エア・ギア ~カズに転生した俺は、最速の炎を目指す~ 作:とらやす
エア・トレックを手に入れて、二か月が経った。
結論から言おう。
「……やっぱ、漫画みたいにはいかねえな」
俺は河川敷のベンチに腰掛け、ため息をついた。
目の前には、傷だらけのA・T。購入したときから中古だったとはいえ、ここ二か月で随分と傷が増えた。特に右足。外側の装甲なんて、もはや元の塗装がほとんど残っていない。
……まあ、原因は分かっている。俺が転びまくったせいだ。
最初の一週間なんて、本当にひどかった。少し速度を上げれば転び、急に曲がろうとして転び、調子に乗って段差へ挑戦しては転んだ。
おかげで、転倒するときに身体を丸めるのだけは随分とうまくなった気がする。
いや、そんな技術を磨きたかったわけじゃないんだが。
「……さて」
立ち上がり、A・Tの駆動を入れる。足元から低い音が響いた。
以前なら、これだけで少し緊張していたものだ。だが、今は違う。
軽く膝を曲げ、体重を前に乗せる。
次の瞬間。
――ギュンッ!
身体が滑り出した。風が頬を撫で、舗装された路面が足元を流れていく。
右足を前へ。左足で地面を押し、さらに加速する。
少し先に置いたペットボトルが近づいてきた。
その手前で身体を沈め、車輪の向きを変える。重心を外側へ逃がし、速度を落としながらペットボトルを回り込む。
――キュッ!
短い摩擦音。
そのまま反対側へ体重を移し、再加速。
「……よし!」
成功だ。
最初は、こんな単純な動作すらまともにできなかった。今では、ある程度の速度を保ったまま曲がれる。止まりたい場所で止まることもできる。
そして何より、走っていて怖さより楽しさを感じる時間が増えていた。
「……悪くねえな」
自然と笑みがこぼれる。
ただし、問題がないわけではない。
むしろ、課題は山ほどあった。
*
最初に気づいたのは、自分が思っている以上にA・Tの制御が難しいということだった。
普通に走るだけなら、そこまで苦労しなくなった。だが、速度を上げると話が変わる。
足元の小さな車輪が、わずかな重心の変化に反応する。そこで無理に踏み込めば姿勢が崩れ、立て直そうとすると今度は加速が途切れる。
しかも、中古のA・Tは出力に癖があった。
右足の駆動は比較的素直なのに、左足は反応がわずかに遅れる。店で点検してもらったところ、故障ではなく経年劣化による出力差らしい。
すぐに使えなくなるほどではないが、高速走行では気をつける必要があると言われた。
……まったく。初心者には、なかなか厳しい条件である。
だが、これが意外と悪いことばかりでもなかった。
左右の反応が違うなら、その違いを覚えればいい。どの程度踏み込むと、どれくらい加速するのか。いつ重心を移せば、思った通りの方向へ進めるのか。
最初は感覚だけで操作していたが、最近は少しずつ、理由を考えながら走れるようになっていた。
「……要するに、ちゃんと乗りこなせってことだよな」
誰に言うでもなく呟く。
漫画では、強いライダーほどA・Tを自由自在に操っている。壁を走り、手すりを滑り、狭い足場でも平然と戦う。
あれは単純に身体能力が高いだけじゃない。どんな状況でも、足元を正確に制御できるからこそ可能なのだ。
……まあ、今の俺には到底真似できないけど。
それでも、確実に近づいている。
ほんの少しずつ。
そう思えることが、何より嬉しかった。
*
「カズくん、最近ほんとによく走ってるよね」
ある日の放課後。校庭の隅で息を整えていると、安達が声を掛けてきた。
「ああ。まあな」
「最初の頃、すぐ筋肉痛になってたのに」
「……その話、いつまで引っ張るんだよ」
「あはは! だって面白かったんだもん!」
……こいつ。人の苦労を何だと思ってるんだ。
安達とは、この二か月で以前より話す機会が増えていた。
きっかけは最初の競走だ。それから何度か勝負をしているうちに、自然と顔を合わせるようになった。
もちろん、安達には陸上部の練習がある。俺も毎日一緒に走っているわけではない。ただ、部活が終わった後に少し話したり、たまに競走したり。
そんな関係が続いていた。
「で、今日はどうする?」
安達が、にやっと笑う。
「また勝負する?」
「……いいぜ」
「おっ、やる気じゃん!」
「今度こそ勝つからな」
「ふふっ。何回目、その台詞?」
「……覚えてねえよ」
「私は覚えてるよ?」
「言わなくていい!」
安達が声を上げて笑った。
……くそ。余裕ぶりやがって。
だが、今回は少し自信があった。
この二か月、A・Tだけを練習していたわけじゃない。走り込みも続けていた。短距離のダッシュ、姿勢の確認、体幹の強化、柔軟性の改善。前世の知識も使って、無茶をしない範囲で練習内容を組み立ててきた。
その成果は、自分でも感じている。
以前より最後まで速度が落ちにくくなった。加速するときに余計な力を使わなくなった。何より、足が自然に前へ出る感覚がある。
……今日こそ。
「じゃ、いつものところまでね!」
「おう」
二人で校庭の直線に並ぶ。
安達が軽く膝を曲げた。俺も同じように姿勢を落とす。
「よーい……」
息を整える。視線は前。力みすぎない。最初の一歩を大きく出しすぎない。
「スタート!」
二人同時に飛び出した。
――タンッ!
地面を蹴る。
最初の数歩は、安達がわずかに前へ出た。相変わらずスタートがうまい。身体の起こし方に無駄がない。
……けど、今日は置いていかれない。
五歩、六歩。
徐々に速度が乗ってくる。安達の背中が近づき、肩が並ぶ。
「……っ!」
安達が、ちらりとこちらを見た。その顔に、少し驚いたような表情が浮かぶ。
――まだだ。ここから。
最後の数歩。
今までなら、ここで身体が浮いていた。力んで、上へ跳ねるような走り方になっていた。
だから今日は、意識して重心を前へ運ぶ。余計な力は入れない。足を速く回そうとするのではなく、地面を後ろへ押す。
その瞬間。
身体が、すっと前へ出た。
「――っ!」
風が耳を抜ける。ゴールの線が近づく。
そして。
――タンッ!
二人が、ほとんど同時に線を越えた。
「はぁっ……はぁっ……!」
速度を落とし、振り返る。安達も息を整えながら、こちらを見た。
「……今の」
「ああ」
「……カズくんの勝ち?」
「……だよな?」
一瞬、二人で顔を見合わせた。
そして。
「……っしゃあ!」
思わず拳を握った。
勝った。ついに、安達に勝った!
「やった! 初勝利!」
「ちょっと! そんな喜ばなくてもよくない!?」
「いや、喜ぶだろ!」
「もー! 悔しい!」
安達が頬を膨らませる。その顔が妙におかしくて、思わず笑ってしまった。
「……何笑ってんの!」
「いや、いつも俺が負けてたからさ」
「だからって!」
「いやぁ、勝つって気持ちいいな!」
「……カズくん、ちょっと性格悪くなってない?」
「気のせいだろ」
「絶対違う!」
そう言って、安達は俺の肩を軽く叩いた。
……まあ、今回は許してやろう。何せ、勝者だからな。
「……でもさ」
安達が、ふと真面目な顔になった。
「カズくん、本当に速くなったよね」
「……そうか?」
「うん。最初の頃と全然違う」
彼女は少し考えてから、続けた。
「特に最後の伸び。あれ、すごかった」
「……最後?」
「うん。途中から急に加速したみたいだった」
……なるほど。
確かに、自分でもそんな感覚があった。足の動きが急に軽くなった。身体の重心と、地面を蹴るタイミングが噛み合った。
ほんの一瞬だけ、余計な力を使わずに速度が伸びた気がした。
「……ありがとな、安達」
「え?」
「最初の頃、走り方いろいろ教えてくれただろ」
「ああ……うん」
「結構、参考になった」
そう言うと、安達は少しだけ目を丸くした。それから、ふいっと顔を逸らす。
「……べ、別に。大したことしてないし」
「いや、助かったよ」
「……そういうの、いちいち真面目に言わなくていいって!」
「何だよ、それ」
「何でもない!」
安達が、少しだけ早口になった。
……何だ? 急に機嫌悪くなったのか?
よく分からない。けれど、その後こちらを見て笑った顔は、いつもと変わらなかった。
「……でも、次は負けないからね!」
「おう。俺も負けねえよ」
「絶対だからね!」
そう言って、安達は友達のところへ走っていった。
俺はその後ろ姿を見送りながら、軽く息を吐いた。
「……よし」
目標、一つ達成。安達に勝った。
もちろん、たった一度の勝利だ。次も勝てる保証はない。それでも、自分が少しずつ成長していることを、はっきり実感できた。
……いいな、こういうの。
*
そして、その日の夜。
俺は河川敷で、もう一つの練習をしていた。
A・Tの加減速。今の俺にとって、最も重要な課題だ。
安達との競走で感じた、あの加速の感覚。身体の重心と足の動きが噛み合った瞬間。それを、A・Tでも再現できないだろうか。
「……やってみるか」
舗装された広場の端に立つ。
目の前には、一定の間隔で置いたペットボトル。最初の一本まで加速。そこで減速し、方向転換。次の一本へ向けて再加速。
単純な練習だ。だが、速度を上げるほど難しくなる。
「……よし」
駆動を入れる。
――ウィン。
A・Tが動き出す。
少しずつ加速。最初のペットボトルが近づく。
そこで、重心を落とす。左足の角度を変え、減速。
――キュッ!
曲がる。そして、すぐに再加速。
「……っ!」
足元から、力が伝わる。身体が前へ押し出される。
……今だ。
踏み込む。右足、左足、もう一度右足。
速度が伸びる。
「……おおっ!」
さっきより、明らかに速い。
今までなら、曲がった後に大きく速度を落としていた。だが今回は、減速から加速への切り替えが滑らかだった。
……なるほど。そういうことか。
速く走るだけじゃない。どれだけ速度を落とさずに、次の動作へ繋げられるか。
そこが重要なんだ。
「……面白え!」
自然と笑みがこぼれる。
もう一度。今度は、少し速度を上げる。
最初のペットボトル。減速。方向転換。再加速。
次のペットボトル。また減速。そして、加速。
――ギュンッ!
「……っ!」
身体が、軽い。
足元のA・Tが、まるで自分の足の延長のように感じられる。
もちろん、まだ完全ではない。速度を上げすぎれば、すぐに制御が乱れる。古いA・Tの出力差もある。
それでも、少なくとも今は、俺の意思にA・Tが応えている。
……これだ。俺が欲しかった感覚は。
そのまま最後のペットボトルを回り込み、緩やかに減速する。
――キュッ。
停止。
「……はぁっ!」
息を吐いた。心臓が、激しく鳴っている。
それでも、気分は最高だった。
「……やった」
思わず呟く。
ただ速く走るだけなら、もっと簡単な方法があるかもしれない。だが、速度を自分の意思で操る。加速する。減速する。そして、また加速する。
その一連の動きが、ようやく繋がり始めた。
「……なるほどな」
ふと、原作の記憶が頭をよぎった。
炎の道。時の技。カズが、最後には使いこなすことになる能力。
あれらも、こうした基礎の先にあるのだろうか。
速度を上げるだけではない。速度を操る。相手より速く動くのではなく、相手が反応できない瞬間を作る。
そのために必要なのは、ただの最高速度ではない。
加減速。タイミング。そして、技術。
「……ははっ」
自然と笑ってしまった。
……まだまだ先は長いな。それでも、少しだけ道が見えてきた気がした。
*
それから、さらに一か月が過ぎた。
俺の生活は、相変わらず練習中心だった。
朝は学校。放課後は走り込み。夜はA・T。
もちろん、毎日無茶をしているわけではない。疲労が強い日は休む。身体の調子が悪ければ、軽い練習だけにする。時には、何もしない日もあった。
……その代わり、休んだ翌日は妙に身体が軽く感じることがある。
以前なら、休むことは練習をサボることだと思っていたかもしれない。だが今は違う。
走るために、休む。
それもまた、必要なことなのだろう。
そうして、少しずつ。本当に少しずつ、俺は速くなっていった。
直線の加速。急な減速。狭い場所での方向転換。低い段差への対応。
どれも、以前より滑らかになっている。
ただ、大きな問題が一つあった。
「……実戦経験、ゼロなんだよな」
河川敷のベンチに座り、思わず呟く。
練習では、それなりに走れるようになった。けれど、誰かとA・Tで戦ったことはない。
他のライダーが、どんな動きをするのか。どれくらいの速度で攻めてくるのか。どうやって相手の攻撃を避けるのか。
そういうことは、まだ何も分からない。
もちろん、原作知識はある。だが、漫画で見ているのと、実際に相手をするのでは話が違う。
……どうするか。
そろそろ、他のライダーと走ってみたい。できれば、実戦経験を積みたい。
だが、いきなり格上に喧嘩を売るのは論外だ。今の俺は、まだ初心者を抜け出した程度。無茶をすれば、普通に大怪我をするだろう。
「……まあ、焦るなってことか」
そう自分に言い聞かせて、立ち上がる。
もう少しだけ練習して帰ろう。
そう思った、そのときだった。
「おい、そこの金髪!」
「……ん?」
聞き慣れない声がした。
振り返る。
そこには、A・Tを履いた少年たちが三人立っていた。
年齢は、俺より少し上くらいだろうか。いかにもストリートで走り慣れていそうな格好。足元のA・Tも、俺の中古品よりは随分と新しそうだった。
……何だ?
「お前さ、最近ここでよく走ってるよな?」
先頭の少年が、にやりと笑う。
「ああ。まあ」
「へえ?」
少年は俺の足元を見た。
「……何だ、そのボロいA・T」
「……中古だからな」
「ははっ! そんなので走ってんのかよ!」
後ろの二人が笑い出す。
……感じ悪いな。
とはいえ、事実なので反論しづらい。俺のA・Tは確かに古い。傷だらけだし、出力も高くない。
だが、気に入っている。
これで何度も転び、何度も練習してきた。ようやく、自分の足のように扱えるようになってきたところだ。
だから。
「……別に、走れりゃいいだろ」
そう返すと、先頭の少年が少しだけ眉を上げた。
「……へえ?」
にやりと笑う。
「言うじゃん、お前」
「……何が?」
「いや、別に」
少年は少しだけ身体を傾けた。
そして。
――ギュンッ!
「……っ!?」
一瞬だった。
少年の身体が、俺の横をすり抜ける。
速い。反応する暇もなかった。次の瞬間には、俺の背後へ回り込んでいた。
「……どうよ?」
少年が笑う。
「これがA・Tってもんだぜ」
「…………」
思わず、息を呑んだ。
……なるほど。
練習で身につけた速度とは、全然違う。
相手の動き。間合い。加速するタイミング。すべてが、予想より速かった。
「……お前、結構走れるみたいだけどさ」
少年が続ける。
「一人で練習してても、限界あるぜ?」
「……まあ、そうだろうな」
「だったらよ」
少年は、楽しそうに笑った。
「ちょっと、俺たちと遊んでみねえ?」
「……遊ぶ?」
「ああ」
後ろの二人も、にやにやしている。
「せっかくだし、勝負しようぜ」
「……勝負?」
「お前の腕、見せてみろよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ高鳴った。
……来た。
初めての、他のストームライダーとの勝負。
相手がどれくらい強いのかは、まだ分からない。少なくとも、さっきの動きは俺より上だった。
だが、だからこそ。
「……いいぜ」
気づけば、そう答えていた。
少年が、にやりと笑う。
「へえ。やる気じゃん」
「ただし」
「ん?」
「勝負の内容くらい、先に教えてくれよ」
「……ははっ!」
少年が笑った。
「いいねえ、お前!」
その笑い方を見ながら、俺は小さく息を吐いた。
……さて。
原作では、まだA・Tにすら乗っていない時期。そんな俺が、初めてストームライダーと勝負する。
勝てるかどうかなんて、分からない。むしろ、相手の方が経験は上だろう。
それでも、少なくとも逃げるつもりはなかった。
「……やってやるよ」
軽く膝を曲げる。足元のA・Tが、低い音を立てた。
胸が高鳴る。
怖さがないわけじゃない。だが、それ以上に楽しみだった。
……ようやくだ。
ようやく、自分の力を試すときが来た。