「旅禍を逃がした?」
「ええ。申し訳ありません」
三番隊隊舎、隊長室。
机を挟んで、望月輝夜は頭を下げた。
向かいに座る市丸ギンは、いつもと変わらぬ笑みを浮かべている。
「へえ。望月はんがねえ」
「面目ありません」
「それで、どんな旅禍やったんです?」
「橙色の髪をした少年でした。黒崎一護と名乗っておりましたねえ」
「ああ、あの子ですか」
ギンは小さく頷いた。
「門のところで会いましたわ」
「おや、市丸隊長が追い返されたという?」
「そうそう。随分と威勢のええ子でしょう」
「ええ。なかなか骨のある方でした」
「せやけど、望月はんが逃がしてしまうとはねえ」
「俺ぁ弱いもんで」
「……よう言いますわ」
ギンがくすりと笑った。
「それで、始解は使わはったんですか?」
「ええ。一応は」
「呼吸を奪う、でしたっけ。望月はんの斬魄刀」
「物騒な能力でしょう?」
「便利そうやけどねえ」
「使う方もなかなか大変なんですよ。なにしろ、あの大刀ですから」
輝夜は肩をすくめた。
「近づくのも骨が折れましてねえ」
「ふふ。そうですか」
ギンはそれ以上、尋ねなかった。
輝夜も特に説明を付け加えない。
やがてギンは、机の上の書類に目を落とした。
「まあ、逃がしたもんは仕方ありまへん。次は気ぃつけてください」
「寛大なお言葉、痛み入ります」
「その代わり、次に見つけたらちゃんと捕まえてくださいね」
「善処いたします」
「望月はんの善処は、あんまり当てになりまへんなあ」
「おや、信用がありませんねえ」
「ありますよ。仕事はきっちりしてくれはりますし」
「それは光栄です」
「ただ、やる気のあるときとないときが、はっきりしすぎとるんですわ」
「はは。耳が痛い話です」
ギンは楽しそうに目を細めた。
「そういえば、市丸隊長」
「何です?」
「例の旅禍、門のところではどんな様子でした?」
「随分と真っ直ぐな子でしたよ。門番倒して、正面から入ろうとしてましたわ」
「おやおや。無茶をなさる」
「ほんまにねえ」
「それで、今回は空からですか」
「考えることが大胆やね」
「次は地面の下から来るかもしれませんねえ」
「ふふ、そら難儀な話やねえ」
「おっと、これは失礼」
二人は顔を見合わせて笑った。
「まったく、旅禍のせいで忙しくなりそうですねえ」
輝夜がぼやくと、ギンは机の書類を一枚持ち上げた。
「もう忙しなってますよ」
「……これはまた、随分な量で」
「イヅルが頑張ってくれてますけどね」
「それはそれは。イヅルくんには頭が上がりませんな」
「望月はんも手伝うたってください」
「ええ、もちろん」
「ほんまです?」
「隊長のお言葉ですから」
「……ふふ。ほな、頼みますわ」
輝夜は軽く頭を下げた。
「承知しました」
部屋を出ようとしたところで、ギンが声を掛ける。
「ああ、望月はん」
「はい?」
「今日は、もう旅禍を探しに行かへんのですか?」
輝夜は少し考えた。
「……そうですねえ。まずはイヅルくんの手伝いからでしょうか」
「そうですか」
「それとも、もう一度出てこいと?」
「いいえ。イヅルも大変そうやし、そっちをお願いしますわ」
「助かります」
「……望月はん」
「はい?」
「ほんま、分かりやすいお人やねえ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてますよ」
ギンは相変わらず笑っていた。
輝夜も笑顔のまま、隊長室を後にした。
⸻
「望月三席」
廊下へ出ると、吉良イヅルが書類の束を抱えて歩いてきた。
「おや、イヅルくん。お疲れさまです」
「お疲れさまです。隊長への報告は終わりましたか?」
「ええ。お叱りを受けてきたところですよ」
「……そうですか」
吉良は輝夜の顔を見た。
「その割には、あまり反省しているように見えませんね」
「おや、顔に出ていましたか」
「いつも通りです」
「それは困りましたねえ」
輝夜が笑うと、吉良は少しだけ肩の力を抜いた。
「それで、旅禍は本当に逃げてしまったんですか?」
「ええ。残念ながら」
「望月三席でも捕らえられませんでしたか」
「なかなか手強い相手でしたよ。あんまり無理をしても、いいことはありませんからねえ」
「……無事だったのなら、何よりです」
「おや。優しいですねえ」
「茶化さないでください」
吉良は困ったように笑った。
「ただ、次は気をつけてくださいね。旅禍がどれほどの実力か、まだ十分に分かっていないんですから」
「ええ。イヅルくんもお気をつけて」
「分かっています」
吉良の腕には、まだ大量の書類が抱えられている。
輝夜はその束を眺めた。
「ところで、それは全部?」
「はい。巡回の報告書と、各隊への連絡事項です。隊士の配置も変更しなければならなくて」
「大変ですねえ」
「……そうですね」
吉良は苦笑した。
「旅禍の件が落ち着くまでは、仕方ありません」
「では、半分持ちましょうか」
「え?」
「書類ですよ。イヅルくん一人じゃ大変でしょう」
輝夜は返事を待たず、上から半分ほどを持ち上げた。
「……ありがとうございます」
「いえいえ。このくらいは」
「でも、望月三席にもお仕事があるでしょう?」
「さっき市丸隊長から、イヅルくんを手伝うように言われましてね」
「隊長が?」
「ええ。ですから、今日は働きますよ」
「……今日は、ですか」
輝夜は笑った。
「そこは聞き流していただけると助かるんですがねえ」
「ふふ。すみません」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
⸻
執務室へ戻ると、机の上には既に書類の山ができていた。
巡回記録、隊士の配置表、各隊への連絡事項。
普段ならそれほど手間の掛からない仕事も、旅禍の侵入によって量が増えている。
「では、俺はこっちを片づけますかねえ」
輝夜は書類を机に置いた。
「吉良副隊長は、隊士の配置をお願いします」
「分かりました。報告書の確認はお任せしても?」
「ええ。問題ありませんよ」
二人はそれぞれ仕事に取り掛かった。
輝夜は書類を一枚ずつめくり、巡回経路の重複や報告時刻の食い違いを確認していく。
未提出の班を書き出し、連絡が必要なものを別に分けた。
しばらくして、吉良が顔を上げる。
「……望月三席」
「はい?」
「もう終わったんですか?」
「ええ。残りはこの辺だけですね」
輝夜は机の端を指した。
吉良が確認する。
「……早いですね」
「こういうのは慣れですよ」
「本当に助かります」
「褒めても何も出ませんよ」
「いえ、本当に」
吉良は少し笑った。
「望月三席は、こういう仕事をお願いするといつも早いですから」
「普段もそれくらい働け、と?」
「……そこまでは言っていません」
「はは。冗談ですよ」
輝夜は次の書類を手に取った。
吉良も自分の作業へ戻る。
普段はどこか掴みどころがなく、仕事も必要以上には引き受けない。
けれど、こうして頼めばきちんと片づけてくれる。
何だかんだで、ありがたい先輩だった。
⸻
しばらくして、輝夜は筆を置いた。
向かいの机では、吉良がまだ書類と向き合っている。
「イヅルくん」
「はい?」
「少し休んだらどうです?」
「いえ、もう少しで終わりますから」
「そうですか。でも、その調子じゃ倒れますよ」
「そこまでではありません」
吉良は苦笑した。
「それに、望月三席も働いているのに、僕だけ休むわけには」
「俺が働いているのが、そんなに珍しいですかねえ」
「……いえ、そういうわけでは」
「はは。冗談ですよ」
輝夜は立ち上がった。
「お茶でも淹れましょうか」
「え?」
「ちょうど俺も喉が渇きまして」
「では、僕が――」
「座っていてください。すぐ戻りますから」
ほどなくして、輝夜は湯呑みを二つ持って戻ってきた。
片方を吉良の机に置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
二人はしばらく黙ってお茶を飲んだ。
湯気がゆっくりと立ち上る。
「……落ち着きますね」
吉良がぽつりと言った。
「お茶くらい、ゆっくり飲みたいもんです」
「こんなときでも変わりませんね、望月三席は」
「変わったところで、仕事が減るわけでもありませんしねえ」
吉良は小さく笑った。
窓の外からは、隊士たちの慌ただしい足音が聞こえてくる。
旅禍が侵入した以上、しばらくはこの騒ぎも続くだろう。
「……早く落ち着いてくれればいいんですが」
「まったくですねえ」
輝夜は湯呑みを傾けた。
その日は、結局大きな進展もないまま過ぎていった。
⸻
翌朝。
執務室には、前日から持ち越した書類が積まれていた。
吉良が隊士の配置表を確認し、輝夜が巡回報告をまとめている。
廊下を走る足音が近づいてきた。
「吉良副隊長!」
扉が勢いよく開く。
三番隊の隊士が、息を切らして立っていた。
「どうした」
吉良が顔を上げる。
「六番隊から連絡です!」
「六番隊?」
「阿散井副隊長が、旅禍との戦闘で敗北したとのことです!」
「……恋次が?」
吉良が立ち上がった。
「はい! 現在、四番隊で治療を受けているそうです!」
「容体は?」
「命に別状はないと聞いています。ただ、かなりの負傷だそうで……」
吉良は眉を寄せた。
「……相手は?」
「橙色の髪をした、黒い死覇装の旅禍とのことです!」
輝夜は手元の書類を置いた。
なるほど。
あの少年か。
「……望月三席」
吉良がこちらを見る。
「あなたが遭遇した旅禍では?」
「おそらく、そうでしょうねえ」
「……阿散井副隊長まで倒すなんて」
吉良は険しい表情のまま俯いた。
輝夜は少し考えてから、声を掛けた。
「イヅルくん」
「……はい」
「お見舞いにでも行かれますか?」
「え?」
「阿散井副隊長とは、お知り合いでしょう?」
「はい。真央霊術院の頃からの付き合いで……」
「なら、顔を見せてやったらどうです」
吉良は机の書類へ目を向けた。
「……ですが、まだ仕事が」
「そちらは俺が片づけておきますよ」
「そんな、悪いですよ」
「構いません。もう大体終わっていますしね」
輝夜は残った書類を指した。
「それに、こういうときはお互いさまでしょう」
吉良はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「では、お言葉に甘えます」
「ええ。阿散井副隊長にもよろしくお伝えください」
吉良はもう一度礼をして、部屋を出ていった。
輝夜はその背中を見送った。
「…………」
窓の外には、朝の光が差し込んでいる。
黒崎一護。
あの少年が、六番隊の副隊長まで倒したという。
「……困りましたねえ」
輝夜は残った書類を手に取った。
まだ仕事は残っている。
考えることも増えた。
それでも、今日のところは。
「……まあ、先にこっちを終わらせましょうか」
筆を取り、次の報告書へ目を落とした。