龍園クラスの眠れる修羅 作:かいさる
「おい、華洛」
放課後。
帰り支度を済ませ、教室を出ようとしていた華洛幽星は、背後から投げかけられた粗野で遠慮のない声に足を止めた。
振り返ると、そこには龍園翔が立っていた。
一年Cクラスの絶対的支配者。勝利のためなら手段を選ばず、他者を屈服させることに一切の躊躇がない男。その背後には、落ち着かない様子で周囲を伺う石崎大地と、無愛想に壁へ寄りかかる伊吹澪が控えている。
三人が揃って自分を呼び止めた理由を悟るのに、幽星は一秒も必要としなかった。
しかし、それを表情に出す必要もどこにもない。
「龍園くん。どうかいたしましたか?」
幽星は小首を傾げ、花がほころぶような笑みを浮かべた。
警戒も馴れ合いも感じさせない、自然と会話の主導権を相手に委ねる柔らかな声色。完璧に計算された、いつもの淑女の振る舞い。
「ああ、ちょっと聞きたいことがあってな」
「私にお答えできることでしたら、喜んで」
「ほう。随分と殊勝なこった」
龍園は口元を歪めた。そこには親しみなど微塵もなく、ただ獲物の値を踏む冷酷な視線だけがあった。
「お前、最近のテストで妙に安定した点を取ってるよな。筆記だけじゃねえ。授業中の受け答えも上々、教師やクラスの評判も上々だ」
龍園は指を折る。
「特別目立つわけでもねえのに、隙が見当たらねえ。入学して一か月でここまで完璧に立ち回れる奴はそういねえよ」
「まあ……そんな風に見ていただけていたのですね。皆さんのおかげですわ。勉強も楽しくなりましたし」
「はっ。謙遜するねえ」
龍園は鼻で笑った。
彼にとって、人間など単純な記号に過ぎない。優秀な者には役割を与え、従順な者には利を解かせ、反抗的な者には恐怖を叩き込む。
だが、華洛幽星という存在だけは、どこか掴みどころがなかった。
成績優秀、運動能力も良好、人間関係のトラブルは皆無。困っている者に自然と手を差し伸べる親切な少女――表向きはそれだけだ。
だが、龍園は違和感を拭えずにいた。他人に合わせる技術があまりに洗練されすぎている。まるで、人間のあしらい方を最初から知り尽くしているかのように。
そして何より――。
「お前、喧嘩はできるのか?」
あまりに唐突な問いだった。
「……え? 龍園さん、いきなり何を聞いてんすか?」
「うるせえ。俺は華洛に聞いてんだよ」
「す、すんません!」
慌てて縮こまる石崎を余所に、伊吹は呆れたように息を吐く。
一方の幽星は、ほんの一瞬だけ瞬きを止めていた。
『喧嘩』――その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥底で眠る獣が微かに耳を動かした感覚。だが、それは瞬時に影を潜めた。
「喧嘩、ですか?」
幽星は困惑したように眉を寄せる。
「あまり経験はありませんわ。できれば、穏便に済ませたいと思っておりますけれど」
「穏便、ねえ」
龍園の目が細くなる。
「俺が聞いてんのはそういう答えじゃねえ。お前自身が、どれくらい動けるのかって話だ」
「……どうして、そのようなことを?」
「理由が必要か?」
龍園が一歩踏み込み、圧迫感を与える距離まで迫る。通常の生徒なら気圧されて身を引くか表情を強張らせる場面。しかし、幽星は一歩も退かない。逃げもせず、構えもせず、ただ穏やかな眼差しで龍園を見つめ返した。
「この学校じゃ、学力だけが全てじゃねえ。試験によっちゃ身体能力も必要になる。手札は多い方がいい。それだけだ」
「なるほど……確かに、色々なことができた方が便利ですものね」
幽星は深く納得したように頷き、そして――ふっと笑みを深めた。
「でも、龍園くん。喧嘩ができることと、強いことは、必ずしも同じではないと思いますよ?」
一瞬。
龍園の顔から戯れの笑みが消えた。
石崎が目を見開き、伊吹も壁から体を離す。
言葉自体はありふれた道徳論に聞こえる。だが、龍園の肌を掠めたのは明確な違和感だった。
怯えでも強がりでもない。目の前の少女は、龍園の提示した『暴力』という基準を否定することすらせず、もっと上の高みから見下ろすように、問いの構造そのものを捉え直していた。
「……へえ」
龍園の口元に、冷ややかな興味が戻る。
「お前、案外面白いことを言うじゃねえか」
「そうでしょうか? ごく当たり前のことを申し上げただけですけれど」
柔らかな微笑、隙のない立ち振る舞い。どこから見てもおしとやかな女子生徒。だが、今の言葉には本物の強者だけが持つ奇妙な説得力が宿っていた。
「体育の授業じゃ、結構動ける方なのか?」
「皆さんにご迷惑をおかけしない程度には、でしょうか」
「曖昧な答えだな」
「ふふ。申し訳ありません。でも、身体を動かすこと自体は好きですよ。気分がすっきりいたしますから」
「へえ。そいつは初耳だ」
龍園は肩をすくめた。これ以上追及しても、煙に巻かれるだけだと察したのだ。ここで無理に暴く必要はない。この学校にいれば、いずれ嫌でもボロが出る。
「まあいい。使えるなら、いずれ分かるだろ。石崎、行くぞ。伊吹もだ」
「お、おう!」
背を向けて歩き出す三人に対し、幽星は丁寧に頭を下げた。
「では、また明日。龍園くん、石崎くん、伊吹さん」
龍園は振り返りもせず、片手を軽く上げただけで去っていった。
今の龍園にとって、幽星は『少し使えるかもしれない優秀な駒』に過ぎない。
――少なくとも、今は。
「……ふふっ」
廊下の静寂が戻ると、幽星の唇から小さな漏れ声が零れた。
先ほどまでの淑女の笑みとは違う、隠しきれない歓喜を含んだ笑み。
(なるほど。私のことを、そう評価なさるのですね)
底が見えないと怪しまれるのは好都合だった。人から軽く見られることには慣れているし、むしろそれは日常の平穏を守るための最良の盾だ。
強さを悟られれば警戒され、相手は本性を隠してしまう。誰もが自分を特別扱いするような世界など、退屈以外の何物でもない。
(私をただの生徒として扱う人間……やはり素晴らしい場所ですわ)
龍園翔。恐怖で他者を支配し、人間の弱みを突くことに長けた男。実に面白い。
だが、彼にはまだ見えていない。人間を動かすものが、恐怖や利害だけではないということを。
(いつか、あなたの本気を見てみたいものですわね)
窓の外に広がる五月の青空を見つめ、幽星は呟く。
平和で、退屈で、愛おしいほど脆い日常。それを壊すつもりはない。だが、もしもこの平穏の破綻の先に、己の心を揺さぶる「何か」が待っているのだとしたら――期待せずにはいられない。
「さて……次はどのような方とお会いできるでしょうか」
その声音は、どこまでも穏やかに澄んでいた。
◇
放課後のトレーニング施設。
ランニングマシンの駆動音や器具の金属音が響く中、幽星もまた汗を流していた。
表向きの理由は健康維持。人がいる間は、目立たない程度の運動に留めている。
しかし、周囲から人の気配が完全に消えた瞬間――彼女の空気は一変した。
「……すぅ」
深く息を吐き出す。
温和な表情は削ぎ落とされ、瞳から一切の感情が消え去る。
肩を落とし、足裏で微細に床の感覚を捉える。
重心のわずかな移動。関節の角度。呼吸の深度。視界の広がり。
一つひとつの動作に対し、筋肉の収縮と骨格の噛み合いを精密に検証していく。
観察し、理解し、極める。
彼女にとって身体操作とは、学問と同じ探求の対象だった。
「ふふ……人間の身体というのは、本当に深いですわね」
生まれ持った圧倒的な動体視力、反射神経、状況把握能力。それらは常人が生涯をかけても届かない領域にある。だが、幽星にとって才能とは単なる「起点」でしかなかった。
(綾小路清隆くん……高円寺六助くん……)
頭に浮かぶ二人の存在。
虚無のような気配の奥に凄まじい底知れなさを隠す綾小路。
圧倒的な自我と身体能力を誇り、他者など眼中にない高円寺。
どちらも一般的な枠組みでは測れない。
(今のところは、まだ分かりませんけれど……)
もし、彼らと本気で交差することがあればどうなるか。
想像するだけで、幽星の口元に笑みが漏れる。
彼女が求めているのは、勝利でも優劣でもない。
自分の想定を易々と裏切り、積み上げてきた常識を一瞬で打ち砕いてくれる「未知の強者」。対峙した瞬間に、胸の奥に眠る野性を呼び覚ましてくれる存在。
(考えるだけで、胸が躍りますわ)
鏡に映る自分を見る。
髪を整え、制服の襟を正し、柔らかな微笑みを浮かべる。
そこにいるのは、どこにでもいる品行方正な女子生徒だ。修羅の気配は微塵もない。
「よし」
小首を傾げ、鞄を持ち直す。
「石崎くんにノートをお貸しして、伊吹さんにも課題のまとめをお渡ししなくては。あの方、強がりで人に頼れませんから……」
誰かの力になり、クラスの一員として穏やかな日々を送ること。それもまた幽星にとっての偽りない本心であり、愛すべき日常だ。
「明日も、良い一日になりますように」
静かにトレーニング施設を後にする少女。
夕陽を浴びて歩むその背姿は、どこまでも可憐で、どこまでも穏やかだった。
一年Cクラスに眠る、一匹の修羅。
その牙が抜かれる日を、まだ誰も知らない。