月に寄り添う勇者   作:Katarina T

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目が覚めたら勇者だった……いや、なんで?

 世の中には、ときに物語でさえ描ききれない不思議な出来事があります。

 事実は小説より奇なり、瓢箪から駒、明日は明日の風が吹く………いや、最後のは少し違いますね。

 とにかく何が言いたいかというと、何気ない日常を当たり前のように過ごしていても、ある日、何の前触れもなく、思いもよらない出来事が起きることがあります。

 そして、その一瞬を境に、それまでの日常が跡形もなく変わってしまうことがあるんです。

 

────まさに、今の私のように。

 

 

■■■

 

 

――ピピッ、ピピッ。

 

 そんな電子音が聞こえた気がした。

 

 けれど、次の瞬間に耳を打ったのは、鳥のさえずりと、木々の葉が擦れ合う乾いた音だった。

 

「……ん、んん……?」

 

 目を開ける。

 

 視界いっぱいに広がっていたのは、青空だった。

 

 雲がゆっくりと流れ、見慣れない枝葉が頭上を覆い、木漏れ日が顔に落ちていた。

 

 頬には湿った土の感触。背中には、硬い木の根が当たっている。

 

 どうやら自分は、森の中で寝転がっていたらしい。

 

「……ここ、どこですか?」

 

 声が出た。

 

 鈴を転がすような、澄んだ声だった。

 

 自分の耳に届いたそれに、思わず首を傾げる。

 

 今の声は、誰のものだ?

 

 いや、それ以前に。

 

 ――自分は、誰だ?

 

 起き上がろうとした瞬間、頭の奥に鈍い痛みが走った。

 

「っ……!」

 

 額を押さえる。痛みはすぐに引いていったが、その代わりに、胸の奥へ冷たいものが沈んでいった。

 

 何も思い出せない。

 

 自分の名前。生まれた場所。家族。友人。昨日、何をしていたのか。

 

 何ひとつ、思い出せなかった。

 

 それどころか、自分が男だったのか、女だったのかさえ、まるでわからない。

 

 記憶の棚が空っぽなのではない。

 

 棚そのものが、最初から存在しなかったかのようだった。

 

「……えっと。と、とりあえず落ち着きましょう。」

 

 自分に言い聞かせる。

 

 不思議と、混乱は長続きしなかった。

 

 状況が理解できないのなら、まずは状況を確認する。それが正しい手順だと、頭のどこかが告げている。

 

 そう考えられる程度には、自分の中に何かが残っているらしい。

 

 ひとまず、両手を地面について立ち上がる。

 

 そのとき、視界の端で何かが揺れた。

 

「……ん?」

 

 自分の髪だった。

 

 長い、黒いの髪。陽光を受けて、淡く輝いている。

 

 恐る恐る毛先をつまむ。指先に伝わる感触は、妙に現実的だった。

 

 次に、自分の服を確認する。

 

 白を基調とした、見覚えのあるような衣装。青いライン。機械的な意匠。腰のあたりには見慣れない装備があり、頭上には――。

 

 そこまで考えたところで、何かが頭の上にあることに気づいた。

 

 手を伸ばしてみるが指先に何か触れるような感覚は無かった。

 

 気のせいかと思い、ふと視線を落とすと森の中に出来た小さな水たまりが目に留まった。

 

 覗き込んだ瞬間、動きが止まった。

 

 水面に映っていたのは、見知らぬ少女だった。

 

 地面まで届くほど長い黒髪。青い瞳。幼さの残る顔立ち。頭上に浮かぶ、幾何学的な光輪。

 

 その姿には、見覚えがあった。

 

 いや、正確には――。

 

「……天童、アリス?」

 

 口から、自然にその名前がこぼれた。

 

 ブルーアーカイブ。

 

 天童アリス。

 

 ゲームのキャラクター。

 

 そのはずだった。

 

 記憶の大半を失っているにもかかわらず、その名前と、彼女が何者であるかという知識だけは、頭の中にはっきりと残っていた。

 

 奇妙な感覚だった。

 

 自分自身については何ひとつわからない。

 

 それなのに、目の前の少女については知っている。

 

 そして、その少女の姿をした自分が、水面の向こう側からこちらを見つめていた。

 

「……えっ?」

 

 頬をつねる。

 

 痛い。

 

 もう一度つねる。

 

 やっぱり痛い。

 

「これって……夢じゃない、ですよね……?」

 

 声が震えた。

 

 冗談のような状況だった。

 

 ゲームのキャラクターになっている。しかも、自分の記憶がない。どうしてそうなったのかもわからない。

 

 普通なら、ここで大声を上げるべきなのだろう。

 

 しかし、アリスの姿になった自分は、しばらく水面を見つめたあと、小さく息を吐いた。

 

「……とりあえず、生きてるから大丈夫、でしょうか?」

 

 妙に前向きな言葉だった。

 

 けれど、そうでも考えなければ、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだった。

 

 まずは水を探す。

 

 次に食料。

 

 それから、人のいる場所を見つける。

 

 ひとつずつ問題を解決していこう。

 

 そう決めて歩き出そうとした、そのときだった。

 

 ふと、違和感に気づく。

 

「……静か、ですね?」

 

 森は生きていた。

 

 鳥の声がする。虫の羽音もする。遠くでは、何か大きな動物が枝を踏み折る音さえ聞こえる。

 

 だが、何かが決定的に欠けていた。

 

 人工物の気配が、まったくないのだ。

 

 道路も、建物も、電柱もない。

 

 当然、携帯電話の電波もなければ、人工衛星の信号もない。

 

 空を見上げても、飛行機雲ひとつなかった。

 

 そもそも、ここは本当に日本なのだろうか。

 

 アリスは周囲を見渡した。

 

 木々の隙間から、遠くに山並みが見える。森の向こうには、かすかに水面らしきものが光っていた。

 

 地形だけなら、日本のどこかだと言われても納得できる。

 

 しかし、空気が違う。

 

 匂いが違う。

 

 世界そのものが、知っている世界とは異なっているような気がした。

 

 そのとき。

 

───ピッ。

 

 不意に、頭の中で電子音がなった。

 

「……へ?」

 

 それと同時、視界の隅に見覚えのない文字列が浮かび上がった。

 

 まるでゲームのステータス画面のような、半透明のウィンドウ。

 

 しかし、そこに表示されていた内容は、アリスの想像を遥かに超えるものだった。

 

 

≪環境情報を取得しました。≫

≪現在地:不明≫

≪現地時間:西暦換算……不能≫

≪推定年代:紀元前6000年頃≫

 

 

「………え。ま、まって下さい。……紀元前6000年って。」

 

 

 紀元前6000年。

 

 今からおよそ八千年前。

 

 日本列島では、縄文時代の草創期から早期にあたる頃。

 

 まだ大規模な農耕社会は成立しておらず、人々は狩猟や採集、漁労を中心に暮らしていた。

 

 もちろん、地域によって生活様式も文化も異なる。すべての人々が同じ暮らしをしていたわけではない。

 

 それでも、少なくともアリスが登場するブルーアーカイブの舞台であるキヴォトスのような文明社会ではなかった。

 

「…………」

 

 アリスは、ゆっくりと自分の手を見下ろした。

 

 白く、小さな手。

 

 その手を握りしめ、開く。

 

 何も変わらない。

 

 もう一度、周囲を見る。

 

 原生林。土。木々。遠くの山。

 

 人間の文明が生み出したものは、どこにも見当たらなかった。

 

「……八千年前?」

 

 声が、森の中に吸い込まれていく。

 

 冗談であってほしかった。

 

 何かの撮影現場であってほしかった。

 

 せめて、見知らぬ無人島に漂着しただけであってほしかった。

 

 けれど、もし本当にここが八千年前の日本なのだとしたら。

 

 自分は、歴史の教科書よりもずっと昔の世界にいることになる。

 

 スマートフォンもない。

 

 インターネットもない。

 

 電気も、水道も、病院もない。

 

 そして、頼れる人間もいない。

 

「……これ、かなり大変なことになってませんか?」

 

 アリスは、誰にともなく呟いた。

 

 返事はなかった。

 

 代わりに、森の奥から、ざり、と乾いた音がした。

 

 アリスは顔を上げた。

 

 風で枝が揺れた音ではない。

 

 足音だった。

 

 しかも、ひとつではない。

 

 ざり、ざり、ざり。

 

 複数の何者かが、こちらへ近づいてきている。

 

 アリスは息を潜めた。

 

 黒い髪を揺らし、音のした方向を見つめる。

 

 木々の間に、人影が現れた。

 

 ひとり。

 

 ふたり。

 

 さんにん。

 

 彼らは、動物の毛皮や植物の繊維で作られた衣服を身につけ、手には木の枝や石を組み合わせた道具を持っていた。

 

 そのうちのひとりが、こちらに気づいた。

 

「――ッ!」

 

 短い叫び声が上がる。

 

 彼らは一斉に立ち止まった。

 

 当然だろう。

 

 森の中に、見たこともない服を着た黒髪の少女が立っているのだ。

 

 しかも、その頭上には、見たこともない光る輪が浮かんでいる。

 

 彼らの目に、アリスはどう映っているのだろう。

 

 神の使いか。

 

 森の精霊か。

 

 それとも、人ならざる怪物か。

 

 その答えを知る術はなかった。

 

 ただひとつ、確かなことがある。

 

 彼らは、明らかに警戒していた。

 

 手にした石器を構え、仲間同士で聞き慣れない言葉を交わしている。

 

 アリスは、両手をゆっくりと持ち上げた。

 

「えっと……こんにちは?」

 

 日本語が通じるかどうかもわからない。

 

 そもそも、八千年前の人々が使っていた言葉を、現代の自分が理解できるはずもない。

 

 それでも、何も言わないよりはましだと思った。

 

「アリスは、敵じゃありません……よ。」

 

 そう言った瞬間だった。

 

 先頭に立っていた男が、石器を握る手に力を込めた。

 

 そして、怯えたような声で何かを叫んだ。

 

 次の瞬間、彼らは一斉に地面へ膝をついた。

 

「……え?」

 

 今度こそ、アリスは言葉を失った。

 

 彼らは額を地面につけ、震えていた。

 

 恐怖なのか、畏敬なのか。

 

 その両方なのか。

 

 アリスには、まだわからなかった。

 

 ただ、彼らが自分を見て、普通の人間に対するものとは違う反応を示したことだけは理解できた。

 

 頭上の光輪が、淡く輝きを増す。

 

 その光を見た男が、再び何かを叫んだ。

 

 聞き取れない。

 

 意味もわからない。

 

 それでも、その声の響きから、アリスはひとつのことを悟った。

 

 ――この人たちは、自分を恐れている。

 

 そして、恐れられる理由が、自分自身にもわからない。

 

「…………」

 

 八千年前の大地。

 

 文明の影も薄い、名も知らぬ森。

 

 記憶を失い、過去を失い、性別さえわからなくなった自分。

 

 そんな自分が、なぜか天童アリスの姿で、この時代に立っている。

 

 何が起きたのか。

 

 なぜここにいるのか。

 

 これから、どうすればいいのか。

 

 答えはひとつもなかった。

 

 それでも。

 

 アリスは、膝をついた人々を見つめながら、小さく呟いた。

 

「……まずは、言葉を覚えるところからですね」

 

 その言葉を理解できた者は、誰もいなかった。

 

 けれど、彼らのうちのひとりが、おそるおそる顔を上げた。

 

 その瞳には、恐怖の奥に、ほんのわずかな好奇心が宿っていた。

 

 それが、すべての始まりだった。

 

 紀元前6000年。

 

 歴史に名を残すことのなかった人々が暮らす、遥かなる過去。

 

 そこに、ひとりの少女が現れた。

 

 天童アリスの姿をした、記憶なき異邦人。

 

 彼女がこの時代にもたらすものが、救いなのか、災厄なのか。

 

 まだ、誰も知らない。

 

 そしてアリス自身もまた、知らなかった。

 

 

 

 この世界に現れた天童アリスという存在が、やがて一人の運命を、そして幾度となく繰り返されるはずだった輪廻の流れを、大きく変えてしまうことを。

 

 それが、遥かなる時を超えた奇跡の始まりとなることを――。

 

 ――この時、誰も知る由もなかった。

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