広大な帝国領の果ての果て、ハテェンド。
人間の生存圏を食い破らんとする魔物たちから帝国を守る、永遠の防衛線。
その
「……ん。じいさん。ここで降ろしてくれるか」
老商人が操る馬車の荷車から声がした。
低く太く、しかし決して
続けて、声そのままの印象と筋肉を
「なんだ若いの。最後まで乗せてってやるよ。魔物相手に頑張ってくれたしな」
「いや。ここで降りたいんだ。ここまで来れば魔物もいないし──」
と、美丈夫、イド・サーペントはハテェンドの水彩画のような街並みを眩しく見つめ、
「こんないい街だ。のんびり見て回りたい」
片目をつぶりながら笑った。
「そうかい。そりゃ、見て回りたいよな」
老商人もニヒルに笑い返し、馬を止める。
「よ、っと」
石畳の上に降り立つと、イドの肉体の
編み上げブーツを履いた2本の足もたくましく、もちろん上半身も黒いTシャツがはち切れんばかり。
とにかく、キンニク、キンニク。
ともすれば
「若いの。ほらよ!」
ひゅっ、と老商人が投げ、ゆるやかな曲線が放物線を描き、イドの胸元に収まった。くすんだミドリ色の
「まだ知られちゃいないが、良い酒だ。気に入ったら
それだけ言うと、老商人は
「ありがとう。いただくよ」
ちゃぷん、と音を立てる壜を片手に、イドもまたゆっくりと歩き出した。
ぎゅむぎゅむ、ブーツのゴム底で石畳を踏みしめて歩く。
のどかでのんびり、ゆっくりとしたこの街ハテェンドは、その
おだやかさの裏に、高い防衛力を備えている、らしい。
建物なんかも木をほとんど使わず、レンガの上に
さらにこの石畳の
──というのが、イドがこの地に来るにあたって下調べした成果だ。
ただ目で楽しむだけなら、のどか。しかし知識を通すと、血で書かれた知恵の息づいた街並みなのだ。
ところで、だが。
漆喰や石畳が景色すべてに白を溶け合わせたような優しい街並み。
街行く人も、同じように淡い色の服ばかりに見える。
水彩画の景色の中では、このパキッとした濃黒のTシャツは合わないのではないか。服は、コレでないほうがよかっただろうか。
イドは生まれて初めて、ファッションによる居心地の悪さを感じた。
1本、外すか。
イドは広く活気のある目抜き通りから横道に
こちらの道は地元用の、普段使いの道のようだ。古着屋や貸本屋、雑貨屋も土産物は無く日常のちょっと気の利いた物を扱っている。
カン。カン。カン。
金床の音が聞こえる。
ちら、と品物を冷やかしてみる。
ふむ。
刃物に一家言あるイドにはともかく、一般家庭向けなら充分だろう。
満足し、また歩き出すと、今度は歌が聞こえてきた。
「やーきにく やーきにく 食ーべほーだ~い♪
食ーべほうだい ヨロレイヒ~♪」
幼くあどけなく楽しそうな歌声。
「タン・ミノ・タン・ミノ・タン・ミノ・タン・ミノ・ロースも食ーべほーだ~い♪」
肉屋の店先で、子供が歌いながら働いている。
ひそやかに
「レバ・バラ・レバ・バラ・レバ・バラ・レバ・バラ・カルビも焼きほーだ~い♪」
こちらに背を向け、枯れ木のように細く頼りない身体で驚くほど大きな肉塊を持ち上げている。
「タレ・タレ・タレ・タレ・タレ・タレ・タレ・タレ・タレ漬けほーだ~い♪」
良識で言えば筋肉モリモリのイドが力仕事を手伝うべきなのだろうが、正直、この子の耳なじみのない楽し気な歌に聞き惚れていた。
「わ~りばしも割りほーだーい。
わりほぅ!」
『わりほぅ』という歌詞か掛け声かわからない声とともに、子供はひときわ大きな肉を持ち上げ、同時に『ぶっ!』という破裂音。
「ふー……」
子供がせっかく持ち上げた肉をそのまま戻してしまい、歌も止めてしまい、焦った風にきょろきょろ、きょろきょろ。
なぜ歌うのをやめたのか。イドは残念に思って、ようやく、子供が下腹に力を籠めたせいで屁をこいたのだと気がついた。
──あ。
気づくまで時間がかかったせいで、目が合ってしまった。
子供の顔がみるみる赤くなる。真っ赤な顔のままさっさか寄ってきて。
「おい。今の、聞いてたか?」
「…………いや、聞いてない」
あまりにも呆けた声が出た。きっと、顔もだろう。
近寄ってきた子供の、彼女の顔があまりにも可愛らしかったから。
真夏の綿雲を
その表情豊かな顔を、今は快活に彩って、
「ウソツキ──ー!」
イドの腹筋に掌底を食らわした。
もちろん、鍛えているからノーダメージ。べちーん! と音が鳴る。
「え、うわ。かった」
彼女はまた表情を変え、ぺちぺち、ぺちぺちと改めて手のひらで叩く。
ぺちぺち。ぺちぺち。……すこし、こそばゆい。
イドは腹筋ぺちぺちに調子に乗って、腹に力を籠め腹筋を固める。鍛えている者にとって腹筋の固さは勲章だ。
ひとしきり、彼女が満足してから。彼女は店先をごそごそ漁って戻ってくる。
「ほれ」
紙袋を渡された。つい、受け取ってしまう。
「これは?」
「口止めだよ。さっきの、誰にも言うなよ!」
ぴっ、指を差して彼女は仕事に戻っていく。もう歌ってはいない。とても残念だ。
──ん?
さっき、ファッションを気にしたからだろうか。
彼女の服が、まるで物語の奴隷でも着ているような麻でできた
「……。……」
おっと。彼女が背中越しに、イドのことを気にしている気配がする。
本当なら力仕事の手伝いでもするのがいいのかもしれないが、彼女のココロのため、ここはおとなしく退散することにしよう。
充分離れて。
さて、"口止め"の袋を開けてみる。
「お!」
紙袋には、ジャーキーがぎっしり。
ひとつつまんで、袋から出して、ココロが浮きたった。
第一に、大振りで分厚い。そして、深い赤茶の表面にバキバキのシワが刻まれている乾いた見た目に反して、触感はあくまでしっとり。とんでもない上物だ。
口に運び、半分ほどから前歯で嚙み千切る。
歯が喜ぶほどの嚙み応えと、端からほどけていく肉の繊維。なにより、
噛めば噛むほど味が出る。肉片を顎がだるくなるほど夢中で噛んで、最後の最後まで味わった。
これは、ジャーキーの概念を超えている。もはや、持ち運べるステーキだ!
ごくり、と口の中にのこるうま
酒が、欲しくなる。そして、ある。老商人からもらった酒が、いや、ダメだ。この後を考えたら、酔っぱらうわけにはいかない。
イドは近くの井戸に駆け、水をがぶがぶ飲んで、耐え難き誘惑に耐えた。
これは、あぶない。
魅力的なジャーキーの袋を閉じて、酒と同じように背負い袋にしまった。
夜だ。夜、このジャーキーは大切に食べて。そして、なくなったらまた『ミート・コンドリア』に買いに来よう。
そういえば、彼女の名前も聞いていなかった。あの娘の名前も、次に会ったときに聞こう。──できれば、正面から歌を聞かせてもらえるようになれるだろうか。
『ミート・コンドリア』の場所を頭の地図に残しながら、イドはまた歩き出した。