白い天井。
白い壁。
そして、長く続く廊下。
左目に映る景色は、今日も変わり映えしなかった。
虚夜宮。
藍染惣右介が居を構える、虚圏の宮殿である。
私は寝台に腰掛けたまま、その視界を眺めていた。
京楽隊長に百年前のことを話してから、幾日かが過ぎた。
浦原喜助への返事は、既に送られているらしい。
もっとも、それ以降の進展はない。
私の処遇も、相変わらず保留のままだった。
「……平和ですねえ」
もちろん、そんなはずはない。
現世では破面が活動し、護廷十三隊は警戒を強めている。
ただ、私の周囲に限れば、目立った変化がないというだけのことだ。
藍染の視界が、ゆっくりと動いた。
廊下の先に、一人の破面が立っている。
男は藍染に頭を下げ、何事かを報告した。
私は耳を澄ませた。
だが、聞こえてきたのは虚夜宮内部の些細な連絡だった。
「……残念」
藍染は短く応じ、再び歩き始めた。
私は接続を切った。
右目と左目の景色が一致する。
ここ数日、何度か接続を試していた。
十刃の姿を見ることもあれば、藍染が誰かに指示を出している場面に遭遇することもある。
けれど、私にとって有益な情報はほとんど得られていない。
十刃の存在は既に知っている。
虚夜宮の構造も、多少は分かるようになった。
しかし、肝心の藍染の動向となると、話は別だった。
あの男が何を考えているのか。
いつ、どこで、何を仕掛けるつもりなのか。
そんなものは、本人が口にしてくれなければ分からない。
「……まあ、そんなものでしょうね」
私は寝台に横になった。
そもそも、敵は藍染一人ではない。
十刃をはじめとする破面たち、そして隊長らがいる。
そのすべてを、一人の視界から把握するなど、無理な話だった。
⸻
数日後。
現世に、再び破面が現れた。
グリムジョー・ジャガージャック。
以前、黒崎一護を圧倒した十刃の一人である。
今回は、ほかにも破面が同行しているらしい。
現世先遣隊が迎撃に当たり、黒崎一護も再び交戦した。
「……また、あの男ですか」
私は報告を読みながら呟いた。
グリムジョー。
藍染の配下ではあるが、どうにも大人しく命令に従うような男には見えない。
少なくとも、私が藍染の視界を確認していた間に、今回の出撃を命じる場面はなかった。
もちろん、それだけで独断と決めつけることはできない。
私が見ていない間に命令が下されたのかもしれない。
それでも、藍染の動向だけを追っていれば敵の行動が分かる、という考えが甘かったことは確かだ。
「……好き勝手やってくれますねえ」
私は小さく息を吐いた。
戦闘の詳細が伝わってきたのは、しばらく後だった。
黒崎一護は、グリムジョーと再び交戦した。
前回のような一方的な敗北ではなかったらしい。
だが、決着には至らなかった。
グリムジョーは虚圏へ退き、同行していた破面たちも現世から姿を消した。
現世側にも負傷者が出ている。
「……厄介ですねえ」
十刃一人でも、隊長格に匹敵する脅威となり得る。
それが複数いる。
しかも、いつ襲ってくるか分からない。
考えれば考えるほど、現世へ行きたくなくなった。
幸い、私の処遇は保留のままだ。
少なくとも今のところ、現世への派遣を命じられる心配はない。
ありがたい話である。
……本当に、ありがたい話だ。
⸻
事態が動いたのは、それから間もなくのことだった。
井上織姫。
黒崎一護と行動を共にしていた、現世の人間。
その少女が、姿を消したという。
「……失踪、ですか」
私は報告書に目を落とした。
尸魂界から現世へ戻る途中で消息を絶った。
同行していた死神二名は負傷し、破面の関与が疑われている。
しかし、少女がその後どこへ向かったのかは分かっていなかった。
少なくとも、報告書にはそう記されていた。
「……妙ですねえ」
破面が人間を連れ去った。
それ自体は、あり得ない話ではない。
だが、なぜ彼女なのか。
黒崎一護の仲間だからか。
それとも、何か別の理由があるのか。
そも、井上織姫という少女について、私はほとんど知らない。
黒崎一護の仲間。
特殊な能力を持つ人間。
せいぜい、その程度だった。
私は報告書を閉じた。
そして、その夜。
再び藍染の視界へ接続した。
⸻
白い壁。
広い室内。
見慣れた虚夜宮の景色だった。
藍染は、椅子に腰掛けているらしく、その視界の先に、数人の破面がいる。
私は、しばらく様子を窺った。
特に変わったことはない。
そう思いかけたときだった。
扉が開いた。
一人の少女が、室内へ入ってくる。
橙色の髪。
現世の人間らしい服装。
そして、その傍らに立つ、黒髪の破面。
「…………」
私は、僅かに身を起こした。
少女は緊張した面持ちで、藍染の前に立っていた。
その姿を、藍染は穏やかに迎えた。
やがて、彼女の名前が呼ばれた。
井上織姫。
「……おや」
思わず、声が漏れた。
現世から姿を消した少女。
その本人が、今、虚夜宮にいる。
しかも、藍染の目の前に。
私は、接続を維持したまま姿勢を正した。
これは、少しばかり面白いことになってきた。
無論、面白がっている場合ではない。
だが、ようやく使えそうな情報が手に入ったのだ。
少しくらいは、喜んでもいいだろう。
藍染は、少女に何かを求めているようだった。
周囲の破面たちも、彼女に注目している。
やがて、一人の男が前へ出た。
青い髪。
険しい目つき。
そして、左腕がない。
「……グリムジョー?」
私は目を細めた。
先ほど現世を襲撃した十刃。
その男が、藍染の前に立っていた。
左腕を失っていることは以前から知っている。
東仙要によって切り落とされたという話も、既に耳にしていた。
それを、今さらどうしようというのか。
藍染が、少女に向かって何かを告げた。
「……無茶を言いますねえ」
私は呟いた。
失われた腕を再生させる。
回道に優れた四番隊の死神でも、容易なことではない。
まして、相手は破面である。
傷を塞ぐだけならともかく、存在しない腕を元どおりにするなど。
だが、少女は拒まなかった。
小さな声で何かを呟き、能力を発動させる。
光が広がった。
私は、息を潜めた。
藍染の視界は、その様子を正面から捉えている。
光の中で、何かが変化していた。
失われていたはずのものが、形を取り戻していく。
肩から先。
腕。
手首。
指。
「…………は?」
私は、思わず声を上げた。
見間違いではない。
グリムジョーの左腕が、戻っている。
まるで、初めから失われていなかったかのように。
「……いやいやいや」
私は寝台から立ち上がった。
あり得ない。
少なくとも、私の知る治療技術では説明できない。
切断された腕を接合したわけではない。
失われた組織を少しずつ再生したようにも見えない。
ただ、腕が戻った。
それだけだった。
藍染の声が聞こえた。
少女の能力について、周囲の破面たちへ説明している。
時間や空間を元に戻す力。
そうした解釈では足りないのだと。
あの少女が行っているのは、起きた事象そのものの拒絶である、と。
「……事象の、拒絶?」
私は、その言葉を繰り返した。
治すのではない。
失われたという事実を、なかったことにする。
そういう意味だろうか。
馬鹿げている。
だが、実際に腕が戻るところを見てしまった。
否定する方が難しかった。
「……とんでもないものを連れてきましたねえ」
私は、藍染の視界に映る少女を見つめた。
あの能力は明らかに尋常ではない。
藍染が彼女を虚圏へ連れてきた理由も、少しだけ分かった気がした。
あれほどの力なら、利用価値はいくらでもあるだろう。
もっとも。藍染が何を考えているのか、依然として分からない。
「……さて」
私は、腕を組んだ。
問題が増えた。
井上織姫は、虚夜宮にいる。
そして、藍染は彼女の能力を高く評価している。
それだけでも、十分に重要な情報だった。
だが、どうやって伝える。
⸻
私は接続を切り、寝台に腰を下ろした。
京楽隊長へ報告する。
それ自体は、難しくない。
既に百年前の件について話しているのだから、今さら藍染の視界を覗いたことを隠す必要もないだろう。
問題は、その先だ。
私が藍染の視界を借りられること。
それを、どこまで広めるべきか。
護廷十三隊の上層部には、いずれ伝わるかもしれない。
浦原喜助にも、伝える必要があるかもしれない。
だが、情報が広まれば、それだけ漏れる可能性も高くなる。
藍染に知られれば、この力の価値は大きく下がる。
最悪の場合、私自身が狙われる。
「……嫌ですねえ」
私は、額を押さえた。
百年前なら、黙っていた。
間違いなく。
あの頃の私には、頼れる相手も、藍染に対抗する手段もなかった。
今は違う。
少なくとも、京楽隊長には話ができる。
あの人なら、情報の扱いも考えてくれるだろう。
ならば、まずはそこからだ。
それに、もう一つ。
私は、先ほどの光景を思い返した。
失われた腕が戻る。
起きた事象そのものを拒絶する。
井上織姫の能力。
あれは、単に破面を治療できるという話ではない。
もし藍染が、あの力を何か別の目的に使おうとしているのなら。
……考えたところで、答えは出なかった。
私は小さく息を吐いた。
「……とりあえず、報告ですかねえ」
やるべきことは決まった。
明日、京楽隊長に話をしよう。
井上織姫の居場所。
その能力。
そして、藍染が彼女を手元に置いているという事実。
どこまでが確かな情報で、どこからが私の推測なのか。
そこを分けて伝えればいい。
百年前と違って、今は話を聞いてくれる相手がいる。
それだけでも、随分とありがたい。
私は灯りを消した。
寝台に横になり、目を閉じる。
虚夜宮では、今も藍染が何かを企んでいるのだろう。
だが、今夜はもう覗かない。
必要な情報は得られた。
あとは、それをどう使うかだ。
「……まったく、忙しいことですねえ」
そう呟いて、私は眠りについた。