私たちがまだ現在のアパートへ引っ越す約三年前のことです。
私はいつものように管理者用のスマコンを使ってツクヨミへログインし、管理者用の部屋、ヤチヨの自室で運営に関する仕事をこなしていました。
仮想空間の管理というのは、華やかな見た目に反して地味な作業も多いものです。各エリアの稼働状況を確認したり、利用者からの報告に目を通したり、不具合がないか調べたり。やることは意外と尽きません。
そんな仕事の合間、私は視界の端に映るライブ配信の画面へ目を向けました。
そこでは、ヤチヨがいつものように楽しそうに歌っていました。
観客の歓声に応え、軽やかにステップを踏み、時にはいたずらっぽく笑いながら、会場いっぱいに歌声を響かせています。
何度も見てきた、いつも通りのライブ。
……のはずでした。
「……あれ?」
私は思わず手を止めました。
何かがおかしい。
いえ、別に表情や動きに目立った変化があったわけではありません。歌声も、パフォーマンスも、いつもと何ら変わりませんでした。
それなのに、なぜか目が離せなかったのです。
ヤチヨの瞳が、きらりと輝いたように見えました。
まるで、ずっと探し続けていた大切なものを、ようやく見つけたかのように。
それは、何にも代えがたい宝物を見つけた子供のような、純粋でまっすぐな輝きでした。
その後もヤチヨは、最後まで本当に楽しそうに歌い続けました。
私は仕事の手を止めたまま、その姿を眺めていました。
やがてライブが終わると、ヤチヨは観客に向かっていつもの調子で声を掛けます。
「ほいでは、本日のライブはここでクローズ♪ さらば~い」
そして、観客の反応を待つ間もなく、ツクヨミの夜空へ溶け込むように飛んでいきました。
……あれ?
いつもなら、ライブの後もしばらく観客と交流したり、感想を聞いたりするのに。
私は首を傾げながら、ヤチヨの後を追うようにログアウトしました。
*
「わっ!?」
現実世界へ戻ってきた私に、突然、誰かが抱きついてきました。
もちろん、相手はヤチヨです。
「ヤチヨ? どうしたんですか?」
突然のことに驚きながらも、私は彼女の背中に手を回しました。
顔を覗き込むと、そこには先ほどのライブで見せていた笑顔とは違う表情がありました。
瞳いっぱいに涙を溜め、今にもこぼれ落ちそうになっています。
「何かあったんですか? もしかして、悲しいことでも……」
「……今日、ライブに彩葉が来てた」
「…………え?」
その言葉を聞いて、私はようやく理解しました。
ヤチヨは悲しくて泣いているのではありません。
嬉しくて、嬉しくて、そしてどうしようもないほど溜まっていた想いが、溢れ出しているのです。
「……そうですか。彩葉が……」
ヤチヨは私の胸に顔を埋めたまま、小さく頷きました。
その表情は涙で濡れていましたが、同時に、今まで見たことがないほど幸せそうでした。長い間抱えていた不安がようやく解けたような、心の底から安堵したような笑顔です。
無理もありません。
ヤチヨにとって彩葉は、八千年もの間、ずっと会いたいと願い続けてきた大切な人です。
何度も出会いを願い、何度も別れを経験し、それでもいつかまた会えると信じてきた人。
ツクヨミを作った後、輪廻のことを知り、いつか再び出会える可能性があると分かってからも、本当にそんな未来が訪れるのか、確かな保証などありませんでした。
もしかしたら、もう二度と会えないのではないか。
そんな不安が、心のどこかにずっとあったのだと思います。
それが今日、ようやく。
彩葉が自分のライブに来てくれた。
自分の歌を聴きに来てくれた。
その事実が、どれほど嬉しかったのか。
八千年もの間、待ち続けてきたヤチヨにしか分からないことでしょう。
「……よかったですね、ヤチヨ」
「うん……。うんっ……!」
私はそれ以上、何も尋ねませんでした。
ただ、ヤチヨの頭を自分の胸元へ抱き寄せ、そっと撫でます。
よく頑張りましたね。
もう大丈夫ですよ。
これは夢ではありません。
そんな気持ちを伝えるように、何度も、何度も。
ヤチヨは私の服をぎゅっと握りしめたまま、しばらく泣き続けていました。
その間、私はずっとヤチヨの頭を撫でていました。
どれくらい時間が経ったでしょうか。
部屋の時計の針がゆっくりと進み、静かな時間が流れていきます。
途中、ヤチヨの呼吸が落ち着いたかと思えば、また思い出したように涙がこぼれることもありました。
それでも、私は急かしませんでした。
ようやく再会できた大切な人のことを思えば、八千年分の涙を流すには、これくらいの時間が必要なのかもしれません。
やがて、窓の外が夕暮れから夜へと変わる頃。
ようやくヤチヨの呼吸が落ち着いてきました。
「……えへへ。ごめんね、アリス。服、濡らしちゃった」
「大丈夫です。服は洗えば元通りになりますから」
「そっか。ならよかった」
ヤチヨは目元を拭い、少し照れくさそうに笑いました。
まだ目には涙が残っています。それでも、先ほどまでのように今にも泣き出しそうな様子はありません。
ちゃんと今が現実なのだと、確かめられたのでしょう。
「それで、彩葉はどんな人だったんですか?」
私がそう尋ねると、ヤチヨの表情がぱっと明るくなりました。
「聞いて聞いて! 彩葉ね、すっごく優しいんだよ!」
「ふふっ。はい」
「それに頼りになるし、私がかぐやだったころのワガママにもずーっと付き合ってくれてね。昔、一緒にライブをやったこともあるんだよ。あの時は本当に楽しかったなぁ……」
ヤチヨは懐かしそうに目を細めました。
「初めて会った時なんて、もう大変だったんだから! 顔がとっても綺麗でさ。私、すぐに好きになっちゃったんだよねぇ」
「それは知っています」
「えへへ。そうだったね」
聞き覚えのある話ばかりです。
それもそのはず。これらは、この八千年の間に何度も聞いてきた話なのですから。
もちろん、私自身は彩葉に会ったことがありません。ヤチヨから聞いた話や、彼女が大切にしている思い出を通して、その人柄を知っているだけです。
それでも、私は嫌な顔一つしませんでした。
むしろ、楽しそうに彩葉の話をするヤチヨを見ていると、こちらまで嬉しくなってきます。
彼女がずっと大切にしてきた思い出。
その思い出の中にいる人と、ようやく再び出会えたのです。
何度聞いた話でも、今のヤチヨから聞くと、どこか新鮮に感じられました。
「それでね、それでね――」
「はい。聞いていますよ」
そんなふうにしばらく話を聞いていると、やがてヤチヨは一通り話し終えたのか、ふっと言葉を止めました。
そして、何かを決心したように立ち上がります。
「……ねえ、アリス」
「はい?」
「ヤッチョ、ちょっと提案があるんだけど」
「提案ですか?」
「うん。これから彩葉が住むことになる場所に、私たちも引っ越さない?」
「……引っ越し、ですか?」
思いがけない提案に、私は目を瞬かせました。
「そう。昔、かぐやと彩葉が一緒に暮らしていた場所。あそこに住みたいんだ」
「なるほど……」
ヤチヨが言っているのは、かつて二人が暮らしていた場所です。
ヤチヨがこの時代から八千年前へと旅立つ前、彩葉と一緒に過ごしていた場所。
ヤチヨにとっては忘れられない、大切な場所なのでしょう。
「でも、どうして急に?」
「だって、彩葉ってば、昔から人に頼るのが下手だったんだよ?」
ヤチヨは少し困ったように笑いました。
「何でも自分一人で解決しようとするし、自分がどれだけ無理してるかも分かってないんだよね。苦しいことを苦しいって思わないまま、どこまでも頑張っちゃうの」
「……確かに、ヤチヨの話を聞いているとそんなところがあるみたいですね」
「そうなんだよ!? 昔だって、それで倒れちゃったことがあったんだから」
その言葉には、少しだけ心配そうな響きがありました。
「だから、今度はちゃんと近くにいてあげたいんだ。もちろん、何でもかんでも口を出すつもりはないよ。でも、もしまた無理をして倒れたりしたら、すぐに助けに行けるでしょ?」
「……そうですね」
「せっかく、また会えたんだもん。もう、あんな思いはしたくないよ」
ヤチヨはそう言って、少しだけ俯きました。
きっと、本人も気づいていないのでしょう。
ようやく再会できた彩葉が、また自分の目の前からいなくなってしまうことを恐れているのだと思います。
八千年も待ち続けて、ようやく見つけた大切な人です。
その人が無理を重ねて、知らないところで倒れてしまうかもしれない。
そう考えれば、少しでも近くにいたいと思うのは自然なことです。
「アリスは、どう思う?」
「アリスはもちろん大賛成です!」
私は迷わず答えました。
「ヤチヨの気持ちはよく分かりました。彩葉のことを近くで見守れるなら、その方が安心です」
「ほんと? ありがとう、アリス!」
「はい! それに……」
私は部屋の中を見回しました。
あちこちに置かれた機材や家具。そして、いつの間にか増えてしまったヤチヨの私物。
「最近、この部屋も少し手狭になってきましたからね。特にヤチヨの荷物が増えすぎです」
「ええっ!? そ、そんなことないよ~!」
「そうでしょうか? この前も新しい服を買っていましたし、その前は大きなクッション、その前は――」
「あー! 分かった、分かったよ! ヤッチョが悪かったです!」
「ふふっ。冗談です」
少し重くなっていた空気が、いつもの調子に戻りました。
「それじゃあ、善は急げだね! さっそく荷造りしちゃおう!」
「了解です! 新拠点への移動クエストですね!」
「おおっ! アリスも乗り気だねぇ!」
「もちろんです! クエストは早めに攻略するのが基本ですから!」
こうして、私たちは引っ越しの準備を始めました。
……とはいえ、荷物の大半はヤチヨの私物です。
衣装に小物、ぬいぐるみ、雑貨に変な顔の置物、その他いろいろ。次から次へと出てくる荷物を見て、私は少しだけ遠い目になりました。
「ヤチヨ、これ全部持っていくんですか?」
「いや~!流石に全部は無理かな。とりあえず、一旦全部出して持って行くもの決めたのだけにしようかなって!」
「……分かりました。アリスのHPが尽きる前に終わらせましょう」
「ええっ!? そんなに大変なの!?」
「はい。ヤチヨの荷物が多すぎるのが原因です!」
「よよよ……。これはヤッチョ、反省の必要ありですなぁ」
そんなやり取りをしながら、荷造りを進めていきます。
ひとまず必要な荷物をまとめ終えたところで、私は肝心なことを尋ねました。
「ところでヤチヨ。その場所はどこにあるんですか?」
「え?」
「え?」
「…………」
「…………」
「……あれ?」
ヤチヨは、きょとんとした顔で私を見ました。
「もしかして、場所を覚えていないんですか?」
「い、いやぁ……。場所は覚えてるんだけどねぇ。さすがに八千年も経つと、細かい道順とか目印とか、そういうのが曖昧になっちゃって……」
「なるほど……」
それはそうです。
八千年もの間、別の時代で過ごしてきたのですから、かつて暮らしていた街の細かな景色や道順を忘れてしまっていても不思議ではありません。
大まかな場所は覚えていても、そこへたどり着くまでの道筋までは、すぐに思い出せないのでしょう。
どうやら、次のクエストは少しばかり難易度が高そうです。
「仕方ありません。明日は探索クエストですね!」
「おおっ! ヤッチョの記憶を頼りに、思い出の場所を探す旅だね!」
「はい! 必ず見つけましょう!」
*
翌日。
私たちはヤチヨの記憶を頼りに、かつて二人が暮らしていた場所を探し始めました。
「えーっと……確か、この辺りだったと思うんだけどなぁ」
「この辺り、というのはどのくらいですか?」
「うーん……。あっちの方かな?」
「分かりました!」
ヤチヨが指差す方向へ歩いてみるものの、なかなか目的の場所にはたどり着きません。
街並みそのものは、ヤチヨがかつて暮らしていた頃と変わっていません。目の前に広がる景色も、道路も、建物も、彼女にとっては見覚えのあるものばかりです。
ただ、八千年という長い時間の中で、細かな道順や建物の位置、当時よく目にしていた目印などは、少しずつ記憶から薄れてしまったようでした。
「この道、前にも通った気がするんだけど……あれぇ? どっちだったかなぁ」
「もう少し詳しく思い出せませんか?」
「うーん……。確か、近くに大きな交差点があって、その先を曲がったような……?」
「分かりました! その条件で周辺を確認してみます!」
私はスマホを操作し、現在の地図を表示しました。
ヤチヨが覚えている大まかな位置や目印を手掛かりに、候補となる場所を絞り込んでいきます。
「この辺りでしょうか?」
「うーん……。もう少し先だったような……」
「分かりました。では、次の候補を確認しましょう!」
違っていれば次の場所へ。
そんなことを繰り返しながら、私たちは街を歩き回りました。
途中、ヤチヨが昔の思い出を話してくれることもありました。
「あ、この辺りで彩葉と買い物したことがあったんだよねぇ」
「そうなんですか?」
「うん! あの時はね――」
楽しそうに話すヤチヨの横で、私はその話に耳を傾けながら、次の目的地を確認します。
そうして探索を続けているうちに、気づけば日が傾き始めていました。
「うーん……。なかなか見つからないねぇ」
「はい。ですが、候補はかなり絞れてきました!」
「おおっ! さすがアリス!」
「えへへ。探索クエストの進行度は順調です!」
そして、さらにいくつかの場所を調べて回ったときでした。
「あっ……!」
ヤチヨが、ふと足を止めました。
「どうしました?」
「ここ……。ここだよ、アリス!」
彼女の視線の先には、見覚えのある場所に建つアパートがありました。
「ここが、昔の……」
「うん。間違いないよ。ここで彩葉と暮らしてたんだ」
ヤチヨは懐かしそうに建物を見上げていました。
その横で、私は周囲の情報を確認し、目的の場所を見つけられたことを確かめます。
「パンパカパーン! 新拠点発見です!」
「やったぁ! アリス、見つかったね!」
「はい! 探索クエスト、クリアです!」
ヤチヨは嬉しそうに笑い、もう一度アパートを見上げました。
その顔を見ていると、私まで嬉しくなってきます。
こうして、私たちはようやく目的の場所を見つけることができました。
あとは部屋を借りて、引っ越しを済ませるだけです。
私たちはさっそく不動産会社へ向かい、空いている部屋を確認しました。
そして、いくつかの手続きを済ませた結果、無事に新しい生活拠点を確保することができました。
ちなみに、借りることになった部屋は、後に彩葉が住むことになる部屋のすぐ隣でした。
もちろん、この時点では彩葉が本当にそこへ引っ越してくるかどうかなど分かりません。
それでも、ヤチヨはその偶然をとても喜んでいました。
こうして私たちは、生活の拠点をこのアパートへ移すことにしたのです。
ただし、ツクヨミの運営に必要な機材や設備は、以前の住居から簡単に移動できるものではありません。
そのため、これまで住んでいた場所は引き続き仕事場として残し、こちらはあくまで生活するための拠点としました。
こうして、私たちの新拠点での生活が開始したのです。