エア・ギア ~カズに転生した俺は、最速の炎を目指す~ 作:とらやす
人間、何か新しいものを手に入れたときには、決まってやりたくなることがある。
ゲームを買えば、すぐに遊びたくなる。自転車を買えば、遠くまで走ってみたくなる。
そして、エア・トレックを買ったなら。
「……やっぱ、履いてみるよな」
日曜日の朝。俺は自室の床に並べたA・Tを眺めながら、にやにやしていた。
昨日、ようやく手に入れた一足。外装には傷が多く、最新型と比べれば性能も劣る。それでも、俺にとっては念願のA・Tだ。
今すぐにでも履いて走り出したい。
……のだが。
「…………」
ちらりと、机の上を見る。
そこには、購入時に渡された説明書。それから、店員に勧められた保護具が置かれていた。
ヘルメット。膝当て。肘当て。手首を保護するプロテクター。
「……完全に初心者セットだな」
いや、初心者なんだから当然なんだけど。
漫画で見たストームライダーたちは、こんな装備をつけていなかった気がする。もっとこう、格好よくA・Tを履いて、風を切って、壁を駆け上がって、空へ飛び出していく。
……まあ、今の俺が真似したら、確実に病院送りだろう。
「……よし」
まずは説明書だ。
俺はベッドに腰を下ろし、ページをめくった。基本的な操作方法、装着時の注意、駆動部の確認、そして転倒時の対処。
なるほど。思っていた以上に、普通のスポーツ用品に近い。
いや、普通のスポーツ用品として扱うには、少々性能が危険すぎる気もするが。
「……とりあえず、練習場所だな」
家の中で試すわけにはいかない。母親に見つかったら怒られるし、家具にぶつかれば大惨事だ。かといって、人通りの多い道路も論外。
そこで俺は、以前から目をつけていた場所へ向かうことにした。
河川敷にある、小さな舗装広場だ。
休日でも朝早い時間なら、それほど人がいない。路面も比較的平らで、周囲には十分な空間がある。
何より、転んでも少なくとも車に轢かれる心配はない。
……うん。大事だよな、そこ。
*
「……さて」
河川敷の広場。俺はベンチに腰掛け、A・Tを履いていた。
靴紐を締める。足首を固定する。左右の装着状態を確認。説明書通りに駆動部を点検して、ようやく準備が整った。
「……おお」
思わず、自分の足元を見つめる。
A・Tだ。ついに、俺の足にA・Tが装着されている。
漫画の中で何度も見た、あの靴。それを今、自分で履いている。
……まあ、感動しているだけじゃ始まらないか。
「よし」
ベンチの端を掴み、ゆっくりと立ち上がる。
その瞬間だった。
「……お?」
足元が動いた。
「お、おお?」
右足が、勝手に前へ滑る。慌てて左足へ体重を移す。
すると、今度は左足が動いた。
「ちょ、待っ――!」
ガタンッ!
「いってええええ!」
見事に尻餅をついた。
……痛い。普通に痛い。
いや、予想はしてたけどさ。
「……立つだけでこれかよ」
思わず天を仰ぐ。
原作のカズって、どうやって最初の練習をしてたんだ?
少なくとも漫画では、こんな情けない姿はあまり描かれていなかった気がする。
……いや、描かれていないだけで、最初は誰だってこんなものなのかもしれない。
「……もう一回」
ベンチを掴む。ゆっくり立ち上がる。
今度は膝を少し曲げ、足を肩幅程度に開いた。
「……お?」
さっきより安定している。
足元が動きそうになるたび、少しずつ体重を調整する。右、左、前、後ろ。
……なるほど。普通の靴とは、全然違う。
足裏の感覚が、まるで変わっていた。地面を踏んでいるはずなのに、足元に小さな車輪があるせいで、わずかな体重移動でも身体が動いてしまう。
しかも、駆動の反応が混じる。ただ滑るだけの靴ではない。
「……こりゃ、難しいな」
思わず呟く。
だが、同時に妙な面白さも感じていた。
自分の重心が、どこにあるのか。足首にどれくらい力を入れているのか。普段なら意識しないようなことが、嫌でも分かる。
少しバランスを崩せば、すぐに結果が返ってくるのだ。
「……なるほどな」
確かに、これは技術が必要だ。身体能力が高いだけでは、どうにもならない。
イッキみたいな天才なら、もっと簡単に乗りこなすのかもしれないけど。
……いや、今はあいつのことは考えないでおこう。余計に悔しくなりそうだ。
*
三十分後。
「……っ、はぁ……!」
俺は、早くも汗だくになっていた。
やっていることは、至って地味だ。
立つ。少し動く。止まる。また立つ。その繰り返し。
最初のうちは、少し進もうとするだけで転びそうになった。右足が滑れば、左足が引っ張られる。無理に踏ん張れば、今度は身体が後ろへ倒れそうになる。
しかも、A・Tの駆動を使おうとすると、動きがさらに不安定になる。
「……思ってたより、ずっと難しいな」
ベンチに戻り、水を飲む。
息を整えながら、足元を見る。まだ、それほど走れていない。いや、走るどころか、まともに滑ることすらできていない。
それなのに、この疲労感だ。
……何だよ。漫画のストームライダーたち、普通に化け物じゃねえか。
あいつら、これを履いて壁を走ってるんだぞ? しかも空中で身体を回転させたり、狭い足場で戦ったり。
……無理だろ。今の俺には、絶対無理だ。
「…………」
そこで、ふと思い出した。
スピット・ファイア。アイオーン。あの二人が使っていた、時と炎の技。
速度を利用して相手の感覚を狂わせる。摩擦熱や空気の揺らぎを利用し、視界や認識を欺く。
漫画の中では、そんな技が当たり前のように飛び交っていた。
だが、今の俺には想像することすら難しい。足元の車輪を制御するだけで精一杯だ。
「……先が長えな」
思わず苦笑する。
けれど、だからこそ分かることもあった。
あの連中は、ただ才能があるだけじゃない。どれほど天才でも、A・Tを使いこなすには技術が必要だ。
そして技術は、積み重ねることで身につく。
……だったら。
「……やるしかねえよな」
立ち上がる。
今度はベンチを掴まず、自分の足だけで体重を支えた。膝を軽く曲げ、重心を低くする。
ゆっくりと、右足を前へ出す。
……動いた。
左足も続ける。少しだけ、身体が前へ進む。
「……おお」
さっきより滑らかだ。
まだぎこちない。それでも、確かに前へ進んでいる。
「……ははっ」
笑みがこぼれた。
いいじゃないか。
まずは、この程度で十分だ。
*
それから、さらに一時間。
俺は少しずつ、A・Tの扱いに慣れ始めていた。
もちろん、まだ自由自在に走れるわけじゃない。ただ、立つ、進む、緩やかに曲がる、そして止まる。その一連の動きが、少しずつ繋がるようになってきた。
「……よし」
広場の端から、反対側を見る。距離はそれほど長くない。ただの直線だ。
だが、今の俺にとっては十分な練習になる。
軽く膝を曲げ、体重を前へ。ゆっくりと駆動を使う。
足元から、小さな音が響いた。
――ウィン。
「……っ!」
身体が前へ進む。
風が、頬を撫でた。
……おお。これだ。
今までの歩くような動きとは、明らかに違う。地面を蹴っている感覚があるのに、足を前へ運ぶだけではない。
A・Tが、身体を押し出してくれる。
少しずつ速度が上がる。視界が流れる。
「……すげえ」
思わず声が漏れた。
これが、A・T。
原作で何度も見た、あの感覚。
……いや、実際に体験するのは初めてなんだけど。
それでも、胸の奥がぞくぞくする。
もっと。もっと速く。
そう思った、その瞬間だった。
――ガクンッ!
「……え?」
右足が、不自然に前へ出た。
身体が引っ張られる。重心が崩れる。
「ちょっ……!」
慌てて左足で踏ん張ろうとする。だが、そこにも車輪がある。当然、普通の靴のようには止まれない。
「うおおおおっ!?」
視界が傾いた。
次の瞬間。
ズザザザッ!
「いってええええ!」
見事に転んだ。
……痛い。
膝当てと手首の保護具をつけていて、本当によかった。いや、なかったらどうなってたんだ、これ。
しばらく地面に座り込み、荒い息を整える。
「……あっぶねえ」
心臓が、ばくばく鳴っていた。
ほんの少し速度を上げただけで、この有様。技術が追いついていない。
それが、嫌というほど分かった。
「……欲張りすぎたな」
ゆっくり立ち上がる。身体を確認する。
幸い、大きな怪我はない。ただ、右膝が少し痛む。プロテクターのおかげで擦り傷は避けられたが、衝撃までは完全には防げなかったらしい。
……やっぱ、無茶は駄目だな。
そこで、ふと昨日のみかんの言葉を思い出した。
『最初っから無茶すんなよ』
『あと、止まり方を先に覚えとけ』
「…………」
……あの人。やっぱり、ちゃんと分かって言ってたんだな。
まあ、眠りの森のメンバーなんだから当然か。でも、今の俺には、その忠告が妙に重く感じられた。
「……まずは、止まる練習か」
そう呟いて、もう一度足元を見る。
速く走りたい。その気持ちは変わらない。
けれど、止まれなければ、速く走ることもできない。
当たり前のことだ。当たり前すぎて、つい忘れていた。
「……よし」
今度は、もっとゆっくり。
速度を抑える。膝を曲げる。重心を低くする。そして、少しずつ減速する。
……難しい。
思った以上に、難しい。
足元が滑る。身体が前へ出る。止まろうとすると、逆にバランスを崩しそうになる。
それでも、何度も繰り返す。
走る。止まる。曲がる。また、止まる。
失敗するたびに、どこが悪かったのか考える。足の向き、重心の位置、膝の使い方、身体の傾き。
少しずつ修正していく。
そして。
「……っ!」
ある瞬間、足元の感覚が妙にはっきりした。
右足に体重を乗せる。左足を少し引き、車輪の向きを変える。横方向へ力を逃がすようにして、速度を落とす。
――キュッ。
短い音が響いた。
身体が止まった。
「…………」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
いや、分かっている。
止まったんだ。自分の意思で。転ばずに。
「……おおっ!」
思わず声が出た。
「止まれた!」
……いや。普通に考えれば、止まれた程度で大喜びするのもどうかと思う。
だが、今の俺にとっては大きな進歩だった。
さっきまで、止まろうとするたびに転びそうになっていたのだ。それが、今はちゃんと止まれた。
「……ははっ!」
自然と笑みがこぼれる。
もう一度。ゆっくり進む。速度を上げすぎない。左足を引く。重心を調整する。
――キュッ。
止まった。
「……よし!」
成功だ。
まだ不安定だし、毎回同じようにできるわけでもない。それでも、確かに一つ技術を身につけた。
……何だ。これ、めちゃくちゃ楽しいじゃねえか。
*
気づけば、昼近くになっていた。
俺はベンチに腰掛け、A・Tを脱いだ。足が重い。ふくらはぎも、太ももも、かなり疲れている。
……明日、また筋肉痛になるかもしれない。
いや、今回はさすがに無茶しすぎないようにしたつもりなんだけど。どうだろうな。
「……まあ、いいか」
水を飲みながら、今日の練習を振り返る。
最初は立つだけで転んだ。少し進んではバランスを崩した。調子に乗って速度を上げたら、見事に転倒した。
それでも、最後には短い距離なら滑れるようになった。ゆっくりなら、曲がることもできる。そして、自分の意思で止まることも。
「……上出来だろ」
思わず呟く。
もちろん、まだまだだ。
今の俺では、ストームライダーなんて名乗れない。誰かと戦うなんて、到底無理だ。
だが、確かに前へ進んでいる。昨日よりも、一週間前よりも、少しずつ。
「……やっぱ、地道にやるしかねえな」
そう言って、A・Tを袋へしまう。
そのときだった。
――ギュンッ!
遠くから、聞き覚えのある駆動音が響いた。
「……ん?」
顔を上げる。
河川敷の向こう側。土手の斜面を、一人のライダーが駆け上がっていた。
年齢は、俺より少し上くらいだろうか。A・Tを履いた少年が、軽々と斜面を滑走している。
そして、頂上付近で軽く身体を沈めた。
次の瞬間。
――タンッ!
その身体が、空へ跳んだ。
「……おお」
思わず見入る。
高い、というほどの跳躍ではない。原作の上位ライダーと比べれば、きっと大したことのない技だ。
だが、今の俺には十分すぎるほど格好よく見えた。
少年はそのまま斜面の反対側へ着地し、何事もなかったように走り去っていった。
「…………」
しばらく、その背中を眺める。
……すげえな。
さっきまで、俺は止まるだけで必死だった。それなのに、あいつはあんなふうに跳んでいる。
悔しい。……いや、正直に言えば、羨ましい。
あんなふうに走れたら、どれだけ気持ちいいだろう。
「……いつか、絶対」
小さく呟く。
あの高さへ。いや、もっとその先へ。
自分の足で、辿り着いてやる。
そう思った瞬間、胸の奥に昨日とは少し違う熱が生まれた。
原作の未来を変えたい。仲間を守りたい。
それは、もちろん本心だ。
だが、それだけじゃない。
俺は、走りたいんだ。
もっと速く。もっと自由に。
あの空へ、手が届くくらいに。
「……ははっ」
自然と笑ってしまった。
なるほどな。
原作のイッキが、A・Tに夢中になる理由。
今なら、少しだけ分かる気がする。
*
帰宅後、俺はノートを開き、今日の成果を書き込んだ。
『A・T初走行』
その下に、細かく記録を残す。
立つだけでも難しい。重心を低くする。急な加速は危険。曲がるときは身体ごと向きを変える。止まる練習が重要。
そして。
『速度を上げる前に、制御を覚える』
「……うん」
我ながら、なかなか大事なことを書いた気がする。
原作のカズが、どれほど速くなったとしても、その速度を扱えなければ意味がない。
時の技も、炎の技も、きっとこういう基礎の先にある。
そう考えると、今日の練習は決して無駄じゃなかった。むしろ、ここが本当のスタートなのかもしれない。
「……よし」
ノートを閉じる。
机の上には、使い込まれたA・T。その外装には、今日ついた新しい傷がいくつか増えていた。
……まあ、最初からきれいなまま使えるとは思っていなかったけど。少しだけ、申し訳ない気もする。
「……よろしくな」
思わず、A・Tに話しかけてしまった。
……何やってんだ、俺。
靴に話しかけるとか、ちょっと変な奴じゃないか?
いや、まあいい。これから長い付き合いになるんだ。
この一足で、どこまで行けるか。まだ分からない。
でも、少なくとも今日は、昨日より少しだけ先へ進めた。
「……明日も、やるか」
そう呟いて、ベッドへ倒れ込む。
身体は疲れ切っていた。だが、不思議と気分は悪くない。
むしろ、次に走るときのことを考えるだけで、胸が高鳴る。
もっと速く。もっと滑らかに。もっと自由に。
そして、いつか。
誰にも追いつけない速度で、あの空を駆け抜けてやる。
……まあ、その前に。
「……明日も筋肉痛だったら、さすがに笑えねえな」
そんなことを呟きながら、俺は目を閉じた。
まだ、炎の道なんて遥か先。時の技なんて、夢のまた夢。
それでも、今日、俺は初めて自分のA・Tで走った。
たった、それだけのことが。
どうしようもなく、嬉しかった。