エア・ギア ~運命を追い越す炎~【カズ転生】   作:とらやす

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第17話 ボロ靴とめんたい味(後編)

「……家出、ですか?」

「ああ」

 

 みかんさんは、パンの耳が入った籠へ目を向けた。

 

「まだガキの頃だけどな。梨花姉が毎日働いてんの見ててさ。何か、嫌になっちまったんだよ」

「……嫌に?」

「自分がな」

 

 みかんさんは、買い物袋の持ち手を握り直した。

 

「俺がいなけりゃ、一人分の飯代が浮くだろ。学校だの制服だの、そういう金もかかんねえし」

 

 夕方の商店街を、自転車に乗った小学生が走り抜けていく。

 みかんさんはその姿を目で追いながら、続けた。

 

「梨花姉は朝から晩まで働いてさ。帰ってきても飯作ったり、洗濯したり。まともに休んでるとこなんか見たことなかった」

 

 さっきまで、みかんさんは家族のことを楽しそうに話していた。

 

 イッキが飯を食いすぎるとか、ウメが好き嫌いするとか。

 その口調のまま、今度は昔の自分の話をしている。

 

「なのに俺は、学校行って、帰ってきたら飯食って寝るだけでよ」

 

 みかんさんが、口元を歪めた。

 

「……何やってんだろうな、俺って」

 

 俺は黙って聞いていた。

 

「それで、家を出たんですか?」

「……ああ。俺がいなくなりゃ、少しは楽になるかなって」

 

 何でもないことのように言う。

 

 だが、みかんさんの指は、さっきから袋の持ち手を弄っていた。

 

「……馬鹿だろ?」

「……さあ」

「あ?」

 

 みかんさんが、こちらを向いた。

 

「いや、みかんさんがそう思った理由は、何となく分かりますけど」

「…………」

「それで梨花さんが楽になるかって言われると、違うでしょうね」

「……だよな」

 

 みかんさんが、小さく笑った。

 

「実際、全然違った」

「……それで?」

「連れ戻されたよ。梨花姉に」

「……めちゃくちゃ怒られたんじゃないですか?」

「そりゃもう」

 

 みかんさんが、思い出したように肩をすくめる。

 

「すげえ剣幕だったぞ。あんな梨花姉、初めて見た」

「……でしょうね」

「泣くわ怒鳴るわ、もう大変でよ。俺が何言っても全然聞きやしねえの」

 

 みかんさんが、苦笑した。

 

「お前がいなくなったら、誰が楽になるんだってさ」

 

 ……ああ。

 

「飯代がどうとか、制服がどうとか。そんなことは大人が考えるから、お前は勝手にいなくなんなって」

 

 みかんさんは、そこで一度口を閉じた。

 

 店先のガラスに、夕暮れの光が反射している。

 

「……あの人さ」

「はい」

「普段、俺らの前じゃあんまり泣かねえんだよ」

「……そうなんですか」

「俺らが心配すると思ってんのか、いつも平気な顔してんの」

 

 みかんさんが、少しだけ目を伏せた。

 

「なのに、あんときは……」

 

 言いかけて、首を振る。

 

「……ま、いいや。昔の話だ」

 

 俺は頷いた。

 

 梨花さんが家族を養うために、随分と苦労してきたことは知っている。

 みかんさんが家出をした過去も、原作で読んだ記憶があった。

 

 けれど、今こうして本人から聞くと、まるで違う話みたいだった。

 

 目の前にいるのは、いつもイッキを蹴り飛ばしている、口の悪い姉ちゃんだ。

 

 A・Tに乗れば、俺なんかじゃ到底追いつけない速度で走る。

 さっきだって、重い米袋を軽々と担いでいた。

 

 そんな人が、自分の飯代を減らせば家族が楽になると思って、一人で家を出たことがある。

 

 ……そうか。

 

 この人にも、そんな頃があったんだな。

 

「……で、帰ってからは?」

 

 俺が聞くと、みかんさんは顔を上げた。

 

「ん?」

「家に戻ってから、どうしたんですか?」

「……あー」

 

 少し考える。

 

「とりあえず、めちゃくちゃ怒られた」

「それは聞きました」

「うるせえな!」

 

 みかんさんが笑った。

 

「でも、まあ……そっからは俺も、少しは家のこと手伝うようになったかな」

「……へえ」

「飯作るの手伝ったり、買い物行ったり。最初は全然できなくて、よく失敗したけどな」

「意外ですね」

「ああ?」

「いや、今のみかんさん見てると、最初から何でもできそうなんで」

 

「んなわけねえだろ」

 

 みかんさんが鼻を鳴らした。

 

「最初は米だってまともに炊けなかったし、洗濯物はぐちゃぐちゃにするし。梨花姉に散々笑われたよ」

「……ははっ」

「笑うな、ボケ」

「すみません」

 

 ……でも、何かいいな。

 

 今のみかんさんしか知らなかったら、そんな姿は想像できなかった。

 

 さっきスーパーで、手際よく家族の食材を選んでいた人にも、何度も失敗して、梨花さんに教わっていた時期があったんだ。

 

「……ま、結局さ」

 

 みかんさんが、買い物袋を持ち直す。

 

「いなくなるより、家にいて何かやった方がマシだったってことだよ」

 

 そう言って、笑った。

 

「今じゃ、あいつらの世話焼くのもすっかり慣れちまったしな」

「……そうですね」

「ま、イッキの馬鹿は何年経っても手ぇかかるけど」

「そこは同感です」

「だろ?」

 

 みかんさんが、少し嬉しそうに笑う。

 

 俺はパン屋の前に置かれた籠を見た。

 

 透明な袋の中には、食パンの端が何枚も詰まっている。

 

 さっきまで、ただのパンの耳だったもの。

 

 みかんさんにとっては、色々な思い出があるらしい。

 

「……でも」

「あ?」

「ちゃんと帰ってこられて、よかったですね」

「…………」

 

 みかんさんが、こちらを見た。

 

「……何だよ、それ」

「いや、だって」

 

 俺は少し笑った。

 

「今みたいに、イッキたちと普通に喧嘩してる方が、みかんさんらしいですし」

「……は?」

「それに、あいつらもみかんさんがいなかったら困るでしょ」

 

 今日の買い物を思い出す。

 

 イッキがどれだけ食うだとか、ウメの好き嫌いがどうだとか。

 そんな話をしながら、みかんさんはずっと家族のために動いていた。

 

「少なくとも、今日の買い物は大変だったでしょうね」

 

「…………」

 

 みかんさんが目を丸くする。

 

 それから。

 

「……ぷっ」

「……ん?」

「お前、そこで買い物の話かよ!」

 

 吹き出された。

 

「いや、だって本当じゃないですか!」

「ったく! 何の話してたと思ってんだよ!」

「家の話ですよね?」

「そうだけどよ!」

 

 みかんさんが笑いながら、俺の肩を小突いた。

 

「お前、変な奴だな」

「……よく言われます」

「だろうな」

 

 ……おい。

 

 そこは否定してくれよ。

 

 それでも、みかんさんはしばらく笑っていた。

 

 やがて、もう一度パン屋へ目を向ける。

 

「……まあ、そうだな」

 

 小さな声だった。

 

「帰ってきて、よかったよ」

 

 俺は頷いた。

 

 そのあと、二人とも少し黙った。

 

 店の奥から焼きたてのパンの匂いが流れてきて、通りの向こうでは小学生が友達を呼んでいた。

 

「……あー、腹減った!」

 

 先に口を開いたのは、みかんさんだった。

 

「さっさと帰るぞ! いつまでも突っ立ってらんねえ」

「……そうですね」

「つーかお前、何しんみりしてんだよ」

「いや、みかんさんが急に真面目な話するから」

「お前が聞いたんだろうが!」

「……そうでしたね」

 

 ――ゴツッ!

 

「いって!」

 

 ……ああ。

 

 いつものみかんさんだ。

 

     *

 

 商店街を抜ける頃には、袋の持ち手が手のひらに食い込んでいた。

 

「……みかんさん」

「あ?」

「荷物、結構重いですね」

「何だよ。もう音上げんのか?」

「いや、まだまだ余裕ですけど」

「だったら黙って持て」

「……はい」

 

 ……鬼だ。

 

 そのとき、みかんさんが俺の袋へ手を伸ばした。

 

「ほら、そっち一個寄越せ」

「……え?」

「重いんだろ?」

「いや、大丈夫ですよ」

「いいから。手、まだ痛むんじゃねえのか?」

 

 俺は袋を持ち直した。

 

「……みかんさん」

「あ?」

「今日くらい、格好つけさせてくださいよ」

 

「…………」

 

 みかんさんが、ぴたりと止まった。

 

 ……あれ?

 

 何だ?

 変なこと言ったか?

 

「……お前さ」

「はい?」

「そういうこと、普段から言ってんの?」

「……え?」

「女相手に、そういうこと言ってんのかって聞いてんだよ」

「いや、別に」

「……へえ?」

 

 みかんさんが、にやりと笑った。

 

「じゃあ、安達にも同じこと言ってんのか?」

「……何で安達が出てくるんですか!?」

「図星かよ!」

「違いますって!」

 

 ……くそ。

 

 何でそうなるんだよ。

 

 みかんさんはしばらく笑っていたが、やがて伸ばしかけた手を引っ込めた。

 

「……ま、いいや」

「……ん?」

「格好つけたいなら、最後までちゃんとやれよ」

「……任せてください」

「途中で落としたら殺すからな」

「また殺すんですか」

「うるせえ!」

 

 みかんさんが先に歩き出した。

 

 俺はその後を追った。

 

 さっきまであんな話をしていたのに、もういつもの調子だ。

 

 ……まあ、こっちの方が気楽でいいけどな。

 

     *

 

 野山野家へ戻ると、俺たちは早速A・Tの整備を始めた。

 

「おい、そこ違う」

「……え?」

「その向きじゃ入んねえだろ」

「……あ、ほんとだ」

 

 みかんさんが、俺の手元を覗き込む。

 

「こっちだよ。よく見ろって」

「……なるほど」

「あと、ネジ締めすぎんなよ。力任せにやりゃいいってもんじゃねえからな」

「……はい」

 

 ……難しいな、これ。

 

 みかんさんは横で部品を押さえながら、ときどき工具を持つ俺の手を直してくれる。

 

「……みかんさん」

「あ?」

「これ、俺がやる必要あります?」

「……は?」

「いや、みかんさんが全部やった方が早そうだなって」

「当たり前だろ」

 

 即答された。

 

「だったら……」

「でも、お前の靴だろ」

「……え?」

「自分の靴くらい、自分で弄れるようになっとけっての。毎回人に頼む気か?」

 

 ……なるほど。

 

 俺はもう一度、工具を握り直した。

 

「……分かりました」

「なら手ぇ動かせ」

「はい!」

 

 指示された位置に部品を合わせ、ゆっくりと力を入れる。

 

 ――カチッ。

 

「……お」

 

 小さな音がした。

 

 部品が、きちんとはまった。

 

「できた……?」

「おう。今のは合ってる」

「……っしゃ!」

 

 思わず声が出る。

 

 みかんさんが、呆れたように笑った。

 

「お前、そんなことで喜ぶのかよ」

「いや、初めてちゃんとできたんで」

「……ったく」

 

 そう言いながら、次の部品を渡してくる。

 

 何だか、こういう作業も結構面白いな。

 

 これまで俺は、A・Tを走るための道具としか考えていなかった。

 

 でも、こうして分解してみると、どうして車輪が削れたのか、どこへ負担がかかっていたのか、少しずつ分かってくる。

 

 ……なるほど。

 

 速くなる方法って、練習だけじゃないんだな。

 

「……みかんさん」

「あ?」

「こうして触ってみると、A・Tって面白いですね」

「……お?」

 

 みかんさんが、少しだけ目を細めた。

 

「分かってきたか?」

「まだ全然ですけど」

「だろうな」

「即答はひどくないですか?」

「事実だろ」

 

 ……まったく。

 

 みかんさんは次の部品を俺へ差し出した。

 

「ほら。今度は自分でやってみろ」

「……はい!」

 

 俺が受け取ろうとした、そのときだった。

 

「……あれ? カズくん?」

 

 キッチンの方からリンゴが顔を出した。

 

「あ、リンゴ」

「来てたんだね」

「ちょっとA・T直してもらっててさ」

 

 リンゴが、床に広がった部品を見て笑う。

 

「ふふっ。みかん姉、先生みたいだね」

「うるせえな、リンゴ!」

 

 みかんさんが顔を上げた。

 

「こっちはいいから、買ってきたもん片づけといてくれ!」

「はーい」

 

 リンゴはくすくす笑いながら、キッチンへ戻っていった。

 

 そのとき、奥からもう一つ声がした。

 

「……あ? 何だ、カズじゃねえか!」

「お、イッキ」

 

 リビングの入口に、イッキが立っていた。

 

「お前、何やってんだよ」

「A・Tの修理」

「……は? 何でみかんにやらせてんだよ」

「いや、教えてもらってんだって」

 

 イッキが、にやりと笑った。

 

「お前、俺んち来てまで勉強かよ」

「悪いか?」

「真面目かよ、お前!」

 

 ……こいつ。

 

 最近、そればっか言ってねえか?

 

「おい、イッキ!」

 

 みかんさんが声を張り上げた。

 

「邪魔すんな! こっちは作業してんだよ!」

「分かってるって!」

「だったら向こう行ってろ!」

「うっせえな!」

 

 みかんさんが、ゆっくり立ち上がった。

 

「……あ?」

 

「…………」

 

 イッキの顔が引きつった。

 

「……な、何だよ」

「今、何つった?」

「……いや、別に」

「だったらさっさと行け!」

「分かったよ、クソ!」

 

 イッキが逃げるように廊下へ引っ込んだ。

 

 ……うん。

 

 今日も平和だな、野山野家。

 

「ったく。ほら、続きやるぞ」

「……はい、先生」

「だから誰が先生だ!」

 

 ――ゴツッ!

 

「いって!」

 

 ……やっぱ怖え先生だわ。

 

     *

 

「……よし」

 

 しばらくして、みかんさんが最後の部品を組み込んだ。

 

 ホイールを指で回す。

 

 ――シュルルル……。

 

「……おお!」

 

 今までとは、音が違う。

 

 変な引っかかりがない。回転も滑らかで、余計な振動がほとんどしなかった。

 

「すげえ……」

「まあ、こんなもんだな」

 

 みかんさんが軽く手を払う。

 

「使える部品は残したし、足回りもだいぶマシになったはずだ」

「ありがとうございます!」

「礼ならまだ早えぞ」

「……え?」

「実際に走ってみねえと分かんねえだろ」

 

 みかんさんが立ち上がった。

 

「ほら、履けよ」

「……はい?」

「ちょっと走るぞ」

 

 ……お。

 

 マジか。

 

「付き合ってくれるんですか?」

「何だよ。嫌なのか?」

「いやいや! めちゃくちゃ助かります!」

「だったらさっさと準備しろ」

 

 そのとき、キッチンからリンゴが顔を出した。

 

「あれ、みかん姉。出かけるの?」

「おう。ちょっとこいつの試走に付き合ってくる」

「そっか。夕飯は私がやっとくね」

「悪いな、リンゴ」

「ううん。楽しんできてね」

 

 リンゴが笑う。

 

 その言葉に、みかんさんが少しだけ眉を上げた。

 

「……楽しむって、ただの試走だぞ?」

「ふふっ。分かってるよ」

 

 そう言って、リンゴはキッチンへ戻っていった。

 

 ……何だ?

 

 今の笑い方。

 

 ま、いいか。

 

 俺は修理したばかりのA・Tを抱え、みかんさんの後を追った。

 

     *

 

 夕暮れの舗装路。

 

 俺は整備したばかりのA・Tを履き、軽く膝を曲げた。

 

「まずはいつもどおり走ってみろ」

「了解です!」

 

 ――ギュンッ!

 

 地面を蹴った瞬間、思わず頬が緩んだ。

 

 ……おお!

 

 全然違う。

 

 車輪の回転が滑らかで、踏み込んだ力がそのまま地面に伝わる。今までの引っかかりが嘘みたいだ。

 

 気分よく加速し、そのままカーブへ入る。

 

 ――キュッ!

 

 減速して、方向転換。

 そこから一気に再加速する。

 

「……っしゃ!」

 

 今までより、ずっと楽に曲がれた。

 

「おーい、カズ! 戻ってこい!」

 

 みかんさんが手を振っている。

 

「どうですか?」

「いいじゃねえか。ちゃんと踏めてる」

「おっ」

「けど、曲がった後がもったいねえな」

 

 みかんさんが、俺の抜けてきたカーブを指差した。

 

「向き変えてから、もう一度加速してただろ。あそこ、もっと速いまま抜けられるぞ」

「……減速しないで、ですか?」

「しねえんじゃねえ。落としすぎねえんだよ」

 

 昨夜のスピット・ファイアの言葉が浮かぶ。

 

『君なら、もっと速度を残して切り返せる場面があるはずだ』

 

 ……ああ。

 ブッチャとの勝負では、今までより深く踏み込めた。

 けど、曲がった後の速さまで残せたら。あいつの腕をかわした、その一歩で、もっと先まで行ける。

 

「お前、スピット・ファイアみてえに走りてえんだろ?」

「ええ。いつかは」

「なら、高速での切り返しくらい覚えとけ。炎の道を走る奴が、曲がるたびに遅くなってどうすんだ」

 

 昨日、目の前を駆け抜けた朱色の軌跡を思い出した。

 どこで向きを変えたのかも分からなかった、あの走り。

 

「……教えてもらえます?」

「そのつもりで連れてきたんだろうが」

 

 みかんさんが、にやりと笑った。

 

「ついてこい、カズ!」

 

 ――キュンッ!

 

 次の瞬間、みかんさんが地面を蹴った。

 

「……速っ!」

 

 俺も慌てて追いかける。

 

 みかんさんはカーブの手前で身体を傾けると、車輪を短く滑らせた。

 

 ――ギャリッ!

 

 ほとんど速度を落とさないまま、進行方向が変わる。

 

 そして、そのまま次の直線へ加速した。

 

「……おお!」

 

 何だ、今の。

 

 車輪を横滑りさせていたのに、減速が少ない。

 

「見たか?」

「……はい!」

「今のは速度を全部殺してから曲がってんじゃねえ。滑らせる量と重心を調整して、向きを変えてんだよ」

「……なるほど」

「お前もやってみろ。最初は速度落としていいからな」

 

 俺は頷き、少し離れた位置から走り出した。

 

 ――ギュンッ!

 

 カーブの手前で身体を傾ける。

 

 車輪を横へ滑らせ、重心を移す。

 

 ――ギャリッ!

 

「……っ!」

 

 曲がった。

 

 だが、思った以上に速度が落ちてしまう。

 

「……あれ?」

「滑らせすぎだ、ボケ! それじゃ止まっちまうだろ!」

「……加減が難しいですね」

「だから練習すんだよ。もう一回!」

 

 ……くそ。

 

 言うのは簡単なんだけどな。

 

     *

 

 それから何本か走った。

 

 最初は速度を落としすぎた。

 次は勢いを残そうとして、出口で大きく膨らんだ。

 

 みかんさんはそのたびに、身体の傾け方や車輪の滑らせ方を教えてくれる。

 

 そして、何度目かの挑戦。

 

 ――ギュンッ!

 

 俺はいつもより少しだけ高い速度で、カーブへ入った。

 

 重心を落とす。

 

 視線は出口。

 

 そして、車輪を滑らせる。

 

 ――ギャリッ!

 

「……おっ!?」

 

 今度は、速度が残った。

 

 そのまま次の直線へ抜ける。

 

「……っしゃ!」

 

「おう! 今のは悪くねえ!」

 

 みかんさんの声が飛んできた。

 

  ……いける。

 

 思わず足元を見た。

 今まで引っかかっていた左の車輪が、滑らかに回っている。

 

 ……すげえ。こんなに違うのかよ!

 

「カズ! 前!」

 

「……え?」

 

 顔を上げた。

 

 進行方向には、さっきまで俺の走りを見ていたみかんさん。

 

 ……あ。

 

 やべえ!

 

 慌てて左へ車輪を傾ける。

 

「馬鹿! そっち来んな!」

 

 みかんさんも、ちょうど同じ方向へ避けていた。

 

 ――まずい!

 

 逆へ切り返そうとしたが、勢いが乗りすぎている。

 

 ――ギュンッ!

 

「うおおっ!?」

 

 ぶつかる。

 

 そう思った瞬間、みかんさんの両手が俺の肩を掴んだ。

 

「っ、この馬鹿!」

 

 ――ドンッ!

 

 正面から受け止めるのではなく、ぐいっと身体を横へ引かれる。

 

「……えっ!?」

 

 視界が傾いた。

 

 舗装路が横へ流れ、道路脇の芝生が目の前に迫る。

 

 ――ドサッ!

 

「……いって……」

 

 咄嗟に両手をつき、身体を支える。

 

 ……あっぶねえ。

 

 危うく頭から突っ込むところだった。

 

「……おい」

 

 低い声が聞こえた。

 

「……はい?」

 

 顔を上げる。

 

 すぐ目の前に、みかんさんの顔があった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 ……あれ?

 

 近くね?

 

 ……うわ。

 

 普段、あれだけ乱暴にイッキを蹴り飛ばしている人なのに。

 

 こうして間近で見ると、普通に綺麗な人なんだよな。

 

「……お前」

 

「……はい」

 

「いつまで、その格好してんだよ」

 

「……っ!!」

 

 慌てて飛び退いた。

 

「す、すみません!!」

 

「ったく、このボケ!」

 

 みかんさんが身体を起こし、服についた草を払う。

 

 その頬が、少し赤い。

 

 ……いや、怒ってるだけかもしれないけど。

 

「怪我ないですか!?」

「俺は平気だよ。それより、お前は?」

「……え?」

「手。さっき地面についただろ。大丈夫なのか?」

 

 ……あ。

 

 そういえば、まだ包帯巻いてたんだっけ。

 

「……大丈夫です。ちょっと痛かったですけど」

「……ったく」

 

 みかんさんが、俺の手を取った。

 

 包帯の上から軽く確かめ、傷が開いていないのを見ると、ようやく手を離す。

 

「何のために靴直したと思ってんだよ。今度はお前が壊れてどうすんだ」

「……面目ないです」

 

 みかんさんは鼻を鳴らした。

 

 それから、額にかかった髪を指で払いのけた。

 

「……つーか、今の」

「……はい?」

「最後の切り返し、結構よかったぞ」

「……え?」

 

 思わず顔を上げる。

 

「いや、ぶつかったのは論外だけどな。ちゃんと速度残せてた」

「……本当ですか?」

「おう。けど、曲がった先を見てねえからこうなるんだよ!」

 

 ――ゴツッ!

 

「いって!」

 

「目の前のカーブだけじゃなくて、その先まで考えて走れ。分かったな?」

「……はい!」

 

 みかんさんが、にやりと笑った。

 

「ま、次は俺に突っ込んでくんなよ」

「……努力します」

「努力じゃねえ! 絶対だ!」

「……はい!」

 

 ……ほんっと、怖え先生だな。

 

 でも。

 

 俺はさっきの感覚を思い出す。

 

 速度を落とさず、身体の向きだけを変えたあの瞬間。

 

 まだまだ未完成だ。

 

 それでも、何かを掴みかけた気がした。

 

「……みかんさん」

「あ?」

「もう一回、いいですか?」

 

 みかんさんが目を丸くする。

 

 それから、楽しそうに笑った。

 

「……ハッ! 言うじゃねえか!」

 

 ――キュンッ!

 

 みかんさんが地面を蹴る。

 

「ほら、ついてこい! 今度はちゃんと止まれよ!」

「……はい!」

 

 俺も笑って、その背中を追いかけた。

 

     *

 

 何本か走り込んだ頃には、すっかり日が暮れていた。

 

「……はぁっ、はぁっ……!」

 

 俺は道路脇へ戻り、膝に手をついた。

 

 ……疲れた。

 

 けど、面白え。

 

「……どうだ?」

 

 みかんさんが隣へやってきた。

 

「めちゃくちゃ勉強になりました」

 

 俺は息を整えながら、足元のA・Tを見た。

 

「……みかんさん」

「あ?」

「何か、走るのが前より楽しくなりました」

「…………」

 

 みかんさんが、少しだけ目を丸くした。

 

「……へえ」

「今までも楽しかったんですけどね。まだ知らないこと、いっぱいあるんだなって」

 

 俺は笑った。

 

「やっぱ、もっと上手くなりたいです」

 

 みかんさんはしばらく俺を見ていた。

 

 それから、ふっと口元を緩めた。

 

「……ったく」

「……ん?」

「お前、ほんと欲張りだな」

「……よく言われます」

「だろうな」

 

 みかんさんが、俺の頭を軽く小突く。

 

「まあ、悪くねえよ。そういうの」

 

 ……お。

 

 今日はよく褒められるな。

 

 いや、殴られもしてるけど。

 

「ありがとうございます」

「礼なら、靴壊さずに乗れるようになってから言え」

「……厳しいですね」

「当たり前だろ」

 

 そう言いながら、みかんさんは俺のA・Tへ視線を落とした。

 

「……でもまあ」

「……はい?」

「さっきの最後の切り返し、ちょっとはマシになってたぜ」

「……おお!」

「ほんのちょっとな!」

「……はい!」

 

 それでも、嬉しい。

 

 みかんさんはもう一度カーブの方を見たあと、俺へ向き直った。

 

「次は、もう少し速いところでやるか」

「……次も見てくれるんですか?」

「気が向いたらな」

 

 そう言って、先に走り出す。

 

 ……ああ。

 

 次があるんだな。

 

 俺は笑いながら、その背中を追いかけた。

 

     *

 

 野山野家の前まで戻ってきた頃には、通りに街灯が灯っていた。

 

 玄関の向こうから、夕飯の匂いが漂ってくる。

 

「……じゃ、俺はここで」

「おう」

 

 みかんさんが、軽く手を上げた。

 

「今日は本当にありがとうございました」

「ったく。大げさなんだよ」

「A・Tも直ったし、色々教えてもらえたし。助かりました」

「次からは、自分でもちゃんと整備しろよ」

「……はい」

「あと無茶すんな」

「分かってますって」

「本当か?」

「……多分」

「おい!」

 

 ――ゴツッ!

 

「いって!」

 

 ……最後までこれかよ。

 

 俺は笑いながら、一歩下がった。

 

「じゃあ、また!」

「おう。気をつけて帰れよ」

 

 歩き出そうとしたところで、みかんさんが声を上げた。

 

「……あ、カズ!」

「……ん?」

 

 振り返る。

 

 みかんさんが、玄関の前に立っていた。

 

「……今日の話、梨花姉には言うなよ」

「家出の話ですか?」

「そう」

 

 みかんさんが、少しだけ視線を逸らした。

 

「今さら蒸し返しても仕方ねえだろ」

「……分かってますよ」

 

 俺は頷いた。

 

「誰にも言いません」

「……ん」

 

 みかんさんは短く返事をした。

 

 それから、少しだけ笑った。

 

「……なら、いい」

 

 俺も笑い返す。

 

 そして、そのまま帰ろうとして。

 

「……あ、そうだ」

「あ?」

「これ、渡すの忘れてました」

 

 俺は鞄の奥から、小さな紙袋を取り出した。

 

「……何だよ、それ」

「開けてみてください」

 

 みかんさんが怪訝そうに袋を受け取る。

 

 中身を見た途端、その手が止まった。

 

「……お前、これ」

 

 黒地に赤い模様の入ったヘアピン。

 

 さっきのA・Tショップで、みかんさんが手に取っていたものだ。

 

「店で見てたじゃないですか。気に入ってたみたいなんで」

「……いつ買ったんだよ」

「みかんさんに先に出てもらったときです」

「……あれかよ」

 

 みかんさんは、しばらくヘアピンを眺めていた。

 

「お前なあ……うまい棒十本でいいっつっただろ」

「いや、別に修理代ってわけじゃないですよ」

「じゃあ何だよ」

「似合うと思ったんで」

 

「…………」

 

 ……あれ?

 

 みかんさんが黙った。

 

 変なこと言ったか?

 

「……ったく」

 

 小さく呟くと、みかんさんはヘアピンを手に取った。前髪を横へ流し、こめかみのあたりで留める。

 

「……どうだよ」

 

 少し顔を傾け、留めた方をこちらへ向けてくる。

 

「お、やっぱり似合いますね」

「……ふん」

 

 みかんさんは、指先でピンの位置を少し直した。

 

「まあ、悪くねえな」

 

 そう言いながら、もう一度だけピンに触れる。口元が、ちょっと緩んでいた。

 

 ……よかった。

 

 気に入ってくれたみたいだ。

 

「……ありがとな、カズ」

「……え?」

 

 思わず顔を上げる。

 

「何だよ」

「いや、みかんさんが素直にお礼言うの、珍しいなって」

「……ああ?」

「何でもないです!」

「ったく。余計なこと言いやがって」

 

 みかんさんは笑って、俺の肩を軽く小突いた。

 

 ……やべえ。

 

 せっかくいい雰囲気だったのに。

 

「じゃあ、今度こそ帰りますね」

「おう。……あ、カズ!」

「……今度は何ですか?」

 

 みかんさんが、にやりと笑った。

 

「次はチーズ味な!」

「…………」

 

 ……は?

 

「……うまい棒ですか?」

「他に何があんだよ!」

「いや、今その話するんですか!?」

「何だよ。嫌なのか?」

「嫌じゃないですけど……十本でいいです?」

「ハッ! 今度は二十本持ってこい!」

「値上がりしてる!?」

 

 みかんさんが、声を上げて笑った。

 

「じゃあな、カズ!」

「……はいはい。また!」

 

 そう言って、みかんさんは玄関へ向き直った。

 

 だが、扉を開ける直前、もう一度こちらを見る。

 

「……おい、カズ」

「……はい?」

「次は、今日よりマシな走り見せろよ」

 

 俺は笑った。

 

「……任せてください!」

 

 みかんさんが、口元を緩めた。

 

「……ふん。楽しみにしてるぜ」

 

 そう言って、今度こそ家へ入っていった。

 

 扉が閉まる直前、家の奥から声が聞こえた。

 

『みかん! 腹減ったー!』

『うっせえ! もうすぐ飯だっつってんだろ!』

 

 ……イッキかよ。

 

 相変わらず騒がしいな、あの家。

 

 俺は思わず笑った。

 

 今日の買い物も、昔の話も、一緒に走った時間も。

 

 思っていたより、ずっと楽しかった。

 

 それに、今まで知らなかったみかんさんのことも、少しだけ知れた気がする。

 

 俺は足元のA・Tを軽く鳴らし、帰り道へ向き直った。

 

 ――シュルル……。

 

 新しくなった車輪が、滑らかに回り始める。

 

「……さて」

 

 次は、もうちょい上手く走れるようになっとくか。

 

     *

 

 野山野家を離れ、しばらく走ったところで、俺はA・Tの速度を落とした。

 

 ……それにしても。

 

 二十本か。

 

 次の修理代、いくらになるんだろうな。

 

 そんなくだらないことを考えながら、路地の角を曲がった、そのときだった。

 

「……おっと」

「うわっ!」

 

 ――キュッ!

 

 慌ててブレーキをかける。

 

 向こうから歩いてきた男と、危うくぶつかるところだった。

 

「す、すみません!」

 

 俺は咄嗟に頭を下げた。

 

「いやいや。こちらこそ、失敬」

 

 男は、落ち着いた声で答えた。

 

 眼鏡をかけた、髭のあるおっさんだった。

 地味なジャケット姿で、年齢はよく分からない。どこか学者みたいな雰囲気もある。

 

 ……こんな時間に、何してんだ?

 

「怪我はないかな?」

「あ、はい。大丈夫です」

「ふむ。それは結構」

 

 男は穏やかに笑った。

 

 それから、なぜか俺の顔をじっと見る。

 

「……あの、何か?」

「いやいや。なかなか元気のよい少年だと思ってね」

 

 ……そうですか。

 

 男の視線が、今度は俺の足元へ移った。

 

 修理したばかりのA・T。

 

 しばらくそれを見ていた男が、ぽつりと呟いた。

 

「……思っていたより、ずいぶん上手く馴染んでいる」

 

「……え?」

 

 思わず聞き返す。

 

「A・Tのことですか?」

「……ふむ?」

 

 男は俺の顔を見て、少しだけ笑った。

 

「まあ、そんなところだよ」

「……はあ」

 

 ……何だ、このおっさん。

 

 馴染んでるって、見ただけで分かるもんなのか?

 

 いや、確かに今日修理してもらったばっかりだけどさ。

 

「……あの、おじさんもA・Tに詳しいんですか?」

「さて、どうだろうね」

 

 男は愉快そうに髭を撫でた。

 

「少なくとも、興味はあるとも」

「……へえ」

 

 何とも曖昧な返事だった。

 

「それでは、私はこれで。夜道には気をつけたまえ」

「……あ、はい。どうも」

 

 男は軽く会釈すると、そのまま歩いていった。

 

 俺も走り出そうとして、もう一度だけ振り返る。

 

 眼鏡に髭。地味なジャケット。

 

 特に変わったところもないのに、妙に芝居がかった話し方をする人だったな。

 

 ……まあ、いいか。

 

 世の中、いろんな人がいるもんだ。

 

 それより。

 

「……二十本、かあ」

 

 思わず、ため息が出た。

 

 めんたい味の次はチーズ味。

 

 ……あの人、俺のことをうまい棒の配達員か何かだと思ってねえか?

 

 そう考えたら、何だかおかしくなってきた。

 

「……ははっ」

 

 俺は地面を蹴った。

 

 ――ギュンッ!

 

 新しくなった車輪が、夜の路地を滑らかに駆け抜けていく。

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