現世からの報告が届いて以来、三番隊の仕事は少し増えた。
破面の襲撃。現世先遣隊の交戦。黒崎一護の敗北。
いずれも、気の休まらない話ばかりだった。
もっとも、報告を読んだからといって、私に何かできるわけではない。
処分保留。
監督付きの任務以外、自由な行動は許されていない。現世へ向かうことなど、もってのほかだ。
「……世知辛いですねえ」
「何がですか?」
向かいに座っていたイヅルが、顔を上げた。
「いやあ。現世は大変だなと思いまして」
「……そうですね」
イヅルは、書類へ視線を戻した。
先遣隊には松本もいる。彼女が破面と交戦したという報告も、既に届いていた。
心配していないはずがない。
「僕らにできることを、やるしかありませんから」
「……まったく、そのとおりで」
私は書類を一枚めくった。
市丸隊長がいなくなっても、三番隊の仕事はなくならない。
藍染が敵になっても、現世が襲撃されても、瀞霊廷は今日も動いている。
何事もなかったかのように。
いや、何事もなかったかのように動かさなければならないのだろう。
そんなことを考えていたときだった。
「失礼します」
戸口に立っていたのは、八番隊副隊長の伊勢七緒だった。
「望月三席。京楽隊長がお呼びです」
「……私を?」
「はい。お時間をいただけますか」
「ええ、もちろん」
心当たりはあった。
先日、京楽隊長に頼んだこと。
浦原喜助への接触。そして、平子真子。
百年前の事件について。
「では、少し席を外しますね」
「分かりました。こちらは進めておきます」
イヅルは、いつもどおりに頷いた。
私は書類を揃え、席を立った。
⸻
「やあ、望月くん。悪いね、呼び立てて」
八番隊の隊長室に入ると、京楽隊長が片手を上げた。
「いえ。何かございましたか」
「うん。返事が来たんだよ」
机の上に、一通の封書が置かれていた。
浦原喜助。
名前を聞いただけで、少し背筋が伸びる。
「……思ったより早かったですね」
「そうだねえ。向こうも忙しいだろうに」
京楽隊長は便箋を取り出した。
「百年前の件について、話を聞くこと自体は構わないそうだ。ただし、その前に君に確認したいことがあるらしい」
「確認、ですか」
「君が当時、何を見聞きしたのか。どこまでが事実で、どこからが推測なのか。それを聞きたいってさ」
私は小さく息を吐いた。
「……なるほど」
当然の要求だった。
こちらが知りたいことを尋ねれば、向こうもこちらの事情を知りたがる。
まして、百年前の事件である。
浦原喜助にとって、決して軽い話ではないだろう。
「書面でも構わないそうだけど、どうする?」
「……まずは、京楽隊長にお話ししたいです」
「僕に?」
「ええ。どこまで向こうへ伝えていいものか、私には判断できませんので」
京楽隊長は、少しだけ目を細めた。
「慎重だねえ」
「臆病なだけですよ」
いつものように笑う。
けれど、今回はそれで話を終えるわけにはいかなかった。
京楽隊長は、以前提出した報告書を取り出した。
「君の話は、一度聞いている。弓張月の能力についても、藍染の生存を知っていた件についてもね」
「はい」
「ただ、百年前のことは、まだ分からない部分が多い」
京楽隊長は、紙の一箇所を指で押さえた。
「当時、藍染の様子に異常を感じた。そう報告しているね」
「……ええ」
「具体的には、どんな異常だったんだい?」
私は、しばらく黙っていた。
それから、口を開いた。
「……あれは、鳳橋隊長がいなくなる少し前のことです」
⸻
百年前。
いや、正確には百年と少し前。
三番隊の隊長は、鳳橋楼十郎だった。
長い金髪に、どこか芝居がかった物言い。
音楽を好み、仕事中でも聞き慣れない旋律を口ずさむような人だった。
変わり者ではあったが、隊の仕事を疎かにする人ではなかった。
私も、あの人の下でそれなりに長く働いていた。
その頃、瀞霊廷では奇妙な事件が続いていた。
流魂街で、人が消える。
初めは小さな噂にすぎなかった。
けれど、やがて調査に出た死神まで戻らなくなった。
そんなある日のことだ。
私は、五番隊の平子隊長を見かけた。
その少し後ろを、藍染副隊長が歩いていた。
別に珍しい光景ではない。
二人はいつも一緒にいるわけではなかったが、隊長と副隊長なのだから、連れ立って歩いていても何の不思議もない。
私は、いつものように会釈をした。
平子隊長が軽く手を振り、藍染副隊長も穏やかに頭を下げた。
それだけのことだった。
……本来ならば。
私は、ふと思いついて弓張月の力を使った。
新月印を通じて、藍染副隊長の視界へ接続する。
左目の景色が変わった。
そこに映っていたのは、廊下でも平子隊長の背中でもなかった。
薄暗い室内。
机の上に置かれた書類と、灯り。
「…………?」
私は足を止めた。
右目には、平子隊長の後ろを歩く藍染副隊長が見えている。
だが、左目に映る景色は、まるで違う場所だった。
一瞬、弓張月の力を疑った。
接続先を間違えたのか。
そんなことがあるのかどうかも分からなかったが、そう考えるしかなかった。
私は一度接続を切り、改めて藍染副隊長へつなぎ直した。
結果は同じだった。
右目には、遠ざかっていく二人の背中。
左目には、見知らぬ室内。
その景色の中に、平子隊長の姿はない。
「……何ですか、これ」
思わず呟いた。
弓張月は、相手の視界を借りる能力だ。
過去の景色を見ることはできない。
相手の考えを読むこともできない。
ただ、今、その者の目に映っているものを知る。
それだけの力である。
だからこそ、分からなかった。
目の前を歩いている藍染副隊長と、私が視界を借りている藍染副隊長。
その二人が、同じ場所にいるはずなのに、まるで違うものを見ている。
私は、遠ざかる背中を見送った。
平子隊長は、何も気づいていないようだった。
普段と変わらない足取りで、藍染副隊長と話している。
その姿を見て、私は妙に寒くなった。
平子真子。
護廷十三隊の隊長である。
その実力者が、自分のすぐ後ろにいるはずの副隊長について、何か重大なことを見落としている。
……あるいは。
私自身が、何かを見誤っている。
どちらにしても、ろくな話ではなかった。
私は、その場を離れた。
後を追うこともしなかった。
誰かに相談することも。
その日は、何もしなかった。
⸻
それからしばらくして、九番隊の六車拳西隊長たちが消息を絶った。
瀞霊廷に緊張が走った。
流魂街で続いていた失踪事件。
その調査に向かった隊長格まで、戻らなくなったのである。
私は、弓張月を手に取った。
六車隊長には、以前から新月印が刻まれていた。
接続を試みる。
左目の景色が変わった。
暗い。
初めは、何も見えなかった。
やがて、僅かに光が差した。
木々の影。
地面。
景色が不規則に揺れ、何かが視界を横切った。
それが何だったのか、判別することはできなかった。
すぐに、再び暗くなった。
「……六車隊長?」
呼びかけたところで、声が届くわけではない。
私は、しばらく待った。
だが、視界はほとんど変わらなかった。
目を閉じているのか。
意識を失っているのか。
それとも、何か別のことが起こっているのか。
分からない。
ただ、少なくとも接続はできた。
それが何を意味するのかも、判断できなかった。
私は接続を切った。
そして、少し迷った末に、もう一人の視界を確かめることにした。
藍染惣右介。
先日、不可解な景色を見せた男である。
左目に映ったのは、室内だった。
書類。
机。
見慣れた瀞霊廷の建物。
少なくとも、六車隊長の視界に映った森とは違う。
私は、しばらくその景色を眺めた。
何かおかしなものが映らないか。
何か、手がかりになるものはないか。
けれど、何も見つからなかった。
「……考えすぎ、ですかねえ」
自分に言い聞かせるように呟いた。
そもそも、藍染副隊長と六車隊長の失踪を結びつける根拠などない。
あの男の視界がおかしかったことと、九番隊の異変。
二つの出来事が関係していると考える方が、無理がある。
そう思いたかった。
⸻
調査のため、さらに隊長格が派遣されることになった。
鳳橋隊長も、その一人だった。
その報せを聞いたとき、私は隊長室にいた。
「……望月、留守を頼むよ」
鳳橋隊長は、出立の支度を整えながら言った。
「承知しました。お気をつけて」
「ああ。そう長くはかからないだろう」
いつものように、軽く笑っていた。
私は、少しだけ迷った。
六車隊長の視界に映った、暗い森。
そして、藍染副隊長の不可解な視界。
何かを伝えるべきではないか。
そんな考えが、頭をよぎった。
「……隊長」
「ん?」
鳳橋隊長が振り返る。
私は、口を開きかけた。
だが、何を言えばいいのか分からなかった。
六車隊長の視界を覗いたことか。
藍染副隊長が、見えているはずの景色とは違うものを見ていたことか。
それを話して、どうなる。
何の証拠もない。
まして、藍染副隊長を疑っていると受け取られれば、面倒なことになるかもしれない。
「……いえ。どうか、ご無事で」
「もちろんさ」
隊長は笑った。
「君も、あまり根を詰めすぎないようにね」
「善処します」
私は頭を下げた。
それが、最後になった。
⸻
その夜。
私は、自室で弓張月を手にしていた。
どうにも落ち着かなかった。
六車隊長の失踪。
鳳橋隊長の出立。
そして、藍染副隊長。
あの男のことが、頭から離れなかったのである。
目の前にいる男と、その男の視界が一致しない。
あれから何度か接続を試したが、何が起こっているのかは分からなかった。
ただ、何かがおかしい。
それだけは確かだった。
私は、もう一度藍染副隊長へ接続した。
左目の景色が変わる。
そこには、暗い木々が映っていた。
夜の森。
「…………」
私は、息を止めた。
六車隊長の視界で見た景色と、よく似ていた。
だが、同じ場所なのかどうかは分からない。
視界が動いた。
何かが倒れている。
初めは、人間なのかどうかも分からなかった。
目が慣れるにつれて、それが死覇装を纏った死神たちだと分かった。
一人ではない。
何人も倒れている。
そして、その中に。
「……隊長?」
長い金髪が見えた。
鳳橋隊長。
見間違えるはずがなかった。
つい先ほど、私に留守を頼んだ人だった。
「……鳳橋隊長?」
返事はない。
当然だ。
私は、藍染副隊長の視界を借りているだけなのだから。
それでも、思わず声が漏れた。
視界の中で、鳳橋隊長は倒れたまま動かなかった。
その近くには、ほかの隊長格と思われる死神たちもいた。
見覚えのある金髪。
平子隊長。
その姿を認めた瞬間、背筋が冷たくなった。
そして。
「…………」
白いものが、見えた。
顔を覆う、異様な仮面。
虚の面に似ていた。
だが、それが本当に虚のものなのか、私には分からなかった。
倒れている者の中には、まだ顔が見える者もいた。
一方で、明らかに死神のものとは思えない異様な姿をした者もいる。
さらに、平子隊長の顔にも、何かが生じようとしていた。
「……何ですか、これ」
声が震えた。
虚が現れたのか。
隊長たちが何者かに襲われたのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
分からない。
ただ、一つだけ。
私は藍染副隊長の視界を借りている。
つまり、あの男は今、この光景を見ている。
鳳橋隊長たちが倒れている場所で。
何かが起こっていることを、知っている。
それだけは、間違いなかった。
「…………」
私は、接続を切った。
それ以上、見られなかった。
恐ろしかった。
隊長格の死神たちが倒れている。
顔には虚のような仮面。
そして、そこにいる藍染副隊長。
あの男は、何をしているのか。
何を知っているのか。
もし、あの異常の原因が藍染副隊長にあるのだとしたら。
平子隊長たちでさえ、どうにもできなかった相手に。
私が何をできるというのだろう。
答えは、分かりきっていた。
何もできない。
だから私は、目を閉じた。
その夜は、もう弓張月を使わなかった。
⸻
「……以上です」
話し終えると、部屋は静まり返っていた。
京楽隊長は、何も言わなかった。
私は、膝の上で手を握った。
「見たものについては、以前の報告でもお伝えしたとおりです。ただ……当時の私が、どこまで理解していたのかというと、話は別です」
六車隊長の視界に映った、暗い森。
鳳橋隊長たちが倒れていたこと。
虚の仮面のようなものが見えたこと。
藍染副隊長が、その光景を見ていたこと。
それらは、私が確認した事実だった。
だが、どうしてあのような姿になったのかは知らない。
藍染が何をしたのかも、分からない。
鳳橋隊長たちが、その後どうなったのかも。
「……それで、君は黙っていたんだね」
京楽隊長が言った。
「はい」
私は頷いた。
「以前にもお話ししましたが、怖かったんです」
説明できないほど異常な光景だった。
しかも、平子隊長の目すら欺く何かが、そこにはあった。
自分が見ているものは、本当に正しいのか。
自分の能力を、どこまで信用していいのか。
それさえ分からなかった。
「それに、もし藍染副隊長が関わっていたとしたら……私が疑っていることを知られるのが、何より怖かった」
京楽隊長は、静かに聞いていた。
「結果として、私は何もしませんでした。疑いを口にすることも、調べることも、やめてしまったんです」
百年前。
私は、生き残ることを選んだ。
その判断を、今でも間違いだったとは思わない。
隊長格が何人も消息を絶った事件だ。
私のような三席が、たった一人で何をできたというのだろう。
仮に誰かへ話したところで、信用されたかどうかも分からない。
まして、藍染副隊長が関わっていたのなら。
下手に動くことは、自分の命を差し出すようなものだった。
「……あのときの私には、どうすることもできませんでした」
私は、京楽隊長を見た。
「その後、浦原隊長は追放され、鳳橋隊長たちは戻らなかった。藍染副隊長は、何事もなかったかのように五番隊に残っていたんです」
何かを訴えれば、状況が変わったのだろうか。
分からない。
ただ、私が消される可能性は、十分にあった。
「今だって、できることは限られていますけどね」
私は苦笑した。
「それでも、今は事情が違います。藍染は敵だと明らかになった。京楽隊長にも、こうしてお話しできる」
百年前にはなかった条件が、ようやく揃ったのだ。
「……望月くん」
京楽隊長が口を開いた。
「君が見たものは重要だよ。でも、それだけで事件の全容が分かるわけじゃない」
「……はい」
「藍染がそこにいたことと、藍染が何をしたかは、別の話だからね」
私は頷いた。
「ええ。だからこそ、知りたいんです」
百年前、何があったのか。
なぜ鳳橋隊長たちは戻らなかったのか。
平子隊長たちが、どうして今になって現世にいるのか。
そして、藍染は何をしたのか。
「浦原喜助なら、知っているかもしれません」
京楽隊長は、しばらく黙っていた。
それから、手元の報告書を閉じた。
「……分かった。浦原さんへの返事は、僕の方で考えよう」
「ありがとうございます」
「ただし、弓張月の能力についてどこまで伝えるかは、僕一人で決められる話じゃない。そこは改めて確認する必要があるね」
「承知しています」
私は頭を下げた。
「それから、望月くん」
「はい?」
「浦原さんが話を聞くと言ったからといって、信用されたわけじゃないよ」
「……ええ」
「君は市丸ギンの部下だった。そして、長い間藍染を疑いながら黙っていた。その事情は、向こうにとっても気になるはずだ」
私は苦笑した。
「私が浦原さんでも、信用しませんねえ」
「だろうね」
京楽隊長も笑った。
「まあ、焦らずにやろう。君をすぐ現世へ送るわけにもいかないしね」
「……世知辛いですねえ」
「はは。自業自得じゃないかい?」
「まったく、おっしゃるとおりで」
私は、もう一度頭を下げた。
少なくとも、話は進んだ。
百年前の私なら、そもそもこんな場所に来ようともしなかっただろう。
そう考えると、少しだけおかしかった。
⸻
三番隊へ戻る頃には、すっかり日が傾いていた。
隊舎には、まだ灯りがついている。
戸を開けると、イヅルが顔を上げた。
「お帰りなさい、望月さん」
「ただいま戻りました」
机の上には、片づけられた書類が積まれていた。
「……随分と進みましたね」
「できるところだけですけど」
「いやあ、助かります」
私は自分の席へ腰を下ろした。
「京楽隊長とは、長いお話だったんですか?」
「ええ。少し昔のことを」
「昔のこと、ですか」
「百年くらい前の話ですよ」
イヅルは、少し驚いたようだった。
「……鳳橋隊長がいらした頃ですか?」
「おや。よくご存じで」
「昔の三番隊隊長だった方ですよね。お名前は知っています」
私は頷いた。
「音楽の好きな人でした」
「音楽、ですか」
「ええ。仕事中でも、よく鼻歌を歌っていましたよ」
「……少し意外ですね」
「変わった人でしたからねえ」
思い出すと、自然に笑みがこぼれた。
あの頃の三番隊。
鳳橋隊長がいて、私がいて。
今とは、まるで違う場所だった。
「……望月さん」
イヅルが、静かに口を開いた。
「その方も、突然いなくなられたんですよね」
「……ええ」
私は頷いた。
「帰ってきませんでした」
それ以上は、言わなかった。
イヅルも、何も言わなかった。
市丸隊長。
その名前が、二人の間に浮かんだ気がした。
けれど、どちらも口にはしなかった。
「……昔から、そういうことが多い隊なんですよ」
私は、苦笑した。
「隊長が、いなくなることです」
言ってから、少し後悔した。
冗談にするような話ではなかった。
けれど、イヅルは怒らなかった。
ただ、俯いて。
「……そうですね」
と、答えた。
しばらくして、彼は顔を上げた。
「でも、望月さんは残ってくださっていますから」
「…………」
「僕は、それがありがたいです」
私は、返事に困った。
百年前。
鳳橋隊長がいなくなったとき、私は何もしなかった。
そして今。
市丸隊長がいなくなっても、やはり何もできていない。
そんな私が、ここに残っている。
ただ、それだけのことを。
この子は、ありがたいと言うのだ。
「……買い被りすぎですよ、イヅルくん」
「そうでしょうか」
「ええ」
私は、いつものように笑った。
「私は、ただ生き残っているだけですから」
イヅルも、小さく笑った。
「……それでも、ですよ」
何も言い返せなかった。
⸻
その夜。
私は、隊舎の廊下を歩いていた。
百年前のことを思い出す。
平子隊長の後ろを歩いていた藍染。
その男の目に映っていた、まるで違う景色。
六車隊長の失踪。
鳳橋隊長の出立。
夜の森。
倒れた死神たち。
そして、鳳橋隊長。
あのとき私は、目を閉じた。
何も見なかったことにしてしまえば、危険から遠ざかれると思っていた。
実際、私は生き残った。
百年もの間、何事もなかったかのように。
けれど。
今になって思う。
何も知らないふりをすることと、本当に何も知らないことは、やはり違う。
見てしまったものは、消えない。
どれほど長い時間が過ぎても。
「……まったく」
私は、小さく息を吐いた。
生き残りたい。
その気持ちは、今も変わらない。
百年前、私には動く手段がなかった。
今は違う。
京楽隊長に話した。
浦原喜助にも、いずれ話すことになるだろう。
ひょっとすると、平子隊長本人にも。
あのとき、何を見たのか。
なぜ、黙っていたのか。
そのすべてを。
「……嫌な話ですねえ」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
けれど、足は止めなかった。
少なくとも今は、動けるだけの条件が揃っている。
ならば、動く。
生き残るために。