朝の教室は、いつも通り騒がしかった。
廊下では誰かが追いかけっこをしているし、窓際では男子がテレビ番組の話で盛り上がっている。イッキとオニギリに至っては、俺の机を挟んで言い争っていた。
「だからよ! この前のジャンプは絶対二メートルいってたって!」
「いやいや、イッキ。どう見ても一メートルくらいだったろ」
「てめえ、見てもいねえくせに!」
「カズが言ってたんだよ!」
「おい、俺を巻き込むな」
イッキがこっちを向いた。
「お前、ちゃんと見てたよな!?」
「見てたよ。そのあと転んだところまで」
「そこは忘れろ!」
オニギリが腹を抱えて笑う。イッキはその頭を小突き、また二人で騒ぎ始めた。
平和だな、お前ら。
俺は頬杖をつき、教室の入口へ目をやった。
昨日、階段の踊り場で見かけた安達の顔が、まだ頭から離れない。
『……そんなの、できないよ……』
『……イッキくんに、あんなこと……』
部活のことだとは言っていた。
けれど、それなら何でイッキの名前が出てくるんだ。
携帯を隠したときの慌て方も、気にしないでと笑った顔も、いつもの安達とは違っていた。
無理に聞き出すつもりはない。
ただ、何も見なかったことにして、いつもどおり話せる気もしなかった。
「おはよー!」
顔を上げる。
安達が教室へ入ってきた。
「おう、安達」
「あ、カズくん。おはよ!」
笑いながら近づいてきた足が、途中で止まる。
その目は、俺の隣にいるイッキを見ていた。
「……あ」
「ん? 何だよ、安達」
イッキが振り返る。
「お前も見たかったか? 俺様のすげえジャンプ!」
「……え?」
「こいつら、全然分かってねえんだよ!」
「あ、あはは。何それ。朝からその話?」
安達は笑ったが、イッキとは目を合わせなかった。
鞄の持ち手を握り直し、俺の方へ何か言いかける。
「エミリ!」
廊下から中山の声がした。
「ちょっと、いい?」
「……うん!」
安達はすぐに頷いた。
「じゃ、カズくん。また後で!」
「ああ」
二人が教室を離れていく。
中山も、いつもみたいに安達へ話しかける様子ではなかった。
昨日、携帯を見ながら中山も困っていると言っていたな。
あの二人が、何かに巻き込まれているのか。
「おい、カズ」
イッキが俺の顔を覗き込んできた。
「何だよ」
「お前、安達と何かあったのか?」
「……何で?」
「最近、よく喋ってんじゃん」
その口元が、にやりと上がった。
「さては、お前ら――」
「違えよ」
「まだ何も言ってねえだろ!」
「顔に書いてあんだよ!」
「へっへっへ。河川敷で二人っきりとは、カズも隅に置けねえなあ」
オニギリまで乗ってきた。
「イッキもいただろうが」
「つまり三角関係!?」
「何でだよ!」
二人が揃って笑う。
俺は机に乗せられたイッキの肘を押しのけた。
普段なら、もう少し付き合ってやるところなんだけどな。
廊下へ目を向けても、安達たちの姿はもう見えなかった。
*
「……ねえ、エミリ。本当にどうするの?」
教室から離れたところで、中山が声を落とした。
「どうするって……やんないよ、あんなの」
「でも、また呼び出されたら……」
「分かってるって」
ポケットの中で、携帯を握り直す。
昨日だって断った。
嫌だって、何度も言った。
なのに、あいつらは笑うばっかりで、全然聞いてくれなくて。
最後には中山の腕まで掴んできて、何とかその場を離れるので精いっぱいだった。
……あー、やだやだ。
何で、あたしたちがこんな目に遭わなきゃいけないのよ。
「先生に言おうよ」
中山が言った。
「……うん」
それで、全部終わってくれればいい。
でも、昨日のあいつらの顔を思い出すと、すぐには足が動かなかった。
言ったことが知られたら、また何かされるんじゃないか。
そんなことばかり考えてしまう。
窓の外へ目をやると、校庭のトラックが見えた。
朝練を終えた誰かが、置きっぱなしになっていたコーンを拾っている。
カズくんと、ちゃんと競走したいな。
この前、河川敷で会ったときは、走り方に文句をつけてやっただけだった。あっちはすっかりA・Tに夢中で、普通の靴で勝負する機会も前より減っている。
あんなに何度も、競走しようって言ってきたくせに。
小っちゃい頃から、走るのが好きだったワケじゃない。
だって、疲れるし、汗かくし。特に人より足が速かったわけでもないし。
だいたい、なんか一生懸命っぽいのがちょっとカッコ悪いなあ――なんて。
そんなことを思っていた。
陸上部に入ってからも、嫌いではなかったけれど、走ることばっかり考えていたわけじゃない。
練習が終わったら帰りたいし、きついメニューの日は、始まる前からげんなりしていた。
なのに、カズくんと勝負するようになってから、少し変わった。
こっちが勝っても、次に会うと、また競走を申し込んでくる。
悔しそうにしていたくせに、もう次の勝負の話をしている。
そうやって何度も走っているうちに、差が縮まってきて。
この前は、とうとう負けた。
……あのときの顔、忘れてないからね。
拳まで握って、大喜びしちゃって。
そんなに嬉しいかって言いたくなるくらい、笑っていた。
でも、あたしだって、もし次に勝ったら同じ顔をすると思う。
負けたら悔しい。
勝ったら嬉しい。
カズくんがまた速くなっていると、次までにこっちも何とかしなきゃって思う。
部活が終わっても、もう一本だけ走ろうかな、なんて考えたりして。
……人のこと、言えないじゃん。
一生懸命になるの、カッコ悪いとか思ってたくせに。
それに、この前。
『最近のカズくん、結構格好いいと思うよ』
……ああ、もう。
何で面と向かって言っちゃったんだろ。
本当にそう思ったんだけど。
思ったんだけどさ。
カズくんまで黙っちゃうし、こっちが慌てて言い直してるのに、何か変な顔してるし。
いつもは、何を言ってもすぐに言い返してくるくせに。
……あのときは、ちょっと面白かったな。
「エミリ?」
「……っ!?」
中山が顔を覗き込んできた。
「何で笑ってるの?」
「えっ、笑ってた!?」
「うん。ちょっと」
慌てて口元を引き締めた。
「な、何でもないって」
「……カズくん?」
「何でそこでカズくんが出てくんの!」
「名前、言ってないのに分かりやすいんだもん」
中山が、くすっと笑う。
もう。
人が困ってるときに、何でそんなとこばっかり気づくかな。
その肩を軽く小突くと、中山は「ごめんごめん」と笑った。
さっきまで強張っていた口元が、少しだけ緩んでいる。
それを見たら、あたしも少し息がしやすくなった。
でも、ポケットの中には携帯がある。
また画面が光ったらと思うと、手を離せなかった。
「……ね、中山」
「ん?」
「また何か言われても、変なことはしないでおこうね」
中山が、あたしを見る。
「嫌なものは嫌だし。イッキくんにあんなことするのも、絶対やだ」
「……うん」
「だから、先生にも話そ。二人で」
「そうだね」
中山の肩が、少し下がった。
あたしは携帯から手を離して、制服の裾を引っ張った。
「うっし。とりあえず授業、戻ろ!」
「エミリ、そっち逆」
「……分かってるって!」
中山がまた笑った。
笑われたのはちょっと悔しいけど、今は、さっきの顔をしているよりずっとよかった。
*
昼休み。
俺は購買で買ったパンを片手に、階段を下りていた。
安達にはまだ、昨日のことを聞けていない。
中山と一緒にいることが多く、休み時間にも二人でどこかへ行ってしまう。
別に、一人になるのを待たなくてもいいんだろうけど。
昨日の様子を思い出すと、こっちから捕まえて話をさせるのも違う気がした。
そう考えて、階段をもう一段下りたときだった。
「だから、やれって言ってんだろ」
低い声が聞こえた。
足を止める。
人気の少ない渡り廊下の方だ。
「……嫌だって、昨日も言ったじゃん」
安達の声だった。
俺はパンを袋へ戻し、声のする方へ向かった。
曲がり角の向こうに、三人の男子生徒がいる。
その前に立っていたのは、安達と中山だった。
先頭の細身の男が、苛立ったように頭をかく。
「別に難しいこと頼んでねえだろ」
「イッキくん、関係ないじゃん」
「関係あるかどうかは、こっちが決めんだよ」
安達が顔を上げた。
「そんなの、おかしいでしょ。何であたしたちが嫌がらせしなきゃなんないの?」
「お前らがちゃんと商品売ってくれりゃ、こんなこと頼まねえよ」
「だから、あんなの売れないって言ってるじゃん!」
その声が、渡り廊下に響いた。
「何が入ってるかも分かんないもの、友達に売れるわけないでしょ!」
……待てよ。
怪しげな商品を生徒に売らせる。
断った相手には、イッキへの嫌がらせを強要する。
……ああ、そうか。
ブッチャだ。
御仏一茶。
……くそ。何で今まで気づかなかったんだ。
原作で覚えているブッチャは、小烏丸に加わってからの姿ばかりだった。
あの馬鹿でかい身体で仲間を助けて、何だかんだ頼りになる奴。イッキたちと馬鹿をやっている印象の方が、ずっと強い。
そうだよな。
あいつ、最初はこんなことしてたんだっけ。
後のブッチャを知っているからって、今のあいつまで同じだと思っていた。
……ったく。肝心なところを忘れてどうすんだよ、俺。
「おい、聞いてんのか!」
男が安達の肩を掴んだ。
「……っ、痛っ!」
「エミリ!」
中山が手を伸ばす。
俺は曲がり角を抜けた。
「離せよ」
三人の顔が、こちらを向く。
男の手を見てから、俺はもう一度言った。
「嫌がってるだろ」
*
「誰だよ、お前」
細身の男が、俺を睨んだ。
「そいつらの友達」
「……正義の味方か?」
「そんな立派なもんじゃねえよ」
俺は安達の隣まで歩き、男の手元へ目を落とした。
「話すだけなら、掴まなくてもできるだろ」
男は舌打ちして手を離した。
安達が肩を押さえ、中山がその腕を引く。
「大丈夫か?」
「……カズくん」
安達の声が、少し裏返った。
男が俺の肩へ手を伸ばしてくる。
半歩下がり、指先をかわした。
「おい。無視してんじゃねえぞ」
「聞いてるよ。だから、話なら俺にしてくれ」
後ろで、中山が安達へ何かを尋ねている。
返事は小さかったが、二人とも歩けるようだった。
俺は少し身体の向きを変え、二人が教室側へ戻れるように隙間を空けた。
「変な商品を売れとか、イッキに嫌がらせしろとか。断られてんだから、もうやめろよ」
「お前、何も知らねえくせに首突っ込んでんじゃねえぞ」
「少なくとも、二人が嫌がってるのは分かる」
男の後ろにいた二人が、左右へ動いた。
俺は壁際へ寄りすぎないよう、足をずらす。
相手は三人。ここで殴り合えば、安達たちまで巻き込む。
階段の方では、まだ誰かが喋っていた。
今なら、声を張れば届く。
「……カズくん」
袖を引かれた。
安達だった。
「もういいよ。これ以上、怒らせないで……」
「安達」
「カズくんまで、何かされたら……!」
袖を掴む指が震えている。
俺は一度、安達の顔を見た。
「ここで喧嘩するつもりはねえよ」
それから、男たちへ向き直る。
「誰に言われてやってんだ?」
細身の男が、目を細めた。
しばらく俺を睨んでいたが、やがて口の端を上げる。
「そんなに話がしてえなら、夜に来いよ」
「……夜?」
「夜の東中。そこで、うちのボスが聞いてくれるぜ」
後ろの二人が、くつくつ笑った。
「でっけえ奴だから、見りゃすぐ分かるよ」
……やっぱり、ブッチャか。
俺は安達の手を見た。
まだ袖を掴んでいる。
「そいつに言えば、二人への話も終わるんだな?」
「さあな。お前がちゃんと話せればな」
笑い声が大きくなる。
こいつらに何を言っても、ボスに言われた、で終わりそうだ。
「……分かった」
「カズくん!」
安達の声を背に、俺は続けた。
「その代わり、二人にはもう近づくな。用があるなら、俺に言え」
「条件つけられる立場だと思ってんのか?」
「ボスと話せって言ったの、そっちだろ」
細身の男が、しばらく俺の顔を見た。
階段の方から足音が近づいてくる。
そいつはそちらへ目をやり、仲間の肩を叩いた。
「行くぞ」
「……でも」
「今夜でいいだろ」
すれ違いざま、俺の肩へわざとぶつかってくる。
「来なかったら、分かってんだろうな」
俺は返事をしなかった。
三人が曲がり角の向こうへ消えてから、ようやく息を吐く。
手に持ったパンの袋が、くしゃくしゃになっていた。
*
「何やってんの、カズくん!」
安達が俺の前へ回り込んだ。
「夜の学校なんて行っちゃ駄目だよ!」
「いや、でも」
「でもじゃない!」
びしっと指を突きつけられる。
「あの人たち、どんな奴らか分かってるの!?」
「……大体は」
「絶対分かってない!」
言い切ったあと、安達は口を閉じた。
突きつけていた指が、ゆっくり下がる。
「……あたし、怖かったんだよ」
さっきまでと違う声だった。
「昨日だって、今日だって。呼び出されるのも、あんなもの売れって言われるのも、全部嫌で」
中山が隣へ来て、安達の肩に手を置いた。
「エミリ……」
「でも、イッキくんに嫌がらせしろって……そんなの、できるわけないじゃん。友達だよ?」
安達が唇を噛む。
「だから、嫌だって言ったの。ちゃんと断ったんだよ」
「ああ。聞いてた」
「なのに、あいつらが近づいてきたら、怖くなっちゃって」
制服の裾を、ぎゅっと握った。
「カズくんが来てくれたとき、すごく安心しちゃった」
俺は、黙って続きを待った。
「あんなに言い返してたくせにさ。結局、助けてもらって……」
安達が少し笑おうとして、やめた。
「……あたし、格好悪いよね」
何て返せばいいのか、少し迷った。
安達はまだ、俺の顔を見ていない。
こういうときに、気の利いたことがすぐ言えたらいいんだけどな。
「なあ、安達」
「……何?」
「お前、走ってるときもそうだよな」
顔が上がった。
「負けそうになると、すげえ悔しそうな顔するじゃん。最後の方なんか、余裕なくなって、必死で」
「……何で今、その話?」
眉が寄る。
「今日も、似たような顔してたから」
「はあ?」
「怖かったんだろ。でも、最後まで嫌だって言ってたじゃねえか」
安達の口が、少し開いた。
「怖くなったら、さっき言ったことまでなくなるわけじゃねえだろ」
「……でも」
「俺が来る前から、ちゃんと断ってた。見てたよ」
安達は何か言おうとして、また口を閉じた。
「それに、あんな連中相手にしたら、俺だって怖えよ」
「……カズくんも?」
「当たり前だろ。三人いたんだぞ」
「何か、もっと余裕なのかと思ってた」
「あるわけねえって」
俺は手の中のパンの袋を見せた。
潰れた袋を見て、安達が小さく息を漏らした。
笑ったのか、呆れたのかは分からない。
「……俺さ」
口にしようとして、少し照れくさくなった。
でも、今は言っておいた方がいい気がした。
「お前が走ってるときの、ああいう諦め悪い顔、結構好きなんだよ」
安達が、ぱちぱちと瞬きをした。
「……え」
「だから、格好悪いとは――」
「ちょ、ちょっと待って」
片手を上げられた。
「カズくんさあ……そういうこと、いきなり言わないでよ」
安達が顔を逸らす。
……あ。
口にしてから、ちょっと言い方がまずかった気がした。
隣で、中山が口元を押さえている。
「よかったね、エミリ」
「中山まで何言ってんの!」
安達が振り向いた。
その耳が赤くなっている。
中山は笑いながら肩をすくめた。
「別に?」
「絶対、別にじゃないでしょ!」
さっきまで止まっていた安達の声が、ようやくいつもの調子へ戻ってきた。
ほっとした、その直後。
「でも! 夜の学校に行くのは、別の話だからね!」
また俺へ向き直った。
「何、ちょっといい話で終わらせようとしてんの!」
「いや、そういうつもりじゃ……」
「ほんとかなあ」
厳しいな。
俺は潰れたパンを鞄へしまった。
「まず、先生に話そうぜ。中山も一緒に」
「……うん」
「俺も、今見たことは話すから」
安達と中山が顔を見合わせる。
「ちょうど、相談しようって言ってたところなの」
「じゃあ、今行こう」
二人とも、今度は頷いた。
*
昼休みの残りは、職員室で過ぎた。
携帯に残っていた連絡を見せ、昨日の呼び出しと、さっきの渡り廊下での出来事を話す。
先生は二人の話を順に聞き、相手の名前を確かめた。
俺が口を挟まなくても、安達は自分で説明していた。
途中で詰まったところは、中山が続ける。
先生からは、こちらでも確認するから、また声をかけられたらすぐ知らせること。勝手に相手と会ったり、言い争ったりしないことを念を押された。
最後のところでは、俺もはっきり名指しされた。
職員室を出ると、廊下にはもう人が少なかった。
「……カズくん」
安達が俺の横へ並ぶ。
「何だ?」
「あたし、助けてもらうつもりで断ったわけじゃないからね」
「おう」
「嫌だったから、嫌って言ったの。それだけは勘違いしないでよ」
少し顎を上げて、こっちを見る。
「分かってるよ。さっきも言っただろ」
「……なら、よろしい」
何で上からなんだよ。
思わず笑うと、安達も少し笑った。
けれど、その足がすぐに止まる。
「ほんとに、行くつもりなの?」
「……直接、やめろとは言いたい」
安達が眉を寄せた。
「先生にも言われたじゃん」
「ああ」
「……あたし、行っていいって言ったわけじゃないからね」
俺が返事をする前に、安達は制服の袖を掴んだ。
「次の勝負、まだだから」
「……競走?」
「そう。一回勝ったくらいで、勝ち逃げするつもりじゃないよね」
「逃げてねえだろ。次も勝つつもりだけど」
「言ったなー?」
少しだけ、いつもの笑い方になった。
「今度はちゃんと、普通の靴でだからね」
「分かってるって」
「A・T履いてきたら反則負け」
「履いてくるかよ」
「一応、言っとかないと」
袖を掴む指に、少し力が入った。
「……ちゃんと来てよね」
俺はその手から、安達の顔へ目を戻した。
「当たり前だろ。もう一回勝って、文句言わせなくしてやるよ」
「ふふーん。今のうちに言ってれば?」
安達が袖を離す。
その代わり、小指を差し出してきた。
「約束」
「……指切りかよ」
「何。嫌なの?」
「いや」
俺も小指を出した。
触れた指先が、少し冷たかった。
「破ったら承知しないからね」
「怖えなあ」
「今ごろ気づいた?」
中山が隣で笑っている。
小指が離れると、安達はその手を一度だけ握ってから、教室の方へ歩き出した。
俺もその後に続いた。
*
「おい、カズ」
放課後。
鞄を肩に掛けたところで、オニギリに呼び止められた。
「ん?」
「今日、何かあったろ」
「……何で?」
「昼休み、渡り廊下にいただろ。安達たちと」
オニギリが、廊下の方へ目をやった。
「遠かったから、話してるだけかと思ったけどよ。そのあと三人で職員室行ってたし」
「ああ」
「揉めてたのか?」
俺は教室の中を見回した。
イッキは、もう出ていっている。
声を落として、昼間のことを話した。
安達と中山が、怪しい商品の勧誘を押しつけられていたこと。
断ったら、今度はイッキへの嫌がらせをするように言われたこと。
聞き終えたオニギリの顔が、険しくなった。
「何だよ、それ。ふざけてんのか」
「だよな」
「イッキ、また何かやったのか?」
「少なくとも、安達たちを使っていい理由にはならねえだろ」
「そりゃそうだけどよ」
オニギリが、鞄を机に置いた。
「で、お前は?」
「今夜、そのボスと話してくる」
「……は?」
目を丸くする。
「どこで」
「夜の東中」
「夜の学校? ……何だよ、それ」
「夜になると、学校に集まってる連中がいるらしい。その真ん中に、でっけえ奴がいるんだと」
「でっけえ奴?」
オニギリが首を傾げた。
「相撲部か?」
「知らねえよ」
ある意味、間違ってないかもしれないけど。
「イッキには言ったのか?」
「まだ」
「何でだよ」
俺は教室の入口を見た。
「あいつに言ったら、今すぐ殴り込みに行くだろ」
「……行くな」
「安達たちの話も最後まで聞かずにさ。まず、ボスが何をさせてるのか、本人の口から聞きたい」
「お前も夜には行くんじゃねえか」
「……それは、そうなんだけど」
言い返せなかった。
オニギリが大きく息を吐く。
「分かった。俺も行く」
「おい」
「安達も中山も、俺らの知り合いだろ。それに、イッキに嫌がらせしろって話なんだろ?」
「ああ」
「じゃあ、俺だって関係あるじゃねえか」
机の端を、指で軽く叩く。
「一人で話つけて、後から全部終わりましたって言われても困んだよ」
俺は口を閉じた。
原作でも、カズとオニギリは一緒に夜の学校へ行く。
その記憶があるくせに、今夜は自分一人で行くつもりになっていた。
こいつがどう考えるかなんて、聞きもしないで。
「……悪い」
「あ?」
「一人で決めてた」
オニギリは少し面食らったようだったが、すぐに鼻を鳴らした。
「分かりゃいいんだよ」
「じゃあ、頼む。俺が話してる間、後ろも見ててくれ」
「任せろ!」
途端に胸を張る。
「俺がいりゃ百人力だからな!」
「お前、A・Tまともに乗れたっけ?」
「そこは気合いで!」
「百人分の気合いかよ!」
笑うと、オニギリも笑った。
俺は鞄を掛け直す。
「やばかったら逃げるぞ。無理に喧嘩する必要はねえからな」
「お前こそ、一人で突っ込むなよ」
「……分かった」
そう答えると、オニギリが満足そうに頷いた。
*
夜の校門は、昼間より高く見えた。
校舎の窓には、ところどころ明かりが残っている。
風が吹くたび、校庭の木が音を立てた。
俺はA・Tの留め具を確かめ、片足を短く滑らせた。
左の車輪に、わずかな引っかかりがある。
みかんさんに指摘された不調は、そのままだった。
軽く荷重をかけ直す。
動く。だが、無理の利く靴じゃない。
「……おい、カズ」
隣でオニギリが声を落とした。
「何だよ」
「夜の学校って、こんなだったっけ」
「いつも見てる建物だろ」
「そういうことじゃねえよ。何か、窓の奥にいそうじゃね?」
「いるだろ。今から会いに行くんだから」
「もっと違うやつ!」
俺は笑いかけて、校舎へ目を戻した。
原作で、カズとオニギリがブッチャに敗れた場所。
あいつの巨体を、単純な力でどうにかするのは無理だ。
しかも、ここは狭い校舎の中。河川敷みたいに、どこまでも加速できるわけじゃない。
先生には話した。
連中にも確認すると言ってくれた。
その対応を待つ、という選択もあった。
それでも、俺はここへ来た。
ブッチャがどんな男か、知っている。
少なくとも、将来は仲間と肩を並べて戦う男になる。
けれど、その印象だけで今のあいつを甘く見てはいけない。
昼間、安達が嫌だと言っても、手下たちは笑っていた。
肩を掴まれて顔をしかめても、離そうとしなかった。
あの顔を思い出すと、明日まで待つ気にはなれなかった。
『お前、曲がれないって決めるの、ちょっと早くね?』
ケンの言葉が頭をよぎる。
でも、今夜は速さを試しに来たわけじゃない。
俺は玄関と、その横の通路を見た。
階段はどこか。囲まれたら、どこへ抜けられるか。
勝負になるとしても、勢いだけで突っ込むわけにはいかない。
「……今なら、まだ帰れるぞ」
オニギリが言った。
「百人力はどうした」
「校舎が百人分くらい怖えんだよ」
「相殺されてんじゃねえか」
オニギリが唇を曲げる。
それでも、隣から離れようとはしなかった。
俺は一度、右手を握った。
昼間、安達と指切りした手だ。
「行こうぜ」
「……おう」
二人で校門をくぐった。
*
中へ入ると、静かなのは外側だけだったと分かった。
廊下の奥から笑い声が聞こえてくる。
床には空き缶が転がり、開け放された教室から、椅子を引きずる音が響いた。
「学校っつーか、溜まり場だな」
オニギリが呟く。
「ああ」
俺は床の空き缶を避け、歩くような速度で進んだ。
廊下の奥に、数人の男子生徒がいる。
そのうちの一人が、こちらに気づいた。
「……おい。昼間の奴じゃねえか」
細身の男が振り返る。
「マジで来たのかよ」
「約束しただろ」
「しかも、友達まで連れて」
オニギリが口を開きかけた。
俺はその前へ半歩出た。
「ボスは?」
「そこ」
男が、奥の教室を指差した。
「ちゃんと話、聞いてもらえるといいな」
後ろで笑い声がする。
俺は相手の顔ではなく、教室の扉と、その先の廊下を見た。
オニギリも周囲へ目を配っている。
「行くぞ」
「分かってる」
扉へ手を掛けた。
――ガラッ。
「……あ?」
先に声を漏らしたのは、オニギリだった。
机が、二つ並べてある。
その上に腰掛けている男を見て、最初は遠近感がおかしくなったのかと思った。
肩幅。
腕。
膝の下に見える、四輪のA・T。
漫画で見たことはある。
それでも、同じ教室に立つと、思っていた以上にでかい。
「お、おい、カズ……」
袖を引かれた。
「あいつ、何なんだよ」
「でっけえ奴だろ」
「そういう問題じゃねえ!」
小声のつもりなんだろうが、静かな教室にはよく響いた。
男が、ゆっくりこちらへ顔を向ける。
「……何、君たち?」
巨体に似合わず、のんびりした声だった。
俺たちを順に見てから、廊下の男へ視線を移す。
細身の男が何かを耳打ちすると、口元が少し上がった。
「へえ。君が」
御仏一茶。
ブッチャ。
これから先、同じチームで走ることになる男。
けれど、今はまだ違う。
俺は一歩、前へ出た。
「お前が、ここのボスか?」
ブッチャは机から動かず、首を傾けた。
「そうだけど。僕に、何か用?」
その目を見上げる。
「ちょっと、話があってさ」
後ろで、オニギリが足を踏み直した。
「安達と中山のことだ」
原作のエミリの青春感は異常