第17話 ボロ靴とめんたい味(前編)
世の中には、知っているだけじゃどうにもならないことがある。
例えば、将来とんでもない大物になる奴を知っていたところで、今の俺がそいつに勝てるわけじゃない。
どれだけ高性能なエンジンの仕組みを知っていようと、自分で組み立てられるわけでもない。
そして、何より。
「……これ、どうすりゃいいんだ?」
放課後。
俺は机の上に広げた金属部品を眺めていた。
ホイール、軸受け、駆動系の部品。それに、何に使うのかよく分からない小さな金具。
昨夜、ブッチャから受け取ったものだ。
『あんな靴で僕に勝ったんだろ? もう少しまともな物を履いたらどうなるのか、気になるじゃないか』
あいつはそう言って、余り物のパーツを寄越してきた。
もっとも、「次は絶対勝つからね!」だの、「靴のせいで負けたなんて言い訳はさせないよ!」だの、散々言われたけどな。
安達たちへの嫌がらせをやめる約束も、ちゃんと守ってもらわなきゃ困る。パーツをもらったくらいで、今までの行いが帳消しになるわけじゃない。
それはそれとして、使えるものはありがたく使わせてもらおう。
……と思ったんだけど。
「サイズ、違くね?」
古いホイールと新しいものを並べる。
どう見ても大きさが合わない。
いや、そもそもこれ、同じ場所に取り付ける部品なのか?
小さな金具を一つ摘まんでみた。
「……何だ、この謎の輪っか」
原作知識って、こういうとき本当に役に立たねえな。
漫画で覚えているのは王の名前や戦いの展開ばかり。A・Tの分解整備なんて、まともに描かれていた記憶がない。
しかも、昨夜から左の車輪はまともに回らなくなっている。
下手に弄って完全に壊しても困る。
「……ま、今日は詳しい人に任せるか」
俺は部品を箱へ戻し、鞄に詰めた。
それから、机の端に置いておいた小さな袋を手に取る。
中身は、うまい棒が十本。
もちろん、全部めんたい味だ。
昨夜のメッセージを思い出す。
『学校終わったら来いよ。遅れたら殺す』
時計を確認した。
「……おっと」
ここで殺されるわけにはいかねえな。
俺は鞄を肩に掛け、家を出た。
*
野山野家のチャイムを鳴らすと、ほどなくして玄関が開いた。
「おう、来たか」
出てきたのは、みかんさんだった。
ゆったりしたシャツに短めのパンツ。短い髪は、襟足のあたりが少し跳ねていた。
「こんにちは、みかんさん」
「おう。靴は?」
「ばっちり持ってきました」
「なら上がれ」
言われるまま靴を脱ごうとしたところで、みかんさんの視線が俺の手元に落ちた。
「……ん? お前、それ何だよ」
「え? これですか?」
俺は袋を持ち上げた。
「約束の品です」
「……は?」
「うまい棒、十本。全部めんたい味です」
「…………」
みかんさんが袋を見つめる。
それから、ゆっくりと俺の顔を見た。
「お前、本当に買ってきたのかよ」
「そりゃ買いますよ。味まで指定されたんですから」
「いや、そうだけどよ……」
みかんさんの肩が、小さく震えた。
「……ぷっ」
「何ですか?」
「お前、ほんっと馬鹿だな!」
「ひどくないですか!?」
「普通あんなの冗談だって分かんだろ!」
「『遅れたら殺す』って人に言われたら、冗談かどうか分からないじゃないですか」
「誰が殺すんだよ!」
「みかんさんです」
「うっせえ!」
――ゴツッ!
「いって!」
……理不尽すぎる。
みかんさんは笑いながら袋を奪い取ると、中を覗いた。
「……マジで全部めんたい味じゃねえか」
「お好きなんでしょ?」
「まあ、嫌いじゃねえけどな」
一本取り出し、そのまま袋を開ける。
サクッ。
「……うん。うめえ」
「……食うんかい」
「何だよ。お前が持ってきたんだろ」
みかんさんは何食わぬ顔でもう一口かじった。
それから、俺にも一本差し出してくる。
「ほら、お前も食えよ」
「……俺が買ってきたんですけどね」
「ああ?」
「いただきます!」
サクッ。
……うん。
久しぶりに食うとうまいな、これ。
横では、みかんさんも同じようにかじっている。
……しかし、何だろうな。
炎の王と出会った翌日に、うまい棒を食いながらA・T修理の相談って。
我ながら、随分と庶民的な世界を生きてるもんだ。
*
「……で、見せてみろよ」
リビングへ通され、俺がA・Tとパーツを並べると、みかんさんは床に腰を下ろした。
「お願いします」
「つーか、前にも言ったよな? その靴、早いとこ直せって」
「……はい」
「何で悪化してんだよ」
「色々ありまして」
「お前の『色々』は、ろくなことじゃねえからな」
返す言葉もございません。
みかんさんが左のホイールを指で回す。
――ギリッ。
「……うわ」
思い切り顔をしかめられた。
「お前、これで昨日も走ったのか?」
「……まあ」
「馬鹿か! よくコケなかったな!」
「いやあ、我ながら頑張ったなと」
「褒めてねえよ!」
みかんさんはフレームを裏返し、今度は俺の手元をちらりと見た。
「つーか、手の怪我は?」
「ああ、こっちはだいぶ良くなりましたよ」
包帯の巻かれた手を軽く開いてみせる。
「無茶すんなよ。靴も手も壊してたら、何で走んだよ」
「……足ですかね」
「殴るぞ」
「もう怪我してるんで勘弁してください」
みかんさんは呆れたように鼻を鳴らし、パーツの箱へ手を伸ばした。
「……ん? お前、これどこで手に入れた?」
「もらい物です」
「誰に?」
「ブッチャって奴に」
「……ブッチャ?」
みかんさんが眉を上げる。
「ああ、あのでっけえ奴か」
「知ってるんですか?」
「名前くらいはな。で、何でそいつがお前にパーツ寄越すんだよ」
「この前、ちょっと勝負して」
「……勝負?」
「勝ったんで、余ってるのを分けてもらいました」
「…………」
みかんさんが顔を上げた。
「お前、ブッチャに勝ったのか?」
「はい。一応」
「……マジで?」
「何ですか、その反応」
「いや、あいつ結構やる奴だろ。お前が?」
「何か失礼じゃないですか?」
「事実だろ」
即答かよ。
だが、みかんさんは少し考えたあと、口元を吊り上げた。
「……へえ。やるじゃねえか、カズ」
「……どうも」
お。
珍しく素直に褒められた。
「で、どうやって勝った?」
「……え?」
「どんな走りしたのかって聞いてんだよ」
「まあ、急減速から切り返したり、相手の死角へ回り込んだり……最後は勢い任せでしたけど」
「……あー」
みかんさんが俺のA・Tを見下ろした。
「なるほどな」
「何ですか?」
「そりゃ壊れるわ」
「……ええっ!?」
みかんさんはホイールの外側を指でなぞった。
「ここ見ろよ。片側だけ妙に削れてんだろ」
「……ああ」
「急減速した状態で、無理やり方向変えてんだよ。しかも何度もな」
……おいおい。
そこまで分かるのかよ。
「その走りが全部悪いってわけじゃねえけど、今の靴じゃ負荷に耐えきれてねえんだよ」
みかんさんはブッチャからもらったパーツを二つ取り上げた。
「こっちは使える。でも、こっちは規格が違う」
「……やっぱりですか」
「そりゃそうだろ。あいつ、四輪使ってんだろ?」
「はい」
「全部そのまま使えるわけねえじゃん」
俺が一時間悩んでいたことを、ものの数分で判断しやがった。
「……みかんさん」
「あ?」
「やっぱ詳しいですね」
「当たり前だろ」
みかんさんが、少しだけ得意げに顎を上げた。
「お前も乗るなら、これくらい覚えとけよ」
「はい、先生」
「誰が先生だ!」
――ゴツッ!
「いって!」
……怖え先生だな。
「それにさ、お前、最高速ばっか気にしてんだろ」
「……まあ、否定はしませんけど」
「速く走れても、まともに曲がれなきゃ意味ねえぞ」
昨夜のスピット・ファイアの言葉が頭をよぎった。
『君なら、もっと速度を残して切り返せる場面があるはずだ』
「……ああ」
「何だよ」
「いや、昨日も似たようなこと言われまして」
「誰に?」
「スピット・ファイアって人です」
みかんさんの指が止まった。
「……あいつに会ったのか?」
「はい。イッキが勝負した後に来て」
「……へえ」
みかんさんは一瞬だけ考えるような顔をしたが、すぐに作業へ戻った。
「ま、間違っちゃいねえな。その話は後だ。まず靴直さねえと、練習どころじゃねえだろ」
使える部品を右へ、使えない部品を左へ。
手際よく分け終えると、みかんさんは立ち上がった。
「足りねえのが軸受けと固定具。ホイールも替えた方がいいな」
「……結構ありますね」
「買いに行くぞ」
「……え? 今からですか?」
「今日直したいんじゃねえの?」
「まあ、そうですけど」
「だったらさっさと準備しろ。どうせ買い物にも出る予定だったしな」
……あ。
「そういや昨日、ちょっと付き合えって言ってましたね」
「おう。家の買い物。米とか色々買わなきゃなんねえんだよ」
「……なるほど」
もっと恐ろしい用事かと思ってた。
そう言うと、みかんさんがにやりと笑った。
「何だ? 期待してたのか?」
「……いや、別に」
「ふーん?」
……くそ。
何だよ、その顔。
「ま、荷物持ちくらいはしてもらうからな」
「了解です」
「途中で逃げたら殺す」
「殺すの好きですね、みかんさん」
「うるせえ!」
こうして俺は、みかんさんと二人で買い物へ行くことになった。
*
放課後の駅前は、制服姿の学生や買い物客で賑わっていた。
「こっちだ」
みかんさんが人混みをすいすい抜けていく。
俺はその後を追った。
しばらく歩くと、小さなA・Tショップが見えてきた。
ガラス越しに、壁一面のホイールやフレームが見える。
「……おお」
店内には色とりどりのA・Tが並んでいた。見たこともないパーツに、カスタム済みの機体。値札の桁が一つ違うような代物まである。
……何だよ、ここ。
天国か?
「おい、カズ」
「……はい?」
「口開いてんぞ」
「……え?」
「よだれ垂らすなよ」
「垂らしてません!」
みかんさんが肩を揺らして笑った。
「ほら、行くぞ」
部品の棚へ向かうみかんさんを追いかけながらも、俺は横に並んだA・Tに目を奪われていた。
真っ黒なフレームに、細い銀色のライン。
その横には、見るからに高性能そうな駆動ユニット。
……格好いいな、これ。
値札を見る。
「……たっか!?」
「何だよ」
みかんさんが顔を上げた。
「いや、このパーツ……」
「あー、それな。今のお前には要らねえよ」
「でも、めちゃくちゃ速くなれそうじゃないですか?」
「つけりゃ速くなるってもんじゃねえんだよ」
「……夢がないですね」
「夢で走れんなら、こんな店要らねえだろ」
……正論で殴るのやめてもらえませんかね。
みかんさんは棚から二種類のホイールを取ると、俺の前へ差し出した。
「ほら、お前ならどっち選ぶ?」
「……え?」
「選んでみろよ」
一方は軽く、表面がつるりとしている。
もう一方は少し重いが、接地面の作りが違った。
「……こっちですかね」
軽い方を指差した。
「何で?」
「最高速が出そうなんで」
「……だろうな」
みかんさんが頷く。
「でも、今のお前にはこっち」
もう一方を持ち上げた。
「こっちはグリップがいい。今のお前の走りなら、まず足元を安定させた方がいい」
「……なるほど」
「それに、見てみろよ」
みかんさんは俺の古い部品と並べてみせた。
「取り付ける位置、違うだろ」
「……あ」
言われてみれば、確かに違う。
俺が選んだ方は、そのままではフレームに収まりそうにない。
「……危なかった」
「お前一人で来させなくて正解だったな」
「本当に」
「もうちょい悔しがれよ」
「いや、今日は素直に教わろうかと」
みかんさんが、少しだけ口元を緩めた。
「いい心がけじゃねえか。じゃあ、次はこの二つ、何が違うと思う?」
「……えっ、まだあるんですか?」
「当たり前だろ。せっかく来たんだから覚えて帰れ」
……あれ?
俺、いつの間に授業受けてんだ?
もっとも、嫌ではなかった。
みかんさんは口こそ悪いが、こっちがきちんと考えて答えると、意外なくらい丁寧に教えてくれる。
間違えたときの容赦のなさは、まあ……相変わらずだけどな。
必要な部品を一通り揃え、会計を済ませる。
「……みかんさん」
「あ?」
「今日、一緒に来てもらってよかったです」
「もう礼かよ。まだ直してもねえのに」
「いや、俺一人だったら倍くらい金使ってましたよ」
「だろうな」
即答された。
「……少しは否定してくださいよ」
「事実だろ?」
みかんさんは肩をすくめ、出口へ向かいかけた。
そのときだった。
「……ん?」
店の隅に並んだ小物の棚で、足を止める。
手袋やリストバンド、髪留め。
ライダー向けの小物がいくつも吊るされていた。
みかんさんは、その中から黒地に赤い模様の入ったヘアピンを一つ手に取った。
「……へえ」
珍しく、黙って眺めている。
「それ、いいですね」
「あ?」
「似合いそうじゃないですか」
「……何だよ、急に」
「思ったこと言っただけですよ」
みかんさんはもう一度ヘアピンを見た。
「……ま、悪くねえな」
そう言って値札を確かめる。
だが、少し考えたあと、棚へ戻した。
「……行くぞ」
「買わないんですか?」
「今日は別にいい」
「……そうですか」
俺もそれ以上は聞かなかった。
店の外へ出ると、みかんさんは鞄から小さなメモを取り出した。
「さて、次はこっちだな」
「……ん?」
「何だよ」
「いや、買い物リストまで作ってるんだなって」
「忘れたら面倒だろ」
メモには、米、牛乳、豚肉、卵などが細かい字で並んでいた。
……なるほど。
A・Tだけじゃなく、家のこともしっかりしてるんだな。
「先にスーパー入っててください。俺、ちょっと店に忘れ物したんで」
「あ? 何忘れたんだよ」
「すぐ戻ります!」
「ったく。早くしろよ!」
俺は店へ引き返した。
目当てのものは、まだ同じ棚に掛かっていた。
値札を確認する。
……まあ、これくらいなら何とかなるか。
店員に小さな紙袋へ入れてもらい、鞄の奥へしまった。
さて。
これで今日の買い物は、もう一つ増えたわけだ。
*
A・Tショップを出ると、今度は商店街へ向かった。
八百屋、肉屋、スーパー。
みかんさんは慣れた足取りで店を回り、次々と買い物を済ませていく。
「みかんさん、結構買いますね」
「そりゃ家の分だからな。イッキの奴、放っとくと馬鹿みたいに食うし」
「……ああ」
容易に想像できる。
「あいつ、肉がないと文句言うんだよ。自分じゃまともに作れもしねえくせに」
「ははっ。言いそうですね」
「この前だって、残ってた唐揚げ全部食っちまってさ。翌朝リンゴの分がなくなって大騒ぎだよ」
「……うわ」
あの家、毎日楽しそうだな。
いや、みかんさんは大変そうだけど。
「ウメも好き嫌い多いし、リンゴは妙なとこで遠慮すんだよ。梨花姉も帰りが遅い日あるしな」
そんなことを言いながら、みかんさんは肉の値札を二つ見比べている。
安い方をかごに入れたかと思えば、今度は野菜売り場へ向かっていった。
「……みかんさん」
「あ?」
「結構、家のことやってるんですね」
「何だよ急に」
「いや、ちょっと意外で」
「お前、俺のこと何だと思ってんだ?」
「……イッキを蹴り飛ばす人?」
「よし、表出ろ」
「すみませんでした!」
みかんさんが吹き出した。
「ったく。あいつら放っとくと、ろくなことしねえんだよ」
そう言って、買い物かごを覗き込む。
「……あ、牛乳も要るな」
そのまま乳製品売り場へ歩いていった。
俺は後ろを追いながら、さっきのヘアピンを思い出していた。
自分のものは買わずに、家族の買い物を優先する。
……いや、単に今日は要らなかっただけかもしれないけどさ。
買い物を終えると、みかんさんは俺に袋を二つ渡した。
「ほら、荷物持ち」
「……うおっ!」
結構重い。
「まだあるからな」
「……まだ!?」
「当たり前だろ。今日の荷物持ちだろ、お前」
……ああ。
そういう契約でしたね。
みかんさんは残った袋を持ち上げようとして、俺の包帯へ目をやった。
「……手、大丈夫か?」
「ああ、これくらいなら平気ですよ」
「……そっか」
みかんさんは大きな米袋を自分で担いだ。
「……え、そっちは俺が」
「いいよ。お前はそっち持ってろ」
「いや、でも」
「じゃあ、米と卵、どっち落とした方がマシか考えてみろ」
「……卵ですかね」
「馬鹿。どっちも落とすな」
……ごもっとも。
みかんさんは米袋を軽々と担ぎ直した。
怪我のこと、ちゃんと覚えててくれたんだな。
口に出したら、また怒られそうだから言わないけど。
*
スーパーを出て少し歩いたところで、みかんさんの携帯が鳴った。
「……ん?」
画面を確認し、短く返事を打っている。
「リンゴですか?」
「おう。今夜の飯、何か聞いてきた」
「仲いいですね」
「普通だろ」
みかんさんは携帯をしまい、俺の持つ袋をちらりと見た。
「つーか、今日の買い物、ほとんどお前に持たせてんな」
「まあ、荷物持ちですから」
「……お前も物好きだな。A・T直してもらうために、こんなにこき使われてんだぜ?」
「うまい棒十本で修理してもらえるなら、安いもんじゃないですか?」
「……それもそうか」
「そこは否定してほしかったんですけど」
「知らねえよ」
みかんさんが、悪びれもせず笑った。
夕方の商店街には、買い物客の声が響いていた。
学校帰りの学生が横を通り過ぎ、自転車に乗った子供が母親を追いかけていく。
そんな中を、俺たちは両手に買い物袋を提げて歩いていた。
……考えてみりゃ、妙な組み合わせだよな。
イッキの姉ちゃんと二人で、夕食の買い出し。
しかもこのあと、家へ戻ってA・Tまで直してもらう予定ときた。
「おい、カズ」
「はい?」
「何ニヤついてんだよ」
「いや、今日は随分平和だなって」
「……は?」
みかんさんが首をかしげる。
「昨日はあんな大騒ぎでしたから」
「……ああ。そりゃそうだな」
みかんさんは少し笑って、米袋を担ぎ直した。
「ま、平和なのが一番だろ」
「……ですね」
「お前はもうちょい平和に走れよ。靴壊すような走りばっかしてんじゃねえぞ」
「……努力します」
「努力じゃねえよ。直せって言ってんの」
……厳しいなあ。
けど、こういう時間も悪くない。
*
商店街の端まで来たところで、みかんさんが足を止めた。
「……ん?」
視線の先には、小さなパン屋があった。
年季の入った看板に、店先へ並ぶ食パンや惣菜パン。
そして、入口の脇に置かれた籠。
『パンの耳 ご自由にどうぞ』
「……へえ」
俺は何となく呟いた。
「最近でも、こういうのあるんですね」
「……ああ」
みかんさんが小さく頷く。
そのまま、籠に入った袋をじっと見ていた。
「……みかんさん?」
「ああ、いや」
みかんさんは、少し笑った。
「昔、よくもらいに来たんだよ」
「……え?」
「パンの耳。俺らがガキの頃な」
籠を顎で示す。
「家に金がなくてさ。こういうのもらって帰ってた」
「……そうなんですか」
「ああ。イッキの奴なんか、帰る途中で半分食っちまうんだぜ」
「……ははっ。何か想像できますね」
「だろ? しかも、バレたら『腹減ってたんだから仕方ねえだろ!』って逆ギレしやがんの」
「昔から変わってないな、あいつ」
「ほんとな」
みかんさんが笑った。
そのまま、しばらく店先を眺めていた。
店の奥からは、焼きたてのパンの匂いが流れてくる。
「……あの頃はさ」
みかんさんが、ぽつりと言った。
「梨花姉も、大変だったからな」
「……梨花さんが?」
「ああ。俺らを食わせるために、ずっと働いてたんだよ」
みかんさんが、買い物袋を少し持ち直す。
「高校にも行かずにさ。朝から晩まで働いて、帰ってきたら飯作って、洗濯して……」
俺は黙って聞いていた。
「それで、俺らには何も心配すんなって笑うんだよ」
みかんさんは、パン屋の看板を見上げた。
「……すげえよな、あの人」
「……ええ」
梨花さんが苦労していたことは、原作でも知っている。
けれど、今こうして聞くと、少し違った。
さっきまで、みかんさんはイッキの食べる量やウメの好き嫌いを気にしながら、買い物をしていた。
家にいる誰かのために、当たり前みたいに動いていた。
……そうか。
この人も、ずっと梨花さんの背中を見てきたんだな。
「……そういや」
みかんさんが、不意に口を開いた。
「俺、一回家出したことあんだよ」
「…………え?」
思わず、その横顔を見る。
みかんさんは、何でもないことのように口の端を上げていた。
「ま、ガキの頃の話だけどな」
夕方の風が、パン屋の小さな看板を揺らした。