「安達と中山のことだ」
俺がそう告げると、目の前の巨漢はきょとんとした顔をした。
「……安達? 中山?」
首を傾げる。その仕草だけ見れば、どこにでもいる中学生と変わらない。
……いや、身体の大きさは全然違うけど。
「昼間、あんたの仲間が二人を脅してた。変な商品を売れだの、イッキに嫌がらせしろだの。そういうの、やめさせてもらえねえか?」
「ああ!」
巨漢は、ぽんと手を叩いた。
「その話か!」
そして、にんまりと笑う。
「何だよ、カズくん。そんなこと言いにわざわざ来たの?」
「……俺の名前、知ってんのか」
「昼間、君のことは聞いたからね。僕に会いたがってる生意気なやつがいるって」
ブッチャは楽しそうに肩を揺らした。
「それにしても、女の子のために夜の学校まで来るなんて。なかなかやるじゃないか」
「……褒められてる気がしねえな」
「ははっ! 褒めてるよ!」
……調子狂うな、こいつ。
御仏一茶。通称ブッチャ。後に小烏丸の一員となる男であり、今は夜の東中を仕切っている実力者だ。
座っているだけで、俺と目線の高さが大して変わらない。丸太のような腕に、普通のA・Tより一回り大きな靴。
……でけえ。漫画で見るのとは迫力が違う。
「……で?」
俺は話を戻した。
「やめてくれるのか?」
「んー?」
ブッチャは顎に手を当て、考えるような仕草をした。
「それは、ちょっと困るかな」
「……何で?」
「だって、商売だからね」
「嫌がってる奴に無理やり売らせるのが?」
「無理やりなんて、人聞き悪いなあ。僕はいい話を教えてあげてるだけだよ」
そう言って笑う。
「君達だってお金は欲しいだろ? だったら、友達に商品を勧めるくらい、別にいいじゃないか」
「……断ったら?」
「ん?」
「安達たちが断ったら、どうするつもりだった?」
ブッチャはしばらく俺を眺めていた。そして、にたりと笑う。
「まあ、少しくらい怖い思いはするかもしれないね」
「…………」
「でも、仕方ないだろ? 約束を守らない方が悪いんだからさ」
その言い方が、妙に気に障った。
後に仲間になる男だから、少しくらい話が通じると期待していた。
けれど、今目の前にいるのは、俺の知っている未来のブッチャじゃない。
「……なあ、ブッチャ」
「ん?」
「中山、突き飛ばされたらしいぞ」
「……へえ?」
「安達も、イッキに嫌がらせしろって脅されてた」
「……だから?」
あっさりした返事だった。
昨日、安達がどんな顔をしていたか。中山がどれだけ怯えていたか。この男にとっては、どうでもいいことなのだ。
「……そっか」
俺は頷いた。
「じゃあ、仕方ねえな」
ブッチャが目を細める。
「……何が?」
「お前を倒す」
教室が静まり返った。
数秒の沈黙。
「……ぶっ!」
ブッチャが吹き出した。
「ははははっ!!」
周囲の連中まで笑い始める。
「聞いたかよ! あいつ、ブッチャを倒すって!」
「馬鹿じゃねえの!?」
「身の程知らずにも程があんだろ!」
まあ、普通はそう思うだろうな。
「お、おい、カズ!」
隣でオニギリが俺の袖を引いた。
「お前、マジで言ってんのか!?」
「……ああ」
「いやいやいや! ちょっと待てって! 相手見ろよ! あれ人間か!? 何食ったらああなんだよ!?」
「……多分、ラーメンとかじゃねえかな」
「今そういう話してねえだろ!!」
思わず笑いそうになった。けれど、胸の奥では心臓がうるさいくらい鳴っている。
今回ばかりは、俺も同じ気持ちだった。
……勝てるか?
三か月、毎日のように走ってきた。シンにも勝った。イッキとの競走でも、積み重ねてきた技術の差を見せられた。
だが、ブッチャはそのどちらとも違う。
原作のカズが敗れた相手。
ここでどこまで通用するか、俺自身にも分からなかった。
*
「……いいよ」
ブッチャが立ち上がった。
――ミシッ。
床が軋む。さっきまで座っていた男が立っただけで、教室が急に狭く感じられた。
「君がそこまで言うなら、相手してあげるよ」
ブッチャは四輪のA・Tを履き、軽く足踏みした。
「ただし、僕も手加減は得意じゃないんだよね」
にんまりと笑う。
「骨の一本くらい、覚悟しておいてよ」
「……できれば遠慮したいな」
俺も足元の駆動を確かめた。右は問題ない。左には、相変わらず小さな引っかかりがある。
引っかかるのは、たまにだ。まだ走れる。そんな言い訳で、みかんさんに言われた修理を後回しにしていた。
……動く。今は、それでやるしかねえ。
「……なあ、ブッチャ」
「ん?」
「この教室、頑丈か?」
「……何で?」
「いや、あんたが派手に転んだら、床が抜けるんじゃねえかと思ってさ」
「……へえ?」
「先に言っとくけど、修理代は出せねえぞ」
ブッチャは一瞬きょとんとした後、腹を抱えて笑い出した。
「はははっ! いいねえ、君!」
そして、近くの机を片手で押しのける。
――ガガガッ!
「大丈夫だよ。僕が後で何とかするからさ」
周囲の連中も机を端へ寄せ、教室の中央に空間ができた。
……狭いな。
端から端まで、せいぜい十メートル足らず。最高速度まで乗せるには短すぎる。しかも相手の腕は、俺の予想よりずっと長い。
それでも、走れないほどじゃない。
「……じゃあ、行くぜ」
膝を曲げ、床を蹴った。
――ギュンッ!
「……っ!?」
真正面からブッチャへ。右足で加速し、左足へ重心を移す。
「……はっ!」
ブッチャが笑った。
「速いねえ!」
巨大な腕が振るわれた。
――ゴォッ!!
「……っ!」
咄嗟に身体を沈めた。頭上を腕が通り過ぎる。風圧で前髪が跳ねた。
……速っ!
あの巨体からは想像できない一撃だった。俺はそのまま脇を抜け、背後へ回る。
――キュッ!
「……お?」
ブッチャが振り返った。
……遅い。
右足を引き、蹴りを放つ。
――ドガッ!
「……ぐっ」
確かに入った。
だが。
「……硬っ!?」
ブッチャの身体は、わずかによろめいただけだった。蹴ったこっちの足が痛い。
「……へえ」
ブッチャが自分の脇腹へ目を落とした。
「今の、君がやったの?」
「……他に誰かいんのかよ」
「ははっ! そうだよね!」
まだ笑っている。
……なるほど。力で倒すのは無理そうだ。
なら、まともにぶつからない。相手の動き終わりだけを狙えばいい。
そう考えた。
その判断が、甘かった。
*
――ゴォッ!!
ブッチャが突っ込んできた。俺は右へ避ける。
そのはずだった。
「……っ!?」
目の前に、机が滑ってきた。ブッチャが走りながら机を蹴り飛ばしたのだ。
――ガシャンッ!
「うおっ!」
進路を塞がれ、慌ててブレーキをかける。
……まずい!
「ははっ! そっちには行かせないよ!」
大きな影が迫る。俺は机の脇を強引に抜けようとした。
だが、ブッチャはそちらへ先回りしていた。
……読まれてる!?
「……ほらっ!」
――ゴォッ!!
巨大な腕が横から迫る。身体をひねってかわす。
避けた。
そう思った直後。
――グイッ!
「……っ!?」
制服の袖を掴まれた。
「捕まえた」
笑い声が、すぐ頭の上から聞こえた。
――ビリッ!
俺は無理やり身体を引いた。布が裂け、どうにか腕が抜ける。
だが、勢いを殺せなかった。
――ガァンッ!!
「……がはっ!!」
背中から机の角へ叩きつけられた。
――ミシッ。
身体の奥で、嫌な音がした。
……息が、吸えない。
口を開いても空気が入らず、背中から脇腹にかけて痛みが走る。膝が勝手に折れた。
……一発で、これかよ……!
視界の端が白く滲む。机に手をつこうとして、肘から力が抜けた。
「カズッ!!」
オニギリの声が聞こえた。
だが、返事どころじゃない。何とか息を吸おうとしても、喉から掠れた音が漏れるだけだった。
そのとき、視界に大きな影が差した。
「……ほら、危ないよ?」
ブッチャだ。
もう、次の踏み込みに入っている。
……っ、動け!
右足を床へ押しつける。だが、背中に激痛が走り、身体が思うように起き上がらない。
……くそっ!!
歯を食いしばり、無理やりA・Tの駆動をかけた。
――ギュンッ!
床を転がるように、横へ滑り出す。
直後。
――ドゴォンッ!!
俺が倒れていた場所へ、巨大な足が振り下ろされた。
机がひしゃげ、折れた脚が床を跳ねる。
……っぶねえ!!
あと一瞬遅れていたら、あの下敷きになっていた。
「……っ、げほっ! はぁっ……!」
壁際まで逃げ、どうにか身体を起こす。
背中がずきりと痛み、右腕は痺れている。破れた袖の先には血が滲んでいた。
……まずい。直接殴られたわけでもないのに、脚まで震えてやがる。
「……惜しいなあ」
ブッチャが残念そうに首を振った。
「もう少しだったのに」
さっきまでと変わらない、楽しそうな笑顔。
俺は痛む背中を押さえながら、そいつを見上げた。
……冗談じゃねえ。
こんなの、もう一発もらったら終わりだろ。
「……なあ、カズくん」
ブッチャが、ゆっくり近づいてくる。
「君、速いよ。確かに速い」
床を踏むたび、車輪が低く唸る。
「でもさ」
ブッチャは、俺の背後にある壁を指差した。
「走る場所がなくなったら、どうするの?」
「…………」
……そういうことか。
こいつは俺の逃げ道を読み、机と自分の身体で塞いでいた。小回りが利かないんじゃない。小回りする必要のない場所へ追い込んでいたんだ。
しかも、あの巨体であの加速だ。直線で逃げ切ろうにも、十メートルもない教室じゃ十分に速度を乗せられない。下手に近づけば、あの長い腕が飛んでくる。
……くそ。
速さでは勝っているつもりだった。けれど、相手の方がずっと上手く、この場所を使って戦っている。
……やっぱり、強えな。
原作序盤の敵だからと、どこかで侮っていた。その代償が、背中の痛みだった。
「……おい、カズ!」
オニギリが叫ぶ。
「もうやめろ! あんなのまともに相手してたら――」
「……大丈夫!」
俺は答えた。だが、強がり半分だった。
ブッチャが再び前へ出る。壁まで、あと数歩。
さっきと同じように避ければ、また追い込まれる。
……どうする。
俺は、目の前のブッチャを見た。あいつは俺が逃げる先を読んでいる。先に動き、そこを潰している。
なら。
……こっちも、同じことをやればいい。
*
ブッチャが右腕を持ち上げた。俺は、その場から動かなかった。
「……ん?」
あいつの視線が俺の左へ向く。
……そっちへ逃げると思ってるな。
さっきまでの攻防が頭をよぎる。右腕を振る前には肩が開く。振り返るときは左足を踏み直す。巨体が動くたび、必ず重心が先に移る。
何度も追い込まれたおかげで、嫌というほど見てきた動きだ。
……なら、先に行ける。
俺は右へ踏み込んだ。
――キュッ!
「……っ!?」
ブッチャの腕が空を薙ぐ。すでに俺は懐へ入り、脇腹へ短く蹴りを入れて離れていた。
――ドガッ!
「……くっ!」
あいつが振り返る。左足を踏み直す、その直前に、俺は足の外側へ滑り込んだ。
「……なっ!?」
ブッチャの身体が傾く。伸びてきた腕の内側を抜け、背後へ回った。
「……何だよ、君……!」
……見える。
次の踏み込み。膝が沈んだ瞬間、脚の外側を払う。
――ガッ!
倒れない。けれど、勢いは死んだ。
ブッチャが苛立ったように腕を振り上げる。その肩が開ききる前に、腕の付け根へ蹴りを入れた。
――ドッ!
「……ぐっ!?」
拳が俺の頭上を通り過ぎる。
……そうか。
力で止める必要なんてない。
あいつが動こうとする、その瞬間を潰せばいい。
「……くそっ! 何で……!」
ブッチャが再び踏み込む。俺はその一歩を先に潰す。
――ガッ!
「何で、そこにいるんだよ……!」
加速、制動、方向転換。三か月間、何度も繰り返した動きが、ようやく噛み合い始めていた。
……次だ。
右腕。振り上げる前に、肩を潰す。
左腕。振り抜く前に、懐へ潜る。
足。重心が乗るより先に、蹴り払う。
――ガッ! ドッ!
「……っ、くそ……!」
……まだだ。
踏み込ませるな。腕を振らせるな。
何もさせねえ。
お前が動こうとする、その全部を潰してやる。
……そこで、止まってろ。
「……僕が、動こうとすると……!」
巨大な足が床を噛む。俺はもう、その外側へ滑り込んでいた。
――ガッ!
ブッチャの顔が引きつった。
「……時が……止まっ……」
――ドガッ!!
蹴りが胴へ入る。巨体が一歩、後ずさった。
……時が止まる?
そんなわけはない。けれど、動く前に何度も邪魔されたら、そう感じるのかもしれない。
……今の感覚、もう一度――。
「カズッ!! 前ッ!!」
オニギリの声に顔を上げた。
――ゴォッ!!
「……っ!」
巨大な拳が目の前を横切り、すぐ脇の壁へ叩きつけられた。
――ガンッ!
……っぶねえ!
少し気を逸らしただけでこれだ。読めるようになったからって、調子に乗れる相手じゃない。
それでも、確かな手応えはあった。
*
「……っ、はぁ……!」
ブッチャの呼吸が荒い。俺も、かなりきつかった。
急加速と急制動を繰り返したふくらはぎは熱を持ち、左足の車輪から嫌な音がする。
……長くは続けられねえな。
「……なあ、ブッチャ」
俺は少し距離を取った。
「もう終わりにしねえか?」
「……終わり?」
「ああ。安達と中山にはもう手を出さない。それで終わりだ」
ブッチャの顔が歪んだ。
「……君、何か勘違いしてない?」
「……ん?」
「僕はまだ、負けてないんだよ」
ブッチャがゆっくり身体を起こした。
「確かに、君の走りには驚いたよ。僕が動こうとするたび、邪魔されるなんて初めてだった」
そして、自分の腹を軽く叩く。
――パンッ!
「でもさ。君の蹴り、全然効いてないんだよね」
「……っ」
「何回当てたって、僕が倒れなきゃ意味ないでしょ?」
……くそ。
言い返せなかった。あいつの動きを封じることはできた。攻撃も何度も当てた。だが、あの巨体を倒すには足りない。
対して、俺の脚はもう限界が近い。
「……それに」
ブッチャの笑みが消える。
「ずっと逃げ続けられると思う?」
――ギュルルッ!
四つの車輪が、一斉に回転を上げた。
今までで一番強い踏み込み。巨体が真正面から迫る。左右には倒れた机、背後には壁。
「今度こそ捕まえるよ、カズくん!」
右へ逃げる。そう判断しかけて、思いとどまった。
……違う。また同じことを繰り返してどうする。
どれだけ避けても、蹴りが効かなければ勝てない。
だったら。
『お前、曲がれないって決めるの、ちょっと早くね?』
ケンの言葉が頭をよぎった。
……ああ。そうだったな。
俺はずっと、確実に止まれる速度でしか走ってこなかった。曲がる余裕を残すため、先にブレーキをかけていた。
だが、最初は立つことすらできなかった俺も、三か月かけて加速と制動を覚えた。シンとの勝負でも、イッキとの競走でも、ほんの一瞬だけ速度を繋げられた。
今は、ブッチャの次の動きも少し分かる。
……だったら、いつもと同じ場所で減速する必要があるか?
俺は床を蹴った。
いつもなら速度を落とす距離。
それでも、まだ踏む。
――ギュンッ!!
「……なっ!?」
景色が弾けた。ブッチャの巨体が、一息に迫る。
怖い。判断を誤れば、正面衝突だ。
だが、見える。
右足に乗った体重。沈んだ肩。俺を掴もうと広がる両腕。
……左。
腕が伸びきる直前、その外側へ身体を滑らせる。
――キィッ!
「……っ!?」
ブッチャが慌てて身体をひねった。追ってくるその動きに合わせ、右足をさらに踏み込む。
――ギュンッ!!
肩が動く。体重が右足へ移る。
……左!
考えるより先に、左足が床を蹴っていた。
「……な、何だ……!?」
自分でも驚いた。今までなら、動きを見てから足を出していたはずなのに。
だが、考えている暇はない。
――ギュンッ!!
ブッチャの足がわずかに滑る。崩れた体勢。がら空きになった懐。
……そこだ!
最後の一歩を踏み込み、右脚を引いた。
――その瞬間。
「……っ!」
身体が強張った。
速すぎる。肩から背中、太ももまで力が入りすぎて、振り抜くはずの脚が動かない。
……くそっ! ここまで来て――!
『カズくん、また力んでる!』
不意に、安達の声がよぎった。放課後の河川敷。
『速く走ろうとするとさ、すぐ肩に力入るんだよね』
『……じゃあ、どうすりゃいいんだよ』
『だから、力抜くの! 最後こそ!』
笑いながら腕をぶらぶらさせていた、あいつの姿。
……ああ。
俺は短く息を吐いた。肩を落とし、腰を回す。
無理に蹴りを振り回す必要なんてない。ここまで運んできた速度がある。
あとは――。
「……は、速すぎ……!」
ブッチャが腕を引き戻そうとする。
だが、そのときにはもう、俺は懐の内側へ滑り込んでいた。
「ま、待っ――!」
「待たねえよ」
右脚を振り抜いた。
――ドッ!!
「……がっ!?」
蹴りがブッチャの胴を撃ち抜く。
俺が乗せた速度と、ブッチャ自身が踏み込んできた勢い。その二つが、まともにぶつかった。
「……っ、ぐあああっ!?」
巨体がくの字に折れる。
――ドガァァンッ!!
ブッチャの足が床を離れ、積み上げられた机を巻き込んで壁へ叩きつけられた。椅子が跳ね、破片が床を滑る。
俺は左足で急制動をかけた。
――キィィッ!!
「……っ!」
車輪が滑り、身体が大きく傾く。足元から嫌な軋みがしたが、どうにか踏みとどまった。
……っぶねえ。
顔を上げる。教室は静まり返っていた。さっきまで騒いでいた連中も、オニギリさえも声を出さない。
倒れた机の向こうで、ブッチャが動かなくなっていた。
「……っ、はぁ……!」
膝が震える。蹴った右脚も、止まるために踏ん張った左脚も、まともに力が入らない。
それでも、俺はあいつを見据えた。
「……言ったろ」
荒い息の合間に、口元を上げる。
「お前を倒すって」
……勝った。
あのブッチャに。原作のカズが敗れた相手に、俺が。
何度も転んで、何度も起き上がって、三か月間走り続けてきた。その全部が、今の一撃につながった。
「……っしゃあ!!」
俺は、震える拳を突き上げた。
*
「……おいおい……」
オニギリが呆然と呟いた。周囲の男たちも、声を失っている。
夜の東中を仕切るあのブッチャが、年下の俺に倒されたのだ。
「……嘘だろ……」
「ブッチャが……?」
「……あいつ、何者だよ……」
ざわめきの中、俺はブッチャへ近づいた。
「……おい」
返事がない。
……大丈夫か? ちょっと、やりすぎたかもしれない。
そう思ったときだった。
「……っ、はは……」
小さな笑い声。
「……ははは……!」
ブッチャが、ゆっくり顔を上げた。口元には血が滲んでいる。
だが、笑っていた。
「……やるじゃないか、カズくん……」
「……おう」
俺は息を整えた。
「……まだやるか?」
「……ははっ」
しばらく俺を見つめていたブッチャは、やがて天井を仰いだ。
「……いや。僕の負けだよ」
その言葉が聞こえた瞬間、全身から力が抜けた。
……よかった。正直、もう一回と言われても厳しかったからな。
「……じゃあ、約束だ」
「……約束?」
「安達と中山には、もう手を出すな。商品を売らせるのも、イッキへの嫌がらせも全部なしだ」
「……そんなこと、まだ覚えてたの?」
「そのために来たんだけど」
ブッチャが、少しだけ笑った。
「……そうだったね」
それから、周囲の連中を見回す。
「……聞いたでしょ。あの子たちには、もう何もしないこと」
誰も言い返さなかった。
……これで、いい。ようやく肩の力が抜けた。
だが、ブッチャは俺を見上げたまま、口元を歪めた。
「……ただし」
「ん?」
「僕は、これで終わりにするつもりはないよ」
その目には、まだ悔しさが残っていた。
「夜王が、負けっぱなしなんて……格好つかないだろ?」
……なるほど。どうやら、これで全部終わりとはいかないらしい。
「……好きにしろよ」
俺は笑った。
「ただし、次は安達たちを巻き込むなよ」
「……ははっ。言うねえ、君」
ブッチャも笑った。けれど、その笑顔は最初に見たものとは違っていた。
「……覚えておくよ、カズくん」
*
「……で?」
校舎を出た途端、オニギリが俺の顔を覗き込んできた。
「……何だよ」
「お前、いつからあんな化け物になったんだ?」
「誰が化け物だ!」
「だってよ! あの化け物だぞ!? お前、途中からあいつに何もさせてなかったじゃねえか!」
オニギリが興奮して両手を振る。
「何かもう、あいつが動く前に全部分かってるみてえでさ!」
「……まあ、ちょっと上手くいっただけだよ」
「ちょっとってお前……!」
言い返しかけたオニギリが、不意に口を閉じた。
「……なあ、カズ」
「ん?」
「……すげえな、お前」
いつものふざけた調子ではなかった。
「……何だよ、急に」
「いや……何かさ。イッキもお前も、どんどん先に行っちまうなって」
「…………」
オニギリは、すぐにいつもの顔へ戻った。
「ま、俺だって負けねえけどな!」
「……へえ?」
「見てろよ! そのうちお前らがびっくりするくらいのライダーになってやるからな!」
「……ははっ!」
俺は笑った。
「楽しみにしてるよ」
オニギリも笑う。
そのときだった。
「……って、カズ!?」
「……あ?」
「お前、手ぇ血出てんじゃねえか!」
見ると、右手の甲が広く擦れて、ところどころ血が滲んでいた。指を開くと、皮膚が引っ張られてひりつく。
さっき机へぶつかったときのものだろう。
「……あー。大したことねえよ」
「大したことねえって、お前なあ……!」
オニギリが呆れた顔でため息をつく。
……まあ、帰ったらちゃんと洗っとくか。
*
その頃。
校舎の向かいの屋上で、一人の男が夜風に髪を揺らしていた。
炎の王、スピット・ファイア。
「……面白いね」
視線の先には、先ほどまで少年たちが戦っていた教室がある。
ブッチャの踏み込みを潰した、あの走り。相手が力を発揮する一瞬前に割り込む技術は、まだ粗削りながら興味深かった。
そして、最後の切り返し。
ブッチャが身体をひねった直後、カズの一歩は妙に早かった。
「……まだ荒削りだね。技術も経験も、正直まだまだ」
最後の蹴りの直前には、力みで動きも止まっていた。それでも、あの一瞬の踏み出しは――。
「……Aクラスのライダーにも引けを取らなかったかもしれないね」
スピット・ファイアは少年の足元を思い出す。傷だらけの、古いA・T。
「……あの靴で、ね」
小さく笑い、その名を口にした。
「……美鞍葛馬、か」
*
翌日の放課後。
「……カズくん!」
教室を出ようとしたところで、安達に呼び止められた。
「……おう、安達」
振り返ると、安達は何も言わずに俺の前へ立った。
「……何?」
「手」
「……は?」
「いいから、手ぇ見せて」
妙に真剣な顔だ。
言われるまま右手を差し出すと、安達は俺の手の甲をじっと見た。
「……やっぱり」
右手には、昨夜、傷を洗ってから自分で巻いた包帯が残っている。慣れない左手で巻いたせいか、手首のところが少し緩んでいた。
「……怪我してんじゃん」
「いや、これくらい大したことねえって」
「……へえ?」
顔を上げた安達が、にっこり笑った。
……あ。これ、怒ってるやつだ。
「カズくん。昨日、何て約束したっけ?」
「……えーっと」
「次もちゃんと競走するって約束したでしょ」
「……するつもりだけど」
「じゃあ、何でそんな怪我して帰ってくるかな!」
安達は大きく息を吐いた。
「……心配したんだから」
最後だけ、声が小さかった。
「……悪い」
俺は素直に謝った。安達はしばらく黙っていたが、やがて鞄を開いた。
「……ほら」
「ん?」
「緩んでるじゃん、その包帯。巻き直してあげる」
「……いや、自分でできるって」
「自分でやって、こうなったんでしょ」
「……ごもっともです」
安達は陸上部で使っているらしい救急ポーチから、ガーゼと包帯を取り出した。
俺の手首を支えながら、緩んだ包帯をほどいていく。傷が見えると、その指が少し止まった。
「……これで、大したことないって?」
「見た目ほどじゃねえよ」
「はいはい。もう分かったから、動かさないで」
ガーゼを替え、包帯を巻いていく。
さっきまであれだけ怒っていたのに、手に触れる指はずいぶん慎重だった。
「……痛い?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、ちょっとは大人しくしてて」
言い返せずにいると、安達は包帯の端を留め、俺の手をそっと持ち上げた。
「……はい。できた」
「……ありがとな」
「どういたしまして!」
いつもの笑顔が戻った。
だが、俺の手を放そうとして、安達はふと動きを止めた。
「……あ」
「ん?」
安達の指が、俺の小指に触れていた。昨日、指切りをした指だった。
「……約束」
小さく呟く。
「……ああ。次の勝負か?」
「……うん」
安達は小指を見つめたまま頷いた。
「昨日さ、カズくんと約束した後……ちょっと後悔したんだよね」
「……何を?」
「……指切りなんて、しなきゃよかったなって」
思わず顔を上げた。
「……何で?」
「だってさ」
安達が、困ったように笑った。
「そんな約束しなくたって、普通に学校来るじゃん。また走ろうって言えばいいだけじゃん」
「……まあ、そうだな」
「なのに、わざわざ指切りまでしてさ」
自分の小指を見つめる。
「……何か、すっごい怖くなっちゃったんだよね」
安達はそこで言葉を切った。
「……もし、約束守れなかったらどうしようって」
「…………」
「……バカみたいでしょ?」
笑おうとしているのに、上手く笑えていなかった。
俺はすぐに返事ができなかった。昨日、あいつが「ちゃんと来てよね」と言ったとき。あんな顔をしていた理由が、ようやく分かった気がした。
「……安達」
「……ん?」
「俺さ、昨日、結構怖かったんだよ」
「……え?」
「相手、めちゃくちゃでかいし。途中、一回捕まりかけたし」
「……ちょっと! そういうの聞いてないんだけど!」
「……まあ、今初めて言ったからな」
「もう!」
安達が頬を膨らませる。俺は少し笑って続けた。
「……でもさ。お前と約束したの、思い出したんだよ」
「…………」
「次も勝つって言っちまったからな。帰らねえわけにはいかねえだろ」
安達が目を丸くした。
「……何それ」
「……いや、別に」
「……ふふっ」
小さく笑う。
「……カズくんって、ほんとバカだよね」
「……お前、今日それ何回目だよ」
「何回でも言う!」
安達は笑った。けれど、その目が少し潤んでいるように見えて、俺は何となくそれ以上からかえなくなった。
「……でも」
安達が、もう一度俺の手を握った。
「……ありがとね」
「……ああ」
「中山も、すっごい喜んでたよ。もうあの人たちに何もしなくていいんだって」
「……よかったな」
「うん!」
安達は頷いた。そして、少し照れたように笑う。
「……でも、一番嬉しかったのはさ」
「……ん?」
「……カズくんが、ちゃんと帰ってきたことかな」
「…………」
……おいおい。そんなこと言われたら、こっちが困るだろ。
「……あー」
俺は思わず頭を掻いた。
「……そう改まって言われると、何か恥ずかしいな」
「……へえ?」
安達の目が、いたずらっぽく細くなる。
「カズくん、照れてる?」
「……照れてねえよ」
「ふふーん?」
「……何だよ」
安達は俺の顔をじっと見つめていたが、突然、何か思いついたように手を叩いた。
「あっ! 決めた!」
「……は?」
「決めました!」
……嫌な予感がする。
「今日からカズくんのこと――」
安達は、びしっと俺を指差した。
「カズ様って呼ぶ!!」
「…………」
……は?
「……いや、ちょっと待て!」
「カズ様ぁ!」
「連呼すんな!!」
安達が、お腹を抱えて笑い出した。
「だって、カズくん格好いいんだもん!」
「だからって様って何だよ! 恥ずかしいだろ!」
……こいつ。
さっきまであんなにしおらしかったくせに。あっという間に、いつもの調子に戻りやがった。
「……ふふっ」
ひとしきり笑った後、安達が少しだけ顔を上げた。
「……ねえ、カズくん」
「……ん?」
「……ほんとに、ありがと」
さっきまでとは違う、静かな声だった。
俺が何か言う前に、安達はまた笑った。
「……カズ様」
今度は、からかうような調子ではなかった。
「…………」
……ああ。ずるいな、こいつ。
そんなふうに言われたら、何も言い返せねえじゃん。
「……なあ、安達。学校では普通に呼んでくれねえ?」
「えー、何で?」
「……恥ずかしいから」
安達が、にやりと笑う。
「カズ様、照れてる?」
「……もう好きにしろよ」
「やった! 言質とった!」
「おい、今のなし!」
安達が笑う。その笑顔を見て、俺もつられて笑ってしまった。
「……あ、そうだ」
安達が、俺の目の前へ小指を差し出した。
「次の勝負、今度こそ絶対だからね!」
「……また指切りかよ」
「文句言わない!」
仕方なく、俺も小指を絡める。
「……で、いつ走る?」
「カズくんの怪我が治ってから!」
「もうほとんど治ってるって」
「駄目! ちゃんと治して!」
「……はいはい」
安達が満足そうに笑った。
「ふふっ。じゃあ、それまで待っててあげる」
そして、少しだけ顔を近づける。
「……今度は負けないからね、カズ様!」
「……望むところだよ、安達」
絡めていた小指が、離れた。
*
その日の夜。
自室のベッドに寝転がった途端、背中が痛んだ。
「……いってて」
太ももも、ふくらはぎも、無理をしたらしい。足元に置いたA・Tを引き寄せると、左足のホイールがひどく削れていた。
「……こりゃ、そろそろ何とかしねえとな」
最後の切り返しで車輪が滑った。あれがもう少し早かったら、勝ったのはブッチャの方だったかもしれない。
……危なかったな。
それでも、三か月前は立つことすら満足にできなかった俺が、あいつに勝った。
「……ははっ。やれるじゃねえか、俺」
思い出すのは、最後の一歩だ。ブッチャが身体をひねったとき、考えるより先に足が動いていた。
狙ってもう一度出せと言われたら、まだ自信はない。
「……時が、止まる……か」
ブッチャの言葉を繰り返す。本当に時間が止まったわけじゃない。それでも、相手が動き出す前に動けるなら――。
……もう一度、試してみたい。
足を動かした瞬間、ふくらはぎに痛みが走った。
「……いってえ! 駄目だ、今日は寝よう」
そのとき、携帯が震えた。安達からだ。
『カズ様、明日は筋肉痛で遅刻しないようにねー!笑』
「……あいつ!」
思わず吹き出し、返信する。
『次の勝負、覚悟しとけよ』
すぐに返事が来た。
『望むところです、カズ様!』
……調子いいな、ほんと。
携帯を置き、もう一度A・Tを見る。左足の車輪を指で回すと、かすかに引っかかった。
「……まずは、こいつを何とかするか」
次は、もっと上手く走りたい。あの速度も、掴みかけた感覚も、たまたまで終わらせたくなかった。
……ま、筋肉痛が治ってからだけどな。
時の技は「相手の動き出しを潰す」って解釈なんですが、ベヒーモス戦の走馬灯のくだりはどうやってやるのか何度読んでも謎です(笑)
有識者の方々、教えてください!