置いた。

 

「エミリ……」

 

「でも、イッキくんに嫌がらせしろって……そんなの、できるわけないじゃん。友達だよ?」

 

 安達が唇を噛む。

 

「だから、嫌だって言ったの。ちゃんと断ったんだよ」

「ああ。聞いてた」

「なのに、あいつらが近づいてきたら、怖くなっちゃって」

 

 制服の裾を、ぎゅっと握った。

 

「カズくんが来てくれたとき、すごく安心しちゃった」

 

 俺は、黙って続きを待った。

 

「あんなに言い返してたくせにさ。結局、助けてもらって……」

 

 安達が少し笑おうとして、やめた。

 

「……あたし、格好悪いよね」

 

 何て返せばいいのか、少し迷った。

 

 安達はまだ、俺の顔を見ていない。

 こういうときに、気の利いたことがすぐ言えたらいいんだけどな。

 

「なあ、安達」

「……何?」

「お前、走ってるときもそうだよな」

 

 顔が上がった。

 

「負けそうになると、すげえ悔しそうな顔するじゃん。最後の方なんか、余裕なくなって、必死で」

「……何で今、その話?」

 

 眉が寄る。

 

「今日も、似たような顔してたから」

「はあ?」

「怖かったんだろ。でも、最後まで嫌だって言ってたじゃねえか」

 

 安達の口が、少し開いた。

 

「怖くなったら、さっき言ったことまでなくなるわけじゃねえだろ」

「……でも」

「俺が来る前から、ちゃんと断ってた。見てたよ」

 

 安達は何か言おうとして、また口を閉じた。

 

「それに、あんな連中相手にしたら、俺だって怖えよ」

「……カズくんも?」

「当たり前だろ。三人いたんだぞ」

「何か、もっと余裕なのかと思ってた」

「あるわけねえって」

 

 俺は手の中のパンの袋を見せた。

 

 潰れた袋を見て、安達が小さく息を漏らした。

 笑ったのか、呆れたのかは分からない。

 

「……俺さ」

 

 口にしようとして、少し照れくさくなった。

 

 でも、今は言っておいた方がいい気がした。

 

「お前が走ってるときの、ああいう諦め悪い顔、結構好きなんだよ」

 

 安達が、ぱちぱちと瞬きをした。

 

「……え」

「だから、格好悪いとは――」

「ちょ、ちょっと待って」

 

 片手を上げられた。

 

「カズくんさあ……そういうこと、いきなり言わないでよ」

 

 安達が顔を逸らす。

 

 ……あ。

 口にしてから、ちょっと言い方がまずかった気がした。

 

 隣で、中山が口元を押さえている。

 

「よかったね、エミリ」

「中山まで何言ってんの!」

 

 安達が振り向いた。

 その耳が赤くなっている。

 

 中山は笑いながら肩をすくめた。

 

「別に?」

「絶対、別にじゃないでしょ!」

 

 さっきまで止まっていた安達の声が、ようやくいつもの調子へ戻ってきた。

 

 ほっとした、その直後。

 

「でも! 夜の学校に行くのは、別の話だからね!」

 

 また俺へ向き直った。

 

「何、ちょっといい話で終わらせようとしてんの!」

「いや、そういうつもりじゃ……」

「ほんとかなあ」

 

 厳しいな。

 

 俺は潰れたパンを鞄へしまった。

 

「まず、先生に話そうぜ。中山も一緒に」

「……うん」

「俺も、今見たことは話すから」

 

 安達と中山が顔を見合わせる。

 

「ちょうど、相談しようって言ってたところなの」

「じゃあ、今行こう」

 

 二人とも、今度は頷いた。

 

     *

 

 昼休みの残りは、職員室で過ぎた。

 

 携帯に残っていた連絡を見せ、昨日の呼び出しと、さっきの渡り廊下での出来事を話す。

 先生は二人の話を順に聞き、相手の名前を確かめた。

 

 俺が口を挟まなくても、安達は自分で説明していた。

 途中で詰まったところは、中山が続ける。

 

 先生からは、こちらでも確認するから、また声をかけられたらすぐ知らせること。勝手に相手と会ったり、言い争ったりしないことを念を押された。

 

 最後のところでは、俺もはっきり名指しされた。

 

 職員室を出ると、廊下にはもう人が少なかった。

 

「……カズくん」

 

 安達が俺の横へ並ぶ。

 

「何だ?」

「あたし、助けてもらうつもりで断ったわけじゃないからね」

「おう」

「嫌だったから、嫌って言ったの。それだけは勘違いしないでよ」

 

 少し顎を上げて、こっちを見る。

 

「分かってるよ。さっきも言っただろ」

「……なら、よろしい」

 

 何で上からなんだよ。

 

 思わず笑うと、安達も少し笑った。

 

 けれど、その足がすぐに止まる。

 

「ほんとに、行くつもりなの?」

「……直接、やめろとは言いたい」

 

 安達が眉を寄せた。

 

「先生にも言われたじゃん」

「ああ」

「……あたし、行っていいって言ったわけじゃないからね」

 

 俺が返事をする前に、安達は制服の袖を掴んだ。

 

「次の勝負、まだだから」

 

「……競走?」

「そう。一回勝ったくらいで、勝ち逃げするつもりじゃないよね」

「逃げてねえだろ。次も勝つつもりだけど」

「言ったなー?」

 

 少しだけ、いつもの笑い方になった。

 

「今度はちゃんと、普通の靴でだからね」

「分かってるって」

「A・T履いてきたら反則負け」

「履いてくるかよ」

「一応、言っとかないと」

 

 袖を掴む指に、少し力が入った。

 

「……ちゃんと来てよね」

 

 俺はその手から、安達の顔へ目を戻した。

 

「当たり前だろ。もう一回勝って、文句言わせなくしてやるよ」

「ふふーん。今のうちに言ってれば?」

 

 安達が袖を離す。

 

 その代わり、小指を差し出してきた。

 

「約束」

「……指切りかよ」

「何。嫌なの?」

「いや」

 

 俺も小指を出した。

 触れた指先が、少し冷たかった。

 

「破ったら承知しないからね」

「怖えなあ」

「今ごろ気づいた?」

 

 中山が隣で笑っている。

 

 小指が離れると、安達はその手を一度だけ握ってから、教室の方へ歩き出した。

 

 俺もその後に続いた。

 

     *

 

「おい、カズ」

 

 放課後。

 鞄を肩に掛けたところで、オニギリに呼び止められた。

 

「ん?」

「今日、何かあったろ」

「……何で?」

「昼休み、渡り廊下にいただろ。安達たちと」

 

 オニギリが、廊下の方へ目をやった。

 

「遠かったから、話してるだけかと思ったけどよ。そのあと三人で職員室行ってたし」

「ああ」

「揉めてたのか?」

 

 俺は教室の中を見回した。

 イッキは、もう出ていっている。

 

 声を落として、昼間のことを話した。

 

 安達と中山が、怪しい商品の勧誘を押しつけられていたこと。

 断ったら、今度はイッキへの嫌がらせをするように言われたこと。

 

 聞き終えたオニギリの顔が、険しくなった。

 

「何だよ、それ。ふざけてんのか」

「だよな」

「イッキ、また何かやったのか?」

「少なくとも、安達たちを使っていい理由にはならねえだろ」

「そりゃそうだけどよ」

 

 オニギリが、鞄を机に置いた。

 

「で、お前は?」

「今夜、そのボスと話してくる」

「……は?」

 

 目を丸くする。

 

「どこで」

「夜の東中」

「夜の学校? ……何だよ、それ」

「夜になると、学校に集まってる連中がいるらしい。その真ん中に、でっけえ奴がいるんだと」

「でっけえ奴?」

 

 オニギリが首を傾げた。

 

「相撲部か?」

「知らねえよ」

 

 ある意味、間違ってないかもしれないけど。

 

「イッキには言ったのか?」

「まだ」

「何でだよ」

 

 俺は教室の入口を見た。

 

「あいつに言ったら、今すぐ殴り込みに行くだろ」

「……行くな」

「安達たちの話も最後まで聞かずにさ。まず、ボスが何をさせてるのか、本人の口から聞きたい」

「お前も夜には行くんじゃねえか」

「……それは、そうなんだけど」

 

 言い返せなかった。

 

 オニギリが大きく息を吐く。

 

「分かった。俺も行く」

「おい」

「安達も中山も、俺らの知り合いだろ。それに、イッキに嫌がらせしろって話なんだろ?」

「ああ」

「じゃあ、俺だって関係あるじゃねえか」

 

 机の端を、指で軽く叩く。

 

「一人で話つけて、後から全部終わりましたって言われても困んだよ」

 

 俺は口を閉じた。

 

 原作でも、カズとオニギリは一緒に夜の学校へ行く。

 その記憶があるくせに、今夜は自分一人で行くつもりになっていた。

 

 こいつがどう考えるかなんて、聞きもしないで。

 

「……悪い」

「あ?」

「一人で決めてた」

 

 オニギリは少し面食らったようだったが、すぐに鼻を鳴らした。

 

「分かりゃいいんだよ」

「じゃあ、頼む。俺が話してる間、後ろも見ててくれ」

「任せろ!」

 

 途端に胸を張る。

 

「俺がいりゃ百人力だからな!」

「お前、A・Tまともに乗れたっけ?」

「そこは気合いで!」

「百人分の気合いかよ!」

 

 笑うと、オニギリも笑った。

 

 俺は鞄を掛け直す。

 

「やばかったら逃げるぞ。無理に喧嘩する必要はねえからな」

「お前こそ、一人で突っ込むなよ」

「……分かった」

 

 そう答えると、オニギリが満足そうに頷いた。

 

     *

 

 夜の校門は、昼間より高く見えた。

 

 校舎の窓には、ところどころ明かりが残っている。

 風が吹くたび、校庭の木が音を立てた。

 

 俺はA・Tの留め具を確かめ、片足を短く滑らせた。

 

 左の車輪に、わずかな引っかかりがある。

 みかんさんに指摘された不調は、そのままだった。

 

 軽く荷重をかけ直す。

 動く。だが、無理の利く靴じゃない。

 

「……おい、カズ」

 

 隣でオニギリが声を落とした。

 

「何だよ」

「夜の学校って、こんなだったっけ」

「いつも見てる建物だろ」

「そういうことじゃねえよ。何か、窓の奥にいそうじゃね?」

「いるだろ。今から会いに行くんだから」

「もっと違うやつ!」

 

 俺は笑いかけて、校舎へ目を戻した。

 

 原作で、カズとオニギリがブッチャに敗れた場所。

 

 あいつの巨体を、単純な力でどうにかするのは無理だ。

 しかも、ここは狭い校舎の中。河川敷みたいに、どこまでも加速できるわけじゃない。

 

 先生には話した。

 連中にも確認すると言ってくれた。

 

 その対応を待つ、という選択もあった。

 

 それでも、俺はここへ来た。

 

 ブッチャがどんな男か、知っている。

 少なくとも、将来は仲間と肩を並べて戦う男になる。

 

 けれど、その印象だけで今のあいつを甘く見てはいけない。

 

 昼間、安達が嫌だと言っても、手下たちは笑っていた。

 肩を掴まれて顔をしかめても、離そうとしなかった。

 

 あの顔を思い出すと、明日まで待つ気にはなれなかった。

 

『お前、曲がれないって決めるの、ちょっと早くね?』

 

 ケンの言葉が頭をよぎる。

 

 でも、今夜は速さを試しに来たわけじゃない。

 

 俺は玄関と、その横の通路を見た。

 階段はどこか。囲まれたら、どこへ抜けられるか。

 

 勝負になるとしても、勢いだけで突っ込むわけにはいかない。

 

「……今なら、まだ帰れるぞ」

 

 オニギリが言った。

 

「百人力はどうした」

「校舎が百人分くらい怖えんだよ」

「相殺されてんじゃねえか」

 

 オニギリが唇を曲げる。

 それでも、隣から離れようとはしなかった。

 

 俺は一度、右手を握った。

 

 昼間、安達と指切りした手だ。

 

「行こうぜ」

「……おう」

 

 二人で校門をくぐった。

 

     *

 

 中へ入ると、静かなのは外側だけだったと分かった。

 

 廊下の奥から笑い声が聞こえてくる。

 床には空き缶が転がり、開け放された教室から、椅子を引きずる音が響いた。

 

「学校っつーか、溜まり場だな」

 

 オニギリが呟く。

 

「ああ」

 

 俺は床の空き缶を避け、歩くような速度で進んだ。

 

 廊下の奥に、数人の男子生徒がいる。

 そのうちの一人が、こちらに気づいた。

 

「……おい。昼間の奴じゃねえか」

 

 細身の男が振り返る。

 

「マジで来たのかよ」

「約束しただろ」

「しかも、友達まで連れて」

 

 オニギリが口を開きかけた。

 俺はその前へ半歩出た。

 

「ボスは?」

「そこ」

 

 男が、奥の教室を指差した。

 

「ちゃんと話、聞いてもらえるといいな」

 

 後ろで笑い声がする。

 

 俺は相手の顔ではなく、教室の扉と、その先の廊下を見た。

 オニギリも周囲へ目を配っている。

 

「行くぞ」

「分かってる」

 

 扉へ手を掛けた。

 

 ――ガラッ。

 

「……あ?」

 

 先に声を漏らしたのは、オニギリだった。

 

 机が、二つ並べてある。

 

 その上に腰掛けている男を見て、最初は遠近感がおかしくなったのかと思った。

 

 肩幅。

 腕。

 膝の下に見える、四輪のA・T。

 

 漫画で見たことはある。

 それでも、同じ教室に立つと、思っていた以上にでかい。

 

「お、おい、カズ……」

 

 袖を引かれた。

 

「あいつ、何なんだよ」

「でっけえ奴だろ」

「そういう問題じゃねえ!」

 

 小声のつもりなんだろうが、静かな教室にはよく響いた。

 

 男が、ゆっくりこちらへ顔を向ける。

 

「……何、君たち?」

 

 巨体に似合わず、のんびりした声だった。

 

 俺たちを順に見てから、廊下の男へ視線を移す。

 細身の男が何かを耳打ちすると、口元が少し上がった。

 

「へえ。君が」

 

 御仏一茶。

 ブッチャ。

 

 これから先、同じチームで走ることになる男。

 

 けれど、今はまだ違う。

 

 俺は一歩、前へ出た。

 

「お前が、ここのボスか?」

 

 ブッチャは机から動かず、首を傾けた。

 

「そうだけど。僕に、何か用?」

 

 その目を見上げる。

 

「ちょっと、話があってさ」

 

 後ろで、オニギリが足を踏み直した。

 

「安達と中山のことだ」




原作のエミリの青春感は異常
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