龍園クラスの眠れる修羅 作:かいさる
五月。
高度育成高等学校に入学してから、およそ一か月が経過していた。
春の名残をわずかに残しながらも、日差しには少しずつ初夏の気配が混じり始めている。校舎の窓から吹き込む風は心地よく、グラウンドからは運動部の掛け声が聞こえていた。
一見すれば、どこにでもある平穏な学園生活。
しかし、この学校において、その平穏を額面どおりに受け取れる生徒は、もはやそれほど多くない。
高度育成高等学校。
国内屈指の進学・就職実績を誇り、卒業生の多くが望む進路を実現するとされる特別な教育機関。
だがその実態は、入学前に生徒たちが思い描いていた理想とは、いささか異なるものだった。
毎月支給されるポイントは、単なる小遣いではない。
授業態度や素行、そしてクラス全体の評価によって変動する学校独自の評価制度。その仕組みを理解するにつれ、生徒たちは自分たちが置かれた環境の特殊さを痛感し始めていた。
何をしても自由というわけではない。
自由を享受するためには、相応の価値を示さなければならないのだ。
そして、一年AクラスからDクラスまでの四つのクラスには、明確な序列が存在していた。
Aクラス。
Bクラス。
Cクラス。
Dクラス。
アルファベット一文字で示される、残酷なまでに明快な格差。
それは単なる現在の成績順位ではない。卒業時にどのクラスに所属しているかによって将来さえ左右されるという、学校という名の社会の縮図だった。
優秀な者が優遇され、劣る者は相応の扱いを受ける――実力がすべて。
そんな理念を掲げる学校の一年Cクラスに、一人の少女がいた。
長く艶やかな黒髪は、陽光を受けるたびに絹のような光沢を帯びる。透き通るような肌に、均整の取れた顔立ち。切れ長の瞳にはどこか儚げな印象があり、伏せられた睫毛の影が、彼女の表情に静かな奥ゆかしさを添えていた。
背筋はすっと伸び、歩き方に無駄はない。
物を扱う手つきは丁寧で、言葉遣いに一切の乱れはなかった。
教室の窓際で静かに本を読む姿は、まるで古風な日本人形を思わせる。
華やかさを前面に押し出すわけでも、自分の存在を主張するわけでもない。
それでも、ふと目を向ければ自然と視線を引きつけられてしまう――そんな不思議な魅力を持つ少女だった。
成績は優秀、素行は良好。
教師からの評価も悪くなく、クラスメイトとの関係も良好。
困っている人間を見つければ、誰よりも自然に手を差し伸べる。
消しゴムを落とした生徒がいれば拾って手渡し、勉強についていけずに困っている生徒がいれば、嫌な顔一つせずに相手の理解度に合わせて説明する。重そうな荷物を抱えている女子生徒を見かければ、当然のように声をかけて半分を引き受ける。
そこに恩着せがましさも、見返りを求める様子もない。
まるで、そうすることが当たり前であるかのように振る舞うのだ。
「華洛さんって、本当に優しいよね」
ある日の休み時間。勉強を教えてもらった女子生徒が、感心したように口にした。
「えっ、そんなことありませんよ。私も誰かのお役に立てるのは嬉しいですから」
幽星は、花がほころぶように微笑んだ。
「それに、分からないことをそのままにしておくのは不安でしょう? 私でよければ、いつでもお手伝いしますね」
「あ、ありがとう! 華洛さんがいてくれてよかった!」
「ふふっ。どういたしまして」
柔らかな声、穏やかな眼差し。
相手を安心させる絶妙な距離感。
その笑顔を見て、疑いを抱く者などいなかった。
――少なくとも、表面上は。
(……人間というものは、実に興味深いものですね)
幽星は再び本へと視線を落とした。
手にしているのは、古典の教科書でも流行りの恋愛小説でもない。
人体の構造について書かれた、専門的な医学書だった。
もっとも、その内容を真面目に学ぼうとしているのかと問われれば、少々事情が異なる。
(骨格、筋肉、神経の位置関係……。人体は実に精巧な仕組みで成り立っています。これほど複雑な構造をしているのに、ほんの些細な要因で機能が損なわれてしまうのですから)
ページをめくる。
(もちろん、だからといって無闇に人の身体を傷つけるのは感心しません。せっかく精巧にできているのですもの。壊すにしても、それなりの理由が必要でしょう?)
そこで、幽星はふと顔を上げた。
黒板の前では、教師が古典の解説を続けている。物語の登場人物の心情について説明しているらしい。
幽星は数秒ほど考え、静かに古典の教科書を開いた。
(ああ、いけませんね。今は古典の授業でした。先生のお話を聞かなければ)
そうして彼女は、教師の説明に耳を傾けながら、必要な箇所をノートに書き留めていく。
文字は整然としており、板書を写す速度にも余裕があった。
教師に指名されれば正確に答え、質問を受ければ丁寧に説明する。
その所作には、一切の不自然さがない。
彼女は、自分が周囲からどう見られているのかを完璧に理解していた。
上品で、穏やかで、親切な少女。
少しばかり成績がよく、誰に対しても分け隔てなく接する品行方正な優等生。
それが周囲の認識であり、幽星自身、その評価を覆すつもりは毛頭なかった。むしろ、都合が良いとさえ思っている。
人は、目に見えるものを信じたがる。
丁寧な言葉遣いをする人間は心も穏やかだと思い、他人に親切な人間は根っから善良だと思い、いつも笑顔を絶やさない人間は怒りと無縁だと思う。
実際には、そのどれもが正しいとは限らないというのに。
(人間というものは、見たいものしか見ようとしないのですね)
幽星は、ノートの端に小さな花の絵を描いた。
(だからこそ、こちらも期待に応えて差し上げなければ。皆様が『優しい私』を望むのなら、喜んでそのように振る舞いましょう)
口元に浮かぶのは、いつもと変わらない微笑み。
(わざわざ自分から正体を明かす必要など、ありませんもの)
そもそも彼女にとって、この学園における人間関係など造作もないことだった。
誰がどんな言葉で喜ぶのか。
誰が他人からの評価を気にしているのか。
誰が自信家で、誰が劣等感を抱えているのか。
少し観察すれば、おおよその見当はつく。
相手の望む言葉を選び、適切な距離を保ち、必要なときに手を差し伸べる。それだけで、人間関係の大半は驚くほど円滑に進む。
もちろん、すべてが思い通りになるわけではない。人間は複雑で、時として理屈では説明できない行動を取る。
だが、だからこそ面白くもある。
――少なくとも、幽星にとってはそうだった。
ただし、彼女が人間に興味を抱く理由は、一般的なそれとは決定的に異なっていた。
(それにしても……)
幽星の視線が、窓の外へと向けられる。
青く澄んだ空、風に揺れる木々、遠くから聞こえる運動部の声。
どこまでも平和で、穏やかで、何事もなく過ぎていく日常。
(……退屈ですね)
胸の内で、静かに呟く。
退屈――それこそが、幽星にとって何よりも耐えがたいものだった。
勉強は簡単だった。教師の話を聞けば理解できるし、試験で高得点を取ることも容易い。
人間関係も同様だ。周囲が何を求め、どう振る舞えば満足するのかを見極めることに、苦労などなかった。
学校の制度についても、少しずつ全貌が見え始めている。
ポイントの仕組み、クラス間の格差、教師たちの評価基準、生徒の間に生まれつつある見えない序列。
どれも興味深い要素ではあるが、今のところ彼女の心を大きく揺さぶるには至らない。少し頭を使えば、ある程度の結果は予測できてしまうからだ。
予測できるものは、退屈だ。
努力すれば手に入るもの。工夫すれば解決できる問題。相手の反応を想定し、その通りの結果が返ってくる会話。
そうしたものに、幽星の心は動かなかった。
彼女が求めているのは、もっと別の何か。
予測できない展開。
思い通りにならない状況。
そして、自分の中に眠る何かを、否応なく呼び覚ましてくれるような存在。
(……ああ)
幽星の指先が、シャープペンシルをくるりと回した。
動きは優雅で何気ない。けれどその瞳の奥には、普段の彼女からは想像もつかないほどの熱が、ほんの一瞬だけ宿っていた。
(誰かいらっしゃいませんかしら)
心の底から、そう願う。
(私がどれほど取り繕っても、その奥にあるものを見抜いてしまう方。あるいは、私自身でさえ予測できないような一面を持っている方)
他人に優しくすることも、相手の期待に応えることもできる。必要であればどこまでも穏やかに振る舞うことだって。
けれど、それらはすべて彼女が自分の意思で選んでいる『演劇』にすぎない。
その仮面を剥がし、内側にあるものを引きずり出す人間。
あるいは、自ら仮面を脱ぎ捨てても構わないと思えるほどの相手。
そういう存在に出会ってみたかった。
いや――もっと正確に言うならば。
(私が、本気で向き合ってみたいと思える方に)
そのときだった。
教室の後方から、男子生徒たちの雑談が聞こえてきた。
「なあ、聞いたか? 昨日のDクラスの連中、また揉めてたらしいぜ」
「マジかよ。入学して一か月しか経ってないのに、よく飽きないよな」
「つーか、あいつらポイントの使い方も考えたほうがいいんじゃねえの?」
どこにでもある、学生らしい他愛のない会話。
幽星は特に興味を示すこともなく、ノートへ視線を戻した。
けれど、次に聞こえてきた名前には、ほんのわずかに反応した。
「そういや、Cクラスにもヤバい奴がいるって話じゃん。龍園って奴」
「龍園翔? ああ、あいつか。確かにちょっと近寄りがたいよな」
「なんかクラスの連中を好き勝手に動かしてるらしいぜ。逆らう奴もいないとか」
「怖っ。絶対関わりたくねえわ」
幽星のペン先が、ぴたりと止まった。
龍園翔。
その名前は、彼女もすでに知っていた。
自分と同じ一年Cクラスに所属する男子生徒。
人を威圧することをためらわず、他人の感情を利用することにも躊躇がない――少なくとも周囲からはそのように見られている人物だ。
直接深く関わったことがあるわけではない。
彼がどんな人間で、何を考え、どこまでのことを平然とやってのけるのか。その本質に関する情報は、まだ不十分だった。
だからこそ――。
(龍園、翔……)
胸の奥で、何かが小さく揺れた。
期待と呼ぶにはあまりにも淡く、興味と呼ぶには少しばかり強い感情。
(随分と、面白そうな方ですのね)
幽星は再びペンを動かし始めた。
ノートには授業の内容が整然と書き連ねられていく。
その横顔に特別な変化はない。男子生徒たちの会話に聞き耳を立てることも、話題に加わろうとすることもない。
ただ、心の片隅にその名前だけを留めておいた。
今は、それで十分だった。
無理に近づく必要はない。相手を知りたければ、まずは観察すればいい。焦る必要など、どこにもないのだから。
(ふふっ……)
幽星は、誰にも気づかれないほど小さく微笑んだ。
(せっかく平和な学園生活を送れるのですもの。わざわざ自分から問題を起こすなんて、もったいないではありませんか)
それは紛れもない本心だった。少なくとも、今のところは。
平穏な日常も、穏やかな人間関係も決して嫌いではない。
誰かの役に立ち、感謝され、何事もなく一日を終える――そんな生活にも相応の価値はある。
だが――。
(もしも、その平穏を壊してくれる方が現れたなら)
脳裏に、ふと想像が浮かぶ。
予測不能な事態。理屈が通じない相手。
互いに譲ることのできない意思と意思がぶつかり合う瞬間。
そこに生まれる緊張感と、一歩間違えればすべてが台無しになる危うさ。
そして、その先に待つ未知の結末。
(……きっと、とても楽しいのでしょうね)
幽星はゆっくりと目を細めた。
その表情は、どこまでも穏やかだった。まるで胸の奥に潜む獣など、この世のどこにも存在しないかのように。
やがて、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
生徒たちが一斉に動き出し、教室に賑やかな声が満ちていく。
幽星は教科書を閉じ、ノートを揃え、使い終えた筆記用具を丁寧に筆箱へしまった。
「華洛さん、お昼一緒に食べない?」
クラスメイトの女子生徒が声をかけてくる。
「ええ、もちろん。ご一緒させてください」
幽星は微笑みながら立ち上がった。
所作は優雅で、声は柔らかく、表情には親しみやすさが滲んでいる。
誰もが安心して接することのできる、優しい少女。
それが華洛幽星だった。
――少なくとも、彼女がそう見せている限りは。
(さて……今日はどんな一日になるのでしょうか)
鞄を手に取り、クラスメイトと並んで教室を出る。
廊下を歩く彼女の足取りは軽やかだった。
五月の風が、開け放たれた窓から吹き込んでくる。
平穏で、退屈で、ありふれた日常。
その裏側で、少女の胸にはひそやかな期待が芽生え始めていた。
まだ誰も知らない。
この淑やかな優等生が、どれほど危うい衝動を胸の奥に飼い慣らしているのかを。
そして、その衝動が目を覚ましたとき――一年Cクラスの日常が、どのような形に変貌してしまうのかを。
華洛幽星は、今日も微笑んでいた。
まるで、何も知らない無垢な少女のように。