感想は全部読ませていただいています!
なかなか全件には返信できていませんが、いつも励みになっています。ありがとうございます!
引き続き、気軽に感想いただけると嬉しいです!
「……家出、ですか?」
「ああ」
みかんさんは、パンの耳が入った籠へ目を向けた。
「まだガキの頃だけどな。梨花姉が毎日働いてんの見ててさ。何か、嫌になっちまったんだよ」
「……嫌に?」
「自分がな」
みかんさんは、買い物袋の持ち手を握り直した。
「俺がいなけりゃ、一人分の飯代が浮くだろ。学校だの制服だの、そういう金もかかんねえし」
夕方の商店街を、自転車に乗った小学生が走り抜けていく。
みかんさんはその姿を目で追いながら、続けた。
「梨花姉は朝から晩まで働いてさ。帰ってきても飯作ったり、洗濯したり。まともに休んでるとこなんか見たことなかった」
さっきまで、みかんさんは家族のことを楽しそうに話していた。
イッキが飯を食いすぎるとか、ウメが好き嫌いするとか。
その口調のまま、今度は昔の自分の話をしている。
「なのに俺は、学校行って、帰ってきたら飯食って寝るだけでよ」
みかんさんが、口元を歪めた。
「……何やってんだろうな、俺って」
俺は黙って聞いていた。
「それで、家を出たんですか?」
「……ああ。俺がいなくなりゃ、少しは楽になるかなって」
何でもないことのように言う。
だが、みかんさんの指は、さっきから袋の持ち手を弄っていた。
「……馬鹿だろ?」
「……さあ」
「あ?」
みかんさんが、こちらを向いた。
「いや、みかんさんがそう思った理由は、何となく分かりますけど」
「…………」
「それで梨花さんが楽になるかって言われると、違うでしょうね」
「……だよな」
みかんさんが、小さく笑った。
「実際、全然違った」
「……それで?」
「連れ戻されたよ。梨花姉に」
「……めちゃくちゃ怒られたんじゃないですか?」
「そりゃもう」
みかんさんが、思い出したように肩をすくめる。
「すげえ剣幕だったぞ。あんな梨花姉、初めて見た」
「……でしょうね」
「泣くわ怒鳴るわ、もう大変でよ。俺が何言っても全然聞きやしねえの」
みかんさんが、苦笑した。
「お前がいなくなったら、誰が楽になるんだってさ」
……ああ。
「飯代がどうとか、制服がどうとか。そんなことは大人が考えるから、お前は勝手にいなくなんなって」
みかんさんは、そこで一度口を閉じた。
店先のガラスに、夕暮れの光が反射している。
「……あの人さ」
「はい」
「普段、俺らの前じゃあんまり泣かねえんだよ」
「……そうなんですか」
「俺らが心配すると思ってんのか、いつも平気な顔してんの」
みかんさんが、少しだけ目を伏せた。
「なのに、あんときは……」
言いかけて、首を振る。
「……ま、いいや。昔の話だ」
俺は頷いた。
梨花さんが家族を養うために、随分と苦労してきたことは知っている。
みかんさんが家出をした過去も、原作で読んだ記憶があった。
けれど、今こうして本人から聞くと、まるで違う話みたいだった。
目の前にいるのは、いつもイッキを蹴り飛ばしている、口の悪い姉ちゃんだ。
A・Tに乗れば、俺なんかじゃ到底追いつけない速度で走る。
さっきだって、重い米袋を軽々と担いでいた。
そんな人が、自分の飯代を減らせば家族が楽になると思って、一人で家を出たことがある。
……そうか。
この人にも、そんな頃があったんだな。
「……で、帰ってからは?」
俺が聞くと、みかんさんは顔を上げた。
「ん?」
「家に戻ってから、どうしたんですか?」
「……あー」
少し考える。
「とりあえず、めちゃくちゃ怒られた」
「それは聞きました」
「うるせえな!」
みかんさんが笑った。
「でも、まあ……そっからは俺も、少しは家のこと手伝うようになったかな」
「……へえ」
「飯作るの手伝ったり、買い物行ったり。最初は全然できなくて、よく失敗したけどな」
「意外ですね」
「ああ?」
「いや、今のみかんさん見てると、最初から何でもできそうなんで」
「んなわけねえだろ」
みかんさんが鼻を鳴らした。
「最初は米だってまともに炊けなかったし、洗濯物はぐちゃぐちゃにするし。梨花姉に散々笑われたよ」
「……ははっ」
「笑うな、ボケ」
「すみません」
……でも、何かいいな。
今のみかんさんしか知らなかったら、そんな姿は想像できなかった。
さっきスーパーで、手際よく家族の食材を選んでいた人にも、何度も失敗して、梨花さんに教わっていた時期があったんだ。
「……ま、結局さ」
みかんさんが、買い物袋を持ち直す。
「いなくなるより、家にいて何かやった方がマシだったってことだよ」
そう言って、笑った。
「今じゃ、あいつらの世話焼くのもすっかり慣れちまったしな」
「……そうですね」
「ま、イッキの馬鹿は何年経っても手ぇかかるけど」
「そこは同感です」
「だろ?」
みかんさんが、少し嬉しそうに笑う。
俺はパン屋の前に置かれた籠を見た。
透明な袋の中には、食パンの端が何枚も詰まっている。
さっきまで、ただのパンの耳だったもの。
みかんさんにとっては、色々な思い出があるらしい。
「……でも」
「あ?」
「ちゃんと帰ってこられて、よかったですね」
「…………」
みかんさんが、こちらを見た。
「……何だよ、それ」
「いや、だって」
俺は少し笑った。
「今みたいに、イッキたちと普通に喧嘩してる方が、みかんさんらしいですし」
「……は?」
「それに、あいつらもみかんさんがいなかったら困るでしょ」
今日の買い物を思い出す。
イッキがどれだけ食うだとか、ウメの好き嫌いがどうだとか。
そんな話をしながら、みかんさんはずっと家族のために動いていた。
「少なくとも、今日の買い物は大変だったでしょうね」
「…………」
みかんさんが目を丸くする。
それから。
「……ぷっ」
「……ん?」
「お前、そこで買い物の話かよ!」
吹き出された。
「いや、だって本当じゃないですか!」
「ったく! 何の話してたと思ってんだよ!」
「家の話ですよね?」
「そうだけどよ!」
みかんさんが笑いながら、俺の肩を小突いた。
「お前、変な奴だな」
「……よく言われます」
「だろうな」
……おい。
そこは否定してくれよ。
それでも、みかんさんはしばらく笑っていた。
やがて、もう一度パン屋へ目を向ける。
「……まあ、そうだな」
小さな声だった。
「帰ってきて、よかったよ」
俺は頷いた。
そのあと、二人とも少し黙った。
店の奥から焼きたてのパンの匂いが流れてきて、通りの向こうでは小学生が友達を呼んでいた。
「……あー、腹減った!」
先に口を開いたのは、みかんさんだった。
「さっさと帰るぞ! いつまでも突っ立ってらんねえ」
「……そうですね」
「つーかお前、何しんみりしてんだよ」
「いや、みかんさんが急に真面目な話するから」
「お前が聞いたんだろうが!」
「……そうでしたね」
――ゴツッ!
「いって!」
……ああ。
いつものみかんさんだ。
*
商店街を抜ける頃には、袋の持ち手が手のひらに食い込んでいた。
「……みかんさん」
「あ?」
「荷物、結構重いですね」
「何だよ。もう音上げんのか?」
「いや、まだまだ余裕ですけど」
「だったら黙って持て」
「……はい」
……鬼だ。
そのとき、みかんさんが俺の袋へ手を伸ばした。
「ほら、そっち一個寄越せ」
「……え?」
「重いんだろ?」
「いや、大丈夫ですよ」
「いいから。手、まだ痛むんじゃねえのか?」
俺は袋を持ち直した。
「……みかんさん」
「あ?」
「今日くらい、格好つけさせてくださいよ」
「…………」
みかんさんが、ぴたりと止まった。
……あれ?
何だ?
変なこと言ったか?
「……お前さ」
「はい?」
「そういうこと、普段から言ってんの?」
「……え?」
「女相手に、そういうこと言ってんのかって聞いてんだよ」
「いや、別に」
「……へえ?」
みかんさんが、にやりと笑った。
「じゃあ、安達にも同じこと言ってんのか?」
「……何で安達が出てくるんですか!?」
「図星かよ!」
「違いますって!」
……くそ。
何でそうなるんだよ。
みかんさんはしばらく笑っていたが、やがて伸ばしかけた手を引っ込めた。
「……ま、いいや」
「……ん?」
「格好つけたいなら、最後までちゃんとやれよ」
「……任せてください」
「途中で落としたら殺すからな」
「また殺すんですか」
「うるせえ!」
みかんさんが先に歩き出した。
俺はその後を追った。
さっきまであんな話をしていたのに、もういつもの調子だ。
……まあ、こっちの方が気楽でいいけどな。
*
野山野家へ戻ると、俺たちは早速A・Tの整備を始めた。
「おい、そこ違う」
「……え?」
「その向きじゃ入んねえだろ」
「……あ、ほんとだ」
みかんさんが、俺の手元を覗き込む。
「こっちだよ。よく見ろって」
「……なるほど」
「あと、ネジ締めすぎんなよ。力任せにやりゃいいってもんじゃねえからな」
「……はい」
……難しいな、これ。
みかんさんは横で部品を押さえながら、ときどき工具を持つ俺の手を直してくれる。
「……みかんさん」
「あ?」
「これ、俺がやる必要あります?」
「……は?」
「いや、みかんさんが全部やった方が早そうだなって」
「当たり前だろ」
即答された。
「だったら……」
「でも、お前の靴だろ」
「……え?」
「自分の靴くらい、自分で弄れるようになっとけっての。毎回人に頼む気か?」
……なるほど。
俺はもう一度、工具を握り直した。
「……分かりました」
「なら手ぇ動かせ」
「はい!」
指示された位置に部品を合わせ、ゆっくりと力を入れる。
――カチッ。
「……お」
小さな音がした。
部品が、きちんとはまった。
「できた……?」
「おう。今のは合ってる」
「……っしゃ!」
思わず声が出る。
みかんさんが、呆れたように笑った。
「お前、そんなことで喜ぶのかよ」
「いや、初めてちゃんとできたんで」
「……ったく」
そう言いながら、次の部品を渡してくる。
何だか、こういう作業も結構面白いな。
これまで俺は、A・Tを走るための道具としか考えていなかった。
でも、こうして分解してみると、どうして車輪が削れたのか、どこへ負担がかかっていたのか、少しずつ分かってくる。
……なるほど。
速くなる方法って、練習だけじゃないんだな。
「……みかんさん」
「あ?」
「こうして触ってみると、A・Tって面白いですね」
「……お?」
みかんさんが、少しだけ目を細めた。
「分かってきたか?」
「まだ全然ですけど」
「だろうな」
「即答はひどくないですか?」
「事実だろ」
……まったく。
みかんさんは次の部品を俺へ差し出した。
「ほら。今度は自分でやってみろ」
「……はい!」
俺が受け取ろうとした、そのときだった。
「……あれ? カズくん?」
キッチンの方からリンゴが顔を出した。
「あ、リンゴ」
「来てたんだね」
「ちょっとA・T直してもらっててさ」
リンゴが、床に広がった部品を見て笑う。
「ふふっ。みかん姉、先生みたいだね」
「うるせえな、リンゴ!」
みかんさんが顔を上げた。
「こっちはいいから、買ってきたもん片づけといてくれ!」
「はーい」
リンゴはくすくす笑いながら、キッチンへ戻っていった。
そのとき、奥からもう一つ声がした。
「……あ? 何だ、カズじゃねえか!」
「お、イッキ」
リビングの入口に、イッキが立っていた。
「お前、何やってんだよ」
「A・Tの修理」
「……は? 何でみかんにやらせてんだよ」
「いや、教えてもらってんだって」
イッキが、にやりと笑った。
「お前、俺んち来てまで勉強かよ」
「悪いか?」
「真面目かよ、お前!」
……こいつ。
最近、そればっか言ってねえか?
「おい、イッキ!」
みかんさんが声を張り上げた。
「邪魔すんな! こっちは作業してんだよ!」
「分かってるって!」
「だったら向こう行ってろ!」
「うっせえな!」
みかんさんが、ゆっくり立ち上がった。
「……あ?」
「…………」
イッキの顔が引きつった。
「……な、何だよ」
「今、何つった?」
「……いや、別に」
「だったらさっさと行け!」
「分かったよ、クソ!」
イッキが逃げるように廊下へ引っ込んだ。
……うん。
今日も平和だな、野山野家。
「ったく。ほら、続きやるぞ」
「……はい、先生」
「だから誰が先生だ!」
――ゴツッ!
「いって!」
……やっぱ怖え先生だわ。
*
「……よし」
しばらくして、みかんさんが最後の部品を組み込んだ。
ホイールを指で回す。
――シュルルル……。
「……おお!」
今までとは、音が違う。
変な引っかかりがない。回転も滑らかで、余計な振動がほとんどしなかった。
「すげえ……」
「まあ、こんなもんだな」
みかんさんが軽く手を払う。
「使える部品は残したし、足回りもだいぶマシになったはずだ」
「ありがとうございます!」
「礼ならまだ早えぞ」
「……え?」
「実際に走ってみねえと分かんねえだろ」
みかんさんが立ち上がった。
「ほら、履けよ」
「……はい?」
「ちょっと走るぞ」
……お。
マジか。
「付き合ってくれるんですか?」
「何だよ。嫌なのか?」
「いやいや! めちゃくちゃ助かります!」
「だったらさっさと準備しろ」
そのとき、キッチンからリンゴが顔を出した。
「あれ、みかん姉。出かけるの?」
「おう。ちょっとこいつの試走に付き合ってくる」
「そっか。夕飯は私がやっとくね」
「悪いな、リンゴ」
「ううん。楽しんできてね」
リンゴが笑う。
その言葉に、みかんさんが少しだけ眉を上げた。
「……楽しむって、ただの試走だぞ?」
「ふふっ。分かってるよ」
そう言って、リンゴはキッチンへ戻っていった。
……何だ?
今の笑い方。
ま、いいか。
俺は修理したばかりのA・Tを抱え、みかんさんの後を追った。
*
夕暮れの舗装路。
俺は整備したばかりのA・Tを履き、軽く膝を曲げた。
「まずはいつもどおり走ってみろ」
「了解です!」
――ギュンッ!
地面を蹴った瞬間、思わず頬が緩んだ。
……おお!
全然違う。
車輪の回転が滑らかで、踏み込んだ力がそのまま地面に伝わる。今までの引っかかりが嘘みたいだ。
気分よく加速し、そのままカーブへ入る。
――キュッ!
減速して、方向転換。
そこから一気に再加速する。
「……っしゃ!」
今までより、ずっと楽に曲がれた。
「おーい、カズ! 戻ってこい!」
みかんさんが手を振っている。
「どうですか?」
「いいじゃねえか。ちゃんと踏めてる」
「おっ」
「けど、曲がった後がもったいねえな」
みかんさんが、俺の抜けてきたカーブを指差した。
「向き変えてから、もう一度加速してただろ。あそこ、もっと速いまま抜けられるぞ」
「……減速しないで、ですか?」
「しねえんじゃねえ。落としすぎねえんだよ」
昨夜のスピット・ファイアの言葉が浮かぶ。
『君なら、もっと速度を残して切り返せる場面があるはずだ』
……ああ。
ブッチャとの勝負では、今までより深く踏み込めた。
けど、曲がった後の速さまで残せたら。あいつの腕をかわした、その一歩で、もっと先まで行ける。
「お前、スピット・ファイアみてえに走りてえんだろ?」
「ええ。いつかは」
「なら、高速での切り返しくらい覚えとけ。炎の道を走る奴が、曲がるたびに遅くなってどうすんだ」
昨日、目の前を駆け抜けた朱色の軌跡を思い出した。
どこで向きを変えたのかも分からなかった、あの走り。
「……教えてもらえます?」
「そのつもりで連れてきたんだろうが」
みかんさんが、にやりと笑った。
「ついてこい、カズ!」
――キュンッ!
次の瞬間、みかんさんが地面を蹴った。
「……速っ!」
俺も慌てて追いかける。
みかんさんはカーブの手前で身体を傾けると、車輪を短く滑らせた。
――ギャリッ!
ほとんど速度を落とさないまま、進行方向が変わる。
そして、そのまま次の直線へ加速した。
「……おお!」
何だ、今の。
車輪を横滑りさせていたのに、減速が少ない。
「見たか?」
「……はい!」
「今のは速度を全部殺してから曲がってんじゃねえ。滑らせる量と重心を調整して、向きを変えてんだよ」
「……なるほど」
「お前もやってみろ。最初は速度落としていいからな」
俺は頷き、少し離れた位置から走り出した。
――ギュンッ!
カーブの手前で身体を傾ける。
車輪を横へ滑らせ、重心を移す。
――ギャリッ!
「……っ!」
曲がった。
だが、思った以上に速度が落ちてしまう。
「……あれ?」
「滑らせすぎだ、ボケ! それじゃ止まっちまうだろ!」
「……加減が難しいですね」
「だから練習すんだよ。もう一回!」
……くそ。
言うのは簡単なんだけどな。
*
それから何本か走った。
最初は速度を落としすぎた。
次は勢いを残そうとして、出口で大きく膨らんだ。
みかんさんはそのたびに、身体の傾け方や車輪の滑らせ方を教えてくれる。
そして、何度目かの挑戦。
――ギュンッ!
俺はいつもより少しだけ高い速度で、カーブへ入った。
重心を落とす。
視線は出口。
そして、車輪を滑らせる。
――ギャリッ!
「……おっ!?」
今度は、速度が残った。
そのまま次の直線へ抜ける。
「……っしゃ!」
「おう! 今のは悪くねえ!」
みかんさんの声が飛んできた。
……いける。
思わず足元を見た。
今まで引っかかっていた左の車輪が、滑らかに回っている。
……すげえ。こんなに違うのかよ!
「カズ! 前!」
「……え?」
顔を上げた。
進行方向には、さっきまで俺の走りを見ていたみかんさん。
……あ。
やべえ!
慌てて左へ車輪を傾ける。
「馬鹿! そっち来んな!」
みかんさんも、ちょうど同じ方向へ避けていた。
――まずい!
逆へ切り返そうとしたが、勢いが乗りすぎている。
――ギュンッ!
「うおおっ!?」
ぶつかる。
そう思った瞬間、みかんさんの両手が俺の肩を掴んだ。
「っ、この馬鹿!」
――ドンッ!
正面から受け止めるのではなく、ぐいっと身体を横へ引かれる。
「……えっ!?」
視界が傾いた。
舗装路が横へ流れ、道路脇の芝生が目の前に迫る。
――ドサッ!
「……いって……」
咄嗟に両手をつき、身体を支える。
……あっぶねえ。
危うく頭から突っ込むところだった。
「……おい」
低い声が聞こえた。
「……はい?」
顔を上げる。
すぐ目の前に、みかんさんの顔があった。
「…………」
「…………」
……あれ?
近くね?
……うわ。
普段、あれだけ乱暴にイッキを蹴り飛ばしている人なのに。
こうして間近で見ると、普通に綺麗な人なんだよな。
「……お前」
「……はい」
「いつまで、その格好してんだよ」
「……っ!!」
慌てて飛び退いた。
「す、すみません!!」
「ったく、このボケ!」
みかんさんが身体を起こし、服についた草を払う。
その頬が、少し赤い。
……いや、怒ってるだけかもしれないけど。
「怪我ないですか!?」
「俺は平気だよ。それより、お前は?」
「……え?」
「手。さっき地面についただろ。大丈夫なのか?」
……あ。
そういえば、まだ包帯巻いてたんだっけ。
「……大丈夫です。ちょっと痛かったですけど」
「……ったく」
みかんさんが、俺の手を取った。
包帯の上から軽く確かめ、傷が開いていないのを見ると、ようやく手を離す。
「何のために靴直したと思ってんだよ。今度はお前が壊れてどうすんだ」
「……面目ないです」
みかんさんは鼻を鳴らした。
それから、額にかかった髪を指で払いのけた。
「……つーか、今の」
「……はい?」
「最後の切り返し、結構よかったぞ」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「いや、ぶつかったのは論外だけどな。ちゃんと速度残せてた」
「……本当ですか?」
「おう。けど、曲がった先を見てねえからこうなるんだよ!」
――ゴツッ!
「いって!」
「目の前のカーブだけじゃなくて、その先まで考えて走れ。分かったな?」
「……はい!」
みかんさんが、にやりと笑った。
「ま、次は俺に突っ込んでくんなよ」
「……努力します」
「努力じゃねえ! 絶対だ!」
「……はい!」
……ほんっと、怖え先生だな。
でも。
俺はさっきの感覚を思い出す。
速度を落とさず、身体の向きだけを変えたあの瞬間。
まだまだ未完成だ。
それでも、何かを掴みかけた気がした。
「……みかんさん」
「あ?」
「もう一回、いいですか?」
みかんさんが目を丸くする。
それから、楽しそうに笑った。
「……ハッ! 言うじゃねえか!」
――キュンッ!
みかんさんが地面を蹴る。
「ほら、ついてこい! 今度はちゃんと止まれよ!」
「……はい!」
俺も笑って、その背中を追いかけた。
*
何本か走り込んだ頃には、すっかり日が暮れていた。
「……はぁっ、はぁっ……!」
俺は道路脇へ戻り、膝に手をついた。
……疲れた。
けど、面白え。
「……どうだ?」
みかんさんが隣へやってきた。
「めちゃくちゃ勉強になりました」
俺は息を整えながら、足元のA・Tを見た。
「……みかんさん」
「あ?」
「何か、走るのが前より楽しくなりました」
「…………」
みかんさんが、少しだけ目を丸くした。
「……へえ」
「今までも楽しかったんですけどね。まだ知らないこと、いっぱいあるんだなって」
俺は笑った。
「やっぱ、もっと上手くなりたいです」
みかんさんはしばらく俺を見ていた。
それから、ふっと口元を緩めた。
「……ったく」
「……ん?」
「お前、ほんと欲張りだな」
「……よく言われます」
「だろうな」
みかんさんが、俺の頭を軽く小突く。
「まあ、悪くねえよ。そういうの」
……お。
今日はよく褒められるな。
いや、殴られもしてるけど。
「ありがとうございます」
「礼なら、靴壊さずに乗れるようになってから言え」
「……厳しいですね」
「当たり前だろ」
そう言いながら、みかんさんは俺のA・Tへ視線を落とした。
「……でもまあ」
「……はい?」
「さっきの最後の切り返し、ちょっとはマシになってたぜ」
「……おお!」
「ほんのちょっとな!」
「……はい!」
それでも、嬉しい。
みかんさんはもう一度カーブの方を見たあと、俺へ向き直った。
「次は、もう少し速いところでやるか」
「……次も見てくれるんですか?」
「気が向いたらな」
そう言って、先に走り出す。
……ああ。
次があるんだな。
俺は笑いながら、その背中を追いかけた。
*
野山野家の前まで戻ってきた頃には、通りに街灯が灯っていた。
玄関の向こうから、夕飯の匂いが漂ってくる。
「……じゃ、俺はここで」
「おう」
みかんさんが、軽く手を上げた。
「今日は本当にありがとうございました」
「ったく。大げさなんだよ」
「A・Tも直ったし、色々教えてもらえたし。助かりました」
「次からは、自分でもちゃんと整備しろよ」
「……はい」
「あと無茶すんな」
「分かってますって」
「本当か?」
「……多分」
「おい!」
――ゴツッ!
「いって!」
……最後までこれかよ。
俺は笑いながら、一歩下がった。
「じゃあ、また!」
「おう。気をつけて帰れよ」
歩き出そうとしたところで、みかんさんが声を上げた。
「……あ、カズ!」
「……ん?」
振り返る。
みかんさんが、玄関の前に立っていた。
「……今日の話、梨花姉には言うなよ」
「家出の話ですか?」
「そう」
みかんさんが、少しだけ視線を逸らした。
「今さら蒸し返しても仕方ねえだろ」
「……分かってますよ」
俺は頷いた。
「誰にも言いません」
「……ん」
みかんさんは短く返事をした。
それから、少しだけ笑った。
「……なら、いい」
俺も笑い返す。
そして、そのまま帰ろうとして。
「……あ、そうだ」
「あ?」
「これ、渡すの忘れてました」
俺は鞄の奥から、小さな紙袋を取り出した。
「……何だよ、それ」
「開けてみてください」
みかんさんが怪訝そうに袋を受け取る。
中身を見た途端、その手が止まった。
「……お前、これ」
黒地に赤い模様の入ったヘアピン。
さっきのA・Tショップで、みかんさんが手に取っていたものだ。
「店で見てたじゃないですか。気に入ってたみたいなんで」
「……いつ買ったんだよ」
「みかんさんに先に出てもらったときです」
「……あれかよ」
みかんさんは、しばらくヘアピンを眺めていた。
「お前なあ……うまい棒十本でいいっつっただろ」
「いや、別に修理代ってわけじゃないですよ」
「じゃあ何だよ」
「似合うと思ったんで」
「…………」
……あれ?
みかんさんが黙った。
変なこと言ったか?
「……ったく」
小さく呟くと、みかんさんはヘアピンを手に取った。前髪を横へ流し、こめかみのあたりで留める。
「……どうだよ」
少し顔を傾け、留めた方をこちらへ向けてくる。
「お、やっぱり似合いますね」
「……ふん」
みかんさんは、指先でピンの位置を少し直した。
「まあ、悪くねえな」
そう言いながら、もう一度だけピンに触れる。口元が、ちょっと緩んでいた。
……よかった。
気に入ってくれたみたいだ。
「……ありがとな、カズ」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「何だよ」
「いや、みかんさんが素直にお礼言うの、珍しいなって」
「……ああ?」
「何でもないです!」
「ったく。余計なこと言いやがって」
みかんさんは笑って、俺の肩を軽く小突いた。
……やべえ。
せっかくいい雰囲気だったのに。
「じゃあ、今度こそ帰りますね」
「おう。……あ、カズ!」
「……今度は何ですか?」
みかんさんが、にやりと笑った。
「次はチーズ味な!」
「…………」
……は?
「……うまい棒ですか?」
「他に何があんだよ!」
「いや、今その話するんですか!?」
「何だよ。嫌なのか?」
「嫌じゃないですけど……十本でいいです?」
「ハッ! 今度は二十本持ってこい!」
「値上がりしてる!?」
みかんさんが、声を上げて笑った。
「じゃあな、カズ!」
「……はいはい。また!」
そう言って、みかんさんは玄関へ向き直った。
だが、扉を開ける直前、もう一度こちらを見る。
「……おい、カズ」
「……はい?」
「次は、今日よりマシな走り見せろよ」
俺は笑った。
「……任せてください!」
みかんさんが、口元を緩めた。
「……ふん。楽しみにしてるぜ」
そう言って、今度こそ家へ入っていった。
扉が閉まる直前、家の奥から声が聞こえた。
『みかん! 腹減ったー!』
『うっせえ! もうすぐ飯だっつってんだろ!』
……イッキかよ。
相変わらず騒がしいな、あの家。
俺は思わず笑った。
今日の買い物も、昔の話も、一緒に走った時間も。
思っていたより、ずっと楽しかった。
それに、今まで知らなかったみかんさんのことも、少しだけ知れた気がする。
俺は足元のA・Tを軽く鳴らし、帰り道へ向き直った。
――シュルル……。
新しくなった車輪が、滑らかに回り始める。
「……さて」
次は、もうちょい上手く走れるようになっとくか。
*
野山野家を離れ、しばらく走ったところで、俺はA・Tの速度を落とした。
……それにしても。
二十本か。
次の修理代、いくらになるんだろうな。
そんなくだらないことを考えながら、路地の角を曲がった、そのときだった。
「……おっと」
「うわっ!」
――キュッ!
慌ててブレーキをかける。
向こうから歩いてきた男と、危うくぶつかるところだった。
「す、すみません!」
俺は咄嗟に頭を下げた。
「いやいや。こちらこそ、失敬」
男は、落ち着いた声で答えた。
眼鏡をかけた、髭のあるおっさんだった。
地味なジャケット姿で、年齢はよく分からない。どこか学者みたいな雰囲気もある。
……こんな時間に、何してんだ?
「怪我はないかな?」
「あ、はい。大丈夫です」
「ふむ。それは結構」
男は穏やかに笑った。
それから、なぜか俺の顔をじっと見る。
「……あの、何か?」
「いやいや。なかなか元気のよい少年だと思ってね」
……そうですか。
男の視線が、今度は俺の足元へ移った。
修理したばかりのA・T。
しばらくそれを見ていた男が、ぽつりと呟いた。
「……思っていたより、ずいぶん上手く馴染んでいる」
「……え?」
思わず聞き返す。
「A・Tのことですか?」
「……ふむ?」
男は俺の顔を見て、少しだけ笑った。
「まあ、そんなところだよ」
「……はあ」
……何だ、このおっさん。
馴染んでるって、見ただけで分かるもんなのか?
いや、確かに今日修理してもらったばっかりだけどさ。
「……あの、おじさんもA・Tに詳しいんですか?」
「さて、どうだろうね」
男は愉快そうに髭を撫でた。
「少なくとも、興味はあるとも」
「……へえ」
何とも曖昧な返事だった。
「それでは、私はこれで。夜道には気をつけたまえ」
「……あ、はい。どうも」
男は軽く会釈すると、そのまま歩いていった。
俺も走り出そうとして、もう一度だけ振り返る。
眼鏡に髭。地味なジャケット。
特に変わったところもないのに、妙に芝居がかった話し方をする人だったな。
……まあ、いいか。
世の中、いろんな人がいるもんだ。
それより。
「……二十本、かあ」
思わず、ため息が出た。
めんたい味の次はチーズ味。
……あの人、俺のことをうまい棒の配達員か何かだと思ってねえか?
そう考えたら、何だかおかしくなってきた。
「……ははっ」
俺は地面を蹴った。
――ギュンッ!
新しくなった車輪が、夜の路地を滑らかに駆け抜けていく。