八番隊の隊舎を訪ねるのは、これで何度目になるだろう。
以前なら、隊長格の執務室など、用事があってもなるべく近寄りたくない場所だった。
もちろん、今もそう思っている。
ただ、近頃は用事の方が向こうから増えてくるのだから困ったものだ。
「失礼します」
声を掛けると、室内から返事があった。
京楽隊長は机に向かっていた。傍らには書類が積まれている。
「望月くんか。何か分かったのかい」
「はい。藍染の周辺で、動きがありました」
京楽隊長が筆を置いた。
「聞こうか」
私は腰を下ろし、見たものを順に話し始めた。
藍染のいる場所に、井上織姫が現れたこと。
そこが虚圏側の拠点と思われること。
そして、彼女がグリムジョーの失われた左腕を元に戻したこと。
「腕を、元に?」
「はい。切断されていた腕が、再び現れました」
「回道とは違うのかい」
「通常の回道とは違うように見えました。ただ、原理までは分かりません」
「……なるほどね」
京楽隊長は腕を組んだ。
「藍染が彼女を虚圏へ迎え入れた理由は、その能力にあるのかもしれないね」
「そう考えられます」
私は続けた。
グリムジョーは腕を取り戻した後、十刃の一人を殺害した。
ルピと呼ばれていた破面だ。
「十刃同士で?」
「はい」
「藍染は止めなかったのかい」
「少なくとも、私が見ていた範囲では。藍染もその場にいました」
京楽隊長はしばらく黙った。
十刃の一人が、別の十刃を殺す。
それを藍染は止めない。
あの男にとって、配下の命がどの程度の価値を持つのか。
少なくとも、私ならあんな男の下では働きたくない。
もっとも、働きたいと言った覚えもないのに、長い間あの男の部下だった者が三番隊にはいたのだが。
「望月くん」
「はい」
「井上織姫が自分の意思で虚圏へ行ったようには見えたかい」
「そこまでは分かりません。私が見たのは、藍染の前にいる彼女だけです」
「そうだね。そこは分けておこう」
京楽隊長は紙を引き寄せ、筆を取った。
「藍染は彼女の能力に関心を持っているようだった?」
「はい。彼女が能力を使うところを、藍染は見ていました。ただ、何を目的としているかまでは分かりません」
「分かった。ありがとう」
京楽隊長が筆を走らせる。
私はそれを黙って見ていた。
私が知ることのできるのは、藍染が目を向けたものだけだ。
見えていない場所で何が起きているかなど、知りようがない。
それでも、見たものを伝えるだけで隊長格が動く。
その報告が、誰かの行き先や命運を左右するかもしれない。
そう考えると、筆の走る音まで妙に重く聞こえた。
「この件は総隊長にも上げるよ」
京楽隊長が言った。
「浦原さんにも、必要な範囲で知らせておきたい。井上織姫の能力については、彼の方が何か知っているかもしれないからね」
「承知しました」
「君の能力については、これまでどおり慎重に扱う。余計なことまで書くつもりはないよ」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
私が藍染の視界を覗けることを、知る者は少ない方がいい。
知られれば、対策される。
そして、あの男が本気で対策を考え始めたとき、私にそれを上回る自信などない。
「それにしても」
京楽隊長が、ため息交じりに笑った。
「望月くんからの報告は、いつも穏やかじゃないねえ」
「私としても、もう少し平穏なものをお届けしたいのですが」
「例えば?」
「藍染が昼寝をしていた、とか」
京楽隊長は小さく笑った。
「それなら、ぜひ聞きたいものだね」
「私もです」
本心だった。
藍染が一日中眠っていてくれるなら、私も安心して眠れる。
報告を終え、私は八番隊を後にした。
⸻
ほどなくして、井上織姫の件について尸魂界の方針が伝えられた。
井上織姫は藍染側に拘束されているものと判断された。
しかし、現時点で救出のための部隊は派遣しない。
現世にいる先遣隊には帰還命令が下される。
報せを聞いて、私はしばらく黙っていた。
相手は藍染だ。
十刃を従えたあの男の本拠地へ、準備もなく踏み込むわけにはいかない。
判断としては理解できる。
「……黒崎一護が、大人しく引き下がるとは思えないな」
双殛の丘での一件を思い出す。
あの少年は、護廷十三隊を敵に回してまで朽木ルキアを助けに来た。
今回も、井上織姫が虚圏にいると知れば、きっと同じことをするだろう。
尸魂界が止めたところで、聞くとは思えない。
「……若いなあ」
思わず苦笑した。
私には、とても真似できない。
だが、あの無茶が実際に朽木ルキアを救ったのも事実だ。
だから、今回も何とかしてしまうのではないか。
そんな気がしてしまう。
「……まったく、大した少年だよ」
呆れたように呟きながらも、不思議と悪い気はしなかった。
⸻
三番隊でも、戦いに備えた動きが目立つようになっていた。
各席官の配置確認。
隊士の練度の把握。
欠員が出た場合の指揮系統。
普段から必要な仕事ではある。
だが、今は一つ一つの意味が違っていた。
戦いが起きることを前提に、準備をしている。
「望月さん」
書類を抱えたイヅルが、私の席へやって来た。
「こちら、確認をお願いします」
「ありがとう、イヅルくん」
受け取った紙に目を通す。
隊士の配置案だった。
「ずいぶん細かく見直したね」
「今のうちに、できることはしておきたくて」
「そうだね」
私は紙を机に置いた。
三番隊には、隊長がいない。
市丸ギンが去ってから、その席は空いたままだ。
普段なら、隊長不在でも隊務は回る。
だが戦時となれば話は違う。
隊長格が一人いないという事実は、書類の上では埋めようがなかった。
「……隊長がいれば」
イヅルがぽつりと言った。
「もっと違う判断ができたのかもしれません」
私は顔を上げた。
イヅルは机の上の配置案を見つめていた。
「僕が決めていいのか、迷うことがあります。誰をどこに置くか、それだけのことでも」
「それだけのこと、ではないからね」
私は答えた。
「何かあったとき、最初に動くのはその隊士たちだ。迷うのは当然だよ」
「……はい」
「それに、隊長がいたって迷わないわけじゃない」
イヅルがこちらを見る。
「私が三席になった頃の隊長も、よく考え込んでいたよ」
鳳橋隊長。
音楽のことばかり考えているように見えて、隊務に関しては案外細かい人だった。
何かを決める前、机を指先で軽く叩く癖があった。
その調子が、いつの間にか鼻歌に変わっていることもあった。
「……そうだったんですか」
「うん。もっとも、最後にはちゃんと決めてくれたけどね」
そう言ってから、私は少しだけ黙った。
最後。あの人が三番隊を出ていった夜のことを、思い出しかけた。
留守を頼む。
そう言われたきり、戻ってこなかった。
「望月さん?」
「いや、何でもないよ」
私は配置案を手に取った。
「イヅルくん。君が全部一人で決める必要はない。私もいるし、ほかの席官たちもいる」
「……はい」
「隊長がいないのは、どうにもならない。でも、だからといって三番隊までなくなったわけじゃないだろう?」
イヅルは何かを言いかけ、口を閉じた。
その視線が、一瞬だけ机の上に落ちる。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……そうですね」
「まずは、できることからやろう」
「はい」
私は書類を返した。
「配置はこれでいいと思う。各席官にも確認してもらおうか」
「分かりました」
イヅルが一礼して去っていく。
私はその背中を見送った。
隊長がいない。
百年前にも、同じことがあった。
あのときは何も分からないまま、ただ日々の隊務をこなしていた。
今は少しだけ、事情を知っている。
だからといって、何かが楽になるわけではない。
むしろ、知らない方が幸せだったと思うことの方が多い。
「……困ったものだな」
私は机に残った書類へ目を落とした。
藍染との戦いが始まれば、三番隊も無関係ではいられない。
隊長がいない以上、イヅルと私が隊士たちを支える必要がある。
できれば後方で。
それが無理なら、せめて生きて帰れる場所で。
そんな都合のいい願いを抱きながら、私は次の書類を引き寄せた。
⸻
その日の隊務を終え、隊舎を出た頃には、空が暗くなり始めていた。
歩きながら、ふと百年前の光景を思い出す。
平子隊長の後ろを歩いていた藍染。
私の右目には、その二人が映っていた。
一方、新月印を通して接続した左目には、薄暗い部屋が映っていた。
机と灯り。
廊下とはまるで違う景色。
あのとき私は、藍染が何をしているのか分からず、ただ恐ろしかった。
今なら、少し違う見方ができる。
鏡花水月。
五感を支配し、相手に偽りの光景を見せる斬魄刀。
私もその完全催眠の下にいる。
だから、私自身の目に映る藍染を信用することはできない。
だが。
「……藍染自身は?」
足が止まった。
あの男は、自分の目に何を映しているのだろう。
鏡花水月で私たちを欺いている間も、藍染自身は本物の戦場を見ているはずだ。
自分にまで幻を見せる理由はない。
そして私は、その視界を借りることができる。
それなら。
藍染の見ている景色から、あの男自身の居場所を割り出すことはできないだろうか。
戦場に立つ者の位置。
建物の並び。
遠くに見える地形。
同じ景色でも、眺める場所が変われば見え方は変わる。
複数の目印があれば、どのあたりから見ているのか推測できるはずだ。
問題は、目印の位置をどう確かめるか。
私の目も、鏡花水月に欺かれているのだから。
「……鬼道か」
小さく呟いた。
自分で放った鬼道なら、術を放った感覚を手掛かりにできる。
少なくとも、目に映る景色だけを頼りにするよりはましだろう。
その光が藍染の視界に映れば、位置を推し量る手掛かりになるかもしれない。
攻撃するためではなく、測るために鬼道を使う。
それだけで、見えてくるものがあるのではないか。
私はしばらく、その場に立っていた。
考えれば考えるほど、試してみたいことが増えていく。
もちろん、実際に藍染を相手にしなければ、この考えが正しいかどうかは分からない。
それに、居場所が分かったところで、勝てるとは限らない。
相手は藍染惣右介だ。
正面から斬り合えば、私などひとたまりもないだろう。
だが、鏡花水月に惑わされたまま、何も分からず刀を振るうよりはいい。
あの男の姿が見えなくとも、そこにいると分かれば。
刃を向けることくらいは、できるかもしれない。
気づけば、口元が緩んでいた。
藍染惣右介。
あの男を、斬れるかもしれない。
そんなことを考えたことがあっただろうか。
百年前、私は藍染の視界に映るものを恐れていた。
その力が、今になって自分を生かす手段になるかもしれない。
何とも奇妙な話だった。
そこまで考えて、私は小さく息を吐いた。
……浮かれすぎだ。
位置が分かったところで、相手は藍染惣右介なのだから。
誰かに話すつもりはない。
まだ思いつきに過ぎないし、何より、知られる必要のない手の内だ。
私は再び歩き始めた。
戦いなど、起こらない方がいい。
藍染と刃を交える機会など、来ない方がいい。
その考えは、今も変わらない。
それでも、もし避けられないのなら。
せめて、相手がどこにいるのかくらいは知っておきたい。
何も見えないまま死ぬのは、御免だった。