「……イヅルくん」
「はい」
「この書類、昨日も見た気がするんですが」
「昨日、望月さんが確認を後回しにした書類です」
「……そうでしたか」
望月輝夜は、手元の紙を眺めた。
三番隊の執務室。
机の上には、今日も書類が積み上がっている。
隊長がいなくなっても、仕事はなくならない。
むしろ、隊長がいないからこそ増える仕事というものがあるらしい。
「いやあ、困りましたねえ」
「困っているなら、早く片づけてください」
「厳しいですねえ」
「望月さんが昨日やっていれば、今日の仕事は少し減っていましたよ」
「……ごもっともで」
輝夜は筆を取った。
向かいでは、吉良イヅルが黙々と書類を処理している。
市丸ギンが去ってから、三番隊は随分と慌ただしくなった。
隊長不在に伴う各種の手続き。
他隊との連絡。
隊士たちへの指示。
それらを二人で分担する日々が続いている。
イヅルは、以前よりも仕事に打ち込むようになった。
もっとも、調子がよくなったというより、そうしている方が余計なことを考えずに済むのかもしれない。
輝夜には、何とも言えなかった。
「……そういえば、望月さん」
「はい?」
「最近、一番隊からの呼び出しが多いですね」
「……ああ」
輝夜は筆を止めた。
始解の能力を開示して以来、一番隊へ足を運ぶ機会が増えていた。
観測の実施。
報告書の提出。
それから、能力の使用記録の確認。
自分から話したこととはいえ、なかなか面倒なものである。
「まあ、少々事情がありましてねえ」
「……処分の件ですか?」
「それもありますね」
イヅルは少しだけ眉を寄せた。
「……何か、僕にできることはありますか?」
「今のところは大丈夫ですよ」
「そうですか」
「ありがとうございます、イヅルくん」
輝夜が笑うと、イヅルは小さく頷いた。
それ以上は聞いてこなかった。
ありがたいことだった。
何しろ、輝夜自身も今後のことは分かっていない。
平子真子。
百年以上前、五番隊を率いていた男。
その当時の副隊長こそ、藍染惣右介だった。
あの失踪事件の当事者が、今になって黒崎一護の前に現れた。
偶然と片づけるには、あまりにも気になる。
平子なら、百年前の事件について何か知っているかもしれない。
あるいは、輝夜が長年疑ってきた藍染の行動についても。
できることなら、一度話を聞いてみたい。
もっとも、相手がこちらに協力するとは限らなかった。
そもそも自分は処分保留の身で、現世へ自由に出入りすることすらできない。
京楽春水も、調べるとは言ってくれたが、何かを約束したわけではなかった。
今は待つしかない。
「……まあ、気長にやりますかねえ」
「何をですか?」
「いえ、こちらの話ですよ」
輝夜は書類へ視線を戻した。
そのときだった。
「望月三席!」
廊下から声が響いた。
一番隊の隊士だった。
「本日の観測時刻が近づいております。準備をお願いいたします!」
「……ああ、もうそんな時間ですか」
輝夜は壁の時計を見た。
確かに、そろそろ出なければならない。
「イヅルくん、申し訳ありませんが」
「ええ。こちらは任せてください」
「助かります」
輝夜は立ち上がった。
机の上には、まだ書類が残っている。
帰ってきたら片づけるしかないだろう。
「……では、行ってきますねえ」
「はい。お気をつけて」
輝夜は軽く手を振って、執務室を後にした。
⸻
一番隊の観測室は、以前と変わらず静かだった。
輝夜が席に着くと、監督役の隊士が記録用の紙を広げた。
「本日も、黒崎一護の現世における動向を確認していただきます」
「承知しました」
「観測は許可された範囲に限ります。得られた情報は逐次報告してください」
「はい」
何度目かの説明である。
もっとも、必要なことではあった。
何しろ、輝夜は長年にわたってこの能力を隠していた。
今更、信用してほしいと言ったところで、そう簡単にはいかないだろう。
「……それでは、始めますねえ」
輝夜は椅子に深く腰を下ろした。
左目を閉じる。
意識を、弓張月の新月印へ向けた。
黒崎一護に刻まれた、目には見えない印。
そこへ接続する。
左目に、見知らぬ景色が映った。
青い空。
建物の屋根。
そして、どこかへ向かって歩いているらしい人々。
「……特に変わった様子はありませんねえ」
「黒崎一護の状態は?」
「今のところ、普段どおりに見えます」
右目には、静かな観測室。
左目には、現世の街並み。
何度経験しても、妙な感覚だった。
視界が二つあるというのは、便利なようでいて、案外不便なものである。
輝夜は右目を閉じた。
少しばかり、楽になる。
そのまま、しばらく様子を見ていた。
だが、突然。
観測室の扉が開いた。
「緊急報告!」
十二番隊の隊士が駆け込んできた。
「空座町にて異常な霊圧反応を確認! 虚に類する反応が二つ、いずれも通常の虚とは比較にならない規模です!」
監督役が顔を上げた。
「位置は?」
「現在、技術開発局が追跡中です!」
「……空座町?」
輝夜は思わず呟いた。
左目には、まだ黒崎一護の見ている景色が映っている。
「望月三席!」
「はい」
「黒崎一護の周辺に異常は?」
「……少々お待ちを」
輝夜は意識を集中させた。
ちょうどそのとき、黒崎一護の視線が大きく動いた。
続いて、身体ごと向きを変えたらしい。
景色が急速に流れていく。
どうやら、どこかへ向かっているようだった。
「……何かに気づいたようです。黒崎一護が移動を始めました」
「異常な霊圧を察知した可能性は?」
「考えられますねえ」
左目の景色が、さらに速く流れ始めた。
監督役は十二番隊から届いた情報と照合している。
輝夜は黙って、黒崎一護の視界を追った。
やがて。
そこに、破壊された道路が映った。
⸻
「……おや」
地面は砕け、周囲には土煙が立ち込めていた。
その向こうに、大柄な男が立っている。
白い衣服。
顔に残る、虚の仮面のようなもの。
腰には刀。
そして、その男の近くには、もう一人。
こちらは細身の男だった。
「……敵影二体を確認しました」
監督役が筆を取った。
「姿は?」
「どちらも人型です。顔には虚の仮面の残骸と思われるものがあります。腰には刀も」
「破面か?」
「その可能性が高いですねえ」
破面。
虚が仮面を破り、死神に近い能力を得た存在。
その知識自体は、護廷十三隊にもある。
だが、目の前の二体がどれほどの実力を持つのかは分からなかった。
「……一体はかなり大柄ですね。もう一体は細身で、今のところ動いていません」
黒崎一護の視線が、大柄な男へ向けられる。
その近くには、傷ついた人影があった。
だが、詳しく確かめる間もなく、視界が動いた。
黒崎一護が刀を構える。
黒い刀身。
天鎖斬月。
次の瞬間、大柄な破面が迫った。
「……交戦が始まりました」
激しい衝撃音。
視界が跳ねる。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
次に見えたときには、大柄な男の腕が宙を舞っていた。
「……っ」
輝夜は思わず息を呑んだ。
「望月三席?」
「……失礼しました。黒崎一護が敵の片腕を斬り落としました」
「戦況は?」
「現時点では優勢のようです」
黒崎一護は強い。
尸魂界での戦いを見ていれば、それは分かっていた。
だが、相手もただの虚ではない。
片腕を失ったというのに、なお戦意を失っていなかった。
それに、もう一体。
細身の破面は、依然として動こうとしない。
戦いを眺めている。
少なくとも、輝夜にはそう見えた。
「……もう一体は?」
「戦闘には加わっていません。黒崎一護の方を見ているようですが」
そのときだった。
黒崎一護の視界が、不意に揺れた。
刀を構えている。
敵は目の前にいる。
だが、動かない。
「……?」
大柄な破面が迫る。
それなのに、黒崎一護は反応しなかった。
次の瞬間、視界が激しく跳ねた。
「……っ!」
輝夜は椅子の肘掛けを握った。
左目の景色が回転する。
地面。
空。
そして、再び大柄な破面。
「黒崎一護が攻撃を受けています!」
「負傷したのか?」
「分かりません。突然、動きが止まったように見えました」
輝夜は眉を寄せた。
自分の身体ならば、何が起きているのか多少は分かる。
だが、今借りているのは他人の視覚と聴覚だけだ。
痛みも、身体の不調も、思考も分からない。
黒崎一護が何を考えているのか。
なぜ動けなくなったのか。
左目に映る景色だけでは、判断できなかった。
そうしている間にも、大柄な破面は迫ってくる。
そのときだった。
黒崎一護の視界の端を、何かが横切った。
大柄な破面の身体が吹き飛ぶ。
そして、そこに立っていたのは。
「……四楓院夜一?」
黒髪。
褐色の肌。
百年以上前に見知った顔だった。
「……新たな人物の介入を確認しました。四楓院夜一元隊長と思われます」
「四楓院夜一だと?」
監督役の声が強張った。
「本人なのか?」
「少なくとも、私の知る四楓院隊長と同じ顔ですねえ」
さらに、もう一人。
緑と白の縞模様の帽子。
その男が視界に入った。
「……浦原喜助元隊長も確認しました」
今度こそ、観測室が静まり返った。
無理もない。
百年以上前に尸魂界を去った二人が、現世で揃って戦っているのだから。
もっとも、輝夜にとっては、それほど驚く話でもなかった。
浦原が現世にいることは、既に分かっている。
問題は、その二人が相手をしている存在だった。
大柄な破面が、赤い光を放つ。
次の瞬間、視界が眩しく染まった。
「……虚閃と思われる攻撃を確認しました」
「被害は?」
「浦原元隊長が対応しています。黒崎一護は交戦していません」
浦原が刀を構える。
反撃に移った、そのときだった。
細身の破面が動いた。
これまで戦いを眺めていた男が、初めて前に出る。
浦原の攻撃を受け止めた。
「……もう一体が介入しました」
輝夜は左目に意識を集中させた。
細身の男が、何かを話している。
大柄な破面へ向けた言葉だった。
どうやら、もう帰るつもりらしい。
「……敵は撤退するようです」
「撤退?」
「はい。戦いを続けるつもりはなさそうですねえ」
黒い穴が開いた。
空間が裂ける。
大柄な破面が、そこへ向かう。
その後ろで、細身の男が何かを告げていた。
輝夜は耳を澄ませた。
そして。
一つの名前が聞こえた。
藍染。
「…………」
輝夜は息を止めた。
「……望月三席?」
監督役に呼ばれ、輝夜は顔を上げた。
「……失礼しました」
「何か確認できたか?」
「ええ。重要な発言を聞きました」
左目の中で、二体の破面が黒い穴へ消えていく。
そして、穴は閉じた。
「……敵は、藍染惣右介に報告すると発言しました」
観測室が静まり返った。
「……藍染?」
「はい」
「聞き間違いではないのか?」
「その名前については、間違いありません」
輝夜は静かに答えた。
「少なくとも、あの二体は藍染とつながりがあるようですねえ」
⸻
観測を終えた輝夜は、報告書に筆を走らせた。
監督役が記録した内容と照らし合わせ、敵の外見や戦闘の経過を確認していく。
浦原喜助と四楓院夜一の介入についても、見たままを記した。
「……望月三席」
「はい?」
「敵の目的について、何か考えは?」
輝夜は筆を止めた。
「……黒崎一護の実力を確かめに来た、という可能性はありますねえ」
「偵察か?」
「ええ。細身の方は、ほとんど戦わずに黒崎一護を見ていましたから。それに、あちらの判断で引き揚げています」
「確証は?」
「ありませんよ。私が見たのは途中からですし、他の目的があったのかもしれません」
監督役は頷いた。
「分かった。推測として記録する」
「お願いします」
輝夜は筆を置いた。
以前なら、得た情報について自分一人が納得できれば、それで済んだ。
だが、今は違う。
この報告を基に、誰かが判断を下す。
見えていないものまで、見えたことにするわけにはいかない。
「……では、こちらで」
報告書を差し出す。
監督役はそれを受け取った。
「技術開発局の記録と照合し、上層部へ提出する」
「承知しました」
輝夜は椅子から立ち上がった。
ひとまず、自分の役目は終わりだった。
もっとも、気になることは増えている。
平子真子について調べようとしていたところへ、今度は浦原喜助と四楓院夜一が現れた。
しかも、相手は藍染とつながりのある破面である。
百年前の事件を知る者たちが、今の藍染についても何か知っているとしたら。
「……さて」
輝夜は小さく息を吐いた。
報告はいずれ京楽の耳にも入るだろう。
同じ内容を説明し直す必要はない。
ただ、今回のことを踏まえて、平子への接触をどう進めるかは相談しておきたかった。
京楽の方でも、何か分かっているかもしれない。
「……少し、忙しくなりそうですねえ」
輝夜は観測室を後にした。
⸻
三番隊へ戻る頃には、日が傾き始めていた。
「お帰りなさい、望月さん」
「ただいま戻りました」
「……随分と長かったですね」
「いやあ、少しばかり大変なことになりまして」
輝夜は自分の席へ腰を下ろした。
机の上には、朝よりも多くの書類が積まれている。
「……増えてません?」
「増えていますよ」
「困りましたねえ」
「僕の方も増えています」
「……そうでしたか」
どうやら、文句を言っても仕方がないらしい。
輝夜は一枚を手に取った。
だが、文字を追い始めても、どうにも先ほどの光景が頭から離れなかった。
「……望月さん」
「はい?」
「現世で、何かあったんですか?」
輝夜は顔を上げた。
イヅルは、真面目な顔をしていた。
「……ええ。破面と思われる者が二体、現れました」
「破面が……?」
「黒崎一護と交戦した後、撤退しています」
「……そうですか」
イヅルは少し考えた。
「それで、望月さんが呼ばれたんですね」
「ええ。黒崎一護が見ていたものを、少しばかり確認しました」
「……何か、分かったんですか?」
輝夜は筆を置いた。
「藍染が関わっているようです」
イヅルの表情が変わった。
「……藍染、ですか」
「はい。破面たちが、あの男の名前を口にしていました」
「…………」
イヅルは目を伏せた。
しばらく、何も言わなかった。
輝夜も黙っていた。
やがて、イヅルが小さく口を開いた。
「……市丸隊長も、そこにいるんでしょうか」
輝夜は答えに迷った。
いるのかもしれない。
いないのかもしれない。
藍染とともに尸魂界を去った以上、今も傍にいると考えるのが自然だろう。
だが、今回の観測では何も分からなかった。
「……分かりませんねえ」
それだけ答えた。
イヅルは静かに頷いた。
「……そうですか」
それ以上は聞かなかった。
輝夜も、無理に言葉を続けることはしなかった。
しばらくして、イヅルが書類へ目を戻した。
「……僕たちにも、出動命令が来るでしょうか」
「どうでしょうねえ」
「もし来たら、準備はできています」
「……頼もしいですねえ」
「三番隊の副隊長ですから」
イヅルはそう答えた。
その顔を見て、輝夜は少しだけ笑った。
「……そうでしたね」
市丸ギンが去ってから、三番隊は変わった。
変わらなければならなかった。
隊長のいない隊を、このまま放っておくわけにはいかない。
イヅルも、自分も。
それぞれに、やらなければならないことがある。
輝夜は改めて筆を取った。
まずは、目の前の書類を片づけよう。
それから、京楽に相談する。
平子真子が何を知っているのか。
今までは、確かめられればいいと思っていた。
だが、藍染が動き始めた以上、そう悠長にもしていられない。
「……望月さん」
「はい?」
「手が止まっていますよ」
「……おや」
輝夜は自分の手元を見た。
筆は、いつの間にか宙に浮いたままだった。
「……失礼しました」
「今日中にお願いしますね」
「はいはい」
輝夜は苦笑して、書類に向き直った。
現世では、藍染が動き始めている。
こちらも、少しばかり急いだ方がいいだろう。
もっとも。
その前に、三番隊の仕事を終わらせなければならないのだが。
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