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「……で、イッキの奴は?」
「んあ? あそこで寝てんじゃん」
昼休み。
オニギリが顎で示した先では、イッキが机に突っ伏していた。
……いた。
よかった。とりあえず、今日も元気に寝てやがる。
「何だよ、カズ。お前、朝からずっとイッキのこと気にしてんな」
「……ちょっとな」
「もしかして、そっちに目覚めた?」
「ぶっ飛ばすぞ」
「冗談だって!」
オニギリが笑いながら逃げていく。
……ったく。
こっちの気も知らねえで。
もっとも、あいつらがいつも通りなのは、悪いことじゃない。
昨日、学校の生徒が駅の向こうで不良に絡まれたという話を聞いた。
別の学年の男子だったらしいが、幸い大した怪我はなかったそうだ。
ただ、場所がよくない。
シンから聞いた話では、あの辺りは最近、髑髏十字軍(スカル・セイダース)の連中が出入りしているらしい。
……そろそろ、か。
イッキが間垣たちと揉める事件。
原作では、こいつが本格的にA・Tの世界へ足を踏み入れるきっかけになる出来事だ。
危険な場所については、それとなくイッキにも伝えてある。
だが、いつ、どこで事件が起きるのかまでは覚えていない。
……まさか、一日中見張ってるわけにもいかねえしな。
「……どうするかな」
携帯を取り出した、そのときだった。
「カズくーん!」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、教室の入り口から安達が手を振っていた。
「ちょっといい?」
「ん? どうした?」
「今日の放課後なんだけどさ、また競走しない?」
……ああ。
そういえば、昨日は結局決着がつかなかったんだっけ。
「……悪い。今日もちょっと用事があるんだ」
「えーっ、またぁ?」
安達が頬を膨らませる。
「またって何だよ」
「だって最近、カズくん忙しそうなんだもん。全然付き合ってくれないじゃん!」
「……すまん。今度ちゃんと付き合うから」
「ほんと?」
「ああ。今度は勝ち逃げしねえよ」
「あっ! それ言う!?」
安達が笑った。
「この前のは、まだ決着ついてないからね!」
「はいはい」
「何その返事! 絶対分かってないでしょ!」
……分かってるって。
言い返そうとしたところで、安達がふと首を傾げた。
「……ねえ、カズくん」
「ん?」
「最近、何かあった?」
「……何で?」
「いや、何となく。ちょっと難しい顔してること多いからさ」
……そんな顔してたか?
「別に、大したことじゃねえよ」
「……そっか」
安達は俺の顔を覗き込んだ。
それから、いつもの調子で笑う。
「じゃ、今度こそ約束ね! 次は絶対勝つから!」
「おう。楽しみにしてる」
「ふふん! 今のうちに余裕こいてればいいんだから!」
安達はそう言って、手を振りながら戻っていった。
……まったく。
ほんと、元気な奴だな。
少しだけ気が楽になった。
イッキは相変わらず机に突っ伏している。
安達は、さっきまでの会話が嘘みたいに、友達と笑っていた。
教室の窓からは、昼休みの校庭が見える。
……何事もなきゃ、それが一番なんだけどな。
*
放課後。
俺は一度帰宅し、A・Tを持って駅の反対側へ向かった。
シンから教えてもらった、古いゲームセンターの周辺だ。
ここ数日、この辺りで学校帰りの生徒が不良に絡まれるという話が続いている。
もし髑髏十字軍の仕業なら、何か痕跡くらいあるかもしれない。
もちろん、一人で喧嘩を売るつもりはない。
相手は、武器まで持ち出す連中だ。
見つけたところで、無理に突っ込まず警察に通報するつもりだった。
……俺はストームライダーになりたいんであって、不良と殴り合いたいわけじゃねえからな。
「……にしても、雰囲気悪いな」
古いゲームセンター。
シャッターの閉まった店。
自転車が何台も放置された、薄暗い路地。
壁には、見覚えのある髑髏のステッカーが貼られていた。
……やっぱり、この辺か。
辺りを見回しながら、ゆっくり歩く。
しばらく探してみたが、それらしい集団は見当たらなかった。
……空振りか?
今日はもう帰った方がいいかもしれない。
そう思いかけたときだった。
――ガァンッ!
「……っ!?」
遠くから、何かが激しくぶつかる音が響いた。
続いて、金属が地面を転がるような音。
「……何だ?」
足を止める。
シャッターの閉まった建物の向こう。
古びた倉庫の方から、男たちの怒鳴り声が聞こえてきた。
……まさか。
俺はA・Tの駆動を入れ、そちらへ向かった。
角を曲がったところで、今度ははっきり聞こえた。
「女の子たちは関係ねえだろっ!!」
「……っ!」
イッキ!?
考えるより先に、身体が動いていた。
――ギュンッ!
*
倉庫の入り口へ辿り着き、俺は思わず足を止めた。
……何だよ、これ。
薄暗い倉庫の中。
積み上げられた木箱や廃材の間に、十人以上の男たちがいた。
その何人かはA・Tを履いている。鉄パイプや木製の棒を手にしている奴までいた。
そして、その真ん中。
……イッキ。
見慣れた制服は汚れ、頬には血が滲んでいた。
足元には倒れた男が二人ほど転がっている。
どうやら、すでに相当暴れたらしい。
……おいおい。
素手でA・T履いた連中とやり合ったのかよ。
だが、イッキも無事ではなかった。
肩で息をし、足元がふらついている。
制服のズボンにも、妙な染みが広がっていた。
……あ。
原作の場面が、頭をよぎる。
間垣たちに囲まれ、追い詰められたイッキが、恐怖のあまり失禁してしまう場面。
……もう、そこまで。
「……おいおい。何だよ、そのざま」
大柄な男が、イッキを見下ろしていた。
間垣。
髑髏十字軍のリーダーだ。
「自分のことも守れねえくせに、まだ女の心配してんのか?」
「……っ、うるせえ……!」
イッキが顔を上げる。
「そいつらは……関係ねえだろ……!」
声が掠れていた。
それでも、立っている。
倉庫の奥へ視線を移すと、制服姿の女の子たちが三人、壁際に身を寄せ合っていた。
泣いている子もいる。
一人は腕を掴まれていて、逃げようとするたびに男から引き戻されていた。
……くそっ。
思っていたより、ずっとひどい。
俺は拳を握り締めた。
だが、ここで頭に血を上らせても仕方がない。
相手は十人以上。
しかも、武器を持った奴までいる。
……まともにやり合ったら、間違いなく負ける。
とにかく、あの子たちを逃がさないと。
「……おい、イッキ!」
俺が叫ぶと、イッキが振り返った。
「……カズ!?」
目を見開く。
だが、すぐに怒鳴ってきた。
「何しに来やがった! お前まで来んな!」
「うるせえ! こっちの台詞だ!」
「……何だ、てめえ?」
間垣が、ゆっくりこちらへ顔を向ける。
「お前もそいつの仲間か?」
「……ああ」
答えながら、俺は周囲を見回した。
……でけえな。
原作で見ていた間垣より、ずっと威圧感がある。
腕も太い。
鉄パイプを持っているわけでもないのに、近づきたくないと思わせる何かがあった。
「……へえ」
間垣が笑う。
「今日は随分、元気なガキが多いなあ?」
周囲の男たちも、下卑た笑い声を上げた。
……落ち着け。
あいつと殴り合う必要はない。
女の子たちと出口の間には、二人の男。
左側には木箱が積まれている。
右側は広いが、間垣の近くを通らなければならない。
……なら、左だ。
「……なあ、イッキ」
「……あ?」
「ちょっとだけ、そっち頼む!」
「……は?」
イッキが怪訝そうな顔をする。
俺は答えるより先に、地面を蹴った。
――ギュンッ!
「……っ!?」
「おい、待て!」
男たちが反応する。
だが、俺は正面へ向かわなかった。
木箱の陰へ滑り込み、そのまま左へ回り込む。
「……てめえ!」
行く手に男が立ちはだかった。
腕を広げ、捕まえようとしてくる。
……っ!
俺は急減速をかけた。
――キュッ!
身体を横へ滑らせ、相手の脇を抜ける。
「……なっ!?」
男が振り返るより先に、その横を通り過ぎた。
……よし!
倉庫の奥。
女の子たちがこちらを見る。
「……大丈夫か!?」
「……っ!」
声を掛けると、一人がびくっと肩を跳ねさせた。
そりゃそうだ。
いきなり知らない奴が滑り込んできたんだからな。
「俺、あそこの学校の生徒! 助けに来た!」
「……えっ?」
「走れるか?」
小さく頷く。
だが、腕を掴まれていた子だけは動けなかった。
「おい、てめえ!」
男が、その子の腕を乱暴に引く。
「余計なことしてんじゃねえぞ!」
……くそっ。
俺は男の足元へ踏み込んだ。
――キュッ!
「……うおっ!?」
急な切り返しに、男の視線が足元へ落ちる。
その隙に、掴んでいた腕を引き離した。
「……行け!」
女の子が、慌てて後ろへ下がる。
「……大丈夫。俺の後ろについてきて!」
三人が小さく頷いた。
……よし。
あとは出口まで。
そう思ったところで、背後から怒鳴り声が響いた。
「逃がすかよ!」
男たちが一斉にこちらへ向かってくる。
……まずい。
出口までの通路が狭い。
俺一人なら、どうにかすり抜けられるかもしれない。
だが、後ろには女の子が三人いる。
ここで全速力を出したところで、あの子たちはついてこられない。
……くそ。
どうする。
「……カズ!」
イッキの声が飛んだ。
振り返る。
イッキは間垣の前に立っていた。
顔から血を流しながら、それでもこちらを見ている。
「そいつら連れてけ!」
「……は!? お前はどうすんだよ!」
「俺はまだ、こいつらに用があんだよ!」
イッキが間垣を睨みつける。
……おい。
冗談だろ。
その身体で、まだやるつもりかよ。
「イッキ! 一旦引いた方が――」
「うるせえ!!」
怒鳴り声に、思わず言葉が止まった。
「お前、速えんだろ!」
「……っ」
「だったら走れよ! そいつら連れて、とっととここから出ろ!」
……イッキ。
こいつは、俺に女の子たちを託すつもりなのか。
自分は、ここに残って。
間垣が、にやにやと笑っている。
「……へえ。随分と格好いいじゃねえか、南樹くんよお」
「……黙れ!」
イッキが拳を握り直した。
……くそ。
俺は、後ろを振り返った。
女の子の一人が、俺の制服を掴んでいた。
小さな手が、震えている。
「……お願い……」
掠れた声。
「……助けて……」
「…………」
俺は奥歯を噛み締めた。
……分かった。
ここで俺まで残ったら、この子たちを誰が連れ出すんだよ。
「……イッキ!」
「あ!?」
「絶対、無茶すんなよ!」
「へっ! 誰に言ってんだ!」
……馬鹿野郎。
もう十分、無茶してんだろうが。
俺は女の子たちへ向き直った。
「行くぞ! 離れないでくれ!」
三人が頷く。
俺は速度を落とし、先頭へ出た。
出口の近くには、まだ男が一人。
「おい、待てコラ!」
男が進路を塞いだ。
……邪魔だ!
俺は一度右へ振り、相手がそちらへ動いたところで左へ切り返す。
――キィッ!
「……うおっ!?」
男の足がもつれた。
そこへ肩からぶつかる。
――ドンッ!
「ぐあっ!」
男が積まれていた木箱へ倒れ込む。
――ガラガラッ!
崩れた箱が通路を塞いだ。
……よし!
「今だ! 走って!」
女の子たちが出口へ駆け出す。
俺もすぐに追いかけた。
「てめえ! 覚えてろよ!」
背後から男の怒鳴り声が響く。
「カズとか呼ばれてたな!? 顔覚えたからな!」
……あー。
それは、ちょっと困るな。
だが、足は止めなかった。
出口へ向かう直前、一度だけ振り返る。
倉庫の奥。
イッキが、間垣へ向かって踏み込んでいた。
「――オラァッ!!」
次の瞬間。
――ドガッ!
鈍い音が響いた。
「……っ!」
何が起きたのか、見えなかった。
俺は、思わず足を止めかけた。
「……カズさん!」
女の子の声がした。
「……っ!」
振り向く。
三人が、必死にこちらを見ていた。
……くそ。
「……行こう!」
俺は再び走り出した。
*
倉庫から十分ほど離れたところで、ようやく大通りへ出た。
駅へ続く道には人通りがある。
明るい店も、まだ開いていた。
「……ここなら、大丈夫だと思う」
俺が声を掛けると、女の子たちは小さく頷いた。
一人は泣いていた。
もう一人は、まだ何度も後ろを振り返っている。
……無理もねえよな。
「……怪我は?」
できるだけ落ち着いた声で聞く。
「どこか痛いところ、ない?」
「……だ、大丈夫です」
「腕とか、見せてもらってもいい?」
さっき掴まれていた子の手首には、赤い跡が残っていた。
……くそ。
あいつら。
「……誰か、迎えに来てもらえる人いる?」
「……お母さんが……」
「じゃあ、電話しよう。ここで待ってるから」
女の子が、小さく頷いて携帯を取り出した。
俺も、少し離れた場所から警察へ通報した。
倉庫の場所と、男たちの人数。
武器を持っていたことも伝える。
事情を一通り話し終える頃には、女の子たちも家族と連絡が取れていた。
……よし。
あとは迎えが来るまで、ここにいればいい。
……でも。
携帯の時計を見る。
イッキは、まだあそこにいるんだろうか。
原作では、間垣に敗れる。
それは覚えている。
けれど、今はもう原作と同じ状況じゃない。
俺が現れ、女の子たちを逃がした。
連中を何人か倒し、騒ぎも大きくした。
そのせいで、間垣が余計に腹を立てていたら?
……いや。
考えても仕方ない。
分かっている。
分かっているんだけど。
「……あの」
声を掛けられた。
見ると、女の子の一人がこちらを見上げていた。
「……ありがとうございました」
「……ん?」
「助けてくれて……本当に……」
声が震え、途中で言葉が詰まる。
俺は少し困ってしまった。
何て返せばいいんだろうな。
「……いや。怪我がひどくなくてよかったよ」
そう言うと、女の子は目元を拭った。
それから、何度も頭を下げてきた。
……そんなに頭下げなくていいのに。
そう思ったが、口には出さなかった。
やがて、迎えの家族が到着した。
女の子たちは母親らしい女性たちの姿を見つけるなり、駆け寄っていった。
張り詰めていたものが切れたのか、そこでまた泣き出した子もいた。
……ああ。
よかった。
本当に。
事情を簡単に説明し、警察へ通報済みであることも伝えた。
家族の人たちは何度も頭を下げてくれたが、俺は早々にその場を離れようとした。
「……じゃあ、俺はこれで」
そう言って歩き出しかけたときだった。
「……あの!」
振り返る。
女の子の一人が、こちらを見ていた。
「……イッキくんにも……」
「……ん?」
「……ありがとうって、伝えてください」
「…………」
胸の奥が、ぎゅっと縮まった。
「……ああ」
俺は頷いた。
「ちゃんと伝えとく」
そう答えて、踵を返す。
……早く戻らないと。
*
――ギュンッ!
人通りの少ない道へ入ったところで、A・Tの速度を上げた。
足元が唸る。
街灯が、次々と後ろへ流れていく。
……頼む。
間に合ってくれ。
原作では、イッキは敗北する。
だが、死ぬわけじゃない。
俺は、その結末を知っている。
……だから、大丈夫。
そう思おうとした。
だが、すぐに別の考えが浮かんでくる。
……本当に?
俺が介入したことで、未来が変わっている可能性はある。
間垣が、原作以上に激しく暴行していたら?
そもそも、あいつらは武器まで持っていた。
……くそっ。
俺はさらに踏み込んだ。
――ギュンッ!
狭い路地を曲がる。
倉庫へ続く道が、もうすぐ見える。
そのときだった。
「……っ!」
俺は、思わずブレーキをかけた。
――キィッ!
路地の向こう。
一人の少年が、こちらへ歩いてきていた。
……イッキ。
見間違えるはずがない。
いつもの黒髪。
見慣れた制服。
だが、その姿はひどいものだった。
顔は腫れ、頬には血が滲んでいる。
制服の上着も汚れ、ところどころ破れていた。
そして。
……あいつら。
下半身の服まで奪われたらしい。
イッキは上着の裾を必死に引っ張り、身体を隠しながら歩いていた。
俺は、言葉を失った。
原作で知っていた。
こうなることを。
だが、実際に目の前で見るのは、全然違った。
イッキは、俯いていた。
肩が小さく震えている。
最初は、怪我の痛みを堪えているのかと思った。
だが。
……泣いてる。
あのイッキが。
いつも偉そうにして、馬鹿みたいに笑っている奴が。
……くそっ。
足元のA・Tが、かすかに音を立てた。
イッキが顔を上げる。
目が合った。
「……イッキ」
「…………」
イッキの肩が、びくっと跳ねた。
少しの間、俺たちは何も言わなかった。
やがて、イッキが顔を背けた。
「……見んなよ」
掠れた声だった。
「……ああ」
俺は、ゆっくり背を向けた。
何か言わなきゃ。
そう思った。
けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
大丈夫か。
よく頑張ったな。
仕方なかったよ。
……違う。
今、そんなことを言われて、こいつが喜ぶわけがない。
俺は制服の上着を脱いだ。
そして、振り返らずに後ろへ差し出す。
「……これ、使えよ」
「…………」
「腰に巻いとけ。少しは隠れるだろ」
「……いらねえ」
小さな声が返ってきた。
「……いいから」
「……うるせえ」
それきり、何も聞こえなくなった。
俺は上着を差し出したまま、待った。
しばらくして。
手から、上着が引き抜かれた。
衣擦れの音がする。
それから、足元で小さく布が揺れた。
「…………」
俺は、振り返らなかった。
「……カズ」
「ん?」
「……誰にも言うなよ」
その声は、ひどく小さかった。
「……ああ」
俺は頷いた。
「言わねえよ」
また、沈黙。
遠くを車が通り過ぎていく。
イッキの足音が、少しずつ遠ざかった。
……おい、イッキ。
一緒に帰るか?
そう声を掛けようとして、やめた。
あいつは今、誰にも顔を見られたくないんだろう。
俺にだって。
「…………」
やがて、足音が聞こえなくなった。
俺は、ようやく振り返った。
路地の先。
イッキの姿は、もう見えなかった。
……くそっ。
もっと早く来られれば。
そんな考えが浮かんだ。
だが、すぐに思い直す。
あの子たちを置いてくるわけにはいかなかった。
イッキ自身が、連れて逃げろと言ったんだ。
俺は、その言葉に従った。
それでも。
……だからって、平気なわけねえだろ。
俺は、しばらくその場から動けなかった。
*
その夜。
俺は自室で、机の上にA・Tを置いた。
いつもなら車輪を拭き、軽く点検してから練習ノートを開く。
だが、今日は何もする気になれなかった。
椅子へ座り、ぼんやりと靴を眺める。
……イッキ、大丈夫かな。
携帯を取り出す。
トーク画面を開いて、文字を打ちかけた。
『無事に帰れたか?』
……いや。
今は、そっとしといた方がいいか。
結局、何も送らずに携帯を伏せた。
昼間のことが、何度も頭に浮かぶ。
『お前、速えんだろ! だったら走れよ!』
……ああ。
走ったさ。
あの子たちを連れて、必死になって。
ちゃんと逃がすこともできた。
怪我も大したことはなかった。
家族のところへ帰すことだってできた。
……よかった。
それは、本当にそう思う。
でも。
路地で見たイッキの顔が、どうしても頭から離れなかった。
「……くそっ」
俺は、机の上のA・Tを見た。
傷だらけの中古品。
この世界で前世の記憶を取り戻してから、もうすぐ半年になる。
最初は何もかもが信じられなかった。自分がカズになっていることも、イッキたちが目の前にいることも。
それでも、未来を変えたくて走り始めた。
A・Tを手に入れてからも、もう三か月ほど経つ。
最初は立つことさえできなかった。
何度も転び、擦り傷を作り、それでも走り続けた。
何度も転び、擦り傷を作り、それでも走り続けた。
シンとの勝負にだって勝った。
少しは、強くなれたと思っていた。
……実際、強くはなったんだろう。
今日、あの子たちを助けられたのは、そのおかげだ。
昔の俺だったら、倉庫の入り口で足がすくんでいたかもしれない。
あの人数を前にして、何もできなかったかもしれない。
だから。
三か月間の練習が無駄だったとは、思わない。
ただ。
……足りなかった。
俺は、机の上のノートを開いた。
昨日までの練習記録が、細かく並んでいる。
加速。
減速。
コーナリング。
成功したこと。失敗したこと。
次に試したいこと。
何度も書き直した数字や、汚い字で書かれた反省が並んでいた。
……今日は、何を書けばいいんだろうな。
ペンを握る。
紙の上へ先端を落としかけて、止まった。
倉庫の中。
イッキが、俺を見て叫んでいた。
『お前、速えんだろ!』
そして、帰り道。
『……見んなよ』
あの声が、耳から離れなかった。
「…………」
俺は、ペンを置いた。
ノートを閉じる。
部屋が、妙に静かだった。
しばらくして、携帯が震えた。
画面を見る。
安達からだった。
『カズくん、次こそ絶対勝つからねー! 逃げちゃダメだよ!笑』
……ああ。
そういえば、約束したんだっけ。
何でもない、いつものメッセージ。
昨日までなら、すぐに何か言い返していただろう。
けれど、今は返事が浮かばなかった。
俺は画面を伏せ、椅子の背もたれに身体を預けた。
……明日、イッキと何て話そう。
昼間までは、あんなに普通だったのにな。
机の上には、閉じたままのノート。
その隣には、傷だらけのA・T。
結局、その日の練習記録は、一行も書けなかった。