「カズくーん! おっはよー!」
朝の教室。鞄を机に置いたところで、安達が顔を覗き込んできた。
「おう。朝から元気だな」
「ふふーん! そりゃもう!」
俺の机に両手をつき、わざとらしく背筋を伸ばす。
「この前は大変お世話になりました、カズ様!」
「お前、まだそれ言ってんのかよ」
「えー? 命の恩人に敬意を払ってるんですけどぉ?」
「そのにやけ面で言われてもな」
「えへへ、バレた?」
否定しろよ。
ブッチャとの一件が片づいてから、安達はすっかり調子を取り戻していた。いや、前より遠慮がなくなってないか?
「あ、まだ包帯してる」
返事をするより早く、手を取られた。
安達の指が包帯の端へ触れる。さっきまで笑っていた顔が、少しだけ近づいた。
「……まだ痛い?」
「もう大丈夫だって」
「ほんとに?」
「前も聞いてただろ、それ」
「何回だって聞きますー」
何だ、その理屈。
安達は俺の指先まで確かめると、ようやく手を放した。
「うん。少しはよくなってるかな」
「先生みたいなこと言うな」
「カズ様専属の看護師さんですから!」
「お前、陸上部だろ」
「臨時です!」
「資格なさそうで怖えな」
「失礼な!」
「エミリ、おはよ」
やってきた中山が、俺たちを見て笑った。
それから、こちらへ小さく頭を下げる。
「カズくん、この前は本当にありがとう。もう商品を売らなくていいって、連絡が来たの」
「……そっか」
「部活の子たちにも伝えられたし。みんな、安心してたよ」
ブッチャの奴、約束は守ったらしい。
「いや、気にすんなって」
「駄目だよ、中山。それじゃ感謝が足りません!」
安達が横から割り込んできた。
「ありがたやー、我らがカズ様に栄光あれー!」
「変な宗教作るな!」
「ほら、中山も!」
「えっ、私も?」
「増やそうとすんな!」
中山が吹き出す。安達も机に手をついて笑っていた。
少し前までは、携帯が鳴るだけで顔を強張らせていたのに。
俺は包帯の巻かれた手を机の下へ引っ込め、二人が笑い終わるのを待った。
*
ただ、ブッチャの方は、まだ終わりにする気がなかったらしい。
放課後、使いに来た男が告げたのは、正式なパーツ・ウォウでの再戦だった。今度は夜王のエンブレムを賭けるという。
返事をする前に、隣の馬鹿が食いついた。
「お前、もう勝ったんだろ? だったら次は俺様だ!」
「どういう理屈だよ」
「強えんだろ、そいつ。俺もやってみてえ!」
俺の包帯を指差し、勝手に話を進めていく。
「カズは見てろって。お前の分までぶっ飛ばしてやっからよ!」
「俺の仇みたいになってんじゃねえか」
使いの男も困っていたが、連絡を受けたブッチャは構わないと答えたらしい。
夜の東中。障害物を越え、最後に二宮金次郎像へ触れた方が勝ち。
イッキは話を聞き終える前から、もう靴紐を締め直していた。
*
「せーのっ! もうちょっと!」
「お前ら、ほんとに動かす気かよ!」
夜の校庭で、俺はプレハブの壁に肩を押しつけていた。
応援に来た安達と中山、それに女子陸上部の連中まで、プレハブを押している。オニギリも向こう側で唸っていた。
勝負は、もう最後の通路だ。
先頭はブッチャ。イッキはその背中に迫っているが、あの巨体に道を塞がれ、抜く場所がない。
ならば、と動き出したのが安達だった。
「ほら! こっちを塞いじゃえば、あいつ止まるでしょ!」
仲間の援護も、障害物を動かすのも、お互い自由。それがブッチャの提示したルールだ。
――ギギギッ!
台車が軋み、プレハブが通路の出口へ張り出した。
……そうだ。
原作でも、ここでブッチャの足が止まって――。
「へへーん! これでもう通れないでしょ!」
安達が顔を上げた、そのときだった。
「なるほどね。でも、そう簡単に足を止められてあげる気はないよ!」
ブッチャが壁へ突っ込んだ。
――ドンッ!
四輪が壁を噛み、巨体が斜めに駆け上がる。
そのまま壁を蹴った影が、俺たちの頭上を横切った。
――ゴォンッ!
屋根が鳴る。ブッチャはプレハブを踏み越え、向こう側へ着地した。
「ええっ!? ちょっと、あんなのアリ!?」
「……アリ、なんだろうな」
俺も、押していた肩を離した。
通じなかった。
俺の知っている展開なら、ここで止まるはずだったのに。
「この前、カズくんに散々走り回されたからね!」
振り返ったブッチャが笑った。
……あれから考えてたのか、こいつも。
「イッキ! まだ――」
声を上げかけて、止まった。
イッキが笑っている。
前を塞ぐプレハブを見て、なぜか、さっきより楽しそうに。
「おい、クソデブ! 上も見とけよ!」
――タンッ!
地面を蹴った身体が、屋根へ届く。
だが、着地しない。
――ガンッ!
片足が狭い縁を叩いた。
そこから、さらに上へ。
「……は?」
俺の口から、間の抜けた声が漏れた。
河川敷じゃ、あんな踏み切り一度もできてなかっただろうが。
イッキはブッチャの頭上を飛び越え、校庭へ降り立つ。着地で膝を沈め、そのまま地面を蹴った。
「いっけえええ、イッキくん!」
安達が叫ぶ。
俺も、気づけば声を張り上げていた。
「そのまま行け!」
伸ばした手が、二宮金次郎像に触れた。
少し遅れて、ブッチャの駆動音が止まる。
「……っしゃあああ! 俺様の勝ちだ!」
イッキが拳を突き上げた。膝は土まみれで、息も上がっているくせに、顔だけは得意満面だ。
「何なんだよ、君は! あんな跳び方、普通しないだろ!」
「普通じゃねえから勝ったんだろ!」
ブッチャが口を曲げる。
だが、やがて胸元からエンブレムを外し、イッキへ放った。
「約束だからね。持っていきなよ、カラス」
「へっ! 悪いな、クソデブ!」
「それ、いい加減やめない?」
俺は笑いながら、二人のところへ歩いた。
知っている展開と違っても、こいつは勝手にその先へ跳んでいく。
こっちが心配している間にも、ずっと上を見ていやがる。
そのときだった。
――キュンッ。
頭上で、小さな車輪の音がした。
*
「見事だったね。特に、最後の跳躍」
校舎の屋上に、一人の男が立っていた。
明るい髪。整った顔立ち。片手をポケットに入れたまま、月明かりの下からこちらを見下ろしている。
スピット・ファイア。
……本当に、来た。
ここに現れることは覚えていた。
それなのに、声を聞いた途端、背筋が伸びた。
「誰だよ、あんた。さっきから見てたのか?」
イッキが顔を上げる。
「まあね。僕の名は、スピット・ファイア」
男が屋上の縁へ歩み寄った。
足元のA・Tが、甲高い音を立てる。
「炎の道の称号を持つ者だ」
――ゴォッ!
壁を駆け下りた身体が、地面へ降りる。
次の瞬間、熱風が頬を打った。
「うおっ!?」
イッキが身を引く。
その足元を朱色の軌跡が走り、校庭の向こうまで伸びた。
目で追った先で、男はもう向きを変えていた。
……いつ曲がった?
あの速度からなら、一度は減速するはずだ。
けれど、車輪が滑る音すら聞こえなかった。
――ギュンッ!
揺らめく光が視界を横切る。
遅れて届いた熱が、頬に残った。
――キュンッ。
ほんの数歩先で、スピット・ファイアが止まる。
髪を軽く直す顔は、屋上にいたときと変わらない。
「……桁が違え……」
イッキが呟いた。
俺は男の足元から目を離せなかった。
形は、俺たちのA・Tとそう変わらない。それで、あの速度と切り返し。
炎の王。
いつか辿り着きたいと思っている道の、今の頂点。
思わず拳に力が入った、その直後。
「ちょっと待てぇぇぇ!!」
安達が走ってきた。
「イッキくんに何してんの、あいつ!」
「おい、安達――」
「何さらすんじゃ、このクソボケがあああ!!」
――ドガッ!
両足がスピット・ファイアの背中へ炸裂した。
男は片足を滑らせ、どうにか踏みとどまる。
「えっ!? ちょ、ちょっと!?」
……お前、何してんの!?
「イッキくん燃やそうとしたでしょ!」
「いや、僕は別に――」
「安達、落ち着け!」
俺は慌てて間へ入った。
「火をつけたんじゃねえって! 車輪が摩擦で熱を出して、炎みたいに見えたんだよ!」
「……え?」
安達がイッキを見る。
「燃えてない?」
「燃えてねえよ!」
スピット・ファイアは両手を上げたまま、困った顔をしていた。
「そういうことなら、早く言ってよ!」
「言う前に蹴ったの誰だよ!」
この前まで上級生に怯えていた奴が、今日は炎の王へドロップキック。
元気になったにも程があるだろ。
「ご、ごめんなさい! でも、紛らわしいことしないでよね!」
「ははっ。気をつけるよ」
男は背中をさすりながら笑った。
俺の方が、よっぽど心臓に悪かった。
*
「そうそう、南樹くん」
スピット・ファイアがイッキへ向き直った。
「A・Tの世界には、八本の道と、その頂点に立つ八人の王がいる」
「八人の王?」
「僕もその一人さ。炎の道を走る、炎の王」
男の視線が、イッキの持つエンブレムへ落ちる。
「王たちは、それぞれの道を極めるためのレガリアを持っている。君が今日手に入れたものは、その世界への小さな一歩だ」
「へえ」
イッキがエンブレムを裏返し、また表へ戻した。
「じゃあ、その王って奴らを全部ぶっ倒しゃ、一番になれんのか?」
「ずいぶん簡単に言うね」
「やる前から無理とか決めつけんの、つまんねえだろ!」
男が目を細める。
「君がそれを手にし、王座に座るべき男なのか。その翼が、蝋で塗り固めた偽りの翼なのか――」
「要するに、俺が飛べるかどうかってことか?」
イッキが口元を吊り上げた。
「だったら見てりゃ分かんだろ。俺様は、飛べるぜ?」
「……楽しみにしているよ」
スピット・ファイアが笑った。
それから、その視線が俺へ向く。
「それと、君。この前、ブッチャ君とやり合っていた子だろう?」
「……ええ。見てたんですか?」
「少しだけね」
男の目が、俺のA・Tへ落ちた。
「君も、なかなか速いね」
「……ありがとうございます!」
思わず背筋が伸びた。
あの走りを見せた人に、速いと言われた。
顔が緩みそうになるのを堪えていると、スピット・ファイアは少しだけ首を傾げた。
「……いや。走る速さだけじゃないな」
「え?」
足元へ向いていた視線が、俺の顔へ戻る。
「君は、反応そのものが速いんだ」
「……反応、ですか?」
「ブッチャ君との最後の攻防だよ。彼が動いてから、君が動き始めるまでの間が、ずいぶん短かった」
あの巨体が踏み込んできた瞬間を思い出す。
次に動く方向が分かった。そう思ったときには、もう足を出していた。
「あの距離で間に合わせたのは、少し驚いたよ」
「……自分じゃ、あんまり分からないんですけど」
「そうだろうね。本人には、間に合って当然に感じられるのかもしれない」
……当然、だったか?
あのときは必死だった。
見てから動いたのか。動き始めてから、そうしようと思ったのか。
思い返しても、その順番がはっきりしない。
男は穏やかに笑って、俺のA・Tへ目を戻した。
「今度は、それをもっと速いままやってごらん」
「……速いまま?」
「うん。君なら、もっと速度を残して切り返せる場面があるはずだ」
あの距離で、さらに速く動く。
ブッチャの腕をかわしてから加速するんじゃなく、かわしたときには、もうその先へ――。
「その反応に、走りが追いついたら」
スピット・ファイアの口元が、少し緩んだ。
「君を捕まえるのは、ずいぶん難しくなりそうだね」
「…………」
俺は、自分の靴を見下ろした。
そんな走りが、できるのか。
この足で。
「ただ、その前に」
「……はい?」
「靴は直した方がいい。そちらは、もう限界みたいだからね」
左の車輪をわずかに動かす。
小さな引っかかりが、靴底へ伝わった。
「……ですよね」
男が笑う。
俺も少し笑ってから、もう一度その顔を見上げた。
直したら。
その先を、試せるだろうか。
「……ありがとうございます!」
思わず頭を下げた。
もっと聞きたいことはあった。
あの速度から、どうやって曲がっているのか。どうすれば、さっきのように足を運べるのか。
けれど、顔を上げたときには、スピット・ファイアはもう背を向けていた。
「じゃあ、また」
――キュンッ。
校舎の壁を軽く蹴り、上へ駆けていく。
屋上の縁を越えた影は、そのまま夜空に紛れた。
……行っちまった。
俺は、誰もいなくなった屋上を見上げた。
原作で知っていたのは、炎の王としての姿と、その先に待つ運命だった。
けれど、今会ったのは、俺の走りを見てくれて、安達に蹴られて困っていた一人の男だ。
また会いたい。
次は、あの人が言った走りを、少しでもできるようになってから。
「おい、カズ! 聞いたか!」
イッキが横から肩を叩いた。
「八人の王だってよ! こりゃ、やること増えちまったな!」
「お前、今勝ったばっかだろ」
「だから何だよ!」
夜王のエンブレムを握って、あいつは笑った。
「俺様は、こんなとこで止まる男じゃねえからな!」
「……ははっ。そうだな」
俺も左足の車輪を軽く回した。
また、小さな引っかかりが靴底へ伝わってきた。
……まずは、こいつを何とかしねえとな。
*
「ねえ、カズくん」
帰り道、安達が俺の顔を覗き込んできた。
「さっきの人みたいに、走れるようになりたいの?」
「ああ」
「ふーん。やっぱり」
「何だよ」
「さっきから、ずっとにやにやしてる」
頬へ手をやると、安達が笑った。
「マジかよ」
「マジマジ。分かりやすーい!」
否定できなかった。
頭の中で、あの朱色の軌跡が何度も走っている。
「じゃあ、あたしも練習しよっと」
「お前もA・T?」
「違う! カズくんとの競走!」
安達が俺の前へ回り込み、指を突きつけた。
「それと、また無茶して怪我したら、カズ様ファンクラブ会員第一号として許しませんからね!」
「何だよ、そのファンクラブ!」
「会長兼会員第一号です!」
「一人しかいねえじゃねえか!」
「これから増やすの!」
「勝手に増やすな!」
安達が、けらけら笑う。
俺もつられて笑った。
「あ、あたしこっちだから!」
分かれ道に差しかかると、安達が立ち止まった。
「じゃあ、また学校でね!」
「おう。またな!」
手を振ると、安達も大きく振り返した。
それから数歩走ったところで、またこちらを向く。
「次の勝負までに、ちゃんと怪我治しといてよー!」
「分かってるって!」
「約束だからねー!」
返事をする前に、安達は走り出していた。
……ほんと、よく走る奴だな。
俺は包帯の巻かれた手を一度開いてから、ポケットに突っ込んだ。
次の勝負までには、ちゃんと治しておかないとな。
*
その夜。
机の上に置いたA・Tの車輪を、指で回してみた。
――ギリッ。
「……あー、終わったな」
車輪が妙なところで止まった。
もう一度回してみたが、今度は半回転もしない。
……そういや、スピット・ファイアも言ってたな。
『靴は直した方がいい。そちらは、もう限界みたいだからね』
まさか、ちょっと見ただけでここまで分かるとは。
……やっぱ、すげえ人だ。
叩けば直るかな、と一瞬思ったが、さすがにやめておく。
みかんさんに怒られる前に、自分から連絡しておこう。
俺は携帯を取り出し、トーク画面を開いた。
『みかんさん、折り入ってお願いが』
送信。
『断る』
「……早っ!」
まだ用件言ってねえぞ。
『まだ何も言ってないんですけど』
『どうせろくでもねえことだろ』
『A・Tが壊れまして』
『ほらな』
……読まれてる。
『直せます?』
『実物見なきゃ分かんねえよ』
『じゃあ明日持っていってもいいですか?』
『いいけど何か奢れよ』
『うまい棒でいいですか?』
『死ね』
『十本なら?』
『うっせえ。学校終わったら来いよ。遅れたら殺す』
『了解です!』
携帯を置こうとしたところで、また通知が来た。
『めんたい味な』
「……食うんかい!」
思わず吹き出した。
『了解です。十本買っていきます』
今度こそ携帯を置こうとすると、もう一通。
『あとお前、明日は時間空けとけよ』
「……ん?」
『修理、結構かかりそうなんですか?』
『靴見てからだな』
『ま、それとは別にちょっと付き合え』
「……え?」
『何にですか?』
『明日教える。じゃあな』
……おい。
何に付き合うかくらい教えてくれよ。
『せめてヒントくらいは?』
送信。
すぐに既読がついた。
だが、返事は来ない。
「……無視かよ!」
俺は携帯を机に置き、動かなくなった車輪を眺めた。
……修理代、うまい棒十本じゃ済まねえ気がしてきた。
────────────────────────
……今思い出しても、腹が立つんだよね。
カズくんは、捕まえたと思ったところからするりと抜けていく。
カラスは、人の頭の上を平気な顔で飛び越えていく。
夜王なんて呼ばれていた僕が、二人続けて好き勝手されちゃったんだから。
そりゃ、次こそはって思うじゃないか。
どうすれば、あの速さを捕まえられるか。
どこを走れば、カラスが降りてくるより先に着けるか。
商売のことなんか、考えている暇がなくなったよ。
……ふふっ。
でも、不思議だよね。
負かしてやりたい相手に会うのが、だんだん楽しみになってくるんだから。
気づけば、二人と走る日は、いつもより早く靴を履いていた。
夜王だった頃は、僕が通ればみんな道を空けた。
あの二人は、ちっとも空けてくれない。
……悔しいけどね。
そっちの方が、ずっと面白かったんだ。
これにて2章完結です!
次はみかん回をお楽しみください