黒い猫。神社。ひとりきりで震えている。
――間違いない。推しの黒歌だ。
正体を隠したまま猫として暮らす彼女を、俺が守る。
一応確認しましたが初の試みなので、少し無理矢理感がありますがお手柔らかにお願いします。
この世界がハイスクールD×Dだと気づいたのは、五歳の時だった。
幼稚園の送迎バスの横腹に「駒王町」と書いてあった。
偶然で片付けるには、珍しすぎる地名だった。それでも半信半疑でいたら、翌年、駅前の看板に「駒王学園」の文字を見つけて、疑いは確信に変わった。
前世の記憶というやつは、半分くらいしか残っていない。自分の名前も、死んだ理由も覚えていない。覚えているのは、どうでもいいことばかりだ。
あの作品を、アニメで全話見たこと。
原作を最新刊まで追いかけていたこと。
二次創作を、夜な夜な読み漁っていたこと。
そして、推しが黒歌だったこと。
悪魔、堕天使、天使。神話の神々。テロリスト。
人間があっさり死ぬ世界だ。
だから決めていた。原作には関わらない。兵藤一誠と同じ町に住んでいるが、知り合いにもならない。モブとして、静かに長生きする。
推しは、遠くから眺められれば十分だ。
七歳の冬――小学二年生の頃までは、その方針を守れていた。
*
その日は朝から雨だった。
学校帰り、近道のつもりで古い神社の境内を抜けた。賽銭箱の横を通り過ぎたところで、か細い声がした。
「……にゃあ」
縁の下を覗き込む。
黒い塊が震えていた。
ランドセルを下ろして、泥の上に膝をつく。手を伸ばすと、塊は一度だけ牙を剥いて、それから諦めたように力を抜いた。
両腕で抱えられるくらいの、痩せた黒猫だった。毛はずぶ濡れで、体は冷え切っていた。
黒い猫。神社。雨の中、ひとりきりで震えている。
……待て。
これ、見たことがある気がする。
前世で読み漁った二次創作のどれかに、こんな導入があった。妹の様子を見に人間界へ来た黒歌が、追っ手の悪魔にやられて、猫の姿で倒れている。それを主人公が拾う。
腕の中の黒猫を見下ろす。
推しが、俺の腕の中にいる。
いや、落ち着け。黒い猫なんてどこにでもいる。ただの野良猫という可能性のほうがよっぽど――
腕の中の猫が、びくりと体を強張らせた。
境内の奥、雨に煙る杉林のほうを睨んでいる。濡れた毛が逆立って、喉の奥から低い唸り声が漏れた。
振り返る。誰もいない。雨の音しか聞こえない。
だが、猫はまだそこを睨んでいた。
……追っ手が、まだ近くにいるのか。
ランドセルを拾い上げて、猫をジャンパーの内側に押し込む。
「……大丈夫だ」
走りながら、胸元に向かって言った。
「俺が守る」
「にゃあ」
返事があった。
家に帰ると、母さんは玄関で固まった。
「遼。それ、なに」
「猫」
「見れば分かるわよ」
バスタオルを取りに行きかけて、母さんは足を止めた。
「……で?」
「飼いたい」
「あんた、今まで何か欲しいって言ったことあった?」
「ない」
「でしょうね。誕生日に何がいいか聞いても『健康』って答える子だもんね」
前世の死因は覚えていないが、健康のありがたみだけは骨身に染みている。
母さんはしばらく、俺と猫を見比べていた。
「世話、ちゃんとする?」
「する。一生する」
「重いわね」
結局、母さんは溜め息をついてバスタオルを持ってきた。父さんには電話で事後報告になった。受話器の向こうで「いいじゃないか」と笑う声が聞こえた。うちの両親は、だいたいこんな感じだ。
「で、名前は?」
タオルにくるまれた猫を抱いたまま、母さんが聞いた。
「くろ――」
言いかけて、口を閉じた。
待て。本名で呼んでどうする。追っ手がこの町にいるかもしれないのに。
「……クロ」
「安直ねえ」
「いいんだよ、それで」
黒い猫にクロ。日本中に何万匹いると思ってる。これ以上の隠れ蓑はない。
翌日、母さんに連れられて動物病院に行った。
白髪交じりの獣医はクロをひっくり返したり、口を開けさせたりしてから、にこにこと言った。
「健康な女の子ですね。ちょっと痩せてるけど、すぐ戻りますよ。一歳になるかならないかってところかな」
健康。
その一言で、肩から力が抜けた。
「よかったな、クロ」
「なー」
キャリーケースの中で、クロは不満そうに鳴いていた。
家に帰ってから、こっそりクロの尻尾を確かめた。
一本だった。
クロは尻尾を触られるのが嫌だったらしく、俺の手首を噛んだ。けっこう痛かった。
……まあ、そうだよな。
拾われて一日の人間に、正体なんて見せるわけがない。
噛まれた手首をさすりながら、クロの背中を眺める。一本きりの尻尾が、不機嫌そうに床を叩いていた。
その夜、クロは俺の枕元で丸くなった。
腹が上下するのを、暗い部屋で眺める。
この町には悪魔がいる。数年後には堕天使が来るし、もっと物騒なものも来る。原作が始まれば、駒王町は名前のついた魔境になる。
対してこっちは、七歳の人間。精神的に見ればもっと年上だが、体が七歳なら何の足しにもならない。
神器があるかどうかも分からない。魔力なんて欠片もない。体育の五十メートル走はクラスで十二番目。
……詰んでないか、これ。
勝てなくていい。せめて、逃げ切れるだけの力が欲しい。
クロが寝返りを打って、俺の指に額を押しつけてきた。温かかった。
それに、今はこいつもいる。
逃げる時に、猫一匹抱えて走れるくらいには強くならないと。
「強くなるよ」
小さく呟く。クロの耳がぴくりと動いた。
本当の姿を見せてくれるのは、もっと先でいい。
翌朝、四時。
目覚ましを止めて布団を出ると、冬の空気が肌に刺さった。
ジャージに着替え、玄関で靴紐を結ぶ。音を立てないように扉を開けたつもりだったが、背後で寝室の戸が開いた。
「……遼? なにしてんの、こんな時間に」
「走ってくる」
「は?」
「強くならないといけないんだ」
母さんは寝癖のついた頭を掻いて、しばらく黙っていた。
「……車に気をつけなさいよ」
それだけ言って、寝室に戻っていった。
外はまだ真っ暗だった。白い息を吐きながら、誰もいない道を走り出す。
二階の窓を振り返ると、カーテンの隙間からクロがこちらを見下ろしていた。
ような気がしたが、たぶん寝ていた。
*
九歳の春、近所の道場の門を叩いた。
正確には、門の前で三日間待った。
「坊主。なんで毎日そこに立っとる」
坊主、か。中身の年齢を足せば、たぶんこの爺さんの息子くらいなのだが。
「弟子にしてください」
「うちは子供は取らん」
「じゃあ明日も来ます」
四日目の朝、白い道着の爺さんがまた門の前に出てきた。
「……なんでそこまでして強くなりたい」
「守りたい奴がいるんです」
爺さんはしばらく黙って、俺の顔を見下ろしていた。
「そうか」
門が、軋んだ音を立てて開いた。
「その目は、覚悟のある目だ。入れ」
看板には「榊流古武術」と墨で書いてあった。門下生は俺を入れて四人。うち三人は爺さんの飲み仲間だった。
最初の一年は、立ち方と歩き方しか教わらなかった。
二年目に入った頃、爺さんが俺を道場の真ん中に座らせた。
「目を閉じろ。臍の下に意識を置け。熱を探せ」
「……熱?」
「気というやつだ。うちは元々、化け物退治の家の流れでな。……まあ、昔話だが」
爺さんは冗談めかして笑った。
気?
黒歌の使っていた、仙術のようなものか?
この世界で、化け物退治が昔話で済むとは思えない。
「化け物って、本当にいたの?」
子供らしく聞いてみた。
「さあな。儂の爺さんの代には、もう出んかったそうだ」
はぐらかされた気がした。
爺さんは俺の背中を軽く叩いた。
「ほれ、集中せい」
最初の一ヶ月は何も分からなかった。二ヶ月目、腹の底に小さな灯りのようなものが見えた。半年後、それを指先まで流せるようになった。
流した指で板を突くと、板が割れた。
爺さんは割れた板を拾い上げて、黙って頷いた。
「仙人の真似事みたいなもんだ。本物には遠く及ばん。それでも、何もないよりはましだろう」
稽古から帰ると、脱いだ道着の上でクロが丸くなっていた。
汗だくの道着だ。普通なら寄りつかない。
……気の名残か。
稽古の後の道着には、俺の気が染みついている。それを確かめているのだ。俺がどこまで来たのか、修行の進み具合を。
いや、もしかすると吸っているのかもしれない。力を取り戻すために、少しずつ。
「クロ。足りないなら、もっと稽古してくるからな」
クロは片目だけ開けて、また閉じた。
洗濯物を取りに来た母さんが、それを見て笑った。
「猫ってね、飼い主の匂いがするものの上で寝たがるのよ」
……表向きの説明としては、それで十分だ。
十一歳になった。
クロを拾って四年。痩せていた体はすっかり丸くなって、毛並みも艶々している。獣医には「ちょっと太りすぎ」と言われた。
傷は、もう癒えているはずだった。
なのに、クロはいまだに人の姿にならない。
クロは今夜も、俺の布団の真ん中で丸くなっている。
撫でれば喉を鳴らすし、本を読んでいれば膝に乗ってくる。寒い夜は、俺の脇腹にぴったりと背中をくっつけて眠る。
それでも、いまだに本来の姿は見せてくれない。
猫としてなら、甘えてくれる。でも、黒歌としては、まだ俺を信じてくれていないのだろう。
……当然か。妹のために主を手にかけて、仲間だった悪魔に追われて、ひとりで生きてきたんだ。人間の子供一人に心を許す理由がない。
推しの信頼度、思ったより上がりにくいな。
十二歳の夏、思い切って言ってみた。
夜、部屋の明かりを消して、布団の上で正座した。クロは枕の上で香箱を作っていた。
「なあクロ」
「……」
「俺の前では、無理しなくていいんだぞ」
クロの耳が、こちらを向いた。
「人の姿になっても、俺は気にしない。誰にも言わない。母さんにも、父さんにも」
「……」
「追っ手が来たら、一緒に逃げる。そのために鍛えてるんだ。だから」
クロは大きくあくびをした。
それから後ろ足で耳を掻いて、枕から降りて、布団の真ん中でもう一度丸くなった。
……まだ早かったか。
何年かで心を開けというほうが無理がある。俺が黒歌の立場でも、たぶん開かない。
俺は床で寝た。
*
十四歳の夏、気の扱いに変化があった。
いつものように臍の下の灯りを広げていると、それが体の外まで滲み出していく感覚があった。
爺さんの気が分かった。古い大木みたいに太くて静かだった。
道場を出て町を歩くと、すれ違う人の気が分かった。母さんのは陽だまり、父さんのは少し疲れた湯気。
そして、たまに妙な気配に触れることがあった。
人の形をしているのに、中身がぞっとするほど冷たいもの。駅前の雑踏の中に、ほんの一瞬だけ混じって、すぐに消える。
悪魔だ。この町には、やっぱりいる。
その夜、家に帰ってクロの前に座った。
目を閉じる。臍の下の灯りを、そっと外に広げる。
小さな体温と、心臓の音と、眠気。
それだけだった。
駅前の悪魔みたいな冷たさも、爺さんみたいな深さもない。妖怪らしいものは、何も感じなかった。
……ただの猫、なんじゃないか。
一瞬だけ、そう思った。
思った瞬間、胸の奥が冷えた。
もしそうなら、この何年かは何だったんだ。毎朝の四時も、床で寝た夜も、推しに話しかけているつもりだった時間も、全部。
確かめる方法なら、たぶんいくらでもある。
確かめたくなかった。
……いや。封じているんだ。
追っ手の目を逃れるために、自分の力を奥の奥まで押し込めている。悪魔ですら隠しきれずに漏らしているものを、一滴も漏らさずに。
そして、それを俺の前でも解かない。
目を開けると、クロは俺の膝の上で腹を出して寝ていた。
こんなに無防備に寝ているのに。
「……まだ、駄目か」
返事はなかった。
中学三年の秋。進路希望調査の紙を前に、少しだけ悩んだ。
家から一番近い高校は、駒王学園だった。
……悪魔の巣窟のど真ん中だ。リアス・グレモリーも、姫島朱乃もいる。来年の春には兵藤一誠が悪魔になる。モブとして長生きしたいなら、一番避けるべき場所だ。
だが、隣町の高校まで通うと、朝の稽古の時間が削れる。クロの晩飯の時間にも間に合わない。
それに、悪魔を避けたところで、駒王町に住んでいる時点で大差はない。
第一志望の欄に「駒王学園」と書いた。
家から一番近い高校が原作の舞台。モブ人生の難易度設定が、最初からおかしい。
その冬の夜だった。
寝つけずに天井を眺めていると、窓のほうから気配が流れてきた。
冷たい。駅前で感じるのと同じ、悪魔の気だ。それが家の前の通りを、ゆっくりと横切っていく。
息を殺した。
窓辺を見ると、クロが起き上がっていた。
カーテンの隙間から、外をじっと見つめている。耳をぴんと立てて、尻尾の先だけをゆっくりと揺らしている。
気配が遠ざかるまで、クロは身じろぎひとつしなかった。
やがて冷たさが完全に消えると、クロは何事もなかったように布団へ戻ってきて、俺の脇腹に背中をくっつけた。
……分かってるんだ。
力を封じていても、追っ手の気配は分かっている。分かっていて、俺には何も言わない。
一人で警戒して、一人で耐えて、また猫に戻る。
クロの背中に、そっと手を置いた。
「大丈夫だ。俺がいる」
「……なー」
眠そうな声だった。
合格発表の日、家に帰るとクロが玄関で待っていた。
拾った時は痩せこけていた体が、今はずっしりと重い。獣医には「おやつ控えめに」と言われ続けている。
「受かったぞ」
「なー」
「お前の妹と同じ学校だ」
クロは俺の腕の中で身をよじって床に降り、台所のほうへ歩いていった。餌皿の前に座って、こちらを振り返る。
晩飯の催促だった。
……いつか、ちゃんと話してくれるといいな。
*
十五歳の春。駒王学園の入学式の日だった。
校門をくぐった瞬間、足が止まった。
冷たい。
駅前の雑踏でたまに触れていたあの気配が、ここにはそこら中にある。体育館へ向かう人波の中に、廊下の窓の向こうに、旧校舎のほうから吹いてくる風の中に。
壇上で挨拶をする生徒会長からも、同じものを感じた。眼鏡の奥の目が一瞬だけ新入生の列を撫で、俺のあたりで止まった気がした。
……落ち着け。俺はただの一年生だ。
式の後、体育館を出たところで、ひときわ濃い気配が二つ、渡り廊下を横切っていった。紅い髪と、黒い髪。周りの生徒が一斉に振り返り、ため息みたいな声が漏れる。
リアス・グレモリーと、姫島朱乃。
生で見ると、気の圧が違った。爺さんの大木みたいな静けさとは真逆の、燃え盛るような密度。あれと敵対したら、六年の稽古が三秒で終わる。
関わらない。絶対に関わらない。
教室に入って、自分の席を探した。
窓際の後ろから二番目。隣の席に、小柄な女子が座っていた。
白い髪。猫の形の髪留め。無表情に窓の外を見ている。
――塔城小猫。
同じクラスだった。しかも隣だった。
生の小猫だ。
推しの妹。推しが、たぶん世界で一番大事にしている子だ。
臍の下の灯りを、そっと広げる。
悪魔の冷たさ。その奥に、ほんのかすかに、別の何かがあった。温かくて、少しざらついていて、陽だまりで寝ている獣みたいな気配。
猫だ。
蓋をして、鍵をかけて、それでも隙間から少しだけ漏れている。
家のクロを思い出す。あいつからは一滴も漏れない。目の前で腹を出して寝ていても、何も感じない。
妹ですら隠しきれていないものを、完全に封じている。
……そこまでして、隠したいのか。
「……なんですか」
小猫がこちらを向いていた。俺はずっと見つめていたらしい。
「いや。よろしく」
「……よろしくお願いします」
それきり、小猫は窓の外に視線を戻した。
隣の席だと、話す機会はそれなりにある。
といっても、小猫は基本的に無口だった。プリントを回す時に「どうぞ」、消しゴムを拾った時に「ありがとうございます」。会話と呼べるのはそれくらいだった。
ある日の休み時間、机の上に置いていたスマホに、小猫の視線が止まった。
待ち受けは、ソファで腹を出して寝ているクロだった。
「……猫」
「うちの猫。クロっていうんだ。猫、好き?」
「……普通です」
言いながら、小猫の目は画面から一ミリも動いていなかった。
「拾った時はがりがりだったんだけど、今は太りすぎって獣医に怒られてる」
「……そうですか」
しばらく黙ってから、小猫は小さく付け足した。
「……かわいいですね」
数日後、体育の後に着替えて教室に戻る途中、鞄の外ポケットから何かが廊下に落ちた。
個包装のチョコ菓子だった。
拾い上げて、ポケットに戻そうとしたところで、視線を感じた。
小猫が、俺の手元を見ていた。
正確には、チョコを見ていた。
ポケットに近づけると、目がそれを追う。手を止めると、目も止まる。表情は一切変わらない。
……この目、知ってる。
ちゅ〜るの封を切る音を聞いた時の、クロの目だ。
「……ごめん、落としたやつだけど。食べる?」
小猫は少しだけ黙った。
「……いいんですか」
「うん」
差し出すと、小猫は両手で受け取った。その場で包装を開けて、小さくかじる。
「……おいしいです」
無表情のままだったが、二口目はさっきより早かった。
その週の金曜、二年の教室の前を通りかかった時、いつもは騒がしい一角から妙な気配がした。
二年の兵藤一誠。入学三日で「変態三人組」の名前を覚えさせられた先輩の一人だ。昨日までは、どこにでもいる人間の気だった。
今日は、冷たかった。
その奥に、もっと底の見えない、熱くて重い何かが眠っている。
……始まった。
廊下の向こうで、兵藤先輩が友人二人と騒いでいる。本人はたぶん、まだ何も分かっていない。
関わらない。関わらないと決めた。
なのに、足が少しだけ重かった。
それから数日後の放課後だった。
教室に残って日誌を書いていると、帰り支度をしていた小猫が手を止めた。周りにはもう誰もいない。
「……あの」
小猫のほうから話しかけてきたのは、初めてだった。
「なに?」
「……何か、やってますか。武道とか」
「古武術。九歳から」
「……どうりで」
「何が?」
「……立ち方が、ほかの人と違うので」
さすが、そういうのが分かる側だ。
「あとは毎朝走ってるくらい。四時から」
「……四時」
「猫に起こされるんだよ。飯くれって。起きたついでに、そのまま走りに行くようになった」
小猫の目が、ほんの少しだけ大きくなった。
「……待ち受けの、クロさんですか」
「そう。飯の時間に厳しいんだよ。朝早いし、あの時間しか朝飯食わないんだ」
「……そうですか」
小猫はそれだけ言って、鞄を持って教室を出ていった。
それから、小猫との距離は少しずつ縮まった。
昼休みに菓子の袋を開けると、隣から視線が刺さる。一つ差し出すと、無言で受け取る。次の日も、その次の日も。
「……今日は、ないんですか」
一週間もすると、向こうから聞かれるようになった。
菓子を受け取るついでに、小猫はクロの写真を見たがるようになった。
「……今日のクロさんは」
そう聞かれるたびに、スマホのアルバムを開いた。寝ているクロ、伸びているクロ、餌皿の前で抗議しているクロ。小猫は無表情のまま、いつまでも画面を眺めていた。
一ヶ月ほど経った昼休み、小猫が珍しく、菓子を受け取る前にこちらを見た。
「……あの」
「うん」
「……クロさんに、会ってみたいです」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
姉妹が、同じ部屋に揃う。
「いいよ」
「……はい」
小猫は小さく頷いて、チョコの包みを開けた。
*
その週の土曜、小猫はうちに来た。
玄関で靴を揃えて、「お邪魔します」と小さく頭を下げる。台所から顔を出した母さんが、俺と小猫を見比べて、なぜか嬉しそうに引っ込んでいった。
クロは居間のソファにいた。
知らない人間が来ると、いつもは押し入れに逃げ込む。小猫がソファの前にしゃがむと、クロは耳を伏せかけて、それから鼻をひくつかせた。
小猫が、そっと手を差し出す。
クロはその指先をしばらく嗅いで、ゆっくりと額を擦りつけた。
「……」
小猫の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
教室では一度も見たことのない顔だった。
クロはそのまま小猫の膝に乗り、丸くなって喉を鳴らしはじめた。小猫は固まったまま、ぎこちない手つきで背中を撫でている。
「……重いです」
「最近太ったんだ」
「……あったかいです」
その横顔を見ながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。
今お前の膝にいるのが、お前の姉ちゃんだ。
言えるわけがなかった。
それから小猫は、ときどきうちに来るようになった。
約束をするわけではない。放課後、帰り道の途中でいつの間にか隣を歩いていて、家の前まで来ると「……クロさん、いますか」と聞く。
クロはいつも居間にいた。小猫が来ると、のそのそと膝に乗りに行く。俺が呼んでも来ない日でも、小猫の膝には乗る。
教室では相変わらず口数が少ない。ただ、俺が鞄から菓子を出すと、視線だけはこちらに来るようになった。
*
その夜は道場の帰りが遅くなった。
爺さんの晩酌の話し相手にされて、気づいたら十時を回っていた。月の明るい夜で、街灯の少ない坂道でも足元がよく見えた。
家まであと角を一つ、というところで、足が止まった。
空気が重い。
悪魔の冷たさとは違う。もっと濃くて、甘くて、肌にまとわりつく。蜜の中に沈められたみたいに、息が浅くなる。
その気配は、うちの方角から来ていた。
走った。
門を開ける。玄関の明かりは消えている。母さんたちはもう寝ているらしい。
庭に回ると、居間の窓が見えた。
クロが、窓辺に立っていた。
四本の足を突っ張って、背中を弓なりに曲げて、全身の毛を逆立てている。尻尾が倍に膨らんでいる。喉の奥から、聞いたことのない低い唸り声。
七年一緒にいて、一度も見たことのない顔だった。
クロが睨んでいるのは、庭の奥、ブロック塀の上だった。
月を背にして、誰かが座っていた。
逆光で顔が見えない。人の形をした影が、塀の上に片膝を立てて、こちらを見下ろしている。
あの重さの出どころは、そこだった。
……ついに来たか。
いつか必ず来ると思っていた。
玄関脇の傘立てから木刀を引き抜く。窓とブロック塀の間に、体を割り込ませる。
「下がってろ、黒歌」
背中越しに、窓のクロへ言った。
「こいつは、俺がやる」
塀の上の影が、首を傾げた。
「え、呼んだ?」
雲が流れて、月明かりが影の顔を照らした。
黒い髪。頭の上に、黒い猫の耳。肩から滑り落ちそうなほど着崩した着物。塀の向こう側で、ゆらゆらと揺れる二本の尻尾。
金色の目が、愉しそうに細められていた。
前世で、何百回と見た姿だった。
アニメで。挿絵で。夜中にスクロールし続けた二次創作の中で。
……推しだ。
本物の推しが、うちの塀の上に座っている。
心臓がうるさい。木刀を握る手に汗がにじむ。殺されるかもしれない状況なのに、頭のどこかが勝手に騒いでいる。
動いてる。喋った。声が、あの声だ。
着物の柄まで、記憶の中のままだ。
――待て。
推しが、塀の上にいる。
じゃあ、俺の後ろにいるのは。
ゆっくりと、振り返る。
窓辺のクロと目が合った。逆立てていた毛が少しだけ収まって、クロは俺を見上げた。
「にゃあ」
「ねえ」
塀の上から、声が降ってきた。さっきまでの軽さが消えていた。
「今、誰に言ったの?」
庭の空気が、ずしりと重くなった。
黒歌は塀の上から動かない。金色の目だけが、ゆっくりと庭を一周する。門、玄関、物置の陰、隣の家の屋根。
「白音の様子をこっそり見に来たら、知らない人間の家に出入りしてるんだもん。気になって、何日か見てたんだけど」
目が、俺に戻ってきた。
「気配を消してる間は、全然気づかなかったよね。ちょっと出してみたら、すっ飛んで帰ってきたけど」
「悪魔とも堕天使とも繋がってない、ただの人間。……のはずなんだけど」
視線が、肌の上を撫でていく。値踏みされているのが分かった。
「なのに今、私の名前を呼んだ」
答えられなかった。喉が張りついたように動かない。
黒歌は塀の上に立ったまま、片手を窓のほうへ向けた。指先に小さな光が灯る。
窓辺のクロが「シャーッ」と威嚇した。
黒歌の眉が寄った。
「……猫?」
もう一度、指先で円を描く。さっきより長く、念入りに。
「妖気ゼロ。仙術の痕跡もなし。どう見ても、ふつうの猫」
金色の目が、俺に戻ってくる。さっきより冷たかった。
「ふざけてるの? ただの猫に、私の名前を呼ばせて」
「……」
「それとも何かの合図? 誰かに聞かせるための」
黒歌の声が、遠くに聞こえた。
どう見ても、ふつうの猫。
振り返る。窓辺のクロが、まだ毛を膨らませたままこちらを見ている。
七年分の夜が、頭の中を流れていった。布団の真ん中。膝の上の重さ。何も感じなかった気。信頼されていないんだと思っていた、あの寂しさ。
「……ただの、猫?」
自分の口から、間の抜けた声が出た。
「は?」
「七年……」
木刀の切っ先が、地面に落ちた。
「七年、そいつが、お前だと思ってた」
塀の上で、黒歌が固まった。
「…………は?」
「……何言ってるの?」
意味が分からない、という顔だった。
答えられなかった。窓辺のクロから、目が離せなかった。
黒歌はしばらく俺を見下ろしていた。それから、小さく眉を寄せた。
「……え、何その顔」
「そんな嘘ついたって、何にもならないでしょ。私を油断させたいなら、もっとマシな――」
言いかけて、黒歌は俺の様子を見て口をつぐんだ。木刀を取り落としたまま、窓辺の猫を見つめて突っ立っている人間。我ながら、演技にしては間抜けすぎる顔をしていたと思う。
黒歌は塀から飛び降りて、こちらに歩いてきた。
一歩手前で立ち止まり、俺の顔を覗き込む。嘘を探す目だった。
「……よく分かんないんだけど。本当に、その猫を私だと思ってたってこと?」
小さく、頷いた。
そこから先は、口が勝手に動いていた。
「……七歳の時に、神社で拾った」
「は?」
「雨の中で、ひとりで震えてた。追っ手にやられて、猫の姿で倒れてるんだと思った」
「……追っ手?」
黒歌の眉間の皺が、深くなった。
一度こぼれたら、止まらなかった。
「人の姿にならないのは、まだ傷が治ってないからだと思ってた」
「傷って、誰の」
「治ったはずなのにならないのは、俺を信頼してないからだと思ってた」
「……ねえ、ちょっと」
「気を感じないのは、追っ手から隠れるために封じてるんだと思ってた」
「待って。それ、全部――」
黒歌の視線が、窓辺のクロに向いた。
「追っ手が来たら一緒に逃げられるように、道場で気の練習もした」
黒歌の口元が、ひくりと引きつった。
「さっき毛を逆立ててたのは、お前の気配に気づいたからで」
「……それは普通に、知らない人がいたからにゃ」
言い終わる前に、黒歌の肩が震えはじめた。
黒歌は地面に崩れ落ちた。
声にならない声を上げながら、芝生の上を転がっている。着物の裾が盛大にはだけているが、本人は気にする余裕もないらしい。
「し、信頼……っ、されてないって……っ、ただの猫に……っ」
「……」
「七年……っ、お腹痛い……!」
俺は芝生の上に座り込んだまま、動けなかった。
七年分の何かが、体から抜け落ちていく感じがした。
ひとしきり笑った後、黒歌は俺から少し離れた芝生の上に座り込んだ。手を伸ばしても届かない距離だった。
「はー……。で、その子の名前は?」
「クロ」
「安直」
「本名で呼んだら、追っ手に居場所がバレるだろ」
黒歌はもう一度、芝生に突っ伏した。
「ぎ、偽名……っ、猫に、偽名……っ」
今度は、さっきより長かった。
「はー。……ねえ」
膝に頬杖をついて、こちらを見る。
「あんたがなんで私のこと知ってるのか知らないけど」
「……」
「私、SS級のはぐれだよ。主殺しの。悪魔の間じゃ、見つけ次第殺していい相手」
「知ってる」
「知ってて、そんなのだと思った猫を七年も守ってたの?」
言葉を探した。前世で読んだ。推しだった。どれも言えない。
「……白音を、守るためだったんだろ」
黒歌の頬杖が、外れた。
言ってから、しまったと思った。
庭の空気が、少しだけ重くなった。
黒歌は何も言わなかった。金色の目が、さっき塀の上で俺を値踏みしていた時と同じ色になっている。
口が小さく開いて、閉じた。
「……ふーん」
それだけ言って、視線を窓のほうへ逸らした。
窓辺では、クロがまだこちらを睨んでいた。
「白音がここに来てるの、見てた」
しばらく黙った後、黒歌がぽつりと言った。
「あの子、あんな顔で笑うんだね」
「……」
「私の知ってる白音は、もっとちっちゃくて、ずっと泣いてたから」
金色の目が、少しだけ遠くを見ていた。
「あの子が来るの、断らなかったんだ」
「……ああ」
「なんで」
「クロに会わせたかった」
「クロに、じゃないよね」
見透かされていた。
「お前に、会わせたかった」
黒歌は答えなかった。膝を抱えて、その上に顎を乗せる。
「……あの子、学校でどうしてる」
声が、少しだけ小さくなっていた。
「隣の席なんだ」
「隣」
「あんまり喋らない。プリント回す時にどうぞって言うくらい」
「……うん」
「でも、昼休みは俺の菓子を毎日持っていく。あと、弁当が俺の倍ある」
黒歌が、膝に顔を半分埋めた。
「……よく食べるの、変わってないんだ」
聞こえるか聞こえないかの声だった。
「たぶん、俺のことはかなり怪しんでる」
「にゃはは。それはそう」
黒歌は小さく笑って、それから黙った。
庭に、虫の声だけが響いていた。
「……ばっかみたい」
膝に顔を埋めたまま、黒歌が言った。
「何年も、なぜか私と勘違いして。人にもならない猫のために、何の得にもならないのに気の練習までして。会ったこともない私のために、白音のこと気にして」
顔を上げる。目元が、月明かりで少しだけ光って見えた。
「ほんと、ばっかみたい」
黒歌は立ち上がって着物の裾を払い、塀の上に飛び乗った。
月を背にして振り返った時、金色の目はもう笑っていなかった。
俺の顔を、じっと見下ろしている。
白音を守るためだったんだろ、と俺が言った時と、同じ目だった。
何かを聞こうとして、口が小さく開いた。
それから、閉じた。
「……ま、いっか。今日のところは」
瞬きをする間に、塀の上には誰もいなくなっていた。
庭に、虫の声が戻ってきた。
どれくらいそうしていたのか分からない。芝生の上に大の字になって、月を見ていた。
窓が、内側からかりかりと引っかかれる音がした。
起き上がって窓を開けると、クロが窓枠を越えて庭に降りてきた。もう毛は逆立っていない。俺の足元まで歩いてきて、すねに頭をごつんとぶつけた。
抱き上げる。
拾った時より、ずいぶん重い。
「……お前、ただの猫だったのか」
「なー」
「そうか」
毎晩、布団の真ん中で寝ていた。膝の上で、平気で腹を出していた。合格発表の日は、玄関で待っていた。
信頼されていなかったわけじゃない。
最初から、こいつはこいつのやり方で、全部預けてくれていた。
クロは俺の腕の中で、喉を鳴らしはじめた。
*
四時に目覚ましが鳴った。
止めて、天井を見る。
走る理由が、なくなっていた。
守るはずだった黒歌は、うちにいなかった。追っ手も来ない。来たとしても、狙われるのは昨夜塀の上で笑い転げていたほうだ。
もう少し寝よう。そう思って目を閉じた。
胸の上に、どすん、と何かが乗った。
「なー」
クロだった。俺の胸の上に香箱を作って、顔の真上から見下ろしている。
「……今日は走らないんだから、飯は六時でいいだろ」
「なーっ」
前脚で頬をぺしぺし叩かれた。
……通じるわけがない。七年間、走りに出る前に餌皿を満たしてから家を出ていたのだ。こいつにとって、朝飯は四時なのだ。
起き上がって、台所でカリカリを皿に入れる。クロは尻尾を立てて、満足そうに食べはじめた。
その背中を眺めているうちに、手が勝手にジャージを掴んでいた。
黒歌のために走る理由は、もうない。
でも、この町が魔境なのは何も変わっていない。母さんも父さんもいる。目の前で飯を食っているこいつもいる。
走らない理由は、特に思いつかなかった。
玄関で靴紐を結んでいると、寝室の戸が開いた。
「……今日は遅いのね」
「ちょっと寝坊した」
「車に気をつけなさいよ」
七年前と、同じ台詞だった。
その日の放課後、帰り道の途中で、いつの間にか小猫が隣を歩いていた。
「……クロさん、いますか」
「いるよ」
クロは今日も居間にいて、小猫が来ると、のそのそと膝に乗りに行った。
前なら、ここでクロに「妹が来たぞ」と耳打ちしていた。
今日は、何も言わなかった。
小猫の膝の上で喉を鳴らすクロを見ても、胸は痛まなかった。
ただの猫が、ただ懐いている。それだけのことが、なぜか少しだけ可笑しかった。
「……クロさん、私の膝だとすぐ寝ますね」
小猫が、教室では聞いたことのない声で言った。
ふと窓の外を見ると、向かいの家の屋根の上に、黒猫が一匹座っていた。
金色の目が、こちらを見ている。その後ろで、尻尾が二本、ゆらりと揺れた。
黒猫からは、昨夜のような気配がまるで感じられなかった。あれほど濃く重かったものが、嘘みたいに消えている。
小猫はクロを撫でるのに夢中で、気づいていない。
俺も、気づかないふりをした。
*
その夜、部屋に戻ると、ベッドの上に黒歌がいた。
窓の鍵は、閉めてあったはずだった。
「おかえりにゃん」
俺の枕を抱えて、うつ伏せに寝転がっている。床の上では、クロが全身の毛を逆立てて黒歌を睨んでいた。
「シャーッ」
「にゃはは。嫌われてるにゃん」
人の枕を抱えて、ベッドの真ん中を堂々と占領している。毎晩見ている誰かと、まったく同じ寝方だった。
……黒い猫というのは、どいつもこいつも人の布団の真ん中が好きらしい。
俺は椅子に座った。追い出す方法を考えたが、思いつかなかった。
「……今日も見てたろ」
「見てたよ」
黒歌は枕に顎を埋めた。
「変なの。私はその場にいないのに、ちょっとだけ、会えた気がした」
「……直接会えばいいのに」
黒歌は、少しだけ笑った。
「会ってどうするの。あの子にとって私は、自分を置いて逃げた姉で、自分まで処分されかけた原因だよ」
「……」
「それに、今のあの子には、ちゃんと居場所があるみたいだし」
枕に顎を埋めたまま、黒歌は窓のほうを見た。
「にゃはは。湿っぽいのはなし」
しばらくして、黒歌がむくりと起き上がった。
ベッドの縁に腰掛けて、こちらに向き直る。枕を膝の上に置いて、両手でその端をつまんだ。
「で」
声の温度が、少しだけ下がった。
「前に会った時は聞かないであげたけど」
金色の目が、まっすぐ俺を見ている。
「なんで私のこと知ってるのかにゃ?」
「……」
「多少気は使えるみたいだけど、それだけ。ただの人間でしょ、あんた」
あの夜の、塀の上と同じ目だった。
「なのに、私の名前を知ってた。猫の姿になれることも、白音のことも。……私が主を殺した理由まで」
最後の一言だけ、声が少し揺れた。
「誰からも聞いてないはずのことを、あんたは知ってた」
ごまかしが利く目ではなかった。
それに、ごまかしたくなかった。
「……前世で」
口にした瞬間、自分でも馬鹿みたいだと思った。
「前世で、お前のことを知ってた。……お前が出てくる話を、読んでた」
黒歌の表情が、すっと消えた。
「……前世?」
「ああ」
「ふざけてるの?」
枕の端をつまむ指に、力がこもった。
「聞かないであげたのに、それ? もうちょっとマシな嘘、用意できなかった?」
「嘘じゃない」
「じゃあ証明して」
「……できない」
「でしょうね」
黒歌は鼻で笑った。笑っているのに、目がまったく笑っていなかった。
「どこかの陣営に頼まれた? 白音に近づいたのも、それ?」
「違う」
「その子を私だと思ってたっていうのも、全部作り話?」
床の上のクロを、顎で示す。
「違う」
他に言える言葉がなかった。
黒歌はしばらく黙って俺を睨んでいた。
それから、指先に小さな光を灯した。
それが、俺の胸の前でゆっくりと円を描く。一周。二周。止まって、また回る。
気を読まれている。分かったが、動かなかった。
光が、いつまでも消えなかった。黒歌の眉間の皺が、少しずつ深くなっていく。何度確かめても、望んだ答えが出てこない、という顔だった。
やがて、光が消えた。
「……嘘は、ついてない」
黒歌は、ひどく困った顔をしていた。
「少なくとも、あんたは本気でそう思ってる。……本当、なのね。あんたの中では」
黒歌は小さく息を吐いて、肩の力を抜いた。
「お話の中の人なの、私」
「……向こうでは」
「ふーん」
枕を抱え直して、少しだけ身を乗り出す。
「そのお話の私、どんなだった?」
考えるまでもなかった。
「強くて、自由で。いつも笑ってて」
一度言葉を切った。
「……妹のことばっかり、気にしてた」
黒歌の指先が、枕の端をきゅっと握った。
「主を殺したのも、白音のためだった。……向こうでは、そう書いてあった」
黒歌は黙っていた。
「……それに」
言うつもりはなかった。でも、七年分の何かが、喉の奥で詰まったまま出口を探していた。
「お前は、俺の初恋だったんだよ」
黒歌が、固まった。
「前世で、画面の向こうにいたお前が。……笑うなよ。ただの猫にお前を重ねて、信頼されてないって七年も本気で落ち込むくらいには、好きだった」
黒歌はきょとんとして、それから吹き出した。
「にゃはは! なにそれ、告白?」
ベッドの上で身を乗り出して、俺の顔を下から覗き込む。着物の襟元が、危ういところまでずれた。
「じゃあ、その初恋の人がこーんな近くにいる今の気分は?」
「……」
「ほらほら、顔赤いにゃん。お姉さんがもっと近くで――」
からかう声が、途中で止まった。
金色の目が、俺の顔をじっと見ている。冗談の逃げ道を探して、見つからなかった顔だった。
黒歌は、ふいと視線を逸らした。尻尾の先が、一度だけシーツを叩いた。
「……真顔で言うの、ずるくない?」
「何が」
「知らない」
それでも、すぐにいつもの顔に戻って、黒歌は口の端を上げた。
「……あんた、ほんとに変な人間」
「ま、いいや。前世とかよくわかんないし」
ベッドから降りて、窓を開ける。夜風が入ってきて、カーテンが揺れた。
窓枠に足をかけたところで、黒歌は振り返った。
「ねえ。本物の黒歌は、いらない?」
「……は?」
「初恋の人なんでしょ、私。ここに住んであげてもいいけど」
冗談なのか本気なのか、分からない顔だった。
……言うんじゃなかった。
答えに迷っているうちに、足元から声がした。
「シャーッ」
クロだった。
尻尾を倍に膨らませて、窓辺の黒歌に向かって、七年間で一番大きな声で威嚇していた。
「……うちの猫が、嫌だって」
黒歌は目を丸くして、それから腹を抱えて笑った。
「にゃはは! 振られちゃった」
窓枠に腰掛けたまま、黒歌は首を傾げた。
「そういえば、名前聞いてなかったにゃ」
「……遼」
「ふーん」
口の中で一度だけ転がすように呟いて、黒歌は笑った。
「またね、人間くん」
窓の外に、黒い影が溶けていった。
窓を閉めて、鍵をかけた。たぶん、意味はない。
振り返ると、クロは床の上で、まだ尻尾を膨らませたまま窓を睨んでいた。
「……クロ」
「……」
「せっかく推しと近づけるチャンスだったのに、邪魔しないでくれよ」
「なー」
謝る気は一切ない声だった。
ベッドに戻ろうとすると、クロが先に飛び乗った。黒歌が寝転がっていたあたりを念入りに嗅いで、不満そうに鼻を鳴らして、それから布団の真ん中で丸くなった。
隅のほうに、なんとか体を押し込む。
クロの背中が、すぐそこにあった。
撫でる。温かい。心臓が動いている。雨の神社で拾った日、冷え切っていた体が、今はこんなに温かい。
何も隠していない。何も封じていない。
一生する、と言ったのは七歳の俺だ。あの時は、黒歌の一生のつもりだった。
今は、こいつの一生の話だ。
ただの猫だった。
それでも、うちの猫だ。
「明日も四時か」
「……なー」
布団の真ん中は、今夜もクロのものだった。