龍園クラスの眠れる修羅   作:かいさる

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第一話

 

 

「おい、華洛」

 

放課後。

 

帰り支度を済ませ、教室を出ようとしていた華洛幽星は、背後から投げかけられた粗野で遠慮のない声に足を止めた。

 

振り返ると、そこには龍園翔が立っていた。

 

一年Cクラスの絶対的支配者。勝利のためなら手段を選ばず、他者を屈服させることに一切の躊躇がない男。その背後には、落ち着かない様子で周囲を伺う石崎大地と、無愛想に壁へ寄りかかる伊吹澪が控えている。

 

三人が揃って自分を呼び止めた理由を悟るのに、幽星は一秒も必要としなかった。

しかし、それを表情に出す必要もどこにもない。

 

「龍園くん。どうかいたしましたか?」

 

幽星は小首を傾げ、花がほころぶような笑みを浮かべた。

警戒も馴れ合いも感じさせない、自然と会話の主導権を相手に委ねる柔らかな声色。完璧に計算された、いつもの淑女の振る舞い。

 

「ああ、ちょっと聞きたいことがあってな」

「私にお答えできることでしたら、喜んで」

「ほう。随分と殊勝なこった」

 

龍園は口元を歪めた。そこには親しみなど微塵もなく、ただ獲物の値を踏む冷酷な視線だけがあった。

 

「お前、最近のテストで妙に安定した点を取ってるよな。筆記だけじゃねえ。授業中の受け答えも上々、教師やクラスの評判も上々だ」

 

龍園は指を折る。

 

「特別目立つわけでもねえのに、隙が見当たらねえ。入学して一か月でここまで完璧に立ち回れる奴はそういねえよ」

「まあ……そんな風に見ていただけていたのですね。皆さんのおかげですわ。勉強も楽しくなりましたし」

「はっ。謙遜するねえ」

 

龍園は鼻で笑った。

彼にとって、人間など単純な記号に過ぎない。優秀な者には役割を与え、従順な者には利を解かせ、反抗的な者には恐怖を叩き込む。

 

だが、華洛幽星という存在だけは、どこか掴みどころがなかった。

成績優秀、運動能力も良好、人間関係のトラブルは皆無。困っている者に自然と手を差し伸べる親切な少女――表向きはそれだけだ。

 

だが、龍園は違和感を拭えずにいた。他人に合わせる技術があまりに洗練されすぎている。まるで、人間のあしらい方を最初から知り尽くしているかのように。

 

そして何より――。

 

「お前、喧嘩はできるのか?」

 

あまりに唐突な問いだった。

 

「……え? 龍園さん、いきなり何を聞いてんすか?」

「うるせえ。俺は華洛に聞いてんだよ」

「す、すんません!」

 

慌てて縮こまる石崎を余所に、伊吹は呆れたように息を吐く。

 

一方の幽星は、ほんの一瞬だけ瞬きを止めていた。

『喧嘩』――その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥底で眠る獣が微かに耳を動かした感覚。だが、それは瞬時に影を潜めた。

 

「喧嘩、ですか?」

 

幽星は困惑したように眉を寄せる。

 

「あまり経験はありませんわ。できれば、穏便に済ませたいと思っておりますけれど」

「穏便、ねえ」

 

龍園の目が細くなる。

 

「俺が聞いてんのはそういう答えじゃねえ。お前自身が、どれくらい動けるのかって話だ」

「……どうして、そのようなことを?」

「理由が必要か?」

 

龍園が一歩踏み込み、圧迫感を与える距離まで迫る。通常の生徒なら気圧されて身を引くか表情を強張らせる場面。しかし、幽星は一歩も退かない。逃げもせず、構えもせず、ただ穏やかな眼差しで龍園を見つめ返した。

 

「この学校じゃ、学力だけが全てじゃねえ。試験によっちゃ身体能力も必要になる。手札は多い方がいい。それだけだ」

「なるほど……確かに、色々なことができた方が便利ですものね」

 

幽星は深く納得したように頷き、そして――ふっと笑みを深めた。

 

「でも、龍園くん。喧嘩ができることと、強いことは、必ずしも同じではないと思いますよ?」

 

一瞬。

 

龍園の顔から戯れの笑みが消えた。

石崎が目を見開き、伊吹も壁から体を離す。

言葉自体はありふれた道徳論に聞こえる。だが、龍園の肌を掠めたのは明確な違和感だった。

 

怯えでも強がりでもない。目の前の少女は、龍園の提示した『暴力』という基準を否定することすらせず、もっと上の高みから見下ろすように、問いの構造そのものを捉え直していた。

 

「……へえ」

 

龍園の口元に、冷ややかな興味が戻る。

 

「お前、案外面白いことを言うじゃねえか」

「そうでしょうか? ごく当たり前のことを申し上げただけですけれど」

 

柔らかな微笑、隙のない立ち振る舞い。どこから見てもおしとやかな女子生徒。だが、今の言葉には本物の強者だけが持つ奇妙な説得力が宿っていた。

 

「体育の授業じゃ、結構動ける方なのか?」

「皆さんにご迷惑をおかけしない程度には、でしょうか」

「曖昧な答えだな」

「ふふ。申し訳ありません。でも、身体を動かすこと自体は好きですよ。気分がすっきりいたしますから」

「へえ。そいつは初耳だ」

 

龍園は肩をすくめた。これ以上追及しても、煙に巻かれるだけだと察したのだ。ここで無理に暴く必要はない。この学校にいれば、いずれ嫌でもボロが出る。

 

「まあいい。使えるなら、いずれ分かるだろ。石崎、行くぞ。伊吹もだ」

「お、おう!」

 

背を向けて歩き出す三人に対し、幽星は丁寧に頭を下げた。

 

「では、また明日。龍園くん、石崎くん、伊吹さん」

 

龍園は振り返りもせず、片手を軽く上げただけで去っていった。

今の龍園にとって、幽星は『少し使えるかもしれない優秀な駒』に過ぎない。

 

――少なくとも、今は。

 

「……ふふっ」

 

廊下の静寂が戻ると、幽星の唇から小さな漏れ声が零れた。

先ほどまでの淑女の笑みとは違う、隠しきれない歓喜を含んだ笑み。

 

(なるほど。私のことを、そう評価なさるのですね)

 

底が見えないと怪しまれるのは好都合だった。人から軽く見られることには慣れているし、むしろそれは日常の平穏を守るための最良の盾だ。

強さを悟られれば警戒され、相手は本性を隠してしまう。誰もが自分を特別扱いするような世界など、退屈以外の何物でもない。

 

(私をただの生徒として扱う人間……やはり素晴らしい場所ですわ)

 

龍園翔。恐怖で他者を支配し、人間の弱みを突くことに長けた男。実に面白い。

だが、彼にはまだ見えていない。人間を動かすものが、恐怖や利害だけではないということを。

 

(いつか、あなたの本気を見てみたいものですわね)

 

窓の外に広がる五月の青空を見つめ、幽星は呟く。

平和で、退屈で、愛おしいほど脆い日常。それを壊すつもりはない。だが、もしもこの平穏の破綻の先に、己の心を揺さぶる「何か」が待っているのだとしたら――期待せずにはいられない。

 

「さて……次はどのような方とお会いできるでしょうか」

 

その声音は、どこまでも穏やかに澄んでいた。

 

◇

 

放課後のトレーニング施設。

ランニングマシンの駆動音や器具の金属音が響く中、幽星もまた汗を流していた。

表向きの理由は健康維持。人がいる間は、目立たない程度の運動に留めている。

 

しかし、周囲から人の気配が完全に消えた瞬間――彼女の空気は一変した。

 

「……すぅ」

 

深く息を吐き出す。

温和な表情は削ぎ落とされ、瞳から一切の感情が消え去る。

 

肩を落とし、足裏で微細に床の感覚を捉える。

重心のわずかな移動。関節の角度。呼吸の深度。視界の広がり。

一つひとつの動作に対し、筋肉の収縮と骨格の噛み合いを精密に検証していく。

 

観察し、理解し、極める。

彼女にとって身体操作とは、学問と同じ探求の対象だった。

 

「ふふ……人間の身体というのは、本当に深いですわね」

 

生まれ持った圧倒的な動体視力、反射神経、状況把握能力。それらは常人が生涯をかけても届かない領域にある。だが、幽星にとって才能とは単なる「起点」でしかなかった。

 

(綾小路清隆くん……高円寺六助くん……)

 

頭に浮かぶ二人の存在。

虚無のような気配の奥に凄まじい底知れなさを隠す綾小路。

圧倒的な自我と身体能力を誇り、他者など眼中にない高円寺。

どちらも一般的な枠組みでは測れない。

 

(今のところは、まだ分かりませんけれど……)

 

もし、彼らと本気で交差することがあればどうなるか。

想像するだけで、幽星の口元に笑みが漏れる。

 

彼女が求めているのは、勝利でも優劣でもない。

自分の想定を易々と裏切り、積み上げてきた常識を一瞬で打ち砕いてくれる「未知の強者」。対峙した瞬間に、胸の奥に眠る野性を呼び覚ましてくれる存在。

 

(考えるだけで、胸が躍りますわ)

 

鏡に映る自分を見る。

髪を整え、制服の襟を正し、柔らかな微笑みを浮かべる。

そこにいるのは、どこにでもいる品行方正な女子生徒だ。修羅の気配は微塵もない。

 

「よし」

 

小首を傾げ、鞄を持ち直す。

 

「石崎くんにノートをお貸しして、伊吹さんにも課題のまとめをお渡ししなくては。あの方、強がりで人に頼れませんから……」

 

誰かの力になり、クラスの一員として穏やかな日々を送ること。それもまた幽星にとっての偽りない本心であり、愛すべき日常だ。

 

「明日も、良い一日になりますように」

 

静かにトレーニング施設を後にする少女。

夕陽を浴びて歩むその背姿は、どこまでも可憐で、どこまでも穏やかだった。

 

一年Cクラスに眠る、一匹の修羅。

その牙が抜かれる日を、まだ誰も知らない。

 

 

 

 

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